嫌動戦艦ナデシコ 駄目なストーリー
もしものエピソード if 5
ただ一つの愛を、君に
其処はトウキョウ・シティーの郊外にある大企業の会長の別荘。
さんさんと降り注ぐ陽光の中、涼しげなテラスの中央で。
「ユリカさん、紅茶のお替りは如何です?」
「あ、お願いするねルリちゃん」
「西欧式庭園か……純粋なルネサンス式整形庭園の方が、私の好みだけど」
「ラピス。どれが食べたい?」
「……ベークド・チーズケーキがいい」
5人の女性が、1つのテーブルを囲んで茶会を開いていた。
お洒落な白いテーブルの上に、沢山のケーキと珈琲や紅茶の入ったポットが並んでいる。
それを取り囲む様にして椅子に座っているのは、青みのかかった黒髪を長く伸ばした女性と瑠璃色の髪をツインテールにした少女。
その向かいに座っているのは黒いボブショートで知的な顔立ちの女性と、ピンク色の髪を長く伸ばした金色の眼の少女。
後もう1人、金髪で白衣を着た女性だけが、少し離れた場所の手摺に近い場所で1人庭を眺めている。
元ナデシコA艦長にして連合宇宙軍大佐であるミスマル・ユリカ。
元ナデシコAのオペレーターにして現ナデシコCの艦長であるホシノ・ルリ。
元ナデシコAの副操舵士にして現月面支社長で会長秘書長も兼任するエリナ・キンジョウ・ウォン。
元ナデシコA医療班主任にしてネルガル化学研究室主任イネス・フレサンジュ。
そして元ユーチャリスのオペレーターにして『黒の皇子』の従者であるラピス・ラズリ。
いずれも、ナデシコという艦により紡がれた因縁で縁を持った女性達だ。
彼女等の他に人影は無い。辺りからは野鳥の囀りと木々のざわめきだけが聞こえてくる。
「あ、ユリカさんお砂糖はどうします?」
「ううん、要らない。レモンを1枚入れるだけでいいよ」
「本当に……レモンだけで良いんですか?」
ユリカの返事に、ルリは首を傾げる。
ユリカが紅茶や珈琲を飲む時は、大概缶コーヒーと同じ位甘くして飲む。
しかし、ルリが指摘した様に今回は輪切りのレモンを1枚落としただけだ。
短くない付き合いの間で彼女の好みを熟知しているルリにとって、砂糖を入れない事は意外だった。
「いやー最近ね、酸っぱいものが好きになっちゃって」
赤味の強いオレンジ色のダージリンの中で、レモンを泳がせながらコロコロとユリカは笑う。
やや濃い目に茶葉を使った所為で渋味があるダージリンにレモンを浮かべれば、それは酸味が強くなるだろう。
「奇遇ね艦長。私もそうなの」
レアタイプのチーズケーキを、フォークの先端で小さく切り分けて口へと運ぶエリナ。
良質なチーズを使用しているらしく、程好い酸味と甘みが彼女の舌を楽しませた。
砂糖を控えめにしてチーズ本来の味わいで勝負している辺り、これを作ったケーキ職人は良い腕をしてる。
「そうですか、偶然とは恐ろしいものですね。実は私も最近ヨーグルトとか消化の良い物に拘っているんです」
カップに入っているヨーグルトにマーマレードソースを混ぜ込みながら、ルリも賛同の意を表す。
ゆっくりと回すスプーンがヨーグルトの渦を作り、トロトロと滴り落ちていくソースを巻き込んでいく。
「私は食欲自体が無いわ。麺とか見るだけで蛇とか連想しちゃって吐き気がするのよ」
何故かイネスは、昔懐かしい白いチョークを掌で玩んでいた。
周囲にホワイトボードや黒板が無いのが寂しいのだろうか、先程からずっとテラスの下に広がる西欧式庭園を眺めている。
「エリナ……お替り」
「ん……解ったわ」
3個目のケーキを食べ終えたラピスに、エリナはケーキの載せてある銀盆の上から苺の載ったショートケーキを取ってやる。
その仕草に他の3人が少しだけ眉を顰める。甲斐甲斐しくラピスの世話をするエリナの姿が、あるイメージを容易に想像させるからだ。
それ即ち 我が子の世話をする母親。
「気分が悪くなるから、食べ過ぎちゃ駄目よ」
「うん」
再び、口の周りをクリーム塗れにしながらラピスはケーキを食べ始めた。
先月で13歳を迎えた彼女だが、言動や仕草は相変わらず幼い。
「でもねー」
ユリカは気が抜けた様に大きく息を吐き、ルリとエリナは嘆息を深々とつく。
イネスは興味が無いのか、視線を外に向けたままテラスの手摺の上にチョークの先端をコツコツぶつけている。
