頭上、不意に響き始めた重低音に足を止めると、透明なドームの屋根越しに、数隻の艦艇が上昇していくのが見えた。
 ヤンマ級無人戦艦二隻と、カトンボ級無人駆逐艦五隻からなる無人艦隊が鏃型の陣形を組み、少し離れた後方に旗艦であろうゆめみづき級一隻と、その護衛艦らしい木連型駆逐艦三隻が続く。
 艦艇数十一隻のかなり大規模な艦隊。それを目にした黒道和也は思わず呟いた。
「多いな……あんなに無人艦を引き連れて、何と戦うつもりなんだ」
 戦争終結後、木連軍の無人艦隊は大半が廃止・解体された。木連が地球連合に加盟し、統合軍に木連軍人が参加する今、数千隻の無人艦隊は過剰すぎる戦力であり、維持のためのコストも割に合わず、残された軍人の雇用維持という面からも不必要な存在だったからだ。
 しかし今、和也たちの目の前には相当に増強されつつある無人艦隊があった。
「カリスト行政区警備隊が、最近治安維持の名目で急速に戦力を増強して、他の行政区や政府から懸念が高まっているって本当なのねえ……」
「情報としては受け取っていましたが、実際目にしてみるとまるで戦争前夜ですね……」
 田村奈々美と真矢妃都美の二人も、不穏な空気を感じて目を細めていた。
「……これでは、何かあった時にフリージアの支援を求める事も難しそうです……」
 神目美佳が小声で言い、和也もフリージアがあの艦隊に見つからない事を祈った。
「軍の連中だ……何しにきやがった?」
「チッ、売国奴め」
 聞かせるつもりだったのかは定かでないが、すれ違いざまに二人の警備隊員が憎々しげに言い交わしたのが、和也たちの耳に届いた。
「嫌な雰囲気だね……」
「なんつうか予想以上だわねこれは。地球連合の奴らがヒステリー起こすわけだわ……」
「今の木連政府や軍……それに私たちもみんな、地球に擦り寄る売国奴というわけですね……悲しいです」
「……戦争はもう終わったというのに……」
 和也、奈々美、妃都美、美佳と、小声で囁き合う。
 周囲から感じるひりつくような敵意――――この警備隊施設は、あの戦争をまだ終わったと認めたくない連中の巣窟だ。
「これも、僕たちの故郷の今の姿か……」



 機動戦艦ナデシコ――贖罪の刻――
 第二十三話 帰郷



「カリストより、十一隻規模の艦隊の出航を確認。600秒後に再接近します」
「当艦の存在を悟られるなよ。機関停止してやり過ごせ」
「艦内警戒態勢パターンAを維持。セイレーン、シーサーペントの各ステルンクーゲル中隊は、即応体制で待機してください」

『草薙の剣』から直線距離にして数百キロを隔てた宇宙空間でも、ピリピリとした緊張感が充満する場所があった。
 統合軍所属の軽戦闘母艦、フリージア。現在作戦行動中の『草薙の剣』をバックアップするために待機中だったところ、友軍ではない艦隊とニアミスしてしまい、ブリッジ内に一気に緊張が走った。
 ブリッジの窓越しに、その艦隊のものだろう重力波推進の光が僅かに見え、ブリッジクルーは身を硬くしてそれが遠ざかるのを待った。肉眼で見える距離、とは宇宙空間では目と鼻の先と言っていいほどのニアミスであり、またフリージアは本来ここにはいないはずの艦だ。見つかったなら問答無用で攻撃を受ける恐れも多分にある。
 やがて艦隊の光が宇宙の闇の中へ消え、レーダー管制官が探知範囲外へ艦隊が出て行った事を告げると、誰もがほっと安堵の息をついた。
「はあ……」
 他のブリッジクルー同様に一息ついた露草澪は、ふとブリッジの窓から見える宇宙空間に目をやる。
 そこにもう青い地球の姿はない。数百万キロの距離を隔ててなおブリッジの窓一杯に広がる程の、途方もない大きさの星が澪の視界を埋めている。自分が今まで知らなかった世界の一端を目の当たりにし、思わず澪は身震いしていた。
 太陽系第五番惑星、木星。
 統合軍からの辞令が下り、乗艦でありながらあまり世話になった覚えのない軽戦闘母艦、フリージアに乗り込み、夜陰に紛れてこっそりと地球を離れ、そのまま地球圏のターミナルコロニー『スクナヒコ』から数度ボソンジャンプを繰り返し、ターミナルコロニー『タケル』からジャンプアウト、という道則を経てフリージアが木星圏――――つまりは木連の領域へと足を踏み入れたのが三日前。
 それからの三日間、澪はフリージアに留まり『草薙の剣』との連絡役に徹している。
「……なんだか、吸い込まれそうで怖いな……なんて言ったら怒られるかな」
 ぽつりと口から感想が出る。
 知識としては知っていたが、初めて肉眼で目にする木星の威容は澪の想像を超えていた。上下や落下の概念がない宇宙空間でありながら、頭上から圧し掛かってくるような圧迫感を感じさせるほどの強烈なスケール感。
 星全体は茶褐色の、厚さ五千キロにもなる分厚い雲に覆われ、それが機械の歯車のようにゆっくりと渦を巻いている。ゆっくりと言っても宇宙から見ればの話で、実際は風速数百メートルにも達する殺人的な狂風が吹き荒れているはずだ。
 その雲を構成している物質は主として水素とヘリウム。澪、と言うか現代人には核融合発電の燃料として馴染み深い物質だ。あと三割も質量があれば中心核の高温と高圧で核融合反応の炎を宿し、太陽と同じ恒星になっていただろう、いわば太陽になり損ねた星。
 余談ではあるが、太陽になり損ねても太陽系の惑星で最大の大きさを誇る威容が放つ存在感、そして重力はかなりのものがある。その強力な重力によって相当な数の小惑星を引き寄せ、軌道の内側へ侵入する小惑星の数を減らしているとされる木星は、太陽系の掃除機とも呼ばれている。澪が吸い込まれそうと感じたのもあながち比喩ではない。
 およそ人が住むには適さない過酷な環境。人が降り立つ計画もまったく立てられていない。そもそも固体の地表が存在しないからだ。当然、ナノマシンによるテラフォーミングすら到底不可能。
 だが、そんな人を寄せ付けない星であっても、そこに郷愁を感じる種類の人間はこの時代、すでに存在しているのだ。
「木星……木連……和也ちゃんたちの故郷、か」
 ガニメデ・カリスト・エウロパ、および他衛星国家共同連合体――――略して木連。その名の通り全部で67個存在する木星の衛星群を国土とする、れっきとした主権国家。今でこそ地球連合加盟国として協調路線を取ってはいるが、五年前に削除されるまで国名に『反地球』と銘打たれ、地球と激しく戦争していた事はまだ記憶に新しい。
 和也たち木星人にとっては祖国、故郷に他ならない。そんな事は今更言われるまでもない事実だったはずなのだが、木星と、その衛星に築かれた都市群を肉眼で見て、その時初めて皆が木星から地球に来たのだと実感した気がするから不思議な感じだった。
 ――そう言えば、わたしって小学生の頃まで、木星はまだ人が行った事のない星だって思ってたんだっけ。
 人が居住しているのは火星までであり、そこから先はまだ人類にとって未知の宇宙――――澪たち地球の一般人にとって、それが常識だったのがほんの五年ほど前。
 ところが実際は、100年前にはもう木星に人が到達し、国を興していたのだから、本当に事実も歴史も一部の人間の都合に合わせて“創られ”るものなのだとつくづく思う。
 地球連合の欺瞞はさておき、三日前に木星圏へ到達した折、五年ぶりに故郷の領域へと入った和也に、澪はこう声をかけたのを思い出す。

