白い壁、白い床、白い天井……。
全てが真っ白な部屋だった。
こう言えば如何にも純粋で、安らぎに満ちた空間に聞こえるだろう。しかし、本当にただ白いだけの部屋と言うものは、余りにも無機質である。
一切の刺激のないこの部屋の中では、自らの距離感覚や方向感覚、さらには色彩感覚までもが狂わせられ、そのまま見つめ続けていると、ゆっくりと部屋に溶け込んでしまいそうな、そんな錯覚さえ引き起こした。
そんな、完全なる無彩色の世界の中で、反発するかのように眩い金色が動く。
それは一人の女性の髪であった。
年の頃は20代前半。
典雅な顔立ちではあるが弱々しさはなく、むしろ一本筋の通った凛々しさが際立っている。正装をしたらさぞかし絵になるであろう。
しかし、彼女を包む雰囲気にはそのようなものは微塵も感じられない。それは肩口まで無造作に伸びた、しかもクシさえも入れていない金髪が如実に現していた。
着ている物もやはり真っ白な、病人が着るような寝具である。もっとも、くしゃくしゃと表現して語弊の無いくらいシワだらけのそれは、彼女の不精な印象を強めているだけであったが。
彼女の名はウィーズ・ヴァレンタイン。
訳あって、武術の心得あり。
訳あって、遠い遠いところへ出張中。
―――訳あって、この白い部屋に閉じ込められている。
「ふーーーっ」
彼女は目を閉じたまま深呼吸を、否、古武術に見られるよう独特の呼吸法を繰り返している。
そして眼を開けると同時に半身になり、虚空へとおもむろに右手を突き出した。
「やぁっ!」
掛け声と共に、鋭い拳打の音が鳴り響いた。
身体を反転させながらの肘打ちが風切り音を立てて空を斬る。
一歩後退しながら中空に蹴りを放つ。
格闘技を齧った者なら分かるだろう。これがある武術の型であることを。そして、見る者が見れば気付くかもしれない。その武術が、地球圏では絶たれて久しいものだと言う事も。
「せいっ!やぁっ!はぁっ!!」
ウィーズは何かに取り付かれたように一心不乱に技を繰り出す。自らの身体を痛めつけるように休憩も一切取らず、ただ黙々と技を繰り出し続けた。
………………
…………
……
どれくらいの時が経過したであろうか。
彼女が疲れで倒れかけそうになった時、その現象は起こった。
白一色の部屋の中に、不意に虹色の光が出現したのだ。音もなく現れたその光は、見る見るうちにある形状を象り始める。はじめはただの楕円形にしか見えなかったが、すぐに5つの突起物が表れた。そしてその突起物はそのまま伸びてゆき、細部もはっきりしていく。
ここまでくればもう分かる。
これは人だ。
5つの突起物はそれぞれ頭部と腕と脚。ついでに言ってしまえばボサボサの短髪であることから、おそらくは男性であるだろうことも分かった。
しかし彼女はその変化に気付かない。
何事もなかったかのように型を反復し続ける。
極度の疲労に見舞われていた彼女には無音で現れたその光に反応する事は出来なかったのだ。そして、光が完全に実体化する頃―と言っても実質2、3秒で実体化したが―運悪く彼女の後ろ回し蹴りが、その物体の頭部へと吸い込まれた。
めきょ!
鈍い音と共に光から現れた男は、緩い放物線を描いてぶっ倒れる。
衝撃的で……、突然の……。
ともすると三文小説にも出てこないような出会いが、彼らの始まりだった。
Action1000万Hit記念SS
Do you know……?
