はじめに
この小説は、劇場版アフターですが、Ben様著「時の流れに」より、
アキト、ユリカの寿命があと数年という設定を使わせていただきました。
また機動兵器等の設定に関しては、日和見様、音威神矢様による
「なぜなにナデシコ特別編のお部屋。」を参考にしています。
ここに厚くお礼申し上げます。
無影灯の光で一片の影も存在しない格納庫の中央で、その白銀の機体だけが、重苦しい暗黒をまとっている。
白銀の機体が、どのような出自であるのか、そのことを知れば、機体がまとう影について誰もが納得することだろう。
漆黒の悪魔ブラックサレナの同型機、白銀のヴァイスリーリエ。
この白銀の機体は、数多くのターミナルコロニーを壊滅させ、数万人単位の人々の命を宇宙の藻屑へと変えた、悪魔の兄弟機であった。
「まったく、いやになるぜ。因業深いと言うかよ。
なんだって俺はこんなもんを、また作っちまったんだ」
ウリバタケ・セイヤは、彼にしてはめずらしいグチをこぼしながら、機体の最終チェックを行っていた。
「どうだい、艦長。感覚のフィードバックにおかしな部分はないだろうな」
『もう! わたしナデシコの艦長じゃありません。
わたしは、アキトのお嫁さん。人妻です。
奥さんって呼んでほしいのに。ぷんぷん!』
ヴァイスリーリエのアサルトピットから、そんな声が漏れ聞こえる。
ウリバタケはいつもの調子で、助平な笑みを浮かべていた。
「うひょぉ、奥さん! いいねぇ、萌え萌えだ!」
「なに言ってやがんだ、てめぇは」
乱暴な口調の中に、温かな親しみが混じっているその声の主は、スバル・リョーコであった。
昔に比べれば、髪を伸ばしたり薄い化粧をしたりと、ずいぶん女性らしい雰囲気を身につけていたが、この口調だけは手放さなかったらしい。
パイロットスーツの手袋をはめながら、彼女は言った。
「おい、ウリバタケよぉ。あたしらのエステはどうなってる。
中途半端な仕事してんじゃねえだろうな」
「そうだよ、ウリピー。贔屓はいけないなぁ」
「贔屓……兵器を平気で贔屓する……いまいち」
リョーコの背後から、別の二つの声。
アマノ・ヒカルとマキ・イズミの二人である。
こちらの二人は、年月が与えた影響はほとんどないようだった。
三人は、それぞれのパーソナルカラーをあしらったパイロットスーツで身を固め、適度な緊張感をまといながら立っている。
ウリバタケにとって、その光景は哀しくなるほど懐かしいものだった。
もしかするとすぐそこに、嫌々パイロットスーツを着込んでいる、あの少年の姿もあるかもしれない――手の届かない場所に去ってしまったことは、ただの白昼夢だったのではないか、そんな、切な願望が首をもたげた。
しかしウリバタケはその感情を振り払った。
現実逃避をしている時間があるなら、ほかにできることがいくらでもあるのだから。
ウリバタケはニヤリと笑うと、格納庫の端に並んでいる三機のエステバリスを指し示した。
「おうよ。俺の辞書に中途半端などという文字は存在しない!
みよ、あの完璧なまでに整備、改装された、エステバリス・アサルトフレームを!」
そのエステバリスは、それぞれ、リョーコ、ヒカル、イズミのパーソナルカラーで塗り分けられていた。
通常のエステバリスと違い、追加装甲に加えて、肩部と脚部に翼状の二連スラスターを装備している。
そしてその手にするのは、槍のような長砲身のレールカノン。
ブラックサレナと同じ、強襲仕様のエステバリスとして、ウリバタケが改装したものだった。
「高効率のアクティブ重力波アンテナをそれぞれ3基ずつ装備。
レールカノンの連射もなんのその、ウリバタケ様特製のグラビティ・ブラストも使用可能だ。
ナデシコに比べりゃ低出力だし、一発撃てば、砲身がおしゃかになっちまうがな。
なあに、今回は一度っきりの戦争だ。それで充分だろ、リョーコちゃんよ」
リョーコは、満足したようにうなずいた。
そのあと、しばらく逡巡していたが、ようやく決心したのか、ヴァイスリーリエに近寄っていく。
いちど深呼吸のように深く息を吸い込み、アサルトピットの中を覗き込んだ。そのリョーコの顔にひらめいた感情は何だったのか。
驚愕と哀しみがないまぜになったような、何ともいいようのない表情は、すぐにリョーコの強い意思の中に消えていった。
「よお、艦長」
奥さんです! という声を無視して、リョーコは静かな声で語りかけた。
「――ザコはあたしらに任せときな。あんたは、逃げた亭主を追っかけて、一発ぶん殴ってやれ。
