病室には、静寂のみが漂っていた。
その部屋の主たる女性は眠っているわけではなさそうだが、静かに目を瞑って物思いにふけっている。
春の日差しは穏やかで窓から病室に差し込む光も柔らかな印象を受ける。吹き込む風が、緩やかに純白のカーテンを揺らし、唯一部屋の時間が止まっているわけではないことを証明していた。この病室は最上階の特別室。窓越しには向かいの病棟の屋上と後は青い空と白い雲。病人としては考えうる限り最高の環境と設備に守られたその女性は、相変わらず目を瞑ったまま口元には微かな笑みを浮かべている。
その静寂が突然破られた。病室の戸をノックする音が響きわたる。
「誰?」
ゆっくりと目を開けると穏やかな声で短い問いを発する。
「私です」
それに対する答えもまた簡潔だった。だが、決して冷たい感じはしない。相手を思いやる感情にあふれた声だった。
「どうぞ、入って」
その声に答えて入ってきたのは、二十台前半の女性だった。銀の髪に金の瞳。平均よりやや低い身長に細身の体を地球連合軍の士官服で覆っている。
「いらっしゃい。ルリちゃん」
「お見舞いにきました。ユリカさん」
訪れた女性はホシノ・ルリ。地球連合軍で「電子の妖精」と呼ばれるナデシコCの艦長。
部屋の主の女性はミスマル・ユリカ。火星の後継者の乱以降、療養生活を送っている元ナデシコの艦長。
血の繋がりの無い姉妹は互いに笑顔を浮かべて挨拶を交わした。
再会
「今日はお父様は?」
ユリカが尋ねる。彼女の父たるミスマル・コウイチロウは、時間を無理にでも作っては娘の所に見舞いにやってくる。まして、辺境宙域の巡回任務で家を空けることの多い養女が帰ってきているとなると、万難を排してでも付き添ってきそうなものだ。以前に家族3人がそろったのは、ルリが任務に出かける二ヶ月前、話したいこともたくさん在るだろうに。
「急に連合首相との会談が入ったとかで来れないそうです。散々愚痴を言いながら出ていかれました」
ルリが苦笑しながら答える。実際、火星の後継者の乱以降、威信を失い、発言力を失った統合軍に代わり連合軍のトップの一人であるコウイチロウは各地の紛争やテロの対策にと多忙を極めていた。娘の見舞いにくる時間を作るのも一苦労なのである。
「お父様も大変だねえ。あれ、でもルリちゃんも似たようなものじゃないの?」
本来ならその通りだ。ナデシコCは今や連合軍の主力艦、その艦長であるルリもコウイチロウ同様多忙を極めていているはずだ。
「サブロウタさんとハーリー君が気を利かしてくれました。ゆっくりしてきていいそうです。せっかくですのでお言葉に甘えさせてもらいました」
今ごろ二人は報告書作りに追われているだろう。
「それに、今は大きな動乱も在りませんからね。私たちが動くほどのことはそうそう無いんです」
現地球圏における最強艦となってしまったナデシコCは気軽に動かせる戦力ではない。ルリの電子戦能力をもってすれば、たいていの敵は無力化されてしまうのだ。危険視されるのも無理は無いと言える。よって
ナデシコCの任務は現在の所辺境宙域の巡回任務がほとんどで重要度からすればたいした物ではない。
あくまで、表向きは、だが。
「それで、お加減はどうですか?」
そんなことはかけらも見せずルリはユリカに尋ねる。今日はユリカの見舞いにきたのだ。
「えっ?私?いつもどおりだよ。ただちょっと疲れやすくなったのか寝てる時間が増えたけどね」
それは真実ではないことはルリも、ユリカも、解っている。火星の後継者の乱で遺跡本体と融合させられたユリカは、脳や神経系そして全身の体細胞のあちこちを遺跡に取り込まれてしまったのだ。遺跡との分離には成功したものの、失った部分は戻ってこず深刻な障害を負うこととなった。イネスの診察によれば彼女の余命は三年と言われていたのだ。だが、すでにユリカはあれから六年を生きている。その間には、何度も危篤状態に陥った。いや、今もどうして生きているのかわからないほどの状態なのだ。ユリカの体は。体を自力で起こすこともできず、何時息を引き取ってもおかしくない。それでも、まだユリカは生きている。その思いの強さを示すかのように。
「それでルリちゃんのほうはどうだった?お仕事」
ユリカが話を変えるように尋ねた。
「特に何も在りませんでした。今は宇宙は平和そのものです。強いて言えば……」
苦笑しながら答えたルリの言葉をユリカがさえぎる。
「違うよ」
「えっ?」
ルリが戸惑う。それにかまわずユリカは続けた。
「そっちのお仕事じゃ、ないよ。‘ルリちゃんの’お仕事のほう」
絶句する。やはり気がついていたのだ。この人は。自分の本当の仕事に。
