3回目を語ろうか

【 第1話 : とにかく前に踏み出して 】

 

 最初の一週間は病室、次はネルガルの人達に尋問されて、その間ずっと考えてた。

自分はどうしてこんな事が出来ていたのだろう?どうして、もう一度この二週間を繰り返すことになったのだろうか?俺がもうちょっと早く決意できていれば……

 だから俺はやり直そうと思った。全部やり直せる、その為に俺はここに来たんだと。

 でも、駄目だった。やっぱり、やり直せなかった……

 

 それは、いつだったか。

 記憶が正しければ、そう、俺がナデシコAに乗ってた時代の俺自身の言葉。

 俺がナデシコAから降ろされた日。エリナの言葉に乗り、ボソンジャンプをして地球から月まで跳んだ。

 そして、俺が月で言った言葉。

 結局、あの人――イツキ・カザマ――を助けることが出来なかった。俺が何も出来なかったから、二回も殺してしまった。そんな考えに取り付かれていたときの、俺の弱音。

 あの時も、憎かった。

 俺の知っている人が、イツキさんが、遡ればユートピアコロニーにいた皆が、そのときは木星トカゲと言われていた奴等に殺されてしまったという事実が。

 過去がどうした。

 同じ人間だからってどうした。

 お前達のせいで、アイちゃんも、イツキさんも、死んだんだっ!100年前の騒動がどうしたんだよ、その一言があれば誰が死んだって構わないって言うのかよっ!

 これはもう、『僕達の戦争』なんだっ!!

 そう、俺が思った、最初の一言だった。

 

 だが、不思議なものだ。

 彼女を殺した奴等を、俺は最終的に許してしまっていた。

 不思議だ。

 本当に、不思議だ。

 ガイも、言ってたな。

 許しあうからこその正義だ、と。

 なぁ、ガイ。お前は、ムネタケを許せたか?

 俺は、俺は、草壁を、北辰を、山崎を、火星の後継者の奴等を、どうすればよかったんだ?

 教えてくれ。

 誰か、教えてくれ。

 誰か、誰か……

 ユリカッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 そして、こんな世界がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 ――テンカワ アキト

 夜。

 夜空に浮かぶ月が見えていた。

 都会の空は汚れてるなどと言うなかれ。夜空は綺麗だ。月は、とても美しい。

 空気がどうとか、人工光がどうとか、故に都会の空は汚れているとか。そういう事を言う奴等は、他をどうこう言う前に、だいたい自分の心が腐りきっている。そんな心で綺麗なものを見ようなどと、随分ご大層な話だ。

