孫 第7話
「会長、終わりましたか?」
エリナ・キンジョウ・ウォンの言葉にアカツキ・ナガレは顔を上げた。
「見ての通りさ」
そう答えるアカツキの左右には、書類が山積みされている。
アカツキは小一時間程右の山から書類を取り内容を眺めては、認印が幾つか押された残りの空欄に会長印を押して、左の山の上に置き続けている。
順調に左側の山が高くなっているのに右側の山が低くなる気配はない。
秘書であるエリナがこれまた順調に右側の山を高くしているからである。
そして、それを分かっている上で、エリナは冷淡に言う。
「終わらなければ残業です。幸い会長職には残業手当はありませんし、労組にも入ってないので社会・経済的にも問題ありませんから」
「いや、今夜は女の子と会う約束があってね〜」
「私が断っておきましたから、ご安心を」
アカツキの些細な抵抗は、斬り捨てられた。
しかし、その斬り捨て方にアカツキは目を剥いた。
「断ったって、どうしてエリナ君が僕のお相手を知っているのさ?」
「秘書ですから」
さも当然というかのようにしれっと答えるエリナ。
しかし、それでぐうの音が出なくなる程、アカツキ・ナガレという人間は甘くはない。
それがより被害を拡大させるのだと分かっていても言ってしまうのだから。
「エリナ君、もしかしてやきもちかい?」
無駄に白い歯を煌かせた代償は、右側の山が山脈になる事で報われた。
「──あは、あはははは……こ、これを今日中に終わらせるのかい?」
乾いた笑いで椅子ごとずり下がりながらアカツキは訊いた。
「流石に今日中というのは無理かしら」
エリナが軽く眉をしかめて呟くのを聞いて、アカツキはホッと胸を撫で下ろしていた。
それもエリナがにこやかに笑って、言葉を続けるまでだったが。
「でも、今夜は何の予定もなさそうだから、明日の朝までに終わらしてくれればいいわ」
アカツキは机に突っ伏した。
「冗談はこれ位にするけど、アカツキ君、ナデシコのおかげでネルガルは順調に利益を伸ばしているわ。今までにない位よ。だから、会長が仕事をしてくれないとこっちが困るの」
「ナデシコのおかげね〜」
お茶の用意をしながら言うエリナの言葉を聞いたアカツキは、皮肉気に呟いた。
確かにネルガル重工を筆頭にネルガルグループの株式は高騰している。
木星蜥蜴との戦いは、戦争景気として軍需産業全般を後押ししていたが、ナデシコの登場によって、ネルガル一人勝ちの様相を見せ始めたのである。
ネルガルグループ会長としては、諸手を上げて喜ぶべき事態の筈だ。
「ナデシコね〜」
しかし、アカツキは疲れたように繰り返すだけで、エリナもそのことに何も言わないのだった。
「ナデシコが地球を脱出するのには、いくつかの障害がある」
フクベ・ジンはビシッとした提督服の姿で語り出した。
「ナデシコが宇宙に近づけば、何の問題もない。しかし、十分な高度を得られるまでは、確かな脅威として存在するのだ」
フクベはそこで辺りを見渡し、緊張感の欠片も無い様子に嘆息しながら真剣に訊いた。
「これは真面目な話だ。聞いているのかね?」
だが、それに対する反応はない。
それとは別に全く関係のない会話が為されているだけだった。
「豚の丸焼きがこんなにも手間のかかるものだとは知らなかった」
「諾」
アキトと北辰の会話である。
どでかい専用オーブンとも呼ぶべき機械の前で、いつもの格好にエプロンを付けただけの姿で話をしている。
二人ともフクベの事を見もしようとしない。
そこにピンク色のポニーテールを左右に揺らしながらナース服の女の子がやってきた。
「おじいちゃん、二人の邪魔をしてはダメ」
ラピスが開口一番フクベにのたまった。
「しかし、第3次防衛ラインのデルフィニウムを迎撃せねばならない」
「ラピスが聞いてあげるから」
「ビックバリアーを破る時の為に出力を上げる必要がある」
「わかった」
「火星がわしを待っているのだ」
「おじいちゃんは連れてくから、アキト、じじ、がんばってね」
ナース・ラピスがフクベの手を引きながら離れていく。
フクベもこれといった抵抗する素振りも無く付いて行っている。
アキトと北辰はラピスに手を振るだけにとどめ、それまでの作業を止めようとはしなかった。
覗き窓から中の様子を見つつ、取り付けられた計器で内部の温度と火力を確認して、微調整をし続けている。
仔豚といってもかなり大きいので、丸焼きには時間がべらぼうにかかり、意外に繊細な作業なのである。