「……駄目でした。どうやら‘あの人’の側にいる‘彼女’は私より数段上の電子戦能力をもっているようです。痕跡さえ……見つけることはできませんでした」
やっとそれだけの言葉を絞りだす。
最初はすぐに見つかると思ったのだ。‘彼’がネルガルと関係していたのは明らかだったのだから。しかし、アカツキ、イネス、エリナを始めとしたネルガル関係者の口は堅く、やむをえず違法と知りつつ行ったホストコンピューターへのハッキングも完全に防がれた。ならば、現場を押さえようと‘彼’が活動していると思われる宙域への任務を志願したのだが、発見できたのはおそらく人体実験を行っていたと思われる施設の残骸のみ。最近では‘闇’の異名で呼ばれる‘彼’の痕跡さえ発見する事はかなわなかった。
「そっか……駄目だったのか。せめて……もう一目逢いたかったんだけどな」
ユリカは寂しげに微笑んで言った。
「まだです。私はまだ諦めてません。いえ、絶対に諦めません。必ず、いつかアキトさんを連れて帰りますから。だから、諦めないでください」
ルリは必死に言葉を紡ぐ。だが、ユリカの答えは、現実は残酷だった。
「違うよ。ルリちゃんが見つけられないんじゃない。私のほうがもう持たないの。自分で解る。‘いつか’はもう私には無いんだよ」
掛けられる言葉が無かった。今まで生きてこられただけでも奇跡と言えるのだ。今更気休めの言葉などかけられるはずも無い。言葉をなくしたルリは、次の瞬間、激情のままに叫んでいた。
「何で……何であの人は帰ってきてはくれないんですか!もう復讐は終わったはずなのに!ユリカさんも取り戻したのに!これ以上どうして戦いつづけようとするんですか!」
「私たちのためだよ」
ルリの叫びは、冷静なユリカの声にさえぎられた。
「世界は、アキトを許さない。統合軍はいまだに犠牲の羊を求めているもの。自分たちの面子のために。アキトが戻ってくれば、私たちはアキトを守るために戦わないといけなくなるもの。世界を相手にして。だから、アキトは戻ってこない。私たちのために。そして、戦いつづけるんだろうね。これ以上の悲劇を生まないために」
ユリカの言葉にルリは沈黙する。それは彼女の知るアキトに完全に重なったから。彼ならそう考えるとルリ自身が納得してしまったから。
「アキトさんの事、やっぱりよく解っているんですね」
ルリの言葉に
「それはユリカはアキトのお嫁さんだもの。旦那様のことならなんでもわかるよ」
ユリカは直前の冷静さが嘘のような明るい声で答えた。
一方ルリは真剣な眼差しでそれに答える。
「それでも、私は……私はアキトさんを追います。たとえアキトさんが望んでいなくても。たとえ世界をあいてに戦うことになっても。あの時を、取り戻すために。あの人は……大切な人だから」
「うん。ルリちゃんはそれでいいと思うよ」
ルリの思いをユリカが肯定する。
「だからね、一つルリちゃんにお願いがあるんだ」
「なんですか?」
「いつか、ルリちゃんがアキトに追いついた時に、伝言を一つ伝えて欲しいの。本当は私が直接伝えたかったんだけどね。どうやら無理みたいだから」
ルリは涙をこらえて続きを促した。
「何と?」
「ちょっと耳かして。ルリちゃん」
言われるままにユリカの口に耳を近づける。そしてユリカはほんの一言をルリに告げた。
「これだけでいいんですか?」
ルリの戸惑ったような問いにユリカは何の迷いも無く答えた。
「うん、これだけ伝えられれば、私は十分」
「解りました。必ず、伝えます。アキトさんに」
確たる決意を瞳に乗せて義姉に告げる。せめて義姉が心を残すことがない様に。
「ありがとう。お願い。ルリちゃん」
ユリカは心からの笑顔で義妹の決意に答えた。
其れから数時間後。たわいない世間話を続けた後ルリはふとユリカに聞いてみた。
「ユリカさんは何を信じてこの六年を過ごしてこられたのですか?」
「えっ?」
ユリカは戸惑うがルリはかまわず続けた。
「アキトさんが戻ってこられないことは解っておられたのでしょう?でも、ユリカさんはアキトさんを待って此処に居られました。何故ですか?」
ユリカは少しの間黙っていたが、しばらくして話し出した。
「私にはね、義務があったんだよ」
「義務……ですか?」
義姉にはあまり似合わない言葉だった。
「……夢をね、見てたんだ。遺跡に融合させられていた時に。あいつらに見せられていた不自然に幸せな夢だけじゃない。苦しく、辛く、激しく、そして、とても愛しい夢を。今なら解る。あれは……アキトだったんだ。あの夢なら見つづけていたかった。そして、アキトが何もしなければ、私はその夢を永遠に見つづけられたはず……」
