この世界に生きている異端者≠ヘ、もうほとんど居ない―――それはうすうす気がついていたことだったけど、いざ目の前にその事実を突きつけられると、思わず目を背けたくなってしまう。だってそれは、もう終わりに近づいているということ。世界中を回るこの旅も、二人で過ごすこの時間も、そして―――
「トモヤ様……? どうかしましたか」
ルーリアの声で、トモヤはふと我に返った。今は、余計なことを考えるべきではない。ぐるぐると回る思考を無理やりに断ち切って、ルーリアのほうに向きなおす。
「いや、なんでもない。このまま真っ直ぐ進んでくれ。気配がするのは、その先だ」
「わかりました」
今や、人々の遺体はすっかり白骨化している。白い―――というよりは、どす黒い人の骨が転がる街中を、シェキーナは風を切って進んでいく。
この先に居る人物がどういう存在なのか、トモヤはまだ彼女に話していない。話せばどうなるのか、不安でもあった。ある意味、今二人が向かっているのは、この旅の終着点であると言えなくもないのだ。
この旅。ただひたすらに異端者≠探すこの旅に、一体何の意味があったのだろう。なんとなくそんなことを考えてみると、トモヤはふと、あることに気がついた。
そもそもの発端は、オリゲリスという名の天使が、今わの際、ルーリアにある言葉を言い残したこと。「異端者≠探せ」。それがなければ、果たしてどうなっていたのか。ルーリアは生きる目的を無くしてただ呆然としていたかも知れないし、あの時の自分ならばそんな彼女を見捨てて何か他のことをしていたかも知れない。オリゲリスの遺言とも言えるその言葉は、考えてみれば二人の運命を正に左右したものであったと言えるのだ。
しかし、一体何故、彼はそんなことを言ったのか。トモヤが気がついたのは、そのことである。ルーリアは予言≠ニいう言い方をしたが、どちらかと言うとそれは「最期の頼み」とかそういうものであったのは明らか。死ぬ間際に言ったのだから、それは彼本来の望みにそぐわないものではなかったはずだ。
彼本来の望み。そのオリゲリスという天使は異端者≠ナあったというし、単にこの世界に残された異端者≠スちのことを案じてそんなことを言うほど、お人好しではなかったはず。ならば少なくとも、トモヤの考えうる範囲でそこに隠された望みというのは、一つしかない。
世界を、再生せよ―――
そう。それしか、ないはずである。そして、それに必要なものと言えば適格者≠ナある自分の存在と、その自分が命≠ノ対抗しうるだけの力を得ることの二つ。オリゲリスがルーリアに託した言葉の裏には、そんな彼の願いが籠められていたに違いない。
(ならば、この旅の目的は―――俺の、自己啓発?)
あまりにも馬鹿らしくて笑いたくなるけど、つまりはそういうことになる。一体どうやれば「知識」の力を増すことができるのか。「知識」を持つトモヤ自身にもそれはよく分からないことだが、きっとこの旅にはそういう意味があったに違いない。
考えようによれば、たったそれだけのことで世界は救われるのだ。彼が異端者≠ナあったというのならば、本当に世界の救済を望んでいたかどうかすら怪しいものだが、ルーリアの話を聞く限りではそこまで破滅的な考えの持ち主ではなかったように思われる。ということはつまり、この旅の本当の目的というのは、トモヤと異端者≠スちを引き合わせることによって、トモヤに何らかの影響を与えることであったということになるのだ。
では、果たして自分は、この旅で何を得たのだろう。どう変わったのだろう―――考えてみたが、トモヤにもよく分からなかった。旅を始めたばかりの頃の自分と、今ここに居る自分が同じだとは思わないが、どこがどういう風に変わったのかと問われても答えられない気がする。自身に対する復讐というものを否定された、ハインツ・コフートとの出会いはとりわけ意味があったようにも思われるが、彼の言ったことをまるまる鵜呑みにしているかというとそうでもない。あんなふうに言われなくても、自分の考えがどこかおかしいということにはうすうす気がついていたのだ。