「任務だけど……和也ちゃんたちには五年ぶりの里帰りなんだよね。懐かしい?」

 それは何気ない一言のつもりだった。
 しかし和也は、メガネの奥で目を細めて、胡乱げな顔でこう言ったのだ。

「……懐かしいよ。嫌な思い出ばっかりだけどね」



 フリージアが木星圏に来たのはあくまで通常の訓練航海であり、その途上でターミナルコロニー『タケル』に寄港したのもその一環として、整備と補給を受けるためだ。
 格納庫のハッチが開かれ、消耗部品や生鮮食品、日用品などを納めたコンテナが無人フォークリフトによって運び込まれ、主計課がそれら物資を慌しくチェックしていく。これら補給が終わり次第、フリージアは木星圏での二ヶ月に渡る訓練航海に出る予定だ。それを控えてクルーには半舷上陸が許可され、下船したクルーがいそいそと嗜好品や特産品を買い求めたり、飲食店に行ったりする。さすがに飲酒は許可されないが、カラオケボックスなどで羽目を外す者も出るのだろう。
 そうして休息を楽しむクルーに紛れ、和也たち『草薙の剣』も『タケル』へ上陸したのだが、彼らの作戦行動はこの時点ですでに始まっていた。
「……じゃあ、三時間後に民間の埠頭でね」
「了解」
「はいよ」
「……はい」
『草薙の剣』は上陸後、普通に休暇を楽しむ風を装いつつ、こっそりとトイレで統合軍の制服から私服へと着替えた。
 澪を除く四人全員が一般人に変装したところで、向かった先はコロニーと木連の諸都市を結ぶ民間の星間貨客船乗り場だ。和也たちは貨客船『さんふらわあ7号』へと乗り込み、『タケル』を出航した。
 およそ半日の船旅を終え、着いた先は木星の第四衛星カリストだ。17世紀にガリレオ・ガリレイが発見した四つのガリレオ衛星の一つであり、現在では数千から数万人規模のドーム型コロニー都市が数個と、多数の軍事施設が点在している、木連の政治経済の要だ。以前は地球軍が木星まで攻めて来た場合の備えとして、各都市の周囲にハリネズミのような防衛システムを備えた木連本土防衛ラインの中心でもあった。
 その都市の一つ、ヴァルハラ主街区の宇宙船ターミナルで和也たちは下船し、あとは入国審査を終えれば、いよいよ和也たちは五年ぶりに故郷へ足を踏み入れる事になる……のだが。
「相変わらずというか、何もない星だね……」
 入国審査の順番待ちの時間、列が進むのを退屈そうに待っていた和也は、窓の外から見える景色を見てふっと呟いた。
 宇宙船ターミナルの強化ガラスの窓から見える外には、海も緑も何もない、荒涼とした無色の世界が地平線の果てまで広がっている。
 カリストは星全体が氷に覆われた冷たい星だ。地表の気温は平均して摂氏マイナス100度を下回り、大気層は存在しても人が呼吸可能なだけの酸素はなく、重力も地球の十分の一程度。人間が生存できるのはこのヴァルハラ主街区のような外界と隔離されたコロニー都市の中だけだ。
『ヴァルハラって、北欧神話に出てくる『死せる戦士の館』だよね? ……なんだか木星らしくないネーミングじゃない?』
 戦争で死んだ勇敢な戦士の魂が戦女神ヴァルキリーに導かれ、世界の終わりの大戦に備えて戦い続ける戦士の館――――神話に詳しくない人でも概要くらいは知っているだろう名前だが、和風のイメージが強い木連にはらしくないと、澪が率直な感想を口にする。かれこれ一時間以上待たされている和也たちの退屈を紛らわそうとしてか、澪は積極的に話を振ってきていた。
 このヴァルハラ盆地――大昔に隕石が衝突し、その衝撃波が波紋のような模様を作ったのだろう多重リング状クレーター――を初め、各地のクレーターなどに北欧神話にちなんだ名前がつけられたのは20世紀、まだ人類が無人探査機を送り込むのが精一杯だった時代の事だ。
 地名をそのまま使うのは大昔の、地球との戦争には何の関わりもない、自分たちの先祖でもある人々の働きに対する、先人たちの敬意だったのだろう。……といつもならいろいろと語る事があるのだが、
「カリストの各所に北欧神話由来の名前がつけられたのは20世紀だからね」
 和也は一言で終わらせてしまった。
『なるほど……歴史ロマンだねえ』
「そうだね」
『えーっと……すごいね?』
「そうだね」
『…………』
 会話が続かない。
『……なんか、せっかくの里帰りなのに、みんなあんまり嬉しそうじゃないね?』
 憂鬱そうな和也たちの顔色を見て、澪は戸惑い気味に言った。
「まあ、こんな形で里帰りなんて、なんだか複雑で……」
「あたしは帰ってくる事になるとさえ思ってなかったわ」
「……帰りたいと思った事は、正直ありませんでしたね……」
 申し訳なさに似た感慨を秘めている真矢妃都美と、その壮絶な幼少期の生い立ちゆえに木星社会に対する帰属意識の薄い田村奈々美、同様の理由でむしろ反感すら持っているであろう神目美佳。
 各自理由はまちまちではあるが、懐かしの故郷に感動の涙、というわけにも行かないようだ。
「お互いに捨てた、みたいな感じで出て行ったからね……正直、どんな顔をして帰ればいいのやら、って感じなんだよ」
 熱血クーデターの最中、草壁に捨て駒にされたあの時、和也たちは木星に、祖国に、捨てられたと思った。
 そして傷が癒えたあと、秋山の勧めもあって地球に渡る時には、自分たちが木星を捨てるつもりでオオイソへ渡った。
 帰ったところで、家もなければ待っている人もいない。統合軍からの命令さえなければ帰るつもりもなかった。任務は任務と割り切れても、皆、いまだ心の整理が付いていないままで里帰りをする事になったのだ。
 そんな和也たちに命じられたのは、木星へ潜入し、火星の後継者との繋がりがないか探れ、という任務だ。
『草薙の剣』が戦力強化に勤しんでいたこの二ヶ月の間、統合軍は先の火星圏での戦闘で軍の追撃を振り切った甲院の艦隊、その足取りを血眼で追っていた。
 逃げた先は一切不明だったが、そもそもあの規模の艦隊を保有し、維持し、おまけに新造艦の建造までやってのけるというのは並大抵の事ではない。相応の拠点、秘密基地の類があり、またそれを稼動させる膨大な量の物資を提供する勢力が存在するのは間違いなかった。
