再び・時の流れに
 〜〜〜私が私であるために〜〜〜

 第18話 水の音は『嵐』の音……〜そのとき、歴史は動いたのです〜……その7


 
 
 「どうですか、一曲」
 舞歌様に声を掛けてきたのは、一見軟弱そうな、髪の長い男の方でした。
 かすかに癖のある長髪は、月臣様のようなしっとりした黒髪ではなく、もっと軽そうな色合いでした。
 こういう場でなければそもそも席を同じくすることは絶対になく、こういう場であってもまずお近づきにはなりたくない男性です。
 ですが、軟弱そうな見かけではあっても、無視するわけにはいかない人物でした。
 彼の名はアカツキ ナガレ。我々にとってあまりにも大きすぎる利害で結びつけられてしまった存在、といえます。
 彼は地球を代表する企業体・ネルガルの頂点に立つ人物であり、また、我々にとって宿敵とも言える存在、機動戦艦ナデシコの、ある意味における生みの親とも言える人物。
 そして軍人としても、自ら機動兵器を駆り、我々の放った無人兵器群と戦い抜いてきた戦士。
 実に複雑な人物、としか言えません。
 彼が舞歌様に声を掛けてきたのは、ある意味当然とも言えましょう。彼は我々の今もっとも注目する人物、テンカワアキトとも深い繋がりを有する人物なのですから。
 踊らないか、という問いかけは、同時に『話がしたい』という申し出でもあります。
 本来ならば、素直にうなずいた上で、彼の手を取るのが舞歌様のなさるべき振る舞いです。
 ですが……
 
 「申し訳ありません。私はこちらの踊りは不得手なので。千沙、私に変わってお申し込みを受けてくださらないかしら」
 ああ、やっぱり。
 舞歌様は木連式短杖術の達人ですので、身のこなしは抜群です。ですが、なぜか舞踏は全くと言っていいほど苦手としているのです。
 特にこのような西洋舞踏は、からっきしといっても過言ではありません。踊ろうものならあっという間に相手の方の足を踏み潰してしまいます。
 踏んで、ではありません。踏み潰して、です。
 木連ではこのような西洋舞踏はあまり踊られることはありませんが、一応たしなみの一つとしては伝わっています。私もこちらの流行からは外れているでしょうが、古典的なものならば一通りこなすことが出来ますし、落ち着きのなさそうに見える百華ですら、その気になれば見事な足捌きを見せます。
 ですが舞歌様と来たら、踊りの足捌きがいつの間にか震脚になっていたりするのです。しかも測ったように相手の足の上で。
 熟練の武闘家の震脚を足の甲に食らわされてはたまったものではありません。
 結果、今では舞歌様と踊ろうなどという勇気のある人は、木連中探しても誰もいません。兄である八雲様ですら、この件からは全速で逃げます。
 実際、こちらに来ることが決まった後、八雲様は舞歌様に聞いていました。
 「舞踏会となると、西洋式のダンスを踊る必要があるよ。申し込まれたらどうするつもりだい?」
 「そのときは千沙にでも代わってもらうわ」
 これが舞歌様の答えでした。まあ私もそれが正解だと思います。
 そして今、仮想だった問いは現実となりました。
 
 

 「初めまして、アカツキ様。各務千沙と申します。舞歌様の代理ですが、よろしくお願いいたします」
 「いえいえ、こちらこそ貴女のような美しい方と踊れるというのに、なんの不満がありましょうか」
 私はこのような軟弱で口の軽い殿方は好みではないのですが、今の私はそのようなことを口に出来る場合でも立場でもありません。
 そして彼は、私を見事に導いてくださりました。
 さすが、というべきか、やはり、というべきか。私は少し迷いながらも、彼にあわせて踊ります。
 その過程において、私はわずかに違和感を感じました。
 彼の踊り方は見事なものでした。付け焼き刃の真似事でしかない私の踊りを、見事に引き立ててくれます。
 ですが、私にとって、彼の導きは、あまりにも踊り易すぎました。
 彼の足捌きは、西洋舞踏と言うより、むしろ武道のものに近かったからなのです。
 武道と舞踏には、全く異種でありながらも通じるところがあると言います。ですが私は、彼は舞踏よりも武道の修練に重きを置いていることを、その踊り方から察しました。
 とてもそうは見えないのに。
 言葉は人を裏切ることが多々あります。姿も、人を欺きます。でも、躯は嘘をつけません。
 そしてこの人の躯は、軽薄そうに見える外見や言動が、ことごとく『嘘』だと語っていました。本当に軽佻浮薄な人物には、決してこのような、地道な鍛錬の末にのみ得られる功夫は宿らないものです。
 おそらく彼は、人前では決して鍛錬などしないのでしょう。そういうものは人に見せるべきではない、と思っているのだと推察されます。
 そう思うと、私は少し、この裏腹な人物に興味が湧いてきました。
 
 
 
 
 
 
 
 >NAO
 
 今のところ、舞踏会は平和だった。
 さすがにこのクラスともなると、ちんけなスリやこそ泥のたぐいも入り込む隙間がない。もしこういう所でそういう仕事をする奴がいるとしたら、そいつは間違いなく“一流”だろう。だが俺の勘に引っかかった奴はいなかった。だとすると結論は二つに一つ。全く何にもないか、俺ごときでは及ばない、“超一流”が来ているかのどちらかだ。
 俺は手にしたグラスから漂う、上質の葡萄の香りを楽しんだ。そして深い赤紫色の液体を、少量喉に流し込む。
 これがワインならなかなか絵になるシーンだが、残念ながら俺の持つグラスの中に、アルコール分は全く入っていない。仕事とはいえ、ただの葡萄ジュースをワインのように味わうのは大変に空しい行為だった。
 俺のような人間がこういう場で酒を全く飲んでいないのは不自然だし、かといってガードの仕事中に飲むわけにも行かない。両者の妥協の産物が、このジュースというわけだ。
 ちなみに葡萄ジュースといっても、使われている葡萄は本来ワインになるもの。ちと甘い点を除けば水っぽい安物や名ばかりの無果汁とは比べものにならないほど美味い。
 と、そんな俺の所に誰かが近づいてきた。そちらに視線を向けた俺の目に飛び込んできたのは、どえらい美人だった。もっとも美人でもあっても、あんまりお近づきにはなりたくないかもしれない。アクアお嬢と一緒にいた、俺に小手返しを仕掛けてきた女だからな。確かカタギリとかいう名前の。
 「よかったら踊っていただけませんか?」
 そいつは素知らぬ顔で、俺にそう言った。もちろん俺には受けるつもりはない。
 「申し訳ないが……うおっ」
 断ろうとした矢先に、俺は彼女に手を引っ張られ、バランスを崩した。くそ、油断した。彼女は見事なタイミングで俺の重心を崩し、そのまま俺を会場の中の方へ引っ張り込んだ。こうなると1曲は付き合わないとかえって不自然になってしまう。
 やむを得ず俺は彼女の手を取ると、何とか曲に合わせて足を動かした。
 「何のつもりだ」
 俺は音楽に紛れ、小声で彼女にささやく。端から見たら愛の言葉でも囁いているように見えてるかもしれないと思うと、ちょっと憂鬱になる。
 「ごめんなさい。ちょっと話しておきたいことがあったから」
 彼女も俺の囁きに応えるかのように、小声で話してくる。
 「先輩には敬意を表しておきたかったし」
 その言葉に、俺は体の力を抜いた。ほっとしたからではない。こいつの立場や立ち居振る舞いを見る限り、こいつの所属はかつての俺の職場……クリムゾンのガードだろう。
 だとすれば油断は出来ない。俺が体の力を抜いたのは、いわばこいつをいつでも殺せる体勢を作るためだった。
 「あ、誤解しないでね。私があなたの後輩なのは、アクア様の護衛としてよ。でも、あたしはクリムゾングループとは関係ないわ。依頼人は別口」
 「……どういう意味だ」
 声に僅かながら殺気を籠める。音楽に合わせてターンをしながら、俺と彼女は視線でチャンバラをしていた。
 「味方は少しでも増やしておきたいと思って」
 返ってきた答えは少々意外な物だった。
 「味方、ね」
 「そう、味方」
 言葉に皮肉を含ませても、気にすることなくバッサリと切り返してくる。
 案外に手強いな。
 「といっても、何のことだかわかんないと思うから、こっちのこと、少しだけ教えておくね。アクア様は、クリムゾンと木連の関係に気がついているわ。そしてそれをよくは思っていない」
 「ほう」
 それは少し意外だった。いつの間にあのお嬢様、そんなことに首を……!
 そう思った瞬間、頭のどこかにあるスイッチがONになった。
 今までのことがすさまじい勢いで組み立てられていく。やがて俺の脳裏には、一枚の絵が浮かび上がった。
 「もう何も言わなくていいぞ」
 おれはクライマックスに合わせて相手に声を掛ける。
 「何か気がついたようね。なら後はあなたの思うとおりにして。こちらとして伝えるべき事は、みんな伝わったみたいだし」
 ちょうどそこで音楽が変わった。俺は彼女の手を離し、踊りの輪から抜けた。
 背中に視線を感じつつも、俺はある人物めがけて、一見優雅に、その実猛然と突撃していった。
 