自分は、確かに変わった。だがそれも、最終的な結論にはまだ至っていない。これから向かう先、最後の異端者≠ニの出会いが、果たして自分にどういった影響を与えるのか。それによって、その先もまた変わってくるのだ。
「停めてくれ。どうやら、ここのようだ」
シェキーナを停めて、二人は外に出た。ほんの少しだけ肌寒い、秋の風。
そう、最後。トモヤは確信を持っている。これから二人が出会うのは、この世でたった一人の生き残りとなった、最後の異端者≠ナあると。
「ここ、ですか……」
薄汚れた、灰色の壁。厳つい、鉄の門。見ているだけで陰惨な気分になってくるその佇まいは、間違いなく、監獄というやつだ。
「『イサリエ収容所』……やっぱりここ、刑務所みたいですね」
門の脇につけられた小さなプレートを見ながら、分かりきったことをルーリアは言う。
ここでこの旅が終わりなのだということを、彼女はまだ知らない。言わなくてはいけないのはトモヤも分かっているのだが、そんなことをすれば否応なしに考えないといけなくなる。その先のことを。この旅を終えて、それからどうするのかを。命≠ニ戦うと決めた以上道は一つしかないのだが、今はまだそのことについて考えたくはない。自身への復讐が、本当にそれで果たされるのかどうかも、自信がない。
「どうやって、入るんです?」
「俺の力を使おう。別にもう、誰に気兼ねする必要もないんだ」
トモヤが心の中で念じると、誰も通さぬという雰囲気で閉じていた分厚い鉄の門は、いともあっさりと開いた。口に出さなくてもこういうことが出来るあたり、はじめに比べれば多少は「知識」の力も上がったと言えるかも知れない。
門の開いた先に広がるのは、まるで古い学校のような、薄汚れた灰色の建物。そのままトモヤは、中へと踏み入れた。敷き詰められた砂利が、しゃり、と音を立てる。
「でも、どうしてこんなところに、生き残った人が居るんでしょう。異端者≠ェ何か罪を犯して捕まっている、というのはあり得ないことじゃないと思いますが、たとえアラボト天球の影響を受けなくても、牢屋の中に入れられたままなんだったらとっくに飢え死にしているはずですよね。あれからもう二ヶ月以上も経ってるんだし」
「服役囚というのは、一日中牢屋の中に閉じ込められてるわけじゃない。所によっては違うかもしれないけど、大抵の場合、日中は何か奉仕作業をさせられているはずだ。アラボト天球が現れたのは昼間だったから、その時たまたま外へ出ていた、なんてのもあり得ない話じゃないさ」
「そっか。言われてみれば、そうですね」
気配は、建物の中からしている。正面のドアが開いていたので、二人はそこから中へ入った。
ほこり臭い空気。むき出しになった壁のコンクリートは、もうずいぶん手入れされていないのか、ひどく黒い。
「……これは、ひどいですね。この世界の刑務所って、どこもこうなんですか」
「さあ。刑務所の内部ってなかなか見られないから、俺もよく知らないんだ」
言いながら、トモヤは気配のする方へと進んでいく。牢獄のあるほうとは、逆の方向。意外にもその気配は、「看守室」と書かれた部屋の中からするようだった。
「ここですか……? ここに居る異端者≠チて、犯罪者じゃなくて、看守さんなんでしょうか」
「たまたま外に出ていた服役囚が、ここに来ているだけかも知れない。……どっちにせよ、こんなところにずっと閉じこもっていて、よく生きてこられたものだ」
看守室のドアノブを回すと、鍵は掛かっていなかったらしく、あっさりとドアは開いた。そうして、その中に居たそれを見た時は、さすがのトモヤも驚きを隠しきれなかった。
ぼさぼさに伸びた、白髪混じりの黒い髪。ヒゲもすっかり伸びて、顔の造形はよく分からないが、それでも頬がすっかりこけてしまっているのが見て取れる。黒く薄汚れた囚人服は、もうずっと取り替えていないのか、ところどころが破けてまるでボロ雑巾のよう。この男が散らかしたのであろう、部屋の中には、保存食の食べかすらしきものがあちこちに落ちていて、いかにもきたない。そして何より目を引くのは、その男の両腕。手錠がかけられたままのその手首は、皮膚が破けて、傷口には蛆がわいている。
