サツキミドリ4号コロニーは、蜥蜴戦争時には同2号コロニーに次ぐ、火星圏奪回のための最前線の軍事拠点であった。
しかし木連との和平が成立し、「火星の後継者」によるテロ活動も一段落した今、このコロニーの軍事拠点としての重要性は限りなくゼロに近くなっている。
それは喜ぶべきことなのだろう。
正常な神経の持ち主であれば、平和を忌避するはずがないのだから。
しかし、いまこの瞬間、それらの幻想は虚しいものとなっていた。
サツキミドリ4号コロニーに、敵襲を告げる警報が鳴り響いていたのだ。
「隊長、敵の数は判明したんですか」
金髪を優雅になびかせ、ステルンクーゲルに乗り込んだ青年が、焦燥を含んだ口調で言った。
それに応えたのは、右横に並んでフックに固定されている、同じ塗装のステルンクーゲルのパイロットだった。
「不明だ。敵は第12ブロックのハッチを破壊して、サツキミドリに侵入した。
今も破壊活動を続けながら、このブロックに侵攻中だ。
くそっ、監視員は居眠りでもしてやがったのか!」
隊長と呼ばれた男は懸命に怒りを抑えながら、どのように部隊を展開するか考えている様子だった。
「――マッシュ、キリー、チア。おまえたちは5番通路内に身を隠せ。
敵がこのデッキに侵入後、背後から襲撃、2方向から挟み撃ちにする。
分隊の指揮はマッシュ、おまえに任せる。いけ!」
青年――マッシュは、復唱すると、ステルンクーゲルを固定しているフックを、緊急排除した。
小さな爆発とともに、フックが吹き飛ぶ。
着地と同時に、ブースターを吹かし、5番通路に移動。
キリーとチアのステルンクーゲルに、身を隠すように指示すると、自分もわき道に入りすべてのシステムを停止させた。
これで、敵に感づかれることはないだろう。
灯の消えたコックピット内で、自分の早鐘のような心音を聞きながら、マッシュは待った。
聞こえる。
わずかな振動とともに、恐ろしい爆音を響かせながら、何者かが近づいてくる。
その爆音は異常だった。
エステバリスや、ステルンクーゲルのような、重力波スラスター方式の音とはあきらかに違う。
これは燃料式スラスターの音だ。
いまどき、燃料式スラスターを使用している機体など、ありえるはずがない。
もしあるとすれば、よほどの酔狂者が、重力波スラスターだけでは足りない推力を、燃料式スラスターでカバーしているというパターンだろう。
普通のパイロットであれば、重力波スラスターの推力だけでも、そのGで気を失いかねないというのに、この敵は、それでも満足せず、さらに燃料式スラスターを併用しているのだ。
マッシュの背に、冷たい汗が流れ落ちていた。
「なんなんだ、こいつは……」
ただの推進音だけでマッシュを怯えさせた敵は、確実に5番通路を進んで来ていた。
あと5秒。
マッシュはある予感に従い、最低限のメイン制御システムだけを起動させると、そのシステムの書き換えを実行した。
EOS(イージー・オペレーション・システム)から、IFS(イメージ・フィードバック・システム)へ。
ステルンクーゲルの、すべてのコントロール権を、戦術コンピュータから剥奪する。
入隊前からIFSインターフェース持ちの身体だったマッシュは、自分のステルンクーゲルに、IFSのコントロールシステムを増設していたのだ。
サツキミドリ4号コロニーでは、エース級のステルンクーゲル・ライダーだったマッシュだからこそ許された、カスタム化だった。
機体制御に戦術コンピュータのサポートを必要とするEOSに比べ、すべてのコントロールをパイロット1人で行うIFSは、その柔軟性において非常に高い能力を発揮する可能性がある。
ただし、戦術コンピュータの学習能力を超える戦闘能力を、そのパイロットが持っている場合に限るが。
マッシュにはステルンクーゲルの能力を120%引き出すだけの自信があった。
しかし、いま迫っている敵。
この敵には、その120%でも太刀打ちできるかどうか。
すべての力を振り絞らなければ、死ぬのは自分だという、妙にはっきりとした予感が、マッシュの中に巣食っていた。
闇の中、マッシュの右手の甲に、輝くナノパターンが現れる。
「久しぶりに、暴れようぜ。相棒」
1秒前。
すべてのシステムを起動。
瞬時に覚醒したステルンクーゲルの前を、黒い疾風が疾り抜けた。
――コイツか!