「こんな形で集まったのは……悲しい事だと、思うべきなのかなぁ?」
「不幸な事だと思います」
「私達が集まる時は、大概お祭り騒ぎになるのにねぇ……」
「そうね。規模の大小を問わず、統計上の確率を持ってすれば必ずといって良いほどお祭り騒ぎになるわ」
「ふぇ?」
ケーキを頬張ったままのラピスが他の4人を見るが、彼女等は繰り返し嘆息を吐くばかり。
「確かに不幸で不本意な会合です。ですが現状を鑑みるに置いて、こうして私達が集まる事は必要不可欠とは言えませんか?」
「それに関して異議を唱えるつもりはないよ」
「ただ……感情的に割り切れない部分が多いってだけ」
「当たり前よ。全てを理性と打算で割り切れる人間が居たら、それは人間では無いわ」
この議論も此処暫くの間で随分と繰り返されたものだ。
今日だけでも既に16回目の問答である。逆に言えば、それだけ彼女達が思いつめていると言う事。
彼女達は何れも賢く聡明である。
この延々と続く議題も無い討論が不毛以外の何物でも無い事など先刻承知の筈だ。
だが、人間とは感情の生き物だ。
如何に飛び抜けた能力の持ち主でも、感情を完全に制御する事は非常に困難だろう。
そして彼女達もまた、今抱えている自身の感情をどう御せば良いのか悩んでいるのだ。
ザワザワと辺りの茂みや木々がざわめき出す。
段々と風が強くなって来た様だ。
「だけどさ。皆、それが出来ないからこうして集まったんでしょ?
1人1人だととてもじゃないけど我慢できないから」
「解っているわよそんな事は……でもね、私だって女よ?
我慢出来る事と出来ない事があるわ」
「エリナの言い分は正しい。正しいからこそこの会合よ。その気持ちを知るからこそ集まり、お互いに抑止しあう」
「抑止出来ているかしら?」
「出来ているわよ、私達が此処でお茶を飲んでいる事自体、抑止が効いている何よりの証拠」
「確かにそうだね……こうしてお茶会が開けるだなんて、思ってもみなかったもん。皆感情を抑えてる証拠だよ」
「この中の1人だけでも感情のままに突っ走る人が居たら、今頃大変な事になっていた筈です」
「感情のままに突っ走る人って、本っ当に迷惑よね」
「ええそうね、例えば……アキト君とか」
ピキッ。
何気ない口調でイネスがこの場には居ない男の話題に言及した瞬間、テラスに居た人間の動きが止まった。
意識して言ったのか、はたまた無意識で言ったのか。イネスの一言はその場の均衡を一気に崩した。
ガチャン。
少しばかり強く置かれたティーカップの下で、マイセン製の受け皿が小さく悲鳴を上げた。
飲み終わったティーカップの底で干上がっているレモンを見詰め、ユリカは何処か酷薄に微笑む。
キリ。
殆ど食べてしまったチーズケーキの載っていた皿を、エリナの握っているフォークが引っ掻く。
口の端にはしたなくも付いていたレアチーズを、舌をチロリと出す事でエリナは舐め取る。
ぼちょ。
マーマレードソースの中に混ざっていた果実の塊が、ヨーグルトの中に落ちる。
既に限界量を上回る程ソースを入れた為か、カップからヨーグルトが溢れていた。
パキ。
イネスの手にしていたチョークが圧し折れる。
サラサラとテラスに舞い込んだ風によって飛ばされる白い粉を、イネスは遠い目で見送った。
けぷ。
急いでケーキを頬ばった所為か。
ラピスが可愛らしいゲップを放ち、半径20pにクリームを波状に飛ばす。
テラスの空気が異様に重くなったと同時に、周囲の森から一斉に野鳥が逃げ出した。
藪がガサガサ動いている所を見ると、小動物も一斉に退避を始めたらしい。見る間に周囲から生き物の気配が消えていく。
「うふ……」
状況を理解していないラピスを除く4人の女性が、同時に笑みを零す。
タイミングを合わせるかの様に彼女達は、各々の視線を自分の下腹部へと向ける。
ユリカのお腹は大きく膨らんでいた。
イネスの見立てでは妊娠6ヵ月目。体内に居る胎児もだいぶ成長している頃だろう。
次いでエリナ。彼女のお腹もそれに負けない位大きく膨れ上がっている。
イネスの見立てでは5ヶ月。経過も順調の様だ。
イネスの腹も……ユリカやエリナ程ではないが、そこそこ膨らんでいる。