〜あなたは知ってる?〜
presented by 鴇
「ううん……」
アキトは軽く呻いてから上半身を持ち上げ、眼を覚ますために頭を振った。
眩しくて眼が開けられない。まぶたを気持ち上げて、うっすらと見える周囲を見渡してみる。
……とりあえずここがナデシコではない事が分かった。
アキトは眼が慣れて、正確に周りを見渡せるまでの間、今までの状況を確認しようとした。
確か自分は、ナデシコのみんなを守るために、馬鹿でかいウミガンガーみたいな機動兵器と一緒にボソンジャンプした。
そこまでは良い。
問題はその後だ。
今、自分は何処にいるのか。アキトにはそれがさっぱり分からなかった。
ナデシコではないのは当然だ。自分はとにかくあの機動兵器をナデシコから遠ざけようとしていたのだから、ナデシコに跳んでしまっては意味がない。
アキトは眉根を寄せて軽くため息を吐いた。
そして今更ながらだが、しみじみと思う。
―――この『ボソンジャンプ』と言う奴は何度やっても慣れない。
エリナの話によると、自分はこれで火星から地球に、2度も跳んでいるというのだ。1度目は火星の避難シェルターから、2度目はナデシコに乗ってチューリップから……。
そのどちらの時もジャンプ直後は気を失っていた。そして今度も、ジャンプ後には気を失っていた。なぜか頬に鈍い痛みを覚えるが、ジャンプ直後にどこかにぶつけたのだろうか?
波が引くように眼に飛び込んでくる光量が減ってきた。ようやく眼が慣れてきたようだ。そして網膜に映ったのは、ただただ真っ白なだけの部屋。
「……何処だよ、ここ?」
アキトは自分に対して問いかけるように呟く。
そんなアキトの問いかけには、予想外にも答えが返ってきた。
「ここは月の連合宇宙軍の研究施設だよ」
声はアキトの左横から聞こえた。弾かれたように首を振り向けるが、声の主は見当たらない。アキトは狐につままれた様に2、3度目を瞬かせるが―――
「あははは、こっちこっち」
と、アキトの視界のもう少し下から笑い声が聞こえた。
言われるがままに視線を落とすアキトの目の前には、1人の女性が突っ伏して座っている。アキトはその女性を見ることで、自分は今どこかのベッドに寝かされている事、そしてこの女性がその間看病していてくれたであろうことに気付いた。
「ヤッホー♪」
彼女はアキトが気が付くとニコニコしながら手をひらつかせる。
「う、うわわわわわわわっ!だ、誰だ。アンタ!!」
いきなりの事に思わずアキトは取り乱してしまう。彼女はそんなアキトの反応を見ると、わざとらしく頬を膨らませながら怒った。
「人に名前を聞くときはまず自分からでしょ」
もっとも、本当にわざとなだけで、言い終わったらすぐに笑い顔に戻ってしまったが。
「あ。す、すいません。俺、テンカワ・アキトって言います。ナデシコって戦艦でコック兼パイロットやってたっス」
「やってた?」
彼女のオウム返しの質問にアキトはうつむきながらぽつりぽつりと答えはじめる。
「俺……、戦争嫌いで……でも、ナデシコのみんなの事は好きで…………、それでみんなを守りたくって……」
彼の話はどうにも要領を得ない。
何故戦争嫌いの人間が戦艦になど乗っているのか、コック兼パイロットとはどういう意味か、そもそもナデシコという戦艦を知っていて当然のように話されても彼女の知識には無い。普通の人間ならこの中途半端で突飛な話し方は癇に障るだろう。事実、彼の上司であるムネタケなる人物は、この話し方にヒステリーを起こしたことがある。
「でも、お前はいらないって言われて……、それで悔しくって……そしたらエリナさんの所に行って……、 それでメグミちゃんと夕飯食べてて……、エリナさんにボソンジャンプやらしてくれって言って…………」
「ボソンジャンプ?」
彼女は完全な聞き手に回っていた。
物事を端的に、しかもあまり脈絡のない話し方をするアキトから欲しい情報を聞き出すには、ひとえに問題文の作成に掛かっているのかもしれない。
出来る限り端的に、具体的にするのがコツだ。
