カナタはIFSコンソールから手を離した。
 輝いていたナノマシンの紋様が、残光を揺らしながら消えていく。つなぎ合わせていたミライの手の温もりだけが、いつまでも消えずに残っていた。
 ウィンドウボールの中には、コアネットへの侵入を開始した時と同様にミライとカナタの姿がある。ミライはいまだにネット世界に没入しているらしく、前を見据えたままの琥珀色の瞳にナノマシンの輝きを走らせていた。
「結局何もわからなかったな。あの人はこっちでアイさんが待ってるって言ってたけど……まさかね」
 ひょいっと、ウィンドウボールから首を出してみる。空中に投影されたウィンドウを突き抜けると、そこに膝に手をついて荒い呼吸を吐き出すアイの姿があった。
「――カナタぁ〜」
 鬼のような形相だった。
「はうっ!」
 ウィンドウボールの中に逃げ込む。いや、こんなことでは逃げたうちにも入らないだろう。ミライの横でびくびくと震えていると、ウィンドウを突き抜けて、金の滝のような頭髪が流れ込んできた。そのあとに眼、鼻、口と続き、最後に鉤状に曲げられた指がまっすぐに伸びてくる。
「なぜ逃げる」
「あぁぁっ〜。だって、アイさん怖いぃ」
 いまにもシメられるという寸前で、我慢できずにぎゅっと目を瞑った。殴殺か絞殺か撲殺か、いずれにせよ殺される! そう思い震えていると、以外なことに、感じたのは包み込むように抱きしめてくるアイの温もりだった。
「……アイさん?」
 そっと瞼を開けると、すぐ目の前にアイの整った顔。そのまま額をこつんとぶつけてきた。
「やっとつかまえた」
「あの……なにかあったの」
「もう少しだけこのままで。――カナタ。あんたネルガル・コアネットに侵入したわね」
「う……。うん」
「知りたいことがあったんだ」
「……うん」
「何が知りたかったの」
「……」
「言いなさい」
「…………自分のこと。それとアイさんのこと」
「コアネットに侵入して、なにかわかった?」
 少し顔を離して横に振る。なんにも、と呟きながら。
「それなら、わたしが教えてあげるわ。知りたいことなんでも。少し長いお話になるけれど、火星に戻ったら全部教えてあげる」
「火星に……?」
「そう、火星。全てはそこで始まったことだから」
 アイは体を離した。
 そしてスーツの下に隠していたプラチナチェーンのネックレスを胸元から引き出す。カナタはそのアクセサリに見覚えがあった。蒼い石。火星だけで採れるとアイが教えてくれた石。
「これはチューリップクリスタルよ。ボソンジャンプのトリガー。跳ぶからしっかりと掴まっていなさい」
「跳ぶ?」
「そう、跳ぶの。ミライくんも抱き寄せて――そう、それでいい。カナタ、あなたは何も考えないで、頭を空っぽにしていなさい。あなたはわたしよりも強力なジャンパーだから、余計なことを考えているとそれに引きずられてしまうかもしれない」
 チューリップクリスタルが、光の粒子に分解した。空気に溶け込み、カナタたち三人を蒼い輝きで包み込む。
 見ると、アイの全身に見たこともない幾何学模様の光が走り回っていた。
「アイ……さん……」
「そう、わたしはA級ジャンパー。統合軍に身柄を拘束されているミスマル・ユリカだけが最後の生き残りだといわれているけどね。本当はそうじゃないの」
 それに、と優しい笑みを浮かべながら、アイはカナタをまっすぐに見つめた。
 そのブルーアイの中にカナタがいる。そしてカナタの全身も、アイと同じ紋様に輝いていた。
「カナタ、あなたもA級ジャンパーよ」
 景色のすべてが蒼い光に包まれ――――跳んだ。
 
 
『A級ジャンパーが何のために生まれるのか――考えたことはある?』
 声。アイの声。
 自分はどうしたんだろう。
 まるで蒼い光になってしまったみたい。
 でも夢じゃない。これは現実だと理解できる。
「何のために……? わからない。そんなこと考えたこともなかったよ」
『物理的には、火星の大気中に含まれるナノマシンが原因。それらは火星で育った子供の脳内に、“遺跡の演算ユニット”をコントロールするための特別な処理野を作り出す。でも、どうして?』
「どうしてかな。わかんない」
『そのナノマシンは“遺跡”と同様に古代火星人が作り出したの。彼らは何を望んでいたの?』