「う……」
蛆がわいた死体、というのは今までに何度も見てきたが、この男はまだ生きているのである。それが何とも言えずグロテスクで、ルーリアは思わず吐き気におそわれた。
「お……お……」
もうずいぶん長い間、声を発していなかったのだろう。男は何かを言おうとしているが、喉がすっかりしわがれてしまっているらしく、声が出てこない。
「ルーリア、水を。シェキーナの中に、まだ沢山残っているはずだ」
「……え?」
「だから、水だよ、水。シェキーナまで、君が取りにいくんだ。こんなところに、一人で残されたくないだろう」
「あ……は、はい。すみません、すぐに」
答えるが早いか、ルーリアはたっと駆け出した。まるで、逃げ出すような足取り。本当に戻ってくるのかどうか、トモヤは少し心配になった。
「お……お……」
「大丈夫。そんなに焦らなくても、ちゃんと話は聞く。そのために来たんだから」
ルーリアを待つ間、トモヤはじっと、男の姿を見つめていた。白髪混じりの髪、やせ細ったしわしわ顔。ずいぶん年をとっているようにも見えるが、それはこの男がおかれた状況がそうさせているのだろう。おそらくこの男、本当はまだ五十にも届かない年齢なのかも知れない。
疲れとストレスを差し引いて、この男本来の顔を想像してみると、なんだかいかにも人のよさそうな中年の男の顔が出来上がった。とても、こんな目に遭わなくてはいけない人間には思えない。
と、そこへルーリアが帰ってきた。本当に走ってきたらしく、ずいぶん息が荒い。別に急げとは言わなかったのに、と内心トモヤは苦笑した。
「ほら。飲むんだ。ゆっくりな」
彼女から受け取ったペットボトル入りの天然水を、トモヤは男の口にあてて、ゆっくりと傾けた。蛆のわいた男の手がトモヤの手に触れたが、トモヤは気にする様子も無い。
無我夢中で、男は水をすする。何度か咳き込みながらも、結局男は、五百ミリリットル入りのペットボトルを一気に飲み干してしまった。一度うつむいて大きくため息をつくと、男は再び顔を上げて、
「ありがとうございます」
ようやく出るようになったその声で、そう言った。
「いいんだ。水なんていくらでもある。……それで、実は訊きたいことがある。そっちにも言いたいことがあるのは分かってるけど、その前に一つ、質問に答えてくれないか」
「……分かりました。何なりとお答えしましょう」
男の声は、まだ多少しわがれてはいるものの、トモヤが想像した人のよさそうな男と見事に一致している。だからこそ、トモヤは訊かずにはおられなかった。
「じゃあ、訊くけど。あんたは、一体何の罪を犯したんだ。俺にはどうしても、あんたがこんな目に遭わないといけない人間には思えない」
囚人というものがどういう扱いをうけるのか、トモヤも詳しくは知らない。だが少なくとも牢獄の中でもずっと手錠をかけられている、ということはないだろう。だというのにこの男は、こんなにも薄汚れた、いかにも重犯罪人が入れられていそうな収容所で、しかも手錠をかけられているのだ。一体どういう状況なのか、想像がつかない。
一体この男は、何をしたのだろうか。半ば興味本位で訊いたそのことが、まさか自分に最後の決断をせまる結果になろうとは、その時のトモヤは想像もしていなかった。
男はもう一度、大きくため息をついたあと、
「……私は、家族を殺しました」
何の前置きもせず、はっきりとそう言った。
◇
男―――ハレス・エンディルは、真面目に生きてきた。真面目に学生時代を過ごし、そこそこの会社に就職し、わりといい縁談にも恵まれた。そうして得たものの大切さをハレスは十分に理解していて、それを守るためにと身を粉にして働いた。
思えば、それがいけなかったのだろう。仕事だけを考えて、家族との時間をないがしろにしてしまったことが、事態を最悪の方向へ向かわせてしまった原因の一つであったのは間違いない。
妻からその相談を最初に受けたのは、まだ息子が十四の時だ。最近、息子が怖い―――そう言われて、はじめハレスは意味が分からなかった。自分たちが手塩にかけて育ててきた、かわいい一人息子。なぜそれを怖いなどと彼女が言うのか、さっぱり理解できない。
