とぼとぼと、いい感じにたそがれてガイが夕闇迫る家路を歩いている。
何故かメティがその横に並んで歩いていた。
「ほらぁ、ガイさんいい加減に立ち直りなよ。らしくないよ?」
「・・・・そうは言うけどなぁ」
はぁ、と何回目かわからない溜息をついてガイが腑抜けた返事を返す。
さっきから何回繰り返したかわからないこのやりとりにいい加減疲れたのか、メティの口からも溜息が漏れた。
「俺なんかについてこないでルリちゃんの側にいればよかったのに」
「まぁハーリーもからかえるし、そうしようかと思ったんだけどね。
あんな情けない顔見せられちゃ放っておけないじゃん?」
お開きになった後、こうしてガイといっしょに歩いているのは別に理由があったわけではない。
別にガイと一緒に帰らねばならない用事もなし、むしろルリに付いていようかと思っていたのだが・・・
あからさまに落ち込んでるガイをどうも見捨てるように思えて気が引けたようだった。
もっとも、ガイ本人はそれほど落ち込んでいるつもりはないのだが
メティの目には意気消沈していると映るらしい。
わがままに見えて案外世話好きなあたり、姉と同じ血が確かに流れているようだ。
が、肝心のガイはさっきからこんな状態で、メティがいくら努力してものれんに腕押しである。
それでも諦めず、どうにかして元気付けてやろうと再びメティが口を開きかけた瞬間。
まずメティが、一拍遅れてガイが動いた。
背中合わせになり、それぞれ構えを取る。
さっきまでのたそがれた雰囲気はどこにも無い。
二人とも完全な臨戦体勢だ。
「なんだ、いつのまにか立ち直ってるじゃない」
「まぁ、これだけプンプンと殺気を発してりゃあな。余程鈍くてもチリチリくらぁ。たそがれてる余裕はねぇよ」
「さっすがぁ」
「ったりめぇだ。これでも一応ナデシコファイターの候補だったこともあるんだぜ」
「嘘っ?」
事実である。
デビルホクシン事件が起こる前、ナデシコファイト委員会が通常の手続きを踏んで
ナデシコファイターを選出しようとした際に、ガイの名前も候補者リストに入っていたのだ。
もっとも予備リストの端っこのほうに名前が載っていたというだけの話だが・・・・
それでもガイがネオジャパンで二十番目くらいに強いのは事実だ。
「本当だってばよ。それより何人いるかわかるか? 情けないが全然わからねぇ」
「うん・・・4・・・ううん、5人かな? ・・・・・こいつら、気配消すのが凄い上手いよ」
「・・・・まさかな」
「え、何?」
「なんでもないさ」
この二人、実力こそメティが上だが修羅場をくぐった数はガイのほうが圧倒的に多い。
そのガイのカン・・・言い換えれば経験に裏打ちされた推論の飛躍・・・が囁く。
即ち『なんかよくわからんがヤバい』と。
作戦目標を逃走に設定しつつ、ガイは周囲の気配に全神経を集中させた。
「何をっ!」
アキトが叫び終わる前にホウメイの姿がかき消える。
勿論正確に言えば消えたわけではないし、動きが見えなかったわけでもない。
見えてはいた。だがついていけなかったのだ。
その動きが見えていてなお、アキトは躱し切れない。
辛うじて両腕を十字に交差させ、ホウメイの正拳を受けた。
叩きつけられた拳に両腕が軋み、骨が悲鳴をあげる。
全身を貫く衝撃と力。
ホウメイの勁を文字通り体で感じ、同時にアキトの体は宙に浮いていた。
こうして直接拳を交えるのはギアナ高地以来であったがその拳にはいささかの衰えもない。
それどころかむしろ凄みを増していた。
まだ宙に浮いたままのアキトが幾ばくかの戦慄と共に痺れる腕を左右に開いた瞬間、
吹き飛んで間合いが離れたはずのホウメイが既に目の前にいる。
首を傾けて左からの第二撃を辛うじて躱したと思った瞬間、本能的に動いた右手が第三撃をさばく。
そして第四撃。
「そりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃそりゃあっ!」
拳、拳、拳、拳、拳。
颶風の如く、ホウメイの拳が荒れ狂う。
素人目には何でも無い、ただのパンチである。
だが力に、速さに、技の入りに、繋ぎに、そのいずれにおいても一片の非の打ち所もない。
明鏡止水を会得した今のアキトにして防戦一方。
それですらいつ防御を破られてもおかしくはないと思える、嵐の攻めだった。
圧倒的不利な状況下、アキトは一瞬の勝機を待ってただひたすらに凌ぎ、耐える。
十何発、あるいは何十発目かを見切れず、その頬がざっくりと裂けて鮮血が拳風に散った。
連打はなおも途切れることなく続いている。
重く、早く、正確な打撃。
ただそれだけではあるものの、それだけの事が何より恐ろしい。
けれんもくらましもない、単純な、一切のごまかしが利かぬ真っ向正面からの攻めであるが故に、
技量の差が絶対的なハンデとして重くのしかかるのだ。
無論その真っ直ぐさにつけ込む奇手詭道の類はいくらでもある。
が、それらの技は所詮相手の意表を突き、隙を作るための「だまし」の技でしかない。
だましと見破られれば逆に窮地に陥るイチかバチかのバクチ技だ。
この達人を相手に間違っても軽々しく仕掛けられる技ではない。
けれんで凌ぐには余りにリスクが高く、成功率自体も決して高くはない。
故に不利と知りつつも、真っ向勝負を受けて立たざるを得ない。
そして数十合を攻め続けていながら、ホウメイの拳に隙は全く無かった。
むしろますます疾く、ますます重くなっている。
強い。ただただ純粋に強い。
己の骨の軋む音を聞きながら、今更ながらにアキトは師の強さを実感していた。
力でなら、または技、スピード、スタミナや駆け引きでなら或いは上回るものもいるかもしれない。
しかし、ホウメイよりも強い者をいまだアキトは知らなかった。