そう,「Eternal Goodess」―永遠の女神―奴らが義姉につけたコードネームの一つ。それは彼女が完全に遺跡に取り込まれてしまったなら実現していただろう。完全に遺跡に取り込まれ永遠に夢を見ていただろう。奴等に見せられた夢ではなく、己の最も愛しいものの夢を。
「でも、アキトはそれを望まなかった。私が永遠になるのを。それまでの自分を全て投げ打ってまで。全てを捨てても、私が人として生きることを望んだ。だから、私はそれに答える義務がある。アキトの全てに答える義務がある。人として精一杯生きられるだけ生きて、そして人として死ぬ義務がある。それが私の義務であり権利。それが……この六年私を支えた思いだよ」
静かに話すユリカにルリは圧倒された。それほどの思いが義姉の瞳には宿っていたから。その思いが起こした奇跡はこの六年で見てきているから。ルリはただ沈黙を守るしかなかった。
それから一週間後、ユリカは危篤状態に陥った。
ルリやコウイチロウ、かってのナデシコの仲間たちも駆けつけたが、既にユリカの意識は朦朧とし、呼び掛けに答えられる状態には無かった。ただ、一つルリの心に残ったことがある。必死に呼びかけを続けるルリ達にも反応しなかったユリカが、ふいに窓の外に目を向けた。そして、次の瞬間本当に嬉しそうな笑顔を浮かべたのだ。この6年闘病中にどこか見せていた儚さなど全く無い、3人で屋台を引いていた頃の太陽のような明るい笑顔を。振り向いて窓の外を見たルリには向かいの病棟の屋上しか見えなかった。そして、ルリがユリカに向き直ったとき、既にユリカの目は閉じられていた。その顔に笑顔を浮かべたまま。
そのままユリカは息を引き取った。享年29歳。ある春の日の夜のことだった。
そして、歳月は流れて過ぎた。
ユリカの死から五十数年。既に養父たるコウイチロウもこの世にはいない。かっての仲間も多くは黄泉路へと旅立ち、もはやハリぐらいしか残っていない。ルリ自身も、今、死の床にある。おそらく、明日の夜明けを見ることはもうできないだろう。既に覚悟はできていた。義姉を看取り、養父を看取り、多くの仲間たちを見送ってきたのだから。彼らにもう一度会えると思えば、死の恐怖に脅えることも無かった。彼らは、きっと笑顔で自分を迎えてくれるだろう。老けたねえ、とからかいながら。
自分では成し遂げることのできなかった悲願も、ハリに託すことができた。彼ならきっと自分の願いをかなえてくれるだろう。例えどれだけの時が掛かろうとも。義姉の伝言を、自分の伝言を‘彼’に届けてくれるだろう。もう、自分がするべき事は無いはずだ。‘電子戦能力’ではいまさらあがいても無駄だという事は、この60年で嫌と言うほど思い知っている。‘彼女’と自分の能力差は紙一重ではあるが、その紙一重がいつも絶対的な壁となってきた。後数時間あがいた所で結果は変わらないだろう。
だが、まだ自分にはできることがある。‘彼’にもう一度逢うためにできることがまだ残っている。ハリに全てを託すのは、自分にできることを全てやりきった後だ。そうしない限り自分は死ねない。向こうで待っている義姉に胸を張って報告するためにも。
ルリの居る部屋は、ミスマル邸の庭を一望できる部屋だ。今はガラス戸とカーテンによって遮られ見ることはできないが、純和風の庭には、先日から降り続く雪が降り積もっているだろう。そして、そこに‘彼’は来る筈だ。自分を看取るために。あの日、義姉を看取りに向かいの病棟の屋上に現れたように。ルリは確信していた。あの日、‘彼’は確かにあそこに現れたと。自分がもう一瞬早く振り向いていれば、‘彼’の姿を見ることができた筈だと。そうでなければ、義姉のあの笑顔は説明ができないから。そして、自分の時にも‘彼’は必ず来てくれる。後はそこを捕まえればいい。それが、死期を悟ったルリが見出した唯一の勝機だった。
だが、そこにはまだ大きな問題が残っている。看取ってもらうだけで満足することなどできはしない。‘彼’を捕まえ、言葉を交わし、義姉の伝言と自分の思いを伝えることこそがルリの願いだから。それをかなえるためには、自分で彼を捕まえねばならない。死に瀕し、病み衰えた自分自身の体で‘彼’の所まで辿り着かねばならない。寝床から立ち上がり、ガラス戸までたどり着き、カーテンと戸を開ける。たったそれだけのことが今の自分にはとてつもなく困難なことなのだ。
それでもルリは体を起こした。自分に残された全ての力と精神力を振り絞って。
「まさか……私が‘熱血’に頼ることになるとは思いませんでしたね」
そんな言葉が口から漏れる。冗談を言う余裕があるのに驚きながらも気力を振り絞って立ち上がる。立ち上がった瞬間、足がふらついて倒れそうになる。何とか踏みとどまろうとするが、足に力が入らない。
(倒れる!)
