フーケを見送ったその後。
結局、リリスの還魂(カドルト)の詠唱が森に響くまでには随分と時間がかかった。
日は随分と傾き、これからでは学院に戻る前に日が沈むだろう。
ショウとワルドはさすがに疲れ果てて、ゴーレムの土山にもたれ掛かって座り込んでいる。
リリスの還魂(カドルト)によってヤンの首が胴体と癒着し、失った血が再び脈打ち始めた心臓によって身体の隅々にまで行き渡る。
ワルドにとっては二度目に目にする奇跡であったが、今の彼はそれどころではなかった。

(なんと言う事だ・・・よく考えてみればどさくさ紛れにショウを始末しておくチャンスだったではないか!?
 フーケとてあそこで強硬に主張しておけば、後腐れ無く証拠を隠滅できたろうに・・・)

とは言え、フーケに関しては捨て置いてもさほど問題は無かろうと考えているワルドである。ルイズを殺しかけた事については後日必ずやツケを支払わせてやると決心しているが、それはそれ。それよりも問題はショウだ。
ショウが気絶している内に掘り出してとどめを刺しておけば、あの恐るべき使い魔に労せずして勝利できたはずである。
うっかり傷つけてしまったなりなんなり、言い訳はいくらでも利くし、なんならフーケの仕業に見せかける事も可能だったはず。それが事実かどうかはともかくとして、少なくともワルドにはそう思えた。
無論、ショウが居なくなればルイズが無条件に自分を頼ってくれると考えているワルドには、実行していた場合のリスクはまるで見えていない。
ルイズの事で頭がいっぱいだったあの状態ではそんな事は思いついたはずがなく、また下手に時間を掛ければルイズが窒息ないし圧死していたかも知れないという事実も彼の頭からはすっぽり抜け落ちている。
結局の所、悪ぶってはいても中途半端に善良で、世の中の裏を知ったつもりでも中途半端に純粋で、冷酷無比なつもりで中途半端に熱血な、「計算高い策士」には到底なりきれない男なのである。
とは言え当人にはそんな自覚はかけらほどもなく、ワルドは苦悶の中で自問自答し続けていた。

「くそっ・・・何故僕はこんな簡単な事を見落としていたんだ・・・!」
「坊やだからさ」
「ぬぐっ!?」

寸鉄ワルドを刺したのは、リリスを連れていつの間にか目の前に来ていたタバサであった。
向こうではキュルケが蘇生したヤンと早速いちゃついているが、無論そんな物はワルドの意識の外にある。
鼻白むワルドにびっ、と指を突きつける。

「だが、そんな事はどうでもいい」
「どうでもよくないっ! どこから聞いていた!?」

逆上しかかり、いつの間にか周囲から視線を集めているのに気づいて咳払いをする。

「ま、まぁそれはともかく。一体何の用かね、ミス・タバサ」
「それほど大したことではない。ただ、女性の好みがロリ巨乳というのは余り褒められた趣味ではないと言いに来ただけ」

ワルドがひくっ、としゃっくりのような奇音を発した。
動揺しながら否定しようとして周囲からの視線が明らかに真っ白なそれか、良くても半信半疑であることに気づき、内心でさらに動揺する。
余裕を見せるために気障に帽子のズレを直そうとしたが、明らかにその手は震えていた。
まぁ意中の女性に「やっぱり・・」という目で見られれば仕方のない所はあるだろう。
しかもそれがワルドにとっては母親に自分のひた隠しにしていた性的嗜好を知られてしまったのにも等しいとなればなおさらである。

「ち、違うッ!」
「その動揺、どうやら語るに落ちたようだねワルドくん」
「違うと言ってるだろうっ!」

やれやれと言わんばかりに、わざとらしく肩をすくめてため息をつくタバサ。青筋を立て、ワルドがそれを否定する。

「大体だ、そこまで言い切るなら何か証拠はあるのか、証拠は!」
「まあ、真犯人は大体はっきりと推理を述べられないと諦めないのがお約束ではある」
「誰が犯人だ!?」

盛大に唾を飛ばすワルドをいっそ見事にスルーしつつ、タバサがぴっと指を立てた。

「ひとつ。先ほど、あなたは私を洗濯板と言い捨てた」
「い、言ったかなそんな失礼な事を?」

タバサの目が一瞬だけ絶対零度のカミソリのような光を帯びた。
が、すぐにそれを打ち消し言葉を続ける。

「加えてあなたはその直後、キュルケのお尻を思う存分揉みしだいた」
「ええ、そうよねぇ。お尻を好き放題揉まれた挙げ句『これじゃない』と吐き捨てるように言われたのはショックでしたわぁ」
「この証言で明らかなように、被告は肉付きのいい臀部を好まない。過去の言動から推測するに、彼の好みはあくまで子供のような細くて肉の付いていないお尻なのだと思われる」

嫌な圧力を増したルイズの視線と、こちらは混じりっけなしの殺意を込めたヤンの視線を意識して脂汗を垂らしつつ、ワルドがそれでも反論を試みる。

「あ、あれはあくまでルイズじゃないという事であって、それに失礼な事を言ったのは謝罪するが、あの時はルイズを助けようと必死になって切羽詰まっていたから余裕がなかったのであって・・」
「異議ありっ!」

タバサの指がワルドに突きつけられた。眼鏡がきらりと光る。

「人間、切羽詰まっているからこそ本音が出るもの! あの時の、汚らわしい物に触れたかのような表情は、豊満な臀部に嫌悪感を持っていなければありえないっ!」
「そ、それはっ!」

物には勢いという物がある。言ってる事が無茶苦茶でも、勢いさえあれば通ってしまう事もある。まさにタバサの弁論がそれだった。
この時ワルドに最も必要だったのは、男には抗しがたい女性の勢いを受け流すための人生経験だったかも知れない。
無論、筋金入りのマザコンであるワルドにそんな経験を積む余地は全くなかったのだが。
そして彼がうろたえている間にタバサはとどめの一撃を用意していた。

「そして以上の二点を考慮すれば自ずと答えは明らかになる・・・つまりあなたの真の嗜好は子供体型でありながら胸だけは子供ではない女性! 即ちロリ巨乳!」
「ち、違う違う違う! 違うんだっ!」
「違うというなら何故私の事を洗濯板と言い捨てたのか? 単に幼児体型が好きであれば平たい胸を厭いはしないはず。しかし幼児体型自体は好んでいる・・ならば、双方を満たす答えは『豊満な胸の幼児体型』しかない!」

そもそも何で幼児体型が趣味だという事にされてしまっているのかまず突っ込むべきであったが、全く心当たりが無いわけでもないので反論しようにも出来ないワルドである。
それでもここで反論しなければルイズから一生さげすみの目で見られてしまうかも知れない。それを想像してほんの少しだけゾクゾクしたものの、やはりワルドには即座に否定する以外の選択肢はなかった。

「そ、そんなことは無いともルイズ!」
「ならば被告ワルドはそれを立証しなくてはならない。法廷では、常に主張する側に立証責任がある」

いつの間に法廷になったんだという野暮な突っ込みは誰もしない。
それを最も主張すべきワルドは完全にテンパッていて、それどころではなかった。

「ならそうでない事をしっかりと理解してもらおう! いいね、ルイズ!?」

見えない何かに追い詰められて必死になっているワルドに、ルイズが顔を引きつらせながらも頷いた。

「いいかいルイズ! 胸は大きい方がいいだなどと言っている内は所詮子供だ! どれほど小振りであろうとも、けして無にはならぬ微妙な線の作り出す玄妙なる色香・・・それこそ女性として極めた先にある境地なんだよ!
 そう、小乳こそ究極の乳! ならばもはや育たない君の乳は即ち最高の淑女へのパスポート!
 あちらのタバサ君には先ほど失礼な事を言ってしまったが、彼女は小乳ではなくもはや無乳故に究極たる資格を失っているんだっ!」

ひくっ、とルイズの口元が痙攣した。
一方タバサは普段以上に無表情になっている。顔だけ見れば、であるが。

「・・・・・・・・・・」
「タ、タバサ。落ち着きましょ。ね?」

冬の永久凍土のごとき静かな怒気に怯えながらも、それをなだめようとするリリスである。
その間にもワルドの暴走は止まる所を知らない。

「無論胸だけで女性を判断するのは誤りだ! 小胸はあくまで最高の淑女へのパスポートに過ぎない!
 もう一つ必要な物、それは触れれば折れそうなほどの柳腰! 小胸こそが究極の乳ならばこれこそ至高の腰周り!
 そして究極の貧乳と至高の柳腰! この二つが合わさる事によって女性の肉体は絶対の美へと昇華されるんだっ!
 撫で肩! 小胸! 柳腰!
 どんな画家でも再現できない最高のラインを持つ眉、程良く切れ上がった目尻、金の針のようなまつげ、控えめに存在を主張する耳たぶ、繊細な造形の顎骨、美しい曲線を描くうなじとそこから続く肩へのライン、ほっそりと浮き出た鎖骨!
 ブラウスに隠されながらもその慎ましげな存在感を発してやまない脇の下、白柳を削りだしたような二の腕、力一杯つかんだら折れてしまいそうな細い手首、しゃぶりつきたくなるような指先!
 思わずかぶりつきたくなるような太もも、なだらかにしてしなやかなふくらはぎ、思わずぞくりと来るようなくるぶし、靴と靴下の中に隠された真っ白な足の指!
 それら全てが高いレベルでの調和を取ってこそ女性の美しさは絶対にして永遠となるのだ! そう、ルイズ、まさしく君のようにっ!」

もはや全員どん引きなのにも気づかず、ワルドの熱弁は続く。
単にスレンダーな女性が好きだとか小柄な女性が好きだとかそう言えばいい物を、余計な事を言って墓穴を掘るという生きた見本であった。
とは言え、ルイズを説得する以外にも彼には熱を込めて語らざるを得ない理由がある。
実の所ワルドの母親も彼が熱く語るような、いわゆる撫で肩柳腰の細身の美人であった。つまり、彼が主張しているのは結局の所「自分の母親はどんなに美しかったか」という事なのである。
言葉に熱が入るのも、本人的には仕方のない事だったと言うしかない。

閑話休題。

ふるふると、ルイズがうつむいて震えている。
熱弁を振るった勢いのまま己の言葉に些か酔っていたワルドにとって、それは自分の美を賞賛されて感動に打ち震えている姿にしか見えなかった。

「わ・・ワルド様・・・」
「ああ、分かってくれたかいルイズっ! このジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド、亡き母にかけて誓おう! 僕が愛しているのは・・・・」

がばりと勢いよく顔を上げるルイズ。その顔は茹で蛸のように真っ赤だった。

「ワルド様の変態っ! ド変態っ! de変態っ!」

どさくさ紛れに愛の誓いを立てようとしていたワルドの顔が、ぴしり、と固まった。

「ちなみに『de』はガリア語の接頭辞で、短く『ドゥ』と発音する」
「誰に説明してるのよタバサ」

そんな会話を交わす二人の視線の先では、ルイズがワルドに詰め寄っていた。相当に興奮しているらしく、もうルイズ本人も何を言っているか分かっていないようにも見える。
そして詰め寄られるワルドの表情は、タバサにロリコン呼ばわりされた時以上に追い詰められたものだった。
タバサが口元を押さえた。その手の下に、にまぁ、とでも表現すべき笑みが浮かぶ。リリスは勿論、キュルケも見た事がないような、暗い喜びをたたえた顔。悪趣味な感性の持ち主なら小悪魔のように可愛いと評するかも知れない。
その笑みを見て、リリスの脳裏に走る物があった。

「・・・ねぇ、タバサ。ひょっとしてわざと? 最初から全部わざとなの?」
「ふ」

無言のまま、タバサの暗い笑みだけが深くなる。その視線の先で、ワルドが滅多打ちにされていた。

「変態っ! ド変態っ! der変態っ!」
「ルイズ、話を!」
「ちなみに『der』はゲルマニア語の接頭辞で、『ダー』と発音する」
「だから誰に説明してるのよあなたは」

「変態っ! ド変態っ! EL変態っ!」
「頼むルイズ、話を聞いてくれっ!」
「『EL』は南方諸国語の接頭辞で、『エル』と」
「だから〜」

「変態っ! ド変態っ! 大変態っ!」
「ル、ルイズ!」

「変態っ! ド変態っ! 変態大人(ターレン)っ!」
「あ・・・」

「変態っ! ド変態っ! THE HENTAI!」
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああっ!」

何かがとどめの一言になったらしい。その瞬間、何かが木端微塵に砕け散った音が、少なくともワルドにははっきりと聞こえた。
頭を抱えたワルドの悲痛な絶叫に、びくりとルイズが震える。

「はは・・・ふふふ・・・・ふははははははははははははは!」

絶叫に取って代わった高笑いが、低く重くその場に響いた。
よくわからない激情のままにワルドをののしり続けてしまったが、ひょっとしてやり過ぎたかも知れない。
例え変態であっても、ルイズにとってワルドは幼少期の憧れの王子様であり、カトレア以外では魔法の使えない自分を唯一かばい続けてくれた人間なのである。
ついつい罵倒に力が――ちょっぴり、そう、ほんのちょっぴり力が入ってしまったが、ワルドを傷つけるのはルイズの本意ではなかった。

「あ、あの、ワルド様?」

こわごわと呼びかけるルイズ。ワルドはただ壊れた高笑いを続けている。

「ねえタバサ、ちょっとやりすぎちゃったんじゃない?」
「・・・そうかも」

さすがにタバサも笑みを収めて、リリスとひそひそ囁きあう。
ヤンは先ほど殺意を向けたのが嘘だったかのように、気の毒そうな表情でそれを見ていた。

「は、は、は・・・はははは」

高笑いが力なく立ち消えた。
ワルドの唇から漏れるのはいつの間にか憑かれたような呟きとなっている。

「僕が・・この僕がロリコン呼ばわりされ、ルイズに変態とののしられ、周囲からは白い目で見られ・・・
 ルイズは昔みたいにワルド様ってなついてくれないし、抱き上げようとすると恥ずかしがるし、それならそれでもう結婚してもいい年なのに公爵家からそう言う話は全くないし・・・」

