週末の金曜日、ホシノ・ルリは自宅のベッドの上で
古い文庫本 を読んでいた。
冷凍睡眠 で三十年後の未来で目覚めて、そこで時間旅行の機械 を手に入れて過去に戻って元同僚に復讐して、またコールド・スリープで未来に戻って姪の少女と結婚してペットの猫と三人――二人と一匹――で幸せに暮らす男の話。
読み終わったルリが気になって発行日を調べてみると、初版が刊行されたのは今から二百年以上も前のこと。時は現在西暦2205年の夏真っ只中。百年間の世紀という大きな区切りを二つ三つほど乗り越えて今こうして自分の手の中にあると思うと中々に感慨深い物を感じる。この本の作者もまさか現実が空想に追いつく時代まで延々と自著が発行され続けるなんて書き上げた当時は夢にも思っていなかったに違いない。
書かれた時代が時代なので用語他表現の仕方が多少古臭いと感じてしまうのは仕方ないとしても、その他の部分はマイナスを補って余りあるほどに素晴らしかった。今日のうちはさわり程度で済ませておこうと考えていたのに、読み進めるうちに熱中してしまい、おかげでいつもの就寝時間を一時間ほど過ぎてしまった。
ルリは、苦笑を零しながら――「だけど、まあ、明日は土曜日ですし」とささやかな夜更かしを良心とお肌に納得させた。規則上では一応、毎週連休で土日の二日間丸ごと休めることになっているのだが、彼女の仕事柄休みの日にも演習・当直・各種の勤務などが結構あり、土日は絶対に休めるというわけでもない。お給料をきちんと貰え、失業の心配はないにしても、公務員というのも中々に大変な仕事なのだ。
とりわけ《史上最年少の天才美少女艦長》《電子の妖精》などと呼ばれ民間からの認知度も高いルリは、本来の軍務の他に宇宙軍の広報活動の一環としてテレビのCMや雑誌のグラビアの撮影などにも狩り出され、それに加えプライベートでもここ数年ルリに負担を強いる出来事が続いたため、結果としてここ数ヶ月、ルリに週末を自宅でゆっくりと過ごした記憶はなかった。忙しく変わり映えのしない毎日が続きカレンダーを見る意味もなくなり、ふと気付けば今日の日付が判らないこともしばしばだった。とりあえず仕事が一段落する見通しが立った今日の昼の段階でも、本来ならルリは土日も出勤してこのところ忙しくて正規の軍務上でしかコミュニケーションを取れなかったオモイカネ――ルリが艦長として務める戦艦の中枢コンピュータの愛称――の遊び相手になってやろうと考えていたのだが、そのプランを昼食時に誘われて食堂で一緒に食事をしていた部下の面々に披露すると、全員から即座に駄目出しを貰ってしまったことには、日頃クールを信条としているルリも思わず目を丸くしてしまった。「艦長働きすぎですって!」「その若さで過労死する気ですか?!」「労働基準法って知ってますっ!?」「もっと体を大切にしましょうよっ!」「睡眠不足はお肌の天敵ですよっ!」「知ってますますかっ、忙しいっていう漢字は心を亡くすって書くんですよ!」「そんな生活だからおっきくならないんですよ艦長っ!」
機関砲のように矢継ぎ早に繰り出される部下の口勢に、海千山千の宇宙軍責任者の面々との会合で舌戦には慣れているつもりだったルリもさすがに多勢に無勢、それまでの発言を翻してこの週末は自宅でゆっくりすることを誓わされた(そんなに激しく糾弾されるほど休みなしに働いた自覚はないのだが。それに最後の部下の視線が胸部に向かっていたのはどういう意味だ)。
とはいえ、合理的に見えてその実自分で決めたことは余程のことがない限り実行する案外頑固なルリのこと、隠れて出勤して友達 と遊んであげようと考えていた。連合宇宙軍本部の間取りは頭に入っているし、自分が任された戦艦の構造はいわずもがな。誰にも会わずにオモイカネの元まで辿り付ける自信はあったし、幾つかの重要地点に通じる通路は指紋・声紋・本人を示すカードキーに加え、時間帯によって異なるパスワードを照合する扉によって四重に守られており、通った者は例外なく記録に残されることになっているが、情報部に請われてそのプログラムを作ったのはルリであり、自作ゆえにその《穴》 もよく理解している。記録を改竄することは《電子の妖精》にかかれば片手間で終わる作業だった。
しかし、その決意を翻意させるルリにとっては予想外の一つの事件が起きた。発端は午後の軍務の最中に突然ルリのコミュニケに入ってきた通信だった。何だろうと訝りながらウィンドウを呼び出すと、映ったのは日本人男子の平均より二回りは大きい体躯に立派なカイゼル髭をたくわえた初老の男性。キツく引き締められ、見方によっては凛々しくも映る表情の男はルリの姿を捉えると途端に相好を崩した。
「お久しぶりです、ミスマルのおじさま」
毎朝の乾布摩擦の成果かそれとも趣味の和太鼓叩きの恩恵なのか、歳の割りに健康的に過ぎる男の声音はルリにとって大音声に過ぎる。過去からの教訓をきちんと活かしているルリは男の機先を制して挨拶を敢行し、男の出端を挫いた。男――連合宇宙軍総司令、要するにルリの上司であり、同時にルリの二人目の養父でもあるミスマル・コウイチロウは、義理の愛娘に行動を読まれたことに少し情けない顔をしながら、
「久しぶりだね、ルリ君。暫く見ない間にまた綺麗になったんじゃないか?」
と、真顔でルリの白い頬を僅か紅潮させる発言をした。若い頃プレイボーイだったっていう噂は本当なのかもと六割ほど納得しながら、ルリはどうとでも取れる愛想笑いを返した。否定するのも肯定するのも何か失礼な気がしたからだった。幾つかの世間話の後、おもむろにコウイチロウは用件を切り出した。
養父の用件はルリが予想していたものと同じだった。食堂でルリが漏らした土日も出勤宣言をどこからか聞き付け、さきほどの部下たちと同じく最近のルリは働きすぎだの年頃の女性が無理してはいけないだの久しぶりにルリの手料理が食べたいだのあの手この手を使ってこの土日、ルリをミスマル家に呼んでの親娘団欒計画を策謀していることを告げた。
曰く、この計画は君がいないと成立しない。
曰く、君へのプレゼントもたくさん用意した。
曰く、ディナーには知り合いの高級フランス料理店のシェフを呼んである……エトセトラエトセトラ。
私が最近働きすぎだった原因の少なくとも半分は、宇宙軍の軍務のせいなんですけど……。喉まで出かかった言葉を、ルリは危ないところで引っ込めた。
――そうだ。それは、養父 のせいじゃない。
なら誰のせいかと聞かれれば、数えるのが嫌になるくらいたくさんの要因が挙げられるが、やはり一番パーセンテージの大きい答えは《自分》 だった。
