「データから予想は出来ていたけど……」

 以後は言葉にならない。
 イネスはただ黙って唇を噛み締めた。
 その目の前に表示されているのは一枚の画像データ。
 アマテラスより帰還した‘闇の皇子’が持ち帰った今回の戦乱における最大の鍵。

 A級ジャンパーを翻訳者として取り込み生機融合体として存在する‘遺跡’

 奴等がそれを目指していたのは解っていた。だが、実現は不可能。そうイネスは判断していたのだ。如何に遺跡との親和性を先天的に上げられたA級ジャンパーとはいえ‘遺跡’自体は無機物に過ぎない。生体であるA級ジャンパーと完全に融合させるなど机上の空論に過ぎない筈だった。人体は僅かな異物ですら体内に取り込むことは容易い事では無い。拒絶反応という名の防衛機構が厳然として存在するからだ。まして神経組織レベルでの融合など不可能だと思われていた。たとえ、実現したとて被験者が正気を保てる筈が無い。人間は三次元の存在だ。対する遺跡は四次元の存在。存在する次元すら異なるのだ。その状態で此方からのイメージを伝達する翻訳機としての能力を発揮できるだけの精神を維持するなど奇跡以外の何物でもない。実際これまでの戦いで得られたデータからは融合実験に用いられたA級ジャンパーは全て精神を崩壊させ人としての特性を喪失、結果一方的に遺跡に取り込まれていた事が解っていた。
 未だ奴等に捕われた‘彼女’がその実験に供される前に助け出す。それが彼の目的の一つであったのだ。それ故に時間とさえ戦って‘彼’は今の力を身につけた。実戦経験があるだけのただの素人が、太陽系圏屈指の戦闘技能者へと。それもまた人の執念が実現した不可能を可能とした一つの奇跡。

 だが、為された奇跡は間に合わなかった。

「事実は事実だ。己が目で見たものを否定する事など、出来はしない」

 だというのに彼の言葉には何の動揺も無い。

「確かにそうだけど…… 成功例があっただけでも驚きなのに……」

 その成功例がよりにもよって‘彼女’であった。
 実験に供されたA級ジャンパーは数百人に及び、さらに奇跡としか言い様が無い確率での適応。
 容易に納得できる物では無い。
 だが、彼が言うように事実は事実。たとえ科学者としてのイネスの理性が否定しても現実は覆らない。

「驚いていても仕方がないさ」

「……そうね」

 事実が覆らないのなら自らの手で覆す。
 それが彼等の行動理念。
 たとえ何に願った所で奇跡は起こらない。神も悪魔も、運命も予言も信じるに値しない。たとえどれほど低い確率でも奇跡は人為によってのみ起きる。

「……で、見た感想はどうだ?」

 彼が改めて尋ねる。科学者としてのイネスの見解を。

「どうやって実現したのかは正直解らないわ。無理だと判断していたんだもの。奴等の中に私には想像できないほどの天才がいたか、それとも真に奇跡的な偶然か。ただ一つ確かな事は奴等が生機融合体として存在する‘遺跡’を手にし、利用する術すら手に入れたと言う事。まだ、完全では無いけれど、此処までの段階を実現する事に比べたら人一人の精神を操る事なんか児戯に等しいわ。薬物は使えなくても、催眠、暗示、他にも幾らでも手段は有る」

「……なら」

「ええ。近いうちに奴等は実現するでしょうね。艦隊レベルでの跳躍制御を」

 それは、奴等の活動が表に出て行くことを意味する。連合と戦いうる力を身につけた以上奴等は起つだろう。三年前の戦いでは為しえなかった正義の実現に向けて。

「なら、対応を変える必要が有るという事か……」

 いかに彼等の戦闘技術が高くとも、跳躍という切り札を持とうとも、一機、一隻で艦隊と正面からは戦えない。
 此方も繰り出す必要がある。ナデシコCという「戦略兵器」を。
 戦場の全てを支配下における現代戦における最強兵器を。
 ……たとえそれが彼が巻き込むまいと誓った少女を利用する事になろうとも。