誰も、何も言えない。

「ルイズが学生だから毎日会えないのはしょうがないとしても、顔を見たり会話する事さえ中々ままならないし、そもそも軍務が忙しくて虚無の曜日にちょっとトリステインでお茶を楽しむなんて事も出来ないし、忙しさの原因はのうのうと休みを取っているし、
 ヒポグリフ隊の隊長は年功序列で出世しただけの無能のくせにこちらを目の敵にするし、衛士隊隊長からもう一つ上にお呼びがかかってもいい頃合いなのに内示が全くないし、輜重隊のド・シニョンは露骨に賄賂を要求して来やがるし、
 マザリーニはたかが坊主のくせに国家の政を壟断しているし、有能を気取るなら僕にもっと高いポストを与えるべきじゃないのか?
 バスティアンの野郎は将来有望だと思って小隊長に引き上げてやったら天狗になるし、ヴァラールはヴァラールでそんな小僧一人抑えきれないし、レヴェリーは言わないと仕事をやらないし、ガイモンは無能なくせに親の七光があるから首に出来ないし、
 ここのところグリフォンのエサの質があからさまに落ちてるし、厩番が無能だから藁が湿って悪臭を放っているし、下働きは石段の隅のこびり付いたシミを未だに掃除しないし、
 ポワチエの野郎は根回しだけで成り上がった無能だし、リッシュモンは立場をいい事に私腹を肥やしてやがるし、ルイズは僕に振り向いてくれないし、
 ベルトラン伯爵夫人は人妻で年増のババァのくせに色目使って来て気持ち悪いし、レスコー男爵の小娘はぶくぶく太った見苦しい体型のくせに身の程知らずにも文を送りつけて来やがるし、なのにルイズからは手紙一つ来ないし、
 領地の作付けは上手く行かないし、天候も悪いからここのところ貸し付けが焦げ付いて赤字だし、『プレガンド』のワインはここのところ質が落ちた上に値上げしたし、『デュ・コロワ』はひいきにしてやってるのにサービス悪いし、
 魔法学院はトリステインに近いから実家にいるよりはルイズと会う機会が増えるかと思ったらそんな事は全くないし・・・」

繰り言は続く。
ブツブツ呟くワルドを見る目は、いつの間にか可哀想なものを見るような、あるいは哀れみと同情のそれになっていた。
中でもルイズは意気消沈して、いたたまれない表情でワルドを見ている。

「これもそれも! 何もかもショウ! 貴様のせいだ!」
「ちょっと待て!?」

いきなり顔を上げてキッとこちらを睨んだワルドに、思わずショウが吹き出した。
その他の面子はタバサでさえ唖然とし、ルイズはどうすべきか分からずオロオロしている。

「ワ、ワルド様・・・・?」
「いや、なんだ。よくわからないが落ち着いてくれ子爵」
「黙れっ! 僕がロリコン呼ばわりされるのも、ルイズが昔みたいになついてくれないのも、宮廷の貴族どもが腐っているのも『ラ・ボエーム』のランチセットがまずいのも、全部貴様のせいだっ!」

混乱するルイズと冷や汗をにじませるショウ。二人の声も耳に入らなかったかのようにワルドが荒々しく杖を引き抜き、大股でショウに歩み寄る。
剣こそ抜かない物の、流石に真剣な顔になってショウが身構え、ヤンとキュルケがそれぞれワルドの肩に手を掛けて押しとどめようとする。

「落ち着いて子爵! 別にスレンダーな女性が好きだからってルイズちゃんがあなたを嫌う事はありませんよ!」
「ライバルを意識するのは分かるけど、血を上らせるのは逆効果よ子爵! 殿方が血を上らせるのはベッドの上、身体の一部だけでいいの!」
「・・・ライバルって何がだ?」

必死のヤンとキュルケのフォローも、だが全く無自覚なショウの一言によって台無しになった。
殆ど音を立てて、ワルドの理性の糸の最後の一本が切れる。

「貴様さえ! 貴様さえいなければ!」

吼えたその瞬間。
ずくん、とワルドの全身に震動が走った。

(繋がった)
(繋がったぞ)
「何だ! 何が繋がったというのだ!」

叫びはしたが、実の所ワルドにも既にその答えは分かっていた。
その頭の中に響く声が、隠しにしまい込んだ『召喚の書』から響いてくるのだという事。そしてただの書物だと思っていた召喚の書は、今やワルド自身と強い繋がりで結ばれているという事が。
頭の中の声に、同じく頭の中でワルドが語りかける。

(誰だ。誰だお前達は)
(誰でもいい)
(忌々しきブリミルめに封印されて幾星霜)
(それを部分的にでも解放してくれたお前には礼をせねばな)
(お前に力を与えてやろう)
(さあ、我らを呼べ! お前の望んだ力、全てを圧倒する力をお前に授けてやろう!)

逡巡はなかった。
無意識のうちにワルドは叫んでいた。

「お前達が神でも悪魔でも何でもいい。力をよこせ! 何もかも僕の思いどおりに出来る力を!」

その瞬間、ワルドのそばにいたヤンとキュルケが何か無形の力にはじき飛ばされた。
地面と水平に数メイル飛んできた二人をショウが受け止めようとして、勢いに抗しきれず、三人もつれてさらに数メイル土砂の上を転がって止まる。
ショウとヤンはすぐさま、キュルケはうめきながらもやや遅れて立ち上がる。
状況が掴めずに立ち尽くすルイズを、顔色を真っ青にしたリリスが無理矢理引きずって下がらせた。
タバサは既に呪文の詠唱を始めている。

オレンジ色の火球が生まれた。
大きさは人の身長ほど、両手を広げて立ち尽くすワルドを半円状に取り囲むように――あるいは守るように五つ。

「多分次々に来るわよ! 気をつけて!」

リリスが叫ぶ。
火球が消失するのと同時に、巨体が姿を現していた。
身長は4メイルほど、大きさはフーケのゴーレムには遠く及ばないが、山羊の頭と尾と蹄、毛深い赤褐色の身体に四本の腕を持つ、それは異形の姿だった。
全身を覆う分厚い皮膚と毛皮の下で筋肉が波打つようにうねっている。瞳のない黄褐色の眼からは何をうかがい知る事も出来ない。あらゆる意味で異質、天使たちと同じく、この世のものではない異形・・・それがそこにいた。
レッサーデーモン。
受ける呪文の過半を無効化し、巨人族にも匹敵する打撃力と仲間を呼んで増殖する能力、さらには中級魔術師呪文を行使する能力をも有し、ワードナの迷宮においても中層かそれ以下の階にのみ出現する。
それが「劣った(レッサー)」などと言う名を冠して呼ばれるのは、ひとえに悪魔族(デーモン)という種そのものが人や並の『古き者ども』とは比較にならない戦闘力を有し、その基準の中では劣った存在であるというのに過ぎない。

ぶおう、と山羊の頭が吼えた。
大型草食動物の上げるようなあの重低音の鳴き声だが、そこには明らかに、知性ある者しか持ち得ない、醜悪な殺戮への渇望の響きがあった。
リリスとキュルケ、レッサーデーモンが同時に詠唱を開始し、ショウとヤンが飛び出す。
突如始まった戦いのさなか、ルイズはただ一人呆然と立ち尽くしていた。

「え・・あ・・・うそ・・・」

彼女はタルブ村での密談に参加していないし、その後も『牙の教徒』やケイヒとの関係に関するワルドの疑惑については全く知らされていない。
彼女に教えた場合まず間違いなくワルドにそれを悟られるであろうし、ワルドに直に問いただしたりと言った暴挙に出る恐れもある。
そう言う事で五人の意見が一致し、またワルドがどこで聞き耳を立てているかも分からなかったため、今に至るまでルイズにはそのことは知らされていなかったのである。
だが今回はその判断が悪い方に出てしまったようだった。
そのことに内心歯がみしながらタバサは横目でルイズを見る。
勿論その間にも呪文の詠唱が止まる事はない。
古き者どもと戦う場合、往々にして時間こそが生死を分ける分水嶺となるからだ。

「古きもの」、特に呪文やブレスを持つ敵との戦いが先手必勝である事は、リリスが折に触れ強調してきた所である。
ハルケギニアと異なりパーティ全体を巻き込むような広範囲攻撃が一般的に存在し、かつ有効な防御手段が無い以上、どうしても高レベルの戦闘はそうならざるを得ない。
系統魔法でも高レベルの、例えばそれこそフーケのような土のメイジが居れば土の壁で呪文などを防ぐ事も可能だったろうが、残念な事にこのパーティにはいないし、他の系統では制約が多くてそうした攻撃に対する防御手段としては使いづらい。
一度作れば後はそのまま形を維持する土壁に比べ、例えば風の壁は存在する限り精神力を消費し続けるし強度も劣る。水にしても壁に出来るほど大量の水はそうどこにでもあるわけではない。火が防御に役に立たないのは無論である。
だがそれでも、こうした戦いの時は自分は今後風の壁で味方のフォローに回るべきかと考えつつ、完璧な韻律でタバサは呪文の最後の一節を唱え終わった。
が、すぐに発動させはしない。
一瞬後に訪れる最高のタイミングを待つ。

正面に位置する二体のレッサーデーモン。
その向かって右側にヤンが切り込んだ。
詠唱を続けながらも身をかわそうとするその左足を、身体ごとぶつかるようにしてカシナートの剣で薙ぐ。
分厚い毛皮に刃が潜り込んだかと思うとブチブチと筋組織がはぜる音が響き、骨を断つごりっとした手応えと共に足が膝のすぐ上から断ち切られる。
倒れながらも呪文の詠唱を続けるその喉を逆手に持ち替えたカシナートの切っ先が貫き、その詠唱を永遠に止めた。
一方ショウは向かって左側のレッサーデーモンの脇をすり抜けるように走った。
詠唱を続ける巨体の脇を走り抜けながら、肩に担いでいた井上真改を大きく振り抜く。
走り去るショウの後ろで動きを止めて立ち尽くしているレッサーデーモンの、左鎖骨から右脇の下に薄い筋が走る。
瞬き数回ほどの時間の後、青黒い液体をまき散らしながら頭と二本の右腕が滑り落ち、一瞬遅れて残りの胴体も地に崩れ落ちた。

これがタバサの待っていたタイミングだった。
正面にいた二匹は共に倒れ、ヤンの側に一匹、ショウの側に二匹残ってはいるが、もはやワルドとタバサの間を直接遮るものは何もない。
タバサの振った杖の先からアイス・ストームの呪文が飛び出す。
戦いが始まって以来、ワルドは右手の杖をだらんと下げたまま、いかなる魔法も発動させていない。
理由は分からないがこのチャンスは見逃せなかった。人間がタバサのアイスストームをまともに食らえば、いかに鍛えていようとも良くて重傷、即死してもおかしくはない。
ルイズには悪いが、タバサはこの一撃でワルドを殺す気であった。
ワルドは動かない。
あまりの無防備さにタバサの直感が警報を鳴らした瞬間、アイス・ストームがワルドの手前1メイルほどのところで弾けた。
風の障壁に吹き散らされた、という感じではない。
もっと固い、例えば石壁にぶつかった時のように遮られて、消えた。
ワルドは動かない。
恍惚と天を見上げ、両腕を大きく広げて何かを迎え入れんとするかの如くである。
その口元は何かを呟き、左手にはあの『召喚の書』。
タバサの呪文などそよ風ですらなかったかのように、ワルドはただ恍惚と天を仰ぎ続けていた。

敵の呪文を封じる静寂(モンティノ)の呪文を詠唱しながら違和感を感じていた。
違和感の元を探ろうとして、はたと気づく。レッサーデーモン達の詠唱している呪文の韻律がおかしいのだ。
おかしいと言っても呪文の詠唱がデタラメだとかそう言う事ではない。
レッサーデーモンは魔術師系3レベルまでの呪文を使用する。
つまり普通レッサーデーモンが使うのはそのうちで最大の威力を持つ呪文、大炎(マハリト)なのである。
たまに同レベルでやや威力の劣る迅雷(モリト)を詠唱する個体もいるが、それにしてもその詠唱には範囲攻撃呪文特有のリズムがある。
にもかかわらず、今レッサーデーモン達が詠唱している呪文にはそのリズムがない。
そこまで考えた時リリスは違和感の元に気づいた。
レッサーデーモン達が揃って詠唱しているのは魔術師系3レベルに位置する中範囲攻撃魔法ではなく、魔術師系1レベルの催眠呪文、仮睡(カティノ)だったのである。

(・・・まさか?)