世間を震撼させ、時空間移動法 の運用に一石を投じた人類史上最大のテロリスト集団事件――通称、《火星の後継者事件》から早四年。事件以前もその能力と容姿のレベルの高さから噂になっていたルリだったが、それは主に軍関係者の間だけのローカルな物に過ぎず、その比重はどちらかというと容姿の方に傾いていた。つまりどういうことかというと、ルリはその身体を使って地位を得たのではないかと疑われていたのだった。勿論根も葉もない中傷だった。当時の時点でルリは少佐という高位の階級に位置しており、それは身体を売るだけで無能の者が得られ、また維持していけるほど仕事の質的にも量的にも易いものではない。本来なら一笑に伏されるべき戯言なのだが、宇宙軍総司令を親戚に持つルリのコネのパイプの太さと、何より妖精の異名を持つルリの神秘的な容姿とあいまって、もしかして……と囁かれ続けてきたことだった。短期間における急速な出世、しかも本来男性社会である軍属の世界でとなれば、やっかみが向けられるのもある種当然のことだった。
その認識が覆され、軍関係者のみならず一般にもルリの存在が認知される切っ掛けとなったのが件の《火星の後継者事件》だった。当時の最新鋭とはいえ、たった一隻の戦艦で火星全宙域に分布していた合わせて千を越える戦艦と機動兵器の一切を無力化したその能力。一軍人ではあったが、通信回線から侵入するクラッキング能力は常識レベルを超えるほど高く、実質《火星の後継者事件》はルリ一人の力で決着したといってよかった。実際、《火星の後継者事件》以降、地球規模で電子上のセキュリティの基準が大きく引き上げられたことには、ルリのような第三者のクラッキングによる情報の漏洩を危惧したためだという背景がある。ルリは、有事に於いて、自らの実力を証明して見せたのだ。果たして、本人がそれを望んでいたかどうかは別にして。
そして、世論と呼ばれる大きな力に対して、川の流れに身を任せるようにそのまま軍の第一線で活躍し続けるうちに、いつのまにかルリの宇宙軍の制服の左胸には色とりどりの略式勲章 が並ぶようになり、その数に比例するように階級も上がっていき、いつしか《史上最年少の天才美少女艦長》の愛称から後ろの《少》の文字が抜かれ始めるようになった。三、四年前までルリの容姿に対しての形容詞は《可愛い》が主だったのに、今ではその言葉は滅多に聞かれず、さきほどの養父のように《綺麗》へとシフトしていった。昔、同じ戦艦 で務め、家族同然の付き合いを今尚続けている人たちからも、顔を合わせればその言葉が聞かれるようになった。そんなに自分は変わってしまったのだろうか?――化粧も控え目で、せめて見苦しくないくらいにしか着飾らないルリはそもそも自分の容姿に対する興味が薄く、皆の言葉も半分は社交辞令だと受け取っていた。そもそも銀色の髪に金色の瞳というスタイルを鏡で覗く度にルリは自分が普通の人間ではないことを実感し、多少憂鬱にもなる。それが堤防になって幾ら親しい相手の言葉とはいえ、いやだからこそ、それをそのまま受け取ることはやはりルリには難しかった。
尤も、そんな感情論を抜きにして、喩え嘘でもいいから綺麗だよと言ってもらいたい相手がルリにもいることにはいるのだが……、その相手の行方は遥として知れず、会いたいと願っていても中々会える相手ではなかった。物は試しにと、ルリは出会い頭のコウイチロウの言葉をその相手が言った状況を夢想して――さきほどの五割増の激しさで頬に赤味が差したのは、その次の瞬間だった。その相手の性格を考えると、ほぼ有り得ない可能性ではあるけれど。
――と、そこでルリは我に返った。会話の最中に他の事――しかも人には絶対に言えない妄想だ――に気を取られるなど、常のルリには決してないことだった。皆の言うとおり自覚してないだけで疲れが溜まっているのかもしれないな。ルリが自らのオーバーワークを漸く理解し始めると、ルリの小過を見ていた養父は鬼の首を取ったように自分の言葉が正しかったことを再び声高に主張し始めた。日頃この若く聡明な義理の娘にやり込められているだけに、娘から一本取ったのがよほど嬉しいようだ。
子供のようにはしゃぐ養父――連合宇宙軍総司令、つまり宇宙軍の最高責任者の痴態を見て、宇宙軍の次代を担うべき少女は娘と部下という重複する立場に二重の幻痛を頭に感じつつ、漸く明日はゆっくりしようと休養を自分に許したのだった。ルリは最後に上司に対する慇懃さと父親に対する親密さを等分に混ぜ合わせた笑みを見せ、体調を気遣ってくれたことへの礼を手厚く述べてから通信を切った(親娘団欒については気が向けば参加すると言っておいた)。
「――ふう」
養父との通信を終えたルリは艦長席の背もたれに身を深く沈めながら息を吐いた。養父との会話が気詰まりだったわけではない。最近は仕事上の付き合いでしか顔を合わせていなかった養父にすら悟られるほどに疲れを溜めていた、自身の体調管理の不手際に対する自嘲的な溜息だった。養父ですらこの反応なら普段から顔を合わせていた同じ艦に勤務している部下たちにはどれだけの心配をかけたのか。艦の象徴 たる艦長が不安定なら乗員は否応なく不安に駆られる。部下たちの心中を思うと、ルリは申し訳ない気持ちになった。
今日は定時に上がろう――そう考えて苦笑する。そういえば最近定時に上がった記憶がなかった。これでは心配をかけるのも無理はないなと再度己を戒めながら、ルリは養父の通信で中断させられたデスクワークへと戻ったのだった。
それからのルリの行動については、殊更取り上げるべきものは何もない。強いて変わったことを挙げるなら、親しい相手にしか教えていない公用ではなく私用 のルリのメールアドレスに、ルリが弟のような存在として気を許しているマキビ・ハリ大尉からのメールが届いたことくらいだった。件名には律儀に季節の挨拶が添えられ、明日もし時間があれば一緒に映画に出かけませんかという内容だった。ルリは映画を見るのも休養になりますよねと少し考えてから、いつもより硬く強い印象を受ける弟分のメールの文体に少し首を捻りながら、それでもさして悩むこともなくOKの返事を記したメールを送り返した。勤務時間内での私用なメールのやり取りは控えるようにとの注意を添えて。
そしてルリは計算通り定時の十分前に仕事を切り上げ、その十分間で艦長席周りの簡単な清掃を済ませつつ、定時きっかりに艦長席から腰を上げたのだった。更衣室で宇宙軍の制服から私服に着替え、普段とは立場を逆転させて部下たちに見送られながら、ルリは自宅への帰途に着いた。
その帰り道でなぜ書店に立ち寄ったのか、その理由はルリ自身にもよく判らなかった。道を歩いているとふと目に止まり、気紛れで入ってしまったのか。殊更欲しい本があったわけでもなく、それなのになぜ文庫本 を買ってしまったのか。それもまたミステリーだった。それでも強いて理由を挙げるなら、おそらくはタイトルに惹かれたのだと思う。