「アキト君……」

 イネスには掛ける言葉がない。彼―アキト―にとってその誓いは残された唯一の希望でもあったのだから。

 せめて、あの子には平穏を。

 義妹に、養女には穏やかな幸せを。それが今となってはアキトに残った人としてのただ一つの願いだったのだから。復讐鬼と成り果てた彼の義兄として、養父としての。
 だが、それはもはや叶わない。

「勝つためには、必要だ。あのシステム。使いこなせるのは彼女とオモイカネだけだろう」

 あくまで冷徹に告げる。
 一度その力を見せてしまえば、そのシステムは「兵器」と認識され、警戒と監視の対象となる。
 ボソンジャンプを可能としたA級ジャンパーが狙われたように、システム掌握を操れるマシンチャイルドも今以上に狙われる事となる。
 アキトが望んだ平穏は彼女にとって遠い物となるだろう。
 それでも、勝つためには使わざるをえない。

「そうね。ラピスには貴方のサポートをしてもらわなければならない。そして、ラピス以外にあのシステムを扱えるのは‘電子の妖精’ホシノ・ルリ、彼女しかいない」

 それだけの電子戦能力が必要とされる。

「なら、躊躇は不要だろう。あれが稼動すれば俺達の勝ちだ。それが犠牲が最も少ない」

「その通りね。たとえ私達が躊躇っても連合軍が使うわ。生み出された物は必ず使用される。人類はパンドラの箱を開け続ける業を背負った存在なのだから」

 システムが完成した時点でいつか使用される事は決まっていたのだ。それがこれから使用されるに過ぎない。

「俺は彼女のガードにつく。奴等が彼女をも標的としているのは間違いない。さらに、ナデシコCを使うならおそらく人材を集める必要があるだろう。それには彼女自身が当たる筈だ。つまり、地球に降りる。密室たる戦艦の中から出てくるのなら、まず間違いなく動いてくるからな」

「それを逆手にとって実行部隊を壊滅させる気?」

「ああ」

 今更利用する事に躊躇いなど無い。それに……

「俺の生存は既に知られてしまった。なら、別れの言葉位掛けてもいいだろう……」

 もう二度と無い筈だった邂逅の機会。
 それが与えられた。必然によって。
 何処までも現実は皮肉だ。

「そう……。任せるわ。私は自分の仕事をするだけよ。最終調整。まだ、必要だからね」

 イネスはそう答える。

「ああ。それこそイネスにしか出来ない。任せた」

 そう言ってアキトは踵を返した。ルリの行動予定の調査にNSSとの連携。する事は幾らでもある。
 部屋を出る寸前足を止め振り返らずにイネスに問い掛ける。
 敢えて聞かずにいた質問を。

「……分離は、可能か?」

 ただ一言。イネスの返答はただ沈黙。

「……そうか」

 それで答えを悟ったのだろう。それ以上何も言わずにアキトは部屋を出て行った。
 残されたイネスが虚空に向かって呟く。

「どう、答えたらよかったのかしらね……」

 その言葉を聞くものは無く。当然、答えも返らなかった。






解呪






 火星の大地に立つのはただ一機。
 凄まじいとしか言い様の無い漆黒と真紅の激戦はたった今決した。
 コックピット中央をサレナの右腕に貫かれた夜天光はその直後に爆散し、外道の生を終えた。
 サレナがまとう漆黒の鎧も満身創痍。何時崩壊してもおかしくは無い。
 だが、その鎧はそれでも崩れ去る事無く主の身を覆っている。
 まだ、漆黒の鎧には意味があるとでも言うように。

「『亡霊』まだ動けるみたいだよ。遺跡に向かってる」

 通信士の白鳥ユキナがそう報告を上げた。

「そうですか……構いません。‘あの人’が確保するなら。それでも良いと思いますから」

 機動戦艦ナデシコCの艦長席でルリはただそう答えた。その身は未だナノマシンの発光を続けている。火星圏全域のシステムを今彼女は完全に掌握していた。例外は軌道上に存在する白亜の船と今報告の上がった‘彼’の黒機のみ。
 
「いいんですかい? 艦長」

 副長のサブロウタがウインドウ越しに問い掛けた。今彼は機上。敵機六連の掃討を終えたばかりで未だ艦に帰還していない。
 彼の他にもリョーコ、ヒカル、イズミがいる。その所在地は‘彼’よりも遺跡に近い。彼等を動かせば先に確保する事もできる。そして、今回の乱の事後処理で遺跡の扱いは最重要課題だった。所属不明機に渡していい物では無い。
 それでもなおルリは言った。

