「お前・・・本気なんだな?」
テンカワ・アキトは浮かない顔で、隣に立つ女性の気概に満ちた横顔を見つめた。
「今頃、なに言ってるの、アキト?
もうここまで来ちゃってるのに」
当たり前でしょ、とうなずいて、にこっと笑ってみせたのはテンカワ・ユリカ。
その屈託ない笑顔からは、自分の行動に疑問どころか、
一片の不安さえ抱いていないことがうかがえる。
アキトは諦めたように息を吐いた。
「まあ、それはそうだけどさ」
今さら不満を言っても仕方ないのは確かだが、
正直なところ、アキトはユリカの思惑には賛同しかねていた。
しかし、一度言い出したことを、彼女は絶対に覆さないだろう。
説得を試みたところで、いたずらに時間と体力を浪費するだけに決まっている。
そのことをよく知っているアキトなので、
断固拒否というほどの強硬な姿勢はとらなかった。
「しかしなあ・・・」
アキトは呆れたような調子でつぶやいて、ユリカに向けていた視線を正面に戻した。
彼らの前には古びた木造の建築物がある。
屋根は全面瓦でふかれ、そこから一本の大きな筒が伸びていた。
まだこんなものがあったのか、と感嘆せずにはいられない。
そんな趣き溢れる建物の入り口では、『ゆ』の文字を染め抜いた暖簾が揺れている。
「わざわざ銭湯に来なくてもいいだろう」
「だめだめ。みんなで入るにはあの部屋のお風呂は小さすぎるもん。
ね?ルリちゃん」
ユリカは脇に控えていた美少女、ホシノ・ルリを覗き込んだ。
満面の笑みで見下ろされたルリは、じとっと目を細めて睨み返す。
「小さくて当たり前です。
私の部屋は一人暮らし前提なんですから。
というか、いきなり一緒にお風呂に入りたいなんて、
無茶なこと言わないでください」
傍目には機嫌がよくないように見えるルリだが、
その手には石鹸やシャンプーなどのお風呂用品一式が詰まった桶が、
しっかりと抱えられている。
やる気は十分。
準備は万端だった。
こんな状況になっているのには、もちろん理由がある。
数時間前。
仕事を終えたルリが宿舎の自室へ戻ると、
タイミングを見計らったようにアキトとユリカ、
そして、ラピスの三人がボソンジャンプで現れた。
ところで、アキトとユリカの両名は、ある作戦を完遂させるため、
日々過酷な鍛錬に励み、同時に、
考古学者もかくやという熱心さで古代火星の研究を続けている。
あまりに多忙な毎日を送っているので、
そうそうルリのもとを訪れることはできないのだが、
たまに彼らは時間を見つけては、ルリの顔を見にやってくるのだった。
もちろん、彼女の都合を考え、事前に了解を取った上で。
例にもれることなく一報入れてから現れたアキト達は、
ルリを加えた四人で他愛のない談笑に興じた。
そんな中、なんの脈絡もなく、唐突にユリカが、
「そうだ!銭湯に行こう!一緒にお風呂に入るのって楽しいよ!」
と、突拍子も無い提案をしたのだ。
アキトは自分達の境遇を考えれば、のん気に銭湯なんぞに繰り出す気にはならなかった。
しかし、前述のとおり反抗は無意味だと理解していることもあり、
大人しく彼女に従うことにしたのである。
「さあ、行こう!」
ユリカはルリの刺すような視線を気にした風もなく、元気一杯に声を上げた。
自分の風呂桶を抱えなおし、意気揚々と歩き出す。
そのすぐ後に、ルリと同じくらいの美少女、ラピスが続く。
彼女らの後姿を眺めながら、アキトは、やれやれとばかりに溜息をついた。
ふと傍らにいたルリを見やる。
顔色をうかがうように見上げていた視線とぶつかった。
「困った奴だよ」
アキトは苦笑する。
つられてルリも、くすりと笑った。
「ユリカさんらしいです」
「そうだね。
相変わらず・・・といえば相変わらずなのかもしれないけど」
不意にアキトは眉をひそめて、ユリカ達が入っていった入り口を見つめた。
それをルリは不思議そうに見上げる。
「なにやってるの?アキト!ルリちゃん!