「えと、俺もよく分からないんすけど、ワープみたいなものだって聞きました」
「ワープ……」
彼女はその言葉もオウム返しに呟きながら、アキトの現れた瞬間を思い浮かべた。ギリギリまで……、そう、何も考えられなくなるくらい自らの肉体を苛めていたら、不意に踵に妙な感触を覚えて、見てみたら突如現れたアキトのひしゃげた顔があった。
……そうか、あの何の脈絡もない登場はそういうことだったのか。
彼女は1人で納得する。
「あっ、俺がジャンプした直後の事って分かりませんか? なんか左の頬が痛いんですけど……」
「わ、私は知らないわ。 多分どっかにぶつけたんじゃないかしら。おほほほほ。それよりも私の自己紹介がまだだったわね」
彼女の額に大粒の冷や汗が浮かぶ。
正直言ってかなり怪しいのだが、彼女はアキトの発言を遮るように早口にまくし立てると、軽く咳払いをしてから自己紹介を始めた。
「私の名前はウィーズ、ウィーズ・ヴァレンタインよ。職業はちょっとワケありで話せないんだけど、そのせいで今ここに閉じ込められているの」
アキトは話を聞きながら改めて彼女のことをよく見直す。
年は20代前半、美人と言って問題ないレベルではあるが、肩口まで無造作に伸びたボサボサの金髪が彼女の印象を決定付けている。黙っていれば知的といって差し支えない程の顔の作りなのだが、年不相応なほどに子供っぽい言動がそれを感じさせなかった。
不意に、アキトはこの女性と自身の幼馴染とをダブらせる。
「閉じ込められてるって……、どういうことっスか」
「どうもこうも無いわ。そのままの意味よ。あっ、そうだ。君、今日が何年の何月何日だか分かる?」
アキトは左腕のコミュニケで日付を確認する。
「え? あ、はい。……えーと、2197年の12月25日っス」
「確か激我元年が2142年だったから……、今は激我55年か。なんだ、たったの2年ちょっとしか閉じ込められて無かったってワケか」
アキトの言葉にウィーズはぶつぶつと独り言を言う。
不審に思ったアキトは、ウィーズがまだ考えの途中だったが話しかけた。
「あ、あの……、ウィーズさん? さっきから閉じ込められてたってどういう意味っスか……」
アキトの問いにウィーズはバツが悪そうに頭をかきながら答える。
「あー、ゴメンゴメン。別に君の事を無視していたわけじゃないんだよ。とりあえずこの部屋全体を見てみて」
言われるがままにアキトは部屋全体を見回す。うざったい位に強い光をたたえている照明の下には、徹底された白い部屋にベッドだけしかなく、後はトイレへの扉があるだけだった。
「見ましたけど、これがどうかしたんスか」
「そう、どうってことないでしょ。ここは本当に何にも無い部屋なの。 私は仕事でちょっとヘマをしてね。それで連合宇宙軍によってここに2年間閉じ込められていたのよ。私はちょっとした特異体質でね。その研究のために殺されずに飼われていたんだわ」
『飼われていた』。
ウィーズの口調も表情も特に変化はなかったが、その単語にアキトは息を飲む。
そして一瞬、悩んだ。
これから先を聞くべきか否か。
普通に考えれば後者を選択すべきだろう。この手の話というものは、大抵話す側にとっても聞かされる側にとっても不快なだけのもの。しかし何故かこの時、アキトはウィーズの話を止めようとは思わなかった。それはアキトにとって、ナデシコのみんなと同じく目の前の女性も、幼馴染にダブらせたこの女性も『護りたい』と思ったからかもしれない。
アキトは沈黙をもって彼女に話の先を促した。
「私は……、言ってみれば実験用動物みたいなモノね。辛かったわ〜。体中弄くりまわされたり、変な薬を注射されたり……、水槽の中に入れられて溺れかけたこともあったっけ」
ウィーズは一瞬、皮肉気に唇を歪める。
アキトは目を瞬かせて、それをもう一度確認しようとしたが、果たせなかった。まるで、今目の前にいる女性は幻で、さっきの一瞬だけ本物が見えたような、そんな気がした。