ギアナ高地において勝利を得たとは言え、未だアキトの実力そのものはホウメイに及んでいない。
それを痛感する。
力でならリョーコが、技なら舞歌が、スピードでユリカ、スタミナでナオ、
そして結果で見るならば或いはアキトが勝っているかもしれない。
だがそんなことは問題ではない。
今目の前で見せ付けられているホウメイの強さはそのような些事一切を超えたところに在った。
一体何発何十発、それとも何百発の拳を凌ぎ、防いだか。
すでにそんなことは忘れている。知りたければ後で己が肉と骨にでも聞けばよい。
ただ無心でアキトは守りを固める。
たった一瞬の、髪の毛一筋ほどの勝機を見逃さないために。
肝臓に掌打が打ち込まれる。
ガードは間に合わないが、僅かに身をひねって直撃は避けた。
砂を詰めた靴下か何かで思い切り殴られたような衝撃がわき腹を通過していく。
タイムラグ全く無しに左顔面へのフック。
掌打を避けた動きをもう一歩進め、さらに身をひねって外側に体を躱すと同時に
左手で外側から弾き、フックを内側に逸らす。
ホウメイの拳の速度に完全にはついていけず、左の手の平に鞭で撃たれたような痛みが走った。
素手であれば、恐らくアキトの手の平は血塗れになっていただろう。
だが凌いだと思ったその時、アキトは己がホウメイの罠に落ちたことに気が付いた。
フックを逸らされたホウメイの腕の、肘がアキトの眼前にあった。
僅かな踏み込みがあればそれは左眼窩に突き刺さり、アキトは即死するだろう。
アキトの体は二連撃を同じ方向に躱した事によって、僅かに勢いがつきすぎている。
ブレーキをかけるには遅すぎ、アクセルを踏んで通り過ぎるにも僅かに足りない。
右手は遠く離れすぎ、左手はたった今フックをさばくのに使ったばかり。
だが両手の防御と両足の回避と、己の五体の内四までに利を失いながらもなお。
アキトの眼に絶望は浮かんでいなかった。
死を目前に感覚が鋭敏化する。
世界がゆっくりと動き始める。
明鏡止水。
今のアキトの心に、一切の迷いも雑念も無い。
そのアキトは、迫りくる死そのものの打撃に対して僅かに頭を下げ、左を向いた。
視線はそのままなので、自然ホウメイを斜にみるような形になる。
左眼を狙ったホウメイの打撃点が、右眉の僅かに上に修正される。
ゆっくりと進むホウメイの肘が、右眉、頭蓋骨で言えば眼窩の僅かに上に触れる。
皮膚が圧迫され、ホウメイの肘と己の頭蓋骨の間で細胞が潰される。
血管が破れ、筋肉組織が破壊されて行く事さえはっきりとわかった。
薄い顔面の筋肉の抵抗を物ともせずホウメイの肘は進み、頭蓋骨に触れる。
ホウメイの肘の骨とアキトの頭蓋骨が一つになったその一瞬、
ぐるん。
五体のうち最後の一つ、アキトの頭そのものが激しく回転し、ホウメイの肘を捌いていた。
ホウメイの肘が頭蓋を打ち抜く寸前の一刹那、打点を肘と頭蓋との接点としてホウメイの肘を「掴み」、
あらかじめ逆方向にひねった首を思いっきり振る動きによってその打撃の威力を逸らしたのである。
右眼の上に青痣をつけ、軽い脳震盪を起こしながらも、アキトは死の肘を捌き切った。
皮膚が破れて血が滲んでいるが、どうということはない。
逆にホウメイは予想外の手段で肘を捌かれ、体勢を崩していた。
そのまま体を滑らせ、ホウメイの右側面、そして背後の死角へアキトが滑り込む。
だがそれが完全に成功する一瞬前に、ホウメイが身を翻す。
本来であれば、完璧に死角にもぐりこめるタイミングではあったが・・・
やはり無茶をしたアキトも、その動きは精彩を欠いている。
再び、二人は正対していた。
間合いが離れた、と思った瞬間に虚が生まれたのかもしれない。
あるいは目に入る血で集中が途切れたか。
アキトは間を盗まれていた。
気が付いたときには吐息がかかるほど間近にホウメイの顔があり、その右拳がアキトの肝臓の真上に当てられていた。
零距離から放つ、必中必倒の寸剄の体勢。
己の勝利を半ば確信してなお隙のないホウメイの顔に、だが一瞬驚きが走った。
いつのまにか、アキトの右拳もまたホウメイの肝臓の真上に当てられている。
間を盗まれながらも、拳士として鍛えた本能のうちにアキトは師と同じ技の体勢に移行していたのだ。
二つの寸剄が、全く同時に弾けた。
二人の体勢は寸剄を打ち込んだ瞬間のまま、変わっていない。
ぴしり。
次の瞬間、足場が二人の両足を中心にひび割れた。
脆くなっていた地盤は同時に発された勁=力の反動を支えきれず、二人のいた高台が崩れ、
アキトとホウメイはろくに受身も取れないままに十五m下の地面に投げ落とされる。
寸剄のダメージから回復してない体を落下の衝撃が襲い、一瞬呼吸が止まった。
崩れた崖を滑り落ちたせいか、二人の距離が開いていた。
寸剄の打ち合いに続けて落下したダメージは互いに軽くない。
それでも必死に気息を整え、どうにか相対する。
しばらくは構えを取ったままどちらも動けないでいた。
気が付けば、いつのまにかアキトの上半身は満身創痍であった。
裂けた頬を初めとして、シャツに、マントに顔に両腕に、いたる所に裂け目や痣がある。
オープンフィンガーのレザーグラブも左の甲と平の両方がざっくり裂けていた。
眉の上から流れる血が右目を封じ、無理な回転運動をさせた首にもかすかな痛みを覚えている。
ホウメイの連打から受けるはずだった無数の致命傷を防ぎきった、その代償である。
だが一方のホウメイもあれだけの連続攻撃の直後、呼吸を整えない内に仕掛けた所に
カウンター気味に打撃を受けてしまっていた。
差し引いて、双方ダメージは互角。
すなわち、戦いはまだ序章に過ぎない。
赤く染まった夕日が長い影を二つ、大地に落としていた。
対峙。
間合いを開け、いかに達人といえども一呼吸の踏み込みでは拳を打ち込めない距離のまま、
