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 この話は1000万ヒット記念企画『Blank of 2weeks』の1投稿である『Do you know……?〜あなたは知ってる?〜』の続き物です。一応見なくても読める内容を心掛けましたが、興味のある方はぜひ先にそちらのほうをお読みください。















 父の顔も母の顔も知らない。
 マルコに限らず<護衛隊(ガード)>の隊員たちはクリムゾンによって拾われた捨て子や、親に売られた――比喩でも文字通りの意味でも――子供たちの中から選別淘汰された者たちである。同級生たちは過酷を極めた訓練課程で次々に命を落としていった。時として1つの2段ベッドを共有した仲間をこの手でくびり殺したこともあった。細かい数字は知らないが、生存率は1%を切るとも言われていた。無論、単なる護衛のための訓練ではここまでしない。彼らの本当の使い道はクリムゾンSSの特殊部隊として破壊工作や暗殺といった『汚れ役』を率先して行わせることだ。そのためにわざわざ戸籍を消された、人の縁もきわめて希薄な者たちを集めて教育・訓練するのである。どのように扱っても使い捨てても何処からも文句が出ないように……。
 ただ命じられるままに命を賭した訓練・任務に没頭する日々。
 親しくなったものの顔はある日突然見えなくなり、泣く暇さえなく、再び血と硝煙の日々が始まる。誰も頼れない。誰も護ってくれない。例え死んだとしても『損害・一』の3文字が添えられるだけ。記憶どころか記録にすらその名前は残らない。当たり前だ。親にすら捨てられた子供を、誰が護ってくれるというのか。誰が覚えていてくれるというのか。
「……お疲れですか、隊長?」
 隊員の言葉でマルコは我に返った。
「疲れる?」
 疲れてなどいない。また、そんなことを感じているだけの余裕も無い。他に覚えなければならないことが山ほどあったからだ。そうしなければ、生き残ることさえ出来なかったからだ。
「俺がか? そんなわけ無いだろう」
 マルコは憮然として答える。今までの任務で疲れたなどと思ったことは無い。むしろ<アクアの護衛兼使用人>という現在の任務は彼にとっては幸福とさえ感じられるものであった。
 ―――知っていますわ。マルコ・オーエン、でしょ?
 初めて会った時のことは今でも鮮やかに覚えている。アクアはこちらが名乗る前にマルコの名前を呼んだのだ。当時、まだ10歳にも満たない彼女は、そのまま彼の『用意された』経歴を得意そうな顔で言いあげていく。彼女にしてみれば少し驚かせてやろう程度の茶目っ気でしかなかったのだが、マルコにとってはそれが自分という人格を初めて他者に認識してもらえた時でもあった。
 それからというもの、マルコは任務にも訓練にもより一層の努力を重ねることとなる。主人の気まぐれに悩まされることも多かったが、初めて見つけた自分の居場所を護るために、彼は己のすべてを費やした。
 そして10年、もともと才能もあったのであろう。気が付けば彼はクリムゾンSSの中でも最高ランクの力を持つに至っていた。
「俺の心配など要らん。それよりも何かあったのか?」
「はい。アクア様がお呼びです」
「……そういうことは先に言え。分かった。すぐ行く」
 顔をしかめながらそう言うと、マルコは自分の(あるじ)の元へと歩いていく。彼の視線の先にはアクアと、後ろ手に縛られて気絶している中年の男がうずくまっていた。
「お嬢様、如何なされましたか?」
「ええ。そろそろウィーズさんが来る頃でしょうから、この方を起こして頂こうと思いまして」
 アクアはそう言って足元の中年を見やる。その中年は長身痩躯(ちょうしんそうく)で黒目が小さい、神経質そうな男である。首から下げられたIDプレートには『連合宇宙軍技術開発研究所月面支部所長アイヴァン・コラル・ヴェガ』と記されていた。
「……どうしましたの?」
 アクアが小さく首を傾げて尋ねてくる。豊かな金髪(ブロンド)がふわりと揺れて、長年使えているマルコですら一瞬どきりとするような優美さが顔を出した。
「い、いえ……別に」
 思わずマルコはアクアから視線をはずした。
(……また、ウィーズ・ヴァレンタインか)
 同時に心の中で舌打ちをする。
 思えば、あの女と出会ってから全てが変わってしまった。マルコは主と同じ顔のその女を思い浮かべる。
 初めの頃は本当に楽しそうなアクアを見ることが出来て、一抹(いちまつ)の悔しさはあったものの、ウィーズには(おおむ)ね感謝していた。
 だがしかし、何時の頃からか、彼はアクアの笑顔にある種の歪みを感じるようになっていた。何時からアクアの精神に異常が生じていたのか―――はっきりとした日時は分からない。ただ、マルコが気づいた時には、彼女の心は確実に病んでいた。
 まるで呪いだ。
 今のアクアはその価値観の中心にウィーズを据えており、彼女を優先するがあまりに、まともにものを考えることさえ出来なくなっている。
 今はまだ良い。今はマルコ達がしくじりさえしなければ、例え誰を殺そうともアクアを護ってやることは出来る。
 だがあの偽善者のことだ。ウィーズは決してこの行為を認めようとはしないだろう。その時―――突き放されたアクアは果たしてどうなる? 今度はどんな変化が訪れるのか、見当すら付かない。
(……くそ!)
 マルコはぶつけようのない苛立ちを込めてアイヴァンの腹を蹴り上げた。
「―――げぇ!」
 痛烈な一撃が彼の体をくの字に曲げる。アイヴァンは悲鳴とも(うめ)きともつかない声を漏らしながら、だがしかし後ろ手を縛られているため顔面から地面に叩きつけられた。
「ぐは、がはげほっ!」
 マルコはむせ返り地面をのた打ち回るアイヴァンの髪をつかむと、無理やり引き上げてアクアの方へと向かせた。
「ごきげんよう。連合宇宙軍技術開発研究所月面支部アイヴァン・コラル・ヴェガ所長」
「貴様は……」
「うふふ、とりあえずクリムゾンの人間とだけ言っておきますわ」
 言って、アクアは呼吸困難と激痛で涙も鼻水も垂れ流す彼を前にして、まるで何事もなかったかのように艶然(えんぜん)と笑いかける。アイヴァンにはそれが堪らなく恐ろしく見えた。
「ク、クリムゾンの人間が何の用です! こんなことをしてただで済むと思っているのですか!」
 アイヴァンは裏返った声で叫んだ。こういった者たちを相手に下手な刺激は命取りになる……そんな考えが脳裏を掠めたが、恐慌を起こしている彼の理性にはそれをとめることが出来なかった。対するアクアは慌てず騒がず、ただ静かな笑みを浮かべて言った。
「……そう。あなたは何も知らされてはいないのね」
 (あざけ)るような、(さげす)むような、何とも言えない笑い。強いて言うならそれは、これから屠殺場(とさつば)に向かう家畜を見るような、そんな絶対的力関係を背景にしたような笑いだった。
「昔々、月のある研究所での物語。そこには7つの実験ブロックと、誰も知らない秘密のブロックがありました」
「何を言って……」
「そこは秘密の実験場。倫理や道徳といった言葉を『必要悪』の一語で持って封じ込め、日夜無慈悲な人体実験が行われているという。そこからは毎夜決まった時間になると実験体となった者たちの無念の(うめ)きが聞こえてきます」
 それは……表向きにはよくあるタイプの怪談であった。何処にでもあるような7不思議のうちの1つ。連合宇宙軍の軍人であれば誰もが知っていることであろう。そして噂などというものは、存外簡単に伝わってしまう。それが忌まわしければ忌まわしいほどに、隠蔽(いんぺい)しようとするものたちを嘲笑(あざわら)うかのように、無責任な流言は素早く広く、人々の間に染み渡っていく。誰もが知りながら、しかし決して(おおやけ)の場では語られることのない……これはそんな噂。
「あるはずのない8つ目のブロック。何時しか人々はそこを忌まわしき念を込めて『第8研究ブロック』と呼ぶようになりました」
 真偽を知る者は少なく、語る者も聞く者もそこに現実味を感じることはない。精神と肉体にあらゆる刺激を与え、反応を調査し、生きたままに頭蓋に穴を開け、時として政府高官への臓器供給所としても活用された連合宇宙軍技術開発局月面支部の裏の顔。
「ある日のことです。その研究所に1人の女性が送られてきました。その女性は非常に珍しい能力を持っていたため、第8研究ブロックの面々は嬉々として彼女を調べようとしました。けれどあまりに珍しい能力であると同時に、非常に希少な実験体であった彼女には、殺してはならないという上層部からのお達しがあったのです。彼らは悩みました。最高の実験体を前にして思うように動けない歯がゆさ。しかし彼らは考えました。『それじゃあ、死なないように手を加えればいいんだ』と。それからの彼女の運命は凄惨なものでした。薬物の注入にも耐えられるように耐性を作り、人間の限界以上の耐久力と瞬発力を誇る筋繊維を移植し、なおかつ精神が壊れないようにナノ・マシンにより記憶を深層心理へと封じ込めていかれ……」
 通常、こんなことをしてしまっては実験結果も何もあったものではない。けれど彼らは異を唱えなかった。
 何故か。それは実験結果という目的よりも過程である実験自体に重きを置いていたためである。人体を切り刻み、薬物を投与し、ありとあらゆる刺激を与えることに価値を置いていたためである。健常者の考えることではない。だが(ことわり)の外で物事を考えた場合、1つの結論が導き出される。それはつまるところ、世の中には手段のためなら目的を選ばない(・・・・・・・・・・・・・・)ような、そんなどうしようもない人間が確実に存在するということである。そう、とどのつまりは彼らのような。
「貴様……それを何処で」
 アクアはアイヴァンの問いにただ口の端を吊り上げることで応える。
「ですが2年後、ふとしたことから彼女は研究所から逃げ出すことが出来ました。そして研究所で心身ともに傷つけられた彼女は、自分を(もてあそ)んだ彼らを殺してやりたいと思うにようになったのです。それはそうでしょう。なぜなら彼女は彼らのお遊びのために何の目的もなく辱められ続けたのですから」
 では……この女の背後にいるのは。
 悪寒さえ伴うような戦慄の中でアイヴァンはぼんやりと考える。
 トップシークレットである『第8研究ブロック』のことを知ることが出来て、なおかつ友好関係中のクリムゾンとの関係に一石を投じることが出来るだけの人物とは……!
