フライパンが高温に熱せられる。

 コツは米から完全に水気を飛ばすこと、そして、焦げ付かせないこと。

 これができなければ、中華では一人前の料理人だと認めてもらえない。

 中華の基本、もっともオーソドックスで、難しい調理法。

 それだけに、己の腕が問われる。


「ホウメイシェフ。できました!!味見、お願いします」


 朝、午前四時。仕込み前の厨房でホウメイは頷いた。

 『テンカワ・アキト』が皿に盛り付けた『チキンライス』を緊張した面持ちで差し出す。


「香り、色、盛り付け方。完璧のようだね」

 アキトが食堂の手伝い――――否、コックを始めたときから、朝の仕込み前、ホウメイにチキンライスの味見をしてもらうのが日課になっていた。


 最初のうちはズレていたアキトの味覚も、ここ数日のうちに、ほとんど元に戻っていた。

 さすがは元料理人といったところだろう。




 日に日に上達していくアキトに、ホウメイは心中で舌を巻いていた。

 正直、この腕なら自分の店を持っても、十分にやっていけるだろう。



 そして、もう一つ驚いたのは、アキトの料理がホウメイの味に似通っていることだ。


 初めのテストの時から似ていると感じていたが、ここ数日の料理など、他人が味見したら自分が作ったものと勘違いする程のレベルに達していた。


 それでいて、自分の個性もしっかり出ている。まだまだ至らない所はあるが十分、合格点を出せる料理だった。



 だが、ホウメイはあえて、その至らないところを指摘していた。それが、アキトの望みでもあったから。





 ルリちゃんに、今の自分にできる最高の料理を食べさせてやりたい。




 それが、朝、一人で料理の練習をしていたアキトに問いかけた時の答えだった。

 それを聞いたホウメイはこうして毎朝、アキトに付き合っている。


 一瞬、回想したホウメイはスプーンを握る。

「後は、味だね」


 チキンライスを口に運ぶところをアキトが真剣な顔で眺めていた。ホウメイのどんな小さな表情も見過ごさないかのように。



 ホウメイの口の中に醤油の香ばしい香りが広がった。
それでいて、しつこすぎない。米はパリパリしていて中は柔らかい。
醤油の味は最低限に抑え、鶏肉と米の香ばしさで勝負をしている。
鶏肉の柔らかな歯応えのと米のパリパリとした歯応えのハーモニー。
噛んでいるうちに、鶏肉の旨みが口の中で弾けた。
僅かな酸味がそれを押さえ、清涼感のあるパセリの苦味が鳥の脂っこさを打ち消す。