だが視線と構え、僅かな足運びだけで二人は死闘を演じていた。
日が沈んでから、既にかなり経っている。
昇り始めた月の光に照らされて幻の踏み込み、幻の拳と蹴りが二人の間で交錯する。
鋭い踏み込みからホウメイの拳が再び風を巻いて繰り出され、アキトがそれを必死に凌いだ。
一瞬の隙を突いて放ったアキトの足払いを、宙に浮いて蹴り返すことによってホウメイが躱す。
避け切れず、アキトはブロックと同時に大きく転がって間合いを外した。
体勢の崩れていたホウメイも敢えて追わない。
イメージの中の攻防でも互いに致命傷を与えることが出来ず、再び二人は現実に、元の位置に戻る。
そしてまたイメージの中で再開される死闘。
その繰り返しが続いている。
ふと、アキトが一歩右に移動した。
誘いである。
ホウメイも誘いに乗った。対峙したまま同じく左に一歩踏み出す。
そして一歩。
また一歩。
二人の移動する速度が二次曲線を描いて上昇してゆく。
それは速歩になり、疾走になり、それでもなお加速を続ける。
そしてスピードが限界に達したその瞬間、二人は跳躍した。
二人が選んだ舞台は泥の海。
そこに点在する足場は岩や枯死した樹木、あるいは朽ち果てた街灯や埋もれた家の屋根。
だが、その不安定な足場を二人は気にもしていない。
月の光夜の風の中、まるで漫画に出てくる忍者のように、跳躍の軌道が交差した瞬間に必殺の一撃を応酬し、
互いの命を削り取らんとしている。
空中で二人の蹴りが交錯した。
双方共に捌く事が出来ず、腕で受ける。
互いの慣性が相殺され、相対位置が停止した。
地上まで5m。
時間にして0.7秒。
同時に着地して後方に跳ぶまでのその間に、二人の間に交された攻防はきっちり十手を数えた。
その、ことごとくを互いに弾き、捌き、防ぎ、逸らす。
アキトは戸惑っていた。
合わせた拳から不可解な手ごたえが伝わってくる。
拳士としての闘志でもアキトへの殺意でもない。
今まで、ホウメイと拳を合わせたときにはついぞ感じたことのない手ごたえ。
ナデシコファイターは拳を交える事によって互いを知る。
ならばこの不可解な感覚はホウメイの、東方不敗と称えられたファイターの心の現れなのか?
悩みながらも、アキトはその戸惑いをしばらく心に沈めることにした。
もとより余念を抱いて勝てる相手ではない。
再び跳躍の軌道が交差し、一瞬の攻防の幾度目かが始まる。
一瞬でも迷ったのが悪かったか、ホウメイのコンビネーションの最後の一発を捌ききれずに手刀が首筋を浅く裂いた。
心・技・体、いずれをとっても今のアキトに死角はない。
だが力と技を兼ね備える筈のアキトの拳も、ホウメイの持つ強さの前ではむしろ華奢にすら思えた。
何度目かの跳躍の頂点で、鋭く、正確な右正拳をアキトが打ち上げ気味に放った次の瞬間、
ホウメイの正拳が豪快なカウンターとなってその顔面に突き刺さる。
その構図は、かつてギアナ高地でアキトがホウメイに叩き込んだそれと全く同じだった。
殆ど垂直に叩き落されるアキトの直下に、泥の海からぽっかりと顔を出すビルの土台がある。
土ぼこりとコンクリートの破片を盛大に巻き上げ、アキトの体は朽ちた浮島に叩きつけられた。
体が動かない。
それだけを認識し、アキトは目を開いた。
瞼を上げるという、ただそれだけの作業に恐ろしいほどの体力を消耗したような気がする。
目を開けた途端全身に激痛が走り、いっぺんに意識が覚醒した。
呼吸に支障はない。
力の入らない体をどうにか動かし、ダメージを確かめようとしつつも、意識は周囲に向けられている。
不可解だった。
今攻撃を受けていたら、アキトは抵抗も出来ずにとどめを刺されていたはずだ。
その不可解さに怯む心を制し、必死にホウメイの気配を探る。
そのホウメイは、ひとつ離れた浮島の上でアキトを見下ろしていた。
月光が闇の中にその姿を浮かび上がらせている。
漸くその視線に気づき、闘志を込めて睨もうとして愕然とする。
既にその体からは闘気のかけらも感じられなかった。
ただ、ホウメイと拳を合わせたとき感じたあの不可解な気配だけがそこにあった。
「・・・・・・・テンカワ」
沈黙を破ったのはホウメイの方だった。
闘気を発するでも構えを取るでもましてや止めを刺すでもなく、ただ静かにアキトに呼びかけた。
だからだろうか。
ごく自然に、アキトがこう返してしまったのは。
「・・・・・師匠・・・・?」
しばらくの間、再びホウメイは無言だった。
それに圧されるように、アキトもまた口を開けないでいる。
そして、もう一度ホウメイが口を開いたとき。
その目の色は深く静かに沈んでいた。
「テンカワ。これから、お前に聞かなくてはならないことがある」
「・・・・・・・・・・・・・」
「その応え如何によっては・・・・・・・・アタシはお前を殺す」
「!」
バチリ、と二人の間で火花が散った。
僅かな時間、師弟の間に存在したどこか穏やかな空気は雲散霧消し、
再び殺気と殺気がぶつかり合う。
大気が張り詰めた。
今はホウメイも、その目に抜き身の刃のような光を湛えてアキトを見下ろしている。
だが、その口から問いかけが投げかけられることは無かった。
その瞬間、ホウメイが跳ぶ。
一拍遅れてホウメイが立っていた廃ビルを地下から砕き、ホクシンヘッドが現れた。
同時に、周囲の汚泥の海からホクシンヘッドが次々に姿を現す。その数五体。
最初のホクシンヘッドが飛び出した勢いをそのままに天に昇る竜のごとく鎌首をもたげ、
直後今度は振り下ろす。
その真下にアキトが叩き付けられたビルの土台があった。
咄嗟に起き上がり、回避しようとするアキトだがまだ体が言うことを聞かない。
無様によろけ、足をもつれさせて転がった。
「このグズがぁッ!」
一瞬の出来事であった。
「師匠ッ!?」