「わかんないよ。だって、あたし古代火星人じゃないもん」
『ならばこう考えてみて。なぜ、A級ジャンパーでなければ、“遺跡”をコントロールできないのか、と』
「……。たしか、ジャンプのイメージが正確に伝達されないから……だったよね」
『そう。では、なぜ正確に伝達されないの?』
「それは……だって、古代火星人とあたしたち人間とじゃ、イメージのしかたが違うからだよ」
 なんとなく……なんとなくだけれど、アイさんがどこに自分を誘導しようとしているのかが見えてきた。
『わかったみたいね。ならば訊きましょう。――なぜA級ジャンパーは“遺跡”をコントロールできるのか、と』
「それは……それは…………」
 喉が、詰まる。辿り着いた答えは、到底許容できるものじゃなかった。
『答えなさい、カナタ』
「それは――――A級ジャンパーが、古代火星人に近い思考法を備えているから! A級ジャンパーはヒトじゃない、より古代火星人に近い生物だから!!」
 蒼い世界が砕け散った。
 そうだ、A級ジャンパーは純粋なヒトじゃない。
 ヒトをヒトたらしめるのは、その肉体なんかじゃない。肉体なんてものは、いくらでも変容する。火星に住む人々も、環境に適応するために、IFSやナノマシン、遺伝子調整なんかで肉体を改造している。それでも彼らはヒトのままだ。
 でもA級ジャンパーは違うんだ。
 その思考法――知性のありかたが、ヒトではないから。
 知性という面で、A級ジャンパーはヒトと古代火星人の混血なのだから。
 だからA級ジャンパーは“遺跡”をコントロールできる。
 ――ヒトではないから。
 だからA級ジャンパーである、カナタという名の自分も――ヒトじゃ……ない!
 
 
 初めに聞こえたのは悲鳴だった。
 少し違う。悲鳴のような、音。
 それが自分の喉から漏れ出していると気づきながら、カナタはなにかを求めて赤子のように手を差し伸べていた。
「カナタ。カナタ」
 求めていたものはすぐに手に入った。
 アイの温もり。アイの匂い。アイの声。
 カナタはそれに包み込まれ、声をあげて泣いた。
 三日分の心の鬱積をすべて吐き出すために、五歳の子供が泣くように泣いた。
 普通の子供はこうやって泣くんだろうな、と心のどこかで思い、そうやって泣ける自分を嬉しいと思いながら。
「アイさん……。あたしって……A級ジャンパーって、ヒトじゃないんだね」
 どれだけ泣いただろうか。眼のまわりが腫れ、声が掠れるようになったころ、ようやくカナタは落ちつきを取り戻していた。
「そう。わたしの知っているA級ジャンパーも、みんなどこか普通とは違っていたわ。軍事的な天才や、独りで世界を混乱させるほどの復讐者、そしてわたしはナデシコを作り、新しい相転移炉を設計した。カナタ、あなたも五歳の子供としては桁外れに論理的な思考をするっていうこと、自分で気づいているわよね」
「……うん」
 アイの腕の中でカナタはうなずいた。
「でも、それだったらミライも一緒だよ。ううん、たぶんミライのほうが上だと思う。じゃあ、ミライもA級ジャンパーだってこと?」
「違う。ミライくんは別の意味でスペシャルなのよ。それはまた別の話だから。そのうちに話してあげる」
 ミライもまた、自分とは別の物語を持っている。それは疎外感と同時に、奇妙な安堵をカナタにもたらした。
 ミライの姿もすぐ傍にあった。
 こぼれ落ちそうな大きな瞳を一杯に見開いて、カナタに寄り添っている。IFSからいきなり引き離されたからだろうか、その瞳にはナノマシンの残光と、意思の欠片もない冷たい輝きだけがある。
 機械みたいだ――と、なぜかカナタの背に冷たいものが走っていた。
「ミライ」
 肩を揺さぶると、ぱちぱちと二度瞬く。すると琥珀色の瞳に馴れ親しんだ光が蘇った。
「うにゅ?」
 首をかしげる。なんだっけ? と瞳が語っていた。
「眼、覚めた? ボケっとしてんじゃないわよ」
 一瞬感じた不安も、すぐに氷解した。カナタのよく知っているミライだ。そう安心すると、憎まれ口も一緒に復活したようだった。
「ブラックハウンドに食べられちゃったんじゃないでしょうね。ノーミソ無事?」
「痛いよ、カナちゃん。ぶっちゃヤダ」
