その男は苦悩していた。
『ミスマル・コウイチロウ』は密かに嘆息した。
連合軍幹部の連中はそれに気付いた様子は無い。
目の前のメインモニターの中でいつものように喚きたてている。
だが、その男は、ミスマル・コウイチロウはそんな話など、ちぃ〜〜〜っとも聞かずに、激しく苦悩していた。
「この非常時に民間用戦艦だと」
…………ナデシコ…………といったな。
それが……それが……それが問題なのだ。
「ネルガルはいったい何を考えている」
ユリカ。
…………ユリカ。
オオオオォォォ、ユリカよ〜〜〜!!
なぜ、父を置いていったのだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
「あの威力を見た以上、戦艦ナデシコを放置するわけにはいかん」
確かにおまえは優秀だし、聡明だし、美人だし、世間が放って置かないだろう。
だが、だが………………おまえには早すぎるぅぅぅぅ〜〜〜〜。
ユリカ!!世の中はお前が思っているほど甘くはないのだ〜〜〜〜っ!!
幼馴染のジュン君が着いて行ってくれたが、彼はイマイチ頼りないしな…………。
ユリカよ。もう少し、パパに甘えてもバチは当たらんぞ!!
「あの船の艦長は君の娘だそうだな」
ユリカ………………今、何をしているだろうか?
ホームシックにかかって無ければよいが。
…………いや!!絶対に父が恋しくて泣いているはずだっっ!!!!
そう、絶対に泣いているっ!!
だが、艦長たる者、家へ帰りたいなどと口が裂けてもいえないはず。
胸を張り裂けんばかりにして、耐え忍んでいるのだろう。可哀想に。
「もし、あのナデシコの艦長が」
まだ、ユリカには早かったのだ。
察せぬ父を許せ。ユリカよ。
「連合軍への参加を望むなら受入れよう」
ユリカ〜〜〜〜〜〜〜!!
今、最愛の父が迎えに行くぞっ!!!!
ユ〜〜リ〜〜クァ〜〜〜〜!!!
カァ〜〜ム・バァ〜〜ックゥゥゥ!!!
「提督?」
「ぬ?」
いつの間にか通信が終わっておる。
まあ、良い。どうせ、いつものようにたいしたことではなかったのだろう。
それよりも、ユリカだっ!!
「直ちに発進準備。機動戦艦ナデシコを拿捕する」
地球連合宇宙軍第三連合艦隊提督ミスマル・コウイチロウは厳かな声で、命令を下した。
機動戦艦ナデシコ
フェアリーダンス
第一章『ジェノサイド・フェアリー』
第ニ話『『緑の地球』は任せとけ……………勝手にすれば』
「ア〜キト〜。ア〜キ〜ト〜。アキト。アキト。ア、ア、ア〜キ〜ットッ」
ナデシコ艦長、『ミスマル・ユリカ』はアキトの名前で調子外れの鼻歌を唄いながら、嬉々として廊下をスキップしていた。
7歳のときに別れたアキトとこうして出会うことができたのだ。
嬉しくないわけがない。
それも、格段に強く、格好良くなって。
あの黒尽くめの姿が格好良いかどうかは人によって千差万別だがアキト至上主義のユリカにとっては、アキトのことならば全て格好良いのである。
ちなみに、アキトの自己紹介のとき『早くどっか行っちゃって』などと思ったことは、とうに記憶から抹消されていた。
「うふふふふ、ユリカもこ〜んなに綺麗になっちゃって、アキトも驚いただろうな〜〜」
思わずデヘヘヘと笑みが洩れ出る。
ユリカのIQ180の頭脳にピンク一色のお子様禁止の妄想が渦巻いた。
『ユリカ。たとえどんな苦しかった時でも、おまえを思い出して打ち勝ってきた』
『ダ〜リン』
『もう離さない。永遠に一緒にいよう』
『あたしもよ。もうダ〜リンは永遠にあたしのもの』