 この辺は推測だが、真っ先に疑われたのが木星だったのだろう。地球人の偏見だと言いたいのはやまやまだが、生憎そう言い切れないのが木星、というか木連という国だった。
 木連とは、ガニメデ・カリスト・エウロパ、その他数十の衛星がそれぞれ行政区として一定の自治権を有し、それらを秋山源八朗を現在の代表とする木連評議会が取り纏める連合国家の体制を取っている。木星人と一括りに言っても、そこには日系、高麗系、東南アジア系など複数の人種が含まれていて、建国初期の木連は習慣や言語の違いなどから起こる問題の調整に相当な労力を裂いていた。その結果がこの制度だ。
 各行政区は人口や生産量に応じて割り当てられた議席の分、木連評議会に議員を出して国の方針に発言する権利を持つ他、ガニメデ・カリスト・エウロパなどの財政規模の大きな行政区は独自の戦力も保有しているほどに自治権が強い。秋山政権がいくら地球との共存路線を取っているからと言って、それをよしとする行政区ばかりとは限らない、というわけだ。
 中でもここカリストは、草壁の生家があるせいか保守的・反地球的な風潮が特に強く、秋山政権との折り合いが悪い行政区の筆頭であり、地球連合からは火星の後継者の温床だと見なされている。この状況をなんとかしろと地球連合は木連政府に相当圧力をかけているようだが、度を越した譲歩は国民から売国的と見なされかねず、板ばさみ状態の秋山は難しい舵取りを強いられている。
 地球連合内には木連政府の腰の重さに業を煮やして、木星圏に統合軍の艦隊を、各衛星に地上部隊を駐屯させて反地球的な行政区を力づくで押さえ込むべき、という木連の主権を無視するような声も出ているらしい。それは避けたい木連政府と、なんとかして火星の後継者の頭を潰したい地球連合とがギリギリの折衝をした結果、和也たちが送り込まれたというわけだ。
「まったく、統合軍もバカな命令をくれたもんだよ……そんな事より、まだ訓練を続けていたかった」
『はあ、そんなに嫌なんだ……辞表書いちゃうくらいだもんね』
 チラリと周囲の目を気にし、小声で言った澪に、「ん……ま、まあね」と少しだけ口ごもる。
 澪の言う辞表というのは、冗談でもなんでもなく本気だ。大いに憤慨した和也たちは今度こそ統合軍とは縁を切ってやると決意し、澪を含めた全員で辞表を書いた。二ヵ月後に帰還したら本当に提出してやるつもりで、今はトウキョウの宿舎で机の中にしまってある。
 とはいえ、和也たちとて里帰りが嫌という個人的な理由で辞表を書いたりはしない。
 和也たちが業腹な本当の理由は別にあるのだが、澪にはそれを口にしたくなかった。
「つうても軍の命令だもの。嫌だっつってももう手遅れだわよ」
「命令拒否は軍法会議ものですからね。さすがに牢屋に入れられるのはごめんです」
 皆も同じ考えらしく、奈々美と妃都美が話をそらす。
 それに、と美佳。
「……お母さんが言っていましたからね……」
 お母さん――――つまりミスマル・ユリカ准将は、悶々としている和也たちにこう言ったのだ。
 そう言わずに、一度帰ってみるといいよ、と。
 ユリカの真意はよく解らなかったが、彼女がそう言うからには今の木星を見てくる事で得られる物があるのだろう――――などと考えていると、いつのまにか入国審査の順番が回ってきていた。
「IDカードを提示願います。それと人差し指をここに」
 コンコンとガラスをペン先で突っついた、あまり愛想のない入国審査官の中年女性に従い、和也は小さな機械に人差し指を差し入れた。
 一瞬、ぴりっと電気が走るような感覚。微細アームが和也の指から細胞を採取していき、程なくして入国審査官の前にあるコンピュータに和也の個人情報が表示される。
 この時代、本人確認の主流はDNA認証だ。カードに記録されているDNA情報と、この場で採取されたDNAをつき合わせて本人かどうかを確認する。指紋は勿論のこと、声紋や網膜認証ですらその気になれば偽造できてしまう技術が確立した事でここに行き着いたわけだが、悪知恵の働く人間はいずれDNAすら偽造してしまうだろう。偽造とセキュリティーのいたちごっこはきっと人類の滅ぶ日まで終わらない。
「確認しました。黒道和也さん……地球の日本在住の木星人ですね。入国目的は?」
「学校を今年で卒業したので、里帰りです」
「入国期間は?」
「一ヶ月ほどを予定してます」
「滞在場所は決まっていますか?」
「友達の家に泊まります」
「所持金は――――」
 データ確認と平行した口頭での質問攻めは、数分間続いてようやく終わった。幸いにして不審検知の警報が鳴る事はなく、審査官に不信も持たれなかったようだ。
 ウィンドウに表示されている和也の経歴――本籍地や学歴――は当然ながら『ぼくたち普通の学生です』と主張する嘘ばかりが列記されているが、それは正規の機関によって作成された、いわば偽造された本物というべき代物だ。それに地球へ移民した学生が里帰りというのも嘘ではあるが間違ってもいない。妙な表現だが。
 バレる心配はまずなかったが、和也はやれやれと息をついた。
「随分と確認事項が増えたんですね」
 以前はIDカードを機械にかざすだけであっさり通れたものだが、随分と煩雑になったものだ。……と和也が言うと、審査官の女性はむっつりした顔を崩さずに返す。
「最近の情勢もあるので治安対策のためです。不便になったとは思いますがご理解とご協力を」
「なるほどね……お勤めご苦労様です」
「いいえ。お帰りなさい」
 それまで事務的な事しか口にしなかった審査官が、不意に優しい声を出したので和也は「え?」と思わず振り向いたが、彼女はもう元の無表情に戻り「次!」と次の入国者を呼んでいた。
 ――お帰りなさい、か。
 無愛想で機械的な審査官が見せた一瞬の気遣いに、和也はようやく実感できた気がした。
 ああ、僕たちは帰ってきたんだなあ、と。