 コンコンとノーミソにノック。ちゃんと詰まっているようだ。いい音がする。
「うにゅぅ。ここどこ」
 ミライがもっともな疑問を呈した。
 感情の高ぶっていたカナタにはそれだけの余裕がなかったのだ。慌てて首をめぐらすと、そこはどこかの艦のブリッジのようだった。
 しかもエウカリスのような小型艦とは明らかに異なる、十人単位のクルーが立ち働けるだけのスペースを持った空間だ。これだけの大きさのブリッジをもつ艦は、おそらく旗艦クラスだけだろう。
「ここはナデシコのブリッジよ」
 アイが教えてくれる。
「ナデシコ……アイさんが作った船だよね」
 先ほどのアイの言葉を思い出す。自分はナデシコを作り、新しい相転移炉を設計した、と。
「基本設計だけね。そしてエンジンはわたしが理論設計した第二相転移炉を搭載しているわ。セカンドフェーズシフトエンジン。モノフェーズシフトよりさらに低い位相の真空と相転移を行うエンジンよ」
「もっとも、今は動くかどうかわからないんだけどねぇ」
 飄々とした声に振り向くと、そこにすかしたポーズで立つ長髪の男がいた。
 どこかで、つい最近見たことがある。その横の涼しい眼差しの女性を眼にしたとき、ようやく全ての記憶が繋がった。
「あぁっ、ネルガル会長だ! 売れないマイナーアイドル!」
 思わず口をついた本心に、ネルガル会長――アカツキは本気で嫌な顔をした。
「……。さすが、アイさんが育てただけのことはあるねぇ」
 そう言う口元が微妙に引きつっている。
「ふふっ。地方巡業専門の男は放っておいて……初めまして、じゃないわね。でもあなたにとっては初めてみたいなものかしら。わたしはエリナ・キンジョウ・ウォン。よろしくね」
 アカツキのやや後ろに陣取っていた女性がそう言って手を差し伸べた。
 涼しげな視線はそのままだが、そこに僅かな温かみがある。友達として、さらには女性としての憧れの対象として好きになれそうだとカナタは思う。
 同様に差し出された手を、人見知りの激しいミライが恐る恐る取った。その顔は朱に染まり、ついに視線を合わせようとはしない。
「初めてじゃないって、もしかして宙港ロビーでのことですか?」
「宙港ロビー? もしかしてあそこにカナタもいたの? 違うわよ、あなたが生まれたばかりの頃、わたしは何度か会いに来たことがあるの。アイとは昔からの顔なじみだから」
 アイを見ると、小さくうなずいた。
「じゃあ、もしかしてネルガル会長さんも?」
「ボクは、ほら、子供にキョーミ無いし、実のところ五月蝿くて嫌い――うぐっ!」
「あんたは黙ってなさい! ――気にしないで。こいつ、ネルガル会長なんて偉そうな肩書き持ってるけど、ただのナルシストだから。自分以外に興味ないのよ」
「違う。ボクは美しい女性のことも――ふぐうっ!」
 繰り広げられる光景に、ミライは蒼白で怯えていた。カナタと自分の関係を重ねているのかもしれない。
「とにかくよろしくね、カナタ、ミライ」
 ハイ、と返事をしたところで、艦長席らしき場所にいるふたりが視界に入った。ブリッジには他にも数名のクルーが詰めていたが、そのふたりだけはあきらかに存在が異質だ。
 ひとりは黒のマントと黒のバイザー、頭髪も漆黒という、黒尽くめの怪しい風体の男。それこそ宇宙海賊の頭領とでも表現したくなる人物だった。ナデシコが海賊艦ならばこれほど相応しい艦長もそうはいないだろうが、あいにくこの艦は民間船なのだ。機能的なデザインの制服の中で、そのいでたちはどうしようもなく浮いていた。
 そしてもうひとりには、すでに一度出会ったことがある。それはオモイカネの自我領域でカナタに話しかけてきた、ラピス・ラズリという女性だった。現実の彼女は仮想世界で感じたよりさらに儚げで、温室でだけ生息できる白い花のようだ。
「えっと、ラピスさん……ですよね」
 オペレーターシートで、ラピスはコクリとうなずいた。
「あの時はありがとうございました。危ないところを助けていただいて」
 また、コクリとうなずく。それだけだった。
「えっと、あの……」
 会話が続かない。ラピスは琥珀の瞳でじっとこちらを見つめている。瞬き一つしないのが妙に恐かった。
「えっと……それじゃ、そちらの人は?」