 一言でいうならば、それは美味しかった。


 それは本当に美味しかった。この料理ならば、毎日でも食べたいと思うだろう。




 そして、何よりこの料理が美味しく感じられるのは、誰かのために作っているというテンカワの『心』が篭っているからだ。




 テンカワのルリ坊に食べてもらいたいという、心からの『願い』が。




 ホウメイは眼を開き、真剣な表情のアキトを見上げた。

「五年、早い」


 その言葉にアキトが項垂れる。ホウメイは笑みを浮かべた。


「だが、文句無く美味い。合格だよ。テンカワ。この料理なら、どこの店に出したって恥ずかしくないさ」


 アキトが驚いたように顔を上げた。


「ただ、これに満足して精進するのを忘れるな。あんたの料理はまだまだ、発展途上だ。五年後にはもっと美味くなっているさ。だから…………五年早いだよ」




 アキトの顔に笑みが浮かんでくる。

「じゃあ、ホウメイシェフ?」


「ああ、ルリ坊に食べさせてやりな。この料理はあたしじゃなく、ルリ坊に食べてもらいたがっているからね」




「はい」

 アキトが力強く頷いた。








機動戦艦ナデシコ
    フェアリーダンス

第一章『ジェノサイド・フェアリー』

第五話『ルリちゃん『航海日誌』………ほーーんと。バカばっか』












「にゃぁ〜〜〜。暇だよ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」





「ユリカ艦長。それ、47回目だよ」

 メインモニター内のお人形のような三頭身ルリ、『コルリ』が本から顔を上げずに、丸っこい指で宙に浮かんでいる46の数字に触って47にする。


「だって〜〜〜。暇なんだもん」

「48回目」


 今、ブリッジには艦長席で項垂れているユリカ。通信席でファッション誌を眺めているメグミ。モニター内で眼鏡をかけて、茶色い馬鹿でかい本を読んでいるコルリしか居ない。


 ユリカは顔を上げた。

「コルリちゃん。何、読んでるの?」


 コルリが本から顔を上げ、ユリカに視線を移す。

「ルリネェが作った『グラビティブラスト虎の巻』。それに、『サルでもできるフラメンコ入門』。あとは、戦闘戦術論に、『前』のナデシコの戦闘記録とそのレポート」


「へえ〜〜〜。凄いんだコルリちゃんて」


「もっと、凄いのはルリネェ。『前』のナデシコで、ルリネェと『波月』参謀長が指揮した戦闘記録なんて、読んでるだけで鳥肌が立ってくる」



 鳥肌を表現しようと、どこからか取り出した3D鶏冠を被るコルリに、ユリカは首を傾げた。

「あれっ?ルリちゃんて、戦闘指揮なんかしたっけ?」


「えっ?…………あっ!!…………え〜〜〜と、その、シュミレーション!!ルリネェがやった戦術シュミレーション。もう凄いんだから!!


 力を込めて『シュミ』レーションを強調する鶏冠頭のコルリに、ユリカは簡単に納得した。

「ふ〜〜〜〜〜ん。そうなんだ。…………暇だし、ルリちゃんと戦術シミュレーションでもやろっかな〜〜〜〜〜?」






「でも、ルリちゃんに負けたら、艦長、立つ瀬がないですね」


 ポソッと洩らしたメグミの呟きに、ユリカは心臓を押さえて仰け反った。






「そういえば、ルリネェ言ってたよ〜〜〜。シミュレーションなら、十回に一回はユリカ艦長に勝てるって」

「11歳の女の子に負けちゃうんだ。…………艦長って」



「ま、負けないもん!!ユリカ、絶対に負けないもん!!」


 コルリとメグミの疑惑の眼差しが、ユリカに突き刺さる。



「ほ……本当だもん!!あたし。連合大学の戦術シミュレーション、全部勝ったもん!!ね、ジュン君!!」



 涙眼で振り返った副長席には、――――誰もいない。





 ユリカは涙で潤んだ眼を瞬かせた。

「あれっ?ジュン君は?」


「ジュン副艦長、今日は〜〜〜、夜勤だ〜〜よ」

「あ、あれ…………そうだったっけ?」



 二人に、じと眼で眺められて、ユリカは急いで話題を変える。

「そ、そうそう。戦術シミュレーションだったね。さあ、ルリちゃん!!勝負よ!!」

「いないよ」



「へっ!?」



 オペレーター席には『代理』の名札を付けたソフビニのリクガンガー人形。



「ルリちゃんは?」


「暇だから、身体を動かしてくるってさ〜〜」

 コルリが再び本に視線を戻した。


「そ……それって、いけないと思います」

「でも、ミナトさんなんか、お寝坊さんですよね」

「緊急時にはイの一番にルリネェに連絡するし、何かあった時のためにアタシもいるからね。ショウブ、ジョウブ、ダイジョ〜〜ビ!!


「うぅ。それはそうだけど…………」




「それより、ユリカ艦長も運動した方がいいんじゃないの?…………出航時の身体検査記録と合わせると、体じゅ――」



「うわわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」

 絶叫を上げてユリカはコルリの言葉を遮った。





*






 何も存在しない絶対真空。果てしなく広がる深く暗く冷たい宇宙空間。


 眼に映るのは遥か遠方に瞬く星々。

 上と下の定義さえない、からっぽの空間。




 その何も無いはずの空間に異物が現れた。

 レーダーに表示されたのは五機。肉眼では見えない。



 IFS操縦コンソールから命令を出し、ラピッドライフルを構え、スラスターを噴かせて異物が出現した方向にエステバリスを向けた。

 と、何かが高速で向かってくる。

 瞬間、重力推進バーニアを全力で噴かせ、その飛翔物体から逃げ出した。


 機体の真下を通過していったミサイルが真空中で方向転換をし、こちらを追尾してくる。


 それにかまわず、前方の黄色の物体に方向を定め、全速力で突進。




 ミサイルが追ってきているのを確かめ、ニヤリと笑みを浮かべた。




 前方にある黄色の『バッタ』の背が開き、マイクロミサイルポッドが覗く。

 瞬間、歯を食いしばりながら、エステバリスを捻り、バッタの真横を高速で通過した。


 追尾してきたミサイルがバッタを粉々に粉砕し、閃光を放った。



 閃光を眼にしながら、姿勢制御スラスターを最大出力で噴かせる。


 急停止・急旋回!!




 横Gに振られながら、二匹目のバッタにライフルの照準を合わせ、

 もらったっ!!