イネス自身の見立てでは4カ月と半月。エリナとは立場が近かった所為で、受精の時期が近かったのだろうと彼女は踏んでいる。
ホシノ・ルリ……4カ月。ただし、胎児の成長が遅いのか普通よりも少し出るトコが出ていない。
尤も少し成長が遅いと言うだけで、未成熟児の危険性が有る程では無い。その点は本人に説明済みだ。
このスキャンダラスなルリの内情を知っているのは宇宙連合軍の中でもトップシークレットである。
知っているのはアオイ・ジュン少佐と高杉三郎太大尉、ムネタケ・ヨシサダ少将だけ。
16歳の天才美少女が結婚した訳でも無いのに妊娠なんかしたとばれたら、只事では済まされないからだ。
例外としてマキビ・ハリ准尉も事実を知る1人であるが、情報を得た当日に精神性疾患により緊急入院したので数から外される。
ミスマル・コウイチロウはまだ知らない……万が一その事を知られ、父親が誰であるかがバレたら元凶の命はまず無いだろう。
間違い無く市中引き回しの上打ち首獄門か銃殺刑は確定である。
「……?」
交差する視線の中、ラピスもつられる様に自分のお腹に目を向けるが、別に異常は無い。
贅肉は無いが体内では二次性徴真っ盛りのお腹は、相変わらずほっそりとしている。
ただ、その奥底では新しい命が芽生え、しっかりと息衝いていた。
妊娠………1ヵ月。
ちなみに、ラピスの懐妊は既にこの場に居る全員の知る所だ。
そしてそれ故にこの険悪な空気が作られている。
だが、肝心な事はこの怒りの感情がラピスに向けられているのでは無い事だ。
向けられているのは、年端もいかない彼女を『女』にした挙句、子供まで身篭らせた鬼畜に対してだと言う事。
「うふ……」
テーカップをカラカラと受け皿の上で回しながら、ユリカは笑う。
「うふふ……」
トスッという小さな音と共に、エリナの持っていたフォークがテーブルに刺さった。
「うふふふ……」
ドボンと音を立てて、ソースの容器がヨーグルトのカップに落ちた。
「うふふふふ……」
イネスの掌の中でチョークが砕け散り、粉々になった粉末が突風に乗って舞い上がっていく。
4人の視線が、交差する。
訳が解らない様子で辺りを見渡しているラピスを余所にして、高々と彼女達の笑い声は響いていく。
まるで暗礁地帯から聞こえてくるセイレーンの歌声か、深遠に潜む者の誘い声の様に。
『ウフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ』
穏やかな午後の空気が。
殺人的な圧力によって、確かにギシリと音を立てた。
『出て来いテンカワ! 貴様がこの一帯に潜んでいる事は解っている! 速やかに装備を放棄し、両手を上げて投降せよ!』
拡声器で大きくボリュームの上がったゴートの声が、廃工場地帯に木霊した。
機首に搭載したサーチライトを照射したヘリ数機が、闇に沈んでいる工場地帯上空をローター音と共に通過する。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ」
サーチライトのビームが嘗め回す路地を、武器を携えて走り回る黒服軍団。
彼等を窓の脇側から見詰め、アキトはいよいよ自分が追い詰められたのを実感していた。
「つ、捕まってたまるものか……」
とは言ったものの、彼に残された安住の地はこの廃工場の事務室だけ。
ローラー作戦によって近くの工場まで捜索の手が来ている以上、この事務室の安全も時間の問題だろう。
時刻はもう直ぐ明け方になる頃。度重なる逃走劇によって積み重なった疲労で、恐ろしく眠い。
しかし、彼は眠る訳にはいかなかった。ここで眠ったら間違い無く捕まる。
彼が認識していた以上に追手であるN.S.S.は執拗で尚且つ容赦が無かった。
(もう、チューリップクリスタルも無い。俺に残された手段は、逃げる手段は2本の足しかない)
クリスタルはイネスとエリナが抑えていたので、ネルガル脱走時には僅か2個しか持ち出せなかった。
しかも、それすらも19日前と10日前に消耗し手元には何も残っていない。
つまり、彼の最大の逃走手段であるジャンプは既に使えなくなっていた。
(なんでこんな事になってしまったんだ……)
何でこんな事になってしまったのか?
