〜 4時間後、いつもの公園。 〜
放課後、いつもの通りシンジ達は武術の鍛錬を。
つい先日、新たな階梯に入った事もあって、その形式もリニューアル。
トウジは剛拳の破壊力を得る為に。シンジはその矛先を散し翻弄する為に。
両者共に大きな動きが目立っていたそれが、互いに抱き合うかの様に密着し、
「なっ!? シンジってば、ナンでジャージとチークダンスなんて踊ってんのよ!!」
と、今日はヤボ用で遅れて来たアスカがパッと見にそう誤解するくらい、これまでの散打(実戦形式の組手)とは一線を画すものだった。
「ヒカリが見たら卒倒もんってゆ〜か、当たってるわよ、胸が!」
「いやその。当たってるんじゃなくて当ててるんだけど………」
「うわっ! どこのラブコメ漫画のセリフよ、ソレ!
とゆ〜か、どうしちゃったのシンジ!? どこかの星型仮面を付けたナルシー男に、乙女回路を埋め込まれでもしたの?」
「そんな特徴的な格好の知り合いは今の所はまだ居ないし。
ってゆ〜か、アスカってば何か勘違いしていない?」
アスカの剣幕に押され、しどろもどろに受答えするシンジ。
トウジの方はと言えば、客観的視点から指摘された事で漸く自分のやっている事がハタ目にはどう映るかを悟ったらしく、赤面し何も言えない状態に。
そんな不甲斐無い弟子達に呆れつつ、北斗が助け舟を。
「で、結局何をどうしたいんだ、オマエは?
いや、それ以前に『邪魔はしない』ってのが、此処に居る条件だった筈。
これ以上、二人の修行にケチを付けるんなら強制的に帰って貰うぞ」
「何の修行よ! まさか、零夜みたく花嫁修業とか言い出す気じゃないでしょうね!?」
「それこそ『まさか』だ。単に、トウジの小架(剛拳にとって最も重要視される基礎訓練)もそれなり形になってきたんで修行を次の階梯に。
六大開(頂、抱、弾、堤、跨、纏を学ぶ為の套路)の一つ、纏を教えているだけだ」
「纏?」
聞き慣れない言葉に訝しげな顔でそう聞返す、アスカ。
良くも悪くも北斗が嘘など口にしない人間である事は知っているが、目の前でインパクト抜群なラブシーン(?)が展開されただけに、半信半疑といった所だろうか。
もっとも、そんな少女期特有の繊細な心情を察する様な北斗ではない。
目の前のあからさまな不審顔など意に介する事無く、トウジの方を指差しつつ話しを進める。
「うむ。取り敢えず、コイツに関して言えば、一撃必倒の拳を作る為の下地は出来たんで、次の階梯として防御の基礎を教え始めたんだが、
梃子の原理だとか力点作用点と言った初歩の物理学の知識を要求される内容だった所為か、これが全く上手く行かないと言うか、
コレの足りないオツムでは、化剄(敵の攻撃を受け流す技)の基本理論を理解するのは、どうも無理っぽくてな。
んで仕方なく、ソッチの方は諦めて、身体の方に覚え込ませるっつう形で。
シンジの方の鍛錬も兼ねて、実戦形式による経験則でその要諦を学ばせている最中という訳だ」
「その結果がアレなの?」
その澱みない説明に、先程のソレは不純な動機からのものでは無い事は認めたらしくて、チョッと強張っていた顔から険が取れたものの、尚も半信半疑っぽいアスカ。
そんな彼女の態度に、北斗はいかにも『仕方ないな』と言わんばかりの。
だが、自慢のオモチャを見せびらかす子供の様なチョッと嬉しそうな顔で、
「ったく。相変わらず無駄に疑り深いな、オマエは。
まあ良い。もう一辺、頭っからヤルから黙って見てろ」
と言いつつ、北斗はパンパンと手を叩いて号令を。
何とはなしに成り行きを見守っていた弟子達に、とある条件を設けた散打を再び行なう様に命じた。
「おっしゃあ! 行くでシンジ!」
気勢を発しつつ鋭い突進を。そして、短打の弾幕をバラ撒き得意の崩拳を打ち込む隙を伺うトウジ。
此処までは、もはや定石。いつも通りの展開である。
だが、そこから先が大きく違った。
バシ、バシ、バシ、バシ………
普段なら、その攻撃を包み込む様に受け流しつつ、円を描く動きで後退を。
ボクシング風に言えば、アウトボックスに徹してカウンターチャンスを狙うスタイルをとるシンジがインファイトを。
トウジの猛攻を前に一歩も引かず、真正面からの打ち合いに応じているのである。
「って、ナニよアレ! シンジの長所をスポイルするだけじゃない、あんな戦い方!」
のっけから黙っていられず、思わず罵声が口を突く。
日頃から『戦いは無駄なく美しく』を標榜しているだけに、技術はあっても只それだけな。
一撃で敵を仕留める力を持たないシンジの非力さには歯痒いものを感じてはいたが、
トウジの突進を軽々といなす、その闘牛士の如き華麗な動きには一目置いていただけにカチンと来たというか、
何か裏切られた様な気がして、アスカ的にはどうにも腹立たしくてならない。
だが、そんな表層意識の立腹を他所に、エヴァの呪縛が解けて以来、常に頭に常住している心の冷徹な部分が異常を訴えた。何かがおかしいと。
そしてその数秒後には、元の聡明さを取り戻した彼女の頭脳は、交差する二人の拳の軌跡から、この模擬戦の意味をはじき出した。
「ひょっとして、コレって密室とかの。
所謂、逃げ場の無い状況での戦闘ってヤツを想定しているの?」
細かいサイドステップ以外に得意のフットワークを使わない理由を鑑み。
また、繰り出されるシンジの手刀や掌底が、攻撃の為ではなくトウジの短打を打ち落とす為の。
正中線を狙ってのものでは無く、相手の攻撃の封じ込めを目的としているっぽい事から、そう結論付けると共に、正解か否かを尋ねるアスカ。
「うむ。状況設定は、概ねそんな感じだ。もっとも、想定した危険度はもう一つ上だがな」
と、北斗が返答するのと同時に、二人の模擬戦はアンサー編とも言うべき展開に。
打ち払う際、手首や肘と言った関節部を。的確に急所を狙ったシンジの拳によるダメージの蓄積によって、目に見えて回転率の落ちて行く、トウジの短打。
それによって生じた隙を狙って。
もはやスピードの激減した左冲捶を、シンジは左外纏絲(手を螺旋の様に小さく回して衝撃を散し相手の攻撃を受け流す技)で巻き込む様にそらし、
そのままサイドステップで左側面に回り込みながら、タックルと呼ぶには些か軽やか過ぎる動きで、トウジの懐に飛び込むと、
その胴体を抱える様な形で腰骨を右手で固定すると同時に、