「構いません。‘あの人’が迎えに行くのならそれが最善です。再会に水を差すのは無粋という物です。それに貴方達も無傷という訳では有りません。帰艦してください」

 そうルリは判断した。
 そう彼女は信じていたのだから。復讐は為され、奪還も成った。なら、あそこに居るのは‘闇の皇子’では無く只の‘彼’だと。
 ‘彼’が‘彼女’を迎える。それが最も自然なこの乱の終結だと。
 勿論それでは終われない。それはルリも理解している。これからの戦後処理は容易では無い。A級ジャンパーは大きく数を減らし、其の価値は飛躍的に跳ね上がった。さらに、自分の見せたシステム掌握。現代戦における絶対の戦略兵器。これにより彼女たちマシンチャイルドすら警戒と監視の対象となる。
 故に、何事も無かったかのようにもとの生活には戻れない。3人でラーメン屋の屋台を引いていた日々は既に二度と帰らない。だが、それでもせめて一時。其の夢を見たかった。皇子様が悪い魔法使いを倒してお姫様を助け出す。そしてその後はハッピーエンドで終わる。そんな夢物語を。
 
 だが、現実はそんなルリの些細な夢すら許さないほど残酷だった。
 ‘闇の皇子’は光の下に戻る事無く、血塗られた両手でお姫様を抱く意志は無かった。
 ‘彼’が為そうとした事は只一つ。永劫に捕われ、利用され続けるだろう‘彼女’の開放。
 たとえそれが一片の救いの無い物であっても。



 遺跡の前にサレナが立つ。
 金色の女神と化した‘彼女’の前に。
 漆黒の鎧は未だ崩壊せず其のうちに隠された姿は表に出ていない。
 
(心を纏う鎧は、まだ必要という事か……)

 自重気味に心の内で自らを皮肉る。
 
(お前と遣り合う方が遥かに楽だ。なあ、北辰)

 たとえ表層を取り繕おうと己が心は弱いまま。そう簡単には強くは成れない。
 くしくも北辰が言ったとおりだ。

 たとえ鎧を纏おうとも己が心は守れない。

 しかし、それでも漆黒の鎧は砕けない。何時崩壊してもおかしくないほどの損傷を負いながら。
 まるで、まだ己の役目は終わっていないとでも言うように。

「牙に魂など宿らない。そう思っていたんだがな」

 そう、呟く。
 ブラックサレナはルリやラピスのパートナーたるオモイカネやダッシュとは違う。備えるのは武器管制のシステムであり、機動制御のシステムだ。AIとしてのパーソナリティなど無い。筈だ。
 それでも、なお砕けぬ其の姿を見てアキトにはサレナの声が聞こえたような気がした。意志を感じた。己が主の守護を其の身に課した騎士の姿をそこに見た。

「……俺にはもったいないほどの機体だったな」

 答えは返らない。サレナはただ、在り続けるだけだ。
 
「その忠義感謝する。しかし、助勢はいい。これは俺が成し遂げなければならないことだ。お前の手は借りられない」

 たとえ、共に戦場を駆けた牙といえどもここから先は。
 半身としてこの身を支えるラピスの手も借りられない事なのだから。
 此の先に心を守る鎧は不要。
 此の先で受ける痛みは全てこの身に、この心に刻み付けねばならないものだ。

「お前の役目は、北辰を倒し俺の復讐を為す牙。其の役目は既に完遂した。だから後は誇りを持って見届けろ」

 答えぬ黒機にそう主命を下し、アキトはハッチをあけて機外に出た。

 目の前にあるは‘遺跡’
 かつての無機な外観はそこに無く美しく咲き誇る金色の花としてそこにある。
 黄金の花弁のその中心に座するは‘彼女’
 嘗て彼が己全てと引き換えにしても取り戻さんと欲した存在。
 その彼女は髪の一房すら揺れることの無い金色の彫像と化して光の宿らぬ目を虚空に向けていた。