 ハルナ……あのアマ、さてはあん時から仕込んでいやがったな!
 うすうすとは思っていたが、確証はなかった疑惑。それが彼女の仕業だとは判っていても、何のためにという目的が判らなかったため、記憶の片隅に放置していた事実。
 その目的が、俺の頭の中を駆けめぐっていた。
 
 だが、これがまずかった、と、後々の俺は思う羽目になる。
 もちろん、この時俺がそうしなかったとしても、事実は変わらなかっただろう。
 だが俺のこの時、本来の任務を一瞬といえども忘れたことが相手に有利に働いたことは、決して否定できないことだった。
 
 
 
 

 
 >TETSUKO
 
 おーおー、あわてちゃって。
 私は次の男に手を預けながら、視界の隅でナオのことを監視していた。
 どうやら思った以上に話が伝わったな、ありゃ。てことはあの魔女、ナオのことは味方に引き込んでいると見て間違いなさそうだ。
 ま、いずれにせよ、これでテンカワの奴まで話が通ることは確実だ。
 思考を『俺』寄りに傾けつつ、体の方は見知らぬ男の踊りに合わせて動かす。
 我ながら本当に器用なもんだ。
 アクアが立つためには、クリムゾンが動くことが前提になる。クリムゾングループがごく普通の活動をしている時期では、例の切り札によって一時的に上に立てたとしても、配下を心服させるところまでは難しい。逆に切り崩されるのがオチだ。
 だが、クリムゾンはいずれ間違いなく動く、と、俺は見ていた。
 あの東八雲とか言う男のせいで、蜥蜴戦争は木連戦役に変わってしまった。こんな状況下でクリムゾンが木連とつながりを持っていることがバレたら致命傷だ。普通なら手を切って、知らぬ存ぜぬを決め込むところだろう。
 だが、あの爺さんに限ってそれはない。
 魔女は言った。ロバート・クリムゾンは、月独立派の生き残りだと。
 それが本当かどうかの証拠はない。だが、あいつはああいう場面で嘘を言う奴じゃない。嘘をつくのなら、もっと効果的につく奴だ。それに、爺さんの動きを裏から見てきた俺は、爺さんはクリムゾンが潰れようとも木連の側に付く、そんな感じを受けていた。
 加えて、これは俺の担当じゃないからはっきりとはわからないが、どうも爺さんは、あの東八雲を邪魔に感じている節があった。そしてテンカワアキトに対して向ける意識にも、奇妙な憎悪が感じられる。あの爺さんは表向き俺にテンカワをこちらに引き込めと命令したが、ありゃどう見ても建前だ。そもそも本気でスカウトしようとするなら俺を使うわけがない。今更何だが、テンカワと当時の俺の相性は間違いなく最悪だ。あの妹が介入してこなければ、間違いなくどちらかがくたばっている。そしてそれ以外の可能性はまずあり得ない。
 そのことは誰よりもよく俺が感じていた。
 そして……爺さんがそのことに気が付かないはずがない。これがあそこの重役あたりから出てきた話なら、それもありかと思えるが、あの爺さんはそんなぬるいタマじゃない。
 アレは間違いなく、かつては俺と同じ世界に生きてきた男……戦うことを、そして殺すことを知っている男だ。あの目が全てを語っている。そんな男が、そんな初歩的なミスを犯すはずがない。
 ならばなぜ俺を使ったのか……答えは一つ。テンカワアキトを『壊す』ためとしか考えられない。俺に殺されて躰を壊されるか、俺を殺すことを通じてココロが壊れるか。
 繰り返すようだが、あの妹が茶々を入れてこなければ、結末は二つに一つ……まあ実際は俺がくたばることがほぼ確定だったろうが、その時は間違いなくテンカワのココロは『壊れた』はずだった。
 あの男が憎悪の念を持って人を殺せば、間違いなくあいつの心の奥底に沈んでいる『闇』が目を覚ます。あの時、俺を殺そうとして銃を向けたときに感じた、あの『凶念』が。
 それは間違いなく、あいつという器に入った罅になる。そうすれば後は爺さんにとってはたやすいだろう。あの海千山千には、甘ちゃんテンカワの足下をすくうのはそれほど難しくない。
 だがそれは結局の所、妹のせいで阻止された。爺さんを上回るしたたかなあの悪党魔女に。結果、テンカワは未だ綺麗なままだ。
 爺さんにとって、今の状況が不本意なのはまず間違いあるまい。
 そしてあの爺さんが俺の知る爺さんのままなら、あいつはやる。間違いなく、殺る。
 社会的な情勢においても、テンカワを排除するつもりなら今しか時期はない。
 今の世論は、和平と徹底抗戦がほぼ五分五分だ。そしてテンカワ一派は、それを和平側に傾けようと努力している。対して徹底抗戦派は、私怨や目先の利益などを求める者、後政府筋のぼんくら閣僚などで、明確な思想の元に主張している人物はいない。いるとすれば爺さんくらいのものだ。
 このままただ時が過ぎていけば、間違いなく世論は和平側に転ぶ。東八雲は明らかに和平派だろうし、大局的に見ればこの戦い、和平無くしてまず終わることはない。
 そして、地球と前線の木連軍が和平の流れになれば、結果はともかく、一度は今回みたいな裏技ではなく、本気の和平交渉が持たれるだろう。それがどういう結論になるかはさすがに予想不可能だが、地球側の政府がそこに至ってもグズグズしているようなら、いくら何でもテンカワも切れるだろう。あるいはあの性悪魔女が何か手を打つかもしれない。そうなったら結論は和平五分、最終決戦になってもおそらくは地球側が勝つ。テンカワが動いて和平を結ぼうとするならば、おそらくはぎりぎりまでこっちが譲歩するはず。あいつはそういう奴だし、そうじゃなければ絶対にこの和平は成立しない。その上で木連側が和平を拒否すれば、連合軍は真に本気になる。ある意味政治ゲームの舞台と化している今の連合軍が、テンカワを象徴として一つにまとまる事になる。こうなったらさすがに木連側に勝ちは無い。いや、おそらくテンカワも腹を決めて、隠している切り札を全部切ってくるだろう。西欧で俺に見せつけたあの力。妹が告げた、この戦いの鍵を握るモノ――ボソンジャンプの中枢制御装置。
 テンカワは誰よりもそれに近い場所にいるのだ。それを握ろうと思えば握れるあいつが、なりふり構わず勝ちに行ったならば、結果は見えている。
 