「申し送れましたわ。私の名前はアクア・クリムゾン。クリムゾングループ総帥ロバート・クリムゾンが孫娘にして元第8研究所収容人物ウィーズ・ヴァレンタインの友人ですわ。今宵は彼女の願いを叶えるために馳せ参じました」
 言って、アクアは洗練された仕草で一礼する。それが合図だったのか、マルコはアイヴァンを離すと懐からリモコンらしきものを取り出して操作した。すると辺りに光源が生まれ、今まで星の明かり程度しかなかった周囲が明るく照らされる。
 逆行の中、彼は見覚えのある古びた工場を確認した。それは連合宇宙軍極東支部サセボ基地内のものであり、行方不明中(・・・・・)のピーター・スティーブンス……元『第8研究ブロック』の主任であった男の血痕が発見された場所でもあった。
 アイヴァンはごくり、と喉を鳴らす。アクアは自分を殺すために此処に来たと言った。最高のセキュリティを誇るはずの軍の基地に侵入したというの彼女の服装はまるで普段着のようなワンピースである。そして、この女は私が『何も知らされてはいない』と言った……。
 考えるまでもない。彼は反射的に逃げようとして、だがしかしマルコに足を強打されて、その場で盛大に転げまわった。
「あらあら。話を聞いていませんでしたの? あなたは今日これからここで死ぬんですのよ」
 うふ、うふと笑い声を漏らす合間にアクアが言ってくる。
「どう? 怖い? 怖い? うふふ。怖いんですの? ねぇ―――どう?」
「あ……ああああ……」
 アクアの問いかけにアイヴァンは涙も鼻水も――先ほどとは違う意味で――たらしながら、何度も何度も首を振った。
「うふふふ。怖いのね? 死にたくないのね? でもだめですわ。あなたが彼女にしてきたことをお忘れになりましたの?」
「ち、違う。私だって嫌だったんです! しかし軍の上層部に強要されて仕方なく―――」
 死にたくない。
 ただその一心で口を動かす彼の顔が突如、真横に吹っ飛んだ。アクアが横たわる彼の顔をサッカーボールのごとく蹴ったのだ。
「うふふ。この期に及んで責任転嫁……良いですわ。みっともなくって最高ですわ」
 言いながらアクアはアイヴァンを蹴り続ける。1回、2回、3回……一心不乱に彼を蹴り、踏みつけ、痛めつけた。
「ひ、ひぃ! 頼む。もう許してくれ!」
「許して、ですか。あなたはウィーズさんにそう言われた時どうしましたの? どうもしませんよね。だってあなた達は収容されていた方たちを『人間』として見てはいなかったのですから」
 彼らは収容者や被験者のことをいちいち考えたりはしない。それは人が食べるために魚や家畜を殺すことを哀れと感じないことと同じことである。
 『弱肉強食』とはなるほど言いえて妙だ。
 上にあるものは下に落ちる。夜の次には昼が来る。自分たちを絶対の上位存在だと思い込んでいたアイヴァンたちは、そういった事象と全く同じ次元で収容者たちを支配してきた。
 だがしかし、その理論で考えるのなら……
「もう分かっているんでしょう、アイヴァン・コラル・ヴェガさん? 私とあなたとの間には埋めようの無い差があることを。あなたが『弱者』としてあることを」
 そしてアクアは止めとばかりにアイヴァンの顔面を思い切り踏みつけた。彼の口の中で血と泥が混ざり合い、錆びた鉄の味が広がる。
 その直後―――
 さく。
 優しい音がした。
 人を蹴りつける打撃音に比べてとても小さい、包み込むような優しい音。
 3人は動きを止めて音のした方向、背後の桜並木へと振り返る。
「来たみたいですわね」
 彼女等の視線の先には、木々を吹き抜ける風に金の髪を(なび)かせて立つ、1人の女がいた。













mirrors set against each other
第伍幕 聖なる愚か者
presented by 鴇















 さく、ともう一度音がした。
 散ってしまった桜の花びらを踏みしめる音。彼女は一歩ずつ近寄ってくる。
 悠然と。泰然(たいぜん)と。
 使われなくなって久しく、清掃するものすらいなくなったこの道を、まるで自分が主であるかの如く彼女は進む。
 細い体と輪郭(りんかく)。透けるように白い肌と何処までも深い蒼い瞳。照明と星明りに反射する肩口で乱雑に切られた金髪(ブロンド)。舞い散る桜を背景(バック)にした非現実的なまでに幽玄な立ち姿。
 それは身に付けている衣服が極々ありふれている物だけに余計にそう感じてしまうのかもしれない。
 黒のニットに濃紺色のジーンズ、それに革製の黒いグローブという端から見たら地味なことこの上ない格好なのではあるが、その非常に優れた容姿がそういった印象を掻き消している。
「……アクア」
 女は『やっぱり』と『まさか』が()()ぜになったような複雑な表情でアクアに声をかける。
 アクアはそれに対してにっこりと笑うことで返した。
「思ったより遅かったですわね。ウィーズ・ヴァレンタインさん」
「―――な!?」
 これ見よがしに呼んだ名前にアイヴァンは目を見開いた。そして信じられないものを見るように目の前の女、ウィーズを注視する。
「……ま、まさか貴様が?」
 言葉とは裏腹に、アイヴァンは既に確信していた。彼女が元第8研究ブロック収容人物ウィーズ・ヴァレンタインであると。彼を殺せとアクア・クリムゾンに頼んだ者なのだと。
 アクアはがちがちと歯を鳴らしておびえるアイヴァンを横目にウィーズのほうへと歩いていき、そして無邪気に笑って言った。
「どうです? 私にかかればピーター・スティーブンスの始末もアイヴァン・コラル・ヴェガの始末も簡単でしたわ。難しいことなんて何もありません」
「アクア、これは犯罪よ……」
 ウィーズは呻くように言うが、しかしアクアは特に気にする風でもなく応える。
「大丈夫。既に軍の上層部には話をつけてありますから、決して罪に問われることはありませんわ」
 アクアは得意そうに胸を張る。そこに邪気はない。彼女にしてみれば本当にウィーズの事を思っているだけなのだ。献身的に動いて彼女に留まってもらおうとしているだけなのだ。
「手を出してください」
「―――?」
 ウィーズは言われるがままにアクアの前に両手を差し出す。
 するとアクアはその上に一丁の拳銃を置いた。彼女が事前にマルコから受け取っていたものだが、ずしりとくるその重量感がウィーズの頭を混乱させる。そんな彼女の心情を知ってか知らずか、アクアは彼女の両手を優しく握ってやり、そして言った。
「さぁ、最後はウィーズさん自身の手で止めを刺してくださいな」
「―――!!」
 その意味を分かっているのか、にっこりと笑みさえ浮かべるアクア。
 いや、恐らく分かってはいるのだろう。ただ、その理解の仕方が決定的なまでに違うのだ。彼らがウィーズを人間として見ていないように、アクアもまた、彼らを人間として見ていないだけなのだ。ウィーズはまるで初めて会った生物を見るようにアクアを凝視する。
「……お断りよ。どーせ罪に問われないのなら、とっとと彼を解放しなさい」
「何故? あんなに殺したがっていたじゃないですの?」
「確かにそう言ったわ。殺したいほど憎みもしたわ。……でも、だからと言ってそんな簡単に奪って良いものじゃないはずよ。人の命ってやつは」
 ウィーズは吐き捨てるように言い切った。だが拒絶されたというのに、それすらも想定内だったのか、アクアはくすりと笑ってその顔をウィーズのそれに近づける。お互いの息遣いさえ感じられるような、そんな距離。
「ウィーズさんは本当にいい人ですわねぇ。いえ、この場合は人が良いというべきかしら?」
「何が言いたいのよ」
「うふふ」
 アクアはさらに距離を縮め、ついには額同士が触れ合う距離となった。そして彼女はウィーズを推し量るように目を細める。ウィーズは全てを見透かすようなアクアの蒼い瞳が、自分の心の中にまで入り込んでくるような錯覚を感じた。
「私、知っているんですの。ウィーズさんが木連や月からの刺客を誰1人として殺していないことを。それどころか周囲の人間にも被害を与えないように立ち回っていたことを。それは並大抵の苦労ではなかったと思いますし、純粋に感心もいたしますわ」
 一拍。アクアは悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべる。
「でも、いい加減あなたも気づくべきですわ。この世にはお姫様も王子様も存在しない。殺すか殺されるかの世界には正義なんてものも無い。本質は悪がより大きな悪に飲み込まれているだけに過ぎないということを」
 ウィーズは無言。否定もしなければ肯定もしない。
「あなたがしてきたことはただの自己満足ですわ。どのみち任務に失敗したものを待っているのはより大きな絶望だけ。あなたがわざわざ殺さない意味はありませんわ」
「そう言われちゃ身も(ふた)も無いわね。でも、それでも私は誰も殺したくは無いのよ」
「自身を犠牲にしてでも?」
「そうよ。何が悪い?」
「自己犠牲は利己主義に付随するものですわ。『全ては人のため』といって第三者に自己の願望を投影しているだけに過ぎません。思い出してくださいな。あなたは何度、嘘をつかれましたか? 何度、屈辱を受けましたか? 何度、傷つけられましたか? 人間扱いされなかったことは? 言われなく疑われたことは!? 笑われながら踏みにじられたことは!!? ……他人が、世界があなたに何をしてくれたというんですの?」
「…………」
「あなたは今まで十分に世界に対して尽くし戦ってきました。それは端から見ればとても献身的に見えたのかもしれませんわ。ですが、その根幹にあった想いは奉仕や仁愛では無くて、あなたが自分の過去に負い目を感じていることではなくて? 『私はこれだけ一生懸命働きました。だから私をいぢめないで。責めないで』って」
「―――!」
 ウィーズはアクアの肩を乱暴につかんだ。今まで自分が築いてきたものが壊されてしまいそうで、今まで自分が信じてきたものが崩されてしまいそうで、気が付けば息を荒げて彼女を押し倒していた。
「……図星なんですわね。そうなんでしょう?」
 ウィーズは何か言い返そうとして、だがしかしその口は何も形作ることなく閉じる。
「あぁ、なんて可愛そうなウィーズさん。でも、もう大丈夫。これからは私があなたをずっと護ってあげますわ。だからもう怖がらなくて良いんですのよ。思うがままにアイヴァンを殺しましょう」
五月蝿(うるさ)い! それ以上バカなこと喋るとあなたから撃つわよ!!」
「まぁ怖い。言い返せなくなった途端『撃つ』ですって」
「黙れって言ってんのが―――」
「分からんな」
 ウィーズのセリフは言い切ることなく宙を舞った。突如、危険を察知した彼女がアクアを放して後方へ跳び、一瞬送れてその残像を銃弾が貫いたからだ。
「マルコさん……」
 悲しいような、歯がゆいような、そんなウィーズの視線を泰然と受けながら、マルコは未だ銃身(バレル)より硝煙が立ち昇る銃を構えなおした。
 RRR・04<アサシン>。小さな回転弾倉式拳銃(リボルヴァ)で銃身が極端に短く弾も5発しか入らないが、携帯に便利なため潜入捜査官などに愛用者が多い。長距離は精度の高いライフルに任せ、近距離は可能な限り素早く抜ける拳銃を使う―――徹底した合理主義者らしい考え方ではある。
 にらみ合いを続けるウィーズとマルコを尻目に、アクアはゆっくりと起き上がって服のほこりをはたいて落としながら言った。
「やれやれ。表だとか裏だとか(たわ)けた逃げ口上打ってないで、もっと現実を直視しなさい。自分を辱めたものを助けようとするなんてあなたは矛盾だらけですわ」
「……大きなお世話よ」
 アクアは溜息を1つ吐く。
「まだ分かりませんの。では仕方ありませんわ。このままにしておくことも出来ませんし、とりあえずアイヴァンは私が始末しておくといたしましょう」
「それを私が許すとでも思っているの?」
「お嬢様の邪魔を俺が許すとでも思っているのか?」
 この声はマルコのものだ。言うが早く彼は引き金を絞る。
 轟音。轟音。轟音。
 闇を切り裂く殺意の咆哮(ほうこう)は、だがしかし全て紙一重で避けられた。
「ふむ」
 しかしマルコは特に気にする風でもなく頷くと……。
「では、これでどうだ?」
 何かしらの合図が交わされたのか、その言葉に彼の近くで控えていた残り4人の護衛隊(ガード)も一斉に銃を抜き放ちウィーズに照準(ポイント)した。
「撃て」
 発砲。微塵(みじん)躊躇(ちゅうちょ)も停滞も無く、1人2発、都合8発の銃弾が彼女を襲う。
「くっ!」
 点ではなく面による飽和攻撃。上下左右、逃げ場は無い。しかしその状況の中でなお、さしずめ脊髄反射(せきずいはんしゃ)のごとき反応速度で、ウィーズは右へと大きく跳躍することで回避した。だが……。
「終わりだ」