『ユリカッ!!』
『アキトッ!!』
………………………………以下自粛。
「いやん。ダメ、アキト!!そんなのまだ早い。あ……でもちょっとだけなら」
頬を朱に染め通路の真ん中で身をくねらせるユリカを、通行人は危険物を見る眼つきで避けて歩く。
『危険物』。他人の直感はけっこう本性を見抜いていることが多い。
だが『それ』が、劇薬と爆発物と殺人機械を重ね合わせたものより遥かに危険で『恐ろしい者』だと気付いたものは誰もいなかった。
「ととととっと、いけない。いけない。行きすぎるとこだった」
シアワセなユメ――妄想と云ふ――に浸りながら歩いていたユリカは、アキトの扉の前でたたらを踏んだ。
「もう、アキトったら、ユリカが艦長さんなのに遠慮して訪ねにきてくれないんだから〜〜。ユリカ、怒っちゃうぞ。プンプンッ」
頬を膨らませたユリカは扉をノックする。
「ア〜〜〜キ〜〜〜ト〜〜〜。ア〜〜キ〜〜ト〜〜。ア〜キ〜ト〜!!」
そういえば、幼稚園にいく時にも、こう呼びかけながらアキトの家の扉を叩いたっけ。
アキトにはウルサイって怒られたけど、恥ずかしかったんだよね。
アキトってばシャイなんだからっ。
「ア〜〜〜キ〜〜〜ト〜〜〜。ねぇ。アキトってたらあ。アキト!!」
強く叩いた扉がガンガンと反響する。
……………………………………………………………………。
……………………返事が無い。
ま、まさかっ!!部屋の中で行き倒れているとか、豹や虎に追われているとか、大怪我をして死ぬ寸前だとか、最後にユリカを一目見たかったと呟いているとか。
ダメーーーーーーーーーーーーーッ!!
駄目よ。アキト。アキトはまだ死んじゃ駄目。ユリカとラブラブになって、ユリカと結婚して、子供は男の子と女の子を一人づつ。
だからっ!!絶対に死んじゃ駄目!!アキト!!
今、生涯の伴侶となる最愛のユリカが征きますっ!!
扉のスリットに自分のカードを通らせると、音も無く扉が開いた。
「そっか、あたし、艦長さんだからどの部屋でも入れるんだ」
ユリカは部屋の中を見て、大きく眼を見開く。
なにも無い部屋。
殺風景と云う言葉がこれほど似合う部屋も無いであろう。
剥き出しのフローリングに、ベッドが一つ。
それだけ。
他に何も無い。
「アキト〜〜。いる〜〜?」
小声で部屋に向かって問い掛けた。
返ってくるのは静寂。
「懐かしいな〜〜〜〜〜」
ユリカは腕組みして部屋を見回した。
む〜〜。『かくれんぼ』なんて小学校以来だよ〜〜。
そう言えばアキトは『かくれんぼ』大好きだったもんね。
ユリカが幼稚園の教室に行くと必ず隠れてたし。
公園でもあたしが遊びに行くと大抵、隠れてたし。
もちろん、あたしは愛の力でいつもアキトの隠れてる場所を一目で探し当ててたけど。
「アキトったら、いつまで経っても子供なんだからっ」
ベッドの下かな………………………………………いない。
お風呂は?…………………………………………いない。
おトイレは?…………………………………………いない。
キッチンの流し台の下には…………………………いない。
じゃあ、天井裏………………………………………いない。
じゃあ、じゃあダクトの中……………………………いない。
意表をついて排水溝の中……………………いるわけない。
「アキト〜〜〜〜!!どこ行ったの〜〜〜〜〜!?」
ユリカ以外、誰もいない部屋でユリカの涙の叫びが木霊した。
「留守って気付かないのかな〜?」
「まあ、うちの艦長じゃあねぇ」
「バカ」