ホウメイの腕が、よろけてうずくまったアキトを吹き飛ばす。
直後、ホクシンヘッドが土台ごとホウメイを押し潰して泥の海に消えた。
数秒後、衝撃波が来た。
呆然と泥の水面を眺めるアキトの前で急激に水面が盛り上がる。
同時にホクシンヘッドが再び鎌首をもたげ、だがその先についているはずの凶悪な顔はない。
真新しい爆砕面から泥とオイルを撒き散らしつつ、首を失ったホクシンヘッドが空に向かって痙攣する。
その光景を最後に、アキトは水中爆発の衝撃波によって生じた大波に巻き込まれ意識を失った。
信じ難い、というよりむしろ呆気にとられた表情でガイは己の胸から突き出した白刃を見つめていた。
胸を割って顔を出す、ぬらり、と血とは違う色で光る鋼の輝き。
赤いシミがそれを中心にして胸に広がってゆくのは酷く現実感のない光景だった。
全く気配を悟らせることなく、ガイが気がついた時にはもうそれは己の胸にあり、その存在を主張していた。
恐らく、ガイを刺した者はその気になれば九分九厘確実にガイを一撃で仕留められたろう。
だがこれだけ完全な隠形の術を持ちながらも、刺客はあえて更におとりを用いたのだ。
高々ネオジャパン二十位程度が対抗できる道理がなかった。
ふと気づく。真後ろにいたはずのメティは?
自分が刺されているのに何のリアクションも起こさないということは、まさか。
動かぬ体を叱咤し、全精力を振り絞って振り向こうとするガイの耳元で嘲笑を含んだ声が囁いた。
「安心しろ。この小娘は殺さん。バーサーカーシステムとやらの献体として必要なのでな。
・・・・・・・・・・・・・・・・だが、貴様に用はない」
その言葉と共に、ガイの胸を貫いていた鋼鉄が無造作に引き抜かれる。
受身も取れず、ガイは無様に路上に転がった。
体に全く力が入らない。先ほどの刃の色を思い出し、毒か、と気づく。
力を振り絞り、辛うじて顔だけが上がった。
霞む視界の中に、朧な影とそれに抱えられる小柄な影が見える。
表情など見えないのに、そいつが笑ったのが何故かはっきりとわかった。
「先ほどの一撃、咄嗟に急所を外したことに免じてとどめは刺さないでおいてやろう。
獅子は兎を倒すにも全力を尽す。確実に勝てる相手になお確実を期すのが戦いよ。
運良く生き延びられたなら、覚えておくのだな」
くっくっと含み笑いを残し、気配が消える。
闇に沈んだ街路に、ガイとその体から流れる血溜まりだけが影を作っていた。
暗い。
開いた眼にも全くといっていいほど光は入ってこない。
鼻に感じるのは腐臭。
手探りしてみると、コンクリートの壁の棚のように出っ張った所に引っかかっているようだった。
肩から下は水に浸かっているが、立ってみると水は腰までなかった。
次に周囲の様子を伺って見る。
むろん、この闇では周囲の様子など見えよう筈もないが、
水が落ちる音の反響や空気の流れから、アキトの感覚はここがかなり開けた場所だと告げていた。
地下街の、吹き抜けのホールのようなところだったのかもしれない。
その遥か上、中央あたりの天井から泥水が滝のように流れ落ち、濁った音を立てている。
ふと、アキトが頭を巡らせた。
滝の音に掻き消されてしまいそうな、かすかな音。
その音に紛れもない人の気配を感じてアキトが滝の裏に回りこむ。
その歩調が、僅かに平静さを欠いていた。
確かに、そこには呼吸音と人の気配があった。
だが呼吸こそしているものの、その体は先ほどまでのアキトのように水に浸かり動く気配もない。
最悪の事態を想像し、自然に身が強張る。
と、影が身じろぎするのを気配で感じた。
「し・・・」
「テンカワかい。中々しぶといじゃないか」
「っ、・・・・・それはこっちのセリフだ」
思わず「師匠、ご無事でしたか」と口に出そうとしたアキトの言葉を遮るように、
ホウメイの皮肉げな声が響く。
出かけた言葉を途中で途切れさせ、アキトが憎まれ口を返した。
それには構わず、ホウメイは周囲の気配を探る。
「随分落っこちたみたいだね」
「・・・・・ここは一体?」
「昔本土とここらの島を繋いでいた海底鉄道の通路だろう。
確か、何十年か前に廃線になって放棄されてたはずだけど・・・・まぁそんなことはどうでもいい。
問題は、この状況じゃあここも遠からずそのうち水没してしまいそうだって事だね」
見えるわけではないのだろうが、天井を仰いでホウメイがアキトの問いに答える。
もっとも、この達人なら心眼の一つや二つ使えても不思議ではないが。
「なら簡単だ。ナデシコを呼んで・・・・・」
「やめな、このバカ弟子」
「なんだと!」
睨んできた・・・と言うより怒気を叩き付けて来た、と言ったほうが正確だが・・・アキトを睨み返し、
ホウメイが心持ち冷やかに言い返した。
「相変わらずだね。こんなところでナデシコ呼んだら助かる前に生き埋めになっちまうじゃないか。
それくらいのこと、ちっと考えりゃわかるだろう」
「・・・・・・ならどうしろと言うんだ!」
「このまま上に出ても、ホクシンヘッドが待っている。それじゃさっきの繰り返しだからね・・・・
なら、この通路を抜けて本土側に渡るさ。ここは一時休戦だ、テンカワ」
何か口を開きかけたアキトを制するかのように、天井から大きな破片が落ちてきて水音を立てた。
心なしか、滝の音が先程より大きくなっているような気もする。
「どうやら無駄話をしてる暇はないようだね」
「・・・ああ、わかった。地上に出るまで一時休戦だ」
「よし」
言ってホウメイが立ち上がり、直後大きくよろけた。
が、そのまま何もなかったかのようにホールの一方へ向けて歩き始める。
空気の流れでそれを感じ、眉を寄せながらもアキトは無言で師の後に続いた。
泣きじゃくるハーリーをルリが懸命に宥めている。
顔を真っ青にしたミリアは、ナオに支えられて辛うじて真っ直ぐに座っていた。