自分の胸を相手の胸に押し付ける様に抱き付き、右手の脇の下に差し込む形で彼の背中に左手を回して、しっかりと拘束。
かくて、先程と同様の。否、それ以上に密着しての抱擁が完成した。
「何をしているトウジ! 組み手争いの瞬間に棒立ちになってどうする!」
「そ、そないなコト言われたかて………」
師の叱責に、シドロモドロになるトウジ。
だが、これを弛んでいるととって責めるのは少々酷だろう。
何せ、いかにシンジに対する蟠りを吹っ切ったとは言え、そこはそれ青春真っ盛りなお年頃。
一度意識してしまったら最後、親友の身体=女体の図式は簡単には頭から離れない。
そんな彼の姿に、やや憮然としつつも、
「まあいい。そうなっては、もはや手遅れ。その死に体では何も出来まいて。シンジ、次、行くぞ」
「えっ? 本気だったんですか、アレ」
「当り前だ。そこまで完全に決まっていれば、お前の腕力でも充分な筈。上手くやれよ」
と、北斗は修練をシンジ用の第二段階に入る様に指示。
「ペンペン!」
「クワッ!」
先程、アスカに言った通りに危険度のランクを上げた。
その命に応じて、掛声も勇ましく。近くの記念樹木の最上段の枝で待機していたペンペンが、その愛らしい外見に似合わぬ、猛禽を思わせる勢いで頭から急滑降を。
だが、尖らせた彼の嘴が獲物であるシンジの後頭部を強襲せんとした瞬間、まるでワルツのステップの様な極自然な動きで、両者の立ち位置が変更。
短めのボブカットの髪が掻き消え、それを守るかの様にクルリと如何にも石頭っぽい感じの後頭部が出現した。
「クワワッ」
実を言えば、北斗の命に反して。
ペンペン的にはシンジを害する意思は無く、その髪を何本か毟って勝利の証とするつもりだっただけに、この展開は想定外。
『こりゃアカン』とばかりに急反転し、両足でその無骨な頭を蹴り付ける形で足場として再飛翔を。
そして、自慢の翼を駆使して旋回しつつ再びシンジを狙うものの、
クルッ 「クワワッ」 クルッ 「クワワッ」 クルッ 「クワワッ」………
と、尽くアタックに失敗。
堅牢な防壁と化したトウジの後頭部のガードを敗れず、そのまま攻めあぐねる格好に。
「って、ナニよアレ?」
「見ての通りだが、判らんか?」
「判らないから聞いてるのよ!」
質問をはぐらかされ、御約束通りキーキーと叫ぶアスカ。
だが、いつもは耳障りなだけのその声も『してやったり』と言った気分の北斗には勝利を称える歓声でしかない。
機嫌良く、丁寧に種明かしをしてやる。
「実戦においては、一対一で戦う事などほとんどない。大抵は一対複数と言った形になる。
従って、まずは不意打ちによって相手の数を減らす事が定石となるんだが、知っての通り、上手く交差法(カウンター)が決まらん限り、シンジには一撃で相手を倒す術が無い。
そんな訳で、囲まれて袋叩きになるのを防ぐため、ああ言った感じに、敵の一人を自分の盾として使う技術がアイツには必須なんだよ。
んでもって、正直、シンジほど熟達するとは思えんが、トウジにとっても、これは憶えておいて損はない技って訳だ」
「纏だか化剄だかってのはドコいっちゃったの?」
「チャンと使ってるじゃないか。
引かば押し、押せば引く。既に死に体とはいえ、トウジを上手く操っている。
あれこそ、陳式太極拳の流れを組む木連柔術化剄法の一つ『御神楽』だ」
そんな北斗の返答に、改めて繁々とシンジとトウジの動きを観察する。
なるほど。確かに、あんな風に下から突き上げる様に身体を預けつつ胸を押し当てられては、
トウジの側は前傾姿勢が取れなくなるし、下半身の踏ん張りだって効き難くなる。
おまけに、腰骨までロックされているとなれば尚更だ。
色眼鏡を外してみれば、上手く相手の動きを封じている様に見えなくもない。
かなり変則的だが、相撲の両差しに近い形と言った所だろうか。
実際問題、あの非力なシンジが自分より20s近くもウェィトのあるトウジの身体を右に左に振り回しているのだから、かなり優れた技である事は確かなのだが………
どうにも自分の美意識に馴染まない。
「アレって、振り解こうと思えば実は簡単なんじゃないの?
左のエルボーを落とすなり、腹に零距離からのニーキックを入れるなりして。
そりゃ、あの体勢からじゃ大した威力は得られないでしょうけど、二人の体重差を考えれば。
シンジの方も、いつもの腐心とかいう防御が使えない状態なんだから、それで充分でしょ?」
そんな訳で、チョッとイチャモンを付けてみる。
だが、北斗にしてみれば、それも(極一部を除けば)注文通りの反応だった。
「腐心じゃなくて『浮身(打撃方向に逆らわずに身をかわして、その威力を半減させる技)』だ、馬鹿者。
(コホン)まあ、それはそれとして。そういう無理な攻撃を仕掛けてくるなら寧ろ好都合というもの。
崩れた重心にそって、そのまま投げ飛ばしてやれば良い。
敵が攻撃を放つ瞬間に合わせれば、同士討ちで二人潰せる。
そこまで上手くいかんでも、次の獲物を捕獲するまでの時間稼ぎにはそれで充分だ」
「って言うワリには、抱き付くまでに結構時間が掛かってたじゃない」
「それは相手がトウジだからだよ。
実際問題、この戦法は、一対一ならば自分の方が明らかに強い事を前提としてのもの。
あの二人程度の実力差で複数を相手にした時は、尻尾を撒いて逃げるしかない。まともに戦うなど論外、只の自殺行為だ」
「……………驚いた。まさか、アンタに『逃げる』なんて発想があるとは思わなかったわ」
「当り前だろ。出来る事と出来ない事の区別も付かんオマエと一緒にするな。
そう。例えば戦自辺りが、唐突に陸戦部隊を一個師団くらいも投入してきたら、俺だって逃げる事を前提にするぞ」
普段のイメージに似合わぬ理路整然とした口調で論破され、苦虫を噛み殺した様な顔で言葉を詰らせるアスカ。
いや、話の説得力云々以前に、別の意味で突っ込み所が満載な。
取り分け、戦略クラスの戦力を捕まえて『逃げる事を前提に』なんて認識しか持てない時点で、もう人として終っていると言うか………
「って、そんな万国ビックリショーな話しをしに来たんじゃないわよ、アタシは!」
と、此処で漸く、アスカは初期の目的を思い出した。
これを愚鈍と言うなかれ。寧ろ、憶えていただけでも賞賛に値するだろう。