はやくはやく〜!」
ユリカが暖簾をかき分け、ひょっこりと顔を覗かせた。
子供のように頬を膨らませ、焦れた様子で手招きしている。
「急ごう。これ以上へそを曲げられたら大変だ」
「ええ、そうですね」
アキトとルリは顔を見合わせて小さく笑い、足早にユリカ達のもとへ向かった。
営業時間終了間際という遅い時間帯だったせいか、
単純にもともと寂れているだけなのか。
はたまた偶然だったのかは定かではないが、
入浴に訪れていた客はユリカ一行のみだった。
「ふう〜!」
ほとんど貸し切り状態の浴室に、ユリカのご機嫌な声が響く。
「極楽、極楽〜」
壁にもたれかかるようにして天井を仰ぎ、ほうっと大きな息を吐く。
心地よさそうなことこの上ない。
(でも、なんだかオヤジくさいですね)
ルリはそう思ったが、口にすることはできなかった。
ルリの視線はユリカの身体に釘付けになっている。
同性から見ても見事と思えるプロポーションに見とれていた―――わけではない。
体中にある擦り傷や切り傷、真新しい青あざが、
ルリからかけるべき言葉を奪い取っていた。
もはや満身創痍なんてレベルではない。
平気でいられることのほうが不思議なくらいなのに、
ユリカは辛そうな素振りを一切見せなかった。
広いお風呂に入りたいといった本当の理由はこれだったのかもしれない。
単純に一緒に入りたかっただけということも考えられるが。
とにかく彼女の身体はぼろぼろだった。
見ているこちらが顔をしかめてしまいそうな痛々しい姿に、
ルリも我知らず眉をひそめていた。
「まるで貸し切りみたいだね。
ラピスちゃんはこういうところに来るのはじめて?」
「うん」
「ふふ、気持ちいいでしょ?」
「うん」
「広いお風呂もいいんだけどね。
お風呂屋さんに来たら、忘れちゃいけないものが一つあるの。
なんだかわかる?」
「ううん。わからない。なにそれ?」
「それはね・・・お風呂上りのフルーツ牛乳!」
「ふるーつぎゅうにゅう?」
「そう!お風呂から上がったら、フルーツ牛乳で決まり!
だよね?ルリちゃん」
「はい?あ・・・ええ、そうですね」
突然話題を振られて、ルリは動揺しながらも勢いでうなずいていた。
そんな心ここにあらずといった彼女の様子に、ユリカが首をかしげる。
「どうしたの、ルリちゃん?