艦長の様子を見て三者三様の言葉を口にした。
「でも、ルリちゃん。こういう覗き見はあんまり良くないと思うけど」
「では、やめますか?」
「あっ、でも……艦長がこれからどうするか、ちょっと興味あるし」
メグミは言葉を濁して、乾いた笑い声をあげた。
ナデシコ艦長『ミスマル・ユリカ』はプロスのお小言が終わると、後ろも振り返らずにすっ飛んでいったのだ。
『テンカワ・アキト』の元へ。
『電光石火』と言う言葉はああいう時のためにあるのだろう。
それぐらいの早業であった。
やれやれと首を振るものが2名。呆れかえるのが3名。
面白そうに眼を輝かせるのが2名。無関心に仕事をしているのが1名。
もちろん、メグミは眼を輝かせた1人だ。
もう一人、面白そうに笑いを浮かべたミナトと艦長のことについて話題にしていたら、ルリが「だったら、見ますか?」とおもむろにモニターを立ち上げたのだ。
メグミは少し安心していた。
やっぱり、ルリちゃんも普通の女の子のように関心があったんだ。ちょっと安心。
ミナトが可愛らしく首を傾げる。
「ん〜〜。でもぉ、艦長、これからどうするのかしらねぇ?」
「やっぱり、しらみつぶしに捜すんじゃないんですか?」
「この船だけで、どれだけの大きさと部屋があると思う?3日かかっても捜し出せないよぉ。おまけに尋ね人は絶えず移動するんだしぃ」
「ですよねぇ。じゃあ、行きそうな場所に罠はって待ってるとか?」
「ぷっ。クスクス。艦長ならやりそうねぇ。篭の中に自分の写真を置いといてぇ、拾うのを待ってるとか」
床に写真を置き、特大の網篭を逆さまに設置し、そのつっかい棒に結びつけた紐の端をしっかりと握って物陰に隠れているユリカの姿を想像してしまい、メグミは笑いが込み上げた。
たしかに、やりそうである。あの艦長なら……。
メグミは隣の女の子を見る。
金の瞳でモニターをじっと見詰めている少女。
ルリも艦長の様子を見て面白いと思っているのだろうか?
無表情の顔からは何も読み取れない。
「ねえ、ルリちゃんは艦長がどう行動すると思う?」
ルリはチラリとメグミを一瞥してから、さも当然のような口調で推測する。
「私に連絡してくると思います」
「あらぁ。なんで、ルリちゃんに?」
ミナトが面白そうにルリに訊いた。
「それは――」
何かを言いかけたルリは咄嗟にモニターを小さくした。と、同時に目に前に艦長からのコミュニケが立ち上がった。
「ルリちゃん。ルリちゃん。ルリちゃん。ルリちゃん。ルリちゃん。ルリちゃん。ルリちゃん。ルリちゃん。ルリルリ、ルリちゃん」
ユリカが息継ぎ無しで一息で名前を連呼する。
「何ですか?」
「アキトがいないの。捜して!!」
ミナトがひょいとルリの前に顔を出す。
「ルリちゃんが、アキト君の居場所を知っているとは思えないけどなぁ」
「そんなことありません。アキトはコミュニケをつけているんです。艦内ならルリちゃんの知らないことはありません」
きっぱりとした口調で断言するユリカ。
「あっ、な〜る」
ミナトがポンッと手を打った。
ハテナマークをいっぱい浮かべたメグミにルリが説明する。
「このコミュニケは通信装置とともに、艦内ならば居場所も特定できるんです」
「へ〜〜。そうなんだ。そっか、それで艦長はルリちゃんに連絡してくると」
そのメグミの言葉に、ミナトは微かに疑問を覚えた。
艦長の次の行動を的確に予想しているルリを見つめる。
この子、こんな短い時間で他人の性格を把握してる?
他人には無関心だと思っていたけど、ワタシの勘違い?