危機感を抱きつつ、レッサーデーモン達よりも一瞬早くリリスは呪文を完成させた。
静寂をもたらす魔法の力場がデーモン達の周囲を包み込む。
内二体は身にまとう魔力の波動によって呪文の効果を霧散させたが、ショウの側の奥にいる一体が無効化しきれず、文字通り沈黙する。
だがショウやヤンの二太刀目も間に合わず、残り二体が仮睡(カティノ)の呪文を放った。
ショウ、リリス、ヤン、そしてタバサはかろうじて耐えた。
キュルケは一度は耐えたものの二度目の仮睡(カティノ)で倒れる。ましてや混乱し抵抗の心構えすらろくに出来ていなかったルイズはひとたまりもなく意識を失うはずだった。
しかし、ルイズは何故か倒れない。そう言った攻撃への特段の抵抗力があるわけでもないルイズがである。
だが幸か不幸か、戦場は混乱していた。タバサやリリスはおろか、当のルイズもこの現象の不可解さには気づいていない。

レッサーデーモンの仮睡(カティノ)によってキュルケは無力化された。
だが大炎(マハリト)を二体が唱えれば、そもそもタバサやルイズは高い確率で死んでいたはずである。キュルケもけして安心は出来ない。
リリスたちの基準で言えば彼女らは三人とも全クラスで最も打たれ弱い「魔術師(メイジ)」でしかなく、マスターレベルを超えたショウやリリス、敵の攻撃に耐えてなんぼの戦士であるヤンとはそもそも耐久力が違う。
それを敢えて仮睡(カティノ)の呪文にしたという事は。
リリスとタバサ、そしてショウが動かないままのワルドに視線を向ける。
ショウはこの期に及んで動かないワルドに疑問を抱いただけだったが、タバサの顔色ははっきりと変わった。
自分の方を向いたタバサに、リリスが厳しい顔で頷く。
ワルドはただ動かなかったのではない。精神を集中する余り己の内面に没入しきった、いわゆるトランス状態だったのである。
タバサは高度な魔法を使う魔法使いが時折そのような状態になる事を知識として知っているのみだが、リリスはそれ以上、より致命的なものだという事を知っている。
今やワルドは召喚の書とリンクし、「あちら側」の存在をかなりの所まで自由に召喚できるようになってしまっている。
あのトランス状態も単なる深い精神集中ではなく、異形の者の召喚を行うために彼の精神そのものが「あちら側」と接続しているのに他ならない。
このままリンクが深くなればどうなるか。
そこまではリリスの知識にはなかったが、どう考えても最悪の事態以外は起こりえないだろう。

「ショウ君! 鳳龍の剣術を使って! ワルド子爵を倒さないと!」
「ですが!」

逡巡するショウの振り向いた先にルイズが居る。リリスの一言は、その顔を青ざめさせていた。
たとえ敵であれ、ワルドはルイズにとって大切な人間には変わりない。
ショウにとってもできれば斬りたくはない相手だった。

「お願い! 勝てるチャンスがあるとしたら、今しかないのよ!」

だがショウは戦場を知っていた。
例えそれが昨日の友であっても、敵を討てなければ仲間が死ぬ。振り下ろすべき時に剣を振り下ろさなければ、自分が死ぬ。
それが戦場だという事を、ショウは骨身に沁みて知っていた。
左の小手の下から、緑色の光が漏れる。震えた心が放つ光は強く、哀しく、そして厳しい。
周囲に風が渦巻き、土を巻き上げる。
その威力を目の前で見ているヤンが慌ててワルドから距離を取った。

「ま、待って、ショウ!」

ルイズが静止する声も、もはやショウには届かない。
己を殺し、ショウは剣を振り下ろす。仲間のために。頼りなく、わがままで、そして誇り高い主のために。

鳳龍――

「・・・・え?」

ワルドがトランス状態から脱したのは、まさにこの瞬間だった。
一瞬遅れて状況を理解したその顔が恐怖と驚愕に引きつる。
当然だろう。気がつけば巨人を一太刀で倒すどころか血と肉のペーストにたやすく変えてしまうような技の目標に自分がなっている。
自身の目でその現場をまざまざと見ているだけに、恐怖はひとしおだ。
逃げるために「フライ」を詠唱しようにも、閃光と呼ばれた彼をしてすらもはや遅すぎた。
それを無意識に理解したか、召喚の書を持った左手と杖を持った右手でかばうように顔を覆う。

「ま、待て! やめろ! 僕を殺す気かっ!?」

ワルドの叫びと共に、ショウが全力の一撃を解き放った。

烈風斬!

大気が渦巻いた。
ワルドを中心として無数の細い竜巻が生まれ、それが融け合って一つの巨大な竜巻が生まれる。
ワルドの姿はその渦に飲まれ、瞬時に見えなくなった。
直近に立っていた生き残りのレッサーデーモン三体もその渦に吸い寄せられ、飲み込まれ、プディングよりもあっさりとすり潰された。
烈風は地面をもえぐり、肉と血と骨と、そして土を程良くかき混ぜる。
数秒後竜巻が収まった時、そこにはえぐれた大地の他何も残っていなかった。

残っていない、はずだった。


ワルドがこわごわと、顔を覆っていた両腕を開いた。
信じられないといった顔で周囲を見回し、足下を眺め回す。
信じられないのはショウ達も同じである。鳳龍の剣術を防ぐ手段など同等の「気」をぶつける以外に存在しない。鋼鉄の装甲もなまなかな魔力の楯も、異形の者の呪文無効化能力ですらも圧倒的な気の奔流に対しては無力なのである。
さすがに城塞級の防御結界などであれば話は別だが、どのような大魔道士であれそのような物を個人レベルで運用できるわけがない。仮にあるとすれば名高きニルダの杖の如き神代の神器か、それに匹敵する力を秘めた何かだけであろう。

「そうか、『召喚の書』! あれなら、というかあれしかあり得ない!」
「でもそれが分かっても今のところどうしようもない。というか分かっていたなら早く言って」
「う・・・ごめん」

自分より十歳近く年下の少女にジト目で威圧され、リリスは小さくなった。
ショウの烈風斬によって大地に穿たれたくぼみの中、ワルドの立つ周囲だけはまるで隆起したかのようにえぐられずに元の形をとどめていた。
両手を見つめるワルドの顔に安堵の笑みが広がる。右手には己の愛杖。そして左には『召喚の書』。
だがこのとき既に熟練の冒険者であるショウとヤンは烈風斬を防がれた衝撃から我に返っている。
僅かなアイコンタクトを取った次の瞬間、ショウが気の斬撃を全力で叩き付けた。

「ひぃっ!?」

再びワルドの悲鳴。
だが切り裂くと言うより叩き割る事を目的としたかのような荒い一撃はまたしても障壁に弾かれ、行き場を失った「気」は四散して周囲の土を巻き上げる。
だがここまでは計画通り。
巻き上げられた土煙の中、ワルド目がけて落ちてくるものがあった。
ガンダールヴのルーンを輝かせたヤンである。
装備しているのが全身を覆う板金鎧の甲冑ではなく、胸当てを主とした比較的軽装の鎧(それでも十分「全身鎧」と呼べるだけの重装備ではあるが)であったことを利用し、跳躍して全身の体重とありったけの「気」を乗せ、力づくで障壁を突破しようというのである。
ショウの一撃を受けた後なら障壁の強度も下がっているのではないかという期待もある。

たわめていた全身のバネを使い切り、大上段に振りかぶった剣をヤンが叩き付けようとしたその寸前、よく乾いた薪を真っ二つに割ったような音がした。
注視していたリリスとタバサは、今度こそワルドを守ったものの正体を知った。
剣が振り下ろされ、ワルドを真っ二つにする寸前、その周囲に一瞬だけ黒い半球形の領域が出現した。いや、出現したのではない。元から不可視の障壁としてそこに存在した物が、負荷を受けて一瞬だけ目に見えたのだ。
それは振り下ろされんとした剣をヤンごと弾き、その身体を小石のように吹き飛ばす。
飛び石のように地面をバウンドしたヤンは肺の中の空気を強制的に吐き出させられ、樹齢二百年以上を数えるであろう大樹にぶつかりその幹を震わせてようやく止まった。
追い打ちを警戒しながらすぐさまリリスが快癒(マディ)の呪文で回復するが、もはやワルドはリリスの方など見ていない。

「・・・・くくっ」

その喉から引きつったしゃっくりのような音が飛びだした。
最初は低く、徐々に高く。
そして、笑いが高くなるにつれてワルドの背後の空間がぐにゃりと歪み始めた。
歪みが広がるにつれ、風景画に墨汁を落としたかのようにそこに影が現れていく。
影は闇となり、闇は実体を備え、本来この世界に存在しないはずの者どもを形作る。
先ほどトランス状態で詠唱していた召喚の呪が、今になって効力を現し始めたのだとリリスには分かった。
現れる無数の異形の影。
例えば天空に舞う無数の悪鬼。まさしく「石像の悪魔(ガーゴイル)」のごときその姿は見る者に恐怖と嫌悪をもたらす。
例えば赤く目を光らせる漆黒の馬にまたがった黒き無貌の騎手(ダークライダー)たち。身には真紅のマントを一枚まとうのみ、角を持つその頭には目も鼻も口もなく、マントの紅を除けばその身体には黒以外の色が存在しない。
例えば板金鎧の甲冑に身を包み、長剣を構えた騎士の一団。だが面頬から覗く黄色い髑髏を見れば、それらがこの世のものならぬ「悪鬼(フィーンド)」である事は誰しもが確信できよう。
そうした見るからに異形異類の輩ばかりではない。
一見人間、それも貴族にしか見えないような者も居る。
美しいかんばせに王侯の如き豪奢な装束。深緑色のビロードの上からは金銀をふんだんに使った宝飾を飾る、長身の流麗な青年がひとり。
だがその頭部の両脇から生えた大山羊の如きねじくれた角と、右手に持つ炎の鞭、なによりこの世のものならざる美を湛えた秀麗にして異形の面差しは、どうあろうとも人の物ではあり得ない。
アークデーモン。名の通り悪魔の中でも高位に位置する種族であった。
その後ろにはアークデーモンには劣る物の同じくきらびやかな装束をまとう、ねじくれた角と蛇の鞭を持つ人間に似た何かが、王侯に侍る廷臣と言った風情で並んでいた。中には子牛ほどもある真っ黒い犬・・・口からよだれの代わりに火をこぼす犬が居たとしての話だが・・・を数頭従えている者もいる。

実体化はごく短い時間で行われた。
だがルイズにはワルドの高笑いと異形の者どもの出現が永遠に続くかと思われた。
実際にはショウやリリスが十分な反応を起こすいとまもないほどの僅かな間の出来事だったのだが。
そうして、まさしく形勢は一変した。
ワルド一人にショウ達六人という圧倒的優勢から、ショウ達六人対一軍へと。
そう、そこにいたのは比喩でも誇張でもない、文字通りの悪魔の軍勢だった。
天に舞うガーゴイルだけで優に百は超えるだろうか。
リリスが僧侶系の7レベル呪文を使い切った今、これらを一度に倒せる攻撃手段はない。
いや、リリスの死言(マリクト)をもってしても不可能だ。
これら異形の者達は大なり小なり呪文を無効化するための魔力の波動を生来身に帯びている。知性の高いものであれば、それに加えて魔法を弾くための結界をもまとう。
全ての異形の輩が呪文の無効化に失敗する確率は確かにゼロではないが、そう言いきっていいほどに小さい。



再び森の中に哄笑が響いた。
高揚の笑い。
歓喜の笑い。
そして絶対の優位を確信し、敵をいたぶる事に喜びを見いだす嗜虐の笑い。
もはや立場は逆転していた。
ケイヒをぶつけて殺すしかないと思っていたショウは、今やワルドに生殺与奪を握られた哀れな小動物、地に頭をこすりつけて命乞いをするしかできない虫けらに過ぎない。
見ろ、自分が従えるこの圧倒的な軍勢を。
見ろ、ショウの剣技ですら物ともしないこの絶対的な守りを。
もはや自分はメイジなどと言うちっぽけな存在ではない。
無敵の軍勢を従えてハルケギニアを統一し、いずれはエルフをも討ち滅ぼして聖地を回復する英雄王・・いや、ブリミルに変わる新たなる神だ。
そうとも、エルフを滅ぼす僕が何故エルフに負けて死んだブリミルの如き無能の下に置かれなくてはならない?

「そうとも、僕は神になる! 新しきハルケギニアに永遠の繁栄をもたらす神に!」

無論絶頂にいるワルドは気づかない。
後ろに控えるアークデーモンがその唇を侮蔑にゆがめた事など。

(それにしても頭がぼんやりする・・・そう言えば僕はどうして聖地を回復しようと思ったんだっけ?)

高揚した意識の片隅で冷静なワルドが疑問を投げかける。
その問いに答える声は少なくともワルドの意識のうちにはない。あの召喚の際にごっそりと失われた「何か」と共に、永久に消えてしまった。
それが召喚の、一時的にでも異界を無理矢理につなげた代償だという事を彼は知らない。思い出せない。
だが、この力を使って何をすればいいかは分かっていた。
ルイズだ。
あの少女を、僕の母親を、我が物とするのだ。



「・・・ふむ。さすがにいかん、かな」

うっそうとした森の中、呟いた声がある。
全身を覆う、修道士の如きゆったりとした暗色の長衣(クローク)。フードを下ろした顔は影になりうかがい知る事が出来ない。声と、フードから覗く青い顎髭とから男と分かる程度である。
ショウ達の戦っている開けた場所から一マイルほど。一体いつの間に出現したのか、またどのような手段によってか、その人物はショウ達の戦いを『見て』いた。

「こうなってみると『あれ』が別の場所にあるのはいささかまずかったな」

散開していたショウ達が集合するのを見つつ、彼は再び呟いた。
その言葉の端々に迷う気配がにじみ出ている。
何かをしたいのに実行する事は躊躇われる、そのようなもどかしさを抱えているようにも見えた。

「まぁ、今はまだ見守るべきか。いざとなれば――む?」

何かに気づいたように、その頭が僅かに向きを変える。

「小石が一つ戻ってきたか。所詮は小石にしか過ぎんが、波紋を起こすやもしれんな・・・」

その先の言葉は形にならぬまま消え、謎の人物は無言のうちに再び森に溶け込んだ。



ショウ達が集合する。
戦うにせよ、逃げるにせよ、散開していては危険だ。
もっとも、集まったからと言って出来る事は殆どなかった。せいぜい仮睡(カティノ)で眠り込んだキュルケを起こすくらいである。
いかに鳳龍の剣、いかにリリスの呪文とて、これだけの悪魔の群をどうこうできようはずもない。何匹、上手く行って何十匹かを倒している間に攻撃呪文を雨あられと喰らってそれまでである。
召喚主であるワルドを倒そうにも、今や鳳龍の剣ですら弾く魔法障壁(シールド)を身にまとっているのだ。リリス達の呪文で倒せる相手ではない。
かと言って、ほぼ純粋に物理的な攻撃であるヤンの渾身の一撃も通用しないのは先ほど証明されたとおりである。
それが分かっているかのように、ワルドも、悪魔達も、ショウ達が集まろうとするのを阻む事も、呪文の詠唱すらしていない。
結局の所、逃げる以外に選択肢などないのである。
だが、唯一この場から脱出する手段を持ち合わせているリリスは泣きそうな顔をしていた。