 黒尽くめの男を指し示すと、ラピスは初めて口を開いた。
「アキト」
 紹介が続くと思ったが、やはりそれだけだった。当の本人である黒尽くめの男もバイザーの下からこちらを見るばかりで、なにも付け足そうとしない。
 ふたりに、じいっ、と見つめられて、カナタはなんだか泣きたい気分だった。
「あっちの黒マントの変態は、ナデシコの臨時艦長よ。あれでも戦闘経験は豊富でね、こんなときには役に立つ男なの。でも逆の言い方をすると、こんな時でないとなんの役にも立たない人格破綻者だけどね」
 カナタを背中から抱き寄せながら助け舟を出したのはアイだった。
 冗談に紛らせてはいたが、その言葉には間違えようのない棘がある。そして瞳にはアキトを警戒する色がはっきりと浮かんでいた。
 その意図を汲み取ったらしいアキトは、カナタから眼をそらした。目に見えないバリアを張り巡らせたまま。
「アイさん。こんなとき、ってどういうこと?」
 アイの言葉には聞き捨てならない部分があった。“戦闘経験”などと、いったいどういう意味で使ったのか。なぜ、自分たちはナデシコ級戦艦のブリッジなどにいるのか。
 アイはそれに応えて、すべてを語ってくれた。
「――火星の独立って……うそ……」
 あまりのことに、そんな言葉しか出ない。頭を抱えて現実逃避したくなってしまう。
「全部本当のことよ。いまもアマテラスの住民はナデシコに避難を続けている。それが完了すれば、ナデシコは火星に向けて発進するわ」
「だって……勝てないよ? 地球の艦隊が火星まできたら、あっというまに包囲されてお終いだよ。なんでそんなに落ちついてるの、アイさん」
「凄いね。その歳でそこまで冷静な分析ができるんだ」
 口笛を吹きながら、派手なポーズを決めてアカツキが言った。
「でも大丈夫。このボクが負ける戦をするとでも思うかい」
「ナルシストでマイナーな芸人の言うことなんか信用できない」
 きっぱりと言い放つ。
「ねえ、アイさん。何か考えがあるんだよね。アイさんがそんな顔をしているときは、なにか奥の手があるときなんだ。そうでしょう?」
 アイは微笑と共に息を吐き出した。
「ラピス。“あれ”の映像、出せるかしら」
 ラピスが小さくうなずくと、メインスクリーンに映像が映し出された。
 金色のプレートがくるくると回転している。その表面にはぎっしりと、文字のようなものが彫りこまれているようだ。
 しかしその文字に類似するものを、カナタは思い出すことができなかった。文字、と直感したものの、どこか異質な感触。それはおそらく、人類の歴史には登場しなかったものではないのか。
「――古代火星人からのメッセージプレートよ」
 カナタの推測をアイが裏付けた。驚きに眼を見張るカナタをちらりと見ると、アイは先を続ける。
「詳細は省くけれど、このプレートはわたしが――ちょうどあなたぐらいの歳だったわたしが古代火星人から託されたものなの。初めてのボソンジャンプで、わたしは遥か過去の火星に飛ばされた。そこで彼らに出会ったのよ。彼らはわたしをこのメッセージプレートと一緒に、もとの時代に送り返してくれたわ」
 信じられないような告白だった。
 ここにいるアイが、本当に自分の知っている“アイ”なのかどうか、わからなくなりそうだ。
 ナデシコという戦艦や、新しい相転移炉を設計してしまうアイ。
 A級ジャンパーだったアイ。
 そして、古代火星人と出会ったことのあるアイ。
 どれもこれも、常識では考えられないことばかりではないか。
「なんて……書かれてたの」
「翻訳に成功するまでに何年もかかったのよ。あたりまえよね。だって思考方法が彼らとはまったく違うのだもの。人間同士の翻訳でも難しいのに、それがまったく別種の知性ときてはね。でも、四年前だったかな、ついに翻訳に成功して、そこにはとても重要なことが書かれていたの」
 スクリーンの上に、次々と文章が表示されていく。おそらく翻訳結果なのだろう。しかしカナタはその文章よりもアイの言葉に意識を傾けていた。