 ライフルを連射。


 バッタを宇宙の爆炎と散らせる。



 と、勝利を噛み締める間もなく突然、アサルトピットがアラームランプで赤く染まった。

 警告内容は『ミサイルロックオン』



 彼が次の行動を考える時間も無く、真後ろから連続して衝撃が襲いかかった。



 その衝撃で前方に座席から放り出されそうになり、身体にシートベルトが食い込む。







 歯の隙間から唸り声を洩らした彼は、モニターを見上げた。そこには、

 『GAME OVER』

 無情の文字。




 文字の背景には爆発し、四散するエステバリスの映像。






「はあぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 『アオイ・ジュン』は大きな溜息とともに、訓練用シミュレーター機のシートに沈み込んだ。



 たった五匹のバッタすら破壊できない腕で戦場に行くなど、自殺行為以外なにものでもない。




 ジュンは右手の甲にあるIFSタトゥーを見つめた。


 ユリカのために、正義のために付けたこのIFSタトゥーも自分には過ぎた物だったらしい。

 無用の長物ともいう。



 先の戦いではオペレーターの代わりにグラビティブラストを撃てず、そしてエステバリス戦闘ではシミュレーターでさえこのざまだ。



「乗馬は得意なんだけどなぁ」

 ジュンはエステバリスの操縦とは、まったく見当違いの内容で愚痴をもらした。


 彼にだってわかっている。だが、愚痴らなければやってられない。


 ナデシコに戻ったにもかかわらず、ユリカは自分など眼中に無い。

 そして、自分がグラビティブラストを撃てなかったばかりに、何十人という人間を死なせてしまった。



 サツキミドリを漆黒の閃光が突き抜けた瞬間。あの時の光景は、決して忘れることができない。

 今でも夜、大量の冷汗をかいて、飛び起きることがあった。


 アキトやルリ、そしてプロスは自分のせいではないと言ってくれるが、それで自分の心が納得するのは別問題だ。




 兎に角、何かやらなければ気が済まなかった。

 このまま、だらだらと時間が過ぎていき、日常に埋もれてしまうのは絶対に嫌だった。



 自分は副艦長だ。

 エステの操縦が上手くなったって、何の意味もない。




 そう、意味なんて無い。




 弱い自分が、手っ取り早く強くなれる方法。変われるかもしれない方法。

 その方法に、エステバリスの操縦を思いついただけだ。




 戦略では『ミスマル・ユリカ』に、絶対に勝てない。


 それは、士官学校で嫌というほど、思い知らされた

 オペレーターには、全く向いていない。逆に足を引っ張ってしまうだろう。

 サツキミドリの件が証明している。

 格闘は…………士官学校に武術訓練が含まれており、4年間やったが芽は出なかった。




 …………エステバリスならば。



 もちろん、世の中、そんな甘くはない。


 それでも、『可能性』だけはある。たとえ100分の1でも。

 ただの自己満足かもしれない…………いや、ただの自己満足だ。


 だが……それでも…………。



 僕は強くなりたい。


 目の前にいる人間を救えるぐらいには。


 もう、あんな思いをするのは…………二度とごめんだ!!