 着地の際に生じる一瞬の隙。最後まで発砲しなかったマルコはこの一瞬を狙っていた。耳を(つんざ)く轟音と共に不可避の弾丸がウィーズを襲う。
 当たる! 誰もがそう思った次の瞬間―――
 鈍い金属音と共に、弾丸は突如としてその軌道を変えた。ウィーズは右足を狙ったその銃弾を、右の拳で弾いてみせた(・・・・・・)のだ。
手甲(てっこう)、か」
 忌々しげに呟く。そう、ウィーズは軽金属を仕込んだ手袋(グローブ)によって銃弾をはじき、その軌道を逸らしてみせたのだ。如何に小口径といえども弾丸をまともに受けたのでは、例え手甲を装備していたとしても手が砕ける。そのため彼女の小さな手の甲で、さらに小さな銃弾の横腹を叩いてマルコの攻撃を逸らしたのだと、そこまでは理解できた。出来たが―――
「……なんて奴だ……」
 黒服の1人が呻くように呟いた。
 いくら手甲で拳をコーティングしていたからとはいえ―――信じがたい集中力である。これが彼女本来の力なのか、まだ手の内を隠しているのかは分からないが。
「私も、運やまぐれだけで生き抜いてきたわけじゃないんでね」
 首に巻きついた髪を後ろに流して、マルコたちを睨みつける。
「それで? アイヴァンの代わりに俺たちを殺そうというのか」
「安心して良いわ。殺しはしないから。……ただ、地べたを舐めてもらうだけよ!」
 怒鳴りながらウィーズが突進する。とっさに黒服たちも銃で応戦するが、その暴風のごとき勢いをとめることは出来ず、ある弾丸は首をひねるだけでかわされ、ある弾丸は手甲ではじかれながら、彼女は最短距離を突っ走ってきた。
「くっ!」
 彼らは慌てて距離をとろうとするが、もう遅い。ウィーズは逃げ遅れた黒服の懐へと潜り込むと、すれ違いざまに掌底であごを打ち上げて脳を揺さぶった。その勢いを殺すことなく2人目に詰め寄ると、踵落としの要領で手に持つ拳銃を刈り落とし、何もなくなったその手を掴んで引き寄せ、交差法気味に顔面に肘鉄を食らわせた。2つの巨体が白目をむく。
「さあ、こんな茶番はもう終わりにしてとっとと解散しなさい!!」
 瞬殺した2人が倒れる音に合わせるようにしてウィーズは言い放った。強い。圧倒的ともいえる力量差だ。しかしアクアは知った事かと言わんばかりに無邪気に笑って拍手を送るだけである。
「凄いですわ。それだけの力があって、何故この状況に甘んじているんですの? 力に任せて全員殴り倒してやろうとは思いませんでしたの?」
「あんたには関係ないでしょ」
「いいえ、大事なことですわ。そんな生き方をされてしまっては、大事な友人が早死にしてしまいますもの」
「……私は死なない。誰も殺さない。今までだってそうしてきたし、これからだって出来るはずよ」
「それはあなたの思い込みですわ。どうして大丈夫と言い切れるんですの?」
「さっきの動きを見たでしょう? 今の私なら、例え武装した兵士1個小隊だって撃退できるわ」
 このセリフに反応したのはマルコだ。一瞬アクアに目配せをしてからウィーズへと向き直る。
「ふん。随分でかい事を言ってくれるな。確かに真正面からぶち当たれば、下手をすれば俺たちが10人集まってもやられる可能性があるかもしれん。だが見くびってもらっては困る。俺たちは……そんな単純なものではない!」
 言うが早くマルコは撃鉄を落とし素早く照準する。ただし彼が拳銃を向けたその先には……何と主であるアクアが存在していた。
「バカッ!!」
 ハッタリではない。アクアを見据えるマルコから明確な殺気を感じ取ったウィーズは、反射的にアクアの腰に抱きつくようにして彼女を押し倒した。そして一瞬送れてウィーズの後ろ髪を、コンマ1秒前までアクアがいた空間を銃弾が駆け抜ける。
「何トチ狂ってんのよ! アクアはあなたの主人でしょ!!」
 ウィーズはさらに銃口を向けるマルコからアクアを隠すように立って激昂した。
 体勢を崩すハッタリにしても度が過ぎている。一歩間違えばアクアが死んでいたかもしれないのだ。ウィーズは浮き上がった嫌な想像に肝を冷やした。
「大丈夫ですわ」
 そんなウィーズの心情を見透かすように背後のアクアが声をかける。
「全部お芝居ですから」
「……え?」
 声と共にウィーズの腹部からぞぶり、という異様な音がした。見れば自分の腹から白い刃の先端が見えている。それが……アクアに刺されたものだと理解するのに、ウィーズは若干の時間を必要とした。
「…………!!」
 瞬間的に彼女の動きが止まる。緊張のためか、痛みこそまだ襲ってはこないが、『アクアに刺された』という驚愕が彼女を縛り付けていた。
 その頬を一発の銃弾が掠める。
「今のでお前は一回死んだ」
 硝煙の昇る<アサシン>を構えながら、淡々とマルコが言う。
「人を殺したことのないお前は、ギリギリの線で判断が鈍る。知ってさえいればそれを逆手に取ることも出来る。……要するに甘すぎるんだよ、お前は」
 ウィーズはマルコの言葉をどこか遠いもののように聞きながら、自身のうかつさに唇をかんだ。
 命懸けの戦いは何度もしている。今まではその能力の高さゆえに殺さずに勝つことが出来ていたが、それが油断に繋がっていたのだと言われれば、確かにそうなのだろう。そして、その油断はマルコのような強敵相手の戦闘では致命的な判断の鈍りとなって現れる。人を殺して一人前というならば、ウィーズは半人前もいいところだった。
 ではどうすれば良かったのか。あそこでアクアを見捨てるべきだったのか。それとも撃たれるよりも先にマルコを殺すべきだったのか。そんなこと考えるまでもない。ウィーズは歯を食いしばって手に力を込めた。そして……。
「だからと言ってほっとけるわけないでしょ!」
 彼女は先ほどアクアから受け取った銃を掴むと、腹部に刃が刺さったままの状態でマルコに向かって発砲した。狙いは手や耳といった致命傷になりにくい部分。小さく当てにくいが威嚇が目的のため外れようと問題はない。
「ちぃ!」
 続けざまに放たれた弾丸にマルコは思わずよろめいた。その隙を突いてウィーズは後方のアクアに肘を当てて短刀を引き抜いた。
 ひとまず逃げて体勢を立て直そう。腹部の苦痛がじんわりと広がりつつあったが、それくらいならまだ出来る。
「……痛ぅ!?」
 走り出そうとしたウィーズがよろめく。見れば彼女の腰にアクアが組み付いていた。普段なら何てことのない行動でも、今のウィーズには酷く辛い。彼女は悲鳴を無理やり飲み込むことで耐えると、アクアの髪を掴んで前に倒すことでその手を振り解いた。
「お嬢様!」
「邪魔よ!」
 駆け寄ろうとするマルコたちへ威嚇射撃。ウィーズはそのまま銃口を彼らに向けたまま夜の闇へと消えていった。
「うふ、うふふふ。やってくれますわ」
 肘を受けた場所を押さえながらアクアは笑う。しかしその笑みに何時もの余裕はなく、彼女を知るものなら己が目を疑うであろう凄絶さをその目に宿していた。
「さすがはウィーズさん。一筋縄ではいかないということですわね」
 言って、掴まれ乱された髪を掻き上げて整える。ただしそこには彼女が愛用していたヘアバンドがない。恐らく掴まれた時に外れてしまったのであろう。彼女は少々うざったそうに前髪を感じながらも、マルコ以外の黒服たちに命令した。
「あなたたち。彼女はまだ遠くへは行っていませんわ。捕らえて私の前に連れてきなさい」
「し、しかしあの傷なら動こうと思えばまだ動けます。失血が酷くなる前に病院ないしは雪谷食堂に戻るのではないでしょうか?」
「いいえ、ここにはまだアイヴァンがいます。優しい優しい、愚かなまでに優しいウィーズさんはきっと彼を助けるために戻ってくるでしょう。それには手当てをしてからでは間に合わないと彼女も分かっているはずですわ」
 歌うように言うアクア。その指を一度鳴らすと、呟くように命令する。
「……行きなさい」
 それだけ聞くと、黒服たちは一糸乱れぬ動きで一礼して、まるで存在自体が幻であったかのように姿を消した。













「はぁ……はぁ……」
 アクアたちのいる廃工場からきっかり300メートルの距離。腰ほどの高さの花壇の影に身を潜めて、ウィーズは荒れる息を抑えていた。
(……いい腕してんじゃないのよ)
 腹部の傷を抑えながら思う。かなり派手に出血してはいるが、大切な臓器は何1つ傷つけられていないために今すぐ病院へ駆け込めば命に別状はない。ウィーズを殺しては元も子もないので、アクアもその点については細心の注意を払って刺し貫いたのだろう。しかし……。
(こりゃあ、やばいかも……)
 腹を刺された直後に動いたためか、傷そのものは小さくてもかなりの量を出血してしまったらしい。言ってみれば極度の貧血状態だ。致命的とはいかないまでも絶対量としての血が足りない。長引けば長引くほど不利になる。自身の意思とは関係なしに震える手が否が応にも現在の状況を再認識させた。
「ったく、手間取らせんじゃないわよ、あのバカ娘が」
 ウィーズは力なく呟く。アクアの気持ちも分からないでもない。しかもそれが自分を想ってのことだけに一方的に憤怒を叩きつけられない歯がゆさがあるのだ。
「……陰口とは感心しないな」
 不意に響く声。
「余計なお世話よ」
 ウィーズは内心の驚愕(きょうがく)を何とか意志力で押さえ込んで応えた。花壇から頭だけ出して覗けば、そこには見慣れた黒服の1人がこちらに銃を突きつけて立っている。この距離まで彼女に察知されずに近づけるとは……、まんざらマルコのオプションというわけでもないらしい。
「銃を置いて立ち上がれ」
 下手に動くと危険だ。ウィーズは言われるがままに地面に銃を置いてからゆっくりと立ち上がった。無論、それでもいつでも動けるように、膝を軽く曲げて筋肉をたゆませておくことは忘れない。
「もうちょっとくらいは隠れていられると思ってたんだけど、4人コンパチの量産(ヅラ)の割りにやるじゃない」
「うるさい。接近戦こそ遅れをとったが索敵・調査なら俺たちの方が上なんだよ」
「でしょうね。この半年で逃げることは結構覚えたつもりなんだけど、隠れるのだけはどうしても慣れないわ」
「だからお嬢様の庇護(ひご)を受けろと再三言っているだろう。お前、このままじゃ確実に死ぬぞ」
「それで生き残るためには躊躇(ためら)いもなく人を殺せるようになれって?」
 ウィーズの言葉に静かな怒気が含まれる。それはよほど注意しなければ分からない程度であったのだが……。
「そうだ。何も誰彼かまわず殺せといっているわけじゃない。いざという時に躊躇(ちゅうちょ)してしまってはお前自身の命に関わるからと、お嬢様は心配しておられるのだ」
「……そうやってアクアの頼みは何でも叶えてきたわけだ。ピーターを殺せって言った時も今回のアイヴァンの時も、ただハイハイとあの娘の言うとおりに動いてきたんだ」
 腹立たしい。何もかもが腹立たしい。
 アクアにバカなことを話した自分も、それを実行しようとするアクアも、止めることすらしなかったマルコ達も。
 全く持って腹立たしい。
「当たり前だ。俺たちはアクア様の望むことを叶えるためにここにいる」
「―――トチ狂ってんじゃないわよ。あんた達はアクアに何がしたかったの。あんな善悪の区別もつかない世間知らずのお子様つかまえて、なに殺しの片棒なんざ担がせてんのよ」
 底冷えするような声でウィーズは言う。あまりに激しい感情を持つと人は表情を失うというが、今の彼女がまさにそれだった。全てを飲み込む虚無のような仄暗(ほのぐら)い瞳で黒服を見据える。
「正誤の判断など必要ない。俺たちは部下で、仕えるべき主が命令を出した。それ以上でもそれ以下でもない」
 違う。主人だろうと何だろうと、間違っているときには(いさ)めてやらねばならない。時にそれは相手に不快感を与えるものになるが、怒りたくないから甘やかし、叱りたくないから笑って済ますような関係は、単なる怠慢に過ぎない。
 ……アクアがウィーズを求めるはずだ。全てが自分の思い通りに動く世界なんて、その実、誰も傍にいないことと変わりない。アクアは生まれてからウィーズに会うまでずっと、絶対的な孤独の中で暮らしてきたようなものなのだ。
反吐(へど)が出るわね。あんた達はその仕えるべき主に人を殺させたかったの?」
「―――!!」
 誰かが教えてやればよかったのだ。祖父のロバートでもマルコでも黒服の誰かでも。誰かが彼女の方向を正してやればこんなことにはならなかったというのに、みんなが寄ってたかってアクアを歪めてしまった。
「部下だ? 笑わせんじゃないわよ。あんたらはアクアを止める勇気が持てなかったから、ただ、考えるのをやめただけでしょうが! 狂っていくアクアを見捨てといてよく言うわ!!」
「五月蝿い! 貴様が、貴様がそれを言うな!!」
 発砲。同時にウィーズの左右背後に隠れていた黒服たちも飛び出して発砲した。全くの同時攻撃である。前後左右、逃げ場はない。しかも先程とは違い今度は完璧に不意をついた。
 ―――殺った!!