「あぁ、ちなみにトイレはあるけどお風呂は無いよ。実験のたびに消毒液に浸られるから、それがお風呂の代わりになってるの。殺菌効果は確かにあるんだけど、ちょっと冷たいのと顔まで突っ込まれるから息が出来ないのが難点だったかな?」
あっけらかんと話してはいるが、彼女が体験した2年間とは果たしてどれほどまでに長かったのだろうか。どれほどまでに辛かったのだろうか。恐らく彼女の精神がもう少し弱ければ、とっくに発狂していたであろう。彼女はそれを防ぐために精神鍛錬でもある武術の型に没頭していたのだ。あるいは彼女はそれを行うことによって―――何かに熱中することによって目の前の不安を忘れたかっただけなのかもしれない。慰めあう仲間もいなく、何時出れるのかもわからない長期にわたる拘束は、それほどまでに彼女の精神を蝕んでいたのだ。
幼馴染にダブらせていた顔が、この瞬間だけ妙に大人びて見えた。
否、これは全てを受容する諦観の顔だったのかもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってください! それって、それって……」
「そう、少なくとも人間の扱いじゃないわね。ペット、いいえそれ以下の扱いだわ」
アキトは胸糞が悪くなった。
それまでも連合軍に対しての心象は決して良くは無かったのだが、改めて確信した。
こいつらは『ろくでなし』だと。
2年前と言えばちょうど第1次火星会戦のころだ。火星の人達が殺されているとき、こいつらは自分たちだけ勝手に逃げ帰りこんな事をしていやがったんだ、と。
「でも、アキト君のおかげで助かったわ。ありがとう」
アキトの手をとりながら、ウィーズは笑う。
そしてその顔のまま、彼女はこともなげに言い放った。
「それじゃ一通り自己紹介も終わったことだし、脱走しましょっか?」
アキトは耳を疑った。
確か、目の前の女性は2年間閉じ込められていたと言った。ならどうしてその間に脱走しようと思わなかったのだろうか。
アキトは呆けた顔で聞き返した。
「脱走って……、何か手が在るんですか?」
「何言ってるの。君はここへどうやってきたの?」
「どうやってって、ボソンジャンプして気が付いたらここに……」
アキトの言葉に、ウィーズは我が意を得たりとばかりに笑う。
「そう! その何とかジャンプを使ってここから逃げるのよ」
彼女はビシリ、と音が出そうなほどにアキトを指差す。しかしアキトは後ろ頭をぽりぽりと掻きながら、申し訳なさそうに答えた。
「あ〜、ごめんなさい。それC.Cっていう道具が必要なんですけど、ここに来るのに全部使っちゃいました」
ウィーズは『えっ?』っと叫びながら、見ていて面白いほどに表情を逆転させる。
期待は大きければ大きいほど裏切られたときの反動が大きい。ようやくここから逃げる事が出来ると喜んだ矢先の事だけに、彼女のショックもまた大きかった。
「「…………………………………………………………」」
なんとなく嫌な空気があたりに充満する。
ウィーズが勝手に期待しただけで別にアキトが悪いわけではないのだが、性格上アキトは責任を感じてしまう。アキトはどうにかして脱走の手段を考えようとして、そしてある手段を思いついた。
「ウィーズさん、これ見てください! これはコミュニケって言ってナデシコで使っている通信用の携帯端末なんですが、これを使えば救援を呼ぶことが出来ますよ」
アキトはそう言って誇らしげに携帯端末をいじくり、ナデシコと通信をしようとした。
しかしその顔がピキリと凍りつく。
不審に思い、ウィーズもアキトの携帯端末を覗く。
そして同じくピキリと凍りつく。
2人が見たもの。
それは携帯端末にでかでかと書かれた『圏外』の2文字だった。
どれくらいの時間がたっただろうか。
2人は時が凍ってから、身動き一つとらずに固まっていた。正直、永遠のように長いとも思えるし、たいした長さでもないようにも思える。
そんな時間が流れていた。
しかし幸か不幸か、その2人の空気をぶち壊してくれる存在が現れた。そう、文字通りぶち壊してくれる存在が。
―――ズズズズゥゥゥゥウウン!