客観的に感情面を取り除いてみれば、須らく彼自身の自業自得である。
全てのきっかけはアキトの躰が全快した事による。
絶望的とすら言われていたアキトの五感が、アキト自身が集めた研究資料とイネスの不眠不休の尽力により回復したのだ。
味覚も無事に常人のラインまで戻り、全ての問題は解決したと思われた。
だが、問題は思わぬ所から湧いて来た。
それは、アキトが『俺の手は罪で穢れているから』と言って駄々を捏ねたり、某美少女艦長がナデシコCでネルガル月面ドックを強襲したとかそういった些細な事ではない。ある意味、最も深刻な問題であった。
アキトの身の回りに居た5人の女性の同時妊娠。
これが、今彼の周りを阿鼻叫喚の地獄へと引き摺り込んでいる事件だ。
無論、彼女達を身篭らせたのは言うまでも無くアキトだ。
まだ身体が元に戻っていない時期に今生の契りとばかりに、当時入院中だったユリカといたしてしまったり。
もう自分の命は残り少ないとばかり勢いでエリナと行く所まで行ってしまったりと。
更には、自分の躰を直そうと不眠不休の研究を続けているイネスの姿に心打たれ、思わず押し倒してしまったり。
月面ドックに潜入して来たルリに自分の現状を訴えた所泣き縋られ、これまた情に流され彼女を『女』にしてしまったりと。
そして、新医療によって回復したのが一ヶ月半前。
この時点でもうアキトはやる所までやってしまい、事態は収拾不能な時点まで突き進んでいた。
本来なら死ぬ予定だったから無闇矢鱈にやってしまった。
でも回復した事でアキトは生き続ける事になり、責任を取らなくてはならなくなった。
結局のところ五感を取り戻したばっかりに、今回の騒動はここまで大きくなってしまったのだ。
その臨床患者がこの有様では、世界最先端のナノマシン医療が泣くだろう。
実際医療技術を確立させたイネスは泣いていた……主にベットの中でだが。
そして、20日前に全てがばれて彼はネルガルから逃走するに至る。
彼女達、ユリカ・ルリ・エリナ・イネスが本気で怒っていたから。当たり前といえば当たり前だ。
各々が『自分がアキトにとっての本命である』と思っていたのに、他の女に手を出して尚且つ身篭らせていたとあれば。
例え本人がそうは言わずとも、誤解を招かない様にする等の措置を取る甲斐性をアキトが全く持ち合わせていなかったのも致命的だった。
その場その場で考え無しに情に絆されて、節操無しに手を出しまくった結果がこれである。
しかし、それでもアキトが前向きに問題に対処していればまだ此処まで事情が悪くなりはしなかった。
決着を付けようともせず結論を先延ばしにし、現実から逃避した挙句にラピスに手を出したりしなければ。
と言うか、幼いラピスに手を出した地点で、彼女達の心中から情状酌量の余地を一片残らず吹き飛ばしてしまったのだが。
覆水盆に還らず、そして芽吹いてしまった命は種に戻らず。
最早彼に出来る事は只1つ。
怒れる鬼女軍団に背を向け、ケツを撒くって逃げる事である。
「はぁ……」
現実逃避の為、羊を数えたり己のレゾンデートルについて悩んでみたりしたものの、現状は1mmも良い方向へは向かわない。向かう訳が無いし、そんな事している暇が有ったら包囲網を抜ける算段を考えろと言いたくなるが、疲れ果てたアキトの躰は今暫しの休息を求めていたので動こうとしない。
と言う訳で、時折上空を通過する追跡隊のヘリが舞う夜空を見上げたりする。
空の端が僅かに明るくはなっているが、まだ月が主役を張る様にその白い輝きを地上に示していた。
「………!?」
ふと、事務室の入り口の方から物音が聞こえた様な気がした。
神経質になっていたアキトは、脱兎の勢いでホルスターからコルトパイソンを引き抜き構える。
その瞬間、事務室のドアの小さな窓を、何か黒い物体がすっと横切った。
(誰か……居る?)