ミナトの思考はユリカの大音声によって強制的に途切られた。
「で、ルリちゃん!!アキトの居場所はっ!?」
ユリカの大声にメグミは耳を抑える。職業がら耳は良いほうなのだ。耳元での爆音…………爆声はかなり辛い。
その大声にも何のアクションも見せないルリが淡々と答える。
「体技室のようですね」
「体技室って?」
ユリカの問いに、ルリが律儀に説明する。
「体育館を小さくしたような部屋です。トレーニングルームと呼ばれることもありますが。宇宙空間でも心身ともに健康に、とか云う名目で作られた防音、耐震、耐衝撃を兼ね備えた、しせ――」
「わかった。トレーニングルームね!!ルリちゃん!!ありがとっ!!」
ルリの説明を遮って、ユリカが叫んだと思うと次の瞬間には通信が切られた。
『嵐のように現れて、嵐のように去っていく』
そんなフレーズがメグミの頭に浮かぶ。
何事も無かったかのようにルリはどこかの廊下と扉をモニターに映した。
「ここは、どこなの?」
「体技室の前です」
行動の是非は兎も角、ミナトは素直に感心する。
う〜ん。ルリちゃんてそつがないなぁ。
「でも、鍵を勝手に開けられちゃうのって、チョット怖いですよね」
「大丈夫よぉ。そうそうあの艦長も、そんなことは多用しないってぇ」
メグミの不安をミナトが微笑んで否定する。でも、不快感は消えない。
「う〜ん。なんかイヤだな。でも、マスターキーって何処でも入れるものなの?」
「そうですね。例えば、まだ顔を会わせたことも無い見知らぬ従業員の部屋に無断で進入し、電気関係のメンテナンスハッチを勝手に開けて、エネルギーバイパスがある危険立ち入り禁止区域を平然と通り、火災用の緊急非常階段を素知らぬ顔で上り、男子更衣室の上を通っているダクトの中を何食わぬ顔で潜り抜け、今は壁の一部になっているナデシコ建設当時に使われた隠し扉を無許可で開くことも可能です」
「そ……それは…………」
「いくら、艦長でもそこまではしないんじゃないのぉ」
二人の戸惑いをルリはズッパリと切り捨てる。
「いえ、私は艦長がテンカワさんの部屋から体技室まで通った道のりを順番に述べただけですが」
「「………………」」
絶句する二人の耳にお気楽な声が響く。
「ア〜〜〜キ〜〜〜ト〜〜〜!!」
ユリカがさっき通信を切ってから、5分程度しか経っていない。
「アキトさんの部屋から体技室って近いんだ」
「裏道を通れば、ですが」
ミナトが苦笑いを浮かべる。
「それって、艦長が通ってきたところぉ?道って呼べるの?」
「…………艦長に訊いてください」
おお、ルリちゃんが逃げを決めるとは。艦長、恐るべし。
メグミはルリの言葉にそんな事を考えた。
その『恐ろしい』艦長は体技室の扉を叩いている。
「ア〜キ〜ト〜。開けてよ。そこにいるのはわかってるんだよ。アキトってば恥ずかしがり屋さんだもんね。でも、大丈夫。アキトはあたしが好き!!ユリカ、知ってるんだからっ!!何にも恥ずかしがることなんて無いよ。だから、ここ開けて、アキト!!」
「…………………………」
「…………………………」
「思い込みもここまでくると、凄いものがあるわねぇ」
「恋は病って云いますけど…………本当に恋の病気って感じですね」
メグミの言葉にミナトは眼を細めて、モニターを眺める。
「でも…………ワタシも……初めて男の子と付き合ったときはあんな感じだったなぁ。相手の男の子は何よりも、世界の何よりも自分のことを最優先で想ってくれてるはずだって…………まあ、幻想だったけどぉ…………」
「アタシも…………自分は必要な人間なんだって………。常に、自分が彼の為に役に立ってるって思い込んでたなぁ。………結局は『うざったい』の一言でその想いも冷めちゃいましたけど」
苦い笑いを浮かべたメグミは無表情でモニターを眺めている少女に視線を移した。
「ルリちゃんは?」
「………………私、少女ですから」
その言葉にミナトとメグミは視線を合わせ、軽く笑う。
「そうですよね。ルリちゃんはこれから…………だもんね」
「ルリちゃん、可愛いから男の子、いっぱい寄ってくると思うなぁ。もし、気になる男の子が出来たら相談してねぇ」
「あっ。アタシにも、アタシにも」
「…………はあ」
ルリが自分には関係ありません、というような気の抜けた返事を返した。
きっと、自分が恋するなんて思ってないんだろうなあ。クフフフフ。ルリちゃん。『その時』がきても今の様な返事が出来るかな?