そして、何事もなかったかのように会話を再開する二人。
「ただ焼くか蒸すだけだと思っていたのに」
「然り」
単調で眠くなる作業が始まって、既に4時間。
オーブンの中の仔豚は良い具合に表面にこげ色が付き、余分な油を落としながらゆっくり回転している。
しかし、中までじっくりと柔らかく焼き上がるまでは、まだまだ時間が必要である。
それは神経を擦り減らすかのような戦闘を経験している二人にしても辛いことのようだ。
それでもラピスたっての頼みなので、二人が手を抜く事は無かった。
ラピスが何を見聞きして、食べたくなったのかはさておき。
「暇だな〜」
「了」
「ちゃんと言葉で話せ。単語で済ますな」
「すまぬな。こう暇だと身体が疼いて仕方ないのだ。爺道に反する事ではあるが……」
物騒な事を言う北辰。
しかし、アキトも特に気にした様子はなく答える。
「確かここにはクリムゾン・シークレットサービスが居る筈だから、少し潰してでもくるか?」
「何故、そんな輩がいる?」
「この島にはクリムゾン会長の孫娘の別荘があるからな」
少々興味は惹かれたような北辰にあっさりと答えるアキト。
そんな二人におかま笑いがかけられた。
「オホホホホ、お二人さん、お元気かしら。かなり暑そうだけど……」
アロハシャツにサングラスのムネタケが、特に黒尽くめのアキトを見て眉を顰めた。
「何か用ですか、提督?」
「用なんてないわよ。視察よ、視察。それと慰安かしら」
「慰安ですか?」
「そうよ。貴方達の調子が良ければ、ナデシコの戦果がグンと上がり、アタシの軍首脳部での評価も上がる。提督として慰安位するのは当然の事じゃない」
ムネタケ・サダアキ提督──フクベ・ジン提督の後任として昇格したのだが、それは火星でフクベ提督が逝ってしまったからではない。
地球で逝ってしまったからである。
それというのもあそこまで見栄を切ったのにも関わらず、ナデシコは火星に出発出来なかったのだ。
トビウメとの交信、コウイチロウの魂の叫びは、艦橋クルーを一丸にする事が出来た。
しかし、より現実的なクルーはキノコの言葉を真摯に受け止め、大量にナデシコからの退艦を望んだのだ。
その中には、ウリバタケ・セイヤ整備班長の姿もあった。
彼は家族が嫌いでナデシコに乗り込んだ訳ではない。
漢の情熱を分かってくれない家族が少しうっとうしくなり、冷却期間とその間に思う存分改造が出来るからナデシコに乗ったのである。
決して、家族を残して死地に向かう為ではないのだ。
そこにあんなキノコの説明があっては、ナデシコを降りる事を希望してもおかしくはないだろう。
他のクルーにしても、理由は別であれ、同じである。
それは特に整備班の間で顕著だった。
短期間のうちにウリバタケは整備員の信頼を得ていたようである。
もしくは、短かったので真の姿を知る前だったという話もあるが。
彼等は一斉に艦橋のプロスの元に押しかけた。
契約書を盾に説得しようするプロスだったが、敵側の援軍は思わぬ所からやってきた。
『ホホホ、仕事内容をきちんと説明せずに結んだ契約に、どこまで効力があるのかしら? 貴方達、裁判起こせば、ほぼ勝てるわよ』
退艦希望者達を支援するのは、何の思惑があってか、未だに艦橋に居たキノコである。
『な、何を言われるのですかな、副提督。契約は当事者との話し合いの元、正式に交されていますから不備はありませんよ』
『あら、そうかしら。確かにアタシはどんな契約かは知らないものね』
『ええ、そうでしょうとも。副提督の勘違いです』
『でもね、自殺志願者は別として、今時火星に行くという契約自体を結ばせた事をネルガルは社会的に非難されるでしょうね〜』
そこで、キノコは意味ありげに整備班長を見やった。
それに気付かぬウリバタケではない。
『おう!お前等裁判とやらの準備をするぞ。上手くいけば慰謝料を取れるぞ』
『おう!』×整備班員+その他
『ま、ま、待って下さい。とりあえず、火星行きの事は保留にして交渉致しましょう。急いては事を仕損じるといいます。落ち着いて、話し合ってから色々決めるとしましょう』
プロスは折角集めた腕は一流のクルーを逃さない為に、一時的後退を即座に決めた。
ウリバタケ他一同も同意の兆しが見えた。
しかし、それを邪魔したのは、またしても軍関係者だった。
『火星がワシを待っているのだぁー!』
突然、フクベ提督が拳を突き上げ、叫んだ。
一瞬、静まり返る艦橋。
グラッ
そして、倒れこむご老体。