(ううっ、使いたくない、使いたくないよぉ)

それも当然で、彼女の持つ僧侶系の緊急脱出呪文「帰還(ロクトフェイト)」は自分の身体以外の物は持っていけない。
つまり服も下着もこの場に置いて行く事になる。
心はいまだに十七歳のうら若き乙女であるリリスが泣きたい気持ちになるのも、無理からぬ事ではあった。

「リリスさん」

が、状況はそのような泣き言を許してはくれない。
短い、切羽詰まったショウの声に、リリスは葛藤から引き戻された。
もはや逃げる余裕もないと見たか、悪魔達が手を出してこない今だけが脱出のチャンスなのである。
断腸の思いで、リリスは帰還(ロクトフェイト)の呪文を唱えた。

だが何も起こらない。
最下層へのシューターにレベル1で飛び込む覚悟で呪文を唱えたというのに、何も起こらない。

「リリスさん?」

呆然としながらも、ショウの問いかけにリリスの知識は正解であろう答えを導き出している。

「多分、あの召喚のせいね。この周囲の空間がごちゃごちゃに歪みまくって今にも破裂しそうなせいで、簡単な結界でこちらの転移を封じる事が出来ちゃうのよ。少なくともその結界が解かれるまでは帰還(ロクトフェイト)でも転移(マロール)でも空間移動は無理ね。
 今感知してみたけど、この周辺を囲むように張り巡らされてる。気がつかなかったのは迂闊だったわ」
「まぁリリスのうっかりはいつもの事だからしょうがないとして」
「ちょっと、それ酷くない!?」
「つまりそれって・・・」

リリスの抗議を華麗にスルーし、タバサは顔を青くした親友の問いに簡潔に答えた。

「私たちはここから脱出できない」


「さて、諸君」

その言葉を待っていたかのように、ワルドが一歩前に出た。
事実、彼女らが自分たちが逃げられないと認識するまで待っていたのだろう。
己の絶対的優位を見せつけるために。

「大変驚いたことと思う。何故僕が『召喚の書』を持っているのかとね」
「別に」

それをタバサはあっさり切って捨てた。その目にきらめくのは冷ややかな敵意・・・いや、殺意とすら呼べる何かだろうか。
鼻白むワルドだったが、己の優位を思い返して取り繕う。

「な・・・いやいや、この期に及んで虚勢を張る気概があるとは大した物だ」
「別に虚勢ではない」

あくまで冷静に、かつ淡々と対応するタバサに、ワルドはふと不快感を覚えた。
これだけの圧倒的な戦力差の中で何故こいつは僕にひれ伏さないのか、と。

「怖くはないのかい? まさかとは思うが、ひょっとしてまだ僕に勝てる気でいるのかな? それとも逃げられると思っている? そもそも僕が君たちの生殺与奪を握っているのを理解しているかい?」
「別にあなたは怖くない。怖いのは後ろの悪魔」
「・・・っ!」

歯ぎしりするワルドに、再びアークデーモンが侮蔑の笑みを浮かべた。
それには気づかず、ワルドが怒鳴る。

「まだ君は現状に対する認識が足りないようだな! 僕を誰だと思っている!?」
「牙の教徒(プリースト・オブ・ファング)の仲間。レコン・キスタの使い走り。トリステインの裏切り者。他に何かある?」
「む」
「甘く見ないで。それくらいの事はとっくに知っている」

黙り込んでしまったワルド。対するタバサはますます饒舌になる。

「私の推理によればあなたは当初からルイズを監視していた。レコン・キスタの指令があった事も考えられる。
 だがストーキングを繰り返すうちにあなたは暴走し、ルイズを手に入れる事そのものを目的とし始めた。
 しかしショウを見て自分では勝てないと悟ったあなたは、モット伯が死んだのをいい事に『召喚の書』を手に入れ、これで彼を殺す事を思いついた」
「ぬ・・・っ!」

タバサの圧力、あるいは勢いに気圧されたか、ワルドの足が半歩、後ろに下がった。

「タルブ村では天使を放ってショウを殺し、いい所で出てきてルイズを我が物にする計画だったし、今回の事だって黒幕はあなた。つまりそもそも一連の事件の全てはルイズに対するあなたのせせこましい欲望に端を発している。
 そう、あなたの考えなどこの名探偵タバサは全部まるっとお見通しだ!」
「ば、馬鹿なっ!」

無論ハッタリである。
推理するに足る根拠があるならば、タバサがそれをいちいち事細かに説明しないわけがない。
フーケの黒幕がワルドだったという事にしても、風の遠話でフーケが誰かと話していたのなら、近くにいた風メイジのワルドが怪しい、という程度に過ぎない。
この「推理」なるものはそのようにして情況証拠から組み立てた仮説に過ぎなかったのだが、にもかかわらずタバサは断定口調で話した。
相手に、自分が何もかも知っていると錯覚させるために。
果たして勢いに飲まれたワルドは細かい矛盾や故意にぼかした表現に気づかず、それを完全に信じてしまったようだった。
一声うめいたきり絶句してしまったワルドをアークデーモンが冷ややかに眺めている。

ワルドとタバサの対峙が続く中、ショウ達も油断無く身構え続けていた。
刀を握る自分の手が僅かに強張っていた事にショウは気づいた。意識して身体の余分な力を抜くと共に、以前兄がやっていた事を試してみようとふと思いつく。
苦笑を装って口を開いた。

「それにしてもタバサも度胸があるというかなんというか」
「いいじゃない。ああやってどうにか対策を考える時間稼いでくれてるんだから」

返事を返したのはリリスだった。
彼女も実戦経験は豊富だけに、即座にショウの意図に気づいたようである。

「分かってますよ。でもこの状況であいつを挑発するなんて、火事場で油風呂に入るような物でしょう?」
「何それ!?」

くすくすと笑うリリス。キュルケが吹き出し、ヤンも苦笑気味に失笑する。タバサも、注意していなければ分からないくらいにほんの少し、頬をゆるませた。
稚拙ではあるが、ショウとリリスの芝居は一行をリラックスさせる事に成功したようだった。ちなみに油風呂云々は彼の兄が使ったセリフをそのまま剽窃したものであったりする。
だがその時、他の五人が無駄口を叩くその横で、ぷちん、と何かが切れる音が聞こえた。様な気がした。
ルイズである。
先ほどから全く動かず、悲しむべきか、泣くべきか、はたまた混乱し続けるべきか迷っていた彼女は、取りあえず怒る事にしたようだった。

「何でそんなくだらない事話して笑ってるのよ! ワルド様が裏切り者だったのよ!? トリステインに代々仕える軍人貴族で、子爵位を持っていて、魔法衛士隊の隊長なのよ!?
 そう言う人が裏切ったという事がどれだけ大変な事か分からないの!?」
「いや、ルイズ、今のはな・・」
「ショウは黙ってて!」

ショウを強引に黙らせたルイズの怒りの矛先はまずタバサに向けられた。

「タバサ! ワルド様がトリステインを裏切ったというのは間違いないの!?」

それを自分に教えなかった事にはルイズも敢えて触れない。
彼女もここ数ヶ月の経験で、それがどういう理由か推察できるくらいには成長している。

「本人に聞いてみればいい」

一方タバサはいつも通り淡々と答えた。
実の所ルイズがタバサを問い詰めるのは八つ当たりに近い。言ってみれば、ワルドが裏切り者だったという事実に向き合い、覚悟を作るために必要なワンクッションなのである。
赤毛の親友と違って論理的に過ぎる所のある彼女はそこまでは推察できなかったものの、それでもルイズに対して苛立ちや反発を見せる事はなかった。
そして、どうにか腹をくくったルイズは今度こそワルドに向き直った。

「ワルド様・・・」

叫んだつもりだった。
だが、その喉から漏れたのは弱々しい、嘆願にも思えるような呼びかけでしかない。

「ワルド様は・・ワルド様は本当に裏切られたのですか。トリステインへの忠誠をお捨てになったのですか・・」
「その通りだ、僕のルイズ」

ワルドからの返答は、誤解しようのない明白な物であった。
ワルドとしてもここは退けない。ルイズに自分がトリステインを、いや、ハルケギニアの既成の権威を打ち倒した上で聖地を回復する事を認識して貰い、その上で自分と共にいてもらうのでなければならない。

「何故! 何故なのですか!? 貴族の義務は・・」
「国家に忠誠を尽くし、領地を治め、名誉を保つ事。だが、その国家に忠誠を尽くす価値がない時はどうなる?
 腐敗しきった行政機構と貴族達は私欲を満たす事にのみ汲々とし、国の事など顧みない。そして王家はそれを座視するのみで、なんら義務を果たそうとしない。
 知っているかね、ルイズ。トリステインの税吏はね、自分が管轄する区域で飲酒や食事をしても代金を払わないんだ。逆らったら税率を上げられるという事をみんな知っているから誰も逆らえない。やりたい放題さ。
 また、宮殿に品物を納入する商人は大概担当の官僚と癒着している。賄賂を送らなければ御用商人から外されてしまうからね。そうした賄賂は価格に上乗せされたり、あるいは納める品物の質を落としたりしてまかなわれる。国の金をそのまま自分の懐に入れているようなものだ。
 軍だって腐敗だらけだ。上層部と癒着した商人は質の悪い品物を高値で売りつけ、ろくに実戦経験もない若造が親の七光で高い地位に就く。
 そしてマリアンヌ太后陛下は事実上トリステイン王家の家長でありながら王位に就くのを頑なに拒否し引きこもったままだ。
 例えお飾りであっても王の存在は国をまとめるのに大きな意味を持つ。そして王族たる者、自らの身を削ろうとも国に尽くさなくてはならない。だがマリアンヌ陛下はそれを拒否し、自分の都合だけで王家の高貴なる義務から逃げている!
 アンリエッタ王女とて同じだ! 蝶よ花よと甘やかされて育てられ、次代のトリステインを担う能力も覚悟も持ってはいない! 
 これのどこに忠誠を尽くす価値があるのだ?」

反論しようにも、ワルドの言葉には真実を知るものの重みが確かにあった。それこそ世間知らずの学生には反論できないような。
だがふと、ルイズの脳裏に王女の姿が蘇る。何も考えずに、ただ仲の良い友人でいられたあの頃を思い出す。
それが、弱々しいながらもワルドへの反駁となって現れた。

「でも、だからといって王家への忠誠は・・・」
「いいや、ルイズ! 貴族にとって王家への忠誠以上に優先されるものが一つ、このハルケギニアにはあるはずだ!」

流石に今度は即座にそんなものがあるはずない、と言おうとしたルイズに先んじて、タバサが口を開く。

「なるほど、始祖ブリミル」
「? ブリミルって神様ですよね?」
「えーとね、ブリミルは神と殆ど同じ存在だけれども、一応実在した人間なのよ。
 トリステイン、ガリア、アルビオンの王家は全部ブリミルの子孫だし、ロマリアはブリミルの弟子が開いた国。だからブリミルは王家よりえらいって言いたいんじゃないかしら?」
「付け加えるなら教会や王家の権威よりもブリミルそのものの権威を重視するのは新教徒によく見られる考え方。無論、『牙の教徒(プリースト・オブ・ファング)』もその例には漏れない」

キュルケの説明に解説を加えるタバサの、その目に灯るのは暗い炎。怨念の炎、怒りの炎。そして憎しみの炎。
だがキュルケとリリスが目を見合わせ、そんな彼女に心配そうなまなざしを送っている事にタバサは気づいていない。

そしてルイズは無言のままであった。
ワルドの言っている事は間違ってはいないが、どこかおかしいのではないかと思っている。だが、それを否定する言葉を見つけられないでいるのだ。
そしてその迷いをワルドの言葉が上書きする。

「ルイズ! 僕は始祖の名の下にハルケギニアを統一し、聖地を回復する! 僕にはその資格がある! かつて始祖が用い、そして封印したというこの『召喚の書』がこの手にある事がその証だ!
 そして君にはその時僕の傍らにいて欲しいんだ! 僕には君が必要だから! 僕が君を愛しているから!」

なんと言う事のない言葉であったが、それがルイズに与えた影響は決して小さくはなかった。
直前までの逡巡が全て吹っ飛び、心臓が鼓動を一回飛ばす。
一瞬だけではあるが、確かに彼女の心は揺れた。

ルイズはこれほどまでに直截に自分を求める言葉、自分に対する好意の言葉を聞いた事がなかった。
無論家族は別であるが、家族に言われるのと赤の他人に言われるのではやはり違う。
キュルケもタバサもリリスもヤンも友人と言っていい仲ではあるが、そんな言葉を言ってくれた事はない(当然だが)。
ショウはいつも側に侍って自分の事を命がけで守ってくれるし、なんだかんだと世話もしてくれるが、口げんか(キュルケなどは痴話喧嘩と評するが)はしても、自分に対する感情を直接的な言葉にしてくれた事はない。
結局の所ショウは使い魔だから自分をかまってくれるのではないか、忠義に厚いという「サムライ」だからこそこんな自分にも忠実に仕えてくれているだけではないのか。
感情表現に関してはホウライ独特の「以心伝心」的な考え方の持ち主であるショウであるから、という理解はルイズの中にはない。ハルケギニアの人間にとって、好意とはストレートに言葉で表す物なのである。
そんな文化の壁もあり、残念ながらルイズにはそう言った疑念を否定するだけの自信がなかったのである。
だがワルドは違う。
家族ぐるみのつきあいのあった幼なじみであり、さらには婚約者であるが、それでも家族でも主従でもない。また婚約は親の決めた事であるにもかかわらず、ワルドはルイズ個人を愛していると言ってくれた。必要であると言ってくれた。
家族を除けば誰からも愛されなかった、そして必要とされなかったルイズである(少なくともルイズ自身はそう思っている)。
受け入れるかどうかは別にしても、それまで必要とされた事のなかった少女にとり、確かにそれは心惹かれる言葉であった。