四年前の、熱かった夏。二度と会えないと思っていた大切な人たちに再び巡り合えた特別な季節。ルリの中で今なお色褪せない、おそらく生涯忘れることはないだろう大切な記憶。その憧憬を掻き立てずにはおかない、タイトルの不思議な魅力に衝き動かされるままに、ルリはその本を購入してしまったのだった。
あの夏の日に、戻れるような――。
戻りたいと、懐古の念が湧いたことは否定できなかった。
私が、衝動買いなんて珍しい。思いながら、ルリは自宅に帰って早々、ろくに着替えもせずに買ってきた本を読み始めた。普段からデジタルの最先端たる電子情報の扱いに慣れ切ってしまっているだけに、紙片に印刷されたアナログな文字情報を読み解くことにルリは思いの他てこずった。初めのうちはつっかえひっかえしながらも、一度コツを掴んでしまうと以降はつまることなく物語世界に没入できるようになった。
読み終わると、自然と溜息が零れた。ルリはなんとなく、にっこり笑った。面白かった。衝動的に買った本はルリにとって当たりだった。
長時間同じ姿勢で動かずに本を読んでいたために、体が少し硬くなっていた。ん、とルリは瑞々しい体を思い切り伸ばした。全身に新たな血が通う感覚が心地よい。時計を見ると、もう普段なら寝ている時間帯だった。随分長いこと本に熱中していたことになる。何かに熱中していると、時間が経つのは驚くほど速い。それは人生にも似ている。みんなが生きることに熱中しているから、あっという間にそれは終わりに近付いてしまう。
ルリは本の表紙を眺めた。作中に出てきた猫の絵が書かれてある。猫は好きだった。猫を指で軽くつつくと、目を弓に細め、笑った。汚れないようにベッドの上の空いているスペースに本を置いた。本の中に出てきた、小さなときからの憧れだったおじさんと紆余曲折の末結ばれた少女のことを少し羨ましく思いながら、ルリは就寝前の日課であるシャワーを浴びに浴室へと向かった。
これから先の運命の回天を知る由もなく。
4 years later ―ホシノ・ルリの憂鬱(1)―
ホシノ・ルリ大佐。
コンピュータ・オペレーティングの天才。彼女は、禁止されている遺伝子操作によって人為的に生み出された存在であり、オペレーターとしての能力も遺伝子操作に起因している。2185年にスウェーデンの人間研究所にて生まれ、そこで育成された。後に、ネルガル重工がスキャパレリプロジェクトを開始し、彼女は相転移エンジン搭載戦艦のオペレーターに選出される。それと前後して、彼女の親権並びに養育義務はネルガル重工に移行された。
当時、彼女は能力面においてはほぼ申し分ないが、幼児期の人間関係の希薄さからか人付き合い等の情緒面で問題があると見られていた。しかし、2196年、建造が進められていた相転移エンジン搭載戦艦がナデシコ――後年、後のナデシコシリーズに対してナデシコAと呼ばれる――と命名され、正式にナデシコのクルーとして採用されると、以後彼女の情緒面は飛躍的に改善されていくことになる。
ナデシコA乗船当時、彼女は騒がしいクルーの中にあって誰よりも冷静で客観的かつ寡黙な存在であった。《バカばっか》という口癖が示すとおり、落ち着きのないナデシコのクルーを冷めた目で見ていた彼女だったが、そんな彼らに次第に親しみを感じるようになっていった。ナデシコ乗艦以前には、教育以外の思い出が殆ど無かったため、ナデシコでの思い出を人一倍大切な物として感じていたようだ。そのことを端的に示すエピソードがある。蜥蜴戦争の終盤、ナデシコ艦長のミスマル・ユリカ嬢がナデシコと一緒に《遺跡》を爆破し、それまでの全てをリセットしようと提案したとき、《大切なものをなくしたくない》という理由で彼女は強く反対した。彼女にとって、ナデシコでの暮らしはそれほど大切なものだった。
蜥蜴戦争終結後は、ネルガルの何でも屋 の裁量でミスマル家に引き取られたが、ミスマル家の親子喧嘩に巻き込まれ、ナデシコ乗艦時代から親交を深めていたミスマル・ユリカ、テンカワ・アキト両名と共同生活をする事になる。四畳半一間の決して贅沢とはいえない暮らしだったが、それでも、彼女はその暮らしを気に入っていた。それは、ホシノ・ルリが生まれて初めて得た《家庭》だった。
だが、2199年6月。幸せだった彼女の運命は暗転した。
かねてより恋仲だったアキトとユリカ、紆余曲折の末に結婚し、幸せの絶頂にいた二人を、突然の不幸が襲った。新婚旅行で火星に旅立つために二人が乗ったシャトルが、飛び立って間もなく、爆発、四散してしまったのだ。見送りのために空港まで来ていた彼女は、その爆発を肉眼で目撃している。
彼女がアキトたちの事件から受けた心的ダメージは大きく、事件からおよそ一年の間、彼女は何をするともなく無為の時間を過ごした。彼女が後にナデシコBの艦長に任命され、そこでトリオを組むことになるタカスギ・サブロウタと出会ったのは、この頃のことだった。彼は元は勇猛果敢な木連の兵士であり、蜥蜴戦争時にはナデシコと戦った経験もあった。彼は、彼の上司がコンピュータの扱いに超人的な能力を持つルリが、クーデターを企む木連側の人間に襲われる危険があると察知し、ボディガードとして送り込んだ人材であり、実際にルリの命を狙ってきた暗殺者を撃退している。
タカスギとの出会いと彼が解決した事件がきっかけとなり、ルリは以前から声をかけられていた宇宙軍へ戻る事を決心したのだった。その後、ナデシコA時代の実績が評価され、ルリが艦長職に就いた新造戦艦ナデシコBの活躍が始まった。副長がタカスギ・サブロウタ、副長補佐がマキビ・ハリであった。《史上最年少の天才美少女艦長》《電子の妖精》と呼ばれ始めたのも、この頃のことである。
そして、ナデシコBで幾つかの事件を解決した後、彼女は再び彼女の運命の歯車を加速させる出来事――《火星の後継者事件》に巻き込まれることになる。そこで、彼女は、二度と会えないと思っていた家族と再会したのだった。変わり果てていた養父 と、変わっていなかった養母 に。
●
――ホントに、珍しい。
珍しいことは続くものだと、ルリはシャワーの蛇口から出るぬるめのお湯を浴びながら嘆息した。昼間、アキトのことを考えたのが呼び水になってしまったのだろうか。今まで気付かなかった空間に水がなだれ込むように、記憶が次々と渦を巻いて蘇ってくる。水の流れは激流で、抵抗したところで止めることは敵わない。