誰かに恋したルリの様子を想像してみて、メグミは含み笑みを浮かべる。
冷静沈着を地で行くルリちゃんが慌てふためく様を見るのは、きっと楽しいだろうなあ。
不謹慎な笑みを浮かべているメグミにルリが冷たい視線を浴びせた。
その視線から逃げるようにモニターを見詰めるメグミ。
額からは冷汗、一筋。
「ねえ、アキト。アキト〜〜〜。返事くらいしてよう。意地悪なんてヤダよう。ねえ、アキト。聞こえてるんでしょう。アキトってばっ!!」
モニターの中の女性はすでに涙声だった。
たが、閉ざされた扉が返すのは沈黙のみ。
「アキトくんも強情ねぇ」
「そんなに艦長と会うのが嫌なのかな?ルリちゃんはどう思う」
「聞こえてないと思います」
「「は?」」
二人はルリの返答の意味がわからず、間抜けな声を上げた。
「体技室はその性質上、防音、耐震の機能を持っています。だから――」
「艦長がいくら叫んでも、ドアを叩いても中には聞こえないってわけか」
後を続けたメグミの言葉にルリは頷いた。
言われてみればその通りである。だとすると……艦長の次の行動は。
「いいもんっ!!アキトが意地悪するなら、無理矢理開けちゃうもん。返事をしないアキトが悪いんだからね!!」
そして、頭上に高々と上げるマスターキー。
「あれって、卑怯ですよね」
「恋は障害があるほうが燃えるんだけどなぁ…………艦長の辞書に障害なんて言葉は無いみたいねぇ」
「そう簡単にはいかないと思いますよ」
ぼそっと呟くルリ。
訊き返そうとするミナトより先に、ユリカがスリットにカードを通した。
…………………………………………
…………………………
…………
……
何もおこらなかった。
「あれっ?」
自分のカードの表裏を見返してから、艦長はもう一度扉の錠にカードを通す。
やはり、扉は開かない。
「え〜〜〜〜〜〜〜っ!!どうして〜〜〜!?」
ユリカの悲痛な叫びが廊下に響きわたった。
「あららぁ?」
ミナトが首を傾げた。
艦長の持っているカードはマスターキーである。
理論上はナデシコ内なら何処でも開けられる…………はずであるのだが。
だが、その扉は開かない。それも、重要区域ではないただの体技室が。
モニターの中の艦長であるユリカが半べそをかきながら、何度もキーを差し通している。
メグミは、不思議そうにモニターを眺めた。
「ねえ、どういうことなの?ルリちゃん?」
「……さあ」
「でも、ルリさんなら下ろされた錠の情報を読むことが出来ましたよね?」
「はい。でも――」
そこまでで、唐突に言葉を切るルリ。
「…………」
「…………」
「…………」
三人娘がいっせいに振り返った。
「「「プロスさん!?」」」
「いや、ど〜〜も。皆さんが熱心にモニターを覗き込んでいるから何かと思いましてね。無作法だと思いましたが、好奇心には打ち勝てず。こう、つつっと」
プロスはちょび髭を引っ張りながら笑みを浮かべた。
「女の子の秘密を覗き見るなんて悪趣味よぉ」
ミナトが眉をちょっと顰め、笑いながら諌める。
人の恋路を覗き見るのも悪趣味のはずですが?まあ、それは言わないでおきましょう。
それよりも。
「テンカワさんのカード情報はどうなっています?」
ルリがプロスから視線を逸らす。
「…………不明です」
「不明……ですか?」
「はい」
ルリの機械のような平坦な口調。
「そうですか…………不明ですか」
プロスは目を細める。
オモイカネが認識している限り、ルリさんがその情報を読めないはずありません。そのルリさんが不明などと言うとは。
私たちに見られたくない情報なのか?オモイカネをハッキングされたか?強固なプロテクトがかけられているのか?