 だから、――――強くなるために、変わるために。




 『信じれば救われる。努力すれば報われる』


 その古来からの格言だけを頼りに、寝る時間も惜しんで、このバーチャル戦闘シミュレーター訓練機に篭っていた。が、まったく腕が上がったように見えない。

 もちろん、ニ、三日ばかりで劇的に腕が上がるはずも無い。



 …………しかし。



 心が焦る。時間ばかりが無用に過ぎていく。

 心ばかりが苛立って、身体が追いつかない。

 …………そして、自分が無能のように思えてくる。



 自分はここに、いてもいなくても変わらないんじゃないか。この艦に自分は必要ないんじゃないか。

 そんな思いが心の中を、どす黒く渦巻く。



 昔から、なんでもそつなくこなしてきたジュンだ。多分、このエステバリスの操縦もある程度まではいくだろう。一般兵の『並みの腕』程度までなら。





 だが、それでは駄目だ。




 このナデシコはエキスパートの集まりだ。『並み』では、役に立たない。一流の腕を持っていないと、逆に足手まといとなる。

 それは、先の一件で嫌というほど身に沁みた。




 ………………だが。


 奥歯を噛み締めたジュンは頭を振る。エンドレスに陥ろうとする思考を無理矢理、中断させた。


 悩んでいても腕は上がらない。



 自分のIFSタトゥーから眼を離したジュンはIFS操縦コンソールに手を置き――――その時、初めて気づいた。



 『対戦 Y/N』

 モニターに対戦の申し込みが入っている。名前は無い。




「誰だろう?」

 と、言ってもナデシコにエステバリスパイロットは五人しかいない。


 そして、その誰もが一流の腕前を持っていた。

 だとしたら、プロの技というものを見ておいても損は無いだろう。



 一人、頷いたジュンは頭の中で『YES』という文字を作る。



 画面が切り替わり、真っ暗な宇宙空間に放り込まれた。

 このフィールド設定は相手の指定のようだ。


 200メートル前方にエステバリスが一機浮いていた。対戦相手である。



 そのエステバリスを見てジュンは眼を細めた。

 普通の0Gフレーム型エステバリスである。装備はこちらと同じ、ラピッドライフル1丁にイミディエットナイフ1本。

 見慣れたエステバリスだ。



 ただ、カラーリングが白のエステバリスだった。闇黒の宇宙空間に浮かび上がるように目立っている。

 白色のカラーを使うパイロットは思い当たらない。



 ふっと小さく苦笑して、ジュンは頭を掻いた。

 エステバリスのカラーリングは任意で決められる。その日の気分で色を変えることもできるのだ。


 ジュンもエステバリスのカラーリングを深緑と蒼にしていた。深く考えるような問題ではない。




 画面に『READY』の文字が刻まれる。



 ジュンは大きく深呼吸してから、相手を見据えた。

 ライフルを構えているこちらとは違って、自然体で宙に浮いている。



 ジュンは唇を舌で嘗めた。



 素人がプロに勝てるとしたら奇襲と先手必勝の二つだけ。




 『GO』




 ドンッ!!



「へっ!?」

 開始、一秒足らず、ジュンの機体はコクピットを撃ち抜かれて仮想宇宙空間を漂っていた。




 プロの技を見る所ではない。何が起こったか、さっぱり判からなかった。



 慌てて『REPLAY』画面で確認する。

 開始の瞬間、スッと機体を横にずらした相手は跳ね上げるようにライフルを片手で突き出し、こちらが照準を合わせる前に発砲。

 その弾丸は正確にジュンのアサルトピットを貫いていた。



 試合時間0.89秒。まさに瞬殺。



 画面を茫然と眺めているジュンの前に文字が現れる。

 『再戦 Y/N』



 望むところだ。このままでは終われない。

 相手が言ってこなければ、こちらから再戦を申し込んでいただろう。


 ジュンは『YES』と送った。





 ドンッ!!ドンッ!!ドンッ!!


 ……………………。



 二回目は一回目より、僅かに長く保った。




 開始と同時に、真横に逃げたジュンの機体を回り込むように移動した相手から、背中に銃撃を浴びせられ、死亡。


 試合時間3.7秒。




 眼を瞬かせているジュンの前に、再び文字が現れる。

 『再戦 Y/N』



 いい機会だ。せめて、弾丸一発でもぶち当てる。

 こうなったら、とことん、やってやるさ。


 ジュンは口の端で笑みを作った。












 ……………………1時間後。







 とことん、やられた。

 兎に角、やられた。

 これ以上ないくらい、完膚なきまでに叩きのめされた。





 『再戦 Y/N』

 相手に『NO』と送り、ジュンはシミュレーター訓練機から這い出した。



 この一時間で400回程度…………正確には、421回殺された。約八秒に一回の計算である。


 仮想とはいえ、殺されるのは気分のいいものではない。



 しかも、このシミュレーターマシンはウリバタケの改造で衝撃が現実の物と同じように加わるし、Gキャンセラーを改造した装置も取り付けてあり実際に加速Gがかかる優れものだ。

 それが、ジュンの体力を根こそぎ奪っていた。



 口を大きく開き、犬のように荒い息を吐き出しながら、シミュレーター機の筐体に、もたれかかる。




 プロ相手に素人が、歯が立たないことはわかっていたが、ここまで差があるとは思わなかった。


 だが、この対戦がまったく無益というわけでも無かった。

 無重力空間で銃を撃つのは容易ではない。発砲と同時に、反動で機体が回転してしまうからだ。

 撃つと同時に重力スラスターで機体を制御しなければならない。



 だが、構えて、狙って、撃って、制御する、なんて悠長なことをやっているうちに四回は殺された。



 対戦相手の方は構えと狙いと撃つ動作が一つだった。狙った瞬間には、もう発砲している。いや、狙っているのかどうかさえもわからない。

 銃を腕の一部のように扱う。まさに、そんな感じだった。


 そして、撃った後の反動すら利用して機体を制御していた。


 こちらがスラスターを噴かして踏ん張っているところを、相手は反動に逆らわず、力を逃がすようにスラスターで制御し、思う通り方向転換していた。



 素人の眼から見て、神業のような腕前を見れただけでも、十分に収穫はあった。




 初めのうちは『今に、見てろ』…………という気持ちがあったのだが、途中から『もう勘弁してくれよう』…………という気持ちになり、そして最後には何も考えられず、ただ頭の中を真っ白にして戦っていた。