そう思った瞬間、何かに支えられたような気がした。気がつくと自分は倒れることなく立っている。さっきより幾分楽になったような気さえする。微かに漂う懐かしい髪の匂い。気のせいなどでは断じてない。自分がこの匂いを忘れることなど無いはずだから。大好きだった義姉の髪の匂いを……
「ありがとうございます。助かりました。ユリカさん」
あそこで倒れていれば、自分はきっと立ち上がれなかっただろうから。そして、ゆっくりと歩き出す。何度も助けてもらうわけにはいかない。奇跡は一度きり。そういうものだ。後は自分の力で辿り着く。一歩、一歩、重い足を引きずりながらも足を進める。たかだか十歩の距離が千歩にも万歩にも感じられた。そして、やっとの思いで窓辺に辿り着いたルリは、最後の力で庭と部屋とを区切るガラス戸とカーテンを一気に開け放った。
降り続いていたはずの雪はやんでいた。分厚い雲の切れ間から満月が冴え冴えとした青い光を投げかけている。そして、その光に照らされて、雪の降り積もった庭の中央に、‘彼’は居た。
「やっと……やっと追いつきました。お久しぶりです。アキトさん」
万感のこもったルリの声に
「ああ、久しぶりだね。ルリちゃん」
アキトはルリの記憶のままの優しい声で答えた。
アキトの姿は最後に見たときと全く変わっていなかった。二十代前半、中肉中背の体躯を漆黒で覆っている。一つだけ違っていたのは彼はバイザーをつけておらず、微笑を浮かべるその顔を直にルリに向けていた。彼の傍らには、おそらくは十七、八のハイティーンの少女。腰にまで届く長い髪の色は薄桃。瞳には金色の輝き。かってのルリと同じように平均よりやや低い細心の体をアキトと同じく漆黒の装束で覆っていた。一見すると無表情に見えるが、微かに微笑んでいるのがルリには解った。彼らの足元の雪には、いっさい足跡がついていなかった。彼らが突然そこに現れたのを証明するように。
「驚かないのか?俺達のこの姿に」
アキトが問いかける。
「貴方がまだ生きていることは信じていましたから。それに、もう一度貴方に逢えた。それで私は十分です。貴方がどんな姿をしていても、貴方であることには変わりありませんから」
ルリは何の迷いも無く答えた。今ならユリカの気持ちがよく解る。せめてもう一目。それで十分。そうしてユリカは笑顔で逝ったのだから。その願いをかなえて。何故なんて必要ないのだ。
「貴方に伝言があります。ユリカさんから」
そういって腕の携帯端末を操作する。ウィンドウが立ち上がると同時にルリはその伝言を読み上げた。
「『幸せだったよ。ありがとうね。アキト』だそうです。確かに伝えましたよ」
それがユリカの遺した言葉。感謝の言葉。自分を護ってくれた事に、自分を救い出してくれた事に、そして、自分を選んでくれたことに対する感謝の言葉。
「そうか」
それに対するアキトの答えは一言だった。しかし、その声が震えるのを隠すことはできなかったが。それにはルリは気がつかない振りをした。しばしの沈黙の後アキトが続ける。
「……君は……君はどうだった?帰らなかった俺を……憎んだことは無かったか?」
「まさか。貴方を憎むなんて事あるわけ無いでしょう。貴方を帰ってこれなくした世界を憎んだことはありましたけどね。私も幸せでしたよ。ユリカさんの伝言は私の思いでもあります」
即答する。疑う余地が無いことだ。
「君が、幸せだったはずは無いだろう。六十年俺を追いつづけて、たった一人で人生を過ごした君が」
それがアキトの後悔。自分の生存さえ知らさなければ、自分を追うことさえなければ、ルリは今ごろ家族に囲まれた幸せを掴めていたはずなのだ。自分達だけでなく、もっと多くの人たちに看取られて逝けた筈なのだ。それをさせなかったのは自分の存在。果たせなかった誓いの結果。幸せになるべき義妹から幸せを奪ってしまった。それが、自分の最大の罪。
だが、ルリはそんなアキトの懺悔を笑って否定する。
「幸せでしたよ。私は。たくさんの仲間に囲まれて。やさしい家族に恵まれて」
「ユリカは五十年前に逝った。親父さんも二十年前に逝った。それから君に家族は居なかったはずだ」