 黒服は会心の笑みを浮かべる―――が、その笑みは次の瞬間、(もろ)くも崩れ去る。
 ウィーズはその場で舞うように回転すると、4方向からの銃弾を全て弾いてみせたのだ。
「なっ!」
 驚愕は、しかしそれだけではない。
 ウィーズが弾いた弾丸は、何と寸分の狂いもなく黒服たちの体へと、ご丁寧にも急所をはずして当たったのだ。
「……ふん、正面に注意を引いて側面・背後からの隠密接敵(ストーキング)なんて古典的な手よ」
 バタバタと崩れ落ちる黒服たち。しかし気力のなす(わざ)か、それとも他のものに比べ傷が浅かったのか、正面の1人、つまり先程まで話していた黒服だけは倒れずになんとか踏みとどまった。
「な、何故だ。何故分かった。いや、分かったとしてもこんな全方向からの攻撃になぜ対応できる?」
 ウィーズは自嘲的に笑う。
「別に。ただ、多対一って言うのには慣れててね。あんたも周りが敵ばかりの環境で20年ばかし生きてみなさい。もし生き残れたとしたら、嫌でもこれくらい出来るようになってるわよ」
「…………」
「それにね。あなたたちの本当のスタイルは待ち伏せや罠にはめるタイプでしょ。アクアの命令だかなんだか知らないけど、不慣れな攻撃方法を選んだ時点で失敗することは目に見えていたのよ」
 ウィーズは諭すように話す。だが、その話し方がむしろ(かん)に障ったのか、黒服は激昂して手に持つ銃を地面に叩きつけた。
「ほざけ!! そんなことは俺だって分かってたんだよ! 俺だって止めたかったさ。やめさせたかったさ。でもな、アクア様は掃き溜めのような人生を送ってきた俺たちを初めて人間扱いしてくれた方なんだよ! わかるか? 俺たちにとってはアクア様の期待に応えることが全てなんだよ!!」
 一拍。黒服はウィーズを睨んで言った。
「そのお嬢様がお前のためにここまでやってるって言うんだぞ。お前に会っちまったばっかりに! くそっ、それを1人だけ奇麗事抜かして善人ぶってるんじゃねぇ!!」
 黒服を喚きながら拳を振りかざして突っ込んでくる。技も何もあったものじゃない。単純な暴力である。
 ウィーズは一瞬の早業で相手の懐にもぐりこむと、密着した体勢からその腹に肘を叩き込んだ。
 黒服の体が今度こそ耐え切れずに前のめりに倒れだす。しかしその唇だけはいまだ動きをとめようとしない。まだ言い足りない。そんな彼を倒れないように抱きかかえると、その耳元にウィーズはそっと囁いた。
「……安心して眠りなさい。起きた頃には、全部終わらせておいてあげるから」
 その囁きは、気のせいか彼女の懺悔(ざんげ)のように夜のサセボ基地に響いていた。












 廃工場を満たす淀んだ空気の中で作業しながら、マルコ・オーエンは密かに溜息をついた。
 耳に取り付けた盗聴器―隊員のフラワーホールに付けられている主に発信機の役割を果たす―が先程から拾ってくる隊員とウィーズとの会話を聞いてしまったからだ。
 ―――狂っていくアクアを見捨てといてよく言うわ!!
 ウィーズの言葉がマルコの中で反復(リピート)されると、彼は再度溜息をついた。
 分かってはいる。あの女の言っていることは痛いほどに分かっている。だがしかし、第三者にこうも冷静に指摘されると、やはり辛いものがあった。
 何時もの仏頂面で3度目の溜息をつこうとした、マルコの背中に声が掛かったのはその時だ。
「マルコー、もう終わりましたのー?」
 軽い口調で入口から顔だけ覗かしてアクアが言う。
 マルコは手早く残りの作業を終わらせてから応えた。
「はい。ちょうど今、終わったところです」
 言って、先程までいじくっていた機械をアクアにも見えるようにマルコは右へと一歩動いた。
「これが……」
 アクアは工場の中に入ってきて感嘆の声を上げた。
 小さな液晶にアラビア数字のボタン。それは初めて見る者には電卓か、さもなくば小型のポケコンのように感じられるかもしれない。しかしその上部に取り付けられた妙に長い電気コードが、それらの予想を暗に否定していた。
「んー、んー!」
 この声はアイヴァンのものだ。彼はマルコよりさらに右へ2歩ほど進んだ辺りに手だけではなく足も固定されて転がされていた。人が来ない以上する必要もないのだが、思ったより彼が騒ぐために、猿ぐつわもついでに噛まされていたりする。
「うふ、あなたも気になりますか? 実はこの廃工場には大量の爆薬が仕掛けてありまして、これはその時限起爆装置なんですの」
「んー!?」
 なるほど、言われてみればコードはこの廃工場内に設置された高性能爆薬(ハイエクスプローシブ)の信管へと繋がっている。言ってみればえらく長い導火線のようなものか。
 アクアは驚きのあまり声を振るわせるアイヴァンを見ると満足そうに話を続けた。
「昨夜、ピーター・スティーブンスさんを殺した時は、死体は処分したものの大量の血痕が残ってしまいましたの。立つ鳥跡を濁さずというか、ここにお邪魔している身としては最後くらいはきれいにしておこうと思いまして、それでどうせなら新しい工場を作ってしまおうということになりましたの」
 アクアは起爆装置をコンコンと叩く。
「ですからこの用済みの工場をあなたもろともきれいさっぱり爆破してしまおうというわけです。工場はクリムゾンの資金で最新式のものに再建されるから連合軍は万々歳。死体の後処理も片付いて一石二鳥。我ながら名案ですわ♪」
 朗らかな笑顔でとんでもないことを言う。アイヴァンは手足を縛られた状態で、打ち上げられた海老(エビ)の様にバタバタと暴れて抗議するが、それは彼女を(わら)わせる以外の何物でもなかった。
「……………」
 アイヴァンを哂うアクアの後ろで、マルコは自分の両の(てのひら)を見つめていた。
 節くれだった手。アクアとクリムゾンに捧げた己の半生の証は、銃ダコとなって指や掌に残っている。
 護衛としてこの手でアクアを、クリムゾンを護る。ただ生き延びるだけの人生以外に理想を見つけ、それに突き動かされ、がむしゃらに動いていた時もあった。強く。少しでも強く。この力は彼の愛するものたちのために。敬愛する主のために。何より、理想を信じた自分のために……。
「くっ……」
 唇を噛む。
 初めに道を間違えたのは何時であったか。
 ウィーズがアクアにアイヴァン達のことを話した時か。
 アクアがウィーズに出会ってしまった時か。
 それともアクアがクリムゾンの権力の強さを認識してしまった時か。
 ―――あんたらはアクアを止める勇気が持てなかったから、ただ、考えるのをやめただけでしょうが!
 彼の中でウィーズの言葉が反復(リピート)される。何度も何度も反復(リピート)される。
「……アクア様」
 マルコはそう言ってアクアの肩に手をかけた。彼女は怪訝そうに振り返る。
 道を間違ったのは誰だったのか。アクアか、ウィーズか、それとも自分か。問いかけたとしても答えは出ない。時間だけが無意味に過ぎていく。
「………………」
「……なぁに?」
 呼びかけておいて話さないマルコをアクアは不思議に思い問いかける。
 しかし彼はそれには応えず、アクアの肩に置く手に力を込めると―――
「失礼します」
「―――!?」
 次の瞬間―――彼女を後ろへと引っ張った。
 思わずたたらを踏むアクアがマルコに文句を言ってやろうと振り返ると、月明かりを背に、天井の採光窓を突き破って拳銃片手に工場内に飛び込んでくるウィーズの姿が見えた。(きら)めく硝子(ガラス)片を身にまといながらウィーズは空中で銃を照準(ポイント)している。
 時を同じくしてマルコも横っ飛びをしつつ懐の拳銃を抜き放つ。
 重なる轟音。
 すれ違う弾丸は、片方はマルコのサングラスを掠めそのふちを砕き、もう片方は着地しつつあるウィーズの左太ももに命中した。鉛の玉は脚の肉と筋肉をやすやすと貫き、彼女の神経と血管をずたずたに引き裂いた。
「ぐっ―――!?」
 ウィーズは体勢を崩し、降り注ぐ硝子の中に血を混ぜながら落下する。何とか受身を取りつつ着地すると、そのまま回転してそこかしこに積まれているコンテナの(かげ)に隠れた。
 殺さないために当てにくい足を狙い、落下中のウィーズを、さらには銃を抜き放ちざま命中させる。
 いくら抜きやすい<アサシン>を使用しているからとはいえ、凄まじいまでの銃捌(じゅうさば)きである。
 まさか、あの状況から的確に当ててくるとは思っていなかったためか、ウィーズもコンテナの陰で舌を巻いていた。
 だが当のマルコにそれを誇る様子はない。ただ当たり前のことのように淡々と起き上がると、何時ものごとき仏頂面をするだけだ。そしてこれだけは何時もと違う、サングラスが壊れてしまったために(あらわ)になった深い茶色の瞳で、ウィーズの隠れた場所を見据えて口を開く。
「ふん。当たりはしなかったものの、今回は躊躇(ちゅうちょ)なく頭部を狙ってきたな。ようやくお前も覚悟を決めたというわけか」
 特に面白くもないようにマルコが言うと、ウィーズはコンテナの陰から不敵な笑みを漏らした。
「残念。私が狙っていたのはマルコさんじゃあ、ないのよ」
「何?」
 マルコが狙いではないとすると何が狙いだったのか。
 アイヴァンか? いや、違う。殺したいのなら、こんな回りくどいことをする必要はない。
 起爆装置か? これも違うだろう。手荒なことをすればその時点で起爆してしまう可能性が高いし、そもそも奴はこのことを知らない。
 それではアクアか? 論外だ。理由もないし、彼女を引っ張ったときに銃口を変える素振りすら見せなかった。
 では何だ。奴は何を狙っている?