 惨敗も惨敗。大負けしていたが、気分は澄み切ったように晴れていた。


 どす黒い感情も、焦りも、プライドも、悩みも全部、相手の弾丸に撃ちぬかれて粉々になってしまった感じである。



 ズルズルと床に座り込み、シミュレーターの筐体に背をつけたまま、大きく息を吐いて天井を仰いだ。


 白色灯の白い光が眼に痛い。




 圧搾空気の抜ける音がして、対戦相手のシミュレーター機から扉の開くモーター音が聞こえる。


 ジュンからは背になっていて、誰が降りてきたか見えない。

 だが、誰であれ、礼を言おうと思っていた。変な顔をされるかもしれないが。




 降りてきた人物はこちらに向かわず、――――自動販売機から缶の転がり落ちる音がする。


 それを聞いたジュンは、自分も猛烈に喉が渇いていることに気づいた。

 だが、疲れきっていて、立ち上がりたくとも立ち上がれない。


 情けないけど、その人に頼もう。カード、持ってたっけな?




 カードを探そうと持ち上げた右手の中に、ポスッと冷たい紅茶の缶が収まる。




 小さく苦笑したジュンは、お礼を述べようと顔を上げ――――


 凍りついた。



 そこには、白の肌、銀の髪、金の瞳を持つ『少女』




 いつもと変わらぬ無表情でイチゴミルクの紙パックにストローを突き刺し、一口啜る。

「そのジュースは、おごりです」


 静謐な金の瞳がジュンを見下ろしていた。




 ジュンは吐息を漏らすように、名を呼ぶ。

「ル…………ルリくん…………」


「なんですか?」

 その淡々とした声に、不意にジュンの心の奥底で感情が沸き起こった。



 小さな小さなその感情の水滴は、心の中に波紋として大きく広がっていく。


 ジュンは片手で顔を覆い、感情を押し込めるように俯いた。

 だが、無理だった。



 押さえ切れないそれは口から漏れる。

「は……ははは…………ハ……ハハハハハハハハハ


 ジュンは低く笑い出した。



「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 シミュレーターの筐体に背をつけ床に座り込んだまま、ジュンは声を上げて笑った。


 何に対して(わら)っているのかよくわからない。

 自分の情けなさに対してだろうか?それとも、世界の不平等に対してだろうか?



 いや、理由なんて無い。嘲笑(わら)うことしかできないから、(わら)っているだけだ。



 ジュンは顔を歪め、笑いに笑った。



 三分ほど、独り、笑い続けたジュンは、

ハハハハハハ…………ハハ……ハア……ハア……ハア………………ハァ

 肩で息をしながら、『天上』を見上げる。


 冷たい人工の天井のその向こう側にある、星々が煌めく、無限に広がる真空領域を。




 自分の…………なんと小さいことか。

 広大な宇宙の前に身体も、心も、悩みも、そして自分の存在も、…………なんとちっぽけなことか。




「ルリくん」


「なんですか?」

 ジュンの狂態を見ていたのに、いつもと同じ、感情を見せない平淡な声音で尋ねてきた。




 ジュンは遥か遠くを眺める。

「…………………………強いんだね」

「そんなことありません」

「強いと思うよ」

「そんなことありません」

「僕から見れば、遥かに………………強いよ」





 静黙がジュンとルリを包む。




 ジュンは紅茶の缶のプルタブを開けて、一気に飲み干した。

 そして、空のスチール缶を握り潰す。



「ルリくんは…………誰にエステバリスの操縦法を教わったんだい?」


「『戦友』に」


「………………戦友?」

「それから、軍のエステバリス教習も受けました」

「そんな、記録は無かったけど………………」

 ジュンはルリを見上げた。



 そこには、誰にも頼らず、誰にも弱音を見せない、孤高の金の双眸。



「………………先の戦闘技能を見たら嘘だとは言えないね」

 大きく息を吐いたジュンは、意を決する。

「ルリくん…………情けないのは百も承知なんだけど――」

「……………………」


「僕にエステバリスの操縦法を教えてくれないか?」



 ルリがバーチャル戦闘シミュレーター機を横目で眺める。

「シミュレーターには軍の移動・戦闘の教習訓練が入っているはずですが――」

「それは二日前にクリアーしたよ」


 ルリが無言で目線を落とす。


「『並み』じゃ、ダメなんだ。もう、皆の足を引っ張りたくない。サツキミドリでの思いは二度としたくない。…………こんなこと、ルリくんに頼むのは筋違いだとわかってる。でも――」