メティは行方不明、同行していたガイは重傷。
それだけでも極々普通の一般人であるミリアにとって辛い状況ではあるが、
加えて迂闊にもSPの一人が領事館襲撃事件のことを漏らしてしまっている。
今は側に控えるナオの助けを借りてどうにか平静を装っているありさまだった。
もうそろそろ日付が変わろうかという時刻。厳戒態勢の引かれたネオジャパン領事館の一室である。
SPに守られた部屋の中にハーリーとルリ、ミリア、ナオ、そしてリョーコ達が集まっていた。
エリナはネオスウェーデンの関係者と別室で協議中。
プロスとカズシは事後処理のためにパーティ会場に居残り、今こちらに向かっている最中。
ユリカ達はカズシの一存でこのことを伝えていないために今ごろは宿舎に戻った頃だろう。
そして二つ隣の医療室(元はアキトのサポート用に設置された設備である)では
ネオジャパン軍の軍医によるガイの手術が行われていた。
「ハーリー君、男の子でしょう。こう言うときこそ落ち着かなきゃ駄目ですよ。
ガイさんに笑われてしまいます」
「でも・・メティが・・・・兄さんが・・・」
弟分を気丈に励ますルリの言葉も、今はどこか空々しい。
実際、泣きつづけるハーリーには何ら効果も無かった。
はす向かいに座っていたサブロウタが、溜息をつきながら立ち上がる。
周囲の視線が集まる中、次の瞬間ハーリーの頬が音高く鳴っていた。
「ハーリー。おまえ、それでも男か?」
言葉はとにかく、抑えた口調にも表情にも、サブロウタに怒りの感情は見られない。
だが、一種異様な迫力がその体からは感じられた。
一方殴られたハーリーは泣くことも忘れ、頬を抑えて呆然としている。
尤も、呆然としていたのはサブロウタ以外のほぼ全員と言っても良い。
その中で最初に反応したのは殴られた当の本人ではなく、傍らのルリだった。
「何をするんですかサブロウタさん! ハーリー君は・・・」
「ルリちゃんはちょっと黙っててもらえないかな。
こいつぁ、男同士の話なんだ」
珍しく激昂しかけたルリを、やんわりとサブロウタが遮る。
呆然とするハーリーと真剣なものを目に湛えたサブロウタとを交互に見、
やや不承不承、と言った感じながらルリが口をつぐんだ。
やや前かがみになり、サブロウタがハーリーの顔を覗き込むような姿勢になる。
「殴っちまって悪かったな、ハーリー。けどな、今のおまえは見ちゃいられないぜ。
男なら泣くな、なんて事は言わないよ。男だって泣きたい時はいくらでもあるし、そんなときは泣けばいい。
けど泣いていいときと悪いときってのがある。
何かしなくちゃいけないときに、何にもせずに泣いてるのはただの泣き虫だ。
一人前の男なら、どんだけ泣きたくても自分の仕事を、自分にできることをキッチリこなさなくちゃいけない。
男はな、泣いちゃいけないんじゃない。泣いてる暇がないんだ。
ましてや、それで女の子に心配かけるなんてもっての他だぜ」
無言のまま、ぐしゃぐしゃに汚れた顔でハーリーはサブロウタを見上げている。
そのぐしゃぐしゃになった顔をじっと見つめながら、サブロウタがあくまでも真剣な視線を注いでいた。
「で、もういっぺん聞くぞ。お前は一人前の男か、それとも違うのか?」
「僕は・・・・・・・・」
言いよどみはしたものの、もう答えは決まっていた。
肩を抱いていたルリの手を払い、ハーリーがぐしっ、と袖で顔を拭う。
「僕は男です!」
頬に涙の筋をつけ、鼻水を啜りながらではあったが、
きっぱりと、ハーリーは言い切った。
その表情の変化を見ていたルリの目が僅かに見開かれ、ついで視線がサブロウタに向く。
返ってきた、意外なほど男らしい微笑がルリにはひどく好もしく思えた。
恋人の体から伝わって来る感触が微妙に変化したような気がして、
思わずナオは傍らのミリアの顔を覗き込んだ。
顔色は変わってないが、さっきまであんなに頼りなく、儚げだったその体に今は一本芯が通っている。
「そうですよね。泣いてるだけじゃ・・・・落ち込んでいるだけじゃ駄目ですよね。
泣いてるより・・・・・できることがあるなら何かしないと」
「いや、女の子はいいんだぜ? 辛ければ誰かによっかかったっていい。
側に支えてくれる男がいるならなおさらだ」
振り向いたサブロウタの言葉にああ、とナオが頷く。
嬉しそうにミリアが微笑んだ。
「ええ。辛くなったら、また支えてくださいね、ナオさん?」
唐突に、震動が走った。
壁、天井のそこら中に亀裂が走り、次の瞬間前後の通路が崩れ落ちる。
雪隠詰めだ。
「く!」
アキトが舌打ちをひとつ鳴らした。
水位は刻一刻と上がりつづけている。
このままでは溺死は必死。
だが、これだけ脆くなった構造物を一部でも拳で砕けば連鎖的崩壊により生き埋め。
まさに死地。絶体絶命であった。
「ままよ・・・!」
イチかバチか、生き埋め覚悟で拳を握った。
座して死すより打って出よ、と言わんばかりに弟子が腰を落として突きの姿勢を取る瞬間、
師のむしろ穏やかな声がそれを止めた。
「慌てるでないよ。ここはあたしに任せてもらおうか」
「東方不敗・・・・・!?」
一瞬、アキトは己の目を疑った。
先ほどの姿が嘘のように、ホウメイのその全身に力がみなぎっている。
いや、それどころかその体は闇の中でおぼろげに光を発しているようにも見えた。
何かを感じ、アキトが一歩後ずさる。
「・・・・・・」
「覚えているかいテンカワ。昔、このように追い詰められたときがあった・・・・・
そしてそのときも、この流派東方不敗最終奥義を放ったはず・・・・・」
ホウメイが目を閉じ、構える。掌を開いた右腕を前に突き出す。
その手に光の粒子が集まってゆく。
輝きが直視できないほどになったとき、ホウメイの目がくわっと開かれた。
「その名は石破!天驚拳!」