あたしが許す。
テンカワの奴はそれぐらいしなきゃ、女の気持ちなんて気づきゃしないんだからさ」
一瞬だけ寂しそうな表情がその顔をかすめたが、振り切るようにアサルトピットを叩き、顔をあげる。
「それだけだ! がんばんなよ、テンカワ・ユリカ」
感情を押し隠して去っていくリョーコと入れ替えに、ヒカルとイズミがヴァイスリーリエに近づいた。
二人の表情に特に変化はなかった。
ただ、アサルトピットの縁にかけられたヒカルの指が、わずかに震えている。
それでもヒカルは、いつものように笑っていた。
「えっとね、これ言っちゃっていいのかな」
ヒカルはすこし悩む素振りをしたが、あっさりと決断した。はじめから言うつもりだったのだろう。
「まあ、いいや――あのね、リョーコちゃんて、
まだ『テンカワ、テンカワァ〜』が抜けきっていないみたいなの」
後ろで、イズミが口をそろえて「テンカワ、テンカワァ〜」と言いながら、身をよじっている。
「だからね、ユリカ艦長。しっかりとアキト君を捕まえていてくれないと、
悲しい思いをする女性(ひと)が他にも一杯いると思うんだ。
だめだよ、そんなの。漫画の中だけで充分なんだからさ、悲しいのなんて。
だから、今日はあたし、精一杯バックアップする。絶対にアキト君を連れ戻しなよ。ね」
しつこく「テンカワ、テンカワ」と言いつづけていたイズミが、いきなり真顔に戻ってアサルトピットを覗き込んだ。
「――ま、そういうことだね。逃げた男を連れ戻すのは、女の仕事だよ。
女の甲斐性の見せ所ってやつだからね、負けんじゃないよ」
イズミ怖いよぉ〜、などと笑いながら、ヒカルとイズミも去っていった。
それぞれのエステバリスに搭乗していく後ろ姿を見届けた後、ウリバタケもアサルトピットに向けて話しかけていた。
「……まあ、なんだな。人なんてな、それぞれに、いろんなもんを背負ってよ、
いろんなもんを捨てて生きていくわけだ」
ウリバタケはメガネの位置を直しながら、慎重に次の言葉を選んでいた。
「――あんたの場合、ちょっとでかすぎるもんを背負わされちまったみたいだけどよ、
まあ、みんなああやって、少しでも肩代わりしようとしてくれてるんだな。
とにかく今日のところは、よけいなもんはきれいさっぱり忘れて、アキトのバカをふん捕まえてこいや。
あとのことは、それからにしようぜ。なあ、テンカワの奥さん?」
最後のひとことを、わざとニヤけながら言い終えたウリバタケの目に、格納庫の入り口で立ちすくむ、瑠璃色の髪の少女の姿が映っていた。
「――ああっと、俺は邪魔者みたいだな。退散して、リョーコちゃんたちと親睦を深めてきますかね」
ウリバタケは、スパナで首筋を叩きながら、飄々とした足取りで、ヴァイスリーリエから離れていく。
その途中で、瑠璃色の髪の少女――ホシノ・ルリに向けて、不器用なウィンクをしてみせた。
ルリは、その心遣いに応え、わずかに頭を下げる。
しかし、最初の一歩が、どうしても踏み出せずにいた。
格納庫の入り口で、途方にくれたように立ちすくんでいるのが精一杯であった。
『ル〜リ〜ちゃん!』
みょうに間延びした声が、ヴァイスリーリエのアサルトピットから流れた。
その声がきっかけだったのだろう。
ルリは格納庫へ、一歩を踏み入れた。
『――ちょっと待った! ルリちゃん、そこで止まって!』
緊迫した声だった。
ルリはびくりと身体を震わすと、また石像のように立ちすくむ。
『その場でクルッと回って! そう、もう一回! えい、ついでにもう一回! ――へえぇ〜』
ツインテールをなびかせて、言われた通りにターンしていたルリは、どうも自分が遊ばれていることに気がついたようだった。
『ルリちゃんの艦長服姿、すっごいカワイイ! いいなあ、わたしもそんな艦長服がよかったよぉ〜』
「馬鹿……」
ガックリと肩を落としたルリは、いつものペースを取り戻していた。
ユリカが、そんな雰囲気を作ってくれたのだ。
大人の余裕といったところだろう。
――でも……天然かも
ルリをもってしても、いまだにどちらなのか決めかねるユリカの本質は、結局のところ本人にも解っていないのかもしれない。
無意識に天然を演じる――そんなところなのではないか。
どちらにしても――
ユリカは、ルリから笑顔を引き出すことに成功していた。
「やっとアキトさんに追いつきましたね」
ルリは軽くなった心を感じながら、自然に口を開いていた。
『みんなから、お説教されちゃった。アキトをしっかり捕まえておけって。