 ――だからこそ、テンカワアキトを消すとしたら、今をおいてほかにはない。
 
 もし今ここでテンカワが倒れれば、間違いなく和平は消し飛ぶ。そして要を失った連合軍は、背後にいる者の影響を受けてバラバラに動く。それでは決戦になったとき、木連には勝てまい。そしてあの魔女も、テンカワが死んだ後には動かないだろう。あいつはあくまで、テンカワを助けるために動いている。
 そういう奴だ。あいつは別段救世主メーカーを気取っている訳じゃない。己の欲望にはとことん忠実な『悪』の心性の持ち主だ。意外かもしれないが、こういう『悪』の心性の持ち主がとことんその欲望に忠実になると、その行為は一見『善』や『正義』に見えることがある。皮肉なことだが、己の欲望を忠実に叶えようとするときにもっとも効率的な手段は、往々にして『善行を貫く』事だったりすることがあるのだ。
 そして、ここでテンカワを『殺す』には、俺の目から見ても二つの手段がある。
 物理的に殺すか、社会的に殺すか。
 普通ここまで英雄視された人物なら、社会的に殺す方が簡単だ。ましてやあの男は性格が甘い。スキャンダルのネタなど、いくらでも仕込めるだろう。人は英雄には、人類としての理想を無意識的に求めるからな。
 ところがあいつに限ってはそれがあんまりうまくいかない。何よりあいつは、元々人間社会に対する影響力というものをあんまり気にしていない。名声を利用しようという気がほとんどないのだ。
 こういう奴に対して、事実無根のスキャンダルを捏造すると裏目を引きやすい。そういうのが効くのは汚れることを恐れる奴で、あいつみたいに汚れることを当然と思っている奴には効果が薄い。こういうテンカワみたいな奴に効くのは心根の崇高さを貶めることだが、こっちに関してはおそらく手遅れだ。この手の工作は、人の心の嫉妬心を利用するからこそハマるものだ。ところが奴に対する評価は、もはや嫉妬することすら出来ないレベルに達してしまっている。MOON NIGHT時代、あいつは態度でそれを示してしまった。あいつに対してそういう批判の声を上げたとしても、返ってくる答えは一つだ。
 ――じゃあおまえがやってみろ、と。
 つまり、今更社会的に殺そうとしてもびくともしないだけの信用と実績を、あいつは積み重ねてしまっている。爺さんもそれが判らない馬鹿じゃあない。
 となれば消去法だ。今回は物理的に殺しに来る。それは間違いない。
 ただ、俺からみれば一つだけ疑問がある。それが出来る人材がいるのか、だ。
 奴を殺るには、最低でも俺より強い必要がある。さらに、出来うるなら純粋に正面切って戦って、なおかつあいつに勝つ腕前の戦士が必要だ。普通強敵に対するには人質を使ったり薬を盛ったりするものだが、おそらくあいつには通じない。これは俺の勘だが、遠距離狙撃や毒物は、おそらくあの妹が止めてしまう。だが、正面切って襲ったときに限り、彼女は手を出さないはずだ。
 あいつはアキト本人と違い、アキトの名声を利用することを計算に入れている。そのアキトが正面切って襲われたとき、そこから逃げるという行為がどれだけそれに影響するかを知り尽くしている。
 それ故に、正面切って襲った方が、まだ成功率は高い。
 奴と真っ向から向き合った俺には、それがよくわかる。
 
 
 
 ちょうどその時、曲が切れ、パートナーが交代するタイミングが来た。
 俺は思考を『私』に戻しはじめる。
 「よろしく、お美しいお嬢さん」
 「こちらこそ。すてきなおじさま」
 ナンパ師とそれに引っかかる馬鹿女のような会話を交わして、俺――いいえ、私は、視界の隅に舞台の中央で踊るテンカワアキトの姿を捉える。
 彼は今、グラシス中将の孫娘と踊っていた。髪が銀髪だから、あれは白銀の戦乙女、アリサの方だろう。
 男として見ていたときには気がつかなかったが、女の目で見ると、あの男は女を引き寄せるフェロモンを放っているみたいだった。
 顔形や性格ではない。目的のために全てを切り捨てるストイックさと、切り捨てた部分から流れ出る血と痛み。相手を思いやる心を持つ女には、テンカワアキトの抱える傷跡が痛々しく写る。
 それはやせ我慢をしている男の子の姿だ。それが女の持つ、母性本能を刺激する。
 守ってあげたい、そう思わせるのだ。
 テンカワはそれを良しとはしない。だが、女が無心に捧げた好意は、あっさりと受け取ってしまうところがある。
 後先考えずに。
 こうして見ていても判る。女性が80%の献身と20%の打算を込めて向けた好意を、あいつは100%の、ただの好意として受け止めている。そんな彼が返すのは、やはり混じりっけなし、疑うことすらしない信頼全開の笑みだ。
 一っ欠片も相手を疑っていないからこそ出来る、純粋な信頼と好意だけが濃縮された微笑。こんなものを見せつけられたら、下手すれば私ですら落ちる。
 特に純情な乙女には、効き過ぎて毒にすらなる。
 勘違いしてはいけない。あの笑みは、相手に対して何も含むところがないからこそ浮かべられるものだ。全く欲望を抱かない故に出来る、母に向けられる子供の微笑み。それに対して大人の欲望を抱いたら、絶対にえらいことになる。
 ……ふと、思った。
 あいつを殺そうと思うのなら、あいつの周りにそういう恋愛に不慣れな女を多数あてがうといいのではないだろうか。10人もいれば1人位は突っ走る女がいるだろう。で、多分誰かが抜け駆けしたらあとは雪崩だ。そしてほかのことならばともかく、あいつにはそういう女を裁く甲斐性があるはずがない。
 無いからこそ、あの純真無垢な笑みが浮かべられるのだ。
 女の身である今でこそ判るが、気に入った男を確保しようとするのは、女にとって根源的な本能だ。子孫を残す、という行為に直結した、生命体としての本能。男が浮気をするのと同じくらい、これは抜き差し難い、女の本能なのだ。
 私はそうなったテンカワを想像して、思わず笑みを浮かべてしまう。目の前の男が何か誤解したみたいだが、とりあえず気にしないことにする。
 私の頭の中には、何十人という血走った目をした乙女に追いかけられて、必死に逃げ回るテンカワの姿が、なぜかくっきりと浮かんでいたのだった。
 