一瞬、ホウメイの右拳が膨張したかに見えた。
拳から放たれた次の瞬間、握り拳の形をしていた『気』の塊が掌の形を取って大きく開いた。
そのまま吸い込まれるように壁に密着し、2mあまりの輝く大きな手形を残す。
その光が消えたとき、掌の触れた部分以外には傷ひとつつけず、
コンクリートの壁は手の平の形に綺麗に抉り抜かれていた。
破砕されたはずの壁の断面が、花崗岩の石材のような滑らかでつるりとした曲面を見せている。
中に入っていた鉄筋に至っては、断面が刃物の如き鋭利な輝きを放っていた。
元からひびが入っていた部分、指と指の隙間に当たる部分が僅かに崩落したが、
それ以上構造が崩壊することはない。
胸まで来ていた水が、ホウメイの開けた大穴から急速に流れ出していった。
「覚えている、覚えているぞ・・・! あの時も同じだった・・・」
(俺は・・・この人に命を救われたんだ・・・!)
アキトの脳裏に、七年前の光景が鮮やかに甦った。
ホウメイとの修行の旅の途中、師とはぐれてしまったアキトは飢えた狼の大群に襲われたことがある。
まだ未熟なアキトは恐怖に負け、あろう事か足をすくませた。
それを敏感に察知し、狼が一斉に襲い掛かる。
『死』を感じたその瞬間。
ホウメイの放った石破天驚拳が一瞬にして狼の群れを吹き散らし、アキトを救ったのだ。
顔を輝かせたアキトをホウメイは一喝したものである。
「未熟者! 武闘家たる者、拳から一時たりとも気を抜くベからず!
でなければこの石破天驚拳を修得するなど夢のまた夢!」
そして今、アキトは再び流派東方不敗の秘技を目の当たりにした。
「・・・師匠・・・」
「遂にこの技だけはお前に伝えられなかったね・・・。お前はあの頃から何も変わっちゃいない。
目先の事に囚われすぐに己を見失い、一番大切な事を忘れる。
全く・・・・いや、無駄話が過ぎたかね。急ごうか・・・・・・うくっ!」
「師匠!大丈夫ですか!」
先ほどよりも大きくホウメイがバランスを崩し、よろける。
すかさずアキトがその体を支えた。
一瞬、ホウメイとアキトの視線が絡み合う。
「済まないね・・・」
「・・・・。無駄口を利いている暇は無いんだろう。行くぞ。」
ぶっきらぼうに言い、ホウメイに肩を貸しながらアキトは歩き出した。
「ふん」
「・・・・なんだ?」
「お前をあたしが助けるならともかく、まさかこんな風にお前に助けられるようになるとは。
アタシもヤキが回ったかね」
「助けたわけじゃない。こんなつまらない事で死なれたら俺がアンタを倒せなくなる。
ただそれだけの事、恩に着られちゃ迷惑だな」
可能な限りの素っ気無さを装い、アキトがホウメイの言を否定する。
知らず、ホウメイの唇が笑みを刻んだ。
暗闇で見えぬながらも気配でそれを察したか、アキトが今度はむっつりとした顔になる。
「何を笑っている」
「別に。笑ってなんかいないよ」
「下手な嘘を」
「アンタほどじゃないさ」
辛そうな様子はそのままだが、どこか楽しげにホウメイが返す。
アキトの眉間に寄った皺がまた少し深くなった。
「迷惑で思い出したが」
「ん?」
「助けたというなら、地上でアンタが俺を助けたのが先だろう。余計なお世話をしてくれたもんだ」
その言い草にふふ、と今度こそ声に出してホウメイが笑った。
「だったらそれはアタシも同じさ。こんなつまらない事で死なれたらアタシがアンタに引導を渡せなくなるだろ。
ただそれだけの事、恩に着られちゃ迷惑さね」
先ほどの自分の言葉を返されたアキトが黙り込み、それを最後に会話が途絶える。
アキトはむっつりと、ホウメイはどこか笑みめいたものを浮かべながら無言で歩きつづけた。
黙々と二人は歩きつづけた。
泥水に浸かった通路を階段を上り、行き止まりに当たっては後戻りして迂回路を探す。
時には泥水の中を泳ぎ、閉ざされた扉を拳で突き破った。
水に腰まで浸かり数時間、泥だらけになりながら二人は歩きつづけた。
さすがのアキトが体の芯にまとわりつく疲労を感じ始めた頃、
ホウメイが思い出したように口を開いた。
そのどこか熱を帯びた表情にも明らかな疲労と消耗が伺える。
「そう言えばテンカワ・・・さっき聞かなきゃならないことがあるって言ったね」
「今は一時休戦中のはずだろう。その話はよせ」
前を向いたまま、アキトが素っ気無くホウメイの話を遮る。
だが、ホウメイも引かない。
「いや・・・・どうしても今のうちに聞いておかなきゃならない事なんだよ。
どうしても、今のうちに・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
一種鬼気迫るホウメイの迫力に押され、アキトが口をつぐんだ。
それを無言の了解ととったか、一拍おいてホウメイが口を開く。
「あの光景」
「は?」
「見ただろう。あの島の全土に広がっていたあの光景を。
あれを、おまえはなんと見る」
一瞬だけ考えてから、アキトははっきりと、短く答えを口にした。
「骸、と見えました」
「骸、かい」
「はい」
その答えは、百点満点とは言わないまでもある程度ホウメイを満足させるものだったらしい。
荒い息をつきながら、ポツリとホウメイが呟く。
「あれは破滅だ」
「・・・破滅?」
「そうだ、破滅だ。
ネオホンコン、地上最大の繁栄に沸くこの街のもう一つの顔がこれだ。
華やかに装うその裏側は腐り切って、今にも内側から崩れ落ちんとしている。
あれこそ、あれこそがこの世界を蝕む病魔そのものの姿さ。
ネオホンコンだけじゃあない。世界中、どこもかしこもそれは確実に迫っている。
しかし人々は迫り来る破滅から目を背けナデシコファイトに浮かれている。
ねえテンカワ・・・人間ってのはつくづく度しがたい生き物だとは思わないかい。
人間など、もはやこの地球には無用の存在・・・・・!