もしかしてもうのぼせちゃった?」
「い、いえ、のぼせてなんかないです。
ちょっと考えごとをしていたので」
「そう?なら、いいけど」
ユリカは安心したように笑った。
しかし、ルリは笑えなかった。
他人のことばかり心配していないで、少しは自分のことも気にしてほしい。
「あの、ユリカさん・・・」
「ん?なあに?」
「その・・・」
ルリは口ごもった。
「本当に大丈夫なんですか?」
と身体の具合を尋ねたい。
しかし、尋ねたところで、大丈夫だと返されることは目に見えていた。
自分の信条に頑なな彼女が、自ら話題に出さないということは、
話すつもりはないという無言の意思表示に他ならない。
また、彼女の『大丈夫』という言葉が真実である可能性ももちろんある。
一瞬の逡巡の後、ルリはユリカを信じることにした。
なにより、一緒にお風呂という貴重な体験を楽しまないのは勿体ない。
ルリは気を取り直して話題を変えた。
「計画のほうは順調に進んでいますか?」
「う〜ん。今のところは予定どおりかな。
着実に進歩してると思うし。私も、研究もね。
あ、でも、みんなには内緒だよ?ばらしてないよね?」
「もちろんです。私も共犯者ですから。
だますのはやっぱり少し後ろめたいですけど、
できる限りのサポートはさせてもらいます」
「ふふ、ありがと。
ルリちゃんが協力してくれると心強いよ」
ユリカは頼もしげに笑った。
またその表情は我が子の成長を喜ぶ母親のように優しい。
くすぐったくなったルリは、ちゃぽんと鼻までお湯に浸かって、
ユリカの視線から逃れた。
「私もがんばってるよっ!」
突然、ルリとは反対の側から声が上がる。
ちょっと不機嫌そうな口調だった。
そんな本人の気持ちなど欠片も知らないユリカは、
のほほんとした顔で声の主を振り返った。
「ラピスちゃんも手伝ってくれてありがとね。
勉強もあるから大変だろうけど、
ラピスちゃんが手伝ってくれるおかげで大助かりだよ」
「大丈夫。簡単だもん、あんなの」
「そう言えば、ラピスは士官学校のカリキュラムに沿って勉強中でしたね」
「うん。でも、私が見てる限りでは学校で習う内容とほとんど同じはずだから、
実践でも問題ないと思うよ」
「ユリカさん達の件が落ち着いたら、
ラピスは私のところに配属される予定なんですよね?」
「そうだよ。ルリちゃんの妹ってことで、
お父様に手回ししてもらうことになっているんだ。
そのときはよろしくね、ルリちゃん」
「はい。任せてください。
といっても、ラピスなら即戦力になるでしょうし、
私が面倒を見るまでもないと思いますけど」
ルリが素直にラピスを賞賛すると、ユリカも迷わず同意した。
しかし、当のラピスは不服そうだった。
顔半分を水没させて、なにか言いたげに、ぶくぶくと泡を吹いている。
実は、ラピスとルリはあまり仲が良くない。
仲が良くない、と言うと語弊がある。
どちらかといえば、彼女らは間違いなく良好な人間関係を築いている。
だが、なにかにつけて、二人は衝突することが多い。
さらに、ラピスにはいろいろ思うところがあり、
ルリがお姉さん的立場にいるのが面白くないのだ。
それと知らないユリカは、にこやかにラピスに話しかけた。
「だけど驚いたなあ。
いきなりラピスちゃんが軍に入りたいって言い出したときは」
「そ、そうかな?」
「うん。あ、今さら反対とか言うんじゃないよ?
私はラピスちゃんが自分で決めたことなら大賛成。
がんばってね」
「ありがと、ユリカ」
「だけど―――」
不意に、ユリカの笑顔の質が変わった。
さんさんと輝いていた太陽に薄い雲がかかり、
その日差しが穏やかになるように、彼女の微笑みもどこか神妙な雰囲気をまとう。
「後悔だけはしてほしくないんだ」
ユリカはおもむろに片腕を水面まで上げると、傷だらけの肌をそっと撫でる。
自分の身体を労わるように手を這わせながら、やや声を大にして続けた。
「私は全然後悔してないよ。
ナデシコで宇宙に飛び出したことも、
ラーメンの屋台を引いて歩いたことも・・・今こうしていることだってそう。
なに一つ後悔したことなんてない。
だから―――」
一旦言葉を切って、ユリカはルリとラピスを交互に見つめた。
「二人にも自分が信じたとおりに生きてほしい。
後悔しないと思えるのならそれでいい。
どんな生き方を選んでも、私はそれを応援するよ」
ルリとラピスはうなずくことしかできなかった。
無言でじっとユリカの瞳を見つめる。
彼女の言葉と、そこに込められた自分達への想いを噛み締めるように。
「よ〜し!
そろそろ身体も温まったし、背中を流し合おっか!」
打って変わって、明るいだけの口調で言うと、
ざばんとユリカは勢いよく湯船から立ち上がった。
「ほらほら、二人とも!
ぼうっとしてないで、はやくおいでよ!