 その様子をルリは電子の目で確認していた。
 火星圏のあらゆるシステムは彼女の手の内にある。今‘彼’が立つ遺跡を取り巻く研究機関ですら例外では無い。彼の突入により破壊されても本来機密中の機密である。情報漏洩を防ぐためのセキュリティーは並みの物ではない。故に、彼女の‘目’となるカメラなどいくらでも存在した。

 そのルリの視界の中で漆黒の戦闘服に身を包み、闇色のマントを纏った‘彼’が‘彼女’へと近づいていく。

「皇子様がお姫様の元にたどり着いた、か……」

 血塗れになって。
 操舵席でルリが映し出した映像を見ていたミナトがそう呟く。後に続く言葉はかみ殺した。

「後は皇子様がキスの一つもすればお姫様の目はさめるんですかね?」

 艦橋に戻ったサブロウタがそう続ける。

 ‘彼女’の元にたどり着いた‘彼’はその眼前でただ目を瞑っている。

「そう、うまくは行かないでしょう。でも、それでもこの時は侵すべからざる物です」

 ルリがそう答える。
 現実は御伽噺とは異なる。それは理解している。奇跡など起こりはしない。
 だが、それでもこの時は祝福されるべきだ。それこそ、御伽噺のように。
 数々の試練を乗り越えて今‘彼’は‘彼女’の元にたどり着いたのだから。

 ‘彼’がゆっくりと目を開きそっと‘彼女’の頬に手を伸ばす。

 それが理想と言う名の暴力に引き裂かれた一組の夫婦の再会だった。



 遺跡の放つ金色の光の中で指先が伝えてきたのは無機な触覚だけだった。
 嘗ての暖かさも柔らかさもそこには無い。
 瞳は相変わらず虚空を見つめ焦点の合わぬまま。
 眼前に至った‘彼’を認識すらしていないだろう。
 その意識は深い眠りの中にあり語り掛けても決して目を覚ますことは無い。

「遅くなって……すまなかった」

 それでもなお、アキトはユリカに声を掛けた。
 三年前帰りが遅くなるたびに発していた時と同じ言葉を。
 しかし、その声は嘗てのものとは異なる。
 感情の変化がまったく感じられない。
 無機の言葉。
 ここに辿り着くためにアキトが被った冷徹の仮面は既に外れなくなっていた。

「結局俺は間に合わなかった。その責めは負う。他でもない俺が。今となってはそれしか俺にはおまえにしてやれることが無い」

 そう言ってユリカの頬から手を離す。その手を身を覆うマントの内側に差し込んだ。
 取り出したのは一振りの日本刀。
 鞘も、柄も、拵えすら漆黒。
 無銘のそれは今まで実戦で振るわれたことは無い。
 なんてことは無い。対人戦闘では刀の時代など400年前に終わっている。木連式抜刀術、修めはしたものの実戦で刀を振るう機会など無かった。それでも修めたのは機動兵器によるドッグファイトの際に役に立ったからだ。生身の対人戦では銃を持てば良かった。
 それを今初めて振るう。
 アキトの木連式の師・月臣元一朗が言っていた。

「俺は銃器は好かん。刀と柔それを持って俺は俺の武器と為す」

 と。何故かと尋ねたことがある。現代戦でそれは非常識極まりなかったからだ。

「弾丸には意志がこもらん。どんな思いで撃った弾丸と言えど放たれた弾丸は同じ破壊を撒き散らす。その冷徹さに正義を失った俺は耐えられんのさ」

 月臣は自嘲気味にそう答えた。

「くだらない俺のこだわりだ。おまえにもそうしろとは言わんよ。我ながら馬鹿な事だと思うからな」

 そう月臣は言った。聞いた時には理解できなかった。今でもそうだ。
 互いの生死を決する戦場でより有利な武器を選ぶのは当然のことであり、そしてよほど特殊な状況で無い限り無手や刀では銃には勝てないのだから。
 だが、今アキトは刀を手に取った。それは月臣の言葉が耳に残っていたからだ。

 刀には意志がこもる。銃にはこもらない。

 それならばここで選ぶのは刀であるべきだった。
 必要なのは戦闘力ではなく、己が心に刻む傷なのだから。刀に意志がこもるのならその傷はより深く彼の心をえぐるだろうから。
 
(弟子は師に似るか……因果だな)