水。そう、水だ。人間の記憶というのは水みたいなものだとルリは考える。人間の体のどこか――おそらくは脳 の中――には、きっと生まれてからの全ての記憶を溜めておく巨大な湖のような器官があって、湖の底には失われたはずの無数の過去が沈殿している。目が醒めてまだ何も考えられないでいる朝、何かを思い何かを始めようとするとき、普段は意識していない過去、湖底に沈んでいるはずの記憶が、不意にぷかりと浮かんでくることがある。
手に取ってよく見ようと、浮かんできたそれに手を伸ばす。
けれど、どんなに湖の縁から手を伸ばしても、固体ではない水を掴むことは叶わない。どんなに掬っても掬っても、手の中にはひんやりした空しい感触が残るばかりで、強く握ろうとすればするほど、その水は掌から勢いを増して零れ落ちていく。しかし、手に取ることはできないかもしれないけれど、記憶は無色無味無臭と不確かで、それでいて確実に《湖》の中に存在し、それから逃れたり無視することはできないのだ。過去のない人間なんて、この世に存在しないのだから。
今は、ルリの《湖》の水をせき止める堤防に小さな亀裂 が入っている。最初にキズが付いた時点では小さな孔にすぎなかったそれは、けれど水が及ぼす圧力によって徐々に堤防の強度を失わせ、ついに水は堤防を突き破ってルリの意識の表層を浸し始めた。或いは、こうなることを恐れてルリは周囲の人たちを不安がらせるほど仕事に没頭していたのかもしれない。意識していた、していなかったは別として、ルリの無意識は過去を思い出すことを忌避し、遠ざかろうとしていたのかも。
しかし、それもここまでだった。そんなその場凌ぎの対処でどうにかなってしまうほど、ルリの抱える問題は易しくはない。今までは両手で瞳を覆って嫌なことから目を逸らしてきた。けれど、そんな杜撰な対処の仕方では、本人を説得して瞳を覆う手をどかしてくれる善意の第三者、或いは自ら瞳を覆う手を取り除く勇気さえ持てば簡単に意味を為さなくなってしまう。一つでも持つことが難しいそれらを、幸運なことにルリは二つとも持っていた。
お膳立てはできている。だから、立ち向かうのなら今だ。幸いなことにコウイチロウや部下たちの尽力のおかげで明日から二日間は久しぶりの休日だ。一度、全てを吐き出してしまおう。化膿した傷口から膿を抜き出すように。消化しきれない思いを、言葉にせずもやもやした感触のままに理解しよう。その結果、押し寄せる過去の波によって妖精の羽が濡れ飛べなくなってしまっても、
――一度底まで沈んだら、後はもう浮き上がるしかないですよね。
過去の経験から、ルリはそのことをよく知っている。過去に自らが体験した真理なのだから当然だった。そのときのことは、あまり思い出したくないけれど。そして、浮き上がるまでには結構な時間を費やしたけれど、
「おじさまやハーリー君には我慢してもらいましょうか」
割を食うのは彼らですし――口元が綻ぶ。底まで沈んだ場合よほどのことがない限り短時間で浮上することは難しい。勿論ルリも一端の社会人である以上休日の間に浮上する予定だが、余裕を持たせるためにも沈んでいる間は誰とも会わずにゆっくり養生したい。誘いを断ったとき彼らが浮かべるだろう情けない顔が思い浮かび、ルリは申し訳なさ四割おかしさ六割で微笑した。
キュッ。
微笑みながらシャワーコックを捻ってお湯を止め、シャワールームを出た。その名前の通りの色の後ろ髪が、水に塗れ美しく揺れる。シャワールームを出たところには、ルリが自ら用意しておいた着替えが置いてある。標準的な白の下着類に、薄手のキャミソールとホットパンツ。長く白い足が完璧に照明を反射する。眩しいほどに。
着替えを身に付け、髪を後ろに流したルリは浴室から出て冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。コップに注いで喉を潤す。嚥下する琥珀色の液体と一緒に苦い過去も消化できないかと少し期待していたのだが、生憎と消化器官が受け付けなかった。流しにコップを運んでから、ルリは覚悟を決めて再びベッドの上に寝転んだ。
枕元を探った掌を開くと、そこには二つの物が握られていた。紙切れと指輪。ラーメンのレシピとマリッジリングだ。二つを眺めながら、ルリは目を三日月のように細め、やがて瞼を閉じ逃れられない過去の追憶へと旅立った。
●
ミスマル・ユリカが亡くなったのは、三年前の夏のことだ。
新婚旅行の途上で拉致され、《火星の後継者事件》の終幕によって救出されてからおよそ一年後のことになる。当時、ユリカは長期に渡る《遺跡》とのシンクロにより精神エネルギーが枯渇し、その死期は間近に迫っていた。救出されてからしばらくはユリカは痛みも見せず、体調も順調に回復していたために病気の発見が遅れてしまったのだ。
いや、果たしてそれを病気と断定していいものだろうか。説明好きの彼女の主治医 が思わず口を濁してしまうほど、ユリカを襲った病状は奇妙なものだった。先ず、寝起きが悪くなった。しかし、これは元々朝が弱く、目覚し時計一個くらいの音量では例え耳元で鳴っていても気付かずに眠り続けられるユリカの神経の図太さもあり、最初は誰の目にも留まらなかった。後に病状が進行して、あれが兆候だったのではないかと推論されたのである。
次の異変は、もっと判りやすい形で起こった。ユリカの睡眠時間が、だんだんと長くなってきたのだ。これも、最初は誰も不審に思わなかった。なにしろ、ユリカは布団に入って一分もあれば熟睡状態になれるという、子供みたいな女性なのだから。結び付きの深さゆえか、異変に最初に気付いたのはルリだった。ミスマル邸に遊びに来ていたルリが、世間話をしている最中にふと反応がないなと思って見ると、眠っているユリカの姿が。会話の最中にいきなり眠るユリカにルリは呆れたものだったが、日頃のユリカの突飛な言動を知るだけに最初は特に疑問にも思わなかった。食事の時間になっても起きてこず、肩を揺すっても軽く頬を叩いてみても反応を見せない段に至って漸くルリは異常事態に気付き、ユリカは近場のネルガル傘下の総合病院に緊急入院することになった。
本職が科学者であるイネス・フレサンジュがユリカの担当医になったことには、二人に面識があり気心が知れた間柄ということもあるが、共に二人が現存する数少ないA級ジャンパー体質者であり、互いの体の異常には敏感だろうと推察されてのことだった。加えてユリカは火星の後継者に拉致された際、ボソン・ジャンプのイメージを伝達する人間翻訳機として《遺跡》と結合された過去を持ち、イネスは《遺跡》研究の第一人者として名を馳せている。《遺跡》と結合した人間など過去に例がなく、解放されたとはいえどんな後遺症が現れるか予想もつかない状況では最高のスタッフといえた。