背中流してあげるから!」
ユリカは鏡の前に腰掛けて、子供のようにシャワーをぶんぶんと振り回した。
もう先ほどまでの神妙な空気は、きれいさっぱり吹き飛んでしまっていた。
「では、お言葉に甘えて」
いちはやく調子を取り戻したルリが、ちょっと照れくさそうに腰を上げる。
やや遅れて、ラピスも、はっと我に返った。
「あ・・・!」
「お願いします、ユリカさん」
「ず、ずるいよ、ルリ!私も!」
髪と身体を流し終えたルリとラピス、もう一度身体を温めなおそうと湯船に戻っていた。
ユリカはまだ自分の身体を洗っている最中だ。
先に背中を流してもらった二人は、自分達が背中を流す、と申し出たが、
「湯冷めしちゃうからいいよ」
と、やんわりと断られてしまった。
そいうわけで、ルリとラピスは肩を並べて、のんびりとお湯の温もりを満喫していた。
「ねえ、ラピス。ユリカさん達には言ってないの?」
ルリが思い出したように声をかけた。
かなりくだけた言葉使いだが、これがラピスと会話するときのいつもの調子である。
誰に対しても丁寧な姿勢で応じるルリにとって、ラピスは唯一の例外と言えた。
一方で、ラピスもルリに対しては遠慮がない。
いつからこうなったのか、今となっては思い出せないが、
短期間のうちに二人がかなり仲良くなったことはよくわかる。
ラピスは短く聞き返した。
「なにを?」
「あなたが軍に入ろうと思った動機。
ユリカさんは知らないみたいだったから」
「うん。言ってない」
「あら、そう」
ルリはそれ以上言及しないで、いまだ鏡の前に座っているユリカを見た。
彼女はご機嫌に調子のはずれた鼻歌を奏でている。
それと見比べるように、隣りで初銭湯を堪能しているラピスに視線を戻した。
(照れくさかったんだろうな)
と、ルリは思った。
ユリカのことを慕っているラピスは、面と向かって伝えるのが気恥ずかしかったのだろう。
しかし、ラピスはルリだけには打ち明けていた。
―――アキトとユリカが帰ってくるまで、私が“あれ”を護るよ。
まるでユリカのような、決意に満ちた瞳で語るラピスを見たときは、
言いようのない喜びと、微笑ましい気持ちで一杯になったものだ。
それを思い出していたルリは、知らず知らずのうちに穏やかな笑みを浮かべて、
ラピスの横顔を眺めていた。
「ど、どうしたの?」
ラピスはルリが生温かい表情で見つめていることに気づき、居心地悪そうに身じろぎした。
「変なルリ・・・じろじろ見ないで」
露骨に棘のある台詞をぶつけて、ふいっと顔を背ける。
あからさまにつんつんした態度だったが、それでもルリの表情は変わらない。
むしろ、一層嬉しそうになった。
「未来の上司に向かって、そんなこと言っていいの?」
ルリは冗談めかして言うと、ラピスは面白くなさそうに口を尖らせた。
「まだ配属されてない。
それにルリの部下になるつもりなんてないもん」
「でも、形式上は部下になるんだから。
新兵が艦長と対等に話すっていうのは少し問題があるでしょ」
「う・・・」
「社会に出るからには、ルールには従ってもらわないと」
「うう・・・」
ラピスは閉口するしかなかった。
もっともなことを言っているように思えたので、言い返す言葉が出てこない。
そこで、思い切って攻め口を変える。
「最近は私のほうが勝ってるのに・・・」
ラピスは、ぼそりとつぶやいた。
これは二人が熱中しているシミュレーションゲームの話である。