「アキトさんが居たじゃないですか。見守ってくれていたんでしょう?ずっと」
絶句する。ルリの笑顔はそれ以上の否定を拒絶するものだったから。
「初恋の人が、義兄が、ずっと見守ってくれていたんです。誰にも私が孤独だったなんていわせません。誰にも私の幸せを否定なんてさせません。例え貴方でもですよ。アキトさん」
そういったルリは本当に幸せそうに笑っていた。その笑顔を前に、アキトには返す言葉がなかった。
「それでも聞いてみたいと思ったことはありますね。どうして帰ってきてくれなかったんですか?」
沈黙を破ったのはルリの問い。アキトは少し躊躇った後その問いに答えた。
「……君達には光の下で生きて欲しかったから」
それがアキトの願い。だが、ルリはそれだけではおさまらなかった。
「私達が貴方とと共に生きることを望んでもですか?」
そのためなら、ルリはどんなことでもしただろう。無論、ユリカも。だからこそ、アキトは帰れなかった。アキトと共に生きることは闇に生きるのと同義だから。
「ああ。闇に生きるのは、俺達だけで十分だから」
たとえそれがルリ達の願いに反していても。光の下で穏やかに、幸せに生きること。それがアキトの願いだったから。
「……そうですか。もう一つ。貴方はどうでした?」
ルリが問い返す
「ずっと戦ってこられたのでしょう?自分を責めて、世界を憎んで戦ってこられたのではないですか」
それがルリの懸念。違うとは思いつつも確認せずに要られなかった思い。
「俺の戦いは、俺の誓いによるものだ。悲劇は二度と繰り返させはしない。それはこれからも変わらない」
「やっぱりそうですか。ユリカさんの言ったとおりですね。ちょっと悔しいですね。結局、最後までユリカさんにはかないませんでした」
かって交わした会話を思い出す。あの時ユリカは少しも自分の言葉を疑っていなかった。ルリは確認せずには要られなかったというのに。微かな痛みがルリの胸をかすめた。
「俺も一人ではなかったからな。君たちが……ユリカとルリちゃんが光の下で生きていたから。そして、ラピスが居たからな」
そんなルリには気付かずアキトは続けた。何年経っても彼の鈍さは変わらないらしい。
「ラピスさん……ですか」
視線をアキトの傍らに立つ少女へと向ける。アキト同様、積み重ねた時を感じさせない容姿をもち、この六十年アキトと共に在ったもう一人の電子の妖精。
「直接会うのは初めてですね。私はルリ。アキトさんの義妹です。はじめまして、ラピスさん」
ルリの挨拶にラピスが答える。
「よろしく、ルリ。私はラピス。ラピス・ラズリ。アキトに名前をもらい、アキトの半身になることを自分自身に誓った者。アキトと共に在る者」
「アキトさんと共に在る者……ですか」
感じた感情は嫉妬と羨望。ルリが、ルリとユリカが何よりも願ったことをこの少女はかなえたのだから。
「そう。アキトが私の名を呼んでくれる限り,私はアキトと共に在る。これからもずっと」
「そうですか……ほっとしたような、妬ましいような、複雑な気分ですね。私が死んでも、アキトさんは一人にはならない。それは確かに安堵すべきことですが、羨望を感じるのも確かです。なんで私では無いんでしょうね。アキトさんと共に在るのが」
「あなたはあなた。私は私。それだけのこと」
同じ輝石の名をもつ者といっても二人は別人なのだから。アキトが二人に望んだものも、また異なる。
「解ってはいるんですけどね、それでも羨ましい事には変わりありませんよ。アキトさんの一番には為れなくても、二番には為りたかったですから」
「順番などつけたことは無いんだが」
ルリも、ラピスも、ユリカもアキトにとっては護るべきものであることには変わり無い。
「アキトさんなら、そう言うのは解っていたんですけどね。理性と感情は別なんです」
変な所で変わらないアキトに、苦笑しながらルリはそう告げた。
「それにしても、もう少し早く来てくれてもいいじゃないですか」
交わしたい言葉は,まだ幾らでもあるのだ。それこそ六十年分の思いがある。しかし、時間は残り少ない。ルリの口調が非難の色を帯びるのも当然だろう。
「ほかの誰とも逢うわけにはいかなかったからな」