何せ、先程までの話とは比べるべくもない矮小な。
我が身の自由の一部が関わっていなければ、いっそ『バカバカしい』としか言えない様な事なのだから。
「つ〜ワケでシンジ! アンタの所為よ、責任取んなさい!」
「(ハア〜)相変わらず、お前の話は訳が判らんわ」
興奮すると自分本位な感情論しか喋れなくなりがちな自分の生徒の悪癖に辟易しつつ、
北斗は溜息混じりに前後の事情を尋ねた。
「つまり何か。そんなアホな理由でシンジに果し合いをしろと言う気か、お前は?」
15分後、脱力しきった調子で。確認と言うよりも説明を求めた義理を果す為に、一応そう尋ねる北斗。
だが、彼の『冗談じゃない』という意図は正しく伝わらなかったらしく、
「当然でしょ。コレにはアタシとレイの未来が掛ってんのよ!」
堂々たる態度で。欠片も悪びれる事無くそう宣う、アスカ。
だが、聴衆の反応は芳しく無く、
「ンな、大袈裟な」
「まったくだ。少しばかり自由になる時間が減るだけだろうに」
「えっと。やっぱり、訓練はした方が良いと思うんだけど。
ほら。回を重ねる事に、使徒もパワーアップしているし」
「クワ〜、クワワ〜」
と、口々に。かなり如何でも良さそうな口調で反論する北斗達。
そう。何せ、アスカの口から語れた前後の事情は本気でしょうもない話だった。
発端は五ヶ月程前。第三使徒戦が終って間もない、サードチルドレンに登録されたばかりのシンジが、パイロット用の格闘訓練を受けていた頃に遡る。
当時、彼は言い訳のしようが無い完璧な劣等生だった。(第三話参照)
それが、北斗に師事して僅か2週間でミサトを倒すまでに。(第四話参照)
その試合内容から、只のフロックだと言う者も少なくなかったが、この事を境に、シンジの評価は『貧弱なボウヤ』から『アイツ、中々ヤルじゃないか』という感じのものに。
更に、正式に使徒戦に参加した第五使徒戦や初勝利を上げた第七使徒戦を経て、その株は徐々に上がってゆく事になる。
そして、先の中国戦において少女化した事で一気に急上昇。今ではストップ高を更新する事に。
と言うのも、ショタの汚名を着る事を恐れて、これまで表に出てこなかった。
潜在的にシンジのファンだった者達が、『可愛いから許す』という大義名分を掲げた某組織の新興団体と全く同じ経緯で。
或いはそれ以上の伝播性をもって急成長し、一気に台頭してきたからである。
この辺、当の本人と直接会話した者も少なくない為、彼女が作られた偶像では無い事を実感している点も大きいかもしれない。
まあ、そんなこんなで(本人の知らない所で)今や大人気だったりするのだが、当然ながら、そうした風潮に眉を顰める者も少なくなかった。
嘗て、シンジの格闘訓練の教官役を務めた阿賀野カエデもまた、その一人だった。
もっとも、彼女がシンジを快く思わない理由は、他のアンチファンとは少々事情が異なるもの。
二言目には『元は男の癖に』と陰口を叩く、目ぼしい男性職員達の間でも人気の高い彼女に嫉妬バリバリな結婚願望の強い女性職員と違って、純粋に職務上の事だった。
そう。あの当時、それなりに熱意を持って訓練に取り組んではいたが、只それだけの事。
正直言って、あの頃のシンジは一般的な中学生の平均すら大きく下回る体力しか無い。
格闘技は勿論、スポーツ全般に向いていないとしか思えない少年だった。
それが、今ではチルドレン中最強と呼ぶ者も少なくない武闘派に。
まるで、自分の指導は的外れなものだったと言わんばかりな急成長を遂げたのである。
否。思えば、あれからまだ半年足らずしか経っていないのだ。
どう考えても、そんなに強くなっている筈が無い。
いかにも凄そうに感じるのは、比較対照が同世代の子供だからこそ、そう見えるだけの事。
実際、シンジが一躍有名になった中国戦。
確かに迫力満点な。エンターティナー的には優れた映像だとは思うが、純粋に武道家の動きとして見るならば、あの時の伍号機のそれは大したものではない。
精々、初心者に毛の生えた程度の。自分ならば簡単に勝てるレベルの腕だ。
それが一端の武道家気取りだなんて。
此処は一つ、その増長を正す為にも………
「ソイツ、たしかバルタザールとか言うのの主任オペレーターでもあるんだよな?」
と、感情論が先行する為イマイチ要領を得ないアスカの説明を意訳したものを反芻した後、北斗は念押しを兼ねてそう尋ねた。
「そうよ」
「シンクロ率の因果関係を知っている………いや、それ以前に、チャンと理系の学問を修めているんだよな?」
「そうよ」
「ひょっとして、シンジが生身で戦う所を見た事が無いのか?」
「そうよ」
憮然としつつも、北斗の問いを全て肯定するアスカ。
そんな彼女の神経を逆撫でする様に、彼はさも耐え切れなくなったといった感じの哄笑を上げつつ、
「(クハハハハッ)いや、凄いな。此処まで来ると、ツッコミ所が多すぎて何と言ったら良いものか判らんぞ」
「はいはい。実際、視点の変化による体感スピードの増減を頭から無視したトンデモ話よ。
まして、伍号機でのシンジのシンクロ率は50%チョッと。反応スピードは、生身のそれと比べるべくも無いでしょうね。
その辺の事だったら、アンタが突っ込むまでもなく、アタシが指摘してやったわよ。
でも、まるで聞く耳持たなかったんだから仕方ないでしょ!」
逆切れ気味に世の不条理を訴えるアスカ。
そう。事は、わざわざ物理の数式を持ち出すまでも無い単純な問題なのだ。
具体例を上げるのであれば、現実と旧ウ○トラマンシリーズとの差異。
着グルミを着た中の人達がミニチュアのジオラマの上で戦う円○プロの特撮映画と違って、使徒戦とは実際に40mオーバーの。
通常の人間の20倍以上の巨躯を駆使しての戦い。
当然ながら、両者の間合いもまた同様の縮尺で広がっている。
つまり、打ち出されたパンチのスピードが同じならば、その攻撃が相手に到達するまでに掛かる時間は20倍以上という事に。
従って、実際には超スピードで行なわれている攻防も、エヴァと使徒の両者の姿を捉え得るロングからの映像で見れば、
さもゆったりしたものに感じられるという訳なのである。
「おまけに、アイツてばマヤとドッコイの童顔の癖に、妙に年上ぶったセリフを並べた挙句、
役職を嵩に着て自分が勝ったらアタシやレイに格闘訓練を受けろって言い出したのよ!