583戦267勝305敗11分け。
まだ38敗の大差でラピスが負け越しているものの、
開始当初こてんぱんにやられたことを考えると、
ここ最近の追い上げには目を見張るものがある。
しかし、ルリは余裕を見せ付けるように、ふふんと得意げに鼻で笑った。
「そういう台詞は、私に勝ち越してからにしてよね」
平素のルリからは想像もつかない攻撃的な口ぶりだった。
ぴくっとラピスの眉がつり上がる。
これも普段表情に乏しいラピスにしては異例のことだ。
二人は鼻をぶつけんとばかりに睨み合った。
もっとも、ルリのほうはほとんど冗談なのだが、ラピスは完全に本気の目つきである。
それでも、決してルリが嫌いなわけでなく、むしろ逆。
敵視というよりはライバル視という表現が正しい。
ラピスにとってのルリは、はじめて出会った自分と同じ種類の人間であり、
自分が認めた実力者でもある。
それゆえに、ラピスはルリと対等でありたいと考え、
いつしかライバルとして認識するようになっていた。
さらに付け加えるなら―――もしかすると、これが一番の理由なのかもしれないが―――
ルリがユリカに一目置かれていることも、彼女に対抗心を燃やす要因の一つである。
対するルリにとってのラピスは、かわいい妹分に他ならない。
なにかにつけて張り合おうとする彼女がかわいく思えて仕方ないのだ。
ついからかいたくなる衝動が沸き起こり、冗談混じりにあしらうと、
相手はさらにむきになって突っかかってくる。
すると、ルリはまたそれをからかってしまう。
二人のやり取りはいつもその繰り返しだった。
「なんだったら、この後帰ってから勝負してあげてもいいよ」
ルリが勝ち誇ったような、ふてぶてしい態度で言い放った。
そんな好戦的な―――素振りをみせる―――ルリに、
冗談と知らないラピスが噛み付くのは火を見るより明らかだった。
「望むところ。こてんぱんにしてやる」
我知らずラピスの口調がきつくなる。
燃えたぎる熱い瞳で睨みつけるラピス。
それを涼しい顔で受け流すルリ。
二人の間に、バチバチと火花を散った。
「あれ?睨めっこしてるの?
仲がいいね、二人とも」
いつの間にか身体を流し終えたユリカが、満面の笑みを浮かべながら、
ルリとラピスの間に割り込んできた。
ラピスは不機嫌な様を見られたくなくて、慌てて険しい表情を引っ込めようとする。
だが、ルリを睨んでいた手前、そう簡単に引っ込めることはできず、
結局、困ったような怒ったような中途半端な表情になった。
それを見たユリカが、
「ラピスちゃん、気合入ってるねえ」
と見当違いのコメントを入れる。
「ぷっ・・・くくっ」
たまらずルリはふき出した。
必死で笑いを噛み殺そうとするが、くっくっと息がもれる。
「やったね、ラピスちゃん!
ラピスちゃんの勝ちだよ!」
ユリカが、いえいとブイサインを作った。
その向こうでルリが腹を抱えている。
ラピスは半眼でルリを睨んでから、つんと顔をそらした。
勝者のはずのラピスが不満げで、敗者のはずのルリが愉快そうにしている。
このあべこべになっている状況を前にして、
事情を知らないユリカは一人首をかしげるのだった。
「フィールドは月でいいよね?」
「ええ。あと、母艦は一隻に。
私はナデシコでいくから」
「じゃあ、私はユーチャリス。
戦力は?」
「コスト800以内に収まるんだったらご自由に」
「わかった。制限時間はどうする?」
「いつもどおり無制限でいいんじゃない?