「古代火星人、なんて呼ばれているけれど、彼らは火星で進化した生物じゃないの。彼らを表現するのに一番適しているのは、“旅人”という言葉でしょうね。彼らは遥かな過去から、ずっと宇宙を旅しつづけている種族なのよ。でもその旅にはボソンジャンプが使われているから、彼らにとってはほんの一瞬の旅に過ぎない。そして火星の遺跡はね、彼らが通過するための駅なの」
「駅?」
「そう。ボソンジャンプは無限の距離を跳べるわけじゃない。物理的な限界が存在するの。本来ならボソンに代表される逆行波はあらゆるものに影響されない、だからこそ時間を逆行できるのだけれど、でも逆行波同士は干渉を起こしてしまうのよ。干渉をうけつつ情報を正確に伝達することのできる最長の時間的距離――それがボソンジャンプの限界。時間軸を光速で換算した距離が、ボソンジャンプで跳躍できる最大半径になるの」
「ごめんなさい。さっぱりわからないです」
 人が変わったように説明を続けるアイに、ついにカナタはギブアップ宣言した。なんだかアイの新しい面ばかりを見せ付けられているような気がする。
「……えっとね。つまり、ボソンジャンプは遺跡を中心に、半径100光年ぐらいが限界。わかる?」
 はじめからそう言えばいいのにと思いつつ、素直にうなずく。
「でも古代火星人が旅する距離は、そんなに短いものじゃないの。もっと遥かに遠くを目指しているのよ。だから彼らは、目指す旅路の先に、あらかじめ遺跡を作っていった。始めの遺跡から100光年先に自動機械をボソンジャンプして、そこで新しい遺跡を建設させる。そして次の目的地にまた自動機械をボソンジャンプさせて……ってね。すべての遺跡が建設されるまでには何千年とかかったのでしょうけど、時間を飛び越える技術を持った種族ですもの、そんなことは問題にならなかった」
「それじゃあ、火星の遺跡もそのひとつ? だから駅なんだ」
「そうよ。わたしたち人類は遺跡のひとつを利用して、ヒサゴ・プランというボソンジャンプネットワークを作り上げたけれどね、彼らのネットワークに比べてしまうと、ずいぶんチャチなシロモノじゃない」
 その“チャチなシロモノ”のせいで人生を狂わされたアキトにとっては、かなりきつい言い草だろう。アキトはなんの反応も示さず、ただ腕を組んでいた。
「そしてね、メッセージプレートにはこう書かれていたのよ」
 アイが子供っぽい笑みを浮かべて言った。
「わたしたちの使っている暦に換算して2206年の10月22日――つまり今日、あと数時間後に彼らは火星の遺跡に到着するってね」
 何度目の驚きだろうか。すでにカナタの感情は麻痺しかかっているのかもしれない。カナタにできたのは、ただオウム返しに言葉を繰り返すことだけだった。
「古代火星人が……到着する?」
「そうよ。そしてその時には、遺跡――演算ユニットの全能力は彼らの船団をボソンジャンプさせることだけに費やされてしまう。本当の主にすべての力を捧げてしまうのよ。そうなれば、わたしたち人類は演算ユニットを利用できなくなる。すべてのボソンジャンプが停止して、“大途絶”が起きるの」
「〜〜〜っ! だめだ! ごめんなさい、アイさん! もうアタマ一杯! 耳から出ちゃう!」
 ほとんど悲鳴だった。ここまで混乱したのはカナタの短い人生で初めてのことだろう。天才などともてはやされてもしょせんは子供ということか。いや、カナタだからこそ、ここまで次々と襲い掛かってくる異常な事態に対処できていたのだ。普通ならばとっくの昔にパニックを起こして逃げ出している。
「――――いいわ。じゃあ、これだけ理解して。……地球と月の艦隊は火星に辿り着けない。なぜって、ボソンジャンプができないから。辿り着けたとしても、通常の航行をしてくるから二ヶ月以上の時間が必要になる。その間に、わたしたちは彼らを迎え撃つ準備ができるの。だからわたしたちは負けない。絶対に勝つのよ」
 アイの言葉には揺るぎない自信があった。
 カナタの混乱した思考も、その自信に後押しされてどうにか落ち着きはじめた。
 アイの言葉は何よりも信頼できる。カナタにとって、それは大地が脚の下にあるのと同様、絶対的な真実だった。
 それにしても二ヶ月という期間で、どれほどの準備ができるものなのだろうか。
 もちろん地球連合の監視下で、細々と反逆の下準備をするよりは遥かに効率的で大掛かりな作戦を展開できる。それでも統合軍の正規艦隊を相手取るに十分な軍備が整えられるものなのだろうか。