「……お前は何がしたいのだ」
 マルコは呟いた。彼はウィーズの思考が支離滅裂になっているようにも感じたのだが……、
「―――! いや、まさか……!?」
 マルコは後方へ振り返る。その方角から走り出す靴音が聞こえたのは、次の瞬間であった。
「……しまった!!」
 彼の振り返った先には―――足の拘束具を撃ち抜かれて動くことが出来るようになったアイヴァンの姿があった。多少足にも損傷があったが、それでも走ることくらいなら問題ない。
 マルコは下唇を噛んで顔をしかめたが、すぐにその背中に銃口を向ける。
「逃がすか!!」
「させない!!」
 マルコがアイヴァンに意識を移した一瞬の隙を突いて、ウィーズはコンテナの陰から飛び出してマルコに発砲した。
「ちっ!」
 マルコは身をよじって弾丸を避けると、今度は逆に遮蔽物(しゃへいぶつ)のない自分が格好の標的だと悟り、俊敏に行動した。彼はアクアの腰を片腕で抱くようにして掴むと、ウィーズから死角となる場所へと滑り込む。そして遮蔽物の陰から手だけを出して勘を頼りに威嚇射撃した。
 轟音。轟音。轟音。
 彼女のいる方角でゴロゴロと転がる音が聞こえることから、ウィーズはまたコンテナの陰に隠れたのだろう。マルコはアイヴァンを逃したことに顔をしかめ、忌々しげに喉を鳴らした。
「ウィーズ! 貴様、この期に及んでまだ偽善者ぶるつもりか!? そんなものが自分の命よりも大切だというのか!!」
「……私は死なない、そしてこの目に映る人も殺させない」
「またそれか。確かにお前は強い。しかし今の自分の姿を見てみろ。あれだけの力を持ちながら何とまぁ、無様な姿だ。奇麗事を並べるだけの生き方が明らかにお前を弱くしているんだよ」
「…………」
 ウィーズは応えない。焦れたようにマルコの口調は熱を帯びた。
「人を殺す度胸も無いくせに、見殺しにする冷酷さも無いくせに……この俺1人すら殺すことが出来ないというのに! それで誰も殺さない? 殺させない? 甘っちょろいことを抜かすな! 貴様は辛い選択から逃げているだけの子供だということが、まだ分からんのか!!」
 マルコたちクリムゾンSSはこれまでに気が遠くなるほどの人の命を奪ってきた。
 そこに情念も選択の余地も無かった。……無かったと思う。
 クリムゾンを、アクアを護るためにはそれしかなかったのだから。
 だからこそマルコは今まで必要以上に被害者を出さないように努めてきた。それは彼とて殺人狂ではなく、1人1人顔も名前もある人間を殺しているという自覚を持っているからであろう。
 そうして、敢えて現実と厳しく向き合うことでマルコは己を強く保ってきた。そんな彼からしてみればウィーズの言動は現実逃避をしているようで許せなかったのだ。ましてやそれが自分の主とつるむ事など。
「……あなたが何と言おうと、私はこの生き方を変えるつもりは無いわ。私が生き残るために他の誰かを犠牲にしてしまったら、私は本当に『穢れし者』になってしまう。だから私はせめて私の目の届く範囲の人くらいは誰も殺さない、殺させないって決めたの。……それを偽善と呼ぶのなら、私にはもう何も言い返せない」
 ただただ真摯(しんし)な言葉。決して激情からではない、ひたすらに純粋な誓いだけがそこにはあった。
 彼女の言葉に嘘は無い。けれど、それがずっと通用するほどこの世界も甘くない。
「………………」
 ぎりぎりと頭の中で音がする。
 それが、自分が歯を食いしばっている音だと気がつくのに、マルコは若干の時間を必要とした。
「マルコ……」
 アクアがこちらを見てくる。
 何も言わない。何も聞かない。何処までもニュートラルなその瞳は、まるで見る者の心を映し出す鏡のようにも思えた。
 後悔か、戸惑いか、悲しみか、喜びか……。
 今の彼にはそのどれにも見えるし、そのどれにも見えない。
「くっ……」
 マルコは手に持つ<アサシン>を凝視する。短銃身ゆえに抜きやすいそのフォルムが、何故だか今は酷く頼りなげに見えた。
 ……彼は迷っていた。
 どうすればいいのか。どうしたらいけないのか。
 今ここでウィーズを戦闘不能にすることは正しいことか? それとも正しいのは戦闘不能ではなく殺害することなのか? それが間違いの無いことなのか? 目の前の選択肢に……正解はあるのか? いや、そもそも正解などという都合のいいものが本当にあるものなのか? それが自分の思い込みではないという保障は何処にあるのか?
 マルコは銃を持つ手に再び力を込める。そして……
「ウィーズ!」
 遮蔽物の陰より姿を見せて叫んだ。彼は憔悴(しょうすい)したような表情をしながら、しかしアクアを庇うような体勢でウィーズが隠れている方向を睨んだ。
「俺にはどうしてもお前の言い分が正しいとは思えない。しかしあくまでその言い分を変えないというのなら、その理屈……力で証明して見せろ!」
 言って、マルコは<アサシン>をホルスターに戻す。
「……抜き打ち、か。また古風なことを」
 苦笑いを浮かべながらもウィーズもコンテナの陰から姿を見せた。
 勝負に応じたのが嬉しかったのか、マルコは彼にしては珍しくその口元に微笑を作る。
「掛け値なしの本気だ。死んでも文句は言うなよ」
「―――マルコ!?」
 これに反応したのはアクアだ。彼女はこの場はとりあえずウィーズを動けなくして、後日また説得をしようと考えていたのである。ウィーズがここで死んでしまってはそれは出来ない。
「やめなさい、マルコ!!」
「お断りします!!」
 マルコの強い口調に思わずアクアの体が強張る。今まで彼女の願いを全て聞き入れていた彼の初めての、拒絶。
「な、何故です。私の言うことが聞けないというのですか。答えなさい!」
「……それが、アクア様のためだからです」
 強い口調。その言葉に迷いは無い。
 理想。仁愛。夢。それらを支える確固たる決意……。諸々のものが混ざり合った今のマルコには、例え総帥ロバート・クリムゾンですら命令しきれないであろう。
「行くぞ、覚悟はいいな」
 言って、マルコは腰を落とす。
 小細工は無い。あくまで速さ勝負というわけだ。
「弾けるものなら弾いてみろ。この一撃、貴様が知覚出来ない速度で叩き込んでやる」
「そう。それなら、これでどう?」
 マルコの言葉に対して、ウィーズは手甲を外すことで応えた。速さ勝負なら金属を仕込んだ手袋(グローブ)なぞ重りにしかならない。そしてその代わりとばかりに先程掴んだアクアのヘアバンドを、利き腕とは逆の左手に巻きつけた。当然その先には……。
「CC! やっぱりそのヘアバンドはウィーズさんが持って行ってらしたんですのね!!」
 アクアの問いに応えるようにCCが光を帯びる。この土壇場でウィーズも最後の切り札(カード)を切ってきた。
 その名はボソンジャンプ。
 物理法則をも捻じ曲げるその移動手段は彼我(ひが)の距離を一瞬にしてゼロにすることも相手の無防備な背後に出現することも可能とする。しかし通常、地球上の生物がボソンジャンプを行おうとすると、共に跳んだ物体の構成物質同士が融合してしまったり、ジャンプアウトの地点(ポイント)がランダムになったりと、その真価を発揮できないどころか命の危険に晒されすらする。それはボソンジャンプの演算ユニットである火星極冠遺跡が、人類とは異なる思考基盤を有しているため、そのままではジャンパーのイメージにノイズが混じってしまうからである。これを回避するためには『ある特殊な遺伝子』が必要となるのだが、それこそが彼女が希少な実験体として扱われた原因でもあったのだ。
「……貴様も本気というわけか」
「私は何時だって本気よ。そうじゃなきゃ、この口から出た言葉も相手に本気と思ってもらえないわ」
「……そうか。そうだったな」
 互いに全力と全力。
 でなくば勝ったところで答えは出ない。
 ウィーズの唱える『偽善』は本当に貫き切ることが出来るのか。
 それともやはり甘い幻想でしかありえないのか。
 マルコは右手の<アサシン>に、ウィーズは右手の銃と左手のCCに、それぞれ力を込める。
 勝負の図式は簡単なものだ。
 マルコの武器は右手の<アサシン>のみ。しかし彼はこういった際の集中力と動きの早さには絶対の自信を持っている。対するウィーズの武器は拳銃、近接戦闘、そしてボソンジャンプとバリエーションに富んでいる。しかしその反面、決定的な決め手には欠けている。銃捌きはマルコに軍配が上がり、足を負傷してしまったため自慢のスピードも地に落ちた。ボソンジャンプとて起動・照準・発動という3ステップを踏まなくてはいけないことに加え、効果の発動段階で数秒のタイムラグがあることによりジャンプ・インとアウトの際に硬直時間が生まれてしまうという欠点がある。要するに基本的に白兵戦には向かない能力なのだ。そのため、構図としては最速の一撃を繰り出してくるマルコに対して正攻法ではなく(から)め手のウィーズというものになる。とはいえ、ウィーズとてここ一番の集中力には特筆すべきものがあるのだ。ただし貫かれた腹と右脚の痛みが酷い。何処まで普段の集中力を発揮できるかが勝負の分かれ目となるだろう。
「月並みだが、このコインが床についたときがスタートの合図だ」
 マルコの言葉にウィーズは静かに頷く。全身の身体(からだ)から、不可視の闘気が緊張に押し出されるようにして漂い出た。
 そして、肌を切るような沈黙。
 マルコは懐から1セント硬貨を取り出すと、それを無言で弾きあげる。
 2人はぴくりとも動かずに月明かりに反射するコインを凝視する。しかし3人の足元、廃工場のほこりのたまった床に、ぽたりぽたりとウィーズの血の雫が滴っている。その音が、妙に大きく響いていた。
 ―――短く、そして気が遠くなるように長い静寂。
 そして―――
 澄み切った、コインの響き。
 凍りついた2人は、一瞬にして溶解した。
 ほぼ同時に2人の体は動き出す。共に攻撃手段は拳銃を選択(チョイス)。ウィーズはさらに体を虹色に淡く発光させてボソンジャンプの起動も同時に進める。
 ―――遅い!