不意に、施設全体を衝撃が襲った。
それに一瞬遅れて、轟音。
すぐ近くでとてつもなく大きな質量が落下したようだ。
地面が激しく震え、鼓膜どころか腹の中までも揺さぶられる音に二人は思わず耳をふさいだ。
「な、な、な、何が起こったんだ!?」
パニックを起こすアキトを横目に、ウィーズは冷静に周囲を見渡す。強かった照明は消え、非常電源の弱々しい光だけ。壁越しには警報のようなものも聞こえる。今までの光に慣れてしまっていたので、急には何も見えなかったが、やがて眼が慣れてくると、ウィーズは一直線に入り口に向かって走り出した。そしてドア付近で確認すると、犬歯を見せて会心の笑みを浮かべる。
「アキト君! やったわ、ロックが外れてる!!」
今まで彼女を閉じ込めていた強固な扉が、少し力を入れるだけであっけなくスライドした。
ウィーズは軽くガッツポーズをとると、漸く眼が慣れてきたアキトを連れて、部屋から逃げ出した。
どやどやと入ってくる作業員風の男達。鉄火場のように行きかう注文。そしてそれらを万能土木機械のように咀嚼して出て行く客達。そんな、ある意味正しい姿とも言える大衆食堂。そのお世辞にも綺麗とは言えない店の一番奥のテーブル。そこに2人連れの客がいた。
無論、アキトとウィーズである。
「炒飯お待たせしましたあ」
思わず出そうになる苦笑いと怪訝な顔色を営業用の笑顔で固め、給仕役の少女が言う。
それもそのはず。
アキトは体中汗だくで息も絶え絶えに机に突っ伏しているし、ウィーズはウィーズで、汗こそ大してかいてはいないものの、ボサボサの髪と衣服は顔立ちが良いだけの人目を惹く。いくらここが油まみれの作業員達を相手にしている大衆食堂といえど、少し抵抗を感じてしまうだろう。
しかし、ウィーズの方はそういうものには全く無頓着なのだろうか、料理が来た事に気付くと笑顔でそれを受け取った。
「あ、どうも。ほらアキト君、料理来たよ」
「……ぜーっ、……ぜーっ」
アキトは突っ伏したまま答えない。
いや答えられない。
研究所から逃げてきたは良いが、2人は現在の場所に至るまでに少なくとも10kmは走ってきたのだ。いくらパイロット兼任とはいえ、一介のコックにはちとキツイ距離である。実は研究所の敷地を抜け、市街地に入ったところでギブアップ寸前のアキトが落ち着いて状況を整理しようという口実で休憩を申し入れたのだ。時刻が昼過ぎだったので、単なる喫茶店ではなく食堂に入ったのだが。
「どうしたの、料理冷めちゃうよ」
そんな事とは露知らず、ウィーズはアキトに食べる事を勧める。今食べたら戻す事は分かりきっているのだが、悪気が無いだけに何とも言い返せない。ふと『体力お化け』とか『運動バカ』とかいう単語が頭に浮かんだのだが、いくら鈍感なアキトでもさすがに言う事は無かった。
「……ウィーズさんの料理が来るまで待ってますよ」
アキトはそんな心情を作り笑顔で精一杯塗り固めて、ただそれだけ答えた。
とにかく少しでも体力を回復しないと。
アキトは息を整える事に専念しようとする。
が―――
「坦々麺お待たせいたしましたあ」
無常にもアキトにはそんな時間は与えられなかったようだ。
見るとウィーズは早速料理を受け取って割り箸を割っていた。アキトも覚悟を決めて上体を起こす。
「いただきまーす」
「……いただきます」
元気よく言って一口めを食べたウィーズ。しかしどうにか普通に食べれているアキトとは逆に、彼女の方がこみ上げてくる強い嘔吐感を覚えた。彼女は思わず口を押さえる。
「ど、どうしたんです。大丈夫っスか?」
ウィーズは口元を押さえながら必死に耐え、喉元まで上ってきたものをまた胃の中に力づくで戻す。そして涙目になりながらアキトに答えた。