ナニが悲しくて、アタシ達がシンジを逃がさない為の人質役をやらなきゃならないのよ。ホント、イイ迷惑だわ!」
「いや。どちらかと言えば、巻き込まれたのは僕の方だと思うんだけど」
自分勝手な理屈を並べ立てるアスカに、恐る恐るそう突っ込むシンジ。
正論である。何せ、彼女はネルフの所属ではないし、カエデの言とて明らかに言掛りなのだから。
だが、世の中、正しい方が必ず勝つほど甘いものではなく、
「ンな屁理屈並べてる暇があったら戦う! そんでもって勝て! 勝つのよ、シンジ!!」
かくて、基本的にヘタレであるシンジは、激昂したアスカに引き摺られる様にネルフへ。
その迫力に押し切られ、済崩しに決闘の地へと赴く事になった。
〜 午後7時30分。芍薬101号室、影護家 〜
先の使徒戦にて実行されたネルフ側の作戦『魔弾の射手』の七発目の銃弾が、その名の由来である戯曲の結末とは異なり射手の急所を。
ネルフの財政を直撃した事もあって、此処数日は流石の名ばかり作戦部長も超多忙状態に。
そんな訳で、普段であればイの一番に首を突っ込むであろうイベントが行なわれた事を知らぬまま、ミサトは何時もの様に夕食をゴチになりに来訪。
その際、シンジの姿が見えない事に不審を憶え何の気に無しに尋ねたのだが、返って来たその答えに驚愕する事に。
「嘘っ! 負けちゃったの、シンちゃんが!?」
正直、俄かには信じられない話だった。
何せミサトの見立てでは、シンジの実力は既にかなりのレベルにあるのだ。
自分ですら『こりゃ〜もう、今度戦う事になったらガチでやっても勝てないかもね〜』と(前回だって負けた癖に)思っていただけに、チョッと考えられない事だった。
「ああ。開始から僅か38秒で。それも一方的にボコられて終わり。これ以上無いってくらいボロ負けだったぞ」
北斗の口から、身も蓋も無い端的な試合内容が語れる。
だが、ホンキで端的過ぎて知りたい事が何も判らない。
とゆ〜か、自分の弟子がそんな手酷い負け方をしたってのに、何でこんなに平然としてるんだか。
シンちゃんが可愛くないんだろうか、この男は。
と、内心チョっちムカついたが、それを直接言う度胸は流石に無い。
仕方なく、今少し詳しい情報を求めて、向かいの席のトウジに目で尋ねる。
「兎に角、地力が違ったっちゅうか、対戦相手が凄すぎで。
パワーは勿論、スピードもシンジより数段上やったんです。
ありゃもう見たまんま。正に、大人と子共の戦いちゅう感じでした」
「げっ! そんなに強かったの、あのマヤちゃんの親戚みたいな娘?」
意外な内容のトウジの説明に、改めて度肝を抜かれるミサト。
だが、この話にはまだ続きがあった。
「いえ、ソッチは良く判りまへん。
何せ、対戦相手は斎藤タダシっちゅう整備班の人やってもんで」
「えっ?」
「要するに、カエデとか言う女の代理だよ」
ハトが豆鉄砲を喰らったかの様な顔となったミサトに、北斗が補足を入れた。
そう。これはナイショの話しだが、ネルフで行なわれた決闘は、実は何気に同門対決だったのである。
そして、良く言えば丁寧に、悪く言えば過保護なまでに大事に育てられている年少組の弟子達が、
僅か四ヶ月とは言え、身体のリミッターを外す事に主眼をおいて徹底的にシゴかれたサイトウに勝てないのは当然の事。
これが、シンジがボロ負けしても、北斗の機嫌が悪化していない理由である。
否。顔にこそ出していないが、実を言えば、怒るどころか喜ばしいくらいの。
彼女が敗北を実感するまでは気絶しないレベルで。
それでいて、後に引く様なダメージを与える事無く勝負をコントロールしたサイトウの手腕を、彼的には『良くやった』と褒めてやりたい気分でいたりする。
さて。少々蛇足ではあるが、此処で何故サイトウが戦う事になったかの経緯について語らせて頂こう。
極論するならば、これはアスカがシンジを連れ出してくるのに手間取り過ぎた所為。
彼女がネルフを後にしている間に、どこから聞き付けて来たのか、決闘の舞台である第一修練場にかなりの数のギャラリーまで集まってきてしまったからである。
そう。当初は宣言通りに、自らシンジをコテンパンに負かしてやるつもりのカエデだったのだが、此処で漸く頭が冷え、自分が大人気ない事をやっていると自覚したのだ。
しかも、この状況で自分の土俵で。空手で、それも講○館ルール(寸止め)で戦えと言ったら、激しいブーイングは必至だろう。
だが、実戦ルール(防具等を付け、実際に殴り合う形式)などやった事が無いのでイマイチ自信が無い。
それに、良く考えると、あのアスカが素直に自分の指示に従って訓練を受けるとは思えない。
つまり、この勝負に勝った所で、得るものなんて自己満足くらいのもの。
周囲の反感を買うだけ損だし、万一、負けた日には大恥をかく事になる。
そんな訳で、カエデは急遽スケープゴートを立てる事に。
場を和ませシャレで済むであろう人物を。丁度、最前列に詰めていた整備班名物4人組の一人を自分の代理人に選んだ訳なのだが………
結果はまあ、勝敗が決した後、斎藤は他のギャラリー達から吊るし上げを食って酷い目にあったとだけ言っておこう。
「にしても、あんな腰の据わっとらん小娘の専横を許すとは。ネルフの上層部は何をやってるんだか」
「う〜ん。今はまあ、チョっち仕方ないんじゃないかな?
この間の使徒戦で景気良くソニック・グレイブを消費しちゃったもんだから、
予算編成が更に厳しくなったとかで、各部署のトップ達は色々心労が重なってるみたいだし。
取り分け冬月司令代理なんて、ココんトコ二言目には『資金が…南極に行く為の資金が』とか『槍が…計画の鍵が』とか、
虚ろな目で訳の判らないうわ言を呟き出す様な状態だし」
(ハア〜)一応、上層部の一人だろ、お前だって。
胸中でそう溜息混じりに呟きつつ、目の前の女が皮肉の通じない存在である事を再確認する。
と同時に、機せず知った歴史の変更点に思いを馳せながら、
「時々、俺はお前が心底羨ましくなるぞ」
冗談交じりの口調で。だが、その実かなり本気でそう思う、少なくともミサトよりは苦労性な北斗だった。
〜 午前2時。芍薬の裏庭 〜
シュッ、シュッ、シュッ………
夜毎行なっている自身の鍛錬。その準備運動を兼ねた軽い突きや蹴りを繰り返しながら、北斗は物思う。
アキトに遅れを取るまいと、自らを磨く事を怠らずにきたつもりだが、果たして、これは意味のある事なのかと。
今の自分では、絶対にアキトに勝てない。
零夜の前でも。否、たとえ誰の前でも決して口には出来ない事ではあるが、これは最終決戦の折に思いしらされた厳然たる事実である。
木連式柔 口伝 『武羅威』。己の魂の色を発現せし昴氣をその身に纏う時、彼の者は人の身にして武神への道を歩み出す。
確かにその通りだ。昴氣を纏う以前の自分など、たとえ十人掛かりでも今の自分の敵ではない。
もっとも、それはアキトも同じ事。この身だけが強くなった訳ではない。
そして、おそらくはアキトの切り札であろう『劫竜八襲牙陣』。
これに相当する奥義とて、自分にも幾つか心当たりがある。
だが、只それだけの事。技の破壊力や完成度が同じだったとしても……………
自分に合う制服が無い。小柄な体躯故の悩みなど、その程度のものだった。
身長差の所為で見下ろされる形で向けられる視線とて、左程気にした事は無い。
偶にカチンと来た時は、それを適切な高さに変更すれば済む事だった。