しかし、そのイネスをもってしても、ユリカの異常の原因を特定することは容易ではなかった。研究を進める間にも、ユリカの一日の睡眠時間は八時間から九時間となり、十時間、十一時間と着々と増えていく。焦りながらも、それでもやはりイネスは卓越した科学者だった。ユリカは、肉体的には《遺跡》と分離しながらも、精神的には上手く《遺跡》と切り離されてはいないのではないかという仮説を立てた。なぜなら、火星の極冠遺跡に安置されている《遺跡》の演算ユニットが、ユリカの睡眠時にはその活動を活発化しているという報告が入ったからだ。一度、ユリカを介して多くのモノをボソン・ジャンプさせてきたユニットは、ユリカを自身の体の一部、一つの部品と認識してしまったのだろう。その方が、効率よく多くのモノを運べることに気付いたのだ。自己の最適化のためにユリカの精神性を欲し、我が物にしようとしている――イネスはそう結論付けた。知性すら窺わせるその行動に、《遺跡》の底知れなさを垣間見たイネスは、普段なら研究熱が点火するところだが、今回ばかりは胸糞悪くなるのを止められなかった。
原因は特定できたとはいえ、対応策を講じるとなるとさらに難易度が上がった。ユリカと《遺跡》がどのように結び付いているのか。あらゆる機器を用いて調べても、その片鱗すら見つからないのだ。元々《遺跡》は古代火星人が創り出したブラック・ボックスの塊であり、現在の人類より一段高いステージの代物だ。現代科学では到達していないレベルの技術が使われていても不思議ではなかった。或いは、《遺跡》を直接調べることができれば何らかの解決法が解るのかもしれないが、先の《火星の後継者事件》によってボソン・ジャンプの危険性を思い知らされた新地球連合は《遺跡》を厳重に管理しており、前大戦の英雄といえどたった一人の人間の命のために万人の命を奪う危険のある《遺跡》との接触を許すとは到底考えられなかった。さすがにこれはコウイチロウの権力やルリの電子戦能力でもどうにもならない。いや、正確に言えばどうにかはなるだろうが、果たして《遺跡》を調べたところで絶対に解決法が見つかる保証はなく、その後のコウイチロウやルリの処遇を考えればリスクが大きすぎる。そもそも家族を犠牲にしての快復などユリカが望みはしないだろう。
お手上げね――イネスは好物の蜜柑の皮を剥きつつ、不甲斐なさに蜜柑をやけ食いした。火星産の蜜柑は土壌の栄養が少ないために酸味が強い。酸っぱさに涙が出そうになる。素直じゃないイネスはそれを自分の気持ちが原因だとは考えない。
そして、イネスは良くも悪くも現実主義者 であり、嘘を告げて患者の精神安定を図ろうなどという考えはさらさら持っていなかった。末期のガン患者に、例え患者の子供が縋り付いて泣いている状況下でも、眉一つ動かさずにあなたはガンですと宣告できる自信を持っており、密かにそれを自慢に思ってもいた。そのイネスも、この――黒ギリギリのグレーの――推論をユリカに話すかどうかには頭を悩ませた。本人に告げるのでなければ、次善の策としてユリカの身内に告げることも考えられたのだが、ユリカの母親は彼女が小さい頃にすでに亡くなっており、親しい親類もおらず、候補者は父親のミスマル・コウイチロウと養娘のホシノ・ルリだけだった。
身内に告げる場合選択肢は二つだけ――。さて、どちらから告げようか、或いは二人同時に告げようか。結果を脳裏でシミュレーションしてみたイネスは、思わず頭を抱えたくなった。
コウイチロウは普段の性格こそ厳格なのだが、娘のことが絡むとどうにも思考が単純になってしまうという欠点を持っている。そのコウイチロウに目に入れても痛くないほど溺愛している愛娘の命が残り少ないと告げたときの狼狽振りは想像するだけで目に余りある。その結果不自然な態度を取ってしまえば勘の鋭いユリカにはたちまちのうちに看破されてしまうだろうし、そうなれば本人に告げなかった意味がない。
かといってルリの方はどうかといえば、彼女にはユリカたちの乗ったシャトルが爆発した後一年間塞ぎこんでしまったという前科がある。もちろんルリはそのときより身も心も成長しているが、それでも彼女はまだ子供だった。口調や物腰こそ大人びているが、精神的に成熟しきっていないのだ。子供じみた行動をとるが、精神的には強靭かつ柔軟性に富み、完成されている養母 とは真逆の性質であるといえた。そんな二人が実の姉妹のように仲良く暮らしていたのだから、人間というのは奥深いわねとイネスは若干思考を本筋と関係ない方向へ逸らしてしまう。
思案と検討の末、結局イネスは二人をユリカの病室に集め、そこでユリカも含めた三人同時に推論を伝えることにした。狼狽するコウイチロウと、硬直するルリ。唯一平静を保っていたのが当事者のユリカなのだから何とも面映い報告結果になってしまった。《なーに固まってるのお父様、ルリちゃん》とユリカが明るい声をかけ、二人を唖然とさせたものだった。自分の耳がバカになってしまったのではないかと、コウイチロウとルリは思わず目を見合わせてしまう。縋るように自分を見る二人の視線に促され、イネスは再び残酷な結果を告げねばならなかった。
結果として、イネスの目論見は成功した。うなだれるコウイチロウとルリに、《大丈夫、大丈夫だよっ!》と明るく二人を励ますユリカ。今まで、一度としてユリカが大丈夫だと断言して外れたことはなかった。ナデシコA時代の、不可能と思えた数々の作戦を、卓越した頭脳とその不思議なカリスマ性で見事成功させてきたユリカの姿が思い浮かび、コウイチロウもルリも少しだけ心が軽くなった。
元気付けなければならない人に、逆に元気付けられるなんてと二人が暗澹たる思いに駆られている姿を横目に、イネスはユリカを半ば羨望のこもった視線で眺めていた。己の死を告げられて、本当は落ち込み、自分の身体について正確な情報を得たいだろうに。それを抑え、懸命に周囲を考慮しようとしている。茫然自失になったり、周囲に当り散らしたりする人間を数多く見てきたイネスは、こういうタイプの人間がとても貴重であることを知っている。強いわね、とイネスには珍しく他人に賞賛を贈り、こんなときにも《私らしく、自分らしく》の精神を失わないユリカを誇らしくも思う。かつてこの人の下で働けた自分を幸せだったとも感じながら、彼の争奪戦で自分が負けたのも必然だったみたいねと納得した。
「イネスさんも、隠さずに教えてくれてありがとうございます」