だからこそ・・・だからこそアタシは・・・・・・・・・!」
うわ言のように、突然アキトが立ち止まるまでホウメイは喋り続けた。
気がつくと、今までの地下通路とは明らかに違う場所に出ていた。
弟子に倣ってホウメイも周囲をうかがう。
真っ直ぐな、広く大きい通路だった。
天井は高く、反響する音も遠くから聞こえてくる。
この場所にホウメイには見覚えがあった。
かつて彼女が生まれる前、ここは地下街の目抜き通りだった。
ホウメイが修行の旅に出る頃は既に半ばスラムと言えそうなほど寂れてはいたものの、
彼女の祖母は往年の賑やかさを懐かしそうに語っていたものだ・・・・・・・。
感傷を振り払い、ホウメイが記憶の糸を手繰る。
この通りの深さは地上から10mもなかった筈。
真っ直ぐに進めばなだらかな階段を経てそのまま地上に通じるが、
当然脇道の幾つかにも地上に直通する階段があったはずだ・・・・
と、そこまで思い出した時。
再び地下通路全体に震動が走った。
脇道から、そして天井から水が噴出してきた。
腰までだった水があっという間に胸を過ぎ、足が立たなくなる。
「何っ! またか!?」
「泳ぐよテンカワ! この通りの端に地上への出口がある! 急げ!」
言って、そのままボロボロの体に鞭打って全力で泳ぎ始める。
アキトも慌ててその後に続いた。
必死で水を掻く。
水が天井まで来るのが早いか、二人が通路の端まで泳ぎきって地上にたどり着くのが早いか。
幸いアーケード風になっていて天井は結構高いとはいえ、到底のんびりはしていられない。
ここまで来て溺死するのは真っ平御免だった。
水を掻いていた手が敷き詰められたタイルにぶつかる。
息を切らせながらアキトは立ち上がり、そして我が目を疑った。
出口がない。
階段の続く先は壁になっていた。
続いて上がってきた師を振り返るが、ホウメイも驚きを隠せない。
ホウメイも、勿論アキトも知らないことだったが、この壁は倒壊した巨大なビルディングの屋上であり、
それが運悪く地下通路の出口にすっぽりとはまりこんでしまっているのだった。
「師匠!」
「こうなれば、今度こそ拳に物を言わせるときだよテンカワ!」
「はいっ!」
思い切りのいい返事を返し、正面に向き直る。
ひたひたと水が足元に迫る中、二人が思い思いの構えから深く息を吸う。
次の瞬間、オフィスビルだった物体の上半分が丸ごと破砕されて飛散し、崩れ落ちた。
風化したビルの列、ひび割れたアスファルト、荒涼たる大地。
それを見下ろすのは空の月と星たちだけ。
コンクリートの樹を植えられアスファルトで塗り固められたその大地は
喩え人がいなくなっても自然の恵みを取り戻すことはなく、
無数の人が往来していたであろう町並みも、今は荒涼とした廃墟以外の何物でもない。
そのかつて街だった廃墟の中央。繁華街だったその一角で、大地が爆ぜた。
半ばから折れ、大地に突き刺さっていたオフィスビルが地下からの圧倒的な力に押し上げられ、
あたかも火山の噴火のように爆発し、空中に巻き上げられ、飛散する。
流石に規模では本物の噴火には及びもつかないが、
それでもその光景には巨大な力への畏敬を呼び覚ますような何かがあった。
噴火に巻き上げられた破片に混じり、二つの影が火山弾のごとく「噴火口」から飛び出す。
無数の破片が舞う中、二つの影は廃墟の一つ、崩れたビルの残骸に見事に着地する。
直後、ホウメイがバランスを崩し、膝を突いた。
「師匠! 大丈夫ですか!」
「どうやら命拾いをしたようだね・・・・・・・」
不敵な笑みを浮かべるホウメイも、流石に消耗を隠せない。
しかし気遣おうとするアキトを制し、どこにこんな力がと思わせるほどの一喝がその喉から放たれる。
「だが気を抜くんじゃないよ、テンカワ!」
そう叫んだか叫ばないか、巨大な影がアスファルトを突き破って飛び出してくる。
醜悪な乱杭歯が、月光を反射して金属質の輝きを放っていた。
「ホクシンヘッド! 先回りしていたか!」
「やはりね。・・・あの震動もこいつ等の仕業だろうさ!」
言う間にも次々と大地を、或いは海面を割って醜悪な人頭の大蛇が姿を現す。
だが、アキトもホウメイも続けて不覚を取るほどの未熟ではない。
「出ろぉぉぉっ! ゴッドナデシコッ!」
「来いっ! 風雲再起!」
今度こそ、アキトの指が鋭く鳴り響いた。
海が渦を巻いた。アキトの呼び掛けに応え、渦の中央からゴッドナデシコがその姿を現す。
漸くその力を存分に振るえるという予感に、そのボディが震えているようにも見えた。
そしてまた、白みかけた空のかなたから。
天将の乗る白雲のごとく、マスターナデシコを乗せて天駆ける白い台座が飛来する。
「来たねラピス! アタシの足となって戦っておくれ!」
轟!