だが、話を聞くにつれて、だんだんと分かってきた。ようするに、反抗期なのだ。妻の言うことにいちいち逆らって、時にはきつい言い方をする。そんなのどこの子供にもあることだ、気にすることはないから放っておけ―――その時は、そんな軽い答えだけを返して、気にも留めていなかった。
ハレスがことの重大さに気がついたのは、その何ヶ月かあとに仕事から帰って、妻の顔を見た時のことだ。思わず「どうしたんだ」と叫んでしまったのを、彼はよく覚えている。
妻の顔が、青く腫れ上がっていたのだ。妻は最初「少し転んだだけ」だとかいうふうに言っていたが、そんなものでないのは一目瞭然である。問い詰めると、やがて白状した。息子に殴られたのだと。煙草を吸っていたのを「やめなさい」と注意したら、逆上して殴りかかってきたのだと。
当然、すぐに息子のところにいった。この時になって初めて、ハレスは妻の言葉を真剣に受け止めなかった自分の愚かさに気がついた。彼は、息子が煙草を吸っていることすら知らなかったのである。
息子の部屋では、口論になるところまでは予想していたが、まさか自分にも殴りかかってくるとは夢にも思っていなかった。よけることも出来ず、そのまま殴りとばされたその痛みで、これは本当に大事なのだと痛感させられた。
次の日、二人で児童相談所へ行った。ことのあらましを話すと「もうしばらく様子を見ましょう」と言われ、そのまま帰された。国は当てにならない。自分たちでなんとかしなければ―――その時、ハレスがそういう風に考えてしまったのもきっと、事態が最悪の結末を迎えてしまったことの、一つの原因であったのだろう。
息子の暴力は、留まるところを知らなかった。食器やガラスは毎日のように割れていたし、妻には殴る蹴るの暴行。仕事から帰ったハレスが注意しにいっても、やはり同じように殴られ、何も言えない。もともとハレスはそんなに度胸のある男ではない。暴力の恐怖に晒され、それでも毅然と立ち向かうことが出来るほど、彼は勇敢ではないのだ。
さすがにここまでくれば国も動いてくれるだろう、ということで、嫌々ながらもハレスたちはもう一度児相へ足を運んだ。息子を連れてくるように言われたが、無理だと言うと、相談員の人がこちらの家へ来てくれることになった。
優しい顔をした、若い女のカウンセラー。息子の部屋に案内すると、彼女はゆっくりとノックをして、息子の名前を呼んだ。ドア越しに自己紹介をし、入っていいかと彼女が訊ねると、意外にも中から聞こえたのはそれを承諾する息子の声。息子の部屋へと入っていく彼女の姿を、はらはらしながら見ていた。ご両親は遠慮してください、と言われたので一緒に中へは入れなかったが、彼女が出てくるまでの約一時間、ずっと二人は部屋の前に立ちっぱなしだった。
意外にも怒声などは聞こえてこず、無事にカウンセリングは行われたようだった。二人にお辞儀をし、去っていくカウンセラーの女は、最後まで笑顔だった。
その日の息子は、夜になっても部屋でおとなしくしていた。他所に相談なんかしやがって、と逆上するかと思っていたが、どうやらそういうのもないようだ。少しは考え直してくれる気になったのかも知れない。その夜は久しぶりに、ゆっくりと眠ることが出来た。
だが次の日、仕事から帰って玄関のドアを開けた瞬間、それが決定的に間違いだったと思い知らされた。そして、今まで自分が苦労して積み上げてきたもの全て失われたのだと気がつくのにも、そう時間はかからなかった。
廊下で立ち尽くす、息子。その手には、ハレスがたまに接待で使うゴルフクラブが握られていて、その先端には赤い液体。どろりとしたその液体が、しずくになってぽたぽたと垂れ落ちるその下に、妻が、いや、妻であったものが居た。軟体動物のように、だらりと伸びきった手足。べったりと広がる、赤い液体。彼女の頭部は、何度も叩かれたのであろう、もう既に原型を留めておらず、中から脳やらなんやらが零れ落ちている。