加えて、そう言って頭を下げるのだから、罵倒される覚悟もしていたイネスとしては、ユリカの人柄を見誤っていたことも合わせて恐縮するばかりだ。《……私は、一応は医者なのよ。患者に真実を告げる義務があるわ》といつもの口調で返しながらも、変わらないユリカの態度に目が充血するのを抑えられない。それすらも察しているように微笑んでもう一度頭を下げるユリカに、イネスはもはや何も言わず、コウイチロウとルリを連れ立って部屋から出ようと廊下に通じる扉へと足を向ける。気丈なようでいて、やはりユリカも相当なショックを受けているはず。一人にしてあげようという配慮と、容態の詳細をコウイチロウとルリに伝えるための処置だった。《一番厄介な人が、まだ残っているしね》と呟くイネスの声は、まだ衝撃が抜け切らないコウイチロウとルリの耳には届かず、けれどユリカの表情を嬉しいような悲しいような、不定形なものに変えるには充分だった。種類こそ違えど、ショックを受けていたのは変わらない三人には周りに注意を向ける余裕はなく、だから一度も振り返ることなく部屋を後にした。
――だから、彼らは気付かなかった。見送るユリカの澄んだ瞳から不意に大玉の水滴が零れたことを。慌てて患者服の袖で目元を拭いながら、その拍子に薬指の指輪が目に入ってしまい、さらに多くの水滴を零してしまったユリカの姿を。ひゅ、と短く息が呑まれる。息は言葉になった。
「アキトぉ……」
●
イネスの宣告から一ヶ月。ユリカの一日の睡眠時間は、実に二十時間に迫っていた。覚醒していられる時間が零になったとき――それがユリカの精神力が尽きたときであり、彼女が二度と覚めない永遠の眠りに就く瞬間だった。依然として《遺跡》によるユリカの精神の侵食を阻む手段は見つかっておらず、関係者は眠れぬ夜を過ごしていた。
コウイチロウとルリは悩んだ末に、旧ナデシコクルーを始めとする親しい人たちにはユリカの病状を伝えることを決めた。《火星の後継者事件》以降、アキトの生存とユリカの救出が知られるにつれてそれまで疎遠だった旧ナデシコクルーとの交友は回復しており、彼らに何も言わないでおくには彼我の距離が近過ぎた。何よりこの重大な問題を自分たちだけでまとめきれる自信が心身ともに大人なコウイチロウはともかくルリには持てず、色んな意味で経験豊富なかつての仲間に助言を求めてもいた。相談相手に選ばれたハルカ・ミナトやウリバタケ・セイヤは、自分の力が至らないところでは無理に意地を張らず、素直に人の意見を求める妹分の少女の姿に、かつての他人に興味を持っていなかった頃のルリを知るだけにその変化と成長に対する喜びもひとしおだった。ほとんどのことは自力でできるこの有能な少女に頼られたという別種の喜びもある。普段なら小躍りはともかく笑顔くらいは浮かべる喜ばしい出来事だが、事態が事態なだけに彼らは頬が引き攣るのを止められなかった。
少女を支えてあげたい、力になってあげたいと思うのは彼らにとって至極自然な反応だった。蜥蜴戦争中、共に戦場を駆け抜けた仲である。あらゆる事象に対し反応が――表面上は――薄く、そのくせ感受性豊かなルリの気質は両人とも深く理解している。家族の突然の奇禍にひどく心を痛めていることは容易に察せられた。しかし、抱く思いと取れる行動はまた別問題だった。どんなに意気込んでみたところで、ユリカの病気は彼らには専門外なのだ。治療についてはイネスないし医療知識のある者に任せるしかない。ならば、彼らに出来ることは頑張れだの諦めるなだの月並みな言葉でルリを励ますことくらいだった。
「ありがとうございます」
それでもルリはそう言って頭を下げ、彼らは無力感に歯噛みした。実を言えば彼らの言葉はまるきり効果がなかったわけでもなく、ルリにとっては一種の精神安定剤の役割を果たしていたのだが、それで彼らの無念が晴れるわけでもない。そもそも、精神安定剤役ならばもっと適任な人物がいるのである。彼らが連絡を受け病院へ馳せ参じたとき、病室へと続く扉を開けてまず最初に出迎えられたのは、ユリカが横たわるベッドの枕元近くに椅子を寄せて座るルリの縋るような視線だった。落ち込んでいる金の瞳は、けれど常にはない強い輝きも帯びていた。人生経験からそれが期待の光であることを彼らは悟った。
――そして、その輝きが彼らの姿を捉えた途端ふっと翳った。待ち人来たらず。彼らは、自分たちが少女の本当の待ち人ではないことを理解した。ならばそれは誰か。考えるまでもない。こんなときにしか会えないような、こんなときにルリが会いたいと思う人物は一人しかいない。ルリは、落胆の色を隠しつつ律儀に礼を言ったものだった。気付かなかった振りをして、彼らもルリに挨拶を返した。しかし頬は引き攣る。心から《彼》に向けての刺が伸びる。なぜ少女にこんな顔をさせるのかと、この場にいない少女のもう一人の家族に非難を向ける。
そんな不穏な空気を和ますのは、いつだってユリカの仕事だった。いつのまにか目覚めたユリカは、見舞い客らに具合を聞かれる度いつも楽しそうに、
「《遺跡》とルームシェアしてるみたいな感じかな」
ベッドに横になりながら、あまり出来の良くない冗談を言ってみたりする。睡眠中は食事が出来ず栄養を摂れないために健康だったときと比べて痩せてしまっていたが、悲壮感はなく、ぱっと見では元気そうに見える。だから彼らは一瞬ユリカの身体の状態を忘れる。その直後、彼女の腕から生えている点滴の管や、ベッドのすぐ横に置いてある呼吸数や脈拍や血圧などを刻々と表示する機械が、本人を代弁するように事態の深刻さを物語っているように感じるのだ。――嘆き、とその思いを人は言う。
ユリカは眠っている間のマイナスを埋めるようによく話した。一日数時間しか起きていられないことの不満を語り、いつものボケを繰り出し、気が付けば陰鬱とした雰囲気は雲散霧消してしまうのだ。ルリも見舞い客らも、否応なくユリカのペースに引きずり込まれる。逃れる術はなかった。太陽の大きさと暖かさを無視できる生物がいないのと同じことだった。
「――……ぁ」
――そして、ぷつりとぜんまいの切れたおもちゃのようにユリカの意識と言葉が途切れる。眠りに就く。それがその頃毎日のように起きていた儀式だった。ルリたちは託宣を授かる巫女のように厳かにそれを眺めた。儀式に対して彼らが言うべき言葉は何もなかった。今のユリカを相手に、頑張ってとかきっとよくなるとかの言葉はすべて意味がないのである。風車を怪物だと思い込み、戦いを挑んだドン・キホーテの行動のように。
静まり返った病室。その静寂の中をユリカが生きている唯一の証である、種々の数値が音もなく点滅を続けていた。見舞いに来ていた者たちは一人、二人と病室を後にしていく。いつも、最後まで残るのはルリだった。儀式はもう何回も繰り返した。奇跡が起こるのはいつだろう――それが起こるのを祈りながら。
●