誰かが、ドアの向こう側に居るのだろうか。
だが、直に言って調べてみる気にはならない。迂闊に近寄ってドアごと吹き飛ばされては適わない。
と言うか、本音で言えばアキトが単純に怯えていただけなのだが。
「………」
ドアの方を睨み始めてから5分が過ぎ、10分が経過した。
しかし、外の喧騒とは裏腹に事務室の内側と外側は異様な程静まり返っている。
「気の……所為か?」
銃を降ろし額にじっとりと浮いた脂汗を、アキトが拭った直後。
指向性爆薬によって隣室の壁が吹き飛ばされ、1人の影が開いた穴から躍りこんで来た。
「うわぁ!」
迫る影に向かって反射的にコルトパイソンを構えようとし、
「ぐぅ!」
銃声と共に右手に激痛を感じ、パイソンを取り落としてしまう。
次の瞬間、粉塵を切り裂いて現れた女の、狂喜に満ちた形相が間直に迫ったと思った瞬間。
「ダッシャ !!!」
「おふぅ!!」
渾身の力で、アキトの股間は蹴り上げられた。
下半身から電撃の如く迸った激痛がアキトの身を焼き、音も無くその躰は床に転がった。
尚も起き上がろうともがくが胸板を足で踏みつけられ起き上がれなくされ。
「動くな」
ライアットガンの銃口を目の前にポイントされ、アキトの動きは止まった。
「ゴムスタンでも、当たり所が悪けりゃ死ぬわよ?
試したければ止めないけど、アンタは出来るだけ傷つけずに捕まえろって言われているの……非常に残念な事にね」
黒服の上にグレーのコートを羽織った紅髪の女が、ライアットガンを片手に冷ややかな表情でこちらを見ている。
何時もかけているサングラスはかけていない。ギラギラと光る瞳の下に深い隈が刻まれ、追跡劇による疲労の激しい事が窺えた。
「もう逃げ様なんて思わない方がいいわ。あの御方も直ぐにいらっしゃる事だし……」
女が言葉を言い終わるか終らないかというタイミングで。
壁の穴の向こう側、即ち廊下の方からコツコツと足音が近づいて来たかと思うと、
「捕まえましたか?」
「はいプロスペクター、追跡対象者テンカワ・アキトを確保致しました」
爆薬で打ち破れた壁の穴を跨ぎながら、赤いベストを着たちょび髭男が室内に入って来た。
「いやはや、随分とてこずらせてくれましたな〜テンカワさん」
「プ、プロスさん……」
ピコピコと電子算盤を叩きながら、男 ネルガルの会計士であるプロスペクターはゆっくりと近付いてくる。
先程、疾風の如き勢いでアキトを制圧した『冷血女』とは違い、まるで散歩する様な緊張感の無い足取りで。
「おかげでN.S.S.の年間予算内の実費が通常の5倍以上に超過してしまいましたよ。まぁ、『彼女達』を怒らせたらもっと性質の悪い事になりますからしょうがないと言えばしょうがないですけどね」
表情は笑顔だが、僅かに眉がピクピクと痙攣している。どうやら少しばかり腹を立てているらしい。
温厚を絵に描いた様なこの男にしては、珍しい事だろう。
「しかし、コイツ1人の為にN.S.S.の主力を持ってして追いかけねばならないとは。意外でした」
「捕まったら間違い無く修羅場ですからね。それは死に物狂いで逃げるでしょうな〜」
侮蔑を含んだ目線で見下ろして来る『冷血女』と、困った人だと言わんばかりに苦笑しているプロスペクター。
自分を見る目付きや感情こそ違えども、この2人の共通している点が2つある。
アキトを捕まえ、『彼女達』の元へと送還するつもりである事。捕縛した彼を決して逃がすつもりがないという事。
どちらにしろ、アキトは絶体絶命のピンチに立たされていた。
「プ、プロスさん」
「何ですかテンカワさん?」
説得をするなら今の内とばかり、アキトは脈の欠片もない『冷血女』ではなくプロスの方に声を掛ける。
踏み付けられながらも表情を『黒の皇子』に戻してプロスを見上げると、出来るだけ低い声で語り始めた。
「俺の……俺の手は血と罪で汚れているんだよ……だから……彼女達の側に居ちゃいけないんだ……俺は……俺は1人で罪を……闇を背負って……静かに……消えていくのが定めなんだ……運命なんだよ……解ってくれないかプロスさん……」
アキトの詭弁を聞いて『冷血女』は首を傾げ、プロスペクターは再び苦笑する。
「……股が潰れて頭おかしくなったンですかね?」
「あ〜気にしなくても大丈夫ですよ。何時もの現実逃避の様ですし」
この手のアキトの言葉にもいい加減慣れたみたいで、彼らの反応は無いに等しい。
名演説も繰り返し聴けば感動が薄れるのと同じだ。
尤もアキトの場合、繰り返し過ぎて失笑を買ってしまう辺り、何となく哀れですらある。
「ち、違うんだ!