『テンカワ・アキト』さんが何処の組織の者か判りませんが、まさか体技室に入るだけでハッキングなどしないでしょう。プロテクトも電子上のものであればルリさんに破れないものはないですし。
と、すると。ルリさんお得意の『秘密』というやつですね。これは。
プロスは眼鏡を押し上げ、笑みを浮かべる。
「それは残念ですねぇ。テンカワさんの『秘密』が少しわかると思ったんですが」
その言葉にミナトが不思議そうな表情を浮かべた。
「前も思ったんだけどぉ。…………プロスさんってぇ、アキトくんのこと調べてから引き抜いたんじゃないのぉ?」
身辺調査をした上で雇うのは企業の常識ですからね。元社長秘書のミナトさんには不思議なのでしょう。
プロスはミナトの言葉に一つ頷いてから、口の横に手を立てて小声で話す。
「ええ、まあ、ここだけの話なんですが。
テンカワさんとセットでなければこのナデシコに乗らないと云う条件を出した人がおりまして。幸いナデシコは人手不足のほうでして、仕事は沢山ありますから、雑用など引き受けていただこうと思っていたのですが。
まさか『テンカワ』さんが超エース級の腕を持つエステバリスパイロットだとは、世の中幸運ってあるもんですねぇ」
「アキトくんと一緒じゃなきゃナデシコに乗らないっ?」
ミナトが素っ頓狂な声をあげ、メグミがポンッと手を打った。
「あっ、わかった。その条件を出した人って艦長でしょ」
プロスは両手を軽く広げる。
「さあ、それは…………。プライバシー保護と企業秘密というやつでして」
仮面のような無表情のルリが無言でプロスを見上げる。
その視線を受けながらプロスがメガネを押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。
*
宙に向けて放った拳が風を唸らせる。
次の瞬間には身体を反転させ、虚空を蹴りで斬る。
そのまま掌底を撃ち、震脚で床を揺らす。
アキトはエステバリスの出撃から帰って来てから、この体技室で『木連式極破流柔』の套路(型)を2時間、休みなく続けていた。
木連式柔は基本套路『開式』だけで20種、応用の套路『古式』で32種、それから各流派に分かれて数多くの套路がある。
流派が異なることによって、同じ木連式柔と思えないくらい体系が変わってしまうのだ。
アキトが月臣から盗技した『極破流』の技は87種。この技の数は木連式柔の他流派に比べるとかなり少ない。
『極破流』は技の数よりも『一撃必殺』を何より重んじる。
アキトは『あの1年間』で月臣との実際の手合わせの中から盗んだ妙技と套路をこうして一つ一つ繰り返していくのは始めてであった。
『あの1年間』ではそんな猶予はなかったし、身体も思うように動かなくなっていたからだ。
黙々と虚空に向けて、技を繰り出していたアキトはピタリと動きを止める。
何の変哲もない電子アラーム音がアキトの腕のコミュニケから時間を知らせていた。
…………そろそろか。
汗が額を伝い滴り落ちる。心臓が酸素を求めて激しく鳴り、肺は引きつるような痛みを起こしている。
五感を失ったあの頃には感じられなかった症状だった。
酸素の欠乏で苦しく、体中に疲れがある。
………………嬉しかった。
…………本当に、泣きたくなるほど嬉しかった。
あの人体実験を強行されてから、心地良い疲れなど感じたことはなかった。
もう、二度とそんなものは感じられないと絶望してた。
日常的に感じている五感。アキトは自分がこれほどまでに五感を渇望していたとは思ってもみなかった。
光、音、痛み、匂い、…………そして味覚。
そのどれもが至福の麻薬みたいなものだ。
一度感じ始めたら感覚に溺れそうになる。
荒い息を吐きながら呼吸を整えた。
この後、キノコの反乱か。
アキトは『前』のナデシコでの生活をだいたい、憶えている。
アキトの25年の人生で一番の宝だった。過去の自分が自分の意思で『歩んだ』3年間である。
どんな宝石よりも輝いていた『時』。
アキトは自嘲の笑いを浮かべる。
そう、大切な思い出だった………………『過去の俺』のな。
復讐に身を焦がした『俺』にはそんな『時』を持つ資格はない。
時間は戻っても『俺』は戻れない。
ナデシコの皆を絶対に不幸な目には合わせない。だが、俺は…………。
アキトは床から暗黒のマントを拾い上げると、心を覆い隠すように身に纏った。
アキトは懐から『ユーチャリス艦長キー』を出すと、スリットを通しドアからゆらりと離れる。
ドコッ!!