誰かに見つかれば、ルリの最期を騒がせることになってしまう。そして、一度姿を見せれば、ルリが決して離そうとしないことは、アキトにも解っていた。まさか最期になってさらって行く訳にもいかない。それくらいなら六十年前にさらっている。ルリは、最期まで光の下で生きなければならない。
「そうだろうと思いました。だから人払いもしておいたのに」
ミスマル家の使用人は住み込みだが、今晩は暇を出して家に帰していた。医者も昼にしかこない。夕方からそれなりに大きなこの家はルリ一人きりだった。ルリがそうなるようにしておいたのだ。自分の死期を悟って。
「それでも万が一ということもある。だから、深夜を待った。それに……本当は声をかけるつもりも無かったんだ」
今更掛けられる言葉が有る筈も無い。その資格は六十年前自ら放棄した。ユリカ同様、ルリにも一目逢うだけのつもりだったのだ。アキトが、自分に許せたのはそれだけだった。
「それも予想済みです。おかげでひどく苦労させられました」
実際アキトは、ルリが突然立ち上がった時はかなり慌てたのだ。立てる力など残っている筈は無かったのだから。逃げる訳にもいかず、手を貸すこともできず、ルリの戦いをただ見ているしかなかった。人の思いの持つ力を見せつけられて……
「正直、驚いた。もう少し見守って最期に一目だけ、のつもりだったからな」
「私だけでは、無理だったかもしれません……」
「何?」
「いえ。何でもありません」
義姉の助力は自分達だけの秘密にしておこう。それぐらいの仕返しは、許されるだろうから。何時かまた三人で逢えた時に驚かせてやればいい。そう思って微笑むとルリは最後の仕事を成し遂げるべく、少し戸惑っているアキトに問い掛けた。
「一つお願いがあります。側に来てもらえますか?」
アキトは無言でルリに歩み寄った。ラピスは庭の中央で黙って二人を見守っている。アキトがルリの目の前で立ち止まる。それを待って、ルリは自分の懐に手をやった。
「これを受け取ってください」
そういって懐から手を差し出す。そこには一片の紙片があった。六十年、ルリが肌身離さず持ちつづけ変色しきったレシピ。料理人たるテンカワ・アキトが生きた証。
「それはルリちゃんのものだ。今の俺には必要ない」
それを見て即座にアキトは告げる。
「いえ、これはもともと貴方の物です。だから、お返しする義務が私には有るんです。最期のお願いです。受け取ってください」
ルリは手を引こうとはしない。それでも受け取ろうとはしないアキトに、ルリは続けた。
「これは貴方が料理人として生きた証、そして貴方が私達と過ごしたあの日々の証でも有ります。これは、今まで私が生きる支えになってくれました。だから、これからは貴方にこそ必要なもののはずです。これからも生きていく貴方に。それとも、私達と生きた証は必要ありませんか?」
「そんなことは無い。だが……」
ルリは続きは言わせなかった。
「なら、受け取ってください。そして、もう一度逢えた時にあのラーメンを私たちに作ってください」
「おそらく俺にその時は訪れないだろう」
自分に死は無い。人外の者たる悲哀をこめて告げる。
「いいえ、来ます。永遠の物などありません。貴方も何時かはその時を迎えるはずです。その時までこれは貴方を‘人として’在らせてくれるでしょう。だからこそ、これは貴方に必要な物なんです」
その言葉に胸を打たれる。‘人外’たる自分が、‘人’として在る。それがアキトの誓い。だが、現実は残酷だ。仲間達が年老い、死していくのを見せつけられれば、どうしても自分の身を省みずに入られない。ルリが去り逝く今、その感情を覚えなかったと言えば嘘になる。そこにその誓いを支える‘証’をくれると言うのだ。思わずこみあがってきた物をこらえる。
「………随分先のことになるが……構わないか?」
何とかこらえきると確認を取る。それこそ永遠に等しい時を待たせる可能性が高いのだ。だが、ルリは即座に答えた。
「構いません。私は何時までだって待っていますから。ユリカさんも、必ず」
何の迷いも無く言い切る。必ず義姉も待っているはずだ。義姉は今一人で待っているだろう。これからは二人で待つのだ。そのうえに仲間達もいる、きっと時も速く過ぎるに違いない。