 親友を撃ち心に傷を負った師。その傷を求めて刀を手に取る弟子。
 選ぶ武器は異なってもその心情は似かよる。
 アキトはわずかに苦笑した。

(たとえおまえが望まずとも俺はその傷を負う)

 そしてその傷を癒すつもりは無い。彼が彼である限り。

 そして彼は左手に鞘を持ち、右手を柄に添えゆっくりと腰を落とした。



 月ネルガル極秘研究所。その一室でイネスは一人たたずんでいた。

「生機融合。不可能と思われたその御技。それが実現されたのがよりにもよって艦長。神様とやらがいるなら呪い殺してやりたくなるわね」

 独り言だ。言ったところで何の解決にもならない。それでも言わずにはいられない。

「生体と無機物の融合を成し遂げられただけで奇跡の領域。そこからの分離なんて……」

 不可能だ。融合反応は不可逆。一度生機融合体として完成した物を再び元の生体と無機物に分けるなど奇跡が幾度起ころうとも不可能だ。混合物を純物質に分けるのは簡単ではない。それを100パーセントの収率で行わねば生体は生存できない。そんなことは不可能だ。
 仮に成功したとて既に彼女の精神は崩壊しているだろう。四次元の存在たる遺跡と神経レベルで融合した彼女にとっては時間は意味が無い。融合された瞬間も、今この時も彼女にとっては同じである。そんな環境に置かれてさえ崩壊しなかった彼女の精神には驚嘆するが、一度それに適応した精神が再び三次元に適応することは出来ないだろう。今度こそ間違い無く。

「そして、このまま彼女が遺跡と共に回収されれば、世界は間違い無く彼女を利用し尽くす」

 確立された跳躍制御法。そんなものを世界が放置しておくはずが無い。連合は新たなヒサゴプランを作り出すだろう。それを使って太陽系圏は跳躍の大航海時代を迎える筈だ。その贄となった彼女のことなど忘れ去って。 

「その間中彼女は夢を見せられ続ける。幸せな悪夢を。彼女の望む全てがそろった、でもその全てが偽物の夢を」

 決して終わることの無い夢を。
 終わらせる手段は一つ。

「無機の時は相転移砲すらはじき返した遺跡。でも、生体たる彼女と融合した以上その特性もまた併せ持つはず」

 生機融合体の遺跡は不可侵の存在ではない。つまり、‘殺せる’。

「それで彼女の悪夢は終わる……っくっ」

 だんっ!!
 右の拳をデスクに思い切りたたきつけた。走る痛みにかまわず激情のまま叫ぶ。

「こんな結論しか! 導けないなんて!!」

 何度も思考した。理論の裏をかけないか。見落としは無いか。この一月必死でそれを模索した。
 それでも結論は変わらない。この結論は覆らない。それは明日太陽がまた昇るのと同じぐらいに確かなことだ。
 彼には告げてはいない。だが、間違い無く彼はそれをすでに悟っている。そして、実行するだろう。彼女の悪夢を終わらせるために。二度と彼女が利用される事の無いように。己が手でそれを為す。
 そして、刻み付けるのだろう決して癒えぬ心の傷を。

「………」

 独り言すらもはや語れない。祈る相手も無い。
 彼が出撃してから時間は流れた。
 もう決着はついただろうか? もう彼女の元に辿り着いただろうか?
 彼は勝つ。それは間違い無い。自らを鍛え研ぎ澄まし続ける彼が外道ごときに遅れを取る筈が無い。
 それは絶対の確信。
 ただ、辿り着くのは望まない自分が此処にいる。
 
「叶わないでしょうね。この望みは」

 イネスはそう最後に一人呟いた。



 ルリは一瞬呆然とした。
 ‘彼’の構えは抜刀術のそれ。繰り出されるのは間違い無く必殺の一刃。
 それを理解した時ルリは状況を全て理解した。

「サブロウタさん! 出てください。あの人を、アキトさんを止めて!!」

 それは遅すぎた命令。
 その突然の命令にサブロウタが了解の答えを返す前にアキトの一閃が閃いた。



 閃いた一刀は‘彼女’を逆袈裟に右脇から左胸部を切り裂いて抜けた。
 肋骨を断ち切り、心臓を切り裂いて。
 即死の筈だ。人間なら。
 金色の彫像は一滴の血も流さない。切った感触は人の物と変わらなかったというのに。
 本来遺跡が持っている筈の防衛機構ごと切り裂かんとした彼の一刀は何の抵抗も受けず不可侵の筈の身に突き刺さりあっさりと切り裂いた。