 だが集中力によって引き伸ばされた一瞬の中で、マルコは既に己の勝利を確信していた。自分の方が一瞬早い。どんな攻撃を仕掛けてくるつもりか知らないが、自分の<アサシン>のほうがウィーズの発砲よりも確実に早くぶち当たる。
 マルコの銃弾は容赦なくウィーズの体を撃ち貫くであろう。
 雄叫びをあげて<アサシン>の銃口が火を噴いた。
 対するウィーズの銃は、抜き放たれてこそいるが、その銃口はマルコへの軌道半ばまでしか到達していない。
「駄目ッ!」
 アクアが思わず目を背けた、その瞬間―――
「な?」
 全てを包み込むような、優しい金色の光。
 ウィーズを包む光の色が変わったと思うが早く、彼女の体は白昼夢のごとく消失した。
 マルコは信じられない思いでウィーズの残像を見つめる。ボソンジャンプだ。それは間違いない。だがしかし、目の前の現象は彼の知っているボソンジャンプとは明らかに異質なものであった。元々それほど多くの知識を持っていたわけではないのだが、それでも木連や連合軍からの情報ではジャンプ時には一定の硬直時間があるはずなのだ。
 驚きに動きが鈍るマルコ。
 その首に背後から現れたウィーズが銃把を叩き込む。
「…………!」
 マルコは、ほこりを舞い散らせながら倒れ伏した。










「……ふぅ〜」
 苦悶の表情を浮かべるマルコを見下ろしながら、ウィーズは安堵(あんど)の息を漏らした。
「やばかったわ。あの時アクアからCCを取っていなかったら、やられてたのはこっちよ」
 彼女が使ったのは、分類上では普通のボソンジャンプと変わりない。
 ただ、その際に生じるはずのタイムラグが極々小さかっただけの話だ。
 ジャンパーをその能力により分類するとCCだけでジャンプできるA級ジャンパー、さらに機械補助を必要とするB級ジャンパー、ジャンプ能力を有さないC級ジャンパーの3つに分類される。
 その中でウィーズはA級ジャンパーに分類されるのだが、これは機械補助を必要としないことから先天性ジャンパー体質とも呼ばれる。
 前述のようにボソンジャンプにはジャンパーのイメージを正確に遺跡へと伝えるためのある『特殊な遺伝子』が必要となってくるのだが、その遺伝子を得るための(キー)となっていたのが遺跡の影響を受けたナノマシンの近くで生まれることであった。ある程度成長してしまっているものには難しいが、産まれて間もない子供ならナノマシンがボソンジャンプに適応できるようにその遺伝子を最適化してくれるからである。……本人の望むと望まぬとに関わらず、だが。
 そしてウィーズの祖先、『穢れし者』は火星へ先行していた最初期のテラフォーミング技術者達がほとんどである。当時の火星は現在のように安定した気候を持っていなかったため、その頃のナノマシンの使用目的は気候の維持ではなく改変であった。そのため、今と比べると文字通り桁外れに出力の高いナノマシンが使われていたのだ。当然、出力が高い以上、遺伝子に対する働きかけも強い。
 さて、そこで問題の『穢れし者』である。
 そんな高出力ナノマシンに囲まれた彼らはそれだけでハイレベルなA級ジャンパーと言えるが、その資質を伸ばす秘密はもう1つあった。
 それは彼らが歩んできた歴史的背景である。もともと200人強しかいなかった彼らは、年を追うごとにその数を減らしていった。しかも結婚・出産には同じ『穢れし者』同士でなくば出来ないという規制が敷かれていたのだ。そんな状態で100年余りも生きてくれば、当然のことながら遺伝的な袋小路(ふくろこうじ)に陥ってしまう。……つまりは近親交配を繰り返していかざるをえなくなってしまったのだ。
 言うまでもないことだが、そのような行為は当然、死産や遺伝的弊害―新種の遺伝病など―を誘引してしまい、彼らはますますその数を少なくしていくこととなった。ところが、その行為は彼らのうちの多くが保有していたジャンパー遺伝子をさらに色濃く残すことにもなっていたのだ。言ってみれば、熱帯魚や競走馬のインブリードと同じである。
 高出力ナノマシン+1世紀に渡って繰り広げられた(いびつ)な血統。この2点により高められた異常なまでのジャンパー適正が先程のウィーズのジャンプを実現可能なものとしたのである。
 同じA級ジャンパーといえどその能力には精度や速度によって違いがある。それは習熟度によっても変わってくるのだが、基本的には後付された『特殊な遺伝子』がどれだけイメージのノイズを消してくれるかによって決まる。例えどれほど適正の高い者であろうとも精度として数メートルのズレ、速度として数秒のタイムラグの発生は免れない。しかし、ウィーズのそれは精度として数ミリのズレ、速度として100分の1秒以下のタイムラグしかないのだ。明らかに他のどのA級ジャンパーよりも適正が高く、しかし分類上A級ジャンパーに属する彼女は、いうなれば特A級ジャンパーとでも呼べる存在なのである。
「……なぜ殺さん。今回は敗れたが、いずれにせよこれでお前の手札はバレたのだ。この次も上手くいく保障なぞ何処にも無いぞ」
 マルコは荒れる息の合間から言った。
「殺さないわよ」
 ウィーズは疲労の吐息と共に、しかしはっきりとした口調で言い切った。
「確かに殺した方が簡単だわ。全てを見捨てて逃げることも簡単よ。でも殺して、逃げて、それを続けて……何が残るというの? 何にも残りはしないわ。自身に向けられる憎悪を除いては、ね。私だってバカじゃない。こんな生き方をしていれば、今は大丈夫でもそう遠くない未来に死ぬってことは分かるわ。でも、もしそうだとしても、この世を去るときに何も残せないのは、あまりに悲しい。知っての通り私は生まれたときから『穢れし者』という邪悪なる存在という役を押し付けられてきたわ。彼らの不満のはけ口として、対概念として自分たちが善なる者だと知り安心を得るためとして。私はね、意味が欲しかったの。存在の、肯定を。嫌われるだけじゃなくて、憎まれるだけじゃなくて、自分が今、ここに生きていることに対する……納得できる意味を」
「…………」
「だから私は決めたの。誰も殺さない、殺させないって。例えそれが自分を殺しに来る人でも、全くの無関係の人でもね」
 ウィーズはマルコを安心させるように一度笑いかけると、彼に背を向け、アクアの方に向かって歩き出した。背中からの反撃を予想しなかったわけでもないのだが……。
「……俺の負けだ」
 マルコは呟くように言った。
 折れぬわけだ。彼女を支えているのは盲目的な偽善ではなく、考え抜いた末に見い出した彼女だけの信念。誰かを頼るわけではなく、誰のためでもなく、ただ自ら望んだあり方を貫こうとする意志。
「ウィーズ、アクア様を頼む」
「ええ。そのために私は来たんだから」
 力強くそう言うと、ウィーズは目の前のアクアを静かに見据えた。











(これはなんですの。なんでこんなことになっているんですの)
 アクアは満身創痍ながらも彼女の護衛を全て蹴散らしてなお倒れないウィーズを見ながら呆然と思った。
 本当なら、今頃終わっていたはずなのだ。
 しかしウィーズはアクアの用意した戦術・戦略の一切を捻じ伏せながらも未だ力尽きようとはしない。
 彼女は腹部と右足に決して軽くはない傷を負い、その上で黒服たちを、クリムゾン屈指のSSであるマルコを撃破してみせたのだ。
 アクアにしてみれば出来の悪い三流映画(ムービー)を見せられているに等しい。
「さぁ、サイゾウさんがご飯作って待ってるわ。説教は後でいいから、とにかく帰るわよ」
 ウィーズはアクアの前まで歩いてきてから手を出してぶっきらぼうに言う。
「なんでですの? 私はウィーズさんのことを思っているだけなのに、何で邪魔をするんですの?」
「……私が、アクアのすることを望んでいないからよ」
 先程とは違う、もはや一切の余裕をなくした上での否定。それはアクアの心を堪らなく切なくさせる。
 今まで、誰もアクアには逆らわなかった。ロバートもマルコもアクアが望めばそのとおりにしてくれた。誰もが彼女の言うとおりに動いてくれた。誰もが彼女に異を唱えなかった。端から見れば、それはまったくの自由だった。
 だがそれは……ひどく(むな)しいものでもあった。とても優しい時間の中で、しかし穏やかに腐っていくことと同じであった。
 そんな中で、ウィーズだけは違ったのだ。
 彼女はアクアの望んだとおりにはならなかった。誰一人怒らなかった自分を真正面から、時には手すら出して文句を言ってくる。全てを対等に接してくる。それがアクアにはこの上なく嬉しかったのだ。
 本当の友達と呼べる存在と出会い、初めて、自分の時間は動き出したと実感できたのだ。
「……う……うう……」
 不意にアクアの顔が歪む。
 怖かった。悲しかった。
 ウィーズから離れることが。
 ウィーズから離れれば、自分は自分でなくなってしまう。
 また意味も無く甘やかされ、愛玩動物のように一方的に与えられるだけの存在に逆戻りしてしまう。
 それが怖かった。
 それだけが……心の底からアクアには怖かったのだ。
 だからアクアは絆を欲した。そしてそのために犯罪にも手を染めた。ウィーズのためと(いつわ)って、彼女を共犯に仕立て上げようとしたのだ。共通の秘密は2人を縛るものとなる。それが法に触れるようなことであれば尚更(なおさら)だ。
 ……だが。
「あなたを連れて帰り、私は雪谷食堂を辞める。狂った夜はこれで終わり、明日からは何時もの朝がまた始まるわ」
 淡々と、しかしはっきりとウィーズは言う。
「……あなたとの縁は、これで終わりよ」
「―――なッ!?」
 無慈悲に聞こえるウィーズの物言いに、アクアはさらにその顔を歪める。
「あなたが旅をする理由は全て消えたのよ!! それも全て私のおかげで!! その私から何故離れるというんですの!? 何が不満だというんですの!?」
「アクア、あなた何を勘違いしているの?」
 ウィーズはあえて感情を抑えながらアクアを見据える。
「木連とかの追っ手がなくなればあなたの傍にいるなんて、私は一言も言ってないわ」
 耳にその声が入っても、脳には届いていない様相でアクアは固まっている。
「……そ、それはどういう……」
「私があなたの傍に―――」
 言葉に殺傷力があるのだとしたら、ウィーズの次の台詞がまさにそれだった。
「居たくないと言ってんのよ」
 胸に銃弾を打ち込まれたように、アクアはよろめく。
「あなたは何を言って……」
 アクアは信じられないといった顔つきでウィーズを眺める。
 いや、信じたくない、事実だと認めたくない、というのが本音だろう。
(私はアクアに会うべきじゃなかったのかもしれない)
 ウィーズはそう思う。
 ―――例えばアクアが何処にでもいるような普通の女の子だったら、私たちは上手くやっていけたのかもしれない。
 地を這う獣は天空に舞えぬ自分をいぶかしんだりはしない。
 獣は飛べない。当然だ。鳥ではないのだから。そういう生き物ではないのだから。何も不思議はない。
 だが。
 何かの間違いで鳥の心を持ってしまった獣は、空に憧れはしないか。空という世界を知ってしまった獣は、地に束縛される自分を不自由と感じはしないだろうか。
 虐げられし存在。
 それがウィーズたち『穢れし者』の本来あるべき姿なのだ。ごく自然な、一世紀も前から続く決まりなのだ。疑問の余地などない。あってはならない。定めといってもいいだろう。考えたところでどうにかなるものでもないのだから。
 だからウィーズは自ら希望を捨てた。誇りも尊厳も捨て、ただ生き残ることを目的とした。
 淡い期待は裏切られる。なら、初めから何も期待しなければ落胆もしないで済む。そういう生き方を、7歳の時に自ら選択したのだ。確かに月での経験は彼女の精神(ココロ)に大きな変化を及ぼしたが、だからといって彼女の過去が消えるわけでもない。
 ―――例えばアクアが何処にでもいるような普通の女の子だったら、私たちは上手くやっていけたのかもしれない。
 そして、アクアは世界屈指の大財閥であるクリムゾン・グループのご令嬢だった。
 品がよく、社会的地位もある、まるで御伽噺(おとぎばなし)のお姫様。
 それはずっと心の奥底で憧れていたもう一人の、ワタシだった。
 羨望(せんぼう)、愛情、嫉妬(しっと)、友情、自意識、不満、―――そして憎悪。
 すべの感情の対象。
「私はあなたが(うらや)ましかったの。私が一生かかっても手に入れられないものを全部持っているあなたが」
 一拍。ウィーズは搾り出すように言う。
「そして憎かったの。その幸せを当然のごとく享受しているあなたが」
 思えば、なまじ同じ顔をしているから余計にそう思ってしまうのかもしれない。
 同じ人間で、同じ容姿でありながら、何故こうも世界は不公平なのだろうか。
「こんな感情、アクアと出会うまで知らなかった。知りたくはなかった」
 気付いたのはアクアと出会ってから1週間を越えた頃、アクアのことを掛け替えのない友達だと認識し始めた時だ。