「で、でも私は・・・」

姫様を裏切れない、ルイズがそう言おうとするよりも早く、ワルドが言葉を継ぐ。

「君を騙していた事については済まないと思っている! だけれども、この気持ちに偽りはない! 僕の心は、最初から君の方だけを向いているんだ、ルイズ!」
「耳を貸しちゃダメよ、ルイズ! 理由がどうあれ、あいつは自分の国を裏切った裏切り者なのよ!」

叫んでいるキュルケ自身説得力がない事は承知している。ゲルマニア人が国への忠義を語るなど、トリステインの人間から見ればちゃんちゃらおかしい。だがそれでも、キュルケは叫ばずにはいられなかった。友人を失いたくはなかったのだ。
だがキュルケの努力も空しく、再びワルドの言葉がルイズの心を揺らす。

「いずれ君は偉大なメイジに成長する! 今はその才能が眠っているだけだ!
 僕が君を支えるのではない! 僕たちは互いに支え合う事が出来る! 二人で一緒に世界を手に入れよう、ルイズ!」


もしもの話である。
もしも、このままワルドが真摯なアプローチを続けていれば。
もしも、ルイズに今までショウやキュルケ、タバサ、リリスやヤン達と共に重ねてきた冒険の日々が無ければ。
もしも、ルイズがまだ心の中に残るワルドに対する暖かな気持ち、幼い日の憧れを愛と錯覚する事が出来たのなら。
この場では成就せずとも、いずれワルドの恋は実っていたかも知れない。
だが歴史にifがないのと同様、人生にもifはない。
起こる事、起こった事、起こってしまった事。
それだけが全てである。



「そんな、私が偉大なメイジだなんて・・爆発だけは少し使いこなせるようになったけど、そんな、そんな・・・」

口ごもるルイズの逡巡を、ワルドはしっかりと見て取っていた。
押し時だ、とも。
その判断はやや拙劣ではあったが間違ってはいない。
恋愛遊戯がそれなりに一般的なたしなみである貴族社会において、ワルドは多くの軍人貴族がそうであるように、そちらの方面に興味を示した事はない。
当然その口説はつたなく無骨であったが、それだけにそこに含まれた好意は間違えようがなかった。
海千山千のキュルケをしてすら、彼は本気でルイズを愛しているのだと断言せざるを得ないほどに。

「ルイズ。幼い頃、君は叱られると裏庭の池にある小舟の中に逃げ込んでいたね。あの頃、君が安らげる場所は自分の部屋のベッドの上か、カトレアさんの部屋か、あの小舟の中にしかなかった。
 でも、あの時、初めて小舟の中で泣いている君を見た時僕は思ったんだ。君の安らげる場所になりたいと。
 例え世界中が君の敵に回ったとしても、僕だけは君の味方でいようと」

なおも逡巡を見せるルイズと、先ほどから無言のままそれを見守っていたショウの視線がつかの間交わった。
ルイズのすがるようなまなざしに、ショウはただ真剣な視線を返すのみ。
何故なにも言ってくれないのかと考えてしまうそんな彼女の思いを、ワルドの言葉が引き戻す。
この時、ショウを除くルイズ以外の一行はただ沈黙を強いられていた。
彼の全身全霊を込めたその告白は熱く激しく、キュルケをも黙らせる何かがあったのだ。

「君を支えたいんだ、ルイズ。
 君を守りたいんだ!
 君を一人にしたくはない! いつもそばにいてやりたい!
 他の誰にも、その役目を渡したくない!」

もはやワルドの告白は半ばルイズをそのうちに引きずり込んでいた。
だが自分の言葉がどんな効果を上げているかにも気づかぬほど、ワルドもまた己の言葉に没入している。
もう理性や打算は越えて、ただ心のままに彼はルイズを求めていた。

「僕は、僕が君を守るんだ!
 それだけじゃない! 僕には君が必要なんだ!
 どんな事があっても君となら乗り越えていける!
 でも君がいないと苦しいんだ! 居ても立ってもいられなくなるんだ!
 ずっと僕のそばに居て欲しいんだ!
 ルイズ! 君が好きなんだ、君が欲しいんだ! 僕の隣に居て欲しいんだルイズ!
 ルイズ! 君を愛している!
 だから・・・だから僕の母親になってくれっ!」



耳に痛いほどの静寂が辺りに満ちた。
どこか遠くの小鳥のさえずりが鼓膜を素通りしていく。
悪魔達でさえ身じろぎ一つしない。心なしか引いているようにも見える。
言ったワルド本人ですら、凍り付いていた。
ワルドとしては僕の妻になってくれ、と言おうとしたのである。少なくともそのつもりだった。

「ひ、あ、ふ」

何かを言おうとして、だが焦りのせいか満足に呼吸が出来ない。
深呼吸をしてどうにかワルドが自分を落ち着かせるのと、ガラス玉のような目になったルイズが無表情に口を開いたのがほぼ同時だった。
彼の言葉に乱れて高揚していた心も、紅潮していた頬も、今はルイズ本人も驚くほどにニュートラルである。

「ししゃくさま・・・いまなんとおっしゃいました・・・?」

奇妙に抑揚のない、平板な調子。

「そ、それはもちろん、その、僕のつま」
「マザコン」
「ぐぉっ?!」

慌てて弁解しようとしたワルドの胸に、言葉の短刀が突き刺さる。無論、放ったのはタバサだ。
何とか立て直そうとするワルドを、女性陣の冷たい視線と言葉が次々にえぐる。

「最低」
「う」

キュルケの、情熱的なこの女性にこれほど冷たい表情が出来たのかと言うほどの一言。

「バカ! 変態! スカポンタン! もう信じらんない、サイッテー!」
「ううっ」

顔を真っ赤にして喚き散らすリリス。

「・・・・」
「うおおおおおっ」

だがワルドにとってはルイズの無言のままの醒めた視線が何より痛かった。
そしてその中でもさらにワルドにとって耐え難かったのは、ルイズの視線に憐憫の色がある事だった。

「やめろ・・・ルイズ、頼む、やめてくれ」

がくり、とその膝が崩れた。
地に這いつくばったワルドに、ルイズが、ショウが、キュルケが、タバサが、リリスが、ヤンが、アークデーモンが、冷ややかな軽蔑の、あるいは何とも言い難い視線を向ける。
悪魔の軍勢と6人の人間が対峙するその間で、ワルドはひとりどん底まで落ちていった。



沈黙は長かった。
這いつくばったワルドに視線を集中したままルイズ達も悪魔も動かず、ただ時間が流れていく。
キュルケやリリスが、今ならこっそり逃げられないかなと思い始めた矢先、ようやくワルドが立ち上がった。
どうにか精神的再建を果たしたと見えて、顔色は冴えないが目に意志の光が戻ってきている。

「さて、返事を聞いていないので改めて聞こうかルイズ。僕の妻になって欲しい。『はい』か『ウィ』かで答えてくれ」
「『ノン』よ、ワルド。それ以外の答えは残念だけど無いわ」

『召喚の書』経由で電波を受信したか訳の分からない事を言ってくるワルドに、僅かにうんざりした風でルイズが即答した。
今更何を言っているのだ、とその顔にははっきり書いてある。
一方ワルドの方は、にもかかわらず全く気落ちしたようではなかった。

「そうか」

と呟くと大きく頷く。

「ならば仕方がない。君の心を手に入れるという目的は、取りあえず諦めよう」
「当たり前よ!」

ここまでの自分の言動を忘れているのではないかとも思えるワルドの言いように、ルイズが噛み付く。
良くも悪くも普段通りになってきたルイズの様子に、ショウとキュルケの口元がかすかに緩んだ。
取りあえずなのか、と思わず突っ込んだヤンのつぶやきはタバサにさえ無視された。

「だが、僕は欲しい物は諦めないたちでね。今、僕と君たちとの間には絶対的な戦力の差がある。
 愛の言葉で君の心が手に入れられないなら力づくで。せめて君の身体だけでも手に入れるまでだっ!」

再び、痛いほどの静寂。
一瞬遅れて自分が何を言ったかに気がついたワルドが慌てて訂正する。

「いや、間違い! 今のは身体じゃなくて身柄の言い間違いだ! その、なんだ。愛してくれなくても側に居てくれるだけでいいとかそう言う事であって」
「ゲス野郎」
「ウジ虫」
「死ね、女の敵」
「生まれてこなければ良かったのに」

無論、ワルドの言い訳など今更聞いて貰える雰囲気ではなかった。
もはやどこぞのセクハラ学院長以下の扱いである。
そして当のルイズは顔を真っ赤にしていた。
羞恥ではない。怒り、それも混じりっけなしの激怒。
声のみならず、固く握った拳も震えている。

「み・・・見損なったわワルド! あなたなんかもう裏切り者どころか貴族ですらないわ! 消えて! 私の前から今すぐ消えてっ! これ以上私の綺麗な思い出を汚さないでっ!」
「ル、ルイズ・・・」

ぐらり、とワルドの体が揺れたかのように見えた。さすがにルイズに罵倒されるのは些か以上に堪えたらしい。
が、次の瞬間にはもう傲然と胸を張っている。

「だがルイズ! 何を言おうとも彼我の戦力差は絶対! 君が僕のものになる事はもはや避けられない運命なのだ!」
「あ、開き直った」
「見苦しいわね」
「・・や、やかましい!」

口ごもったのも一瞬、再びワルドがそっくり返る。
そう、奴らの切り札は既に我が手にあるのだからと。

「ふん、いいさ。悪魔共にろくに魔法が効かない以上、頼るのは武器のみだろうが、所詮ガンダールヴといえども操るべき武器が無くては真価を発揮出来まいが」
「「?」」

ショウとヤンが視線を交わし、またそれぞれの得物に目を落とす。双方その顔にはワルドが何を言っているのか分からないと書いてあった。
ぽん、とリリスが手を打つ。

「あー、ひょっとして」
「いかにも。これを見ろ! 貴様等が操るべき真なるガンダールヴの大剣は我が手にある!」

杖を腰に戻して代わりにワルドが取り出したのは、果たして鞘に収められた1メイル半ほどの片刃の大剣であった。

「デルフ!? ・・・そう言えばどこへやったんだっけか」
「言われてみればここのところ声を聞いてなかったような気がするなぁ」
「えーと、確かタルブの帰りに布でくるんで馬の鞍に突っ込んでいたんじゃなかった?」
「多分そのまま鞍と一緒に馬小屋の中。でも年を取りにくいし宿代は無料だから結果オーライ」
「揃いも揃ってお前らひどいよっ!?」

いたたまれずにデルフリンガーが叫んだ。人間ならば多分涙目になっている所であろう。
一方ワルドはここぞとばかりに勝ち誇る。

「ふはははは、伝説の剣を粗略に扱うとはな! 
 かつて初代ガンダールヴが振るったこの剣こそ真なるガンダールヴの武器だと言う事は知っておろうに!
 この剣ならば我が障壁をも破ったかも知れぬと言うのに、残念な事だな!」

得意満面のワルド。
しかし、その反応はまったくもって彼の期待していた物とは違っていた。

「そ、そうだったのか・・・?」
「・・・・」
「デルフが・・・ねぇ」
「ないない」
「全くあり得ないとは言えないけれど、もし賭けるならばワルド子爵の妄想である方に賭ける」

半信半疑ですらない。ルイズは可哀想なものを見るような目で無言のまま、キュルケに至ってはぱたぱたと手を振って完全否定だった。

「そーか、そーだったのか。やっぱり俺は凄かったんだね! 相棒たち! 少しは見直したかい!?」

とどめとばかりにデルフリンガーにまでそんな事を言われてはワルドも立つ瀬が無い。

「なんだそれは! そもそもお前が自分で言ってたんだろうが! タルブの村でガキ共相手に!」
「んー、だっけ? 忘れた」
「こ、この・・・・炉に放り込んで溶かしてやろうか・・・・!」

ワルドの手が怒りに震えた。
思わずデルフリンガーを地面に叩き付け、何度も何度も力一杯蹴りつける。

「あっ、痛っ! 痛い、痛いって! やめれ、おねがい、止め、いてっ!」

怒りのままに、転がる剣を足蹴にし続けるワルド。
それを中断させたのはそれ以上の怒りに震えたルイズの声だった。

「いいかげんにしなさいワルド! あなたまだ自分が何をしたか分かっていないのね!
 貴族としての義務を裏切った上にそんな破廉恥な事まで言い出して!
 その重さに比べたらそんな錆び剣なんてどうだっていいわよ!」
「ひでぇよ娘っ子!」

デルフリンガーの抗議を完全に無視し、ルイズがワルドを睨む。
ワルドの背後に控える悪魔の軍勢が消えたわけではないというのに、ある意味大した度胸ではあった。現実が見えていないとも言えるが、それだけと言う訳でもない。
そしてルイズの叱責に、ついにワルドの自制心が限界を迎えた。