 ゆっくりと金色の光の明滅が収まる。それと同時に傷口から血が滲み出した。切り裂いた個所からすれば鮮血が噴出してもおかしくは無い。だが、血はゆっくりと流れ出す。止まった時が少しづつ流れ出していくように。
 それを見てアキトが語る。
  
「せめて最期は俺の手で、人としてお前を殺す。今となっては、それがお前を守れなかった俺がお前にしてやれる最後のことだ」

 不死の存在のまま利用され続けるぐらいなら。他ならぬ自分の手で救済と言う名の終末を。
 翻訳機として扱われた妻をせめて最後は人として。夫たる自分が。
 
 分離は続く。死したのは生体たるユリカのみだ。四次元の存在たる遺跡は時の存在する限り不滅。ただ、生機融合体たる遺跡はたった今間違い無く死んだ。黄金の花弁は時を巻き戻すように閉じ、元の立方体へと形を変えて行く。同時に金色の彫像たるユリカの体に赤みが差し生身としての質感が取り戻され、遺跡から解き放たれていく。
 その身には既に生命の痕跡は残らない。遺跡からの分離の唯一の条件とは生体たるユリカの死のみだったのだから。分離されたユリカに命の火が残っている筈が無い。故に最後に一言も残すことなく。ミスマル・ユリカは逝った。
 崩れ落ちるその体をアキトが受け止める。
 その瞬間何かが聞こえた気がしてアキトは一瞬動揺した。
 が、直に冷静さを取り戻す。その表情は動かない。

「お前を切ったと言うのにな。この身には何の動揺も無い。冷徹の仮面は生涯取れそうに無いな。ただ、これだけは誓おう。この痛みは決して忘れない。俺の心についたこの傷は俺が生きている限り癒さない。この痛みを抱いて生きていこう。枯れ果てたこの身に残る全てにかけて」

 それが彼が誓える全て。
 もはや完全に以前の形を取り戻した遺跡の放つ光の所為だろうか?
 流す涙すら失ったその瞳から一滴の水滴が流れ落ちたかのように見えた。
 


 以後遺跡は沈黙を守る。
 ネルガルにより接収され、研究は進められるが二度と翻訳者を取り込むことは無かった。
 それが遺跡が新たな特性を得たためか、ネルガルの意向かは解らない。
 ただ、跳躍制御には更なる時間が必要となった事だけが事実として残っている。
 「亡霊」は妻の亡骸と共に姿を消した。
 以後二度と現れる事は無かったという。
 ‘闇’の存在は‘闇’に消えた。
 一切の痕跡を残すことなく。
 かけられた誓いが果たされたか?
 知る者は彼ら自身を置いて他に無い。










――ユーチャリス艦橋

 この艦には二人しか乗員は居ない。船体を構成する大部分が武装。居住空間はその艦体に比して驚くほど少ない。ユリカの亡骸はその一室に横たえられている。
 帰還したアキトは何も語らず、ユリカをその一室に横たえると直に艦橋に戻ってきた。

「側に居なくて良いの?」

 ラピスが問う。

「いい。あれは既にユリカではない。それに、感傷に浸る権利など俺には無いからな」

 ユリカを殺したのは自分だ。その死を悲しむ権利はアキトには無い。が、

「そんなことは無いよ」

 ラピスが否定した。これ以上無く明確に。一片の疑問も無く。

「……何故、そんな事が言える?」

 あのままでもユリカは生きていけた。
 たとえ利用されるものでもあっても幸せな夢を未来永劫見ていけた。
 それを許せなかったのはアキト。
 確認する術は無いとしてもユリカの意志も確かめず刀でもってそれを否定した。