 野原に大の字で倒れていた俺は、暫く夜空を見上げていた。

 背中や、袖を捲り上げているために露出されている腕に触る草と、そして地面の感触。

 少しだけ湿っている草と大地が出す独特のにおい。

 風が流れて行き、草達が擦れる、風と緑の音。

 ほんの些細な、本当に些細な、口の中と言う味。

 そして、視界いっぱいに広がる夜空。星。月。

 これが五感だ。

 五感を失くしてしまった俺にとっては、随分と久しい感覚。見る、触る、嗅ぐ、聞く、味わう。

 俺は、ランダムジャンプをしたんだ。

 そうだ。

 俺は北辰と、死んだんだよな。

 体の節々が重く感じている俺は、その久しぶりの感覚すらも楽しく味わいながら、自分の腕を目の前に持ってくる。

 特訓に次ぐ特訓で、鍛え上げられた腕ではない。無茶に次ぐ無茶で、ボロボロになった腕ではない。

 昔の、俺の腕。

 そうだ……この光景は、俺が火星から地球までボソンジャンプをした時の風景だ。

 ユートピアコロニーから地球まで、父さんの形見だったCCを使って。

 そう言えば、ナデシコAがチューリップを介して火星から地球圏までボソンジャンプした時も、俺は草原のあった展望台にジャンプしてたんだよな。

 よっぽど、草には思い入れがあったのかもな。

 腕を視界から外して、そのまま元にあった位置まで静かに腕を戻す。

 良い。

 とても、良い。

 これを最高だと言わないでなんと言うのか。

 ユリカと同じ程に焦がれていた、五感と言う俺自身の感覚。俺の求めていた、『当たり前』の事。もう、長い間感じていなかった、俺という最大の証明。

 特に味覚。

 コックを目指していた俺にとって、一番大切だった舌。

 奪われたときの、あの憎悪感、あの恐怖感。

 二度と戻らないとイネスさんに宣言されたときの、あの失望感、あの絶望感。

 戻ってきて欲しかった俺の舌が、今、ここにある。

 泣いてしまいそうだった。

 なんて、血に汚れてしまった俺みたいなのに見せるには、もったいない夢なんだ。

 神よ。

 なんて、凄いプレゼントをくれたのだ。

 嬉しくて。

 ただ、嬉しくて。

 どうしようもない程に、この夢が嬉しくて。

 俺は静かに泣いていた。

「ちきしょう、ちきしょう……もっと月、見せてくれよ……」

 涙でぼやけてきた月を見上げながら、俺は誰に言うでなく呟いた。

 泣いてしまったら、こんなに綺麗なものが見えなくなるんだ。もっと、もっともっと、俺は月を見たいんだ。

 この夢に、続きがあるのなら。

 続きがあるのだったら。

 俺はサイゾウさんに拾われるんだ。暫くコック見習いで働いて、クビにされて、ユリカと再会して、ナデシコAに乗って。

 色んな事があって。

 皆と馬鹿やったり、死にそうになっても皆に助けられたり、助けたり。

 ルリちゃんに馬鹿とか言われたり。メグミちゃんと淡い恋愛したり。ミナトさんにからかわれたり。プロスさんが怒ったり。ゴートさんが唸ったり。ジュンが叫んだり。セイヤさんが怪しく笑ってたり。リョーコちゃんと模擬戦したり。ヒカルちゃんが同人誌作ったり。イズミさんが寒い冗談を言ったり。エリナが苦言を吐いたり。アカツキと競い合ったり。

 ガイと、短くとも強い友情で結ばれたり。

 九十九とゲキガンガーを語り合ったり。

 ユリカを……本気で好きになったり。

 これからなんだ。

 ここからなんだ。

 俺の、俺だった、最高の時間が、この草原から始まるんだ。

 思い出の、最初の場所なんだ。

 最期に、こんなに良い夢が見られるなんて。

 人生、捨てたもんじゃないな。いや、捨てたんだがな。

 でも、我侭を言うのなら。

 こんな夢まで見させてもらって、こんなことを言うのは滑稽極まりないだろうけど。

 せめて。

 せめて。

「この夢が、覚めませんように……」

 そう一言だけ呟いてから、俺は目を閉じた。

 もう二度と、開かれないだろう……

 

 

「夢という前提から、すでに間違いなのだがな」

 

 

 ……は?

 突如として頭の上から降ってきた言葉に、俺は再び目を開けることになった。

 夜空が見える。鮮明に。バイザーなしで。

 素晴らしい夢だな。

 いや、ちょっと待て。

 リアル過ぎやしませんか?

 がばっと勢い良く腹筋の力のみを使い起き上がる。

 目を右手で塞いでみる。

 ……あ、見えない。

 耳を両手で塞いでみる。

 ……音が遠くなった。

 腕を嗅いでみた。

 ……土の匂いだな。

 指を舐めてみる。

 ……ちょっと苦いよな。

 恐る恐る、ゆっくりと頬をつねってみる。

 痛っ。

 ……痛?

 夢なのにか?

 いやまて、それは迷信じゃなかったか?つっても試した奴はいないしな。

 あれ?

 ちょっと待て。

 これってもしかして……

 現実?

 死んだのに?

 アカツキ曰く100%ランダムジャンプするような不完全な機械で、死んだ、よな。

 一体何が……どうなって。

「どうだ。少なくとも夢ではなかろう?」

 後ろから聞きなれない声。

 そうだ、忘れてた。

 俺はその声に慌てて後ろへ体を向き直す。

 その視線の先には……見たことのない少女がいた。

 いや、見た事はないが、何者かは分かる。

 肩より少し長く揃えられている銀の髪。宝石のように澄んだ金色の瞳。

 マシンチャイルド。

 ルリちゃんやラピスと同じ人間。人を人と思わないクズ供が、遺伝子を改造して生まれた、人工的な人間。

 ……一体、誰だ?

「君は……」

「おはよう」

 君は一体誰なんだ?