しかし、これは自分が他者とは一線を画す存在だったからこそ通じた理屈。
生まれながらの強者故の傲慢でしかなかった。
そう。初めて同等の存在と相対した事で悟らざるを得なかった。
機動兵器戦では、最終決戦にてアキトに敗れた時に。
生身の身では、一方的に攻めながら発剄一発で相打ちに持ち込まれた時にイヤと言うほど思い知らされた。
纏った奥義が決定打とならない以上、体格の違いや性別の違いは、戦う上で純粋にハンデにしかならないのだと。
まして、いまだ敗北のショックを引き摺っている今の自分では、これまでは五分だった部分すら。
必殺技の打ち合いですら遅れを取りかねない。
「(フッ)俺も弱くなったもんだ」
思わず自嘲の笑みが零れる。
だが、別に己を卑下している訳ではない。
弱くなった事で得たものもある。取り分け、弟子を取って指導するなんて真似は、天上天下唯我独尊な強者であった頃の自分には、逆立ちしても出来ない事だろう。
【ヤマダ ジロウ】
小太刀でありながら攻撃に特化した流派、『真刀荒鷹流』を学ばせた、自分の弟子一号。
師となった当初は、何をどうすれば良いのか判らず、仕方なく舞歌に相談したら『それなら、絶対コレが良いわ』と強く勧められての選択だったが、実際、ヤツに良く合っていた。
何せ、あの流派独特の一点豪華主義的な力技のみとは言え、僅か9カ月でその骨子を習得。
小太刀特有の精緻さを伴う防御術に関しても、最近ではそれなりに形になってきている程だ。
コイツはもう、既に自分の手を離れたと言って良い。
モチはモチ屋。剣士としての仕上げの部分は、流派の長である万葉の叔父貴に任せるべきだろう。
【サイトウ タダシ】
此方は完全なド素人だったので、兎に角、基礎体力を。
それも、『可能な限り頑丈に。出来れば、殺しても死なない様にしてくれ』とのシュン提督からの無茶な要望もあって、
シンジ達が行なったそれよりも3倍(当社比ならぬ当師比)ばかり危険度の高い臨界業を積ませ、
そのついでに、手っ取り早く氣を習得させるべく、折に触れて死なない程度に浸透剄を叩き込むという、超スパルタ方式でシゴいた、自分の弟子二号。
指導していた当時は、『何てひ弱なヤツなんだ』と呆れたものだが、自身を基準としない判断材料を。
まだ身体の出来ていない13〜14の少年達の面倒を見る事で、俗に言う所の世間の相場というものが掴めて来た今にして思えば、寧ろ『良くぞ生き残った』という気もする、
意外にタフな身体と性根を持った、良くも悪くも体力勝負に特化したヤツだ。
否、この場合は『特化させざるを得なかった』と言うべきか。
何しろ、指導していた期間が短かった事もあって、武術の技に関しては基本中の基本のみ。小架式の套路の一部だけしか教えていなかったりするのだから。
だが、久しぶりに見たその功夫(鍛錬を重ねる事で蓄積される技の錬度の事)は、シンジ程度の技量では対処しきれない。
速さに頼った単調な攻撃ではあるが、武道家を名乗るに値するだけの威力を誇るものだった。
どうやら、自分の下を離れた後も弛まぬ修練を積んでいたらしい。
師としてはチョッと鼻の高い事。
機会があれば。この一件が片付いたら、(実戦を前にして、ある程度スタイルが完成している者に新たな技を教えるのは寧ろ危険な事でしかない)次の階梯を。
絶招(実戦的な技)の一つも教えてやりたい所である。
もっとも、これは余計な御世話でしかないのだろうが。
そう、サイトウはシンジ達とは違う。
彼にとっては、武術の技など銃器と同じ。必要だったから身に付けたモノに過ぎないのだから。
【鈴原トウジ】
例の計画の一環としてシンジに武術を教える事になった際に成り行きで弟子に取る事になった、
最近では木連でも珍しくなってきた、良く言えば義侠心溢れる、悪く言えば勢いだけで考え無しな人生を送っている、彼の良き友人。
その性格を反映してか、武道家としての資質は正に単純明快。
ヘボか達人かの二つに一つしか道の無いヤツだ。
つまり、その歩みを止めた時が、彼の武道家生命が終る時という事になる。
そう。稀に居るのだ、こういう程々な所で安定する事が出来ない不器用な者が。
今の所は、シンジという身近な目標がいる事もあって順調に伸びてきているのだが…………
将来、武を捨てた後は、その無鉄砲さも矯正されている事を。
昔取った杵柄とばかりに、自分が強いつもりで揉め事に首を突っ込んで自滅したりしない事を祈るのみである。
まあ、余り先の事ばかり考えても仕方が無い。
幸か不幸か努力を厭わない性格ゆえ、案外、平和を享受しつつも生涯現役でいるかも知れないし。
それに、実を言えば、シンジより遥に肉体的資質に恵まれていたりする。
骨格から見るに、身長は(腹立たしい事に)まだ15p以上も伸びる余地が残っているし、それに見合うだけの。否、それ以上の筋力を身に付けても全く問題ない。
大雑把な私見だが、このまま順調に行けば、成人を迎える頃には公式に自分の弟子を名乗れる技量を。
サブロウタ程度ならば、充分倒し得るだけの力を身に付けるだろう。
ある意味、かなりの逸材。その性格も相俟って、秋山辺りが自分の後継者に欲しがるかも知れない。
無論、そんな暴挙を許すつもりは毛頭無いが、最近『りくるーと』とやらに力を入れ出した舞歌の事。
何となく、その辺りの展開を狙ってきそうな気がするだけに油断は禁物だ。
それ故、そういった暴挙を防ぐ予防策として。
また、将来の禍根を断つ為にも、トウジには身近な助言者が必要だろう。
これは、彼の師である自分が、この地を去る前に解決すべき課題の一つだと思っている。
個人的には、出来ればヒカリの様なしっかりとした者が、彼の嫁になってくれたら。
その生涯に渡って、アレの面倒を看てくれたりすると有難いのだが…………
まあ、無理だな。何せ、二言目には口喧嘩になるくらい仲が悪いから、あの二人は。
【ペンペン】
ひょんな事から弟子に取る事になった、絶滅危惧種の温泉ペンギン。
役目を終えた実験動物として処分され様としていた所を葛城ミサトに拾われ、
熱中症で虫の息だった所をシンジに拾われ、そのままウチの5番目の弟子にと、中々数奇な運命を歩んでいるヤツである。
修行を始めてまだ日が浅いが、その成長振りはヤマダやサイトウと比べてなお異常なまでに早く、
取り分け、小さな体躯と身の軽さを生かしての空中戦には、既に目を見張るモノがある。
そう。頭では判っていた事だが、空中で方向転換が出来るというのは信じ難いまでに有利な事だった。
それこそ、既存の武術の定石を根底から揺るがしかねない程に。
実際、それが技として確立するまでの課程をつぶさに見てきた自分達ならば心の準備があるので左程でもないが、初見の相手ならば、これは虚を突くにもってこいのもの。
過日、実戦投入を前に実験台となって貰った千沙等は『ぺ…ペンギンが空を飛んでいる〜』と淡々とした口調で呟いた後、そのまま拳を交える(?)前に卒倒した程だ。
それだけに惜しくてならない。
日々生まれている折角のその妙技(彼の技は既存の武術の枠に収まりきらないが故に、既に自分で自分の道を模索する段階に入っている)を伝えるべき相手が居ない事が。
念の為、成長日誌の名目で記録を取ってはいるが、おそらくは無駄に。
ペンペンが編み出した技の数々は彼一代で途絶え、そのまま武術史の陰に埋もれてゆく事になるだろう。
嗚呼、どこかに弟子五号の様に、ある程度の知性を持った翼ある種族が居ないものだろうか?