「……ふぅ〜、ゴメンゴメン。久しぶりに胃の中にもの入れたから、身体の方がビックリしちゃったみたい」
「え、食べ物が全く無かったんスか?」
「うん」
「それじゃ、どうやって栄養とか取ってたんですか?」
「ああ、それはね。君が寝ていたベッドを覚えてる?あそこの脇からチューブが伸びていて、そこから栄養剤を点滴のように打つのよ」
そう言ってウィーズは自分の左腕に注射を打つ真似をする。見ようによっては誤解を受けかねないジェスチャーだ。
「でも、もう大丈夫よ。さっきは突然だからビックリしちゃったけど、いつもなら私この5倍は食べるから」
そう言って笑いながら坦々麺を再度口にする。
しかし、アキトの表情は強張っていた。彼は一介のコックとして食事が出来なかったという事実に、軍に対する嫌悪感を再燃させると共に、何とかしてウィーズに満足するまで食事をしてもらいたいと思った。
「ウィーズさん!!」
「はい?」
スープをどんぶりから直に飲もうとしていたウィーズに対して、アキトが身を乗り出して話しかける。その余りの唐突さに彼女は思わず少し引いてしまった。
「辛かったっスね! 悲しかったスね!! 分かりました! ここのお会計は全部俺が持ちますんで好きなだけ食べてください!!」
何が分かったのかよく分からないが、アキトはドンと胸を叩いてウィーズに対してそう言った。
燃えているアキトとは対照的にウィーズはというと
(燃えてるな〜。いや、これは自分に酔ってるって言うのかな?)
等と考えていたりする。
とはいえ、好きなだけ食べて良いとはなかなかに魅力的な提案である。
ウィーズは素直に喜んだ。
そしてちょうど近くにいた給仕を呼び止めて遠慮無しに注文をする。
その数5つ。
とんかつ定食に酢豚、蟹雑炊にオムライス、そしてスープ代わりに坦々麺をもう一杯と。2人で食べても多い量だが、それを1人の女性が食べるというのだから呆れを通り越して驚きに値するだろう。
給仕役の少女は先ほどとは違う意味で苦笑いを浮かべかけた。
そして10分と待たずに全ての料理が来ると思わずウィーズは笑み崩れる。
「それじゃ、改めていっただきま〜す」
パン、と勢いよく両手を合わせると彼女はおもむろに料理を食べ始めた。
……速い。
最初こそ身体を気にしていたが、それも大丈夫と分かると怒涛の勢いで料理を口に運び、咀嚼していった。
バクバクバクバク
ングッングッング
ズゾゾゾゾゾゾゾ
まるで両手と口が彼女とは別の生き物のように動き料理を片付けていく。とてもじゃないが年頃の女性には見えない食べっぷりといえよう。事実、言いだしっぺのアキトもポカンとしてその様子を眺めていた。
ガツガツガツガツ
まふっまふっまふっ
〜〜〜〜ゴクンッ
そして5分と経たないうちに目の前の料理は綺麗さっぱり平らげられてしまった。彼女は備え付けのナプキンで口元を拭きながら満足げに笑みを浮かべる。
「あ〜、食べた食べた。アキト君、ご馳走様♪」
「……あ! は、はい」
呆然としていたアキトはウィーズの言葉で我に返った。あれだけの質量がどうやって入ったのか不思議なところだが、とりあえず考えない事としよう。
そして代金を払おうとした時、事件は起こった。
「お客さん、これ日本の『円』だろ。うちじゃ使えねえぜ」
2197年現在、アキトのいた火星と違って、地球・月には全世界統一通貨というものは無かった。一応クレジットカードなどは万国共通で使えるものの、やはり通貨を統一するというのは政治上の問題点が多く難しかったのだ。さらにこの食堂はカードなどは使わないニコニコ現金主義の頑固親父が経営しているため……、
「なんだぁ、手前ぇら文無しかっ!」
当然こういう状況に陥った。
結局、アキト達は代金分働いて返すこととなった。