 そう思い、言おうとた台詞は、少女の言葉によって遮られてしまう。少女の声は、外見からの印象よりもずっと低い声で喋ってくる。

 そして、警戒して何かを探るような、こちらからの質問は一切許さぬような、奇妙な雰囲気を醸しだしている。

 ……何か、訳ありか?

「目覚めの気分は、どうだ?」

「最高だよ。とてもね」

 差し障りのない質問。俺はそれを、適当に流した。

 俺の反応に何かを思ったのか、少女はふむと喉を鳴らして顎に手を当てる。悪いが、眉間にしわを寄せてそのポーズは、とても似合わない。

「何が最高なのだ?」

「ちょっとね」

 差し障りのない言葉というのを、脳内にあるだけ全て掻き集めて、俺は無難に会話を終わらせようとした。

 ここはどこなのだろうか。

 何故、五感が回復しているのだろうか。

 何故、俺は過去の姿をしているのだろうか。

 何も分かっていない。

 いや、正確には予想しか立てられない。

 それを確かめたいから、俺は目の前の少女との会話を早く切り上げたかった。

 しかし、少女の言葉によって俺はその考えを捨てなければならなくなる。

 一歩だけ俺に近づいた少女は、ポーズを固定したまま俺を見下ろしながら一言だけ呟いた。

 

「五感が戻って、か?」

 

 と。

 その言葉を聞いた途端、俺の脳内はフリーズを起こした。

「そうでなければ、我の目を見ながら話すなど、出来ぬ筈だからな」

 淡々と語る少女。

 何故?

 どうして、この少女は俺が五感を失ったことを知っている。

 少女を見上げながら――いや、気が付いたら睨み上げていた――俺は頭の中に泡の如く薄い疑問が浮き出てきた。

「何者なんだ、君は」

 その言葉。

 俺自身が言ったその言葉によって、フリーズを起こして働かなくなっていた脳が急速に働き出した。

「その問いは後から答える。貴様、今は何年か、分かるか?」

 やはり易々と俺の言葉には答えないか。

 しょうがない。今は少しでも情報が欲しい。多少理不尽な感じもするが、少女の質問に答えるしかないだろう。

「……2204年」

 一種の賭けであった。少女がこの言葉にどう反応するか、それによる賭け。

 おそらく、俺の考えが正しければ、今は2204年ではない。

 たぶん過去だ。

 俺が昔二週間の時間を逆行したように、今回も過去に逆行したのではないだろうか。それも、年単位での逆行。

 もし、この話に少女がついてきたら……それは普通じゃない。

 『もし』という仮定自体が既におかしいのかもしれない。彼女からしてみれば、俺はただの野原で寝転がっていた他人に今の年を聞いてきたのだから。

 この少女は、俺の事を知っている。

 俺が、未来から来たかどうかは別として、最低でも五感を失っていた時の事を知っていることになる。

 そして、俺が現在陥っている状況を知っている。

 少しだけ用心するように言った俺の言葉に、少女は顎から手を外して、足元に置いてあった物体を俺にパスするように蹴り放つ。

 狙っていたかの通りに軽い弧を描きながら、飛んできた物は俺の胸に当たってから膝に落ちる。

 飛んできた物は黒い布、ではない。これは……!?

「俺のマント!?」

 そう、俺のマントだ。俺が着ていた、あのマントだ。

 何でこんな所に?

「それにある情報通信機を見てみろ」

 マントを持ち上げて現在進行形で驚いている俺に、少女は抑揚のない声で言ってきた。

 もう少し感情を込めて、無理に押し殺したような声をしなければ、結構可愛い声になると思うのだが……関係ないか。

 それはともかく、情報通信機だっけ?聴き慣れない言葉だけど、多分コミュニケの事なのだろう。

 俺の記憶が確かならば、コミュニケは戦闘開始前に内側のポケットに仕舞ったな。

 マントを広げてから探り、とりあえずコミュニケを探してみる。

 ……あれ?