更に欲を言えば、彼の倍以上の体躯であれば申し分ない。
ひょっとしたら、自分を楽しませてくれる様な逸材となる可能性も………いや、よそう。なんか言ってて虚しくなってきた。
【碇シンジ】
コレについては、実は何とも言い様が無い。
まず、少年時代と現在とでは、当然ながら肉体的資質が大きく異なって………
カサッ
「誰だ!」
突如、聞えた僅かな物音に。
如何に物思いに耽り油断してとは言え、背後に建つ芍薬の物陰から。
あり得ない程近くから聞えたそれによって胸に生じた僅かな動揺を抑えつつ、北斗は小さく、だが、鋭い誰何の声を。
「こ…こんばんわ」
そんな気まずそうな夜の挨拶と共に姿を現したのは、丁度、胸中で考察を始めていた弟子3号。碇シンジだった。
「ふん。漸く目覚めたか、未熟者めが」
と、『何だ、お前か』というニュアンスを含めた、ぶっきっらぼうな口調ではそう宣う、北斗。
だが、そんな表面上の態度とは裏腹に、彼の内面世界では動揺に拍車が掛かっていた。
そう。その道に特化された枝織に比べれば些か武闘家よりとは言え、自分もまた本業は暗殺者。
自慢では無いが、意識する事無く己の間合いに他人を入れた事など一度も無い。
少なくとも、物心付く頃には、相手がクソ親父であろうとその例外では無かった。
それが僅か5間(約9m)足らず。飛刀(手裏剣)術ならば必殺必中の距離にまで近付かれるとは。
穏行術。確かに、先日、武術講義の流れから技の要訣を話してやったし、チョッと手本も見せてやったが、只それだけ。まともに教えた訳では無い。
いや、いまだ拙い技量とはいえ目瞑視想(第九話参照)を習得しているシンジならば、
それを自己流の形で身に付けたとしてもおかしくはない気もするが、幾ら何でもこれはあり得ないと言うか。
ひょっとして、自分は決して教えてはいけない事を教えてしまったのでは………って、そんな訳ないか。
己の取り越し苦労を自覚し苦笑する。
思い起こせば約半年前。修行を始めたばかりの折、当初は防具を付けていて尚まともにトウジを殴る事が出来ず、それを矯正するのに、どれほど苦労させられた事か。
そう。これは、表面的には自分の殻に閉じこもっているだけの様に見えていたが故に、当初は気付かなかった事なのだが、
実は彼女、幼い頃、『妻殺しの男の息子』として散々イジメにあった所為か、人を害する事に関する禁忌感がかなり強かったりする。
つまり、ある意味シンジは、枝織とは対極の存在。
他者への害意を過剰なまでに意識し、それに比例して周囲に殺気を撒き散らしてしまうタイプの人間なのだ。
この辺はもう、幼児体験がもたらした先天的な資質の問題。余程の事が無い限り矯正が効くものではない。
「それで、こんな夜更けに何の用だ。
言っとくが、あの斎藤とか言うヤツに意趣返しがしたいという話なら却下だぞ。
あれはもう、少々策を労した所で如何にかなる様な技量差じゃない。
ハッキリ言って、お前が戦うには5年ばかり早い相手だ」
取り敢えず一安心した所で、来訪の目的に当たりを付け師匠っぽい事を語ってみる。
だが、肝心のシンジのリアクションはと言えば、
「はい。それは良く判っているんですが………」
「って、そこで納得するな! お前は負けたんだぞ、少しは悔しがれよ!
とゆ〜か、師匠にこうまで言われた以上は、アレを倒すための秘策を授けてくれと、何度断られても俺が根負けするまですがり付いて頼むとか、
或いは、もっと短絡的に『初号機に残された予備電源は後185秒、これだけあれば本部の半分は壊せるよ!』と、緒方○美ボイスで叫ぶべき場面だろ、此処は!」
覇気のないその返答に逆切れしつつ、自分でも良く判らない理屈を並べ立てる、北斗。
そう。実を言えば、図らずも都合良く現れた生身での強敵。斎藤タダシを倒すという方向で、シンジを発奮させるつもりだっただけに、この展開は頂けない。
とは言え、弟子には弟子の言い分というものがあり、
「そんな事を言われても絶対に無理ですよ、北斗さん。
同門の方で、あれ程の技量の持ち主なんですよ。
当然、肉体強度だって人間止めちゃってるくらい高い筈ですもん。何を如何やったって、僕の拙い攻撃で倒せる筈がありません」
「ええい、何を情けない事を!
それを如何にかするのが………って、チョッと待て。『同門の方』ってのは、どういう意味だ?」
「どういう意味も何も、あの人も木連柔術を習った人なんでしょう?
だって、多少アレンジが入っていると言うか、何故か不自然なくらい上体を捻る動作が多かったですけど、使ってる技は、基本的にトウジと同じ小架式のものでしたし」
キョトンとした顔でそう宣うシンジに、北斗は己の失敗を悟った。
そう。かつてピースランドでの初対戦の折、アキトが木連柔術の使い手である事を自分が見抜いた様に、技の根底にある要訣というものは中々隠せないもの。
まして、それが基本技ともなれば、その特色は如実に現れる。
相手の動きを読む事に長けたシンジを相手に、これでは誤魔化し様がない。
「(コホン)うむ。実を言うと、確かにアレはお前の兄弟子なんだが………これは『とっぷしーくれっと』なので決して口外しないように」
取り敢えず、口止めを兼ねてそんな事を言いつつ場を取り繕った後、
「まっ、それはそれとして。
オマエ、アレに勝つ為には自分には何が足りないと思う?」
と、北斗は強引に話しを元に戻した。
それを受け、シンジは暫し沈思黙考した後、
「何もかもが足りません」
「………って、こんのアホが〜〜〜っ!!」
シンジの返答に、一拍おいて激昂する北斗。
何と言うか。求める答と正反対な。否、全くベクトルの違う答が返って来た事が。
優柔不断の権化の様な彼女が珍しくキッパリと言い切った事もあって、思わず納得しかけてしまった自分も含めて目茶苦茶腹立たしい。
そう。彼的には、此処は当然、己の非力を克服する最も手っ取り早い方法を。
既に何度となくほのめかしている、自身の肉体の安全装置を外してその潜在能力を100%引き出す技。
木連柔術奥義『魂下ろし』について尋ねてくるものだと思っていただけに。
その手のカンが極鈍と言うか、駆け引きの類など全く出来ないトウジであれば兎も角、相手がシンジなだけに、もう肩透かしを通り越して何かに裏切られた様な気分だ。
だが、その辺はシンジも考えていたと言うか、師である北斗よりも事をシビアに捉えていたらしく、
「いや、だって。そりゃあ、例の『キレたら3倍』な力を引き出す事が出来れば、ある程度は実力差を埋められるかもしれませんけど………
僕は嫌ですよ、あんな自分が自分で無くなる技に命を預けるなんて」
「ふむ」
弟子の必死の抗弁に、漸く納得顔になる北斗。
なるほど。言われてみれば、もっともな反応の様な気もする。
実際、中国に居た頃、合宿の仕上を兼ねて。
一辺、潜在能力も含めた本気のシンジの実力が見たくて、稽古を付けている最中、チョッとだけ殺気など出しながら限界まで追詰めた事があるのだが………
最初に、彼女の目から知性の輝きが消えた。
これはまあ良い。何しろ、火事場の馬鹿力というヤツは生存本能に訴えるもの。
『魂下ろし』とは、理性を失う事無くその力を制御しきって初めて完成と呼ぶべきものなのだが、いまだ経験の浅いシンジでは、我を失うのも仕方ない事である。