「だから、受け取ってください」
四度目になるその願いを、今度はアキトは受け入れた。黙ったまま手を伸ばす。その手に紙片が渡った瞬間、新たなる‘契約’は成った。‘闇の皇子’と‘光の妖精’の‘契約’が。いつか訪れる再会を誓って。
ルリはふうと溜息をついた。安堵の溜息を。これで自分の仕事は全てやり遂げた。思わず全身から力が抜ける。当然だ、今まで立っていられただけでも奇跡としか言い様が無い。今度はそれに逆らわずルリは目の前のアキトの胸に寄りかかった。アキトも黙ってルリを受け入れた。
「これで……全てやり遂げました。もう思い残すことは在りません。だからそれまでここで休ませてください」
ルリがアキトの腕の中で告げる。
「ここでいいのか?」
「はい。ここが私の願った所です。こんなお婆ちゃんで申し訳ないですが我慢してください。元はと言えばアキトさんが来てくれなかった所為なんですから。アキトさんがもっと早く来てくれていたら、もっと綺麗な私を抱けたんですから」
悪戯っぽく笑って告げる。アキトもそれに返す。
「それは惜しいことをしたな。でも、今でも綺麗だよ、ルリちゃんは」
世辞では断じてなかった。それほど満ち足りた笑顔を浮かべるルリは美しかった。
「そういってもらえると嬉しいですね。せっかく初恋の人の腕の中にいるんです。もう少し夢を見ていたいですから」
少し頬を赤らめてルリが答える。
「ああ、幾らでも夢を見ていればいい。君にはその権利がある」
それだけのことを成し遂げたのだ、この義妹は。
「では御言葉に甘えます。もう意地を張る必要も力も無いですから」
そういって目を閉じる。
しばらくの間そうしていたルリがふと目を開けると腕の中からアキトの瞳を見つめて言った。
「約束忘れないでくださいね」
「ああ、必ず。以前の物よりおいしい物をご馳走するよ」
「楽しみにしてます」
「期待しててくれ」
「はい」
そう言ってルリは目を閉じてアキトに頬を寄せた。
それきり動きを止める。
しばらくしてルリの全身から力が抜けた。腕に掛かる重みが増す。
アキトはルリの耳元で囁くように告げた。
「おやすみ。ルリちゃん」
そういったアキトの両目からは涙があふれていた。
ルリの小さな体を抱きかかえベッドに運ぶ。そっと横たえシーツを被せた。両手を胸の前で組ませてやる。その顔は微笑みを浮かべたままだ。その笑顔は妖精と呼ばれるのにふさわしく透明で美しかった。アキトですら今まで見た事が無いほど。心底幸せそうなその笑顔にアキトは安堵を覚えた。今まで仲間の死を看取ってきたときの寂寥感は全く無い。それは間違いなくルリのおかげだろう。ルリはアキトの心まで救っていってくれたのだ。
もう一度言葉をかける。
「おやすみ。ルリちゃん。必ず、約束は守る。だからそれまでは安らかに」
そういって踵をかえす。瞼に義妹の最期の姿を焼き付けて。
庭の中央ではラピスが無言で待っていた。
「終わった。帰るぞ、ラピス」
「うん……ねえ、アキト」
ラピスが躊躇った後に問い掛ける。
「なんだ?」
「その時は何時か来るのかな、私達にも」
「そうだな。本来遺跡は時間的に不可変。それと同種の存在たる俺達も、時が存在する限りその時は訪れないだろうな。つまり人類どころか世界が滅ぶその時まで俺達は存在を続けるだろう。おそらくはな」
世界が滅べば、時も崩壊する。そうなれば遺跡とて、自分達とて消滅するだろう。だが、それが何時になるのかは想像もつかない。人に耐えられる時間ではない。
「なら、ルリとの約束はどうするの」
ラピスが問い掛ける。彼女にとって誓約は絶対の物だ。そして、ラピスはアキトが誓約を破るとは微塵も思わなかった。
「守るさ。必ず。世界が終わるその時まで、人として生き続けてやるさ。そのための物はルリちゃんがくれた」
そういって手中の紙片に目をやる。
「この‘証’も俺達よりも先に崩れ去るだろう。でもこれに込められた‘思い’は残る。それある限り、俺達は人のまま生きていけるさ」
確信をもって告げる。
「私も?」
その‘思い’はアキトの物だ。