息子はハレスの姿を認めると、手にしたゴルフクラブを振り上げて、ハレスに襲い掛かってきた。その時、どうして抵抗しようなどと考えたのかは分からない。そもそも、その時自分が何を考えていたのか、後から考えてみても、さっぱり思い出せないのだ。けれども、気がついてみると自分の足元には動かなくなった息子が倒れていて、自分の手には、息子から奪ったのであろうゴルフクラブが握られていたのだ。
握り心地のいい、ブランド物のゴルフクラブ。そういえばこれは、何年か前、妻が自分の誕生日にプレゼントしてくれたものだ―――その時、そんなことを思い出していたのだけを、ハレスは今でも覚えている。
◇
「その後、私も死のうと思いました。ですが、考えてみると、それでは息子が妻を殺したことがばれてしまいます。ですから私は、妻も私が殺したことにし、自首しようと考えたのです」
ことのあらましを話し終えた男は、そう言って、さらに付け加えた。
「本当のことを話すのは、これが初めてです。このことは、墓の中まで持っていく所存でしたので―――」
「……そうか」
押し殺した声でそう答えながら、トモヤは男の置かれた境遇について考えをめぐらせていた。家族を殺したこの男。家族を死なせてしまったトモヤ。その二人を比較して考えてしまったというのは、言うまでもないことである。
突然の危機に晒されたとき、家族を見捨て、ただ自分が、自分だけが助かりたくて、逃げ出したトモヤ。それに引き換え、この男はどうだろう。息子に妻を殺され、自分も殺されかけた。その時、無意識とはいえ逃げずに立ち向かっただけでも、トモヤに比べれば立派であるように思える。しかもこの男は、全てが失われてしまったその後になっても家族のことを重んじ、自分ひとりで罪をかぶる決断をしたのである。「自身への復讐」などというものは、所詮は自己満足でしかない。そんなものにかまけていたトモヤと、最後までよき父であり続けたこの男とでは大きな開きがある、とトモヤは感じていた。
「息子の暴力に逆上して殺してしまい、それを見られたから妻も殺した―――警察の方には、そう話してあります。偶然ですが、どうやらその供述に矛盾などは見つからなかったようで。私には、死刑が言い渡されました」
「そんな……あなたは、何も悪くないのに。そりゃあ、息子さんを殺してしまったのは―――」
ルーリアがそう言って口を挟みかけたのを、男は「いいんです」と言って遮った。
「当然の報いだ、と考えています。私は確かに、この手で息子を殺したのですし、妻だって私のせいで死なせてしまったようなものです。私がもっとしっかりしていれば、あんなことには―――」
狭い看守室に響く、悲痛な男の声。もはや決定的だとトモヤは思った。似たような状況において、トモヤは自身への復讐などという下らないものを考えつき、この男は全ての罪に対しての贖罪を考えた。果たしてそのどちらが、正しい姿であったのか。少なくともトモヤにとっては、考えるまでもないことだった。
「……そうか、分かったぞ。あんたは、ちょうど処刑されるところだったんだな。手錠をされて、処刑台に連れて行かれるその途中で、アラボト天球が現れてしまった。そのまま死ぬことも出来たんだけど、それだと贖罪にならないとあんたは考えて、誰かが現れるのを待つことにした。いつ現れるとも知れない、誰かを。待つことも、贖罪のうちと考えて」
トモヤの言ったそれが、「知識」から分かったことなのか、それとも同じような境遇を経験した者としての共感だったのか。トモヤ自身にもよく分からなかった。ただ、ひとつだけ確かなのは、これで自分の進むべき道は決まったということ。もう、自分はどうすればいいのか、などと悩む必要はない。そう思うと、むしろ心が少し軽くなったような気さえした。
「その通りです。それであなた方は、私の身勝手な要望に応えて下さるのですか」
「もちろん、そのつもりだ。むしろ、そのためにここへ来たと言ってもいい」
言いながら、トモヤはルーリアに目で合図をする。もう何度目になるか分からない、まるで二人の恒例行事のようになってしまったこの瞬間。そのたびに、ルーリアがひどく心を痛めているのを、トモヤは知っている。だが、これはトモヤなりのこだわりでもあるのだ。きっと今回も彼女は同じことを言うのだろうが、それに対する自分の答えも、やはりいつもと同じでなくてはならない。