黒き鎧マスターナデシコをホウメイがまとい、
アキトの妹弟子ラピスラズリが操る白い台座は馬頭と4本の足を生やし、白き天馬“風雲再起”となる。
空中におけるその機動力は、ホウメイの消耗を補ってなお余りある。
剣術で言えばいまだ目録止まりとは言え、ラピスも伊達に流派東方不敗を修めてはいない。
なおかつその天心通は、騎手との完璧な意思疎通を可能にせしめる。
まさしく人馬一体の境地であった。
応援を呼んだのか、ホクシンヘッドは先程よりもその数を増やしている。
ゴッド、マスター双方に数匹ずつが群がり、そのボディを食らい尽さんと牙を剥いた。
伸ばしたマスタークロスを豪快に振り回し、ホウメイが風雲再起を駆る。
その姿はさながら三国志の英雄豪傑のごとく、
襲い来るホクシンヘッドを身の丈の倍ほどに伸ばしたマスタークロスで当たるを幸いと
打ち倒し、叩き伏せ、切り払い、突き伏せる。
ホクシンヘッドも知恵をつけたのか、タイミングを合わせて攻撃してくるために
一撃必殺には至っていないがそれでも到底ホウメイとラピスの敵ではない。
ホクシンヘッド五体同時の攻撃を躱し、最後の一体とすれ違いざまに鋭く振るった一槍がその顔を横に両断し、返す一振りが首を絶った。
爆散するホクシンヘッドに見向きもせず、一体の人馬は駆け抜ける。
ホクシンヘッド、残り九体。
ホクシンヘッドの速度など、風雲再起を駆るマスターナデシコの前には亀にも等しい。
追いすがれるかどうかの微妙なスピードで残り4匹をある程度引き付けると
風雲再起ほどの機動力を持たず、いまだに5体を相手にしているゴッドの脇をすり抜けて一気に引き離す。
自然、マスターナデシコの追跡を諦めたホクシンヘッドがゴッドに集中した。
いきなり倍に増えた首の攻撃を辛うじてアキトが捌く。
「東方不敗、何を!」
当のホウメイは距離を取ったところで手綱を引き、馬首を返して苦戦するアキトのほうを振り向いた。
ゴッドのコクピット内にモニタが開き、ホウメイがアキトを叱咤する。
「テンカワ! 石破天驚拳、今こそ撃って見せい!」
「! はいっ!」
一瞬その目が大きく開かれ、ついで表情が引き締められる。
上下左右から次々と襲い掛かるホクシンヘッドをいなしつつ、一瞬の隙を突いて包囲網を突破。
更に全推力を叩き込み、ゴッドに急上昇をかけさせる。
その背中に6枚の放熱フィンが展開し、胸のエネルギーマルチプライヤーが開く。
キング・オブ・ハート。紋章が胸に燃える。
おりしも水平線から曙光が差した。
「流派東方不敗が・・・・・・!」
足を大きく開き、腰を落とす。
拳を握った両腕を脇にひきつけ、目を閉じる。
右手を開き、掌を突き出す。
握ったままの左腕を僅かに引いた。
「最終奥義・・・・・・・・・・・!」
日の光がボディを照らすのに呼応したかのように、その右掌に光の粒子が集まり始める。
狼を吹き散らしたあの時。そして壁を打ち抜いたときに師が取っていたものと寸分たがわぬ構えそして光。
ホウメイの目が僅かに細められた。
アキトが胸の前の何かを包むように両手をかざす。
収束する光の粒子と、胸に燃える王者の紋章がごく自然に重なった。
全推力を使い、一直線に上昇しているゴッドナデシコを同じく一直線に追うホクシンヘッド達。
自然、その陣形はアキトから見ればひとかたまりになっているように見える。
明鏡止水。されどその手は烈火の如く、極限まで高めた闘志を解き放つ。
「石破! 天驚拳っ!」
キング・オブ・ハートの紋章をそのうちに宿した小さな太陽。
直撃しなかったものもそれが放つフレアに触れた瞬間、内部から爆ぜるように連鎖的に崩壊し爆散していく。
五秒後、そこには火の粉のように飛散し、消滅する光の粒子が朝日に煌いてかすかに残っているだけだった。
アキトは、たった今起きた出来事がまだ信じられぬ面持ちで己の両手を見る。
「で・・・出来た・・・・!」
「テンカワ」
弾かれたようにアキトが振り向いた。
朝の光の中に、風雲再起を駆り悠然と浮かぶマスターナデシコ。
ホウメイの、ただ真摯な眼差しが自分を見ていた。
「流派東方不敗最終奥義・石破天驚拳、確かに伝授したよ」
「師匠・・・」
「その技あらば、ナデシコシュピーゲルとの戦いにも遅れは取るまい」
「待って下さい! 俺はまだ、師匠に聞きたいことが・・・」
言い募るアキトを一喝するホウメイ。
「いいか! この廃墟と化した街を! 人類の黄昏の光景を! 胸に刻んでおけ!
バトルロイヤルで会おうぞ!」
そのまま風雲再起を駆り、あっという間にマスターナデシコは見えなくなる。
その寸前、妹弟子が送ってきた別れの挨拶にも気づかぬまま、アキトは只ホウメイの言葉を反芻していた。
「・・・人類の・・・黄昏・・・・・」
改めて見れば足元に、見渡す限りに広がろうかという廃墟がある。
だが、今のアキトにはそれがまるで、どこまでも連なる墓標の列の様にも見えた。