アキトたちの乱入よりしばし前。
 サセボの街を風が吹き抜けた。
 すさまじいまでのスピードで、あらゆるものをすり抜けていく不可視の存在。
 それは何かとたずねられれば、きっと『風』と答えるだろう。
 だが、風のように疾駆するそれは、鋼の体を持ち光を捻じ曲げる勇者であった。

『あと10分でバッタがサセボドックに到達します』
「なんだって!?」

 その風……クルーズモードのボルフォッグの車内で彼からレーダーの情報を告げられて、アオイ・ジュンは目を剥いた。

「艦長権限を持つ人間が、始動キーを以って覚醒命令(ウェイクアップコマンド)を伝えなければ、ナデシコは飛び立てない……このままでは出航前に沈んでしまう……!」

 ジュンが右手で髪をかきむしりながら声を絞り出す隣で、その権限を持つミスマル・ユリカはのほほんと外を眺めていた。ミラーコーティングは偏光ガラスみたいなものだ。外の光景はそのまま見ることが出来る。

「ジュン君、大丈夫みたいだよ」
「大丈夫って、何で!?」
「だって、ほら」

 ユリカが指差した空の彼方では、空を舞う2体の機動兵器がバッタを斬り落としている光景が遠くに見て取れた。

「空戦が出来る機動兵器? どこの特機だ?」
「うーん、私も見たことのない機体だね。ボルフォッグさん、何か知ってます?」

 ボルフォッグのAIが諜報能力に特化しているなど、知るはずもないユリカが何の気なしに話を振る。

『空中で迎撃している機体は連邦軍特殊部隊のカスタムメイド機です。今は故あってGGGの嘱託として協力体制にあります』
「じゃ、味方ってことですね」
『今のところは、という限定条件ではありますが』
「なーるほどぉ。それにしてもボルフォッグさん、物知りですねぇ」

 ……素で言っているのがミスマル・ユリカの恐ろしいところである。
 その気になれば全世界のネットワークを縦横無尽に駆け巡ることが出来るAIが『物を知らないはずがない』のだ。
 だが、自律行動を可能にした超AIにしたところで、所詮は機械。
 情報を手にすることは出来たとしても、それを生かすことが出来るとは限らない。
 だからこそ、ユリカのような人間の存在価値があるのだが。

「ボルフォッグさん、ナデシコまであとどのぐらい?」
『あと4分30秒です』
「間に合ったみたいだね、ジュン君」

 本当に間に合ったのだろうか。
 沈む前の戦艦に乗り込めたとしても、発進させられるのだろうか。
 常に最悪の状況を想定して動く……というよりも、最悪の状況を想定しない人間の傍らにいたら、自分がやるしかないじゃないか……ジュンとしては、現状を能天気に肯定するわけにも行かない。
 そんなジュンの内心の葛藤を知ってか知らずか、ユリカはにぱっと笑みを浮かべて軽く言ってのけた。

「みたいじゃなくて、間に合ったんだよジュン君。大丈夫、ナデシコはきちんと飛ぶよ。ネルガルが何もしてないんだったら、あんな機動兵器が出てくる前にもうサセボは壊滅してるもの」

 確かに、この時点でまだ連邦軍の部隊が展開されている形跡が見て取れない。バッタの展開速度はモビルスーツなどに比べて格段に早い。迎撃部隊がおっとり刀で出てくるようでは間に合わないのだ。
 そう、過去の戦争で活躍したもはや伝説とも言うべき独立機動部隊、ロンド=ベルでもない限りは、迅速な展開は望むべくもない。

『ドックが見えてきました。直通回線を開きます』

 ボルフォッグの台詞と同時に、立体映像のコンソールが展開される。
 小さなノイズが走った後、そこには、

『はい、こちらナデシコは風前の灯』

 淡々ととんでもないことを言う蒼みがかった銀色のツインテール少女が映し出されていた。

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