 
 
 
 
 

 >NAO
 
 「おい、ちょっと顔貸せ」
 俺は、ひたすら料理を平らげ続ける女にそう声を掛けた。相手の名前は言うまでもないだろう。
 「ん、ナオさん、どうかした?」
 食い物を頬張りながらも、なぜか聞き取りやすい声で返事をするハルナ。
 俺は取り皿にいくつかの料理を山盛りに載せると、ハルナの手を引いて表の休憩スペースへと連れ出した。
 人混みの死角、人の中でありながら誰からも注目されないポイントに、俺はそっと陣取る。そしておもむろに、しかしゆっくりとした静かな声でハルナに問いかけた。
 「まあ今更だが……おめえ以前お嬢の別荘で、お嬢に何か吹き込んだな?」
 「あ、そういえばそれについては答えてなかったね」
 ハルナも平然と言い放った。
 「うん、まあ、予想通り。アクアさんには、いい加減目を覚ましてもらわないといけなかったから」
 やっぱり、か。まあ、文句を言う筋合いじゃあないんだがな。
 「で、何を吹き込んだんだ」
 「ん、クリムゾンの裏家業その他諸々。要するにお嬢様を義憤に駆り立てて、正義の味方に仕立て上げちゃうような代物かな」
 「……てことは、ずいぶんと昔から仕込んでたって言う訳か」
 その資料だって、いくらこいつがものすごいハッカーだとしても、集めるにはかなりの期間が必要だったはずだ。まあ仮に、こいつがクリムゾンに存在する、『情報機器』と名の付くものに上げられたデータを全て入手できたとしても、こういう機密資料的なものを手に入れるには『時間』が問題になる。どんな組織であっても、この手のやばい情報をネットワーク上に長期間にわたって残すような真似はしない。必要なときにだけ存在させ、役目を果たしたら完全に抹消する。それが普通だ。ハッカーなんていうのはどこにでも居るし、機密を守るにはそれを第三者が物理的に手を伸ばせるところには置かない方が賢明だ。本来ならネット上に置くなんてもってのほかなのだし。
 ただ、現代社会で、いくら機密とはいえ、ネットワークを介さずに他者と連絡を取るのはあまりにも非効率だ。そうまでして守らねばならない機密など、そうは存在しない。最近なら木星蜥蜴の正体、なんてものくらいだろう。
 いずれにせよ、どんなに優秀なハッカーといえども、存在していないものは手に入れられない。この手の情報はネットワーク上においてすら、『物理的』に消去するのが普通だ。ダイレクトなハッキングだけでなく、ソーシャルハッキングにも対抗しようとするならば当然の心得である。それ故にこの手の機密情報をハックするには、腕前以上に『タイミング』が重要になる。情報がネットワーク上に存在している『旬』のタイミングを、逃さずにつり上げる技が必要になるからだ。そしてその旬はきわめて短い。
 ハルナの奴がお嬢に何を見せたかは知らないが、そのデータ収集には、年単位の時間が掛かっているはずだ。
 「ビンゴ」
 そしてハルナは、一言そう答えた。そして俺の持っていた皿から料理をかすめ取りつつ、言葉を続ける。
 「ま、細かいことを説明するのはもう少し待ってくれる? いい加減はっきりさせろって言いたいのは判ってるんだけど、まだちょっと早いの。でもね……この会合が終わって、もう一山くらい越える頃には、多分隠していられなくなるのは判ってる。確約は出来ないけど、地球と木連、双方が腹を決めたときには、あたしもお兄ちゃんも、全てを打ち明けざるを得なくなると思うから」
 「終わりは近いって事か……」
 俺も食い物を腹に収めつつ、会場を眺める。
 「実際さあ、いい加減不思議でしょ、ナオさんも」
 ハルナは、珍しくあたりに気を配りつつ、どこか遠くを見つめながらその言葉を言った。
 「いくらあたしに凄い力があったとしても、それじゃ説明つかないでしょ? あたしが『いつから』この時のために準備をしてきたかなんて。ナオさんの常識からすれば、アクアさんに見せた資料をそろえるためには、少なくとも3〜4年前から仕込みをしておく必要があるし。でも、その仕込みをするには、その前から彼らがそういうことを始めるって予測していないといけない。つまり、いくらあたしが力を持っていたとしても、普通なら事の原因を分析して、対策を検討できるのはずっと先のことのはずなんだよね。ううん、極端な話、あたしやお兄ちゃんが木連のことを知って、それに対抗するためには、前提として木連が攻めてこないといけないはず。木星蜥蜴といわれた無人機じゃなくって、『木連』がね」
 俺は頭をぶん殴られたような気がした。うすうすと感じていた、アキト達の態度に対する不可思議、それが今のハルナの言葉ではっきりと判った。
 早すぎるのだ。アキト達の行動は。
 そう、どんなに力があったとしても、木連がコンタクトを取ってくる前にそれを知ることは不可能だ。そして蜥蜴戦争の経過やアキト達から聞いた話からしても、木連が何らかの形で地球と再接触を果たしたのはせいぜい3年前。
 しかしアキトはともかく、マシンチャイルドとして監視下にあったルリちゃんが木連のことを知っているのは、能力的にはともかく時間的に変だ。そのころのルリちゃんにこの手の情報を入手出来る能力があったとしたら、ネルガルはルリちゃんをナデシコなんかに載せるわけがない。ホシノの家に養子に出したりせずに、手元に抱え込んでいたはずだ。
 ところが実際は、ホシノルリにはそこまでの能力はないと判断されたからこそ、ネルガルは一度は手にしたマシンチャイルドの試験体を、一般家庭に戻したのだ。
 そしてスキャパレリプロジェクトの立ち上げに伴い、あくまでも中枢コンピューター『思兼』のオペレーターとして、能力優先主義であのプロスペクター氏がスカウトした、それがホシノルリという少女だ。
 当時クリムゾンのSSにいた俺だからこそ、この情報に間違いのないことは確信できる。実際3年前あたりから、クリムゾンの対ネルガル・対連合の諜報活動の密度がぐんと上がっていた。今にして思えば、それこそがおそらくは木連とクリムゾンが結びついた証だったのだろう。
 ところが、ナデシコに来てホシノルリはその真価を発揮し出した。その裏に絡む、アキトやハルナと共通する何かの事情。
 通してみると、アキト達はナデシコに乗ったとき、すでに木連のことを知り尽くしていたに違いない。俺が直接見たのは西欧からだが、ナデシコに来てから知った話などと合わせても、おそらく間違いはあるまい。
 だとすると、結論としてこの問いが出てくる。
 