「トモヤ様、何度も言うようですが、私もここに残らせてください。こんな役目を、いつまでもトモヤ様だけに押し付けるわけには―――」
彼女の答えは、おおかたトモヤの予想通りだったと言えるが、予想とはほんの少しだけ違っていたその部分に、ああなるほど、とトモヤは納得した。彼女がそういうふうに考えていたというのは、トモヤにとっては初めて聞くことである。
「いいんだ。押し付けられてるなんて、そんなふうに思ったことは一度もない。俺はただ、君に見せたくないだけなんだ。あれは、見るもんじゃない。見ればきっと、何かを失って、もう二度ともとには戻らない。君には、そんなふうになって欲しくないから。俺は君を汚したくはないから―――」
「トモヤ様……お気持ちは嬉しいんですけど、なんだかそれって、除け者にされてるみたいで嫌です。私は、全てをトモヤ様と共有したいのに」
こんなどうでもいいことにまで、必死になって食い下がってくるルーリア。あれは、彼女がいかにトモヤを想っているかの表れだ―――異端者≠フ一人が、そう言っていたのを思い出す。それが本当なのだとすれば、一体何故、彼女はこんな自分などにこだわるのだろう。今の自分に、そんなふうに想われる権利があるのだろうか―――。
「……すまない」
一体、何に対して謝ったのか。耐え切れなくなったトモヤは、それだけ言うと、心の中であることを念じた。すぐにルーリアの姿は音もなく消えて、後に残ったのは二人の男と、他には静寂のみ。
「……見苦しいところを見せてしまったな」
そう言って、男のほうへ向き直ったトモヤの目に映ったのは―――
「若かった頃の妻を、思い出しましたよ」
そう言って、優しく微笑む男の姿であった。
◇
まただ―――そう思って、ルーリアはため息をついた。
気がつくと、彼女はシェキーナの傍に立っていた。「知識」の力で飛ばされたのだということは、すぐに分かった。今さら戻っても仕方がないし、とりあえず、おとなしくここで待っているほかにない。
もう一度、大きくため息をついて、彼女は空を見上げた。日の落ちかけた、夕暮れの空。狂った色をしたアラボト天球を残して、あとは真っ赤に染まっている。
この時間。これほど居心地の悪い時間など、他にあるだろうか。少なくとも彼女が今まで生きてきた中では、一度もなかった。
一体、何を思えばいい? 今、まさに今という時に自分の大切な人が、人を殺していると知っていて、一体何を思えというのだろう。
そして、それを終えて戻ってきた彼に向かって、自分は何と言えばいい? 「お疲れ様」? それとも「ごめんなさい」? そんな言葉で、彼の気持ちを晴らすことなどできはしないのを、彼女はよく知っている。
そもそも、とルーリアは考える。一度でも、自分は彼に何かをしてあげられたことがあっただろうか。懐からそれを取り出して、いつものように眺めてみる。もうしわくちゃで、かろうじて何が写っているか分かるだけになってしまったそれは、トモヤの家から持ってきた、彼と彼の家族が写った写真である。この中でトモヤが浮かべているような、いかにも幸せそうな笑顔を、いつか彼に取り戻させてあげたい、と彼女は思っていた。そのために今までいろいろやってきて、今ではなんとか、感情らしきものを彼は見せるようになってくれた。
それでも、トモヤが笑うことは決してなかった。幸せそうに、どころか、なんでもない、ふとした瞬間に見せるような笑顔ですら、彼女は今までに一度も見たことはない。ずっと無表情というわけではなくなったのに、どういうわけか、笑顔を浮かべることだけは、彼は決してしないのである。
だからこそ、ルーリアは考えてしまう。トモヤは、自分と共に居ることが、本当は嫌なのではないか。だって、嫌じゃないのだとすれば、彼が自分を嫌っていないのだとすれば、笑顔の一つも見せるはずなのだ。それがないのだから、それはやはりそういうことではないのか。
この旅も、いつかは終わりがくる。世界は、再生されるのだ。彼のことだから、命≠ネんかに負けはしまい。