ルリは近頃いつもそうしているようにユリカの病室で仕事に耽っていた。小さなテーブルを運び込み、椅子に座って手元のコンソールを操作しつつ宙に浮いている数個のウィンドウに目を走らせる。時折、間違いを修正したりする。ルリはコウイチロウに頼み込み、特例でこの部屋で軍務をこなす許可を得ていた。コンソールは、軍から借り受けたオモイカネの端末だった。
そのときのルリは前線指揮官ではなく後方勤務になっていた。有能な前線指揮官の突然の配置換えは、本人の希望とユリカの精神安定のためにルリを近くに置いておきたいコウイチロウの思惑が一致し、人事に圧力をかけた結果である。後方勤務というのは要するにデスクワークだ。設備が整っている宇宙軍本部でなくとも、情報処理能力に優れコンピュータと抜群の相性を誇るルリならさしたる弊害もないと判断され、特例が許可される運びとなったのである。
《――一緒にいられる》。過程を無視して結論だけを理解したユリカは破顔してルリを抱きしめつつきゃあきゃあとはしゃいだ。一緒になって喜びながら、しかしルリは《……これで、いつあの人が来ても会える》と計算している自分に気付いた。コウイチロウに頼んだのは誓って純粋にユリカの身を案じて一緒にいたいと思ったからだ。どこまでも素直なユリカに詫びつつ、胸に湧いた不純な思いをルリは恥じた。けれど、
「これでいつアキトが来ても家族三人で会えるねっ!」
何でもない言葉だった。たわいもないやり取りだった。
けれどルリは救われた。ユリカのその言葉で、自己嫌悪に苛まれることはなくなったのだ。ユリカの不幸をアキトに会うための理由にしたのではないか、という疑念は綺麗さっぱり消えて、《家族三人で会える》という幸福な未来に向けて自分が一歩踏み出したような達成感を感じられるようになった。ユリカは、時折、こんなふうにルリには思いもつかない閃きや言葉で人を救うことがある。おそらく、本人に自覚はない。それでも、ユリカに全てのことをプラスに働かせるような不思議な力があるのは事実だった。
「ルリちゃん」
思い出を反芻していたルリは不意の呼びかけに意識を引き戻された。声に顔を向けると眠っていたはずのユリカの瞳が開いている。どこかうつらうつらしているのは単に寝起きのせいだろう。
「おはようございます、ユリカさん」
「おはよう、ルリちゃん」
ユリカの覚醒を契機にルリは機械的に処理していた種々のウィンドウを一斉に閉じた。丁度切りのいいところだったし、優先順位を考えれば当然のことだった。仕事の片手間で済ませられるほどユリカとの会話は軽くない。椅子から腰を浮かせながら、
「何か飲みますか? コーヒーと紅茶がありますよ。両方ともインスタントですけど」
「ルリちゃん」
我を通す強い口調に、ルリは浮かせていた腰を再び椅子に落ち着かせてユリカを見た。ベッドに上体を起こして手を腹の上で組み、ユリカはルリを眺めていた。姿勢を正してルリもユリカの視線を正面から受け止めた。これから何か大事なことを話し合うのだという意思が二人の間で確認された。二人の間で、こういうふうに事前に了解を取り合って話し合うことは少ない。普段なら、二人の会話は主に雰囲気だけで進んでいく。僅かな言葉のやりとりだけで、二人は同じ絵を描くことができるのだ。
例えば、目の前にチキンライスがある。二人なら、チキンライスがあると口にしなくても、チキンライスの匂いや見た目についてちらっと言及さえしていれば、チキンライスの存在について充分な共感を得ることができる。むしろ、わざわざチキンライスがあることを口にするなんてあざとく思えるし、何より面倒臭い。親密な関係にある者同士が、二人の間だけで通じる特別な言葉を使うことで得られる充足感。それが感じられることを、二人は誇りにすら思っていた。
しかし、時にはどちらかがチキンライスの存在を口にしなければならないことがある。そんなとき、もう一人の反応が試される。存在を提示されたチキンライスをどうするのか。見て見ぬ振りをするのか、払いのけるのか、食べてしまうのか、放っておいてそのまま腐らせてしまうのか。そもそも、それは本当にチキンライスなのか。味はどうなのか、美味いのか不味いのか。今の二人は、それをはっきりさせようとしているのだ。そして、二人にとってのチキンライス――わざわざ口に出して話し合わなければならない事柄とは、二人の家族のことに他ならない。
「ルリちゃんは、アキトが好き?」
「好きです」
ルリは即答した。今更悩む必要もなかった。大切な人。家族として、そして一人の男性としても。何がどうなっても空気中に含まれる二酸化炭素の割合よりも再考の余地のない答えだった。
迷いのない口調に、ユリカは苦笑した。
「はっきり言うなぁ。知ってる? 私って、一応はアキトのお嫁さんなんだよ? その当人を目の前にしてそんなこと言う?」
「今頃気付いたんですか? そうなんです。実は私、こう見えて結構悪い女なんですよ? ユリカさんがいなくなっちゃったら、これ幸いとばかりにアキトさんに迫っちゃったりするんですから」
「ひどいなぁルリちゃんは。そんなことしたら末代まで祟ってあげちゃうんだから」
軽口の応酬はユリカの言葉でルリが顔をしかめて終わりを告げた。ユリカの気持ちを煽るためにわざと憎まれ役を買って出たルリの言葉は、しかし一枚上手だったユリカにすげなくかわされた。そればかりかユリカの瞳はルリを置き去りにして、一人違う絵を眺めている。ルリが持っていない大局的な視点から――そんな不安を感じ、だから、ルリは切り札 を切った。一人高みを目指すユリカを、否応なく引き戻すカードを。
「――諦めちゃうんですか? アキトさんのこと」
ユリカは即答した。
「まさか」
暫しルリを見つめ、それから笑った。魅力的で穏やかな笑みだった。そこには、私こそが悲劇の主人公なのよ、と自らを哀れむ様子もなければ、自分自身を鼓舞するような雰囲気もなかった。自分の台詞に酔うナルシストの顔にも見えなければ、養娘 の前だからと強がるような気配もなかった。ただ事実を述べている者だけが持つ、強い自信と諦観だけがあった。そのことが、ルリをなお一層悲しくさせた。
ユリカは、笑みを浮かべたまま、性格と同じエキセントリックな切り口で話し出した。
「私ね、さっき、神様に会ってきたんだ」
「……神様?」
「そう、神様。ルリちゃん、神様って信じる?」
「またいきなり話が飛びますね。生憎と宗教は信じてません」
ルリが正直に告げると、《うん、実は私もそうなんだー》とユリカは幾分照れくさそうに白状した。ルリにとっては周知の事実である。足を伸ばせないくらい狭い四畳半長屋で一緒に暮らしたこともある仲だ。互いの癖や好物はソラで言えるくらい熟知している。ユリカが何らかの信仰を持っていたのなら、ルリが気付かないはずはない。