「当たり前だ。ラピスがその名を名乗る限り,俺はラピスと共にある。例えその時が訪れてもな」
「そうだね。なら、私も人として生きて、そして、人として死ねる。その時が訪れたときに」
そう言って、微笑む。
「私も楽しみにしてるね、その時を」
「ああ。だが、まず人として生き抜いてからだ」
「うん」
きっとその時には家族がそろうだろう。そのときラピスを紹介しよう新たな家族として。間違いなく温かく迎えてくれるはずだ。皆でラーメンを食べながら話をしよう。話す事はそれこそ無限にあるだろうから。その時を楽しみに今は人として生きていこう。己が誓った戦いの中で。ラピスと共に。
その決意を持ってアキトはラピスに告げた。
「今はまだ戦いの時だ。頼むぞ、ラピス」
「了解。任せて、アキト」
数瞬後、二人の姿は虹色の光を残して消えた。雪の上に残された足跡は、いつのまにかまた降り始めた雪に消されていく。月も既に雲に隠れている。まるで、再会の時を祝福するためだけに、その光を投げかけていたかのように。
‘闇’がその活動を止めたのはそれから百五十年後のことだ。
しかし、それは彼等が死んだことを意味する物ではない。
おそらくは人の目の届かぬ闇の中、その戦いを続けただろう。
非道を断ちし真の‘闇’と化して。
一人の‘皇子’と‘光’と‘闇’二人の‘妖精’が交わした契約が守られたのか知る者は誰もいない。
ただ彼等のみがそれを知っている。
後書き
どうも、第3作です。
今回はタイトルに偽りありです。
「再会」というより「もうひとつの契約」といった形にまとまりました。
今回のメインシーンはルリがアキトにレシピを渡すシーン。つまり、また‘契約’のシーンです。
前作とかぶってると言われないか、心配ですが、書きたかったんです。それだけだったりします。
とりあえず「奇跡」の後半にあたります。
これにて‘闇’の連作短編として考えていたシーンは全て使い切りました。
本来二つの「契約」が書きたかったので達成できて満足しています。
「奇跡」という副産物も生まれましたけどね。
一応、完結です。いいシーン思いついたらまたやるかもしれませんが(爆)
リクエストあったら感想にでも書いてください。きっかけにして思いつくかもしれませんので。
かなり行き当たりばったりに書いてますから。「奇跡」がいい例です。
ここからは今作の話を。
メインはルリです。
ただ前半やけにユリカが突っ走りました。最初のプロットでは最期の笑顔しかなかったというのに下手をしたらルリを食いかねませんでした。奇跡のシーンなんか全く影も形も無かったです。むしろ、なるべく本当の奇跡ではなく、人の思いが起こした結果としての奇跡を書こうとしてたのに……さすが公式ヒロイン。あなどれん(笑)性格がちょっと違うという突っ込みはご容赦を。天然のままでは登場させようが無かったので。私の好みとも言いますが(爆)
中頃から、ルリが動いてくれたのはいいんですが、今度は止まらない。よっぽど言いたいことがたまっていたようです。順序の整理に苦労させられました。どうでしょうか?まあルリに関してはほとんど予定通りです。メインなんだから動いてもらわないと。
最後は‘闇’の二人。ここ以外ではラピスはろくに話してません。ここのためだけについて来させました。最後は連作の締めとして二人を使いたかったんです。わりと動いて長くなりそうになったので慌てて切ったのは秘密です(爆)メインが退場した後が長くなったらまずいですよね。
次回は何の構想も残ってないので間があくと思います。せっかくここに投稿してるんだから時ナデのキャラも一回使ってみたいなあ。なんて思ってます。そんな事言っておいてまた‘闇’を書くかもしれませんが(笑)まあ、短編なのは間違いないです。連載やる度胸も、根気も、集中力も無いですし、さらに致命的にネタが欠けてますので。個々のシーンしか思いつかないんです、私。
それでは長くなりましたがこの辺で。
アクションが一つも無い、シリアスのみ、語りのみのこの短編
お読みくださってどうもありがとうございました。
代理人の感想
ん。(首肯)
・・・・ま、これ以上は野暮かなと。