 ない。

 ここに仕舞ったと思ったのだが……いや、あった。反対側だったのか。

 とりあえず少女の言っていた通りにコミュニケを見てみる。それなりに操作はしてみたが、全くと言って良い程に作動しない。

 まぁ、今が過去だとしたら、未来の受信機を使って反応する訳はないな。

 今のコミュニケで使用できる機能は、自動受信されている時計くらいか。

 1:47

 真夜中だな。

 間違いなく真夜中だ。

 ……いや待てよ。

 確かコミュニケをこう操作すれば、年月日の確認も出来たはずだ。時計と同じく、それも自動受信型だから“今”がいつなのかを確認できるだろう。

 おぼろげな記憶を当てにしてコミュニケを操作してみる。

 間違えること数回、ようやく目的の画面が目の前に表示された。

 2195年7月10日

 やはりか。

 ここは過去。何事もないことにされた、のか。

 予想はしていたが、今までの生き方全てを水に流されてしまったようで、心の中に少しだけ穴が開いたような感覚がした。

「理解できたか?」

 呆然としている俺に、少女は静かに語りかけてきた。

 理解。

 理解は出来た。

 俺が未来から来た事。そしてなにより、それを知っている少女もまた、未来から来た可能性がある事。

「できたよ。君も、未来から来たんだね?」

「察しが良いな」

「五感が薄くなると、思考能力だけが武器になるからね」

 そう言って少し自嘲気味に笑う。

 その残された考える力は、今、冷静に考えれば、確実に間違った方向へ使っていた。

 その結果が、消された何万という命だ。

「なぁ」

「どうした?」

「君は結局、誰なんだ?」

 どうしても聞かなければならない質問。

 聴いた瞬間、今まで能面のように表情を変えなかった少女の顔に、陰りがさした。もしかしたら、聞かれたくなかったのかもしれない。

 だが、聴かない訳にはいかない。

 風が流れ、草が擦れ合う音のみが、世界を支配した。

 暫く互いに口を開かなかった。

 少女は困ったような悲しそうな、ごちゃごちゃした表情。

 俺は、どんな表情をしていたのだろうか。

 互いに無言で見つめ合うこと、おおよそ一分。

 少女がポツリと呟くようにこう言った。

「北辰、だ」

 

 

――北辰

 我の言葉に、テンカワ アキトは神妙な顔から一転して呆けた面となった。

 先程とは全く別の沈黙が降りかかる。

 驚いているのか?

 まぁ、我とて最初は驚いたからな。

 呆けていたテンカワ アキトが、急に気を戻したかのように口を開いた。

「え、と。凄い冗談だね」

 呆けた面から愛想笑いかと思われる表情に変えながら、テンカワ アキトはそう言ってのけた。口端が痙攣しているところから、あながち我の言葉が冗談だとは思っていないようだ。

 我は訂正の言葉を挟まず、ただテンカワ アキトを見下ろす。

 視線が暫く絡まる。

「本当、か?」

「ああ」

 間髪入れずに返答を返す。

 その途端に、テンカワ アキトの気配が急激に変化した。

 殺気。

 怒気。

 狂気。

 いつ味わおうとも、やはり辛い気配。このような気配を好むような外道であれば、我はどれ程楽だったであろうか。

 殺されるであろうか。

 殺されるであろうな。

 そうされても何も言い訳できぬ事を、我はしたのだから。

 仕方あるまい。

 すとんと、我はテンカ ワアキトの前で正座をするように腰を落とす。

 少女の体になってしまっている我の背丈で座ると、同じように座っているテンカワ アキトの方が高くなり、自然に我が見上げる姿勢となる。

「なにを……」

「好きにしろ」

 テンカワ アキトが完全に言い放つ前に、我は語調を早めて割り込むように一言だけ宣言する。

 煮るなり焼くなり、殺そうが犯そうが売り飛ばそうが、好きにすれば良い。

 愚かと言うなかれ。他の償い方もあるのかもしれないが、少なくとも我にはこのような償いの仕方しか分からぬ。

 もっとも、我で罪が償えるかどうか。

「所詮、我は罪人。好きなように裁くがいい」

 そう言い切り、我は静かに目を閉じた。

 

 

――テンカワ アキト

 本当にこの少女が北辰なのだろうか?

 確証や根拠などは全くない。

 全くない、のだが。

 何故だか俺は目の前の少女が北辰だというのを納得してしまっていた。

 口調が似ている?

 雰囲気が似ている?