わたしって、そんなにダメな人妻かしら。ちょっとショック。
ほかの人に負けない自信あったのに!』
ルリは首をかしげて、たとえば? と問うていた。
『そうだなぁ、プロポーションには自信あるよ。アキトが鼻血を出すくらい』
私ではそうはいきませんね、と心で思う。
『それに、それに、顔もかわいいってよく言われるし……』
――自分で言っちゃダメです。
『明るいねって、みんなから誉められるんだよ』
――天然とかアーパーとも言われてます。
『それから……家事だって、人並みにこなせるし……』
――ユリカさんの手料理を食べて、あやうく一家が全滅しかけたこと、きれいに忘れてますね。
『それに――』わずかな間。『――わたしが一番、アキトを愛してるの!』
その言葉はズキリとルリの胸を突き刺した。
納得はしていたが、なかなか感情が理性に従ってくれない。
死んだと思われていた、アキトとの2年ぶりの再会。
そのせいで、塞がったはずの傷口が、ふたたび血を流している。
傷口が塞がったとしても、傷跡は一生消えることはないのだろう。
ルリは、その傷跡が、もう自分の一部であることに気がついてしまっていた。
悔しい。
だから、すこしだけイジワルをする。これぐらいは、許されると思うから。
「オモイカネ、ウリバタケさんの秘匿データベースをハッキング。
ネルガルのプロファイルデータと合わせて高次元集計。表示して」
ルリの顔の前に、投影式のウィンドウがひらいた。
「――ユリカさん、やっぱりダメです。いろんな人に、いろいろと負けてます。
統計データ見ますか?」
『がぁ〜ん!!』
ルリちゃん、ひどい! という泣き声を聞きながら、ルリはヴァイスリーリエに近づいた。
そして、ユリカの声が漏れ聞こえるアサルトピットを覗き込む。
そこにユリカはいた――
輝くファイバーケーブルに取り巻かれ、ナノマシン溶液に全身を浸した、全裸のユリカが。
そしてその全身に、神秘的にすら見える、ナノパターンが走っていた。
溶液の動きに合わせて、いっぱいに広がった黒絹の髪が、独立した生物のようにゆらゆらと揺らいでいる。
顔からは、すでに血の気がなくなっていたが、その唇だけは不思議なことに、みずみずしい色を失っていなかった。
静かに閉じられた目は、その闇の中で、いったい何を見つめているのだろうか。
「――でも」ルリは噛みしめるように言った。「きれいです。とっても」
眠り姫を目覚めさせ、姿を消してしまった王子を求め、姫はもう一度眠りについたのだ。
その代償に手にしたのは、白銀のヴァイスリーリエという名の翼。
遺跡との融合の果てに、ユリカは五感のすべてを失っていた。
アキトとラピスの関係のように、いま、ルリとユリカはつながっている。
そのための処置を、ルリはみずから進んで受けていた。
願いはたったひとつ。
ユリカをアキトに会わせる、ただそれだけ。
「いきましょう、ユリカさん」
アサルトピットのスピーカーから、うん、という声が流れた。
『そうだね。――みんな! わたし、アキトのところに行ってくる!』
アサルトピットがゆっくりと閉じられていく。
ルリは、ユリカの姿を最後まで見つめていた。
そして、アサルトピットのハッチが完全に閉じたあと、さらに外部装甲がユリカを厳重に幽閉するかのように、次々とかぶさっていった。
ユリカの姿は、もうルリの視界にはない――
ブラックサレナの同型機、白銀のヴァイスリーリエは、誘導灯の輝きと共に、ナデシコCのカタパルトに向けて移動をはじめた。
機動戦艦ナデシコ 劇場版after
―― Please look at ME!! ――
あと5年の命。
遺跡から開放されたユリカに対して下された判決がそれだった。
「えへへ。なんか、そうみたいだね。まいった、まいった」
病院のベッドに横たわりながら、ユリカはそう言って明るく笑っていた。
ぺちぺちと、自分の頭を、はたいている。
強がりには見えなかった。
昔のままの、底抜けに明るいユリカがそこにいる。
なぜ、そんな顔をして笑っていられるのか、ルリにはどうしても理解できなかった。
「わたしもアキトと同じぐらい実験されちゃったもん。しかたないよね。
やっぱりアキトとわたしは、赤い糸でつながってるの。
最後までいっしょだなんて、絶対、運命なんだわ!」
でも――
ルリは、そのひとことが口に出せず、うつむいた。
――アキトさんは、いなくなってしまいました。それでいいんですか、ユリカさん?