マッシュは通路に飛び出した。
ほかの二人――キリーとチアに比べ、その反応はあきらかに速い。
IFSのためだけではない、マッシュ自身の反応速度が、桁違いなのだ。
この時点で、すでにマッシュは、敵は単騎であることを悟っていた。
ほかの二人との決断力の差は、天地の差と言ってもいい。
元いたデッキに飛び込むまで、わずかに5秒。
しかし――
そこは、すでに破壊だけに満たされていた。
中央に漆黒の機体がたたずんでいる。
その手に無造作に握られているのは、隊長機のコックピットブロックではないのか。
握りつぶす。
マッシュの全身の血が逆流した。
「貴様あぁ!!」
レールカノンを腰だめにかまえ、撃つ!
しかし、こんな取りまわしのしづらい長砲身の武器が、あの敵に通用するとは思っていなかった。
発砲と同時にレールカノンを放棄し、一気に間合いを詰めた。
「――貴様の名、知っているぞ!」
レールカノンの射線から退避した漆黒の機体に向け、デストーションフィールドを展開してパンチを繰り出す。
漆黒の機体がスッとスウェーしたと思うと、マッシュのステルンクーゲルは宙を舞っていた。
何がおきたのかは分からなかった。
漆黒の機体の、スラスターで埋まった不恰好な脚が、わずかに動いたのが見えた気もする。
それでも、マッシュはステルンクーゲルの姿勢制御を、空中で完璧にこなしていた。
スラスターの噴射炎を吐き出しながら、四肢をついて着地する。
「テンカワ・アキトォ!!」
マッシュの咆哮が、2機のあいだの空間を貫いた。
「おまえは、その漆黒の悪魔で、なにをしようとしているっ!!」
ステルンクーゲルと、ブラックサレナ。
その2機の機動兵器が睨みあっていたのは、ほんのわずかな時間であった。
「……ルリちゃん」
死んだように眠り続けていたルリを、誰かが揺り起こした。
エアのコミュニケーションルーム。
ナノマシン溶液のプールの縁で、ルリは紙束に埋もれるようにして、丸くなったまま寝てしまっていた。
まだ身体の芯に、重い疲労が残っている。
マシンチャイルドは、ナノマシンによる循環系の強化をうけているため、わずかな睡眠でも、かなりの疲労回復を行うことが出来る。
それでも、この一週間の不眠不休の作業は、ルリの肉体を酷く痛めつけていたようだ。
頬のあたりが、暖かく、とても柔らかなものの上に乗っていることに気づいた。
顔を上げたルリが見たのは、椅子の上に頭を乗せたまま寝込んでいる、エリナの顔だった。
――エリナさんって、こんなに優しい表情をする人だったかな。
そう思ってしまうほど、エリナの寝顔は安らかなものだった。
ルリに膝枕をしたまま、寝込んでしまったのだろう、誰かが掛けてくれた薄手の毛布にくるまり、柔らかな寝息を立てている。
「ルリちゃん」
もういちど誰かが、ルリの名を呼んだ。
半分寝ぼけた頭で、その声の主を探す。
「……イネスさん?」
イネス=フレサンジュが、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、ルリを見下ろしていた。
「お目覚め? 悪いんだけど、ちょっと大変なことになったみたいなの。
アカツキくんが、会長室で、キミを待ってるから。エリナさんも起こして、一緒に来てちょうだい」
険しい表情でそれだけ言うと、イネスはヒールの靴音を響かせながら、部屋から出て行ってしまった。
――大変なこと
イネスのそのひとことに込められた意味が、ルリの眠気を完全に吹き飛ばしていた。
10分後――
サツキミドリ4号コロニーで捉えられた映像を観ながら、ルリを含む全員の顔から表情が消え去っていた。
サツキミドリの索敵範囲ギリギリにボソンジャンプしてくるユーチャリス。
高機動ユニットを装着したブラックサレナが発艦したと思うと、さらにボソンジャンプ。
サツキミドリの宙港ハッチの前に姿をあらわしたブラックサレナは、高機動ユニットをパージして、ハッチを突き破った。