どうせ全滅するんだから―――」
「ルリがね」
「ラピスが」
月の光に照らされた帰宅の道中。
ルリとラピスの会話は自然な流れで口論へと発展していく。
くどいようだが、焚きつけているのはルリで、
面白いように誘いに乗っていくのがラピスだ。
飽きもせず微笑ましい火花の散らし合いを繰り広げる様子は、
月下に彼女らの白い肌と金色の瞳が映えることもあり、
月夜に舞い降りた妖精が戯れているようにも見えた。
その数メートル後方、少女達を見守るようについて歩く二人の影がある。
アキトとユリカだ。
彼らは前を行く二つの小さな背中に穏やかな視線を注いでいた。
銭湯を出てから互いに一言も発さず、
肩を並べて歩いていたのだが、ふとアキトがおもむろに口を開いた。
「また気を使わせてしまったみたいだな」
「なんのこと?」
「とぼけるな。わざわざ大きな声で言ったくせに」
「あ、やっぱりばれちゃってた?」
ユリカはばつが悪そうに頭をかいた。
「アキトは心配しすぎなんだって。
確かに訓練は大変だし、苦しいと思うときもあるけど、
本当に後悔はしてないよ」
「そうか。
でも、それとは別にもう一つ・・・聞いておきたいことがある」
「ん?なになに?」
「どうして銭湯に行きたいだなんて言ったんだ?」
「え?・・・それはみんなで大きなお風呂に―――」
「ルリちゃんに元気な姿を見せて、安心させようとしたんだろ?」
「そ、そんなこと考えてないってば!」
やだなあ、もう、と笑いとばすユリカを、アキトは射抜くような鋭い視線を向ける。
「嘘をつくな。
本来ならこうやって歩いているだけで辛いはずだ。違うか?」
「・・・」
ユリカは沈黙した。
そもそも今回与えられた休暇は、疲労の回復にあてるためのものだったのだから、
遊びにいくという単純な理由のみで、ルリを訪ねるはずがない。
お見通しだというように、アキトはじっとユリカの瞳を見つめた。
無言で視線を交えること数秒―――。
「やっぱりアキトはだませないなあ・・・」
とうとうユリカは観念したように溜息混じりに言った。
アキトは眉をひそめる。
「うん。実はね、その・・・結構辛いんだ」
「無理するな・・・と言っても無駄だろうけど、
そんな様子じゃ逆に心配させてしまうだろ」
「大丈夫、大丈夫。お風呂で休んだおかげかな?
だいぶ楽になってきてるから」
ユリカはおどけて、むんっと力こぶをつくるように腕を曲げた。
しかし、そんな仕草も、アキトには気丈に振舞っているようにしか見えない。
だから、思わず口走ってしまった。
「すまない・・・俺に付き合わせたせいで―――」
「アキトッ!」
ユリカは怒ったように、ぴしゃりとアキトの言葉を遮った。
「私がこうしているのは自分の意志だよ!
アキトが責任を感じることなんてない!
さっきも言ったけど、私は後悔してないし、やめたいと思ったこともない。
だから、謝らないで!!」
「ああ、すまない」
「ほら、また!
前にも言ったでしょ!こういうときは・・・」
「ありがとう・・・だったか」
「そうそう」
ユリカが満足げに笑ってうなずいた。
つられてアキトの顔にも笑顔が戻る。
「アキトさ〜ん!ユリカさ〜ん!」
「アキト!ユリカ!」
遠くから名前が呼ばれた。
前に向き直ると、数十メートル先で、ルリとラピスが立ち止まっていた。
いつの間にか歩くスピードが遅くなっていたのか、
二人との距離がかなり広がってしまっていたようだ。
「どうしたんですか?」
「あんまりゆっくりしてると風邪ひいちゃうよ」
「そうです。はやく帰りましょう。
それに、ラピスが勝負勝負とうるさくて」
「先に言い出したのはルリじゃない!
だから、私は仕方なく・・・」
「あら、そう?
じゃあ、対戦相手を引き受けてくれなくてもいいよ?