 ジュンは歯を食いしばり、左手を握り締めた。




 床に蹲るように座っているジュンを、しばらく眺めてたルリがぼそっと呟く。

「SNOW WHITE」



「え?」

 顔を上げたジュンに、ルリが静かに語る。

「シングルモードの時に訓練ミッション名を選択肢で選ぶのではなく、スノー・ホワイト『S・N・O・W・スペース・W・H・I・T・E』と打ち込んでください。隠しミッションが始まります」

「隠し…………ミッション?」

「はい。私しか知らない特別コースです」

「…………でも、そんなんで」

「そのコースは私でもクリアーできていません。最終ボスの三つ手前、『赤きエステバリス・カスタム』までは行ったことあるのですが」

「それをクリアーできれば、一流になれるのかい?」





「あるいは…………一流以上に」





 握り締めていた左手を開き、ジュンは掌に目線を落とす。


 決意するように再びギュッと左拳を握り締めたジュンは、筐体に手をつき、震える膝を叱咤しながら立ち上がった。



 座っているときは見上げるほど大きかった少女も立ち上がると小さく見える。

 だが、自分では太刀打ちできないほど、底の深い少女。

 自分が追いつけるのは、いつになるだろうか?



 ふらつきながら、筐体に向かうジュンをルリが後ろから呼び止める。

「アオイさん」

「なんだい?」


「この特別コースのことは、他の人には絶対内密に」

「わかった」

 その返事を聞いたルリが踵を返し、出口へと向かった。



 シートに座ろうとしたジュンは、ふと言い忘れていたことを思い出す。

「あっ、そうだ。ルリくん」




 ルリの人形のような無表情の顔が振り返った。ジュンは小さく笑いかける。






「…………ありがとう」






「その言葉は、私に勝ってから聞きます」

 その一言を残して、ルリが訓練室から退出した。




 苦笑し、小さく首を振りながら、ジュンはシートに座りシートベルトを締める。



 強くなるための手がかりは掴んだ。

 諦めるか、昇りきるか……あとは、自分しだいだ。

 そして、自分は何としてでも昇りきるつもりだった。這いずってでも。


 言われた通り、ジュンはミッション名に『SNOW WHITE』と打ち込む。




 死んでも僕はやり遂げる!!絶対にだ!!