 和也たちが五年ぶりの帰郷に戸惑っていた頃、地球では夜の海を航行する一隻の艦影があった。
 木星標準時間では昼前の今でも、地球の日本時間では真夜中。現在日本近海の西太平洋を航行中のナデシコCは、紅白の鮮やかな船体を月明かりに淡く照らされていた。
 この二ヶ月、火星の後継者に大きな動きはなく、地球もその他の星も嵐の前の静けさ的な平穏が続いていた。
 いつか破れる事は確定している、しかしそれがいつになるのかは解らない、妙な緊張をはらんだ一時の平穏。そんな状況下で地球側の最大戦力たるナデシコCが無為に遊んでいるわけにもいかず、こうして日本近海での訓練航海を定期的に行っていた。
 つつがなく一連の訓練予定を消化し、今はヨコスカ基地へと帰還する途上。周囲数十キロ圏内には不審な船影もなく、艦内も当直のクルーを除いて皆、訓練の疲れで泥のように寝静まっていた。
 そんな気の抜けた時間の中、ブリッジには本来いないはずの人間がいた。
「理論上は200パーセント以上の最適化が可能……でも戦闘中にオモイカネのリソースを八割以上もそちらへ割くのは現実的じゃない。第一これほどの負荷に耐えられるほどの剛性を持たせるとなると全身の設計から見直さないと……」
 ブツブツと独り言を呟きながら、ホシノ・ルリ中佐は金色の瞳を精密センサーのように巡らせる。
 かれこれ三時間は作業に没頭していたルリだが、長時間のデスクワークによる眼精疲労と肩の凝りからは逃れられなかった。ふう……と作業の手を止めて身体をほぐし、シートのドリンクホルダーからすっかりぬるくなったコーヒーを手に取る。
「艦内ならびに周辺海域、異常ありませーん」
 ルリが手を止めたのに合わせて報告が飛んできて、ルリはそちらに目を向ける。
「ご苦労様です。引き続きよろしく」
「了解ー」
 軽い調子でひらひらと手を振ったのは白鳥ユキナだ。殲鬼との戦いで重傷を負った彼女もすっかり元の調子を取り戻し、こうして訓練航海にも付き合い、ブリッジで夜の番をしてくれていた。
 おかげでルリはやりたい作業に専念できる。それはありがたいのだが、
「ユキナさん、学校は……」
 今は休みの時期ではないのに、何日も欠席して問題はないのかと気にしているルリに、ユキナは「単位にはだいぶ余裕があるから、気にしない気にしない」とあっさり返してきた。それでルリは、ユキナが婦女子心身協力隊準構成員――――木星でのエリート候補生だった事を思い出す。
 普段の彼女からはあまり想像できない――失礼な事を思ってしまったとルリは内心で詫びた――が、そのまま木星にいたなら軍の仕官にだってなれただろうし、地球に来てからも文武両道に鍛えた彼女は陸上インターハイで大いに活躍すると同時に、卒業後は欧州の大学に留学して外交官を目指すという、普通の学生なら目を回すような道を突っ走っている。
 彼女と友人である事を今更のように誇らしく思うが、だからこそここで戦争の手伝いをするより、もっと有意義な時間を過ごして欲しかった。
 ――戦争に夢中な私が言えた立場じゃないですけどね……
 自嘲気味に思ったその時、不意に圧縮空気の音がしてブリッジの装甲ドア――二ヶ月前の戦闘で壊されたそれはすっかり直っていた――が開いた。
「ふたりとも、お疲れ」
 入ってきたのはユリカだ。「はい、夜食」と差し出されたサンドイッチを、ルリとユキナはまさかユリカの手作りではあるまいかと少し警戒しながら受け取る。どうやら食堂からもらってきた物のようで安心した。
 と、ユリカがウィンドウボールの中に顔を突っ込んでくる。
「ルリちゃん、頑張ってるのはいいけど、ちゃんと休まないとダメだよ」
「そうそう。あんまり遅くまで無理してるとお肌が荒れるよ」
 本来なら今、ルリは自室で寝ていてもいい時間だ。ただでさえ日中は訓練やら何やらに謀殺された後で、ユリカやユキナが休めと促すのも解る。
「これを仕上げたら休みます。……お気遣いどうも」
 ルリがそう言うと、なぜかユキナに意外そうな顔をされた。
「……なんですか」
「いや、ルリってこういう時、『体調管理には問題ありません』とか言っちゃいそうな」
「…………」
 言われてみれば自分でもそんな気がして、ルリは何も言い返せなかった。
 少し前なら作業を優先するあまり、休めと言われても聞かなかっただろう。ルリの中にあったのは、火星の後継者を殲滅したい、ただそれだけしかなかったから。
 だが二ヶ月前にユリカとケンカになり、それが大騒動に発展して、ルリはユリカや他のナデシコクルーから、自分がいかに人間として大切にされているかを知った。と同時に、それらにまるで目を向けていなかった自分を恥じた。
 だからこそ今、自分を心配してくれているユリカやユキナの気持ちを無下にはできないとルリは思った。
 するとユリカが、「んふふ」と嬉しそうに微笑ったのだ。
「ルリちゃん」
「……なんですか」
「ユリカ、ルリちゃんの事大好きだよ」
「…………」
 ユリカはルリの心境の変化が嬉しいらしい。いきなりの愛情表現に、ルリは気恥ずかしくて目をそらす。
「あ、ルリったら照れてる。かーわいい」
「……コクドウ隊長たちが帰ってくるまでに、これを完成させたいんです。邪魔しないでください」
 ニヤニヤ笑いを向けてくるユキナに憎まれ口を叩き、ルリは中断していた作業に戻る。
 ルリの目線の先、いくつものウィンドウの中ではテキストにして数万行にも及ぶ情報が、常人なら内容を判読する事さえままならない速さで流れていく。知識のある人なら、それが機動兵器の駆動系プログラムだと解るだろう。
『草薙の剣』に与えられる、四機のアルストロメリア・カスタムの機体はこの二ヶ月でほぼ組み上がっていた。設計担当のウリバタケが、ネルガルの全面協力によってコストを気にせず好き勝手に機体をいじれる環境を得て、水を得た魚のように活躍したおかげだ。
 一方で、一番の肝となる制御系プログラムの構築は遅れていた。ルリがこの訓練航海のような通常業務に追われ十分な時間が取れなかったせいもあるが、何よりこのプログラムにはルリが以前の経験を生かしてお手製の、従来型にはない特別な機能を組み込んだ。完成が遅れているのはそのためだ。
 遅れを取り戻すため、ルリは数万行に及ぶ長大なプログラムを組み上げてはその場でシミュレーターにかけ、問題点を見つけてはプログラムを組み直すという作業を繰り返していた。普通なら一巡で丸一日かかるような作業を数分で繰り返していくその手際は、もはや常人を遥かに超えた域にある。ルリを電子の妖精たらしめる情報処理能力と、オモイカネの演算能力があればこその荒業だ。
「『草薙の剣』のみんなかあ、そういえば今頃、木星に着いた頃かな」
 和也の名を聞いたユリカが、窓の外の夜空を見上げる。
 それにつられたように、ユキナも遠い目をして口を開く。
「あー、わたしも長い事帰ってないなあ……学校の友達とかどうしてるだろ」
「ユキナちゃんは、今は一人だとさすがに危ないかな」
「解ってますよ。拉致なんてされたくないですし」
 ユリカとユキナは笑っていたが、会話の内容はあまり穏やかとは言えない。
 木連の英雄、白鳥九十九の妹であるユキナは、護衛もなしに木星へ帰れば拉致の危険がある。和也たちに今の木星を見てくるよう促したユリカでさえ木星、あるいはカリストが安全だとは思っていないという事だ。
「……何もないといいんですが」
 ルリはポツリと呟く。軍人としての立場からすればいささか消極的にすぎる発言だが、和也たちが木星に派遣された理由を思えば仕方ないと言えた。
「潜入捜査って言うとカッコいいけどさ、和也ちゃんたちって、完全に顔が割れてるはずよね? テレビ出演もしたし、それに烈火くんと美雪ちゃんが……向こう行っちゃったし」
「明白ですね。そんな『草薙の剣』を、敵の目の前に放り出すなんて……」
 ユキナとルリは表情を渋くする。
『草薙の剣』はただでさえ全世界に顔を晒し、その結果統合軍の広告にも顔出しで使われた身だ。悪い事に部隊からは山口烈火と影守美雪の二人が――ユキナはこの表現をあえて避けたが――寝返っている。
 もう和也たちは、完全に火星の後継者に顔が割れているのだ。潜入などできるわけがない。
 和也たちが派遣された本当の目的――――統合軍の上の思惑は見え透いていた。
「コクドウ隊長たちが襲撃なり暗殺なりされれば、火星の後継者の尻尾を掴めるかも知れない、と。統合軍も相当焦ってますね……」
 怪しい動きは腐るほどあっても肝心の確証が得られないから、『草薙の剣』を撒き餌にして何らかのリアクションを引き出したいのだろう。それだけ統合軍内に手詰まり感が漂っているのが窺える。
 もちろん和也たちも気付いてはいる。だからこそ辞表を書くほど憤慨し、過剰に心配してしまうだろうと思って澪にはこの話を伏せてあるのだ。
 もっとも、当の本人たちは『甲院がこんな見え見えのエサに釣られるなんて思えないし、何も起きないよ』と楽観的だった。甲院薫の有能さを誰より身近で知り、ある種の信頼を持っている『草薙の剣』だからこそ出たセリフなのだろうが……
「……何かあった時には、いつでも動けるようにしておいたほうがいいと思います」
「そうだね。ユキナちゃんも帰港したらオオイソに帰るだろうけど、いつでもヨコスカに来られるようにしておいて」
「はーい。ミナトさんにも起きたら伝えておきます」
 この二ヶ月、火星の後継者が沈黙している事自体が不気味なのだ。いつ事態が急変するか解らないとルリは思っている。
 こんな事で和也たちを失うわけにはいかない。――――失いたくない。
「あーあ、こんな時なんだから澪ちゃんも、早く告っちゃえばいいのに」
 そのユキナの独り言に、何故かルリの手元が狂ってエラーが出た。