そのあとの映像は、破壊と殺戮だけ。
1機のステルンクーゲルと、激しい戦闘を繰り広げたが、けっきょく、そのステルンクーゲルもコックピットブロックをアンカークローで潰されてしまう。
もう誰もブラックサレナ――いや、テンカワ・アキトを止めることの出来る者はいなかった。
サツキミドリ4号コロニーの常駐員で、生き残った者は103名。
死者564名。
行方不明者は1000人を軽く超えている。
それは、あの悪夢の再来だった。
「――どうして……なんでアキトくんが」
エリナのその問いに答えられる者は誰もいなかった。
背もたれの高い、豪奢な椅子に深く腰をおろしていたアカツキが、疲れたような声で言った。
「なぜテンカワくんが、こんなマネをしたのかは、ボクにもわからないよ。
でも1つだけわかっていることがあるんだ」
椅子をクルリと回転させ、アカツキは全員の顔を睥睨した。
「――火星の後継者。唯一機能していた隔離施設の端末に入力されていた言葉さ」
「そんな!」ルリが叫んだ。
「いや、事実だよ。彼らの声明が、連合軍にも送られていた。
それに端末を操作する、テンカワくんの姿も記録されているんだ。――観るかい?」
観るべきじゃない、アカツキの声は、そう語っていた。
「火星の後継者に、まだ残党がいることは、はじめからわかっていたんだ。
でも、なぜテンカワくんが? わからないね、ボクには」
そう言って、アカツキは肩をすくめてみせた。
「……ひとつ、仮説を言わせてもらっていいかしら」
イネスが言った。
「アキトくんが、火星の後継者に荷担する、これは絶対にありえないこと。
それはみんなもわかっていると思う。
でも彼の行動は、火星の後継者に協力しているとしか思えない。
なら、この矛盾を埋めるものは何か。
――私には、今の彼が、遺跡に融合され利用されたユリカさんと同じに思えるのよ。
ユリカさんは、幸せな夢を利用された。なら、アキトくんの場合は?」
「悪夢――かい?」
アカツキの言葉にイネスがうなずいた。
「そう。彼を戦わせたければ、あの悪夢をもう一度みせるだけでいい。
火星の後継者は、その手段をユリカさんを使って完成させている。
不可能ではない……いえ、確率としては、いちばん可能性が高いわ」
ルリがもう一度叫んだ。
「でもラピスがいる! ラピスがそんなことに協力するはずがない!」
イネスは無情に、首を横に振った。
「アキトくんが操られているとする場合、ラピスもこれに協力するしかない。
なぜなら、もしラピスのサポート無しでアキトくんがコロニーを襲撃した場合、
間違いなく彼は死んでしまうから。
復讐に狂ったアキトくんなら、ラピスのサポート無しでも、戦おうとするでしょう。
だめよ。ラピスに選択権はまったくないの」
ルリにはもう、反論するすべがなかった。
なによりもあの映像。
アキトの姿を直接観なくてもはっきりと判る。ブラックサレナを、あんなふうに操ることが出来るのは、テンカワ・アキトただ1人しかいなかった。
「でも……でも……」
ルリの涙は、とっくに枯れ果てていた。
いまはただ、どうしていいのか分からずにいる幼い迷子のように、不安げな視線を、さ迷わせているだけだった。
「……ナデシコCを使っていい」
アカツキが静かに言った。
「連合宇宙軍との折衝は、もう済ませておいた。
どうせ、彼らもユーチャリスとブラックサレナを止められるのは、
ナデシコとルリくんしかいないことは理解していたからね。
指揮権も、完全にボクらのものだ。
――あの『矛盾を洗い出したデータ』が、ずいぶん役に立ったよ」
ニヤリ、とキザな雰囲気を失わずに笑って見せると、アカツキは続けた。
「彼らは、テンカワくんをユーチャリスごと抹殺したいみたいだけどね。そうはさせないさ。
――いきたまえ、ルリくん。テンカワくんを止めるんだ」
「でもどこへ?