言い出せない思いは、ルリから、いつもの屈託のなさを奪っていた。
「ルリちゃん?」
そう言いながら伸ばされるユリカの手は、ルリのいる方向とはわずかにずれている。
ユリカの体内で暴れるナノマシンたちは、すでに宿主の神経系をそこまで破壊していたのだ。
ルリは、その手を取ると、自分の胸元へと導いた。
「なんですか」
「えっとね……ルリちゃんが思ってること、たぶん、わたしは解ってるつもりだよ。
大丈夫、5年もあるんだもの。
もう一度アキトを見つけて、もう一度わたしを振り向かせて、もう一度恋をする
――十分だよ。またアキトと恋ができるなんて、幸せなぐらい。
だから、ルリちゃんも、いつものルリちゃんでいてくれなきゃ。
私らしく。自分らしく。でしょ?」
ルリはユリカの手を握り締めた。
痛いほどに。
それでも、五感を失いつつあるユリカには、その痛みすらほとんど伝わっていない。
思いを伝えることのできないもどかしさに、ルリの心はもだえ苦しんでいた。
「……本当に……それでいいんですか? 本当に?」
ユリカは暖かい笑顔で笑っていた。
「そうだなぁ。おじいちゃん、おばあちゃんになるまで生きて、
縁側でぽたぽたしながら、アキトとお茶を飲みたかったかな。
でも、それはちょっとムリそうだね――」
いきなり、ユリカはイタズラを思いついた子供のように、無邪気に笑った。
「アキトを見つけたら、おじいちゃんの格好をさせて、ナデシコのみんなと一緒にお茶しようか。
ね、ルリちゃん。それぐらいのバツゲームはしなきゃダメだよね」
ルリも、心からのものではなかったが、かろうじて笑顔を浮かべていた。
そうですね、と何度も言いながら、ユリカの手を握り締める。
「――ええ、それぐらい当然です。アキトさんには、ちょっと痛い目を見てもらわないと。
私たちを置いてどこかに行っちゃうなんて、ゆるせません」
ルリの金色の瞳の中に、強い意志が宿った。
「――バツゲームを受けさせるためにも、アキトさんは絶対に私が見つけ出してみせます。
だから、待っていてください、ユリカさん。すぐに見つけてみせますから。絶対に」
はっきりとした声でそう言うと、ルリはユリカの手をベッドの上にそっと戻した。
「また来ますね」と言いながら、病室から出ようとしたその背に、ユリカが声をかけた。
「ゴメンね、ルリちゃん――」
同時にパンッという乾いた音。ユリカが自分のほおを叩いた音だった。
「いまのはなし! ――ありがとう、ルリちゃん」
ルリはなにも答えずに、扉を後ろ手に閉めた。
ナデシコCの制御思考体オモイカネ、そしてネルガルの中枢思考体であるエアの力を借りながら、電子の妖精はその名にふさわしい居場所である電子の海を漂っていた。
テンカワ・アキト。
ただ1つのキーワードを追い求め、不眠不休の一週間が過ぎていた。
おそらく人類が望みうる、最強の電子戦略チームと言っても過言ではないこの3人をもってしても、アキト――そしてその乗艦ユーチャリスの行方はようとして知れなかった。
しかし、逆にその事実は、ルリにアキトの所在を嗅ぎ取ったと感じさせていた。
ありえないのだ。
この世界で生きていくためには、どうやっても電子的な手続きが必要になってくる。
パンの一切れ、米の一粒を手に入れようとしても、その後には、必ずデータが残ってしまう。
ここまで完璧にそのデータがないというのは、アキトが生きることをあきらめたか、何者かがデータの隠蔽工作を行っているということだ。
アキトが死を選ぶ。
それはルリにとっては容認しがたい考えだった。
ならば隠蔽工作が行われているのだ。
ルリはいま、あらゆるデータの矛盾点を洗い出し、その背後に潜む、アキトの残滓を見つけ出そうとしていた。
木星圏、火星圏、地球圏、存在するすべての知性体とコンピュータにハッキングを仕掛け、あらゆるデータから矛盾点をピックアップしていく。
その気の遠くなるような作業を通して、ルリは1つのパターンを見つけ出していた。
火星から始まったそれは、一度地球に向かい、再度火星へ、そして木星へと続いている。
同一の人物が、データを消去するために行った工作の跡だった。
『ラピス。あなたなのね――』
ルリは、その隠蔽パターンをエアに学習させると、情報の海の中に解き放った。
エアは、遺跡のコピーとして、持って生まれた恐るべき能力を全開に発揮し、その“ラピスの匂い”を追跡する。
もう1人の自分、ラピスであっても、エアの追跡の手から逃げ切ることは不可能だ。
ルリに不可能なことは、ラピスにも不可能なはずなのだから。
しかし――
その“匂い”は、木連で見つかったものを最後にして、ぷつりと途切れていた。
最後の痕跡は2週間前。
――アキトさんの身に、何かが起きた?