 問題――アキト達は『いつ』木連に関する情報を知ったのか。
 
 ところがこの答えはどうしても矛盾だらけになる。アキトやハルナがどんな能力を持っていたにしろ、こうした一連の情報を知る事が出来るのは物理的にあの時……火星に木星蜥蜴が侵攻し、ユートピアコロニーが壊滅することになった、第一次火星戦役以降のはずである。それ以前に木連の情報を入手できるのは、木連が侵攻前に接触した連合政府関連の人物のみである。そしてその機密保持のレベルから考えれば、それが民間に漏れた可能性は皆無だろう。連合政府、ネルガル、そしておそらくはクリムゾン、知っていたのはこれらのトップクラスぐらいのはずだ。
 まあ、100歩譲ってアキト達にはそれが可能だったとしよう。だとしても、今度は動機が不明である。アキト達は、明らかにただの民間人である。能力があったにしても、木星蜥蜴が侵攻してくる以前には、木連のことを知ろうとする動機が全くない。つまり、アキト達が木連関連の情報を知ろうとするのは、木星蜥蜴によって故郷を滅ぼされたあとでないと動機的に矛盾する。ところがアキト達の行動は、明らかに最初から木連のことを考えに入れて行動している。
 そう、まるで被害に遭う前に被害対策をしているようなそぶりが見られるのだ。しかもそれは、余人の誰もが想像だにしなかったことに対して、である。
 「ふふ、やっぱりわけがわかんない?」
 考え込んでしまった俺に、ハルナはそっと問いかけてきた。
 「ああ。かえって訳が判らなくなった。アキトの奴の心映えに関しては、俺は一点の疑いも持っちゃあいない。あいつが木連との間に和平を為して、この戦争を終わらせようとしているのは、心底本気で望んでいることだろう。だがな……」
 「だが?」
 そういって俺の顔をのぞき込んできたハルナに、俺はその目を真っ向から見つめ返して答える。
 「お前ら、い・つ・か・ら・その気になったんだ? おい」
 そのとたん、ハルナの顔が笑みで崩れた。
 「あと一歩だよ、ナオさん。そこの矛盾が解けたとき、あたしたちの秘密は全て解ける。お兄ちゃんやルリちゃんの力の秘密も、なんでこの戦争を終わらせようとするかも、そして……ボソンジャンプの秘密を握りながら、それを隠し通そうとするのかも。全てはね、全部ただ一点、ただ一つの秘密から来ているの。そんなに難しい事じゃないよ。どっちかって言うと、無意識的に答えを無視しちゃう方が問題かな。心の中から、『あり得ない』の一言を消せれぱ、案外あっさり判るかもね」
 そしてそう言い終わると同時に、ハルナは俺の前から動いた。
 「ま、そんなわけで、私はもうちょい暗躍するから、監視よろしくね」
 あ、と思った隙に、ハルナは巧みに人混みの中に紛れた。
 あいつ……こういう特技も持ってやがったのか。
 「矛盾……ね。ま、無茶を言えば、最初っから全部知ってたって事だろうな。アキトの奴は。この戦争の結果、何が起こるかを……ん?」
 そう一人ごちたとたん、何かが頭の片隅でひらめいた。が、それは具体的な形になる前に、俺の頭の中からこぼれてしまった。
 「ええいくそ、なんか閃いたのに」
 必死になって思い出そうとしても、こういうものは捕まらないと相場が決まっている。
 俺は手元に残っていた肉に八つ当たりすることにした。
 
 
 
 
 
 
 
 >JUN
 
 僕は今、自分で自分のことを不思議に思っていた。
 何しているんだろう、僕は。
 具体的に答えろ、と言われたら、知り合ったばかりの女性と踊っている、と言うのが答えだ。
 くるり、くるり。
 会場の大ホールではなく、そこからの音楽が漏れ聞こえてくるだけの、人通りのない小道の途中。
 そこで僕と彼女は、ずっと踊り続けていた。
 一曲踊ったあと、休憩がてら二人で側のベンチに腰掛け、そのまま会話もない無言の時間が続く。なのにどちらもその場から離れようとはせず、どちらともなく手を伸ばし、再び踊り始める。
 そんなことの繰り返しだった。
 曲は10曲目近くになっている。そして、今回の曲が終わったとき、初めて変化が訪れた。
 「……楽しかったわ」
 言葉の内容と裏腹な、重く、沈んだ声で呟く、彼女。
 「……どうかしましたか?」
 一瞬の沈黙ののち、僕はそう答える。
 「ううん、あなたは何も悪くないわ。ただ、時間が来ただけ。12時の鐘が鳴り始めたの」
 「え? まだそんな時間じゃ」
 そういったあとで僕は気がつく。12時の鐘というのが、本当の時間ではなく、有名な童話からの引用であることに。
 彼女は『時間が来た』と言ったが、12時の鐘の言葉が意味するのは、『時間切れ』。
 だが彼女がこの言葉を引用したことには、もう一つ意味があった。
 不覚にも、その時の僕はそのことを察することが出来なかった。
 彼女はそっと僕に近づき、僕を抱きかかえるような動きをする。
 やや上向きに顔を上げ、両の腕が首の後ろの方に回り込む。
 こ、この体勢は……
 僕の心臓が跳ね上がり、全身にものすごい勢いで血液を送り出す。顔が熱くなるのが実感出来る。
 きっと今の僕の顔を見たら、多分深紅に染まっているだろう事は想像に難くない。
 そして僕の胸に彼女の柔らかいふくらみが押しつけられ、首筋の後ろに彼女の手の感触を感じたとき、
 
 ぱちん
 
 視界が暗転し、目の前に黄色い閃光が走った。
 電気ショック……そう思った瞬間、僕の意識はそのまま暗闇の中に沈んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 >AKITO
 