「ユリカの言葉、聞いた筈だよ」

 そのラピスの一言でアキトの思考は完全に停止した。

「私はアキトの目、アキトの耳。アキトが見聞きしたものは全て私も認識できる。逆もまた真。私が聞いたものをアキトも聞いた筈」

「……幻聴だ。ラピスは俺の願望に同調したに過ぎない」

 沈黙の後その言葉を搾り出す。

「あの時ユリカは既に死んでいた。それは間違い無い。それがどうやって言葉など残せる?」

 あれは幻聴の筈だ。そうでなければならない。その言葉はこの傷を癒してしまうから。そんな物にすがりつくなど許されることではない。

「幻聴なんかじゃない。私は確かに聞いた。アキトにも解っている筈。あれは間違い無くユリカの遺言」

 それでもラピスは確信をもって告げる。アキトにとって忌むべき癒しの一言を。

「『ありがとうね。アキト』最期にユリカはそう言った。聞いた筈だよ。アキト」

 死者は語らない。それは、絶対の真理。打ち破れぬもの。
 それでもアキトは聞いたのだ。分離されたユリカを抱きとめた時に。
 懐かしい、明るく穏やかな、優しい声を。

 それもまた一つの人為による奇跡。
 死に行くユリカがなんとしても残したかった言葉。
 自ら傷を背負おうとする夫の傷を癒す感謝と許しの言葉。

「だから、今ぐらいは泣いてもいいと思うよ。アキト」

 ラピスが続ける。いつもの無感情な声ではなく穏やかな声で。

「泣く? 俺が?」

 既に涙など枯れ果てたはずだ。そう言おうとしてアキトは気がついた己が両目から流れる水滴に。
 それは、紛れも無く枯れ果てた身には流せない筈の涙と呼ばれる物だった。

 

 これはある乱の終結の顛末。
 ‘闇’に消えた「亡霊」に与えられた癒し。
 それが彼の誓いを侵したのか、より強固なものにしたのかは解らない。
 ただ、その後の彼らは‘闇’の中で戦いを続けたと言う。
 最期まで生き抜いて、生き足掻いて、そして‘闇’の中へ消えたと言う。
 絶望にも、虚無にも屈することなく。
 それが、何よりの証となるかもしれない。






後書き


 どうも、第十二作です。

 ……………ダークです。言い訳のしようが無いほどダークです。
 どうしてしまったんでしょうか、夕瞬は。気がつかないうちに此処の電波に当てられたんでしょうか。
 最初から染まりきってたじゃ無いかというご指摘はご容赦を。
 少なくとも最初はそうではなかったんですよ。間違いなく。

 今作だって最初の動機はアキト×ユリカを書こうと思ったからなんです。
 頂いた感想を読んでいるとアクションはユリカが好きな人が割と多い様なのに私は一作も書いてない。
 ユリカの難しいキャラ性の所為ですが、此処は一つ挑んでみようと。
 ユリカが中心に来るようなネタを模索しました。

 結果がこれです。
 ネタを劇ナデで探したのが間違いだったのか……
 劇ナデでのユリカの出番はアマテラスとラストしかないんです。そこでネタになる矛盾を探したらこんな物を思いついてしまいました。余りにもあっさりラストで分離してたので……
 「融合解除不可」スレイヤーズのゼルでは無いですが、混ざった物を単体に戻すのは非常に困難で完全復元など不可能です。そこを突いてみました。
 結果メインにする筈だったユリカがたった一言しか話せない内容。今作は思いついたネタの方に引きずられました。

 というわけでメインはアキトに為りました。
 まあ、これも悪くはないと思うんですけどね。相変わらず言う事を聞いてくれません。
 「テーマ」にユリカ。サポートにイネスとラピス。ゲストにルリでした。
 
 本当はもっと救いが無かったんです。
 具体的に言うとラストエピソードは構想段階ではありませんでした。
 何の救いも無いままアキトは誓いを胸に去る。
 そんなラストだったんですが、最後の最後でユリカが動いてこうなりました。
 誓いを侵す癒し、与えるべきだったのか、与えない方がよかったのか。私には解りません。
 ただ最後の最後でユリカとラピスがアキトに癒しをと主張しだしたので動くままに書き足しました。
 ラストエピソード。蛇足だったのか、必要な物だったのか?
 私の其の疑問は読者の方にゆだねます。
 それで良いと思えますので。

 それではこの辺りで
 ありましたらまた次回作にて

 乱文失礼いたしました。

 

代理人の感想

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう動いてしまったなら、

動いてしまったのならそれでいいと思います。

ええ。