 シュイイイイイン、と反重力フローター独特の浮遊音を立てて、軽トラック大の浮遊機械が和也たちの頭上を横切っていった。
『うわー! なんか未来都市って感じ! 他の星に来たって実感するね!』
 まるで観光地にでも来たように目を輝かせているのは、ターミナルからずっと通信を繋ぎっぱなしの澪だ。
 和也たちの眼前では何十台、何百台もの浮遊機械が整然と飛行し、その車列が格子状の模様を空中に描いている。その様は20世紀の人々が想像し、しかし23世紀になってもなお実現していない未来都市に近い様相だ。
 そんな光景を見ている和也たちが乗っているのもまた、およそ10人分の座席を備えた飛行機械。反重力フローターで空を飛び、行き先を入力すればどこにでも自動運転で連れて行ってくれる反重力無人タクシーは、木連では誰もが利用する市民の足だ。
 座席のシートから上を見上げればドームの天井に投影された青空に太陽が昇り、雲が泳いでいる。下に目を移せば立ち並ぶ建物が見る間に流れ去っていき、高層ビルの横を通れば中でサラリーマンの人たちが机に向かっているのが見えた。
「木連じゃあ乗り物って言えばだいたい反重力車両の事なんだ。なにせプラントからポンポン作れるからね」
 これら反重力車両の元になっているのはバッタなどの虫型兵器だ。民生用として不要な装甲や武装をオミットし、座席と荷台を取り付ければそれだけで空飛ぶ乗用車が完成する。そして木星に遺された古代文明の遺産――――木星プラントには、それらを大量生産できるだけの生産力があった。
 空飛ぶ車を安く大量に作れる環境が、この空中を車が飛び交う未来都市的な景観を生み出している。これが当たり前だった和也たちからすれば、むしろ地球の空は飛行機械が少なすぎると感じたものだ。
 余談ではあるが、木連はこれら反重力車両を有力な輸出品として地球にも売り込んでいる。その気になれば数年で地球の自動車のシェアを相当食えるくらいの競争力はあるはずだが、それを恐れた自動車メーカーなどの圧力によって法律面での認可がろくに進んでいない。空飛ぶ車の飛び交う未来都市が地球で現出するにはもう少し時間がかかりそうだ。
『外は氷の星だし、中は未来都市だし、前に見た昔のSF映画みたいだね! わたしもそっち行きたいなあ……』
「任務が終わって、落ち着いたらね」
 見るもの全てが新鮮で興奮気味な澪に、和也は苦笑気味に相槌を打つ。
 そんなやり取りを見て、他の三人もひそひそと言い交わし始める。
「……地球人には新鮮な眺めに見えるのかしらね」
「まあ、私たちも初めて砂漠や海を見た時は大いに感動したものですし……」
「……身近な風景の良さは、解らないものですね……」
 思い返せば彼らもまた、木星にはない地球の風景を見て、驚いたり感動したりしたものだった。その時も現地の人間はこんな戸惑いを覚えていたのかもしれない。
 やはり人間、自分の知らない風景に惹かれるのだろうか。なんにせよ、澪が木星に興味を持ってくれて悪い気はしない。
 予定ではこの後、以前からカリストに潜伏している諜報員と接触して、怪しい動きのある場所のデータを受け取る手はずなのだが……
「美佳、現地諜報員との接触予定は何時だっけ?」
「……1400ヒトヨンマルマル。あと三時間ほどあります」
「ではそれまで、少しカリストを見て回るとしましょうか」
「異議なーし。なんか食べに行きましょ。あたしもう腹へって倒れそう」
 どうせ空振りに終わる任務だ。空き時間を利用して観光でもしてしまおうと、和也は手元のパネルをタップして無人タクシーの行き先を変更した。
 今はここに連れて来られない澪に、せめて木連の実像を少しでも見せてやろうと思ったのだ。