 疲れた。さすがに疲れた。
 ルリちゃん、ユリカ、サラちゃん、アリサちゃん、エリナさん……見知った顔に次々と相手を請われ、さらに欧州遍歴時代に知り合った幾人かの女性の相手を休みなしにしたのだ。肉体的にはともかく、精神的にものすごく疲れていた。
 だが、とりあえず義理と言えるものは果たした。あとは断っても禍根を残す相手はいないはずだ。
 そう思ってホールの中央から引こうと思ったその時だった。
 『おどっていただけませんか?』
 意識の死角から、絶妙のタイミングで、その声が滑り込んできた。
 つられるように俺は、声の方を見る。
 その瞬間、俺は一瞬呆けた。あるまじき事に。
 初めに飛び込んできたのは、目にも鮮やかな緋色であった。赤毛にはよく『くすんだ』という形容が使われる。だが俺の目に飛び込んできたのは、『光り輝く』としか形容の出来ない、鮮烈な朱であった。
 それを見た瞬間、なぜか俺は一瞬動くことが出来なかった。心を捉えられた――そうとしか言えない衝動が、俺の心を貫いていた。
 そしてそれが解けたあとに飛び込んできたのは、天使の微笑みであった。ユリカより少し若い、言い換えれば俺の今の年齢と同じくらいの、少女と女性の境目に存在していそうな姿。容姿自体もかなり整っていたが、それ以上に、そこに浮かぶ表情に俺は魅了されていた。
 純真無垢。
 それ以外の表現方法を、俺は思いつけなかった。
 周辺で彼女を見ている人物も同様だったのであろう。その瞬間、間違いなく、会場の時は止まっていた。
 そして俺は彼女に誘われるまま、彼女の手を取っていた。
 差し出された手に光る指輪は、大粒のルビー。白い手袋の上の真紅が、髪と肌に対比して、より一層幻想的な雰囲気を高めている。
 「あなたは……」
 俺の口から、意図しない言葉が漏れる。
 「あいてになまえをきくときは、じぶんからなのるんだよ?」
 返ってきたのは、ころころとしたかわいらしい声。その子供っぽさが、一見妙齢にも見えた彼女を、少女の側へと傾ける。
 「アキト。テンカワ アキトだ」
 考えてみると、この場で初めて名乗った。誰もが俺の名を、名乗るまでもなく知っていたからだ。そのせいか、このたわいもない行為が、妙に新鮮だった。
 「あき……えっと、アーくんでいい?」
 と、いきなり気の抜ける返事。少しあっけにとられて俺が頷くと、彼女は続けて、その舌足らずな口調で、自分の名を名乗った。
 「ごめんね、あたし、あんまりあたまよくないから、ひとのなまえ、よくおぼえられないの。あたしはね、シオリ、だよ」
 「シオリちゃん、か」
 「うん。じゃ、おどろ! アーくん」
 俺の頭の中には、文字に表すのが憚られる、ある単語が浮かんでいた。このご時世にこの純真さは、そのためなのかと。だが、そんな俺の内心には気づいた様子も見せず、彼女は俺を誘う。
 そこにタイミングよく音楽が流れてきた。
 そして俺は彼女に導かれるように、最初のステップを踏んでいた。
 
 
 
 くるり、くるり、くるり。
 
 その時の俺には、彼女しか見えていなかった。
 
 たんたったん、たんたったん、たんたったん。
 
 背後に流れるワルツに合わせ、三拍子のステップを踏む。
 それだけが世界の全てになっていた。
 
 くるり、くるり、くるり。
 
 理由はわからない。
 だが、確かにこの時、俺の脳裏から、全てが消えていた。
 無意識のうちに把握していた、周辺の殺気なども、全て消し飛んでいた。
 後で知ったが、この時、踊っていたのは俺たちだけになったそうだ。
 曲を奏でる者達以外は、まるで魅入られたかのように俺たちをただ注目していた、と。
 そこに……
 
 
 
 
 
 
 
 
 ぴしっ
 
 
 
 
 
 
 
 音楽の調和を乱すかすかな異音が、どこかへ行きかけていた俺の精神を現実に引き戻した。
 そして次の瞬間、
 
 
 
 どかあぁぁぁん! どかあぁぁあん! どかあぁぁあん!
 
 
 がっしゃあああああああん!
 
 
 
 立て続けに響き渡る轟音、衝撃で砕けるガラス。
 何かが爆発した音だった。
 
 
 
 「うわあああっ!」
 「きゃああっ!」
 
 悲鳴と怒号が飛び交う中、立ち直った警備の者がVIPの誘導に動く。
 
 「きゃあっ」
 
 そして、俺のすぐ側でも、おびえた彼女が俺にしがみついてきた。
 
 「あ、あれっ!」
 
 上を見つめる彼女。俺の真上にあるシャンデリアがゆらゆらと揺れている。
 だがあれなら落ちるようなことはあるまい、と俺は判断した。
 「大丈夫。あれくらいなら落ちては来ないよ」
 「……本当?」
 「ああ」
 俺に抱きついたまま不安げに上を見る彼女に、そう言い聞かせながら俺はもう一度上を見る。
 その時俺はとんでもないことに気がついた。
 シャンデリアを支える一番太い鎖の根本、そこに何かが置かれている。
 この状況下でそれがなにを意味するかは考えるまでもない。
 もちろん、シャンデリアはその鎖一本で取り付けられているわけではないから、普段ならばそれが致命傷になることはあり得ない。だが今の状況下では……
 その刹那、俺の見ている前で、その怪しげな物体が光を放った。
 規模は小さいが、周辺に高熱を発するタイプの爆弾だ。仕掛けた者の狙いは過たず、トン単位の重量を支えている頑丈な鎖が、明らかにバランスを崩した。
 ぐらり。
 不吉な揺れと共に、贅を尽くしたシャンデリアが傾く。
 そのまま落下することはなかったが、付属品が多数、その真下で踊っていた俺たちの上に降り注いできた。
 
 「あぶないっ!」
 
 俺は抱きついていた彼女をこちらからも抱きかかえると、横っ飛びに飛んだ。
 ワンテンポ遅れて、ガラスの雨が降り注ぐ。
 会場内も大混乱になっていた。
 
 
 
 彼女には、傷一つ付いていなかった。俺の体の下で、おびえたような目で俺を見る。
 俺はそっと身を起こすと、まわりを見渡した。
 混乱はしているようだが、怪我人は大していないみたいだ。
 ちらりと見えたハルナなんぞは、片隅でフォーク片手に料理を平らげている。ここまで泰然自若な所を見せられると、驚きを通り越してあきれ果てる。
 「大丈夫かい」
 俺は目の前の彼女に声を掛ける。
 「はい……ありがとうございます」
 そうして立ち上がろうとする彼女。だが、腰が抜けたのか、「きゃっ」とかわいい悲鳴を上げてへたり込んでしまう。
 「はい」
 俺はそんな彼女の前に、そっと手を差し出した。
 彼女も、ちょっと照れくさそうに、手を伸ばす。
 その時だった。
 
 「痛っ!」
 
 一筋の銀光が、彼女の手の甲を直撃した。
 
 
 
 光は、上の方からなぜか降ってきた大きめのフォークだった。さっきの爆発で飛ばされた物だろうか。あわてて彼女の手を見た俺は、微妙な違和感を感じた。
 それは些細な物。理性以前の領域が発した警戒信号だった。
 俺はとっさに、さしのべられた彼女の手を掴む。正確には手ではなく、手首を。
 びっくりした顔でこちらを見る彼女を無視し、俺は掴んだ手首を捻って、彼女の手のひらが見えるようにした。
 そこには内に向けられて鋭い棘を伸ばしている、あのルビーの指輪の、変わり果てた姿があった。
 「これは……何だ」
 騒ぎの中、再び時が止まっていた。今度は彼女ではなく、俺の放つ殺気によって。
 そして彼女は、そんな俺の黒い気を中和するかのような明るさで言った。
 「すっご〜い。よくわかったね〜。たまたまフォークがぶつかったからって」
 微笑む彼女の顔には、一点の邪気も曇りもない。
 「いや……偶然だ。君の言うとおり、あのアクシデントがなかったら、君の手の中の物は、俺の手に刺さっていたんじゃないかな」
 「そうだよね〜。そうすれば、らくにしねたのにね」
 どこまで行っても、殺気の欠片すらない少女。それは俺から見ても、痛ましいまでに恐ろしい相手と言えた。
 おそらくこの少女は、理解していない。人が死ぬと言うことの重さを。
 それは子供が、無邪気に虫を引きちぎるのと同じ事。あるいは、大人が反射的に蚊をつぶすようなもの。
 もし彼女が、人が死ぬということを、その程度のものとしてしか認識していないとしたら。
 それは。
 