 三秒後………………ジュンは仮想宇宙の藻屑と散った。






*







 『テンカワ・アキト』は後悔していた。





 食堂のカウンターの裏に丸椅子を置いてジャガイモの皮を剥きながら、アキトは深い溜息をつく。

 今、アキトは何よりも深く後悔していた。




「だから、俺と一緒にゲキ・ガンガーを語り合おうぜ!!」

 真上から降ってくる大声に返答せず、アキトは剥き終わったジャガイモを籠に入れ、新しいジャガイモを手に取る。




「アキト!!お前はあれだけ、ゲキガンガーを知ってるんだ。当然、その良さも知ってるってことだよな。だったら『熱き魂ゲキガンガー同志会』を発足させようぜっ!!」

「断る」

 刹那で、『山田・二郎』の勧誘を撥ね退けるアキト。




 ジャガイモの皮を剥きながら、失敗だったと考える。




 サツキミドリで、山田のゲキガンガーの話題につい、話を合わせてしまったため、今こうして付き纏われていた。


 後悔先に立たず。後の祭り。

 いや。ガイの話に乗ったらそれこそ、祭りのような馬鹿騒ぎに巻き込まれてしまう。

 それだけは避けたい。



「なあ、アキト。そんなコックの真似事なんかしてないで、1話から36話までリレーで見ようぜ!!」

「真似事じゃなくて、正真正銘のコックだ」



 その返事にカウンターから身を乗り出している山田が訝しげに眉を顰める。

「なんで、エースパイロットがコックなんだよ。その仕事は単なる罰だろ?」

「懲罰期間は終わってる。俺が、ここにいるのは『パイロット兼コック』として登録したからだ」


「な、なんでだ!?」


「いいだろう。別に」

 アキトの素っ気ない返事に、山田が怒声を上げた。

「バカヤロウ!!パイロットとして平時、やることがあるだろうが!!」



「ゲキガンガーを見ることか?」



「おお!!そうよっ!!」

「断る」

 アキトの0.5秒の拒否に、山田は押し黙った。




 エースパイロットが平時はコック。それは、間違ってる。

 山田の理論では、絶対に間違っている。

 だが、アキトは強い。エステバリスのバーチャル戦闘では手も足も出ず、格闘でも一瞬で叩きのめされた。

 自分よりも弱ければ、鍛えてやるとでも言って無理矢理、引っ張ってこれるのだが――。



「そ、そうだ。…………仕事ばかりしてちゃ、息が詰まるだろ。やっぱここは――


「悪いな。料理は好きなんでね。息が詰まることは無い」

 先手を打って山田の勧誘を封じてから、アキトは嘆息して包丁を動かした。




 ガイと喋っているのは、一応、楽しい部類に入るが………………疲れる。



 アキトは救いを求めるかのように厨房を見回した。

 ホウメイが苦笑を返してくる。サユリたち『ホウメイガールズ』は、山田が怖いのか近寄ってもこない。



 皮を剥き終えたジャガイモを籠に放り込んで、また新しいジャガイモを手に取った。

「だいたい、仕事中の俺じゃなくても他にいるだろうが。ヒカルちゃんとか――」


「あ、ヒカルか?ダメダメ。何でもお前の、あの黒マント姿を見て、「インスピレーション沸いた」とか言って部屋にお篭りしちまった」



「……………………漫画の原稿か」

 『前』に半年間、ナデシコ長屋でご近所さんだった仲である。その性格と行動は、手に取るようにわかった。



「ウリバタケさんは?」

「なにやら、めちゃくちゃ忙しいらしいぜ。俺が話しかけただけでも、「五月蝿せぇ」って怒鳴られちまった」

「そうか。エステバリスをあれだけ壊したからな。エステの改造と相まって、忙しいだろうな」

「エステの改造って、あのアキトのエステバリスをカスタムするってやつか?」

「よく知ってるな。重力波ユニットをもう一つ増やしてもらう予定でね」


「違うぞ」



 アキトは包丁を止め、上を見上げた。

「何が違うんだ?」

「ウリバタケが忙しいのは、お前のエステじゃねぇよ。なんか、別のことらしい」


「別?」

「詳しくは聞いてねぇんだが、なんでも『歴史に残る大発明』とか言って、眼を血走らせてたぞ」




「大発明ねぇ。…………ナデシコが変形合体しなきゃいいけど」

 大して心配していない口調で言ったアキトは指で包丁を回した。


 山田も頷き、考え込む。

「この戦艦レベルでロボットに変形か…………。マク○スの1200メートル級にゃ、ちょいと及ばねぇが、グラビティブラストとディストーションフィールドがあるからな。 …………旋回性能さえどうにかすりゃあ、まあまあのクラスのロボットになるぜ」