「貴族の義務!? それがどうした! 今の僕はメイジなどと言うちっぽけな存在じゃない! この『召喚の書』によって神にも等しい力を手に入れたんだ! 
 いや、神なんか天上で僕らを眺めているだけで何もしてはくれない。神が何だ! ブリミルが何をしてくれた! もし本当にこの世に神がいるというのなら、何故僕の母は死ななければならなかったんだ! あんなに願い努力したのに何故君は魔法が使えないんだ?!
 僕ならそんな不条理を全て乗り越えてみせる! 天上でふんぞり返っているだけの神なんかクソ喰らえだ! 僕はこの世界で本当の神になってみせる!
 それが信じられないというのなら、いいだろう。まずは僕の力を理解させてやる! 行け、悪魔族(デーモン)共! ただしルイズには傷一つ付けるな!」

血走った目でワルドが叫ぶと共に、悪魔達が動く。
まず空のガーゴイルが動いた。ルイズ達の上空を覆い、取り囲んで旋回し、上空を封鎖するように天蓋を形作ろうとしている。リリス曰く「馬鹿力だけの低級な悪魔族」であるが、それでも百を超えるその数は脅威以外の何物でもない。
地上では黒の騎手達が馬首を並べて突撃を開始し、その後に甲冑を身にまとった悪鬼共が徒歩で続く。その数は共に三十近い。

実の所、黒の騎手(ダークライダー)達の力は馬まで含めても後ろに続く悪鬼(フィーンド)どもに遠く及ばない。
だがこの森の中の広場のように、馬の機動力が存分に生かせる開けた地形であれば話は変わってくる。
馬列を揃えた騎兵の一斉突撃。
蹄の音を轟かせ、剣を振りかざし、視界全てを埋め尽くすかのように迫り来る漆黒の騎士たち。
一体ずつ立ち向かってくるのであれば点に過ぎないそれらも、隊伍を組めば2メイルを軽く越える巨大な壁、突撃すれば何者をも打ち砕く鋼鉄の津波となる。
防御力や継戦力に弱点を抱えながらも騎兵が長らく最強の兵種の座を守ってきたのは、この機動力と衝力(攻撃力)あればこそである。
長槍で槍衾を組んでいる場合は例外としても、そうでない歩兵にとって騎兵の一斉突撃は耐える事も逃げる事も出来ない圧倒的な恐怖なのである。

加えてその実際の威力以上に、騎兵の突撃には歩兵の士気をくじく効果がある。
想像してみればいい。
横一列に並んだ乗用車が時速60kmで突っ込んできたらどう見えるだろうか。
全身を甲冑で覆った重装騎兵と乗馬の重量がおおよそ一トン前後。この数字は、標準的な排気量の乗用車の重量に等しいのである。
それが並んで突進してくるとなれば、歩兵、特に今までそれを見た事がない者なら足がすくんでもやむを得まい。
事実、迷宮の中や個人での戦いなら百戦錬磨のリリスやヤン、タバサにしてからがこの突撃には一瞬気を呑まれた。いわんやルイズやキュルケは言うまでもない。
そのままならばルイズ達は馬蹄に掛かり、後続のフィーンド達を待つまでもなく全滅していたかも知れない。
が、ルイズ達の中にもただ一人、実際の戦場を知っている者が居た。

「落ち着いて! 連中は俺が止めますから、リリスさんたちは後続の徒歩の連中に攻撃呪文を! ヤンさんは俺と一緒に前衛、上にも気をつけて!」

言うなりショウは呪文の詠唱を始めた。
その叱咤に、個人差はあれパーティの面々は再起動を果たす。
中でもリリスはショウの詠唱する呪文に軽い驚きを覚えると共に、頼もしさを感じてニヤリと笑った。
なるほど、これならば。

騎兵の威力に付いては既に述べたが、彼らには多くの長所がある反面多くの弱点もある。
養成や維持に金がかかるのもさることながら、防御力が低い彼らは歩兵の槍衾や弓兵隊によって容易にその勢いを止められてしまうし、また城壁は元よりちょっとした柵や塹壕によってもその攻撃は無効化されてしまう。
加えて、騎兵の天敵とすら言える存在が一つあった。ショウ達の世界でも、騎兵がついに花形兵種となり得なかった理由がそこにある。
騎兵を戦場の主役から引きずり落とした存在。
それは火力である。
圧倒的な攻撃力を誇るまでに進歩した火砲の前に、機動力を旨とする以上それを跳ね返すだけの防御力を持てない騎兵という兵種は為す術がなかったのだ。
無論ハルケギニアにも、ホウライやリルガミンにもそこまでの進歩を遂げた砲はない。
だが必要な火力は、呪文という形で彼らに備わっていた。
ハルケギニアとは比較にならないほど強力な攻撃呪文が数多く存在するショウ達の世界において、非常にコストが高いにもかかわらず高位の攻撃呪文一つで容易く全滅しかねない騎兵という兵種は、主力とするにはあまりにもリスクが高かったのである。

そして今、それがハルケギニアの片隅で証明されようとしていた。
ショウの発する韻律とともに周囲に強力な魔力が満ちる。
不吉さを感じさせる一音を最後に詠唱が唱え終えられたその瞬間、黒い騎手達は一人残らず崩れ去った。
隊列を乱して逃走した、と言うのではない。数千年を経たミイラのように風化し、粉になり、風に舞う一陣の塵となったのである。
文字通りの全滅であった。

同時にヤンは口の中に嫌な味が広がり、鼻が悪臭とも刺激臭とも付かないものを捉えたのを感じている。
ちらりと上を見れば、上を封鎖して今にも仕掛けようとしていたガーゴイル達のうち、ショウ達の向かって前方に位置していた三分の一ほどが同様に塵と化し、包囲網に大きな穴が開いていた。
呪文の詠唱で区別などは付かないものの、ヤンはこれと同じ現象を見た事があった。
魔術師系5レベルに属する広範囲殲滅呪文、塵化(マカニト)である。
この呪文は大気中に特殊な毒ガスを生成する。
それを吸い込んだ生物は――たとえそれが異界のそれであろうとも――その毒に耐えきるだけの生命力を持たない場合、即座に死に至り、さらに毒の魔力によって肉体の物質組成を崩壊させ、一陣の塵と化さしめるのである。
対象に直接作用する訳ではなく、あくまでも大気に影響を及ぼす呪文であるから呪文無効化能力の影響も受けない。
呼吸を行わないアンデッドのたぐいや毒に耐えるだけの生命力を持った敵に対しては全く効果を発揮しないが、有効な敵に対してはまさしく防ぎようのない必殺の呪文であった。
ガーゴイル達もその効果範囲に入り、同じように塵と化した。
こうして、黒き騎手達の突撃はショウの呪文一つで文字通り全滅の憂き目を見たのだった。

無論、これで終わりではない。
ショウの呪文は敵の先鋒を防ぎ止めたに過ぎないのである。
動揺に隊列を崩したとは言えまだ五十を超える数のガーゴイルが空に舞っているし、全滅した黒の騎手の後方からは甲冑の悪鬼、フィーンドどもが迫りつつある。
戦いはまだ始まったばかりであった。


人間にしてはやるものよ

ねじくれた角を持つ美麗な青年、アークデーモンが言葉と裏腹にさほど感嘆した風でもなく呟いた。
彼と配下の奈落王(ヘルマスター)たちは突撃に参加せず、戦況を注視している。
その視線の先ではフィーンド達にリリスの猛炎(ラハリト)とルイズ、キュルケ、タバサの魔法がそれぞれ打ち込まれ、十体ほどが倒されていた。

「何を悠長な事を言っている! 貴様らもさっさと行かないか!」

不要だ

「何だと!?」

怒鳴るワルドに冷たい一瞥をくれた後、アークデーモンは視線を戦場に戻した。
事実、戦況は大きく悪魔族の側に傾いている。
残りのガーゴイルをショウの二発目の塵化(マカニト)で屠ったものの、塵化に耐性があり呪文抵抗能力に長けたフィーンド達をリリス達の呪文で止める事は出来ず、残ったフィーンドが素早く展開してショウ達を囲み、乱戦に近い状況になっていた。
板金鎧を着けた重装だというのに、フィーンド達の動きは恐ろしく速かった。もっとも悪魔族の事、甲冑に見えるのは見た目だけで、それが本来の表皮なのかも知れない。
一体一体はショウならば一太刀で、ヤンでも上手く当たればどうにか一太刀で倒せる程度の敵である。
だが力量に差があろうとも、開けた場所で6対20、しかも壁になれる戦士系はそのうち二人という状況では圧倒的不利なのはショウ達のほうであった。
前衛が後衛を守って直接戦闘を行い、後衛は呪文による遠隔攻撃や支援を行う、というのはあくまでも迷宮の中だから成立するセオリーである。
狭い迷宮の中でなければ、数に勝る戦力要素など無い。
包囲され、後衛を直接剣で攻撃されては、もはや陣形や戦術どころの話ではなかった。

現在ショウ達はショウ・ヤン・そしてリリスを三方に配置して敵の直接攻撃を受けとめ、残りの三人を守るというかなり無理のある陣形で戦っている。
司教であるリリスを前に出すなど狂気の沙汰だが、鎧の一つも身につけていないルイズ達ではフィーンドの攻撃を受ければ即死しかねない。
故に壁を務める三人はルイズ達を直接攻撃しようとするフィーンドをなんとしても阻まねばならず、自然その動きは大きく制限されていた。
また呪文無効化能力を持つ敵を相手に呪文はさほど効果が無く、鳳龍の剣は乱戦になってしまっては味方を巻き込まずには使えない(使えるとしてもそう言った技は単体攻撃用である)。
フィーンド達も心得たもので、ショウの正面には最低限の人数しか居ないように陣形を組んでいた。
それ以前にリリスは治療呪文の詠唱で、ショウは前衛職でないリリスの分をカバーするために、それぞれ攻撃呪文を唱えている余裕など無い。
いちどきにけりを付ける事も出来ず、三人の身体にはみるみるうちにダメージが蓄積されていった。

「ふむ・・なるほど、これなら」

そうした戦況を見て取ったワルドは落ち着きを取り戻したようだった。
何を思いついたか、その唇がニヤリと、邪悪な笑みを形作る。



「うぐっ」
「キュルケ!」

フィーンドの剣が、キュルケの脇腹に突き刺さった。
一体のフィーンドが捨て身で突貫してきたのにショウが対応しているうちに、逆側から剣が突き出された。
当然、突貫してきたフィーンドはショウによって斬り捨てられたが、その対価として逆側のフィーンドはキュルケに深手を負わせることに成功したのである。
ブラウスがみるみるうちに赤く染まり、肉体的ダメージに慣れていないキュルケは苦痛に耐えかねて膝を突く。
タバサが振り向こうとするが、その隙を狙ったフィーンドがまたしてもカバーを破って剣を繰り出し、タバサは慌てて身をかがめて回避した。
ヤンが剣で腕を狙ってその攻撃を弾くが、次の瞬間には正面のフィーンドがヤンに剣を振り下ろし、左のフィーンドがまたもやカバーを破ろうと剣を突き込む。
正面の攻撃は鎧に当たるに任せ、中のキュルケ達を狙った左の攻撃は楯を叩き付けて勢いを止める。
先ほどからこのような繰り返しであった。
リリスは呪文を詠唱しながら自分の身体を楯にするのが精一杯で、脇を抜けていく剣までは防ぐ余裕もない。自然、ショウとヤンの負担は重くなる。
ショウはそれでも攻撃を見切って鎧の肩当てで上手く滑らせたり、最小限の動きでいなしていたりしたが、ヤンにはそんな余裕はとても無かった。
『英雄の鎧(アーマー・オブ・ヒーローズ)』を初めとする最高級の防具を装備しているとは言え、こんな戦い方では中身がもつはずもない。
だが引く訳にはいかない。
ヤンは戦士なのだ。
敵を切り裂く剣であると同時に仲間を守る楯なのだ。
彼が出来る事は、仲間を信じて自分の役割をこなす事以外にない。
キュルケの事を思い、噛んだ唇から血が流れた。

(クレバーに、いかなる時もクレバーにだ。俺が冷静さを欠いたら、誰が敵の攻撃を止めるんだ!)