火星の後継者の目的がわからなければ、アキトくんを捕まえることは出来ないのよ」
ショック状態から抜け出したエリナは、高い知性を取り戻していた。
「ハツミドリ2号コロニー。いまは、そこに遺跡が隠されているようです。
この情報を、軍部から引き出すのに、いやはや苦労しました」とプロスペクター。
「いまさら、遺跡がどうしたというのよ! ユリカさんは、もう融合していないじゃない」
イネスは、チチッと舌を鳴らしながら、エリナに向かって、人差し指を立てて振ってみせた。
「あまい。アキトくんもA級、いえ、おそらくS級といってもいい、最高のジャンパーよ。
彼と融合した遺跡ならば、戦艦一隻どころか、艦隊ごとボソンジャンプさせられるでしょうね。
その力を手にした火星の後継者を止めることは、もう誰にも出来ない。
彼らは、まちがいなく遺跡を狙っている。サツキミドリ4号コロニーを襲ったのも、それが真の目的でしょう。
史上最強のテロリストにして、人類最高のジャンパー。
彼らにとって、テンカワ・アキトという存在は、最強で唯一の手駒なのよ」
部屋に沈黙が満ちた。
「――行きます」
そうルリが口にしたのは、いったいどれだけの時が過ぎてからだったのか。
決意に彩られたルリの金色の瞳は、比較するものがないほど、美しいものだった。
「もう一度、みなさんの力に、頼ってもいいでしょうか。――アカツキさん」
アカツキは、軽薄な笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振って応えた。
「――エリナさん」
エリナは当然と言いたげに、豊かな胸を反らし首肯した。
「――イネスさん」
はいはい、という、投げやりな感じのする返事。しかし、その瞳には強い意思が感じられる。
「――プロスさん」
採算は度外視ですなぁ、という、すこし悲しげな返事。
「――ゴートさん」
ウム、と相変わらずの無口さでうなずく。
ルリには、もうなにも言う言葉は残っていなかった。
ただ、深く深く、頭を下げる。
それしかできはしない。
ほとんどのクルーは、ルリたちの要請に、二つ返事で同意してくれた。
三たび、懐かしいクルーたちが集まってくるのを喜びながらも、ルリの心情は複雑なものだった。
ただ1人、今の状況を伝えていない人物がいる。
テンカワ・ユリカ。
ルリ自身の口から、それを伝えることは、不可能に近い。
言えるはずがなかった。
ユリカの様態は、日に日に悪化している。
もう感覚のほとんどが機能していない。
頭蓋に埋め込まれた、振動型補聴器で、かろうじて聴覚だけが無事ではあった。
そんなユリカに、どんな顔をして、アキトの現状を話せばいいのか。
ルリは、明日こそは、いや、次の日にこそと、一日々々その辛い義務を引き伸ばして、いまに至っていた。
ナデシコCの出航をあと数時間後にひかえ、ルリはついにひとつの結論に達した。
――ユリカさんには、なにも話さずに行こう
それが逃げでしかないことはわかっていたが、ルリとって、それが唯一の解でもあった。
そう決心し、数ヶ月ぶりの艦長服に身を包み、ナデシコCのブリッジに姿をあらわしたルリを迎えたのは、やはり懐かしい顔ぶれだった。
イネス。
エリナ。
ミナト。
ハーリー。
メグミ。
もちろん、整備班やパイロットとして、ウリバタケと、リョーコ、ヒカル、イズミの三人もいる。
生活班には、ホウメイや、五人のホウメイガールズもそろっていた。
どの顔ひとつにしても、ルリにとっては、忘れがたい人々だ。
それが、こうやって、アキトのために、また集まってくれている。
ルリは、もう何度目になるのかわからない、最上の笑顔で、彼らの好意に応えていた。
「ハーリー君。相転移エンジンの出力は、規定値に達しているわね」
ハイ、艦長! というハーリーの元気のいい返事。
ルリは、艦長席に腰を下ろした。
「オモイカネ、全艦内に回線をひらいて」
オモイカネがそれを実行したことを確認して、ルリは口をひらいた。
「みなさん。ナデシコCの艦長ホシノ・ルリです。
――いまさら、なにも言うことはないけれど、これだけは言わせてください。
あの忘れえぬ日々をとりもどすため、そのためにいま、私はここにいます。
それは、集まってくれた、ナデシコクルーみんなの思いのはず。
こんどこそ、アキトさんをとりもどします。そのために、みなさんの力を、お借りしますね。
――いきましょう、みなさん」
回線をとじ、ルリは小さく息を吐いた。
「ルリルリったら、いつのまにか、お・と・な」
目を丸く見開いたミナトに、そんなことを言われ、ルリはわずかに紅潮した。
「――やめてください。もう、馬鹿」
そんなルリの反応に、新鮮な感動をうけたのか、ハーリーが瞳を潤ませながら、ルリを見ている。
あとでお仕置きだと心に誓い、ルリはナデシコCの出航を告げた。
「出発します。ミナトさん。操艦お願いします」
りょうかい、とミナトが、かるい調子で応え、ナデシコCは、ネルガル・サセボドッグから、巨体を浮上させた。
そのとき――
『ルリ。艦内にボース粒子反応。人間ひとり分の質量が、ブリッジにボソンアウトする』
そのオモイカネの報告とほぼ同時に、ブリッジの中に、金色の輝きがひらめいた。
突然の出来事に、ブリッジに悲鳴が響きわたる。
「ジャジャア〜〜〜ン!!」
しかし、続いて聞こえたのは、あまりにも間の抜けた声だった。
「テンカワ・ユリカ! ただいま、ナデシコCに、無事、到着いたしましたぁ!! ブイッ!!」
それに反応できる人間は、誰もいなかった。
ア然とした視線が、ルリの真横でVサインをする、クマ柄パジャマ姿のユリカに、ただひたすら突き刺さっていた。