 いや違う。

 上手く言えない。説明しろと言われても、説明などできやしないだろう。

 ただ、あの時の言葉が頭の片隅に引っ掛かった。

『汝のような者に、我は仕えたかったぞ……』

 ぴったりだ。

 目の前で目を閉じている少女は、確実にあの時の北辰だ。

 間違いないだろう。

 だからこそ、裁かれるのを待っている。

 罠か?

 違うな。

 殺し返すならば、俺が寝ている間に殺せばよかったのだ。わざわざ俺が目覚めるまで待っている必要はないのだから。

 本当に裁かれるのを待っている。

 あの時のあの言葉。

 土壇場でのあの言葉。

 たぶん、あの言葉達は北辰の本心だったのだろう。

 外道に堕ち切れなかった者の懺悔。

 だからこそ今、俺に生殺与奪を預けている。

 北辰を殺せる。

 俺とユリカが連れ去られたとき以来の夢だ。

 火星の後継者を潰す事。北辰を殺す事。

 奇麗事など抜きにして、人を殺すだけの覚悟が俺にはある……はずだった。

 だが、俺は戸惑っていた。

 北辰は罪人。

 俺も、罪人だ。

 罪人が罪人に裁きをかける。

 それで良いのか?

 それで、“今”の俺は満足なのか?

 北辰から視線を外して、俺は自分の右腕を見た。昔の、軟弱だった俺の腕。それでも料理をする時に作った傷が、とても誇らしかった俺の腕。

 捻れば、殺せるはずだ。

 首を絞めれば、殺せる。

 殺せるのだ。

 俺の幸せを全て奪った奴を、この手で。

 

 この、コックを目指していた昔の手で。

 

 ゆっくり、俺は再び北辰へ目をやる。

 目を瞑りながらも、殺されるのは今か今かと怯えているかのようにすら見える。

 ゆっくりと、北辰へ手を伸ばす。

 手を、首に

 首を絞めればいい。今の腕でも、力一杯絞めれば、五分以内には殺せる。

 目の前にいる北辰は、少女の姿。

 少女を殺すのか?

 何を今更。俺の奪ってきた命の中には、これくらいの少女がいてもおかしくはないはずだ。

 でも、情けない話だが、直接殺すとなると躊躇してしまう。手が見っとも無い程に震える。

 目の前にいるのは北辰なのに。

 恨め。

 憎め。

 怒れ。

 そうすれば殺せる。目の前にいるのは、あの北辰なのだから。

 今更血に汚れるのを恐れるな。

 北辰の首に触れるまであと僅か。その僅かな距離を詰める事が出来ず、手が震え、首を絞める事が出来ない。

 様々な手を使って、俺は自分自身を叱咤激励する。

 思い出せ。

 俺とユリカが北辰にさらわれた時を。

 燃える機体の中で、どうしようもない現実と、自分自身の無力さを思い知ったあの時を。

 俺を無理矢理拘束して、ボソンジャンプを使って死んだ事にされたあの時を。

 あいつは。

 あの男は。

 北辰はっ。

 

 震えが、止まった。

 首に近づけていた手を、俺はそっと離す。

 離した手を、俺は北辰の肩にぽんと乗せた。手を乗せた瞬間に、北辰の眉間にしわが出来のが分かる。

「目を、開けていいから」

 できるだけ、俺は優しい声を作って言ってみた。ルリちゃんやラピスに声をかけるときと同じく、声を低くしない。

 思いの他、変な声は出なかった。

 少し躊躇したのか、北辰はワンテンポ遅れてから目を開ける。

 金色の瞳に、俺が映っていた。

「なぜ」

 戸惑ったかのように、北辰が尋ねてきた。

 瞳に映った姿では確認できない俺の表情は、たぶん困った顔をしていると思う。

「俺が殺したかったのは、外道で最低の男だったから……じゃ、駄目か?」

 苦しいとは自分でも分かる。でも、上手く説明ができない。

 とにかく、殺すのは駄目だ。

 今の俺は、今の俺の腕は、コックを目指している腕だから。

 いや、違うかもしれない。

 覚悟が足りなかっただけだ。

 “この”テンカワ アキトという人物をも巻き込んでまで、俺は復讐をする覚悟がなかった。

 俺の言葉に北辰は、やはり戸惑ったかのような表情をしていたが、すぐに元の無表情に戻り、ゆったりと頭を下げる。

「感謝の極み」

 