ルリは重苦しい予感に胸を詰まらせていた。
水中から身体を起こす。
すこし粘度の高いナノマシン溶液は、ルリの身体の表面をゆっくりと流れ落ちていった。
まとわりついている髪を払うと、唐突に感じ始めた寒さに身体を震わせる。
一見すると、底の浅いプールがある、レクリエーションルームのように見える部屋だった。
ただし、そのプールに張ってあるのは、自ら発光する、ナノマシン溶液ではあったが。
ルリの正面にあった扉が左右に開き、手にバスタオルをもったアカツキ・ナガレが入ってきた。
おそらくルリがバーチャルアウトしてくるのを、隣室で待っていてくれたのだろう。
ルリは、のどの調子を確かめながら、アカツキに声をかけた。
「エアを使わせてもらえて助かりました」
「いいの、いいの」そう言って、アカツキは、昔と変わらない、キザな笑いかたをしてみせた。
「ちょっとばかり、ネルガルの株価が落ち込んじゃったけどね。
これは今に始まったことじゃないしさ。
それより、ルリくんが手に入れた、山のような怪しいデータ、これをどう利用するかで、
連日首脳会議の繰り返しだよ。
ルリくんが『矛盾を洗い出した』おかげで、もしかすると、
ネルガルは全世界の弱みを一手に握っちゃったかもしれないねぇ」
ルリは目を細めて、アカツキを見る。
「――アカツキさんは、どうしたいのですか」
アカツキはまったくひるんだ様子はなかった。いつも通りの飄々とした雰囲気のまま、ルリの視線を受け止めている。
「ボクはさ、ほら、自分のこと、そんなに野心家じゃないと思ってるし、
ネルガル会長としても、必要なときに必要な分だけ利用させてもらえれば充分なんだよね。
――ただねぇ、うちにもいるんだよ。身の程をわきまえない、勘違いしたヤツらがさ。
困ったもんだね。足元をすくわれないように注意しないとさ」
ルリは――昔では考えられないほど自然に――笑顔を浮かべていた。
「その時は、私とオモイカネが力を貸します。――私、情報戦では完全無敵ですから」
「そりゃそうだ」などと笑っていたアカツキは、ルリの笑顔を見てすこし戸惑った様子だった。
わざとらしく咳払いをしながら、手にもっていた大きめのバスタオルを差し出す。
「まあ、その前に、これで身体を拭いたほうがいいんじゃないかな?
そっちに服も用意してあるから。
……しかしなんだねえ、あのルリくんが、ずいぶん大きくなったもんだ。
いや、驚いたよ、ボクも」
そう言って、背中を向けたアカツキを、力いっぱいドつき倒しながら、ルリは急いで身支度を整えた。
「……で、見つかったのかい。流浪の王子様は」
後頭部をさすりながら、アカツキはいきなり事の核心に触れた。
「……木連までの足取りはつかめました。でも、2週間前からの痕跡が何もないんです」
「ふぅん、木連ね。そう――」
アカツキはコミュニケに話しかけた。
「ああ、エリナくん? 悪いんだけどさ、あの資料、木連関係だけこっちに持ってきてくれない?
そうそう、エアのコミュニケルームにルリくんと一緒にいるからさ」
エリナ=キンジョウ=ウォンが、姿をあらわしたのは、そのすぐ後のことだった。
手に大量のファイルを抱え、さらにその後ろにも台車にいっぱいのファイルを乗せたゴート=ホーリが続いている。
「電子的な手段だけが、情報収集の方法じゃないってことよ。
この中に、なにか彼の足跡があるかもね」
どさどさとファイルを床に積み上げながら、エリナは言った。
この情報を集めるために、どれだけの資金と人手を費やしたのか、ルリには容易に想像できた。
プロスペクターの嘆く姿が、目に浮かぶようだ。
――アキトさん。みんなあなたのことを心配しています。いったいどこにいってしまったんですか?
さてと、と言いながら腕まくりをするエリナの横に座り、ルリはみんなの思いがアキトに届いて欲しいと願っていた。