 しかしそれは同時に、今まで蓄積されてきた負の感情が、この認識をきっかけとして噴出してしまった時でもある。
 彼女が望むと望むまいと、アクアの存在はただそれだけでウィーズの心の暗部を浮き彫りにしてしまう。
 このままでは自分はどんどん醜くなってしまう。
 そう思ったからこそ、ウィーズはアクアから離れようとしたのだ。
 ―――例えばアクアが何処にでもいるような普通の女の子だったら、私は自分の惨めさに気づくこともなかったのに……。
 ウィーズはアクアの首に両腕を絡まし、耳元で囁くように言った。
「この前、一緒にお酒を飲んだ時のこと覚えてる? あの時の言葉は、嘘じゃなかったんだよ。アクアには本当にこんな汚らわしい(もの)を見せたくなかったの……」
 アクアは現実を拒むかのように首を振る。
 ウィーズはそんな彼女の頭を、まるで癇癪(かんしゃく)を起こした幼子をあやすかのように優しく撫でてやった。
「アクア、私はあなたのことが本当に好きよ。……でもね」
 アクアがクリムゾンの令嬢でなければ、いや、彼女が自分と同じ容姿でなければ、2人は素敵な親友になれたことだろう。
 本当に―――きっと心から信頼しあえたに違いない。ただ素直に相手との関係を肯定できるということは、きっととても素晴らしい事なのだと思う。そしてそれは彼女が今まで持ち得なかったものでもあったのだ。ウィーズとて出来ることならこの関係を崩すことなくアクアと別れたかった。
 だが彼女の存在自体がアクアの凶行のきっかけでもあった。
 そしてウィーズもアクアの望みどおりにしてやることは出来なかった。
 ウィーズに出来るのは、これ以上傷口が大きくなる前にアクアを自分と出会う前の世界に戻し、彼女の前から姿を消してやることだけだ。
「でも、同じくらい憎くてならないの」
 憎しみを語るにはあまりに空虚な声で、悲しみを語るにはあまりに切ない口調で、ウィーズはアクアに笑いかける。それが、アクアには泣き笑いのように、感じられた。
 その時……。
 何を感じたのか、ウィーズの体が急に強張る。
「―――!?」
 全身に鳥肌が立った。
 今の状況を全て脳裏から吹き飛ばしてしまうかのような圧倒的な危機感。
 ほとんど本能的な反応でウィーズはアクアを突き飛ばし、自身も彼女とは反対方向に飛んだ。
 その直後、ウィーズの左肩を一発の銃弾が貫く。
 彼女の反応があと一瞬遅かったら、アクアと共にそれは致命的な一撃となっていたことだろう。
「な、なんですのっ!?」
 目の前で血を撒き散らすウィーズを見て、アクアは驚愕(きょうがく)の声を上げる。
「逃げなさい、アクア!」
 血を失いすぎた。ついに立つこともままならなくなったのか、ウィーズは片膝をつきながら声を荒げて叫ぶ。彼女は既にその銃を撃った存在に気づいていた。霞み始めた目で発砲してきた方向を睨む。
「おやおや、変わった愁嘆場(しゅうたんば)ですねぇ」
 アイヴァンであった。
「見たところ随分と複雑な関係のようですが、それだけに悲しみに歪む今のあなたの顔はなかなかイイですよ」
 アクアの表情を見ながらニヤリと頬を吊り上げる。
 そして彼はウィーズたちに銃口を突きつけながら歩いてきた。
 よほど体が柔らかいのだろう。その手にはいまだ手錠がついていることから、アイヴァンは後ろ手に拘束されたそれを体のひねりだけで前まで持ってきたことが分かる。
「せっかく助けてあげたっていうのにずいぶんじゃない?」
 ウィーズは獣のような獰猛(どうもう)な視線をアイヴァンに送るが、どうせもう何も出来まいとタカを括っているのか、彼はそれを軽く受け流す。
「ええ。そのことについては感謝していますよ。しかしそっちのお嬢さんはそうは思っていないみたいだ」
 言って、アクアを見やる。
入口(エントランス)まで逃げたは良いがそこに詰めていた兵士に問答無用で発砲されましたよ。昨日まで同じ連合軍兵士だったというのにねえ!」
 『もともと、倫理的に問題のある実験を行っていたアイヴァンを秘密裏に始末する』。アクアが言っていた軍上層部に話をつけるとは、つまりこういうことだ。
 そのため、もしアイヴァンが生き延びることが出来た場合には脱走兵、ないしは不穏分子として処分することが決まっていた。連合軍としてはクリムゾンに恩を売りつつ内部の汚点も消せる一石二鳥の好機とでも言ったところか。……アクアの護衛が全員倒されるという唯一にして最大の誤算があった以外は。
「だからね、どうせ逃げられないのならみんなで死んでしまおうというわけですよ」
 良いながらアイヴァンは起爆装置の前まで行き、躊躇うことなく開始ボタンを押した。同時に時限起爆装置のタイマーが10分から1秒ずつ減っていく。もはやアイヴァンが正気ではないのは誰の目にも明らかだ。
「なんてことを……」
 アクアが呟く。爆薬の有効半径はおよそ450メートル。工場内に設置されているためどれだけ当てになるかは分からないが、少なくとも今のウィーズやマルコにはとても逃げ切れそうにない威力である。そんな不安げなアクアを見て、アイヴァンは思い出したように笑みを浮かべた。
「そうそう。あなただけは死ぬ前にこの手でぶち殺しておこうと思っていたんですよ。本当なら一度犯してからと思っていたのですが、思いのほかタイマーが短かったんですねぇ」
 アイヴァンはアクアの顔から胸、さらに腰へと舐めるように眺め舌なめずりをすると、その銃口の狙いを彼女に定めた。
「やめなさい!!」
 ウィーズは絶望に全身の血液が沸騰(ふっとう)するのを感じた。
 彼女は誓ったのだ。誰も殺さない。殺させない、と。
 けれど、皮肉なことにその誓いは、今、彼女が命を助けたものによって目の前で破られようとしている。
「さようなら」
 アイヴァンは引き金(トリガー)を引く。
 一切の誇りも尊厳も、全てを一瞬にして無に返す小さな灼熱の炎。
 それに逆らうには人間はあまりにか弱い。
 それに(あらが)うには奇跡が必要だ。
 そして、往々にして奇跡とは絶望の後にやってくる。
「……ふん」
 何時ものごとき仏頂面を浮かべながら、倒れていたはずのマルコが、その斜線上にアクアを庇うように飛び出したのだ。
 彼はその左肩に血の花を咲かせるが、しかしそれは致命的なものとはなりえなかった。
 轟音。
 一発の銃弾がアイヴァンの額に小さな点を穿(うが)ち、後頭部から脳の破片を盛大にぶちまけさせた。
 彼は血と脳漿(のうしょう)の海に崩れ落ち、そして永遠に沈黙する。
 <アサシン>
 マルコはシリンダー内の空薬きょうを落としながら大きく息を吐くと、まるで足払いを食ったようにその場で膝を折った。







 アクアは己が目を疑った。
 起こった奇跡は一度に三回。
 1つはマルコの意識が未だ切れていなかった点。
 1つはそれでも脳震盪(のうしんとう)を起こしている、ないしは三半規管に影響の残っているであろうマルコが正確に動いてアクアを庇うことが出来た点。
 そして最後の1つは、そんなマルコがアイヴァンが2発目を撃つ前に彼を殺すことが出来た点である。
 マルコがその膝をつくと、アクアは慌ててその(そば)に駆け寄った。
 もともと色白であったため遠目には分からなかったが、見れば彼の顔色は死人の如き白さにうっすらと青が混じっている。
 死を暗示する不吉な、色。
 アクアの中をある種の不安が駆け抜けた。
 彼女は思わずマルコの手を掴んで叫ぶ。衣装が彼の血に濡れたが、そんなことはもはや気にしない。
「……マルコ? しっかりなさい、マルコ!」
「―――お嬢様………」
 マルコがゆっくりと顔を向ける。
 その拍子にアクアは彼と目が合ったのだが、今はその顔に彼を特徴付けていたサングラスがない。
 アクアは―――この護衛の素顔を初めて見たような気がした。
 いつも傍にいた従者。誰よりも信頼している他人。
 母が逝き、父が逝き、祖父との関係も壊れ―――誰も彼もが彼女から離れていく中で、どんな家族よりも長く、優しく、辛抱強く彼女を見守ってきた人物。
 その存在を―――アクアはまるで空気のように感じていた。
 マルコは自分の傍にいて当然の存在であると。
 だが。
「おお、ご無事でしたか……。このマルコ・オーエン、どうやら最後までお嬢様をお守りすることが出来たようですね」
「ええ、ええ。私は大丈夫ですわ」
 だがアクアはマルコの様子に明白な『死』を感じていた。
 別に致命傷なワケではない。今すぐ適切な治療を施せば、彼の体力なら程なくして全快するであろう。
 しかし。
 アクアはちらりと起爆装置のタイマーを見やる。
 しかしあと8分足らずのうちに爆弾の有効半径から抜け出るような芸当は到底不可能である。
 居なくなる。
 マルコが居なくなる。そのことをアクアは初めて意識した。今更になって、マルコの存在そのものを、今までにないくらいはっきりと意識した。
「お嬢様……もうご自分に呪いをかけるのは御止め下さい」
 そのことをマルコ自身も自覚しているのであろう。彼は意外に穏やかな、それでいて決意に満ちた瞳でアクアを見やる。
「貴方様はウィーズ・ヴァレンタインの一部などではありません。誰かに頼らなければいけない必要などございません。貴方は1人でも幸せになることが出来るのです。そのことをアクア様自身が自覚なさり、その上で寄り添いたい誰かを見つけたというのなら、それこそが本当の幸せではないでしょうか?」
「何を、何を言っているの、マルコ……そんなことはここから脱出してからにしましょう」
 そう言ってアクアは彼の手を引こうとする。しかしマルコはその手をやんわりと拒絶した。
「何度も何度も申し上げようとは思いました。ですが怖かったのです。私の不用意な諌言(かんげん)で、硝子(がらす)のように(もろ)い貴方様の心を壊してしまわないかと。この私にとって……貴方様は理想でした。この世に希望を持つことが出来なかった私にとって、たった一筋残った光明でございました。だからこそ私は貴方様の望むもの全てを叶えて参りました。それこそが自分の理想に違いないと。しかし―――」
 マルコの体が一瞬、傾く。
「マルコ!」
「しかし、所詮それは私の傲慢(ごうまん)だったようです。理想を(うた)うのならば、主が過ちを犯した時にはそれを(いさ)めてやる義務もあるはず。それから私は逃げていたわけです……それが、さらに貴方様を追い込むと知っていながら。いいですか、お嬢様。このマルコ・オーエン、最初で最後のお願いでございます。自覚をなさってください。アクア・クリムゾンは自分1人の力でも幸せになることが出来るのだと。生まれによる不幸は誰にでもございましょう。しかし、貴方様には仲間を作ることが出来ます。助けを求めることだって出来ます。これは依存することとは違います。自分自身の権利と責任において行えば、それは決して人を頼るということにはなりません。自覚なさい。どんな時でも諦めずに、最善を尽くしていけば、人は必ず幸せになっていけるのだと……!!」
「…………」
 アクアは息を呑んだ。
 それは生まれてからずっと、誰かに言ってもらいたかった言葉。
 頭の中で火花が散る。
 どれだけの願いと望みが込められていても、それ自体はただの言葉、文字の羅列に過ぎない。けれど、マルコの言葉は確実にアクアの脳髄(のうずい)を揺さぶる力を持っていた。
「ウィーズ……、お前には謝らなくてはな。お前が立てた誰も殺させないという誓い、俺はそれを破ってしまった」
 マルコは次に目だけ動かしてウィーズを視界に入れてから話した。
「……仕方がなかったわ。私もアクアを救うにはああするしかなかったと思う。そりゃあ、確かに残念な気持ちはあるし、もしかしたら救える方法もあったんじゃないかって思ってることも事実よ。でも、それはあくまで私の中での誓いであって、それを他の人にまで強制するつもりはないわ」
 ウィーズは最後に『世の中それほど単純じゃないしね』、と溜息混じりに付け加える。
「そういってもらえるとこちらも助かる」
 彼は短く応えると、言うべきか言わざるべきか僅かに逡巡してから、口を開いた。
「ウィーズ、俺はな、暗いところが嫌いなんだ。笑うだろ、SSのくせにって。心的外傷(トラウマ)ってやつか。俺は実の親に殺されかけたんだ。寝ているときに首を絞められてな」
 ウィーズは、いやむしろ端で聞いていたアクアの方が驚きに目を見開く。
 知らなかったのだ。そんな話は。
 考えてみればそれも当然のことである。彼がアクアの元に配属されたのはアクアが9歳の頃。そんな少女にする話ではない。
「母親は俺の顔を見るたびに言った。『お前なんか死んでしまえ』、『産まなければ良かった』、『車にでも()かれるといい』、『アパートの屋上から飛び降りろ』……。俺は誰かに必要とされたかった。そんな人間になりたかった。だからアクア様が俺に頼みごとをするときは何時だって胸が踊った」
 一拍。そこで言葉を切ると、マルコは悔しそうに顔を歪める。