もっとも、これは食堂の主人に警察に突き出されそうになったところを、その奥さんが助け舟を出してくれたからなのだが。
「ど、どうかな?」
食堂の2階から下りてきたウィーズは少し照れながらそう言った。
そしてみんなに良く見えるようにその場でくるりと回る。
「「「おぉ〜〜」」」
アキト、店主の親父、女将、そして2人の娘である給仕の久美は一様に感嘆の声を上げた。
アキトは出前を、ウィーズは給仕の手伝いをする事となったのだが、さすがに彼女がそのままの姿で出ることは衛生面その他で悪かったらしく、とりあえず風呂に入らせ、髪をとかし、そして店主が何時か久美に着せようと買っておいた販促用の衣装(メイド服)に着替えさせた。
「へぇ〜、変わるもんだねぇ〜。あんたがこの服買って来たときは本気で別れようと思ったもんだけど」
「ばっかやろう。これが漢の浪漫って奴なんだよ!」
「うぅ。わ、私だってウィーズさん位の年になれば……」
上から順に店主、女将、久美の台詞である。
確かに女将の言うとおり、ウィーズは変わった。
いや、これが元の姿というべきなのか。
ボサボサの金髪は、肩口で2年間伸びっぱなしにはとても見えない綺麗なミドルボブとなり、くしゃくしゃの服も、意外と良い作りのメイド服に変わったことで、パッと見上品そうに見える。原石であるルックスが一級品だっただけに、その変わり様には誰しも舌を巻くところだろう。
確かに、これならむさい男ばかりが来るこの食堂には最大級の効果を持つ販促と言える。
……しかし大衆食堂にメイドでは思い切り浮く事は否めないが。
「おう、アキ坊と嬢ちゃん!」
「あ、アキ坊!?」
「嬢ちゃん!?」
「おう、そうだ。2人とも食い逃げするってことは行く当てがないんだろ。だったらウチに住み込みで働かねぇか?」
「「えっ、良いんですか?」」
別に2人は食い逃げするつもりなど小指の先ほども無かったのだが、正直、願ってもいない申し出だった。1文無しのウィーズはもとより、アキトといえどクレジットカード内には余裕がほとんど無く―先月、限定復刻版ゲキガンガー人形DXを購入したためである―ホテルなどに泊まることが出来なかったところだ。
渡りに船とはこの事であるが―――
「ちょっとアンタ、勝手に何決めてんだい!」
余り裕福そうには見えないこの食堂である。当然の事ながら財布の紐を握る女将から文句の声が上がった。
「てやんでぇ! 行くあての無ぇ奴を寒空の下に放り出すなんて真似が俺に出来るかっ!!」
腕を組みながら店主は女将に対して啖呵を切る。この台詞だけを聞いていれば格好良いのだが……、
「……アンタ、そういう事は鼻の下伸ばさないで言った方がいいよ」
と、女将は無表情で店主にボディブローをねじりこみながら言う。彼は腕を組んでいたため、ガードなど出来るはずが無い。どてっ腹に対してもろに決まった一撃は、彼の意識を地獄の苦しみへと誘った。
一瞬、アキトとウィーズは見てはいけない何かを見てしまったように後ずさる。
「さて、あんた達」
「「「は、はい」」」
突如、笑顔で話しかけてきた女将に対して何故か背筋がピンとなった。
気がつけば久美も背筋を伸ばしていた。
「ウチのバカが言う事ももっともだし、働いていく気はあるかい? まぁ、給料はあんまり出せないけどね」
そう言って女将は膝から崩れ落ちた店主を踏みつけてさりげなくトドメを刺す。その様子を内心苦笑していたものの、2人の答えは決まっていた。2人は女将に向かって深く頭を下げる。
「「お願いします」」
こうして、アキトがナデシコへと戻るまでの2週間余り、2人はこの食堂で働く事となったのである。その間、彼らは人生観を変えるような出来事に直面するのだが、それはまだ知る由も無かった……。