 カナタにはそれが不可能に思えた。勝利するには、“大途絶”とは別にもう一枚、強力なジョーカーのカードが必要なはずだ。
 アイの自信は、そのカードを手中にしている表れだと、カナタは推測した。
 それが何であるのか。
「他にも何かあるんだよね。そんな顔してるよ、アイさん」
「ふふ……ホント、聡いわね、あんたは。でも教えてあげない。それは火星に着いてからのお楽しみよ」
 アイはとても嬉しそうな表情をしていた。ぐしゃぐしゃとカナタの竹箒型ツインテールに指を差し込んで掻きまわす。
「いゃぁー! やめてよぉ!」
 逃げようとしても無駄な抵抗だった。
 がっちりと首を極められて、好きなように弄ばれる。
「なんだかこう……カナタがかかわると人が変わるわよね、アイって」
「そうだよねぇ。五年間ですっかり母親というか、あの冷徹なイネス・フレサンジュはどこに行ってしまったんだろう」
「失礼ね。誰が冷徹だというの」
 エリナとアカツキを、ギンッ! と睨みつけるアイ。
「うにゅっ!」
 とばっちりを受けたのはミライだった。はじめて見る“こわい”アイに、おもいきり腰が引けてしまっている。大きな瞳にじわりと涙が滲みはじめる。
 しまった、と慌てたのは年かさの三人だった。
「あぁっ。ウソよ、冗談だからね。泣いちゃダメよ、ミライくん」
「ホント、これだから子供は五月蝿くって――ぐはっ!」
「このロクデナシ! ほらほら、おねーさんと遊ぼうかぁ。いい子だね、ミライ」
 エリナも人のことをどうこう言えないほど人格が変わっている。基本的に、子供と動物には勝てない人たちらしい。
「こんなことぐらいで泣いてんじゃないわよ、このバカミライ!」
「にゅっ!」
 鶴の一声だった。
 やはり子供に勝てるのは子供だけなのだろうか。カナタの一喝でミライはぴたりと泣き止んだ。
「へえ、お見事」
「調教されてるよ。かわいそうに……」
 同情したのはアカツキだった。同類相憐れむ。しかしエリナに睨まれ、しゅんとしてしまう。
「……来たぞ」
 危うく聞き逃すほどの低い声で告げたのは艦長席のアキトだった。ラピスがそれに続いた。
「統合軍第四艦隊が接近中。戦闘可能宙域まで100分で到達と推定。数は84、全艦隊の75%近くを投入したみたい」
 そう報告するラピスの澄んだ声は、静まり返るブリッジの壁に吸い込まれて消えていった。
 僅かな空白の時間のあと、始めに行動に移ったのはアカツキだった。
「……来たかい。避難民の収容状況はどうだい、ラピスくん」
「あと二時間は欲しいと言ってる」
「大途絶までのカウントダウンは?」
「225分。ボソン通信の遅延曲線からの推定だから正確じゃない」
 アカツキは神妙な表情で考え込んだ。
「……いいさ、悪くない数字だよ。問題は避難が完了する前に第四艦隊が到着してしまうことだね。どうしたらいいかな、艦長」
「いますぐに収容作業を切り上げナデシコは発進。ターミナルを利用されないように、アマテラスを破壊してから単独ボソンジャンプで火星に帰還する。それが最良の選択だな」
「逃げ遅れた人は見殺しかい?」
「やむをえん。遊びでやっているわけじゃない」
「でも、今後のことを考えれば、それは下策だね。政治的な配慮が皆無だよ。いつから軍人みたいなことを考えるようになったんだい、キミは」
「ならばOOFしかないな。あれなら避難民を収容する時間が稼げるだろう。俺とラピスで出る」
「待った。それはマズイよ。キミたちがいないと的確な指揮をできる人間がいなくなってしまう。どうせなら、ここは、彼に任せてみようじゃないの」
 アカツキはそう言って、ミライの幼い顔を見た。
「にゅ?」
「そうだよ、キミ。ミライくん」
「にゅにゅ?」
 なんでしょう、とばかりに首を傾ける。
「ワンマンオペレートフリート。キミ、オペレート出来るよねぇ。そのためにネルガルは高い金を出して、訓練設備を寄付したんだから。キミの成績はひとりだけ飛び抜けてるって報告がきてたし、すでに実戦レベルらしいじゃない」
「にゅうっっ――――!?」
 にやりと笑うアカツキの悪鬼のような顔を前に、ミライは奇声をあげていた。

前頁 / 目次 / 次頁