だが、その結果は惨憺たるものだった。
まず、崩れた体勢から上半身の反動だけで勢いを付けて打ってきた右の貫手。
それは、頭を振って避わせない様、中指を相手の鼻梁に沿わせる形で突かれた。人差し指と薬指で両目を狙っての目潰しだった。
これだけでもかなり驚いたのだが、咄嗟に掴んだその手を振り解くべく、躊躇い無く矢の様に突き出されたシンジの左手刀が喉笛を。
それを右半身を引いての体捌きでかわすと、そのまま突き上げた左手の拳を固め、槌拳(拳を槌に見立てて振り下ろす技)で鎖骨を折りに。
と同時に、意識が上半身に集中した所を狙ってか、踏み込んだ勢いを利用して無拍子(予備動作の無い、回避が困難な攻撃の事)で放たれた前蹴りが金的を。
その他諸々。呆れた事に、クソ親父の配下の連中でも中々やらない。
『実はワザとやっとるだろ、オマエ』と突っ込みたくなる様な、巧妙に計算された急所への連続攻撃を仕掛けてきたのである。
おそらくは深層心理に眠っている破壊衝動によるもの。
本来はミオの様に無差別攻撃となるのが一般的(?)なのだが、シンジの場合は、やや変則的な形で。
表層意識が無条件に却下してきた有効な攻撃が、知らず知らずの内に無意識領域に蓄積すると共に体系化されていて、
それが理性が飛んだ事で実行に移された結果なのだろうが………
確かに、陽の当る場所で使うには少々躊躇わざるを得ないものだ。
無論、修行の階梯が進めば多少はマシになるのだろうが、シンジのそれは本能的なものとは思えないほど理路整然としているだけに、これを御するのは並大抵な事では無い。
何より、不完全な『魂降ろし』は、攻撃力だけが突出して高まる技。
彼女の性格では、完全に習得した後でなければ、実戦での使用など考慮にすら値しないだろう。
「でも、あの時、チョッと思う所があったと言うか。
『僕のパンチスピードがもっと早かったら?』っていう仮定で、今度、トウジを相手に試してみたい事が………」
と、良く言えば、シンジの現状に対するより深い理解を。
悪く言えば、『今後、どう指導したら良いもんか?』と頭を捻っていた時、彼女の方から消極的ながらも打開策の提示が。
此処は当然、それに乗ってみる一手しかあるまいて。
「良し、早速やるぞ」
「はい?」
唐突な師の言葉に呆気に取られるシンジ。
だが、そんな彼女に構う事無く、北斗は暫し瞑目した後、
「…………うむ。今、体術をトウジ程度に。ただし、打突の威力のみを2倍に設定した。
打倒、斎藤タダシを想定するには些か劣化させ過ぎとは思うが、これなら文句はあるまい?」
「えっ? えっ?」
「さあ、遠慮はいらんぞ。
俺としても、お前の思い付いた打開策とやらに興味があるんでな」
と、強引に話しを進める。
大方、まずはトウジを相手に実行可能か否かを実験。
その後、独闘(ボクシングのシャドウの様なもの)にて徐々に難易度を上げる腹だったのだろうが、そんなものを悠長に待っていられるほど自分は気が長くは無い。
とゆ〜か、トットとあの馬鹿女に意趣返しをしてやらん事には、どうにも気がすまん。
そう。求めるは、今すぐにでもサイトウを倒し得る技。
モタモタやっていて貰っては困るのだ。
「どうした? ひょっとして、此方か仕掛ける事が前提なのか?」
状況について来れないシンジに焦れて、北斗はサイトウのそれを模しての八門開打(前進しながらのワンツー)を。
半ば不意打ちになったそれに驚きつつも、それを難なく回避。
と同時に、もはや戦い(?)を避けられない事を悟り、その顔付きが変わる。
それを見取った後、冲捶(突き)を基本に、環捶腿(左ジャブで距離を測っての回し蹴り)、右端脚(踏み込みながら繰り出す前蹴り)と言った蹴り技も絡めて。
サイトウの戦闘法を模して、北斗は一方的に攻め立てる。
対するシンジは防戦一方。
だが、一見、単に逃げ回っているだけの様に見えるその姿には、一つ奇妙な事が。
(ふむ。まずは、此方の手筋を読む事に徹するハラか)
そう。足技を多用する分だけ間合いの差が広がっているものの、北斗の攻撃は、それだけ隙も多くなっている。
実際、体術自体はトウジ程度故、有効な攻撃を入れる機会は幾らもあった。
にも拘らず、シンジは自分の攻撃を捌く(サイトウとの対戦では、手数に押されてそれすら出来なかったが故にボロ負けした)事に終始。
否、体捌きだけで回避が可能なものすらワザと受ける事で、その威力と呼吸(タイミング)を慎重に計っている様子。
どうやら、何かを狙っている事は確かな様だ。
そして、そんな攻防が2分程も続いただろうか。
漸く覚悟が固まったらしく、
「行きます」
バックステップで間合いを大きく広げた後、シンジは普段のそれと違って前傾姿勢な。
正面からの打ち合いを前提とした構えを取った。
それに応じて、北斗は箭疾歩(震脚のエネルギーを爆発的な突進に使う歩法)からの崩拳の体勢に。
だが、彼女はそれを許さず、その踏み込む予備動作に合わせて飛び込むと同時に、右肩の関節部を狙っての短打を。
威力こそ無きに等しい単に合わせただけの一撃だったが、これが彼の重心移動を封じ、技の発生を潰す形に。
(狙いは組打ちか? いや、力の差が大き過ぎる。何を考えている?)
と、自分の目から見れば緩慢な。
だが、今の状況設定では回避不能な一撃を貰いながら、その一手に僅かに困惑する北斗。
確かに、大技の隙を狙って上手く自分の懐に潜り込んだ格好ではあるが、トウジとサイトウでは地力が違う。
シンジの力では、正面からの打ち合いなど論外。組み付いた所で、アッサリ振り解かれるのがオチだ。
そんな事を戦闘用に高速化した頭で物思いつつも、左の鉤突き(フック)を。
しかし、それは技として成立する前に。
パシッ
その二の腕を狙っての右掌底によって、拳が曲線を描く為の基点を潰される形に。
返しに放った右鉤突きも、上体を反らす事でかわされ、
その隙を狙われ、左肩の関節部に背筋の反動を付けての槌拳(正拳を槌に見立てて振り下ろす技)を貰う事に。
先程のそれとは違い、それなりに威力のある急所への一撃に舌打しつつ、北斗は鉤突きで振り切った右拳で、そのまま裏拳を。
ドンッ
しかし、それを待っていたかの様なタイミングで、その右肘から上の部分を狙って。
力負けしない様、シンジは両手での掌底突きを合わせて裏拳の威力を相殺。
そのまま、受け流す様に上段へ弾き飛ばした。
(クッ、謀られたか)
右手は弾き飛ばされ、左手も痺れて反応が鈍く、正中線がガラ開きな状態。
まるで詰め将棋の如く弟子の術中に嵌められた格好だが、そこはそれ、負けて嬉しい何とやら。チョッと顔を綻ぶ。
それでも最後まで手は抜かずに、北斗は迎撃の右前蹴りを。
しかし、シンジの策にはまだ先が。
間合いを広げる事を狙ってのその苦し紛れな攻撃こそが、正に彼女の待っていた一撃だった。
トン
と、シンジは体重を感じさせない動きで。
繰り出された前蹴りに合わせて更に間合いを詰め、蹴り上げられたその太股を足場に。
弟弟子であるペンペンの飛鳥拳の要領で、その身を加速させての飛び膝蹴りを。
(まあ、これで合格って事にしておくか)
まともに喰らったら結構痛そうな。