「アクア様の傍にもっと居たかった……。ウィーズ、最後に1つだけ言わしてくれ。ボソンジャンプを使えるお前ならここから逃げることも出来るだろう。今とは言わない。何時か、お前自身にけじめが付けれられた時で良い。お嬢様の元に戻ってきてはくれないか。そして俺の代わりにお嬢様を助けてやってくれないか」
「……考えとくわ」
 ウィーズの表情に色はない。それは本気か嘘かは分からなかったが、マルコはそれを聞いて満足そうに息を吐いた。もう言い残すことは何もない。彼は安らかにその目を閉じる。
「……マルコ」
 そんなマルコの顔を、アクアはそっと触り……。
「アクア様、もうお逃げ下さい。そろそろタイマーの時間が―――!?」
 ごす。
 驚く暇もあればこそ。アクアは、そのままマルコの額を殴ったのだ。ぐーで。
 彼は信じられないものを見るようにアクアを見やる。
「な、何をなさるんですか!?」
「黙りなさい! さっきから聞いていれば何をきれいに死のうと思っているんですの!? あなたを置いて逃げるなんて真っ平ゴメンですわ!!」
 そう告げる彼女の声は、今までとは明らかに違っていた。決してうろたえない。絶望しない。生きることを諦めない。誰の影響か言葉遣いも多少荒くはなっていたが、それだけに彼女の奥底から確かな力強さを感じられた。
 彼女の気遣いは嬉しいが、それでもマルコは辛抱強く話す。
「いいですか、お嬢様。私が持ってきた起爆装置は特別製です。信管へのコードを切断すればそれだけで他の全ての炸薬に発火いたしますし、解体するにしてももう時間がありません。ウィーズのボソンジャンプだって耐性のない私には耐えられないでしょう。……私が生き延びる(すべ)はないのです」
「マルコは私に嘘を言うんですの? 言ったばかりですわ。『どんな時でも諦めずに、最善を尽くしていけば、人は必ず幸せになっていける』んだって。私はマルコと一緒じゃなければ幸せにはなれませんわ!」
 彼女の声にはわずかな怒気すらこもる。普段なら涙が出るほどに嬉しい言葉なのだろうが、
「し、しかし―――」
「うるさいですわよ! 私は諦めてなんてあげませんわ。だって私は今まで欲しいと思ったものは何だって手に入れてきたんですから。まだ何か言うようでしたらもう一発殴りますわよ!」
 拳を振り上げるアクアを見て反射的にマルコは額を抑えた。一方、そんな一連の流れを眺めていたウィーズはこらえきれなくなった様子で笑いを漏らす。
「くくくく、あっはっはっはっは! あ〜、おなか痛い。あなたの負けよ、マルコさん。そうなった時のアクアのわがままさぶりはあなたが一番良く知っているでしょ?」
「……う」
「それにね、3人とも生き残る手段。まだ無いことも無いわよ」
「何だと」
 マルコの問いにウィーズはニヤリと笑って自身の左腕を軽く叩く。
「ボソンジャンプよ。普通なら私個人か、そうじゃなきゃもっとCCを持ってきて工場全体を飛ばすしかないんだけどね、今の私なら、2人だけ除いて工場ごと跳ぶことだって出来るわ」
 通常、ボソンジャンプの範囲は自分自身のみか、さもなくば自身を基点として搭乗している機動兵器や戦艦全部という選択になる。これは遺跡に伝えるイメージの精度が『輪郭だけイメージしてその内側全部を範囲とする』というアバウトなものしか出来ないからだ。しかし、ウィーズのジャンプ精度なら工場全てをイメージして、その中から特定のものだけを除くということも可能になる。
「だがウィーズ、それでは貴様がこの爆弾と心中することになるんだぞ!」
「もちろん私だって死ぬつもりはないわ。いくつか手は考えてあるし、最悪それが出来なかったとしても意地でも逃げ切ってみせる」
 どちらも引くつもりはさらさらない。2人の視線の錯綜(さくそう)が生み出す一瞬の、静寂。
 それを破ったのはアクアだった。
「……どうやら、それしか手はありませんわね」
 まだ何か文句を言おうとするマルコを制して、アクアがその場の判断を下す。ただし、そのプランは決して分の良い賭けとはいえなかった。ウィーズのイメージが少しでも狂ったら、ウィーズ自身はともかくアクアとマルコに深刻な後遺症が出る可能性が高い。CCの数が足りなかったら、そもそもジャンプ自体キャンセルされる。そしてよしんばジャンプには成功したとしても、その後ウィーズも助かるかどうかは―――神のみぞ知る、だ。
 やはり、アクアとウィーズだけで逃げる方が、2人は確実に助かる分まだ無難であろう。しかし彼女は望んだのだ。みんなで生き残る、と。
 やってみる価値はある。
「じゃ、いくわよ」
 ウィーズはゆっくりと立ち上がってから意識を集中し始めた。
 慎重に慎重に頭の中にイメージを作っていく。
 基本構成はジャンプ・アウトの(ポイント)だけをイメージする通常のジャンプに、その発動範囲を定めるための作業が増えるだけだ。
 だが最終的に構築されるイメージは遥かに大規模でしかも緻密である。ジャンプの内側にある物体を『取り除く』なんて動作は外枠だけでなく内枠までイメージしなければならない分、爆発的に難易度が上がる。正直、他のA級ジャンパーが何十人集まれば同じ事ができるのか、検討もつかない。
 ウィーズの体から虹色の淡い発光を始まった。
(やっぱりきついわね……)
 起動にかかる精神的な負荷に、ウィーズは歯を食いしばって耐えた。頭の中に入り込む情報量が加速度的にに増加していく。遥かな、深く遠いどこかで、誰かから……。まるで脳へと繋がれる回線が一本増えたようなこの感覚。
「くっ、この……!」
 意識を侵食する圧倒的な情報量に気を失いそうになったウィーズは、何と撃たれた腹を自らえぐり、その痛みで自身の頭を覚醒させた。
「……っし、頭が冴えてきたわ」
「ウィーズさん!?」
 思わずアクアが声を上げるが、ウィーズはそれに笑うことで返す。
 自分を呼ぶ声。自分と同じ容姿をした者の声。
 アクア・クリムゾン。
 愛すべき存在であり、同時に憎むべき存在。
 何とも矛盾しているが、人間などというものは得てしてそんなものかもしれない。
 心の中で苦笑いを浮かべながら、彼女はそんなことを考えた。
 ―――ウィーズ。お前は今、どうしたいんだ?
 先刻交わした、サイゾウの声。
 あの時、彼女は決意したのだ。
 正義とか理想とか、そんな大層なものなんかじゃなくて、ただどうしても嫌だったから。自分のせいで誰かが死ぬなんて、変わってしまうなんて……、気が狂いそうなくらいに、怖かったから。だから彼女は誰も、たとえ自分を殺そうとする刺客すら殺さない、殺させないと決めたのだ。
 誰もが当然として持っている権利。幸せになる自由。
 それがある日奪われることへの怒り。理不尽な運命への抵抗。
 母が、生まれる前から差別される側だと決め付けられていたのだと認識したとき、彼女はそれを意識した。
 自分が、望んだわけでもないのに希少な特質を持つ実験体なのだと知らされたとき、それは信念へと変わった。
 摂理。運命。定め。
 ざけんじゃない。そんなもので人の一生を軽々と決め付けられてたまるか。例えそれが避け得ないものだとしても、受け入れてなどやるものか。
 だから……力を。大事な人たちを護るための力を!
 それは、何処までも澄み切った願いだった。誰もよりも固い誓いだった。何よりも強い想いだった。
 ……全ての可能性が想うことから始まるというのなら、それは紛れもなく新たな可能性を創る力であった。
「おお……」
 マルコが感嘆の声を上げる。
 大きいとはいえ僅か1つしかないCCの輝きは、何時しか工場全体にいきわたり、同時にその色が虹色から包み込むような優しい金色に変色した。ボソンジャンプの演算回路がウィーズにより過剰稼動(オーバー・ドライヴ)させられているためである。しかもアクアとマルコの体からは微塵(みじん)も発光していない。凄まじいまでの集中力のなせる(わざ)だ。
「2人とも、喜んでいいわよ。どうやらここまでは成功したみたいだから」
 ウィーズは脳に襲いくる圧迫感に耐えながら声を絞り出した。
 もともと、ウィーズがこの力を使うことは今までほとんど無かった。木連では基本的に彼らが開けたチューリップの(ゲート)を宇宙服を着て通るだけであった。もちろん他の『穢れし者』も同様である。それでも今まで失敗しかしてこなかった彼らにとっては、それが十分すぎるほどの進歩と言えたのだ。だが、それこそが盲点でもあったのだ。彼らは『穢れし者』にある遺伝的特徴を研究し移植することのみを考え、彼ら自身に目的地をイメージさせることはやらせなかった。
 ボソンジャンプの原動力となるものはジャンパーの跳ぼうとする意思。
 これこそが機械補助のB級ジャンパーを超え、より高度なボソンジャンプを可能とするのだということを、彼らは見逃したのである。
 ウィーズとて今までこの能力を忌み嫌っていた。自分に呪いをかけるものだと拒んでいた。しかし、自分の誓いのためにそれを受け入れようと、明確な意思が形成されたその瞬間―――彼女は、空間を御する資格を得たのだ。
(とはいえ、思ったより遥かにきついわね)
 ウィーズは内心、冷や汗をかく。それは彼女の意識容量が現状で既に限界近いことを意味する。当初、彼女はジャンプ・アウトの点を工場と自分とをずらすことで爆発から逃れようとしていた。だが思いのほかこのジャンプが意識容量を消費するため、そんな小細工を入れる余裕がなくなってしまったのだ。このままでは自分だけ爆発に巻き込まれる可能性が高いのだが……。
(……お母さんも、こんな気持ちだったのかな)
 不思議なほど静かな気持ちだった。
 『穢れし者』。
 それは政情の安定のため自ら搾取される側に回った者たちである。初期の彼らなら抵抗しようと思えばそうすることも出来た。数がものを言う原始的な時代ならともかく、技術者が大半の彼らなら警備装置に細工をして、逆に自分たちが搾取する側に立つことも出来たのだ。だが彼らはそうはしなかった。
 何故か。
 それは、彼らが木連の元月自治区独立派に希望を持っていたからだ。地球に逆らった彼らはもう地球に戻ることは出来ない。しかし、だからと言って200人足らずの彼らが国を作ろうとしてもタカが知れている。だから彼らは独立派の人々にその希望を託したのだ。何時か立派な国を作って、地球にけじめとしての謝罪をもらい、そして円満な関係を築いていくという希望を。……自分たちが憎まれ役を全て、引き受けることで。
(だとすると、すっごいバカよね……)
 ウィーズは心の中で盛大に溜息をついた。
 バカは死ななきゃ直らないというが、アレは嘘だ。どうも例え死んだとしても、世代を超えて受け継がれていくものらしい。
 最後の末裔(まつえい)である自分にもその考え方が受け継がれているのだから、間違いない。
「あの、ウィーズさん?」
 アクアが恐る恐る、という感じで声をかけてきた。
 恐らく無言ながらも表情をころころ変えるウィーズが気になったのであろう。無理もない。
 思わずウィーズ本人も苦笑いを浮かべる。
「あはは、別に何でもないよ。それより、そろそろ跳ぶよ」
 一同に緊張感が生まれた。いよいよである。
「……また、会えますわよね?」
 口には出さずとも何かが伝わったのだろうか、アクアが躊躇いがちな口調で尋ねてくる。
 怯えた捨て犬のような眼。
 何を信じればいいのか分からなくて、何かに触れるのさえ怖くて……、けれど何かを必死に求めている眼。
「会えますわよね?」
「……大丈夫よ」
 ウィーズはアクアを力づけるように笑う。
「私のウィーズって名前にはね、『雑草』って意味が込められているんだって。だからこの名前に恥じないように絶対生き残ってやるわ。雑草ってのはどんなところでもしぶとく強く生き抜くものなんだから!」
「え、ええ。きっと大丈夫ですわね!」
 もしこの言葉が嘘だと知ったら、アクアはどう思うだろうか。怒るだろうか。寂しがってくれるだろうか。ひょっとしたら悲しみにくれてしまうだろうか。……そんなことはさせたくない。ただ、私のことを覚えていてくれて、それで時々思い出してくれれば、それでいい。
 それだけで私は、自分の存在を肯定する事が出来る。
「でも次に会うときは……私から会いに行くわ。自分自身に納得してからね」
 もしまた会えるとしたら、今度こそ本当の友達になりたい……会えるとしたらだけど。そんな言葉を、しかしウィーズは飲み込んだ。この優しくも脆い少女が、自分にとっての希望が、悲しみを引きずらないように。早く自分のことを忘れてしまえるように。
 ウィーズは静かに眼を閉じ、そして―――
「ジャンプ」
 呟くように、宣言した。
 次の瞬間、工場とウィーズは跡形もなく消滅した。アクアと、マルコの2人を残して。
 まるで全てが夢の中での出来事であったかのような現象。
 その消え方はあまりに(はかな)く、あまりに美しく、マルコはしばしの間、呆けたように見とれていた。
 だからその隣で、自分の主の瞳から一筋の(しずく)がこぼれた事も、彼は知らなかったのだ。

 

 

最終話へ