 
 
 「外道……」
 
 
 
 そう自分で呟いた瞬間、俺は彼女を送り込んできたのが誰か、理屈抜きで理解してしまった。そして、俺の頭の中で、理性と感情が激しくぶつかり合った。
 感情は彼女を捕らえよ、最悪殺せ、と訴えかけている。もし彼女が俺の予想通りのものなら、それはとてつもない危険物だ。決して目を離すことは出来ない。
 だが、理性は彼女を見逃せと告げていた。もし彼女が俺の予想通りのものならば、彼女の素性がバレることは、和平の終焉を意味している。
 そしてこの相手は、その逡巡を見逃すほど甘い相手ではなかった。それも俺の予想を遙かに超えて。
 
 
 
 「ん〜。アーくん、ちょっとごめんね」
 
 
 
 そう呟いた彼女が、俺に手首を掴まれたまま、つい、と懐に入り込んできた。と、思った瞬間、俺の体は空中で反転していた。
 木連式柔・羽二重投げ……
 大の男を、まるで極上の絹か何かのように、重さを感じさせずに投げ飛ばす、木連式の奥義の一つだ。かつて柔道の神様と呼ばれた三船久蔵氏が編み出した『空気投げ』を元に、その芸術的とも言われた重心移動を極め尽くし、的確なポイントのみに力を加えることで、こちらの重心を自在に動かしてしまう投げ技である。
 その特性上、この技は掛け手が受け手より小さいほど決めやすい。俺の一瞬の隙を突いて、彼女はその技を決めてきた。
 このまま彼女の手首を掴んでいたら、俺の手首の方が、逆に俺自身の重さで砕かれる羽目になる。かといってうかつに手を離せば、自由になった毒針が俺のむき出しの肌に突き刺さることになる。その狭間にある、刹那の瞬間を量って、俺は彼女の手を解放した。
 それは彼女から加えられる遠心力が最大になる瞬間。結果、俺は派手に投げ飛ばされた形になった。
 転がりながらも受け身を取り、すかさず体勢を立て直す。その時すでに彼女は、割れた窓ガラスの方に走り去っていた。
 「まてっ!」
 そこに立ちはだかる警備員達。さすがはこのために選りすぐられたプロ中のプロ。だが、俺はそこに、とてつもない『ヤバさ』を感じていた。
 
 
 
 「ごめんね」
 
 
 
 そう呟いた彼女は、左手に付けていた、緩い腕輪に手を掛ける。銀色の編み込み模様が美しいそれは、次の瞬間消失していた。
 それが腕輪などではなく、極細の鋼線をテグスのように巻いた代物であると気がついたのは、三人の警備員が、血しぶきと共に倒れたときだった。
 ちらりと見た限り、傷は深いが命に別状はない。それが別段情けを掛けたわけではなく、負傷者を増やすことによって追っ手を減らすという意図であることを、俺は知っていた。
 
 俺も時には同じ手を使ったからだ。
 
 
 
 しかし、そのタイムラグは、俺にとっての好機となった。出遅れた不利をこれによって取り返す。
 そして彼女が、割れた窓にとりついた瞬間、こちらを見て『にこり』と、天使のごとき微笑みを浮かべた。
 しかしそれは俺の背中に悪寒をもたらす。鋼線が来る、と思った矢先に、横合いから何かが彼女の方に向かって飛びかかっていった。
 まずい! あれが人間なら、今度こそ助からない。あの間合いとスピードでは、彼女の技量がいかほどであっても、手加減のしようがないからだ。
 だがそれを止めるまもなく、閃く彼女の鋼線。次の瞬間、肉を切る音と、飛沫があたりにまき散らされた。
 だが、バラバラになったそれを見て、彼女の表情に、ここまで来てなおかわいらしいとしか言いようのない、小さな怒りが浮いていた。
 「あ〜〜〜っ、やられた〜っ!」
 飛んできたのは、大きな鳥の丸焼きであった。たっぷりと脂ののったそれは、彼女の鋼線に、ぬぐい取るのも大変そうな油をまとわりつかせることに成功していた。
 こうなっては鋼線は役に立たない。そこに掛かる、聞き慣れた声。
 「追って! お兄ちゃん!」
 ナイスフォローだ、ハルナ。
 そして舞台は、混乱するダンスホールから、背後に暗く沈む、黒い森へと移っていった。
 
 
 
 
 
 
 
 >NAO
 
 完全に不覚を取った。
 敵……といっても木連とは限らないが、相手の潜入者の方が、どうやら一枚上手だったようだ。俺たちの目をくぐって、これだけの爆発物を仕掛けるとなると、相手はちんけな鼠じゃあない。おそらくはクリムゾンあたりが、かなり手を貸したと見るべきだろう。
 腕はとにかく、爆発物自体を持ち込む方がこの場においては困難だ。俺たちに怪しまれずにそういうモノを持ち込める奴らなぞ、ネルガルかクリムゾンのSS、後連合や国家規模の情報部くらいしかない。で、現在の社会状況から逆算すれば、やりそうなのはクリムゾンくらいだ。
 だが、今更そんなことは関係ない。何はともあれ、VIPの安全確保の方が優先順位が高い。
 そんな中、俺はまわりに注意を向けつつも、最重要VIP……アキトの方をちらりと見た。
 うん、相手の女の子をかばっている。あれなら大丈夫だ。
 そう思った俺は、それに続くVIPである、ピースランド王家の人間や木連使節の方を見る。
 こちらもすでに避難は出来ていた。驚いたことに、木連使節団が、ピースランド王家の子供達を保護しているようにも見える。
 あれならあちらも大丈夫だ。
 で、俺はその次に優先度の高い、ナデシコクルーの保護に向かった。
 
 
 
 「みんな、大丈夫か!」
 「あ、ナオさん、こっちはみんな無事だよ」
 艦長をはじめとして、主なクルーは全員無事だった。さすがに提督達はほかの一般客の保護のために出払っている。上役になっていても、年を食っていても、身に付いた軍人魂はまだまだ燃えさかっているようだ。足の不自由なガトル大将以外は、この混乱の中、声をからして避難誘導をしている。
 中でもオオサキ提督の指揮ぶりは際だっていた。さすがはこの欧州圏で、長年こういう事をやっていただけのことはある。あれなら見た目にかかわらず、人的被害はほとんどないだろう。
 と、最後にハルナの奴がやってきた。ご丁寧に、でっかい肉の塊を抱えたまま。
 「こら馬鹿! いつまでそんなもん抱えているんだ!」
 俺の怒鳴り声に、ハルナはフォークを片手に叫ぶ。
 「だってこの先ヤバそうじゃない! 燃料切れ起こしたらまずそうだし」
 と、言っている側から、転がっていたグラスにけっつまづいた。こけながらも器用に反転し、肉の皿を確保しようとするハルナ。ただ、さすがにフォークがすっ飛んだ。
 が、これが思わぬ余波を生んだ。
 
 「痛っ」
 
 遠くで聞こえた、小さくもかわいらしい悲鳴。その直後、俺はその声の方を振り向いていた。
 ハルナも、こけたままそちらに視線を向ける。
 視界の中では、アキトの奴が、素人でもビビるような殺気を全開にしていた。
 