ドアが開くと同時に、半泣きになって扉を叩いていたユリカが勢い余ってトレーニングルームの床に激突した。
先程からドアの向こうにいる気配に気づいていたが、故意に無視していた。
そして…………それがユリカなのも確信していた。
「ひ〜〜ん。いたい〜〜〜」
ユリカが赤くなった鼻柱を押さえながら、甘えたような声を出す。
アキトは冷めた眼でただ眺めていた。それ以上の感情が持てない。
………………ユリカ。
あれほどまでにお前を求めた俺なのにな。だが、俺の求めたユリカは『あのユリカ』であって『このユリカ』ではない。
いくら、理性が同一人物だと判断を下しても、俺がどんなに同じだと思い込もうとしても、根底にある本能が『違う』と叫んでいる。
経験がないだけだ…………行動は同じだ、考え方も、容姿も、性格も…………全てが同じだ。
いくら、どんなに、何度も…………自分にどれだけ言い聞かせても…………。
出る結論は……『違う』。
そんなバカなと思っても…………『違う』という答えに納得している自分がいる。
確かに『ユリカ』は『ユリカ』だ。
だが、また同じ年月が経っても『このユリカ』は『あのユリカ』になる可能性はない。
何故なら、俺は絶対にユリカをあんな目にあわせない。
二度とあんな思いは、経験はさせない。
『天河明人』の名に誓って。
「…………キト……アキト……アキトったら」
アキトは呼びかけているユリカのほうに意識を向けた。
廊下に座り込んで無邪気に自分を見上げているユリカ。
何も感じない自分に、『嘆く俺』と『冷笑する俺』。心の中に二つの自分を感じる。
まあ、どうでもいいことだ。
「何か用か?ユリカ」
ユリカの顔が一瞬にして満面の笑みに変わった。
「嬉しい。アキトッ!!今でも、あたしのことをユリカって呼んでくれるんだねっ!!」
ユリカが立ち上がり、アキトと同じ目線になる。
「火星じゃ、いつもあたしのこと『ユリカ、ユリカ、ユリカッ』って追いかけて……」
アキトはうっすらと乾いた笑みを浮かべた。
そうだったな。『前』は……『火星』では俺は血反吐を吐きながらお前の『名』を呼んだな。
生きる希望、守れなかった約束、死ねない理由。懺悔と悔恨と沈痛と渇望を込めて何度も叫んだ名前。
『ユリカ』
何度も、繰り返し、とどかないと知りながら、ひたすら追い求めて、何度も何度も絶叫した囚われの王女の名。
『ユリカ』
「そうだったな。俺は天を仰いで、泣きながらおまえの名を呼んでいたな」
「うん。アキトは昔から泣き虫だったもんね」
「……………………泣き叫ぶことしかできなかったからな」
アキトはユリカに背を向け、廊下を歩き始める。
これ以上ユリカと顔をつき合わせていると、どうにかなりそうだった。
ユリカを抱きしめたいとか、押し倒したいとかじゃない。
この笑顔を守れなかった自分を許せなくて、情けなくて、……自分の喉をかっきり、胸を掻き毟り、心臓を抉り出したくなってくる。
廊下を歩きだしたアキトをユリカが追って来る。
「ねぇ、アキト。何を怒っているの。ねぇ、アキト。アキトってばっ!!ねぇ、アキト。アキトッ!!」
そろそろだな。さて、何所の反乱兵どもから抑えるかな。
重要拠点からいけばブリッジ、エンジンルーム、格納庫、食堂。
エンジンルームはマスターキーか整備班長キーがないと開かないから論外。
ブリッジはプロスとゴートがいるか。
なら、食堂と格納庫か。
アキトは迷わず食堂へと足を向けた。