白目を剥き、口から泡を吐く提督を見た誰もが思った、逝ったなと。
一人の老人の妄執を前に、プロスはナデシコが火星に向かう為には多大な時間が必要なようですねと敗北感を覚えたのだった。
妥協したプロスとネルガル上層部との話し合いの結果、こうしてナデシコは火星にも行かず、慣熟運用という建前の元、地球の戦地を渡り歩く事となった。
アキトと北辰とラピスにとってみれば念願の世界食べ歩きの旅であるが、それではとても困る人物が一人居た。
フクベ・ジンである。
しかし、泡を吐いて倒れたフクベに正気が戻る事は無かった。
結果、ごく普通のボケ老人となったフクベに提督としての仕事は遂行出来ず、改めてキノコが提督となったのである。
それでもフクベはナデシコを無理矢理降ろそうとすると発作を起こし暴れるので、軍人年金を医療費に当ててナデシコで療養していたりするが。
そんなこんなで早3ヶ月。
現在ナデシコクルーは束の間の休暇を、まだクリムゾン買収前のテニシアン島で楽しみ、アキトと北辰は仔豚の丸焼き作りにいそしみ、フクベはボケ徘徊していたという訳である。
「俺達はただのコックですよ」
アキトはキノコに淡々と言った。
実際、アキトと北辰がエステバリスで戦ったのは、後にも先にも初戦だけである。
ナデシコは地球に暫くいる事になり、それに伴いパイロット連中もサツキミドリから呼び寄せたのだ。
現在、パイロットは割と早く復活したガイも含めて4名。
少ないという話もあるが、元々その構成で火星に行こうとしていた位である。
それに連合軍との協力体制、決定打を与える砲艦としての役割を担い守って貰えるので、現状では十分といえた。
ちなみに『淡々』と言ったのは、アキトがキノコを嫌いだからではない。
ガイを殺したのは本当にコイツなんだろうかと3秒程悩んだものだが、そもそも北辰と和解している位だから、キノコも今更怨んではいない。
ただ面倒だと思えたからである。
「ホホホ、艦長が貴方達に依存しているのを見抜けないアタシだと思っているのかしら」
しかし、キノコはそれを一笑に伏した。
「賄賂にしろ追従、おべっかにしろね、正しい相手を選んで行わないと効果は半減するのよ。下手したら逆効果になるわ。だから、アタシはそういうのが見えるようになった訳よ──」
「お疲れ様で〜す。お茶をお持ちしました〜」
更に続きそうなキノコの演説をテラサキ・サユリが遮った。
片手に湯飲みと急須がのったお盆、片手にポットを持って軽やかに歩いてくるのは、ウェイトレスならではの技能だろう。
「あっ、提督もいらしてたのですか。お茶飲みます?」
「頂くわ」
キノコの言葉に自分用にと思っていた分を回すことにしたサユリは、手馴れた手付きでお茶の用意を始める。
その手順に不備は見られなかったが、キノコには不満だったのか、手と口が出された。
「ああ、もう、見てられないわね!」
「ええ、何がですか!?」
「ちょっと、それじゃだめよ。もう貸しなさい」
キノコはサユリから主権を奪うと茶葉とポットのお湯の温度を確かめ、お茶を煎れ始めた。
その様は手馴れているというよりも熟練のお茶煎れ職人。
いるとしてだが。
ともかくお茶を煎れたキノコは、おもむろに3人に湯飲みののったお盆を差し出した。
「飲んでみなさい」
「頂きます」
「頂こう」
「はぁ〜」
三者三様の言葉だが、やる事は一緒。
ズズーッとお茶を飲んだ。
そして、3人とも気が付いた。
「「「美味(し)い」」」
アキト、北辰、サユリが思わず発した言葉にキノコは、相好をくずした。
何気に北辰の驚きが一番大きかったりする。
パティシェなどやってる分、お茶系統にもうるさいのだ。
「お茶とはこう言う風に煎れるものなのよ」
「何故食堂でいつも使ってる茶葉なのに全然違うの?」
「ホホホ、アタシは腕が違うのよ、腕が」
サユリの驚きの質問に、キノコは端的に答えた。
「い、意外な特技ですね〜」
「意外でも何でもないわよ。常識よ、常識」
サユリはおかま笑いにいささか引きながらも感想を述べると、キノコがそれを小馬鹿にしたように訂正した。
「どうしてですか? 普通提督のような偉い人だったら、自分でお茶を煎れたりしないと思うんですが?」
「アハハハハ、アタシの仕事ぶりを見た事ある人なら、そんな事は決して言わないわよ」
そう言われても、一介の食堂スタッフであるサユリには、キノコの仕事を見る機会などある訳が無い。
そうツッコミを入れるのもどこか怖いので黙って拝聴するサユリに、キノコは心行くまで宣言した。