「だから…………しちゃダメなんだってば」

 苦笑を洩らしたアキトは再び皮剥き作業に戻った。


「他の整備班の者は?」

「ああ。そいつらがお前のエステの改造で走り回ってたな。後は、ウリバタケが考案した新兵器開発で休日返上で働いてるぜ」

「だから、整備班の人間は皆、疲れた顔してたのか」

「ま、好きでやってんだから、良いんじゃねぇの?」


「違いない」



 そういうアキトも好きで厨房の仕事をしているのだ。他人のことを言えない。

 と………………なると。


「リョーコちゃんとイズミちゃんは?」


 山田が顔を顰めた。

「あの二人、どうも苦手なんだよな」


 まあ…………そうだろうな。と、アキトは心中で相づちをうつ。

 リョーコちゃんはアニメの熱血に馴染める人間ではないし、イズミちゃんは……………論外。



 ジャガイモを籠に投げ入れたアキトは自分の膝を叩いた。


「そうだ!!ジュンのヤツがいた。あいつをゲキガンガーに巻き込め」

 『すまん』と心の中でジュンに詫びつつも、アキトは無情に推薦する。



「ジュン?………………ああ。あの影の薄い副艦長か…………。そういや、ここ四、五日見かけてないな」

「見てない?」

「そうだ。あいつは夜勤のせいなのもあるけどな」



 そういえばジュンはサツキミドリの戦闘時に、グラビティブラストが撃てなくて随分落ち込んでいたな。


 アキトはジャガイモの皮を剥きながら、考え込もうとして――――軽く首を振った。



 『前』もそうだが、あいつは自分の力で、自分のできる範囲の事で、全て自力で解決してきた。子供じゃないんだし、今さらアキトが、気にかける必要は無い。





 あと、思いつくクルーはメグミ、ミナト、ルリのブリッジ三人娘。

 メグミちゃんとミナトさんは取り合わないだろうし、ルリちゃんに至っては――――。


 ピタリとアキトの手が止まる。


 『前』の『ルリ』なら兎も角、こちらの『瑠璃』は、なぜかゲキガンガー人形を持っていた。

 山田に会わせるのは何やら、拙い気がする。…………そう、途轍もなく拙い気が。




 あと、残っているのはゴート、プロス、フクベ提督。それに、ユリカ。


 アキトは盛大に溜息を吐いた。

 結局、ガイにかまってやれるのは、自分しかいないようだ。



「で、何の話だっけ?」

「おお、そうだ。だから、ゲキガンガーをだな――」




 その日、丸一日、アキトは仕事をしながら、山田の話を聞く羽目になった。





*





「いつも、すいません」

 『慈優』と大きく刺繍の入った藍染めの手提げ袋を持ったルリが頭を下げた。




「なに、いいってことさ」


 『ホウメイ』は目の前で頭を下げる少女に笑いかけた。

「どうせ、捨てることになっちまうんだしね。だったら、食べてもらった方が食材も喜ぶってもんさ」


「はあ」



 夜、11時。ルリは二日に一回程度の割合で、閉店した食堂に顔を見せる。



「ただ、その秋刀魚は傷みが早いからね。今日、明日中に喰っちまいなよ」

「はい」

「ジャガイモ、もう一つか二つ、持ってくかい?」

「まだ、前のが残ってますから、大丈夫です」



 ホウメイは厨房で余った食材を快くルリに譲っていた。本当はいけないのだが、そんなことに煩い戦艦ではない。

 ルリに聞いたところ、ナデシコに乗り込んでから朝食と夕食は自炊しているとのことだった。




「でも、ルリ坊。購買に行けば普通の食材も売ってるだろうに。なんで、わざわざここに来るんだい?」

「私の『親友』が『もったいない』という理由で、いつも食堂から余った食材を貰ってきていましたので、………………私もなんだか、その癖が」



 ホウメイは声を上げて闊達に笑った。

「はははは。随分、経済的な友人じゃないか。料理もその子に教わったのかい?」


「はい。『婦女子たるもの、料理ぐらいできなくてどうする』と言われて、二年間みっちりと叩き込まれました」




 淡々と話すルリにホウメイは内心、驚いていた。

 ルリが、自分の過去を他人に話すのは非常に珍しい。


 だが、それよりも、常に人形のような無感情に見える少女が『親友』と言った時、その平淡な声音の中に、懐かしむような深い優しさが篭っていたから。



 そうかいと、頷いたホウメイはルリに微笑みかけた。

「いまどき、古風な娘だねぇ。でも、ルリ坊が『親友』というぐらいだから、しっかりした娘なんだろ?」

「はい。…………私なんかでは、太刀打ちできないくらい」

「そういう友達は宝だよ。人生の何よりもね。縁、切らすんじゃないよ」




「………………そう……………………ですね…………」

 囁くようにルリが言いよどんだ。




 藍染めの手提げ袋を両手で持ったルリの銀髪が軽く揺れる。

 僅かに銀柳眉が下がり、微かに眼を伏せた。

 その金の双眸は遠くを、――――決して取り戻すことのできない遥か遠くに馳せる。

 厨房は明るいのに、少女の周りだけ暗静が包み捲いた。

 銀髪の間から見える細い首のうなじが、白磁のように映える。


 表情にも声にも出さない。だからこそ――――。




 そんなルリの仕草に、ホウメイは追求せず、話題を変える。

「そういや、テンカワに会ったかい?」


 ルリが金の瞳をホウメイに向けた。

「………………いいえ。今日は一日中、山田さんに付き纏われてたようですが」


 テンカワも、なんとも間の悪い男だねぇ。と、ホウメイは胸中で嘆息する。

「なんか話があるって言ってたよ。今度、昼時にでも食堂に来てみな」


「…………はあ」


 気の抜けた返事を返すルリの手提げ袋を持った手首の白い物に、ホウメイは眼を留めた。

「おやっ?ルリ坊。その左手首のテーピングは?」



 ホウメイの視線から、ルリがすっと手首を隠す。

「…………ちょっと…………痛めまして」



 心配したホウメイはルリの金の眼を覗きこむように、屈みこんだ。

「大丈夫かい?」

「はい。腫れは引きましたから」


「あんまり、無理するんじゃないよ」


「…………はい」


 静かに頷いたルリを見、上体を起こしたホウメイはコミュニケに眼をやり、頓狂な声を上げる。

「おや!?もう、こんな時間か?」

「そうですね。私はこれで失礼します」



「ああ。おやすみ。ルリ坊」


「おやすみなさい。ホウメイさん」






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