 

――北辰

 本当に許してくれたのかは分からぬ。

 それでも、我は満足であった。暫く味わっていなかった、喜びという感情で満たされていた。

「ところで、何でお前女なんだ?」

 ふいに、テンカワ アキトは我から手を離しながらさも不思議そうに尋ねてきた。

 本来ならば最初に聞くべき事を。

 まあ、気が動転していたのだろう。さもなくば余程の天然痴呆(ボケ)だ。

「我も分からぬ。二日前より、この姿のままだ」

 頭を上げながら、我は知っている事実をそのまま口にした。虚言を述べる理由などないからな。

 二日前と言うのは、我が目覚めた時である。

 無固定跳躍をし、気が付けばこの場所で倒れていたのだ。

 この体で。

 何故か、見覚えがある気もする漆黒の外套(マント)を羽織って。

「二日前から……って、今までどうしてたんだ?」

「情報を集めていた」

 重ねて聞いてきた言葉に、我はしれりと答える。

 テンカワ アキトの所在を重点的に調べていたという点は、とりあえず伏せておいた。我の個人的な動きなど興味はないだろうからな。

 事実、所在は調べれども何故か

テンカワ アキト:2186年より行方不明

 と味も素っ気もない一文章で終わっていた。わざわざ国民情報処理施設へと直接忍び込んでも結果は同じであったので、情報事態は間違いないだろう。

 ……話が逸れたな。

 テンカワ アキトは我の言葉に「そうなんだ」と一言だけ呟いてから、腕を組んでなにやら考え事をするかのように黙り込んだ。

「どうしたのだ?」

「んー、いや。これからの事、考えなくちゃと思って」

 姿勢を崩さずに返事を返された。

「かの戦艦に搭乗するか否か、か?」

 さわさわと、風が流れる。

 テンカワ アキトは悩んでいると言うより、迷っているという風に頭を抱える。

「正直、なんとも言えない。歴史を変えたいとか、確かに思ってるけど……」

 そこで一度口を閉ざし、我をじっと見た。

「名前とか、変えるか?」

 脈絡がないな

 いや、テンカワ アキトはテンカワ アキトなりに考えた結果なのだろうが、我にとってはその考えは突飛過ぎる気がした。

 ただ先の話を誤魔化そうとしているとも取れるが。

「話が見えないのだが」

「ほら、一応女の子なんだし。北辰って名前もどうかとは思わないか?」

 そうか?

 変な名前だとは思わんが……もっとも、女との接触がほととしてなかった我の感覚はあまり信用などできはしなかったが。

 我は顎に手を当てて暫し考えてみる。

 名前、名前。

 ……………………

 …………

 思い浮かばんな。正確には、人の名前が思い浮かばぬ。

 出てくる名前が木連式の技名。

 まさか『流水』『紅蓮の舞』など名乗る訳にもいくまい。

「何か思いついた?」

 ふいとテンカワ アキトが尋ねてくる。我は首を横に振り、思い浮かばぬという意思を伝えておく。

「この名のままで良い」

「そっか、なら良いけど」

 どこかぎこちない笑みを浮かべながら、テンカワ アキトはそれだけ答えてくれた。

 ぎこちないのは、先程の話を逸らせた事から考えて、やはり語り難い内容があったのか。もしくは、単に我に対して無理をしているのかどちらかだろうか。

 いや、両方だな。

 少しばかり自虐的な思考を張ってから、我はすっと目を横に走らせる。

 人の気配。

 敵対的な気配ではないが……

「北辰?」

「誰か来るぞ」

 我の動きに疑問を持ったのか、尋ねてくるテンカワ アキトに対して我は小さく低い声で答える。

 その言葉にテンカワ アキトは暫時考えてから手を打つ。

「サイゾウさんだ」

「誰だ?」

 視界を戻してからそう聞くと、テンカワ アキトは苦笑いしているように、命の恩人かなぁ、と答えた。

 ふむ、恩人か。

 我はもう一度視界を気配のする方向へと向ける。

 そこに見えてきたのは、中年を適度に過ぎた男であった。

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、少し時間を進めよう。

 そう……約1年進めてみよう。

 

 

 


 ――Bパートにつづく――