ラピスが負けたままで構わないならね」
「そ、そうは言ってない!」
話が逸れていき、例によって例のごとくルリとラピスは睨み合う。
その様子を遠くから眺めていたアキトは、悲しげに笑った。
「こうしていると余計に考えてしまうよ。
俺なんかがこんなところにいていいのか・・・。
あの子達のそばにいていいのかってさ」
「アキト・・・」
「俺の手は汚れきっている。
自分の幸福を考える資格なんてあるわけがない。
それはわかってるんだ。
でも―――」
じゃれ合っている二人を宝物を眺めるように見つめる。
「あの子達の幸せを願うくらいは許してもらえるよな」
誰に言うともなくつぶやた台詞は、疑問を投げかけるように締めくくられた。
全くの無意識であったが、
もしかしたらユリカなら肯定してくれると思ったのかもしれない。
あるいは肯定してほしかったのか。
しかし、ユリカはなにも言わなかった。
代わりに、無言でアキトの腕を掴み、力強く地面を蹴った。
「ごめんごめ〜ん!風邪ひいちゃったら大変だね!
急いで帰ろう!」
ぐいぐいとアキトを引っ張りながら、ユリカはルリとラピスのもとへ駆け寄り、
二人の間に割って入った。
空いていたほうの手で隣にいたラピスの手を握る。
ラピスははにかみながらも、嬉しそうに笑った。
それにならって、アキトの隣に立っていたルリが、
当たり前のように彼の手を取ろうとする。
その瞬間、アキトは反射的に手を引っ込めていた。
ルリはきょとんとなって、空を切った自分の手と、アキトの顔を交互に見た。
「なにを気にしているんですか、アキトさん?
さっきお風呂に入ったばかりじゃないですか」
そして、にっこりと屈託ない笑顔を向ける。
「私、アキトさんの手が汚いなんて考えたことありませんよ」
アキトは心を読まれたような気がして、どきりとした。
そのすきに、ルリはしっかりとアキトの手を取った。
そうして全員の手が繋がれたのを確認できると、ユリカは意気揚々と声を上げる。
「じゃあ、みんなで帰ろっ!」
ご機嫌な様子で歩きだすユリカ。
その横顔を、アキトは戸惑いの表情で見つめる。
自分に向けられている視線に気づかないではないだろうに、
彼女の瞳がアキトのほうを向くことはなかった。
しかし、じっと前を見つめながらも、ユリカはアキトの手を強く握ってきた。
世界を敵に回しても、私が許す。
願うだけじゃなくて、見届けてあげよう。
そう言われた気がして、アキトは返事の代わりにユリカと繋いだ手に力を込めた。
そこで、はじめてユリカはアキトのほうを向いた。
傲慢だと非難されても、テロリストと罵られても構わない。
この子達の未来のためなら、命だってなんだって賭ける。
アキトとユリカは凛とした面持ちでうなずき合った。
「アキトさん?」
「ユリカ?」
不意に、手を強く握られたルリとラピスは、それぞれの手の先にいる相手を見上げた。
しかし、アキトとユリカの視線は前に向けられたままだった。
少女達は目を瞬かせ、不思議そうに顔を見合わせる。
瞬時には状況を飲み込めない様子だったが、すぐに彼女らの顔には笑顔が戻った。
そして、ルリとラピスもうなずき合う。
別に深く考えることはない。
自分達はしっかり繋がっている。
それさえわかっていれば十分。
ルリはアキトの手を、ラピスはユリカの手を握り直した。
この手をいつまでも繋いでいられるなどという、甘く幼い幻想は抱いていない。
あと数ヶ月もすれば、今度はいつ手を繋げるのかわからなくなる。
だが、自分達の間にあるのは、手と手の繋がりだけではない。
目に見えなくても、触って確認できるものでなくても、確かに存在している。
寄り添うように固く手を握り合いながら、四人は自分達の道を歩いていた。
そして、それは今後も変わることはないだろう。
きっと、ずっと―――。
<あとがき>
最後まで呼んでいただき、ありがとうございます。
イメージしたのは『思い』。
大切な人への思いが、一緒にいたいという理由。
そして、戦う理由になる。
一見、他人のため、ととれますが、その本質は、自分勝手。
でも、それでいいんじゃないか、と思っています。
ちょっと捻じ曲がった思想を持つ私ですが、またお付き合いいただけたら幸いです。
本当にありがとうございました。