そうなれば、自分も一人ぼっちではなくなる。父や他の仲間たちも生き返るはずだし、ずっとトモヤとばかり一緒にいる必要は、どこにもなくなるのだ。それだけのことならば、別に悲しむ必要はない。
しかし、である。世界の再生とは、一体どこまでを指すのか。もとに戻るのは、アラボト天球によって失われた命のみ? そんなことはないはずだ。それでは、トモヤの家族は生き返らないということになってしまう。
世界を再生する方法として一番手っ取り早いのが、命≠ェ居なかったことにするということ。そうすればアラボト天球が境界から引き出されることはなくなるし、命≠ノよって直接殺された人々も生き返ることができるはず。
それはいいのだが、気になることが一点。そうなった時、自分とトモヤは果たしてどうなるのか。本当の意味で世界が再生されるのならば、自分とトモヤが出会うきっかけは何もなくなってしまう。だとすれば、自分はトモヤを忘れ、こちらの世界に来ることもなく一生を終えるのだろうか。理屈的には、そうなってしまうのが自然な流れだ。
だけど、そんなの嫌だ。彼を忘れるぐらいなら、世界なんて再生されなくてもいい。一瞬、そんな考えが頭をよぎって、彼女は自分が恐ろしくなった。彼と一緒に居たい、たったそれだけのことで、世界を犠牲にしていいはずがない。理屈ではそう分かっているのだが、一度浮かんだその思いはなかなか消えず、むしろどんどん大きくなっていくばかりだ。
自分がこんなことを考えていると彼が知ったら、なんと言うのだろう―――そのことに考えを巡らせようとしたちょうどその時、
「……すまないな。乱暴なことをして」
トモヤが帰ってきた。顔を上げて、ルーリアは何かを言おうとして、やはり何と言っていいのか迷ってしまう。乱暴なこと、と言われても、別に自分は叩き出されたわけではないのだ。そのことに対して謝られてもこっちはなんと答えていいのかわからないし、むしろますます何と言っていいのか分からなくなるけど、それでも黙っているわけにはいかないので、ルーリアはトモヤの言葉には直接答えず、
「あの人は……?」
とだけ、やっとのことで口にした。
「……言わなくても、分かるだろう」
「それは―――そうですね。ごめんなさい」
沈んだ声で交わす、意味の無いやりとり。ルーリアはたまらなく嫌な気分だった。異端者≠ニ出会った後は、いつもこう。こんなことが、一体あと何回続くのだろう。早く終わってほしいのだけども、それが終わるということはこの旅が、つまり二人で過ごす時間が終わってしまうということなのだから、それも嫌だ。何だかもう訳が分からなくなって、
「……トモヤ様。もう、やめましょう」
気がつけば、そんなことを口走っていた。
「ん……? やめるって、なにを」
「この旅を、です」
言った。自分で考えて自分で恐ろしくなったその考えを一度口にしてしまうと、あとはもう、歯止めがきかなくなった。
「こんなの、はじめから意味がなかったんです。だって、そうでしょう。異端者≠ニいうのは、救いを求めないからこその異端者≠ナす。それを救うための旅なんていうのに、何の意味があるんですか」
「いきなり、なにを―――いや、今さらと言うべきか。そんなの、分かってたことじゃないか。分かっていて、でもそれしかすることがなかったからそうしていた。それを今さらやめろだなんて……やめて、どうするつもりなんだ」
「私たちの世界へ行きましょう。本来、境界越えはたくさんの天使たちの力が必要なんですが、トモヤ様の力があれば、なんとか私一人でも出来るはずです。……そこで、ずっと二人で暮らしましょう。形成の世界≠ノ逃げたと知れば、さすがに命≠烽烽、追ってこないはずです」
トモヤは、驚いた顔をしている。彼が何も言おうとしないので、ルーリアはさらに言葉を続けた。
「お願いします。私、いやなんです。あなたと離れたくないんです。あなたと離れるぐらいなら、世界なんて再生されなくてもいい」
「ルーリア、君は―――」
明らかに、トモヤは言葉に困っている。どうしてルーリアがいきなりこんなことを言うのか、その真意を量りかねている。そんなふうに見えた。