それはもうキッパリと。
「アタシの今までやってきた事は賄賂と追従とおべっかが全てよ! その基本にして奥義ががお茶汲みなのよ。アタシが軍で一番に覚えた事は、まさしくソレ。どう、お分かり?」
コクコク×3人
面といわれたサユリだけでなく、アキトと北辰も肯いてしまう何かがキノコの言葉に存在した。
何故ならキノコは心の師匠を胸に思い浮かべながら、本心を告げたからである。
植○等先生の事を。
微妙に厳粛な雰囲気は、すぐにぶち壊される事になる。
「アキトォ〜!」
「アキトさん!」
遠くからでもはっきり分かる声の二人、ユリカとルリである。
赤いビキニにパーカーを羽織った姿と青いワンピース姿で駆け寄ってくる二人を見て、キノコは肩をすくめて言った。
「さて、アタシはもう行くわ。艦長とオペレーターの事は頼んだわよ。彼女達の機嫌は、何と言ってもアタシの昇進に直結するんですからね」
どこまでも自分本位なセリフのキノコにサユリも別な意味で同調した。
「あっ、私も行きます。じゃあ、頑張って下さい」
そして、さっさとアキト達から離れていく。
それも無理は無い。
ユリカとルリは、アキトの傍に居る女性に敵意を燃やすからである。
その女性がアキトに同じ職場で働く同僚としか意識していないのにも関わらずである。
最近はそれほど酷くはないのだが、特にナデシコ出航時に目の仇にされた感のあるサユリには少々トラウマになったようである。
「アキトォ〜新しい作戦考えたんだよ〜。一緒に検討しよう♪」
「アキトさん、ラピスと一緒に泳ぎを教えて下さ〜い♪」
書類と浮き輪をそれぞれ持ってやって来る二人だが、将を得んとすれば将を射よか、馬ごと射よ的な二人だったのに、今では弱冠変化している。
ユリカは仕事にかこつけて接触を謀るし、ルリはラピスをだしに使っている。
これも最近二人にそれぞれバックが付いたからである。
ルリにはご存知の通り操舵士が。
ユリカには意外な事に通信士が。
操舵士については今更説明は要らないだろうが、何故通信士がと言えば、アキトに落ちなかったからである。
今の堕落しきったアキトに好き好んで落ちる女性など、元々落ちてるというか、遺伝子レベルでインプットされているようなユリカとルリ以外いない。
ルリを応援する操舵士を見て、通信士は持ち前の策謀癖からユリカに加担する事に決めた。
その裏ではどちらが勝つかで操舵士本人と賭けをしてたりもする。
更にウリバタケを胴元とした『アキトが何時誰に落ちる』レースも好評開催中だったりする。
もう一つついでに審判及び資金管理はプロスペクターである。
ナデシコ内使途不明金の多さに苦労の余り、その一番の元凶と手を組んだらしい。
「ブーッ、アキトは私と一緒なの!」
「いいえ、アキトさんは私と一緒です!」
今更であるが、確実に妙なベクトルで歴史は様変わりしているようだ。
2197年○月 ナデシコシリーズ三番艦『カキツバタ』、同二番艦『コスモス』と同時に就航。
2197年同月 『カキツバタ』、ネルガル社員と軍人を5:5で乗せ、火星に向けて出航。
2197年□月 クリムゾングループ会長、連合政府反逆罪で逮捕。
後任には諸般の事情から血族以外から選ばれる可能性が高いと報道される。
2197年△月 『カキツバタ』、火星で完膚なきまでに撃沈。
2197年同月 『イネス・フレサンジュ』、何故かナデシコ内医務室で姿が確認される。
本当に今更であるが、この歴史の行き着く先に幸あらんことを。
もっともアキトと北辰には、ラピスとこれから生まれてくる孫さえ幸せならいいのだろうが……
完
<あとがき>
てな訳で、私のナデシコ・リハビリ企画『孫』終了です。
オチはキッパリとない!ですけど、元々爺むさい話でしたし、流れ的にはここで終わるべき話だと思います。
アキトと北辰に戦争や火星に行く意志がない以上は。
ここから先は、TV版や時ナデとは全く無関係な話を一から作らないといけなくなりますし、これはそういうオジジナル巨編を念頭に書いてるモノではありませんから^^;
しかし、これでは軍徴発エンドと殆ど変ってないというツッコミはご勘弁を。
それでは久しぶりのナデシコSSに感想をくれた方々、及び読んで下さった方々、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
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