パーティの先輩の教えを思い出し、必死にフィーンド共の剣を止める。
敵の数を減らすのはショウやルイズ達がやってくれる。
キュルケの治療はリリスさんがやってくれる。
だから俺も自分の役割をまっとうしなくてはならない。
そう自分に言い聞かせ、ヤンは剣と、楯と、自らの肉体をもって敵の攻撃を防ぎ止め続ける。
それが勝利に繋がると信じて。



打撃を必死にかわし、また鎖かたびらで受け止めながらリリスは必死に治療呪文を詠唱する。
タバサが手短に唱えた水のルーンで傷は一応ふさがったようだが、まだショック状態から抜けきれずに立ち上がれないでいるキュルケには、最低でももう一度治療呪文を唱える必要がある。

「ぐっ」

フィーンドの剣が胸を叩き、詠唱が途切れる。
さすがに『守護者(ガーディアンズ)』の為の武具と言うべきか、薄手の鎖かたびらは刃を通す事もなく、ダメージの大部分を防いでくれたが、それでも剣のぶつかる衝撃だけは殺しようもない。
リリス自身、先ほどからこうして自分の身体にダメージが蓄積されている事はよく理解している。元よりリリスはエルフの中でも脆弱な方であり、マスターレベルを超えた今でも平均を大きく下回る頑健さしか持っていない。
このままではじり貧だという事を理解はしていたが、それでも今は耐えて凌ぐしか手がなかった。
その視界の端に、自分の右横の空間目がけて突進してくるフィーンドが映る。
キュルケを狙っている、と直感して青くなる。今一撃を受ければ、間違いなくキュルケは死ぬだろう。
リリス自身は動けない。自分の身体で庇おうものなら、その隙間から別のフィーンドが入ってくる。それを防ぎ止めるための身のこなしをリリスは持っていない。
本来ならそれを防ぎ止めるべきショウは三体のフィーンドを同時にさばいており、手が回らない。
それでも肩をぶつけてはじき飛ばそうとしたショウを渾身の体当たりで弾き、フィーンドはそのまま剣をうずくまったキュルケの無防備な背中に突き刺そうと振りかぶる。

「キュルケ!」

タバサが叫ぶなど、かつて無い事ではあった。
戦いの中で戦いを忘れる事も又しかり。
だがタバサの目の前で、フィーンドの剣は止まっていた。
その切っ先が、桃色の髪をかすめている。
ルイズが、覆い被さるようにしてキュルケをかばっていた。
恐らくルイズを絶対に傷つけるなと言う命令が出ているのであろう、フィーンドはぎりぎりの所で剣を止めたのだ。
次の瞬間、鋼の光が一閃しフィーンドの腰が上下に分かたれる。剣を翻したショウの斬撃であった。
上下生き別れとなって地に転がったフィーンドは傷口から細く黒い煙を上げ、僅かの時を置いて黒いもやとなって崩壊し、空気に溶けて消えた。
この時、固く目をつぶっていたルイズがようやくまぶたを開いた。

「ボケッとしてるな桃色頭! さっさと自分の仕事をしろ!」

こわごわと辺りを見回そうとして、ショウから飛んできた叱責にルイズは首をすくめた。
が、それも一瞬。すぐに普段の調子を取り戻しショウに噛み付く。

「何よ! あなたが失敗した分をカバーしてあげたんでしょ! それと桃色頭って呼ぶんじゃないわよ!
 ・・・そうだ、こいつら私を攻撃できないみたいだし、リリスの代わりに前に立ったら楯にならないかしら!」
「そんな事したらお前がさらわれて終わりだろうが。良いからキュルケさんはリリスさんに任せて、さっさとやる事をやれ!」

フィーンド二体をはじき飛ばして後退させたショウが、苦笑しつつも再びルイズを叱咤する。
ルイズは頬をふくらませたが、こうしている間にもショウ達にダメージが蓄積しているのは確かである。
立ち上がり、呪文を唱えようとして斜め下からの視線に気づく。
苦しい息の中、キュルケが笑みを浮かべて見上げていた。

「助かったわ・・・取りあえず礼は言っておくわね」
「ふん、なんならそのまま寝てなさい! あんたなんか居なくても、こんな程度の奴らはどうって事無いわよ!」

そっぽを向いて呪文を唱え始めたルイズの、その頬がかすかに紅潮している。

「そうはいかないわね。ヴァリエール如きにこのキュルケ・アウグスタが劣る訳がないと、きっちりはっきり証明しなくっちゃ」

キュルケが苦痛に耐えながらも不敵にうそぶく。
その笑みはますます大きく、闘志に満ちあふれたものになっていた。



ショウやヤンが身体を張って内側のルイズ達を守り、リリスは自らも攻撃に晒されながら泥縄式に回復呪文を唱えて自他の負傷を癒す。
それでもパーティ全体としては体力を削られていったが、リリスの呪文がなくばそれももっと早くに破綻していたはずである。
時折、攻撃の際に隙を見せたフィーンドをショウがカウンターで切って落とし、内側のルイズたちは無効化される事を覚悟の上で魔法を集中、ダメージを蓄積させ、フィーンドを一体ずつ駆逐していく。
ルイズを巻き込む事を恐れてか攻撃呪文を使用しないので助かっているが、フィーンド達が呪文を併用して攻撃するか、あるいはアークデーモンやヘルマスター達が投入されれば、恐らくその時点で勝負は決していたはずである。
だがアークデーモンは薄く笑みを浮かべたまま動かず、ワルドも動きを見せない。
疑念と警戒を抱きはしたものの、リリスにも、タバサにも、無論ショウにもその場を凌ぎつつ敵の数を少しずつ減らしていく以外に打つ手はなかった。
もっともリリス達に考えがない訳ではない。
『召喚の書』を介しているとは言えワルドが悪魔族を召喚したのはあくまで呪文、魔法によるもの。
当然、あれだけ大規模な召喚を行えば、膨大な精神力を消費しているはず。
まだ余力を残しているとしても、あれほど大規模な召喚を行う事は少なくともこの戦いの間は不可能であろう。
ならば、凌いで敵の数を減らしていけばまだ逃げるなり戦うなり勝機はある。
いくら無敵の防護壁に守られているとは言え、攻撃手段が無ければワルドも戦えまい。
ショウ達はその一点に賭けてぎりぎりの攻防を繰り広げ続けた。

そのような、肉体と精神を削るような戦いが十数分は続いたであろうか。
ワルドの「退け!」という命令と共にフィーンド達がショウから離れた。
この時、二十体いたフィーンド達は七体にまでその数を減らしている。
対してショウ達は外側の三人が満身創痍、キュルケとタバサは一度ずつ深手を負い治療呪文を受けはしたが全快にはほど遠い。加えてフーケとの戦いからの連戦で体力も精神力もかなり消耗している。
それでも戦意だけはいっこうに衰えていなかった。
包囲が解けたのを奇貨として、リリスが治療呪文を詠唱し始める。
何をする気か知らないが、この間に回復できる限り回復しておこうというのだ。
帰還(ロクトフェイト)の不発もあり、既に切り札の快癒(マディ)は6レベルの使用回数4回のうち3回を消費してしまっている。
時間に余裕があるうちに1レベルの治療呪文、封傷(ディオス)でちまちまとでも回復しておかなくてはならない。
回復量を考えれば5レベルの大治(ディアルマ)が快癒(マディ)に次ぐのだが、封傷(ディオス)の三倍の回復量を持っているだけに、戦闘中の危急の時のためになるべく取っておきたい所である。
そうしたリリスの意図を知ってか知らずか、ワルドは笑みを浮かべ、勿体を付けるかのように悠然と歩み寄ってくる。その後ろにアークデーモン達も続いている。
余裕を見せつけたいのか、実力を見せつけるために準備を整えさせた上で完膚無きまでに叩き潰すつもりか、あるいはその両方か。
どちらにせよ、この場合はワルドのその余裕が付けいる隙だった。
だが二回目の封傷(ディオス)を唱え終えた辺りで、リリスは次の呪文を唱える事も忘れて絶句することになった。

ショウ達と十メイルほどの距離にまで近づいた辺りでワルドが立ち止まる。アークデーモン達も同様だ。
ワルドは杖を腰に戻し、左手に召喚の書を持つのみとなっている。
己が絶対的な優位に立っているという余裕からか、その態度と表情は果てしなく尊大だった。

「さて、ルイズ・・」
「お断りよ!」

みなまで言わせず、ルイズがぴしゃりとワルドの言葉を断ち切る。
だがそれも、ワルドの笑みを深くさせたに過ぎない。

「これを見ても?」

ぱちり、と芝居がかった仕草でワルドが右手の指を鳴らした。
ワルドの背後で再び空間が揺れる。
一つ、三つ、七つ。
キュルケが息を呑んだ。
十、二十、三十。
三度目の封傷(ディオス)を唱えようとしていたリリスが絶句して立ち尽くす。
四十、六十、八十。
愛刀を握るショウの拳が、力を入れる余り真っ白になる。
無意識にであろうか、怯えた表情のルイズがその肩にすがりついた。
召喚による空間の乱れが収まった時、そこには百あまりの影が現れている。
4m近い巨体に山羊の頭、四本の腕を持つレッサーデーモン。先ほど戦ったのは五体。だが、今や赤い巨体が森の広場を埋め尽くしていた。


「・・・信じられない。さっきあんな大量召喚を行っておいてまたこれだけの召喚を行うなんて。人間の精神力じゃ到底不可能だわ」

リリスの言う事は正しい。
どんなに鍛え上げようとも、人間には限界がある。
技や見切り、しぶとさと言ったものはともかく、人間という枠の中にいる以上少なくとも肉体的能力や精神力に関してはどのような超人であれ一定の限界があるはずであった。
リリスの世界ではそれは呪文レベル毎の使用回数の限界という形で現れる。
彼女の世界の呪文は、使用すればそのレベルに応じて脳と精神の特定の領域に負担を掛ける。呪文レベル毎に負担のかかる領域は決まっており、いったん消耗した領域は休息を取らなければ回復する事はない。
その負担を掛けられる回数がいわゆる「MP(マジックポイント)」、呪文使用回数であり、どのような達人であろうとも負担に耐えられるのはレベル毎に9回まで。
人間である以上それを越える事は出来ない。
それが彼らの世界の常識であり、リリスもまた、今の今までそう考えていた。
だからこそワルドの精神力の枯渇を見越し、凌ぎに凌いで勝機を待っていたのである。
無論次元の壁を越えるために必要なエネルギー、イコール召喚者の負担は、召喚する存在の力が巨大であるほど幾何級数的(分かりにくければ召喚するコストが存在の持つ力の自乗に比例するとでも考えればよい)に増加していく。
故にアークデーモンのような高位存在を召喚せず、比較的低級なレッサーデーモンで揃えた今回の召喚は先のそれほどの負担をワルドに強いてはいないだろう。
しかし、繰り返しになるが戦場で最も物を言うのは常に数である。
レッサーデーモンとは言えこれだけの数をまだ召喚できるとなれば、いまや彼らの戦術は根底から覆されたも同然であった。
首を振り、言葉を繰り返す。

「信じられない。あの男、本当に人間・・?」

リリスは勘違いしているが、ワルドの精神力は並外れては居ても決して人の枠を越えるものではない。
だが、実際にワルドが連続で行使できる魔法の数は、スクウェアという事を考慮に入れても並のメイジとは文字通り桁が違う。
若くして魔法衛士隊の隊長の座に着く事が出来たのも、その並外れた精神力と決して無関係ではない。
ハルケギニアの歴史をひもとけば時折このようなメイジが現れることがあり、ワルドもそのような天才の一人だと思われている。
が、それは事実の一面に過ぎない。
正確に言えばそうしたメイジたちは感情を精神力に変換するための「ある資質」を断片的に受け継ぎ、発現させているのである。
加えて、彼らは例外なく心に激しい負の感情を持っており、それを常にくすぶらせ続けている。
例えば憎悪。例えば復讐心。大切な者を失った悲哀。誰かへの嫉妬。侮辱された事に対する怒り。何らかのコンプレックス。報われない恋への懊悩。
それらを心の底で燃やし続ける事により、彼らは精神力という力の糧を得る。
憎み続け、悲しみ続け、怒り続け、殺意を抱き。乗り越えられぬコンプレックスや報われぬ慕情に苦しみ続ける限り、彼らは精神力を消費し続ける事が出来る。心の安らぎや得られたかも知れない何かを犠牲にして。

ワルドとてその例には漏れない。
心の底に常に抱き続けてきた失われた母への慕情と悲哀。力への渇望。腐った貴族社会への憤怒。
そして今や他の全てを圧倒するショウに対する嫉妬。
それらが常にワルドの中に新たな精神力を生み出し続ける。
無論、常人ではそのような激しい感情を常に心にくすぶらせ続ける事などできない。
やろうと思っても心が耐えられない。
自らの安定の為に、心は感情をどこかでセーブし徐々に落ち着かせ、やがて忘れていく。
その自然な心の働きをワルドは持っていなかった。いや、必要としなかった。
それだけの憤怒と渇望と嫉妬に耐えられる、歪んではいるが人並み外れた心の強さを彼は持っていたからだ。
そう言う意味では、彼も間違いなく英雄たる素質を持ち合わせた男であった。

そして今もワルドの嫉妬は新たな精神力を生み出し続けている。
レッサーデーモンの群に怯え、絶望の影すらよぎらせながらも、ショウにすがりついてそれをこらえようとするルイズ。
そのショウに対する嫉妬が、憎しみが、自分の思うままにならないルイズに対する怒りが、荒野に湧き出た水が乾いた大地を潤すかのように、ワルドの心を精神力で満たしていく。
これこそがワルドの尽きせぬ精神力の秘密であった。
ねためばねたむほど、憎めば憎むほど、怒れば怒るほど彼は強くなっていく。負の感情に顔をゆがめるワルドを見て、アークデーモンがよこしまな笑みを浮かべていた。
人の負の感情こそは彼らが喰らう好餌であり、負の感情が強ければ強いほど、別の意味でも彼らにとっては都合がいい。
そしてワルドの視線の先には、今なお怯えショウにすがりつくルイズ。
ぎり、とその奥歯が鳴った。

「・・・・・・・のか」
「え?」
「そんなにそいつがいいのかと聞いているっ!」

今までとは違った激昂を見せるワルドにさらに怯えたか、ルイズが一歩後ろに下がり、半ばショウの影に隠れる。
それでもその肩にすがった手は離さない。
一瞬遅れてワルドが何を言っているのか気づき、その顔が赤く――今度は羞恥で――なった。

「ち、違うわよ! ショウとはそんなんじゃなくて、使い魔! ただの使い魔よっ!」
「だったらどうして君はそんな奴にくっついているんだ! 何故僕を受け入れてくれないんだ!」

絶叫。
そしてまさしく血を吐くかのようなワルドの叫びに、きらりと目を光らせたものが居た。

「決まってるじゃない! ルイズはショウにファーストキスを捧げたからよっ!」

キュルケである。
いつの間にか彼女はルイズの後ろに立ち、ワルドに指を突きつけていた。
その言葉を受けてルイズが吹き出し、ワルドが絶句した。特にワルドはその可能性を完全に失念していたのか、愕然とした表情をしている。
ショウもそう言う言い方をされると流石に気恥ずかしいのか、僅かに頬を赤らめていた。

「な・・ななななっ!」
「ちょ、キュルケ?! 何言ってるのよ!」

動揺の余り意味のある言葉が出ないワルド。
一方ルイズは赤い顔をさらに赤らめてキュルケに反論する。
当のキュルケはいたずらっぽい光を目にきらめかせていた。

「事実でしょ?」
「使い魔召喚の儀式での事なんだからノーカン! ノーカンよ!」
「そ、そうだな! 使い魔召喚の儀式での話ならカウント外に決まっているな!」
「そうよ! ファ、ファーストキスをショウに捧げたなんて事、ある訳無いわ!」