 和也たちが降り立ったのは、『カリスト中央記念公園』と銘打たれた緑化公園だった。芝生に植木という地球ではどこの都市にでも一つはありそうな公園だが、木連では緑地というものを作るだけで一苦労だ。なにせ植えるべき木も、芝生も、木星圏には一切存在しなかったのだから。
 先人たちは作物用の種子を元に遺伝子改良を施した木々を作り、宇宙船内に付着したコケを元に人工芝を作った。地球では当たり前な緑を木星で再現するため、相当な労力が費やされた事は想像に難くない。
 そしてその中央には、この不毛の星に人が定着した第一歩と言える遺構が残されている。
『おお……これがカリストで最初の井戸なの?』
「はい。この井戸はカリストの厚さ200キロにもなる氷の層を貫いて、その下にある岩石層まで達しています。岩石層には液体の水が存在していて、この地に降り立った木星人の先人たちが最初に着手したのは木星プラントで生産された作業機械でこの井戸を掘り、くみ上げた水で食糧の生産施設を作る事だったそうです。そうして都市の基礎となる最初のコロニーを作り上げ、命を繋いだわけですね」
『なるほど……苦難の道だったんだろうなあ』
 妃都美からカリストの歴史などを聞いて、澪は何度も興味深そうに頷く。
 この手の歴史は妃都美が一番詳しいので、澪への説明はそちらに任せて和也たちは屋台から飲み物などを買っていた。
「立て板に水だねえ。でもこの公園、資料館ってあったような」
 和也がペットボトルのミネラルウォーターを口にしながら言うと、「やめといたほうがいいわよ」と奈々美に止められた。
「あたしガキの頃に行った事あるけど、中は反地球的なプロパガンダだらけよ。澪ちゃん連れて行くようなとこじゃないわ」
「……カリストの情勢からして、展示が改められているとは思いがたいですからね……」
 言って、美佳はオレンジジュースのストローを口に運ぶ。
 秋山が和平を望んでいても、澪のように個人レベルで分かり合える友達がいても、国家の和平はまだまだ道半ばか……と和也が少し落胆した時、ホットドッグを口にした奈々美が「ヌッ!?」と顔色を変えた。
「ちょっとあんた、これに何入ってんのよ!?」
「な、何と言われましても、変なものは入ってませんよ!?」
 いきなり180センチを超える長身の奈々美に詰め寄られ、屋台の店員の男が顔を青くする。
「おいおい奈々美、何やってるんだよ……無銭飲食とかシャレにならないぞ」
「そうじゃなくて、結構おいしいのよ……この肉、本物じゃないの?」
「それがどうかし……って、え?」
 止めに入った和也も、奈々美の言わんとする事が解った。
「……そういえば、このジュースも本物の果汁入りのようですね……」
 美佳も気が付いたようだった。肉にしろ果物にしろ、木星で本物のそれは存在しないか相当な貴重品だ。月を追われ、火星から木星へと落ち延びた先人たちに家畜など連れてくる余裕があったはずもなく、作物を育てる土壌に乏しい木星圏では果物などろくに作れなかった。
 木星人にとっての肉とは木星プラントで生産される合成タンパクであり、果物の代わりの甘味は人工甘味料だった。それがどれだけ劣悪な環境だったか――味覚を失っていた和也には比較しようがないが――地球に来てようやく解った。
「あんたら、移民の里帰りですかね? ターミナルコロニーができてから無人輸送船での交易が始まって、木星でも地球産の品が手に入るようになったんですよ」
「そうか、ボソンジャンプで……」
 男性店員の言葉で納得できた。地球−木星間を、ボソンジャンプによって結ぶ物流網がすでに完成しているのだ。
 ディストーションフィールドを持たない民間輸送船でも、無人船であれば問題なくボソンジャンプを利用できる。あるいはチューリップを通過する時に乗組員を下ろし、通過した先で待機していた人が乗り込んでもいい。通常航行なら片道数ヶ月かかるところをこれなら数日で往復でき、輸送コストも相当圧縮できる。
「おかげで食糧事情もよくなって、生活も上向いてきましてね。最初にクーデターなんて起きた時は何やってくれてんだと思いましたが、今は秋山源八郎様様ですよ」
「……そう。それはよかった」
 現金なものだと思ったが、一般人の政治家に対する態度とはこういうものだろう。たとえ非合法な手段で成立したクーデター政権でも、その政権運営の結果生活レベルが向上したなら誰も文句はない。
 それに地球との交易のおかげで生活が豊かになったという実感は、木星人の地球に対する感情を軟化させるだろう。きっと秋山もその効果を狙って、木星圏にヒサゴプランのターミナルコロニー建設を地球に強く働きかけたのだ。その効果は確かに出ている。
「実はウチ、昔はエウポリエの採掘場で働いてたんですよ」
 エウポリエ――――木星の34番衛星。直径約2キロのごく小さな衛星だ。
「あそこの生活は一言で言って地獄でしたよ。経営者がとんでもないブラック企業でね。いわゆる奴隷商人って奴です」
「…………」
 父親がまさにそれで、そのせいで人生を狂わされた奈々美が僅かに眉根を寄せたが、それに気付かず店員は続ける。
「飯は不味いし少ないし、事故の危険があるのに危険手当もろくに出やしない。落盤や酸素漏れで何人同僚がおっ死んだか。でも今の政権になって戦争が終わってから、そういう会社への手入れが厳しくなってね。今じゃ無人機使って安全に採掘してるらしいですよ」
「戦争が終わって、そういうところにリソースを割けるようになったおかげってわけね……」
 奈々美はふっと息をつく。
 今となっては手遅れだが、自分がこうなる前に今の木星を迎えていたなら、自分はどう生きていただろう――――そんな事を考えているように見えた。
「まあ、自分はその直前に足やられて追い出されたわけですけど……」
 カウンターを開けて出てきた店員の足を見て、和也たちは思わずはっとした。
 事故か何かで切断されたのか、店員の足は義足だった。脳波を感知して動くような地球のそれとは違う、ただ金属の棒が支えているだけの前時代的な義足。松葉杖無しでは歩けないだろう。
 昔の木星では、このようなハンデを負った人間は戦争遂行の足手まといだと見なされ、ろくに仕事もなく冷たい目で見られていたものだが……
「今じゃこうやって前よりましな商売で食っていけるようにもなったし、人生も木星の未来も捨てたもんじゃないと、今は思うわけですよ」
「……身体にハンデを負った人が役立たずと白眼視される事も……もうないのですね……」
 よかった、と若干声を詰まらせて美佳は呟く。自分のような目に遭う人はもういない、あるいはいなくなっていく方向に木星は向かいつつある。
 この調子ならきっと、妃都美のように密かに実験体として差し出される子供ももういないだろう。ましてや和也のように親の手で実験体にされるなど。
 戦争が終わり、地球との共存共栄を目標とする政権が立った今、『草薙の剣』のように人生を狂わされる子供たちはもう出てこない。それだけでも十分すぎるほど嬉しい変化だ。
「だけど、こんなところで屋台開いてお客は来るの?」
「最近は結構来ますよ」
 ほら、と店員が指差したほうを向くと――――
「みなさーん! 助けてくださーい!」
『和也ちゃんたちー! 助けてあげてー!』
 店員と話しこんでいる間に何が起きたのか、妃都美が数十人の人の群れに囲まれていた。明らかな白人や黒人などが含まれる雑多な人種の一団――――誰一人として木星人には見えない。
「な、何があった!?」
「地球からの観光客の方々らしいのですが、日本語の解る人があまりいないので私に説明を求められてしまって……ですが英語にドイツ語に、タガログ語にヒンドゥー後に、コンゴ語やコサ語を話す人もいて対応しきれません! 手伝ってくださいー!」
「い、今行く! あ、どうもありがとうございました!」
 店員にお礼を言い、妃都美に加勢するべく走りながら、和也はこの屋台は地球からの観光客が主な収入源になっている事を悟った。
 たぶんこれも現木連政府――――つまりは秋山の方針なのだろう。人的交流と相互理解の推進。そして経済の活発化による国民感情の改善。
 トラブルは多々あれど、木星人の生活は改善されつつある。戦争遂行のために人々の生活や幸福が犠牲にされる事はもうない。もうそんな必要はない。

 ――僕たちのやってきた事は、間違ってなかった……!