俺が居たらユリカやルリちゃんは前に進めないし、ラピスだっぐ、ぐああああああああああああああああ!!!」
「良いから少し黙っていろ。粗チン潰された位でグダグダ喚くな」
アキトの両足を抱え込み、全力で電気按摩を掛け始めた『冷血女』を横目にプロスは携帯電話で何処かに連絡を取っている。
「あ、会長ですか? 私です」
『プ、プロス君なのかっ!!テンカワ君は!
彼は……見つかったのか!!?』
「ご安心下さい。たった今、テンカワさんは『無事』に確保致しました。取り敢えず急いで彼女達に報告した方が宜しいでしょう……これ以上焦らすと暴れそうですからね」
『そ、そうだね……僕もようやく肩の荷が下りそうだよ……』
「はっはっはっ、それは大変喜ばしい事で」
『確かに喜ば……しいね、あ、はは、ははは……』
憔悴し切り、壊れかけた笑い声が携帯から這い出してくる。
よっぽど恐ろしい目にあったのだろう。ついでだから、これを機に自身の女性関係を清算して欲しいものだが。
「さてと……おや、どうしました? テンカワさんが悶絶していますけど……」
通話を終えたプロスが振り返ると、肩を竦めている『冷血女』の足元でアキトが転がりながら暴れていた。
そして両足が根元部分から少しばかり、普通なら有り得ない方向へと曲がっている。
「あーすみません、少し強くやったら股関節が外れたみたいで」
「そんな手荒い事をしてはいけませんよ、直ぐに戻しなさい」
「了解です」
暗殺者として関節技にも長けている『冷血女』は、下手な接骨医よりも関節を外したり戻したりするのが上手だ。
彼女は素早く両足を抱え込み、外れた関節をゴキゴキと派手に音を立てながら元通りに填め直す。
しかしそれで痛みが収まる筈もなく、アキトはじたばたと暴れ続ける。
「しょうがないですね。じゃ、痛み止め代わりに少しお昼寝していただきましょうか」
「ま、待ってくれ……!」
激痛の最中にも必死になって上げた声をプロスは完全に無視し。
何時の間にか、右手に握られていたサイレンサー付きソーコムピストルをアキトに向ける。
パスッ。
思ったよりも軽い音と共に、アキトの首元に麻酔弾が突き刺さった。
「次に目が覚めた時には全て終ってますから、安心して眠って下さいね。ハイ〜」
あくまでも呑気なプロスペクターの声を聞いたのを最後に、アキトの意識は闇に落ちていった……。
数時間後。
そこは会長室だった。
地球圏でも屈指の規模を誇る大企業ネルガルの。
しかし、言い方が過去形である事には訳がある。
本来の主であるネルガル会長、アカツキ・ナガレがとっくの昔に室外へと逃げ出しているからだ。
残っているのは、テンカワ・アキトと縁の有る女性5名。
各々の胸に去来するものは様々だろう。しかし表情だけは状況を理解していない約1名を除き、完全無欠に統一されていた。
即ち、般若の形相。
それに引き換え、当のアキトは何の反応も見せない。
既に燃え尽きてしまっていて、背中が灰色になっている。
いわゆる矢吹ジョーの状態、『燃え尽きちまったぜ……真っ白にな』だ。
「アキト……ねぇアキト……どうしたの?」
状況を理解していないラピスが、頬を抓ったり鼻の穴を横に伸ばしたりしてみるがそれでも反応しない。
それ位、真っ白に燃え尽きていた。これ以上無いほど真っ白に。
だが、今から彼の審問を行う彼女等にとって、その程度の事は些事だ。
肝心な事はこの節操無しの男から、ある答えを貰う事にある。