期せずして息をぴったり合わせていることにも気づかず、ルイズとワルドが声を揃えてキュルケの意見を否定する。
そんな二人と、何とも表現しがたい微妙な表情になったショウとを見比べ、キュルケは余裕を崩さずあでやかに微笑む。

「あぁら、私はダーリンに愛情のこもった口づけを捧げたけど? それとも、あなたにとって、ショウはその程度の価値もない存在なのかしら?」
「そ、それは・・!」

思わず口ごもるルイズ。
顔を伏せながらちらちらとショウの様子をうかがう。
視線を飛ばされたショウはどういう反応をしていいかわからず表情を強張らせ、一方ワルドは必死にそれを否定しようとしていた。

「ルイズ! 何をためらう事がある! さっきただの使い魔だって言ったばかりじゃないか!? さぁ、言うんだ、ショウの事なんか何とも思ってないと!」
「あ、あなたには関係ないでしょ!?」

今までで一番鬼気迫る表情のワルドに、顔を引きつらせながらも拒絶を示すルイズ。

「ふふ、男の嫉妬は見苦しいですわよワルド子爵?」
「し、嫉妬じゃない!」

キュルケの言葉を反射的に否定したものの、ワルド自身その言葉を信じてはいないし、誰も信じないだろう。

「やれやれ、しょうがないですわね。ならショウ、この状況を解決しちゃいなさい」
「解決?」

そもそもあなたがこういう状況にしたんだろう、という言外の意を込めてショウがキュルケを見た。その視線に些か白いものが混じっているのは気のせいではあるまい。

「簡単よ。あなたがルイズにキスするの。それでファーストキスについては決着が付くし、ルイズも自分の気持ちに素直になれるし、子爵も諦めが付くでしょ」
「なっ」
「ツェルプストーッ!」

何を言い出すんだ、と言おうとしてショウはルイズの絶叫に言葉を遮られた。

「いきなり何言い出すのよ!」
「そうだ、破廉恥な!」

再び息を合わせ、ルイズとワルドがキュルケに詰め寄る。
案外この二人相性が良いんじゃないかしら、でも子爵の方はどうにも気に喰わないのよね、などと考えつつキュルケは次の一撃を繰り出す。

「あら、ルイズはショウとキスするのが嫌なの?」
「そ、それは、その、そう言う問題じゃなくて」

ルイズが再び顔を赤く染めて口ごもる。

「ほらね?」
「・・・・何が『ほらね?』なんですか?」

満面の、胡散臭さ一杯の笑みを向けられ、ショウは半目でキュルケを睨む。
無論キュルケはショウ程度の白い目など物ともしない。

「女が完全に拒否してるならともかく、ためらっているのは『強引にいけ』ってサインよ? やっちゃいなさい、ほれ、ぶちゅーっと」
「できますかっ!」

思わず声を荒げるショウに、実に意外という表情を作ったキュルケが首を傾げる。

「あら、ルイズの事が嫌いなの?」
「そう言う問題じゃありませんっ!」

顔を真っ赤にして怒鳴るショウ。
頭に血が上っているのか、ないことに隙だらけだったが、ワルドにそれに乗じる余裕はない。デーモン達も動かなかったが、案外彼らも呆れていたのかも知れない。
だが、それに乗じた人間がただ一人いた。

「なっ!?」

いつの間にか後ろに忍び寄ったヤンが、ショウを羽交い締めにしていた。
本人がこうも隙だらけでは、ショウ得意の察知もさすがに機能しようがない。
そして剣士としての力量はともかく、腕力自体は二回りほども体格に勝るヤンの方が強かった。

「何をするんですか、一体!」
「ごめんショウ君! 取りあえずそのままおとなしくしていてくれっ!」

そう言われておとなしくできるはずもなく(何せ絡んでいるのはキュルケだ)、ショウがもがく。

「ちょっとツェルプストー!?」

ルイズの声を聞いてショウがそちらの方に振り向いたその刹那、視界一杯にルイズの顔が広がり。
次の瞬間、唇と唇が、ぶつかった。


動きが止まった。
羽交い締めにされたショウと、同様の姿勢でキュルケに持ち上げられたルイズの唇が空中で密着している。
互いに何かを言おうとしていたせいか、口は半開きになっており、互いの舌も先っちょが触れ合っていた。
ショウも、ルイズも、「ズッキュウウウン!」と音がしそうな程に微動だにしない。
そのまま唇が触れ合う事数十秒。ようやくキュルケがルイズを下ろし、ヤンも羽交い締めにしていたショウを解放する。
だがあまりの事に脳の処理が追いつかないのか、ショウもルイズも微動だにせずただ呆然とお互いを見つめるばかり。
ふぁさ、とキュルケが髪を掻き上げた。
艶やかに微笑み、ワルドに指を突きつける。

「見たか! ルイズのファーストキスはあなたのものじゃない! このショウのものよっ!」
「さすがキュルケ、私たちの想像も付かないことをやってくれる」

呆れ半分、感心半分といった様子でタバサが呟いた。

「そこにシビれるッ!」
「愛してるゥ!」

そこにノリの良いリリスとヤンが便乗する。
後者は直後我に返ったショウに思い切り殴られて悶絶していたが。

にまぁ、とワルドの顔を見たキュルケが笑う。
だが実際、その時の彼の顔こそ、末代まで語り継がれるであろう見ものだった。

「これぞ『ファーストキスから始まる二人の恋のヒストリー』っ! そう、そうよ子爵! あなたのその顔が見たかったのっ!」

花を無理矢理散らされた処女のような表情のワルド。
実際、彼にとってはルイズの純潔が目の前で無理矢理奪われたに等しい。トリステイン貴族はそう言った事に厳格だというのもあるが、それ以上にマザコンは女性に幻想を抱く物なのである。
顎に手を当て、キュルケは高らかに笑う。
タバサにしても、これほど気持ちよさそうに笑う親友を見たのは初めてだった。
ひとしきり笑いを収めた後、タバサが彼女に囁く。

「それで、これからどうするの? キュルケにも何か考えがあってのことだと思うけど」
「そんな事言われても、あいつの泣きっ面を見たいと思っただけで、この後どうするかなんて考えてなかったわ!」

胸を張って威張るキュルケを、タバサは物も言わず杖で殴り倒した。
倒れたキュルケを、真っ赤になって再起動したルイズがげしげしと蹴りまくっていたのは、まぁご愛敬か。
だがそれも、不意に湧き起こった怒気に六人がそちらを振り向くまでの事だった。



「それで、言いたい事はそれだけかね、ミス・ツェルプストー」

余りに怒ると人は笑顔になるというが、どうやら本当らしい。
目の前でルイズのくちびるを奪われたショックから再起動を果たし、満面の笑みを浮かべたワルドは、それはもう怖かった。

「あら、何かまずい方向に行っちゃったかしら」

体中に靴跡を付けながら、キュルケがタバサに囁いた。

「・・・どうせあのままでもじり貧だったし、結果は大差ない」

溜息をひとつつき、タバサはワルドに向き直った。
先ほどから怒気と共にワルドが放射している物がある。
それは殺気。
それまであった痛めつけようなどと言う意図を全く含んでいない、純粋な殺意。
タルブの村でケイヒの殺気を感じていなかったら、タバサやリリスはともかくルイズは耐えきれずに気を失っていたかも知れない。
直接彼女に向いたものではなかったとは言え、若くして魔法衛士隊隊長の一角の座を占めた男の殺気はそれほどのものであった。

「ルイズ」
「な、何よワルド」

僅かに声が震えた。
それに気づいたかどうか、殺気は微塵も衰えさせぬまま、笑みを引っ込めたワルドは言葉を続ける。

「これが最後だ。僕の所に来い。そうでなければ君の使い魔を殺す。君の友人たちも殺す。魔法学院にこいつらをやって、そこにいる全員を殺す。ヴァリエール家の人々、そこに仕える者も一人として生かしてはおかない」
「そ、そんな事が・・・」
「出来ないと思うかね?」

今度ははっきりと震えの来た声で何かを言おうとしたルイズを、ワルドが――口調だけは――やんわりと封じる。

「例え“烈風”カリンといえども、こやつらを二、三十匹もけしかければ生きのびられはすまいよ。君の場合と違って手加減する必要はないのだからな。
 だが」

と、ワルドは一度言葉を切った。

「君が僕の元へ来るというならこの場は引き上げよう。君の友人にも、君の家族にも、そして君の使い魔にも手を出さない。僕の母に掛けて誓おう」

重々しく頷いたワルドをショウが睨む。

「仮にそうしたとして、お前が約束を守るという根拠は」
「あるわ」
「・・ルイズ?」
「今ワルドはお母様に誓ったわ。だったらワルドがそれを違える事はない。ワルドにとって、お母様はそれくらい大切な存在なの」

無論、ルイズが物心つくかつかないかの頃に死んだワルドの母とワルドの事など、ルイズが直接知る訳もない。これは父から聞いた事である。
もっとも、当時のルイズの反応が「それだったら私がワルドのお母様になって上げる!」だったのは手ひどい運命の皮肉と言うしかあるまい。

「言っておくが、実行できないなどとは思ってくれるなよ、ルイズ。やると言ったら僕はやる。君の仲間も、学院も、ヴァリエール家も、いや、たとえトリステイン全土を殺し尽くそうとも僕は君を手に入れてみせる。
 必ず、なんとしてでもだ」
「今度は俺にも分かる――こいつは、必要だったら本気でトリステインの人間を皆殺しにする気だ」

視線はワルドから外さぬまま、ショウが吐き捨てる。
気がつけば、ルイズの歯がカタカタと鳴っていた。
今更ながらにワルドの持つ力に恐怖し、トリステイン一国を殺し尽くすと言い放つワルドに恐怖し、そして自分の選択にそれだけの重みが生まれてしまった事に恐怖している。
多少の修羅場をくぐり抜けようとも、ルイズは未だ十六歳の少女に過ぎなかった。一国を背負って立つべく養育された訳でもなければ、全てを仕方がないで済ませられるほどに冷酷でもない。
そんな少女がそれだけのものを背負う覚悟など、出来ているはずもなかった。

「その通りだ。よく考えたまえ、ルイズ。トリステインの全ての人間の命が君の選択にかかっているのだ。君が選択を間違えれば、貴族も平民も関係なく平等に全てが死に絶える。全てが、だ」

ワルドの視線から逃れるように、ルイズは視線をさまよわせる。
キュルケはまっすぐに真摯な視線を見返してきた。
タバサはいつも通りの無表情なまま。
リリスは困ったように微笑んだ。
ヤンはもぐもぐと何かを言おうとしていたが、言葉にならなかった。
そしてショウ。
ルイズの視線にショウが視線を返し、気づけば結構長い間見つめ合っていたらしい。
ワルドを含めた五人の視線が集中している事にルイズは気づいた。

「あ、あの・・」

それに押されるように、ルイズの口から言葉が出る。

「ショウは、ショウはどうすればいいと思う?」
「俺に聞く事でもないだろう。モット伯の屋敷で、お前はなんと言った?」

ぶっきらぼうな返事に、ルイズがはっとする。

「でもこれだけは言えるぞ。俺に出来るのはせいぜいお前と、お前の大事なものを守ってやるくらいの事だ。だから、どんな状況になろうともお前は俺が守ってやる。
 何せ俺は・・・俺はその」

口ごもるショウ。
ルイズは息を詰めてその続きを待った。
その後ろでキュルケの目が、時と場合をわきまえずにキラキラと輝き始める。

「その、ルイズの使い魔だからな」

これまでのそれと何が違ったのか、ショウが言ったその言葉にそれでもルイズの顔がぱっと明るくなる。キュルケが小さく「チッ」と舌打ちしたのは誰もが無視した。

「うん!」

最高の笑顔でルイズは頷いた。
土を蹴りつけ、ワルドに向き直って正面から対峙する。
キッと眉を寄せ、杖を突きつけた。

「ねえ、ワルド。私はあなたに憧れてたわ。ひょっとしたら恋だったかも知れない。でも違うの。もう違うのよ」

その声は凛々しくも厳しい。
ワルドは無言のまま、ルイズの言葉を聞いている。

「ショウも、キュルケも、タバサもリリスもヤンも、ギーシュやモンモランシーやシエスタたち学院のみんなも、勿論父様も母様もちいねえさまも私の大切な人達よ。誰か一人でも死んだり怪我したりしたらと思うとぞっとするわ。
 でも、だからって脅迫に屈するなら、それは逃げよ。それは冷静に物事を判断しているのではなく、行動を起こしてもいないのに最初から失う事を恐れて何もしない事を選択するに過ぎないわ。
 ワルド。私は貴族よ。貴族というのは魔法が使える人間の事でも、爵位を持つ人間の事でも、領地を持つ人間の事でもないわ。
 貴族とは、敵に後ろを見せない人間の事をそう呼ぶのよ!」

ふう、と深く息を吐くワルド。見ようによっては、感動に打ち震えているようにも見えたかも知れない。

「美しい・・・本当に美しいが、同時に愚かだよルイズ。これで僕は君の大事なもの全てを壊さなければならなくなった」

心底から残念そうに言うワルドに最後の一瞥をくれ、ルイズは杖を振り上げた。

「みんな、私に命を預けてちょうだい。詠唱の時間を稼いで」

言うなり、ルイズは詠唱を始めた。
時間を稼いだからと言って、ショウですらどうにもならないこの状況を自分にどうにか出来る訳がない。だがそんな考えは頭の片隅にも浮かばなかった。
ただ「命を預けろ」と自然に言葉が口を突いて出た。
気がつけば知らないはずの、見た事も聞いた事もないはずの呪文を口にしていた。まるで生まれた時から知っていたかのように。


 

第八話 『跳躍』後編