 思わず泣きそうになるほどの歓喜が胸を焼く。
 同胞と刃を交え、地球人からのバッシングにさらされ、和也たちは何度も心が揺れた。自分たちが戦えば木星人のためになると、そう思いながらも信じきれず、木星人がこの闘いを望むのかも確信できず、何度も弱気になった。
 だが今の木星を見て、自分たちのやってきた事は間違いなく木星人のためになっていると、初めて確信できた気がする。
 ユリカが見せたかったのもこれなのだろう。今更のように彼女へ感謝すると同時に、一抹の無念さが胸をよぎる。
『和也ちゃん、盾身くんもここに来れたらよかったね……』
「ああ。盾身にも見せてあげたかった……」
 そっとウィンドウを寄せてきた澪に、和也は強く頷く。
 木星に地球人がいるこの光景、誰より見たかったのは盾崎盾身だっただろうに、それを見せてやれなかった事が悔やまれてならなかった。
 和也たちは大きな声で、地球人たちに木星の歴史を語って聞かせた。
 せめてこの声が、盾身のところまで届くようにと。



 ここにあったのは間違いなく、和也たちが望んで止まなかった平和な木星そのものだった。
 このまま行けばきっと木星はよりよくなると、和也たちに確信させるには十分な光景。
 ――――しかし間もなく、和也たちはまだ道は平坦ではないとも知った。

「……で、ここを登った先が展望台になります。展望台からは町が一望できまして……」
 公園内に造成された丘の階段を登り、展望台へと向かう途中、不意にファンファンというサイレン音が頭上を通り過ぎていった。
 ――またパトカー……?
 聞こえてくるサイレンは警察車両のそれだ。音の大きさからしてわりと近く、しかも一台や二台ではない。
『さっきからパトカーが多いね。なにかあったのかな?』
「さあ……なんにしても、いま目立つような行動はすべきじゃないから、首は突っ込まないけどね」
 澪も気になっているようだが、とりあえず自分たちには関係ないだろう。そう思った和也は普通を装って観光客一行を展望台へと案内する。
「ここからの眺めは夜になるととても綺麗で、カップルにも人気の……」
 だが展望台に付いたところで、続く言葉が喉に詰まった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 和也たちも、観光客一行も、言葉を失って立ち尽くした。
「な……」
 一同の目の前――――展望台の真正面には、まるでここからの展望を塞ぐように、巨大な、30階以上はあろうかという、天辺には気色悪い笑みを浮かべた金髪男の顔が描かれた、悪趣味極まる高層ビルがでんと佇立していたのだ。
「なんじゃこりゃああああああああああああ―――――――――――っ!?」
 思わず絶叫する。マンガだったらきっと全員でずっこけていただろう。そのくらいの衝撃だった。
「なによこれーっ! こんなクッソ悪趣味なビルを立てたのはどこの誰よ!」
「ひどい! 展望台からの眺めが台無しに……」
「……都市の景観などお構い無しですね……」
 皆が口々に文句を漏らす。ついでに観光客一同もがっかりしたのか「Holi shit!」などの声が聞こえた。
「ったく、人がせっかく感動に浸ってる時に……! あったまきた。これでもくらえーっ!」
 苛立ち任せに空のペットボトルをくしゃくしゃに丸めて投げつける。それは放物線を描いて飛び、やがてどこかに落ちて見えなくなり――――

 次の瞬間、ビルが轟音と共に崩れ始めた。

「え、ええええええええっ!?」
『うそーっ!』
「ちょっと和也、あんたなにやらかしたのよ!?」
「え、ちょ、僕!?」
「そんな事言ってないで、早く逃げましょう!」
「……皆さん、避難を……」
 崩れ落ちるビルと降り注ぐ瓦礫、そして迫る噴煙と衝撃波に、和也たちと観光客一行は大慌てで逃げ出した。



『――――現場上空よりお伝えしています。先ほど爆弾テロのあったエドワードホールディングカリスト支社ビルは完全に崩壊しています。警察当局によると今回のテロもこれまでと同様犯行グループによる犯行予告と避難指示が出ていたためにビル内の従業員と周辺住民は避難しており、人的被害は現在のところ確認されていないと――――』

「……何が起きたのかと思ったら、爆弾テロだったのか……」
「あたしてっきり、和也がペットボトルでビルぶっ壊したのかと思ったわ」
 あらぬ冤罪をかける奈々美に「そんなわけあるか」と憤慨して和也は言い返す。
 ビルの崩壊にあわや巻き込まれかけた和也たちと観光客一行は、幸い怪我こそなかったものの埃だらけになり、観光客一行は宿泊先へと足早に帰っていった。この件で彼らが木星に対してどんな印象を持ったか、想像すると少し怖い。
 とにかく観光客一行同様に埃塗れになった和也たちはコインランドリーで服を洗濯し、終わった時には公園での騒ぎからおよそ二時間が経っていた。現地諜報員との接触まで間もなくだったため、『草薙の剣』は急いで接触場所と指定された喫茶店へと足を運び、そこのテレビでビル倒壊の真相を知ったのだった。

『今回のテロでは『草壁派木星救済連合』を名乗る組織から、「木星に対する経済的侵略の尖兵に懲罰を加えた。秋山売国クーデター政権が退陣するまで攻撃は続くだろう」と犯行声明が出ており、今後も同様のテロを行う事を示唆しています。またこの件について――――』