もちろん、整備班の連中を見捨てるわけじゃない。だが、救出が遅れてもさほど問題はないだろう。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
後ろで小さな唸り声と金属音が重なる。
「この、この、この、この、この、この、この」
恨みの声とともに飛んでくる空缶をアキトは振り向きもせず、気配だけでそれらを全て避けた。
多数の空缶がアキトの目の前を虚しく転がってゆく。
「「「「おお〜〜〜〜〜〜っ!!」」」」
周りのギャラリーから上がる感嘆と驚きの歓声。
アキトは歩を止め、ユリカへ振り返った。
「何か、用か?」
「なんで、無視するの?アキトッ!!」
「何か、用件があるのか?無いのなら行くぞ」
歩き始めようとするアキトのマントの端をユリカは慌てて掴まえた。
「なんで、アキトは意地悪するの?あ…………そうか、好きな子には意地悪しちゃうあの心境なんだね。な〜〜〜んだ。大丈夫。ユリカ、それくらいじゃ怒らないから」
「何か用か?…………と俺は訊いているんだが?」
アキトの視線に気付くことも無く、ユリカは手を打つ。
「そうそう……………………。アキト。小父様と小母様がテロに巻き込まれて亡くなったって………………その、本当なの?」
ユリカの瞳が不安げに揺れる。
「少し、事実と違うな」
「じ、じゃあ、小父様と小母様は――」
何を期待したのか知らないがユリカの表情が少し明るくなった。
「テロに巻き込まれたわけじゃない。テロの対象そのものにだったんだ。親父とお袋は…………殺された」
「そ………………そんな………………………………」
蒼ざめたユリカが数歩よろめく。
「それだけか?なら、俺は行くぞ」
「な、なんでっ!!なんでなの?」
ユリカがアキトを大声で責めたてた。
「なにがだ?殺された理由か?俺は知らないが」
「それも……あるけど。アキトッ!!何で、そんなに平然としてるの!?小父様と小母様が殺されたのよ。なんで!?」
アキトは酷薄な笑みを浮かべる。自嘲とも見える薄い冷笑を。
「では……なんだ。世を儚んで出家でもしてなければ駄目か?それとも……復讐鬼となり、関係する人間を皆殺しにするべきか?」
「違う違う違う違う違う違う違う違う!!」
ユリカが猛烈に首を振る。
「アキト。ご両親が死んだのに何にも感じてないみたいに平然としてて……それで」
「もう昔のことだからな」
「でも――」
アキトはユリカの瞳を見据えた。
「死んでしまった人間は、何をしても帰ってくることは無い。そして、今の俺には守りたいものがある。死んでしまった者へ復讐よりも……生きている者を……大切な仲間たちを守りたい。その為に、俺は『ここ』にいる」
「………………………アキト」
頬染めたユリカがポーッとアキトを見詰める。
アキトはユリカの視線を遮るようにバイザーを被った。
反乱はそろそろであろう。これ以上ユリカにかまっている時間は無い。
アキトは踵を翻し、食堂へと急いだ。
「あ……アキト。ちょっと、ねぇ、待ってよ。ねぇ、アキト。アキト〜。アキト〜〜〜!!」
アキトは手を握りしめる。
征くぞ。他人の『宝』に群がるハイエナ軍人どもめ。
ナデシコに……俺たちに手を出せばどうなるか……奴等にしっかりと教育してやる。
アキトの口元には喜悦の笑みが浮かんでいた。
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