「……駄目だ、そんなこと言っちゃあ。君にとって、それじゃあ駄目なはずだ。今の君は、失ったものへの悲しみで壊れそうになるのを、それが再生するかも知れないという望みでなんとか持ちこたえているんじゃないのか」
「それは―――確かに、はじめのうちはそうだったかも知れません。でも、それだってあなたが居てくれたからこそ、です。あなたが適格者≠セからとか、そんなことを言ってるんじゃありません。むしろ、適格者≠ェあなただったからこそ、私は―――」
すがりつくように、ルーリアはトモヤの胸元をつかんだ。しっかりと、離れることのないように。
「今では、あなたが私の全てなんです。失った全てのものよりも、今ここに居るあなたが、私にとっては大切なんです。お願いです。お願いですから―――」
「……」
彼女の様子から、この願いが本当に切実であると、トモヤにも伝わっているはずである。だというのに、彼は答えらしい答えを返さない。無言のまま、必死に見つめてくる深緑の瞳から目を逸らした彼を見て、ルーリアは何となく悟ってしまった。
「……駄目、なんですね」
今にも泣き出しそうな、震える声で言う。落としかけた視線をもう一度しっかりとトモヤの目に向けて、胸元を掴んだ手に、ぐ、と力を入れた。
「どうしてなんですか。私のこと、嫌いじゃないんでしょう? だったら、少しぐらい―――」
「駄目なんだよ。俺はどうしても、自分のことを許せない。どうやっても、許せそうにない」
「だから、それがどうしてだって言ってるんです。あなたのせいじゃないのに。あなたの家族が亡くなったのは、あなたのせいじゃないのに……っ!」
ルーリアは、ついに涙を流しはじめた。細い肩を震わせて、それでも必死に、トモヤにしがみついている。離れたくないから。目の前の彼こそが自分の全てだと、本気で思えるから。
そんな彼女を、包み込むように。ゆっくりと、彼女の背中に、暖かいものが触れた。
「あ……」
それがトモヤの左腕だと気がついたのは、ぐいと抱き寄せられて、全身がトモヤの温かさで包まれてからだった。
一瞬、驚いて身を固くしたルーリアだったが、やがて体の力を抜いて、全身をトモヤにあずけた。両手をトモヤの背中に回して、彼の胸に頬をくっつけると、どくんどくんと、彼の鼓動が耳に届く。なんだかトモヤと一つになったみたいで、ルーリアはとても満たされた気持ちになった。
「トモヤ様。あなたにとって、私は一体何なんですか……?」
だから、言えた。ずっと怖くて訊けなかったそのことも、今なら言えてしまう。たとえどんな答えが返ってこようと、今なら耐えられる気がしたから。
「……好きだよ」
「えっ」
だからトモヤがそんなふうに答えたのは、彼女にとっては本当に予想外のことだった。
「今、なんて……?」
「君のことは、誰よりも大切に思ってる。君は、俺が居たから今までやってこれたって言ったけど、それは俺にとっても同じ。君が居たから、俺はここまで来れた」
「だから、好き……?」
「いや、そんな単純なことじゃない。何と言うか―――俺は、君だからこんなことを言うんだ。会ったばかりのころは酷いことを言ったりもしたけど、今じゃあ俺にとって君は、そういう言葉を超えた存在というか……すまない、なんだか上手く言えないけど、つまりは―――」
「いいんです。もう、何も言わないで下さい」
背中に回した手に、ぐ、と力を入れる。内心トモヤはちょっと痛がってるかも知れないが、それでちょうどいい、とルーリアは思った。今まで、ずいぶん酷いことを言われてきたのだ。これぐらい、我慢してくれなくては割に合わないというものだろう。
「でも、もし本当に私のことを想って下さっているのなら―――もう少し、もう少しだけ、このままで居させて……」
隙間なく、密着した体。今まで決して埋まることのなかったその距離を埋めるように。夕暮れに伸びた二人の影は、いつまでも、一つに重なっていた。
思えば。トモヤと過ごした時間の中でルーリアが幸せであったと言えるのは、唯一この時ぐらいであろう。だというのに、一体何故、ルーリアは彼と一緒に居ることを望んだのか。
それは、誰にも分からない。