 
 
 気がつくと、混乱のさなかにもかかわらず、一瞬音が消えた。
 アキトが少女の手首をねじり上げる。相手の少女の手のひらの中で、かすかに光る……針。
 それがなにを意味するのか判らない馬鹿は、ほとんどいなかった。
 と、一瞬少女の姿がぶれる。あっ、と思ったときには、アキトが派手に投げ飛ばされていた。
 脱兎のごとくその場から駆け出す、赤毛の少女。近場の警備員が取り押さえに掛かるが、その瞬間、俺のうなじにどえらい冷気が張り付いた気がした。
 あれは、まずい……
 次の瞬間には、何かがきらめき、向かった男達が三人、血しぶきと共に倒れ伏していた。
 そのまま割れた窓に走り去る彼女。起きあがるやいなやそれを追うアキト。
 このままでは逃げられる、と思った矢先だった。
 「間に合わないか。ええい、もったいないけど!」
 ハルナが皿にのっていた肉の塊を、彼女の方に向かってぶん投げた。
 うまそうな肉が、少女に向かって飛ぶ。それが当たるかと思われたとき、再び銀光が閃いた。
 あっという間に肉が弾け、バラバラになって飛び散る。だがそのため、少女がなにをしたのかが俺にも見て取れた。
 細い糸のようなものだ。おそらくは研ぎ澄まされた鋼線を、鞭のように振るってあの肉の塊を切断したのだ。あの技量なら、人間すら解体しかねない。
 だが、その直後の彼女は、ややふくれたような様子であった。おそらく鋼線に油が付いて、振るいづらくなったのであろう。少女はそのまま窓の外へと姿を消す。
 「追って! お兄ちゃん!」
 そこに掛かるハルナの声。アキトもまた、窓の外へと姿を消した。
 
 
 
 「今の、あれ……」
 みんなが呆然とする中、エリナ女史の口から声が漏れた。
 それがみんなの呪縛を解いた。
 「アキトさん!」
 真っ先に走り出そうとしたのはアリサ。それをサラが後ろから止める。
 「アキト……」
 艦長は心配そうにアキトの消えた窓を見つめる。
 と、そこにオオサキ提督の声が聞こえてきた。
 「皆さん、怪我はないですか! とりあえずこちらに!」
 「ああ、婦女子連は無事だよ……ただ、多分、おとなしくこのまま避難所に籠もるようには見えないけどな」
 俺の言葉に、提督はみんなの方を見た。
 その視線が一点を……アキトの消えた窓の方に向いているのに気がつくと、苦笑いを浮かべながら言った。
 「危険です……といっても、聞きそうにないですね。これは。先ほども避難所で、ルリ姫が大暴れしていましたよ」
 その言葉に、俺たち一同は、全員視線を合わせていた。
 「だろう、なあ……」
 俺のぼやきが、全てを物語っていた。
 と、そのとき。
 「あれ、ハルナはいないのか?」
 オオサキ提督の一言が、俺たちを一気に現実に引き戻した。
 「あのやろう……抜け駆けしやがったな!」
 俺は反射的に、アキト達の消えた方に飛び出していた。
 まわりが止める間もなく。
 背後から何か凄い音がしたような気がしたが、俺は無視してアキト達の後を追った。
 
 
 
 
 
 

 >RURI
 
 私としたことがしくじりました。
 目の前で起こった一連の出来事で、思考回路が麻痺していたとしか思えません。
 アキトさんが見知らぬ女性と踊っていたのは、まあ仕方ないです。
 ですがその後の爆発、混乱、そして……その女性の手に光っていた怪しげな何か。
 私の目には見えませんでしたが、アキトさんの態度と、あの殺気からすれば、問題の女性が刺客であったことは明白です。そして彼女は、取り押さえようとした警備員を謎の何かで迎撃し、ハルナさんの投げた肉塊を解体して逃走しました。
 そして当然のようにそれを追うアキトさん。私も反射的に後を追おうとして……あっさり警備の方に取り押さえられました。
 「危険です、こちらへ!」
 当たり前といえば当たり前ですね。理性では納得出来るのですが、感情の収まりがつきません。
 「アキトさん!」
 今になると恥ずかしいのですが、血が上ってしまった私は、ちょっと錯乱してしまいました。そんな私を見つめる母の目が、ちょっと怖かったような気がしています。
 結局、家族そろって、こういう時のためにある堅牢な控え室に閉じこめられてしまいました。
 でも、どうにも落ち着いていられません。
 いらいらして、私はつい立ち上がってしまいました。
 「どちらへ」
 警備の人がちょっと怖い目で私の方を見ます。私は反射的に、
 「トイレです!」
 と叫んでしまいました。さすがにまわりの人もあっけにとられていました。
 「ルリ、落ち着きなさい」
 と、母にもたしなめられてしまいます。警備の方も真っ赤になってしまいましたし。
 私も少しして、自分が何を言ったかが体の中にしみこんできました。
 顔に血が集まってしまいます。
 「その……こちらへ」
 別室のトイレへ、先ほどの警備員の人が案内してくれました。
 本当にもよおしたわけではないのですが……ここでそういうのも変です。
 恥ずかしながら、私は個室へと入りました。
 
 
 
 かといって何かが出るわけでもありません。私はペーパーで便器の蓋を拭い、気をつけてそこに腰を下ろします。
 ドレスだとやたらに神経を使います。はあ。
 少し落ち着いたものの、どうしましょうか。
 不安といえば不安なのですが……私には何も出来ません。
 とんとん。
 と、その時、ノックの音がしました……へ?
 ここは王家のシェルター内のトイレです。ほかに入ってこれるのは、あの場では母だけのはずです。
 「母、ですか?」
 「はずれ」
 ……!
 思わず息をのみました。外からしたのは、紛れもなくハルナさんの声でした。
 「お兄ちゃんのこと、心配?」
 「……はい」
 驚きましたが、この人にはこうなると何でもありのような気がします。
 「よかったら連れ出してあげようか」
 「そんなことが出来るんですか!」
 さすがに驚きました。ハルナさんが入ってくることは、まあ、ボソンジャンプという裏技も考えられます。でも、私を連れてとなると、どういう事でしょうか。
 「とりあえず出てきて」
 そういわれて、私が個室から出ると、そこには洗面台の下の部分を開けているハルナさんがいました。
 「何しているんですか?」
 「ん、いや、ここにね、非常用の脱出路があるのよ」
 「……どこで知ったんですか、そんな国家機密」
 本当に、どこからそういう情報を仕入れてくるのでしょうか。
 と、私の疑問を無視して、掃除用具入れから、彼女は服のようなものを取り出してきました。
 「ドレスで抜け出すわけにも行かないでしょ。清掃業者の服だけど、これに着替えて」
 と、私の背後に回るやいなや、ドレスの留め金を手早く外してしまいます。
 私が拒否するって言う発想は、頭にないみたいですね……しませんけど。
 彼女は私が脱いだドレスの形を整えると、個室の中につるしました。
 「じゃ、いきましょうか」
 こうして私は、前代未聞の脱走劇をやってのけた姫君になってしまったのでした。
 早まったでしょうか、私は。
 

 

 

その8