「信じてないのに、神様に会えたんですか?」
「うん、さっき、夢の中で。実を言うとね、信じてないっていうのには少し語弊があって、随分前から神様には祈ってたんだ。新婚旅行の途中で悪者に連れ去られちゃって、王子様と妖精が助けてくれて、でも悪者の悪い魔法で不治の病になっちゃったお姫様はどうしたらいいのか。神様に相談して、どうすることが正解なのか教えてもらおうと思ってたの。困ったときの神頼みってやつかな」
「はあ。それで、突然相談相手に指名された神様は何て言ってくれたんですか?」
ユリカは、さらに笑みを濃くした。言いたいことが面白くて面白くて堪らないというように体をくつくつと震わせながら、《聞きたい? ねぇ、聞きたい?》と瞳を輝かせてルリに尋ねる。そんなふうに大袈裟な反応をされると、ユリカのいう神様の返答にルリも好奇心を刺激された。よくよく考えてみると、たとえ夢の中とはいえ神様を名乗る存在と会話をしたというのは中々に貴重な体験に思われた。《何て言ってくれたんですか?》と、ルリは内心の興味を悟られないよう、強いて同じ言葉を繰り返した。ユリカは、んふふーと少々もったいぶりながら、
「怒られちゃった」
あっけらかんと、そう告げた。
「――は?」
「《私はどうしたらいいんですか?》って訊いたら、《そんなことくらい自分で考えろっ!》って怒鳴られて、怒られちゃった」
「それが、神様の言葉ですか?」
「うん、そう」
プッ――ルリは思わず吹き出してしまった。久しぶりの笑いのせいか、おかしさに涙が出てきた。腹を押さえながら、神様に怒鳴られるなんて、そんなことが有り得るのかなと思いながら、ユリカの性格を考えるとそれが妙に現実感のあることに思えてしまうから不思議だった。
ユリカも、最初は《あ、笑ったなー!》と目元を吊り上げていたが、やがて彼女もあははとおかしそうに笑い始めた。同じように腹を押さえながら、故郷が違い、名字が違い、血も繋がらず、けれど紛うことなき家族である二人の女性は、たおやかな嬌声を上げて笑い合った。それは、彼女たち自身気付いていないが、病状を宣告されてから二人が零した、初めての心からの笑みだった。
「だからね。自分で考えて、決めたんだ」
ルリの笑顔を眩しい物のように目を細めて見詰めながら、ユリカは言った。声に込められた真剣な響きに気付き、ルリの笑みは一瞬で吹き飛んだ。ぎょっとなって、思わず、ユリカの顔を見る。
そこに、思いがけなく、強く何かを訴えてくる瞳がある。ルリは目を離せなかったし、ユリカも目を逸らさなかった。非難しているのではない、押し付けがましいのでもない、強い瞳。湖面のように揺れるルリの黄金の瞳が見詰める中、ユリカは左手の薬指に嵌っていた指輪を抜いた。
プラチナの指輪だった。シンプルな模様がついている。指輪の内側に、日付とイニシャルが刻み込んである。《A to Y》。アキトからユリカへ。そして日付は、白いドレスを纏って幸せそうに微笑むユリカにルリが少しの嫉妬 を感じた日――アキトとユリカの結婚記念日の日付だった。
ユリカは、その指輪を掌に載せてルリに差し出した。
「これって……」
嫌な予感がした。デジャビュだ。一年前の夏。墓場。アキト。ラーメンのレシピ。擦れ違う思い。悲しげな微笑。生きていた証。
――そして、それっきりアキトとは会っていない。ユリカとルリを残して、彼は遠いところに行ってしまった。帰ってきていない。――帰ってこない ? まさかユリカも?
「ユリカさんっ!」
声を荒げるルリを、ユリカは優しげな微笑で迎えた。落ち着き払っていた。
「アキト風に言うなら、こうかな。それは、ミスマル・ユリカの生きた証。どうか受け取って欲しい」
「……それ、カッコつけてます」
「違うの、ルリちゃん」
ユリカは笑顔のまま、わかるでしょ、とルリに訊いた。すべてが分かったような清々しい顔で。イネスが毎日のようにユリカに投与している様々な薬や治療行為、そしてそれらが引き起こす――つまり何の効果もないという――今までと同じように睡眠時間が長くなっていく――結果を知らされているルリは、もう何も言い返すことはなかった。
ユリカに知られていた、悟られていた。その言葉がぐるぐると頭の中を回るばかりで何も考えられない。気が付けばルリの目には言いようのない敗北感から涙が溜まり、納得できないまま右手は差し出された指輪を握っていた。アキトのレシピを受け取った手で、今度はユリカの指輪を受け取っていた。
「もう、本当に、どうしようもないんですか?」
「――大丈夫。私の王様は私だもん。《遺跡》だからって、そんなに好き勝手にはさせないよ」
根拠のない精神論の答え。ユリカは冗談で言ったのだろうが、その言葉にルリは随分勇気付けられた。指輪を握る手に力が入る。――ユリカさんならきっとまだ何とかなるかもしれない。また報われない希望が胸に差す。
ユリカは大仕事を終えた後のようにほっと溜息を吐いた。肩の荷が下りたような爽やかな顔――さきほどまでの微笑とはまた少し趣が違う笑み、主神ゼウスの子を身ごもった市井の女中が浮かべるような決意の顔を見せ、
「アキトは、絶対にルリちゃんのところに戻ってくるよ」
だから諦めないでね――とユリカは言った。すると、ユリカの黒い大きな瞳の中に鮮やかに映っていたルリの姿が、蜃気楼のようにぼうっと崩れてきた。布教のために世界中を巡った殉教者が、最後に平穏を求めついに辿り付いた安息の地で浮かべるような透き通った微笑を見せ、
「約束だよ」
静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、ユリカの眼がぱちりと閉じた。ルリが手を翳すと、安らかな寝息が手に届いた。再びユリカは眠りに就いた。――これが、ユリカさんとの最後の会話になるんだろうな。自然にそう直感し、疑問を挟むことなくルリは納得した。
その予感は的中し、それがホシノ・ルリが見た目覚めているミスマル・ユリカの最後の姿となった。
§ 中書き §
はい、以降はパート2に続きます。
に、してもなんでこんなに長くなってしまったんだろうか。短編のつもりだったのに全三話くらいの中篇になりそうです。今書いている時点で100kbに迫ろうとしてるんですが(汗
とりあえず着地地点は決まってるんでなんとかそこまで落としたいと思います。ユリカ派の方々には辛い展開かもしれませんが、ここまで読んでくださった方、できれば最後までお付き合いください。
代理人の感想
・・・・・・・おう。
しばらく見ないうちに芸風が変わりましたねー。
こりゃ私もうかうかしてられんわ。
中編とのことですので話の感想は最後になってから。