『で……』
何時まで経っても何も言わないアキトに業を煮やしたのか、5人の女性が一斉に口を開く。
「アキト」
「アキトさん」
「アキト君」
「お兄ちゃん」
これ程、彼女達のタイミングが揃うのは、これまでもこれからも無いだろう。
それだけ、彼女達の意思統一が為されているという証拠でもある。
そして、4人の女性は目の前の甲斐性なしに最後通牒を突き付けた。
『……貴方は誰を選ぶの? そして、どう責任を取るの?』
女史達の声が綺麗にハモった。
眼差しは真剣だ。普段ならほにゃら〜としているユリカでさえ、眼を細めてこちらを睨んでいる。
結論を出さねばなるまい……否、出さないと間違い無く元会長室は阿鼻叫喚の地獄と化す。
「えっと……」
『えっと?』
「その……」
『その?』
ようやく返事を返したアキトを追い詰める様に、答えを急かす様に審問は続く。
最早弾劾を通り越してまさかの時のスペイン宗教裁判と化しつつあるこの場をどうするべきか。
(そうだ……俺は一体、どうしたいんだ?)
アキトは気付いた。自分はまだ、結論を出していないと。
アキトは虚ろな意識を奮い立たせると、彼女達の顔をもう一度見渡した。
(ユリカ)
自分の本来の妻であるユリカ。
そのお腹は大きく膨らみ、表情も怒っていなければ母親の表情をしているだろう。
(エリナ)
復讐鬼と化していた自分を支えてくれたエリナ。
彼女が居なければ、アキトはこうやって生きている事は出来なかったかもしれない。
(ルリちゃん)
本心では自分の事を慕っていたルリ。
事故で別れて以来、この少女には悲しい思いをさせてばかりだった。
(イネス)
運命的な出会いと別れを体験したイネス。
アキトが戦い生き延びる事が出来たのも、この運命の女性との出会いがあったからかもしれない。
(ラピス)
目も見えなかったアキトの半身となってくれたラピス。
この少女がアキトにとって不可欠だった様に、彼女にとってもアキトは不可欠だった。
彼女達の怒りも、アキトの事を本当に想っての事だろう。
それを考えると彼女達から逃げていた自分の不甲斐なさと、身勝手さが深々と身に染みてくる。
(俺は決断しなくてはならない。俺自身の大切な女達の為に )
そうだ。もう俺は迷わない。
決心を固めた瞬間、急激に躰を蝕んでいた恐怖と緊張が引いていく。
急に表情が雄々しくなったせいか、彼を見ていた女性陣の表情に戸惑いが生まれる。
その戸惑いを突く様にアキトはすっと立ち上がり、胸を張って彼女達の視線を受け止めた。
「皆……今から俺の結論を言う……これが……俺の本心だ……」
そして、アキトは結論を出した。
その答えとは 。
「月曜日がユリカ、火曜日がエリナで水曜日がイネス。木曜日がルリちゃんで金曜日はラピス、土日は休養日でどうかな?」
直後、会長室は 寺内貫太郎一家状態になったという……。
言い訳後書き
お、オチが付いていないかも……つーか洒落になってね〜 ⊂⌒~⊃。Д。)⊃
タイトルは代理人様に付けて頂きました。
代理人の感想
ん、何か?
タイトルに偽りあり?
いやいや、それは多分あなたが見落としているだけですよ。
ソースを見てくだされば納得していただけるかと(笑)。
>寺内貫太郎一家
向田邦子原作のホームコメディ・・・・なのかな? 原作のほうは知りませんが。
古き良き日本の家庭で起こるどたばた騒ぎを描いた作品です。
無論オチは家庭内乱闘(爆)。