『草壁派? 聞いた事ないけど、火星の後継者じゃないんだ』
 通信越しに澪が言う。
「恐らく火星の後継者に影響された木星人の、ホームグロウンテロでしょう」
 わざわざ人を避難させてから爆破テロという手口も影響がありそうです、と妃都美。
 民間人を巻き込む意思はない姿勢を見せる事で、自らが正義の組織だとアピールする手口は、二年前にアマテラスが爆破された時を想起させる。火星の後継者を名乗ってこそいなかったが、それに影響された類の連中なのは間違いないだろう。
「……地球の経済的侵略……火星の後継者のシンパには、そのようにしか見えないのでしょうね……」
 残念です、と美佳は呟く。
「……先ほどの屋台の方は、地球からの観光客が来て喜んでいたというのに……」
「だけど、誰もが恩恵に預かってるわけではないし、歓迎してるわけでもない……て事かな。どうですか『田中さん』」
『え?』
 突然この場にいない誰かに向けて尋ねた和也に、澪が変な人を見る目をし……その後ろの席から「ほう」と感心したような男の声がして、ぎょっとした顔になった。
「よく気付いたな。『佐藤くん』気配は消したつもりだったが」
「二ヶ月ほど、スパルタな教官に鍛えなおしてもらったので……それより、こっちにしばらく住んでるあなたなら、木星の現状にも明るいのでは?」
 和也は自然を装って正面を向いたままなので顔は見えないが、『田中さん』――――統合軍諜報部の現地諜報員は、ふふ、と笑ったようだった。
「確かに、木星人の中には、今の政府の方針を売国的と受け取る者が少なからずいる。あのようなテロの他にも、原理主義的な木星人による地球企業の排斥を訴えるデモ活動なども絶えん。彼らは地球の資本が無制限に入り込めば生活が豊かになる代わり、地球への従属を求められる事になるのを恐れているのだ」
「考えすぎ……とも言えないのが辛いな……」
 実際そのような状況に置かれ、テロの温床となっていた中東などを目にしてきた和也たちには、悔しいがその懸念が少し理解できてしまった。
 秋山が取っている地球との融和路線も、一歩間違えば売国路線になりかねない。国民からそう見なされたが最後、秋山は権力の座を下ろされ、またぞろ反地球を掲げる過激派が政権を握りかねない。そうならないために微妙な舵取りを強いられている秋山の苦労が思いやられる。
「無論、誇りより腹が満たされるほうがいいと秋山を支持する者たちもいる。両者の間で殴り合いの衝突も起きていて、木星の地球に対する世論は大きく二分されているのが現状だ」
「し、社会が真っ二つに……」
 木星社会の分断ぶりに、妃都美は衝撃を受けていた。
「嘆かわしい事この上ないな。かつて我らの先人たちは人種言語宗教の壁を越えて団結し、木星までの苦難の道を乗り切った。その木星が今やこれだ。秋山がクーデターなど起こさなければこうはならなかったろうに」
 そう思わんか? と振ってくる『田中さん』の言葉は、毒針のように痛みもなく、和也たちの心へ刺さってくるようだった。
 世論が真っ二つに割れ、木星人同士が殴り合い、テロを起こす今の木星。『田中さん』の言うとおり、確かに嘆かわしく心配な現状だ。ユリカはもちろん、盾身だってこんな状況は望んでいまい。
 とはいえ――――
「まあ、国の方針が一夜にして180度転換したんだし、当然の反応じゃないですか」
「……ほう、随分と冷静だな」
 木星の現状をわりと冷静に受け止めた和也の言葉に、『田中さん』は少し意外そうだった。
 二ヶ月前の和也たちなら心を乱していたかもしれない。自分たちはこれでいいのかと迷い、自信を持てなくなっていたかもしれない。
 だが今は違う。
「い、今は時代の転換点だと思いますよ。閉鎖環境だった木星に、突然新しい風が吹き込んできたのですから。あれだけ悪の帝国と敵視してきた地球といきなり和平と言われて戸惑うのも当たり前です」
 妃都美は、まだ衝撃が抜けきっていない様子ながらも現状を悲観はしていない。
「……反発は仕方ありませんが、避けて通れない道です……少なくとも、昔の木星より今の木星のほうが、私は好きになれそうです……」
 美佳も、木星の変化を肯定的に捉えるのは変わりないようだった。
「悪いところばかりクローズアップすんのもつまんないわよ。……ブラックな会社に人生狂わされる奴が減った、それだけでも十分上等じゃない」
 奈々美も思うところのありそうな顔で、もう自分のような境遇の人間が出ない事を喜んでいた。
「なるほど。腹が満たされさえすれば、誇りは捨てて構わぬというわけか」
「そうは言ってませんし、それも含めて大丈夫だと思いますよ。腹も誇りも両方満たせる新しい木星に生まれ変われると僕たちは信じます」
 ――それに、母さんの『計画』さえうまく行けば、きっと反対派の人たちも納得させられるだろうしな。
 こればかりは口にできないが、ユリカの『計画』が成れば、腹も誇りも両方満たせる新しい木星ができると和也たちは信じている。だから自信を持って言えるのだ。これで間違ってはいないと。
「火星の後継者のやり方じゃその芽すらない。だから、これでいいんです」
 そんな和也たちの答えをどう受け取ったのか、『田中さん』は少し黙って――――やがてクックッと低い笑い声を漏らした。
「どうやら、腹は決まっているようだな。そこまで自分たちの選んだ道を信じているなら、もう何も言うまい」
『田中さん』がそう言うと、和也の頭の上を百円玉大の物体が放物線を描いて通過し、奈々美がそれをキャッチした。
「木星プラントからの不審な資材の流れを追ったデータだ。後は貴様たちに任せる」
「……ご苦労様です」
 これで話は終わりかなと思った和也に、「一つ忠告しておこう」と『田中さん』。
「先ほども言ったように、今木星の社会は大きく二分されている。その隙間に火星の後継者は入り込み、人々の間に浸透している。死にたくなければ気をつける事だ。ここでは誰が敵でもおかしくはないぞ」
「善処します」
 市民に銃を向けるのは二度とご免だ――――中東での嫌な記憶を思い出し、緊張気味に和也は頷く。
「ではな。もう言葉を交わす事もあるまい」
 席を立つ気配。
 和也が後ろを振り向くと、そこには最初から誰もいなかったような空席があって、飲み終わった一杯のコーヒーカップとその代金だけが置かれていた。
『……な、なんだか変わった人だったね。わたし何も話せなかった……』
 会話に入る事もできずに黙っていた澪が口を開いたが、和也たちは一様に神妙な表情で『田中さん』のいた座席を見つめていた。
「……ありがとう」
 ポツリと呟いた和也の声は皆に届いていたが、それを聞きとがめる者は誰もいなかった。


『田中さん』は喫茶店を出てしばらくフラフラと歩き――見る人が見ればそれは尾行を警戒する動きだと解るだろう――やがて人気のない裏路地へと入っていった。
「本物の『田中さん』はどうした」
「楽にした上で処分いたしましたわ。どのみちあれだけ薬を使ったのでは廃人確定ですもの」
 問うた『田中さん』に、暗がりから女の声が答える。
「貴様にしては温情のある扱いだな。以前ならもっと弄んだだろうに」
「ふん……そういうあなた様こそ、随分とおしゃべりだったのではなくて?」
 そもそもなぜあなたが直接出向く必要がありますの、と暗がりの中から影守美雪が面白くなさげな目を『田中さん』――――甲院薫へと向けてくる。
「あわよくば取り込めるかとも思ったのだがな。どうやらもう脈はないようだ。帰って敵として出迎える準備をするぞ。『天の叢雲』にそう伝えろ」
「……承知しましたわ」
 話を打ち切って歩き去る甲院の後ろ姿を見送り、美雪はチッ、と舌打ち。
 期待が外れたというのに、あの嬉しそうな顔は何だ。
「担当官は甘いですわ。敵になるなら、和也さんたちでも今度こそ殺しますわよ……」
 美雪は右手の『暗殺者の爪』を広げて、暗い表情でそう呟いた。



第二十三話 後編