かと言って、硬気功を使って受けたらシンジの膝が砕けそうな事もあって、北斗は珍しく決着前に勝負を終らせに。
自身の身体能力を元に戻し、その超反応によって、右手で彼女の膝蹴りを受け止めた。
だが、次の瞬間、信じられない事が起った。
(おい、嘘だろ)
内心そう呟く。気が付けば、シンジの顔がドンドン近付いてくる。
呆気に取られたまま、“つい”それをボーと眺める。
ガキッ
結果。北斗の頭に、膝蹴りの勢い+サッカーのヘディグシュートの如く上体の反動を付けての。
シンジの渾身の頭突きが決まった。
「おごっ!」
余りのその衝撃に、奇怪な叫びを上げつつ転げ回るシンジ。
そう。硬気功など使うまでも無く、元の肉体強度を取り戻した北斗の前には、それは余にも無謀な。
いっそ電柱を相手にした方がまだマシなくらい大ダメージな自爆技でしかなかった。
「………って、馬鹿かオマエは! どこの世界に頭突きを決め技に使う女が居る!」
中々痛かったそれが気付となってか漸く我に返り、シンジの暴挙を叱責する北斗。
そう。これは『女性は尊ぶべし』との思想が浸透した木連においては論外な。
ある意味、かつて彼女が無意識に放ったえげつない急所への連続攻撃以上の反則技である。
だが、それを拝聴すべき弟子はと言えば、
「ぼっくんはオトコでしゅ〜」
と、脳震盪を起こしてしる所為か、呂律の回らない調子でそう言い残した後、まるで操り糸の切れた人形の如くグシャリと崩れ落ちた。
どうやら、最後の気力を振り絞っての反論だった様だ。
「やれやれ」
嘆息しつつ、北斗は気絶したシンジの容態を調べた。
その結果に安堵する。
ぶっつけ本番とは思えないくらい綺麗な形で決まったそれだけに、思った通り頭部の怪我は大した事は無い。
木連秘伝の膏薬を塗っておけば、パッと見には判らない程度の腫れで済むだろう。
寧ろ、自分の攻撃を捌く際に負った、両腕の筋肉疲労の方が重傷である。
かなり無茶をしたらしく靭帯が延び切っている。
これはもう、例の秘薬(第四話参照)でも飲ませない限り二〜三日はまともに動くまい。
つまり、最後のアレは、手技が使いたくても使えなかったが故の苦肉の策らしい。
「お互い、我が身の非力が辛い所だな」
と、既に物言わぬ身(?)の弟子を相手に愚痴を洩らす。
そう。アキトに比べ、どうしても自分は非力だ。
もしも同等の力があれば。否、せめてスピードだけでも勝っていれば打つ手は無数にあるのだが。
たとえば、どこかの顔にバッテン印の剣客の如く、九頭○閃ならぬ劫竜八襲牙陣が放たれるよりも早く、必殺の一撃を打ち込む事とて難しくは無いだろう。
だが、それは『生身の戦いであれば』の話。
現実は厳しい。仮に、自分が天○龍閃っぽい技を習得したとしても、エステでの戦闘においては余り意味が無かったりする。
と言うのも、如何に超加速を得たとしても、自分の方はアキトにDFSを当てに行かねばならないのに対し、
アキトの方は最初の二龍を発生させていれば、それを容易に受け止められるからである。
そうなれば。肝心の刀身が封じられてしまっては、『隙を生じぬ二段攻撃!』とか言う前に、残りの六龍のタコ殴りにあう事になってしまう。
かと言って、アキトと同じ事をやったのでは、同作品の理屈通りに地力の差で此方が打ち負ける事に……………って、チョッと待て! 今、シンジはナニをヤった!?
改めて、先程の攻防を反芻する。
その非力さ故に、基本的に彼女は後の先(敵が攻撃する瞬間に生まれる隙を狙う事)を取る以外に勝機が無いと思っていた。
だが、敢えてそれを捨て、先の後(敵が狙いを定め、実際に攻撃を繰り出す瞬間に生まれる隙を狙う事)をとって相手の攻撃を封じ込め、焦れた所を罠に掛ける。
実際、これは有効な手だった。
この図式を自分とアキトのそれに当て嵌めるのであれば………
そうだ。何も八竜総てとまともに打ち合う必要なんて無い。
1秒…否、0.5秒もあれば。たったそれだけの間、あの紅き竜達を足止め出来れば事足りる。
威力なんて弱くて結構。相手が八頭の竜王ならば、自分は九匹の大蛇を繰り出せば良いのだ。
さしものアキトとて、あの大技を打ち終わった瞬間は無防備になる。
これは、何度となく映像を観た折に確認済みだ。
つまり、此方の九匹目を。その本命の一匹の牙をかわす術は無い。
無論、直撃は難しかろうが、この際、手足の一本も噛み砕ければ充分な戦果だ。
事実上、そこで勝敗は決したと言っても過言では無い。
或いは、最終決戦の折の意趣返しに、今度は此方がワザと外してやるというのも悪くない気がする。
何れにせよ、それで漸く1勝1敗。真の決着はその後で付ければ良い。
「くっくっくっ」
我知らず笑みが零れる。
勿論、これは口で言うほど簡単な事では無い。
だが、アキトが帰ってくるまで、まだ半年もある。
何より、不肖の馬鹿弟子は、魂降ろしも気功術も使わずに。奥義に頼る事無く限界を越えて見せたのだ。
師である自分が不様を晒す訳にはいかない。
「やれやれ。『背負うた子に道を教えられ』とは正にこの事だな」
気絶したシンジを抱かかえながら、不器用な感謝の言葉を。
そして、(成功すれば)歴史に名を残すであろう新たな技に思いを馳せる。
九又大蛇………否、蛇を模るのは一匹だけ。残りは八枚の盾と考えるべき故、この名では似合わんな。
そうだ。中国神話において、蚩尤の巻き起こす濃霧に困り果てていた黄帝に、霊宝護符や兵法書『陰符経』を与え、勝利へと導いたとされる。
また、多情かつ浮気性な夫の御乱行に悩んでいた敖蓮伽夫人に頼まれ、彼女のダンナである東海竜王を折檻したという御茶目な逸話をも持つ戦天女の名を取って、
『九天玄女(普段は美しい女性の姿だが、その本性は人頭蛇身の仙女)』と名付けよう。
弟子の寝顔(?)を眺めながら、そんな柄にも無い風雅な技名など付けてみる。
と、事が一段落した所で、
「ん? そう言えば、コイツは何をしに来たんだっけ?」
北斗は、漸く一番最初の疑問を思い出した。
だが、それを尋ねるべき相手が人事不省では仕方ない。
『まあ良いか』とばかりに問題を棚上げすると、そのまま彼は、シンジの治療を行なうべく我が家へと戻っていった。
ちなみに、シンジの本来の用事。
朝、唐突に早退して以来、そのまま音信不通なケンスケの現状はと言えば、ある意味、彼女の予想以上に波乱万丈だった。
発端は些細なショバ荒し(?)だったにも拘らず、何故か芋ズル式に事が大事に発展した為、その日の内には決着が付かず、済崩しに潜伏生活に入る事に。
「(ングング……)ん? 貴方は飲まないの?」
「う…うん。(落ち着け! 落ち着くんだ、俺! お前はもう彼女のあられも無い姿なんて見飽きてるだろ? チョッと状況設定が変わった位でナニ動揺しているんだよ)」
と、内心では呟くものの、その目は風呂上りの上気する白い肌に。
僅かに乱れた浴衣の胸元から零れ見える、普段は目立たない形の良い乳房に釘付けだった。
「そう。(ングング……)」
そんなこんなで、とある場末の安宿にて、慣れた仕種で缶ビールを嗜む。
何故かずっとダークモードのままな所為で、幾つか年上の野性的な美女にしか見えないラナを前に激しく葛藤中。
否、大人への階段を昇る一歩手前の状態にあった。