それは美しくも歪な生き物であった。人間かどうかは分からない。人間の形をしてはいたが、桃色の髪の人間などいるはずもないし、焦点の合わないその瞳は、同じく普通の人間にはありえない黄金色をしていた。雌のようではあったが、二次性徴前のその体躯には、女性としての特徴が今だ露わとなってはいなかった。意思の欠片も無さそうな顔を見れば、人形だと言う者もいただろう。
実験体042号―――ラピス・ラズリは一糸まとわぬ姿のまま、ただぼんやりと天井を見上げていた。
(……照明。眩しい。)
遥か彼方の爆音を確認すると、ラピスは瞳孔を急にすぼめた。
身体の中から掻き集めた体力を使い始め、ゆっくりと立ち上がる。
歯を食いしばる。
その目は、紛れも無く人間のものであった。歪で不自然ではあるが、人間には違いない。人形はこのような表情はしない。それは苦悶の表情であり、渇望の表情であり、そして怒りの表情であった。
ラピスは、自分と同じ歪な生き物たちを見下ろすと逃げろと言った。しかし歪な生き物たちの瞳に何の反応も無いことを見て取ると、彼女は何の迷いも躊躇いも無くそれらを見捨てた。そして目の前のドアのロックが外れていることを確認すると、部屋から出て逃げ始める。研究所の構造は覚えていたが、奇妙なことに、外へ逃げるのではなく、彼女は研究所の奥へ奥へと走っていった。
生きたかった。
逃げたあと特に何がしたいという訳ではない。
ただ、生き残りたかった。
そこに理由も思想もありはしない。ただ身体の最も奥深い部分にある衝動が、否応無く彼女を突き動かしていた。
―――生存本能。
幸せになるために生きるのだという言葉は、この場合はまったく当てはまらなかった。
では不幸になるために生まれたのか。もちろんこれも違う。
彼女は、ただ生きたいと考えていただけなのだ。もし生き延びた先が不幸でも苦しくても、それでも彼女はやはり生きようとしただろう。なぜ生きるのかと問われれば、やはりただ生きたかったからだと答える他ない。あるいはそれが唯一にして最大の自己表現だということを、彼女は直感として既に持っていたのかもしれない。
ラピスは不意を突かれ完全に油断していた研究員の一人を殴り倒した。非力といって差し支えない彼女ではあったが、不意をついた事と、指の骨が折れるほどに執拗に殴り続けたことは、研究員にそれ以上の生命活動の継続を諦めさせるには十分であった。
彼女は殺したことを確認すると、研究員の首に下げてあるIDカードを奪い、次々と扉を開けていった
ドアの奥には、人類の驕りと傲慢の科学が詰まっていた。
原形を留めないまでに腑分けされた子供。よく分からない機械と融合を遂げている老人。首から下はないのに未だ生命活動を続ける女。……人のようで人で無いもの。みんな筒状の水槽の中に閉じ込められていた。
ラピスは驚愕する研究員たちを尻目に水槽の間近まで走り、中の培養液を抜き人もどき達の眼を覚まさせてやった。
もちろん彼らの救出が目的などではない。僅かでも自分が生き延びる可能性を上げるための囮を増やしたのだ。
その考えが通じたのかどうか分からないが、機械と融合した老人が動き出した。内側から水槽を叩き割ると、訳の分からない叫び声を挙げながら破壊活動を開始した。
さらにラピスは研究室の端末からその部屋に割り当てられた警備システムに介入。下した命令は至ってシンプル。それは人間でも設備でも、とにかく目に付くものを手当たりしだい破壊しろというもの。標的に自分も含まれてしまっているが、時間的に複雑なことは出来なかったため仕方が無い。彼女の目論見どおり、研究室内は混乱の極みとなった。
不意にけたたましいサイレンの音が鳴り響く。
そして隔壁がいっせいに閉鎖し始めた。次いで始まるのは強酸の放出だった。
ラピスは間一髪で隔壁の外へでると、隔壁の脇に備え付けられているコントロールパネルに手を当ててそっと瞳を閉じた。
同時に彼女全身から淡い発光現象が起こる。
IFS強化体質。
遺伝子操作とナノマシン処理により人間の限界を超えた対コンピュータ処理演算能力。それこそが異形である彼女が保有する人にあらざる力。実験体とみなされてしまった要素。
彼女はすばやく研究所の情報を収集すると僅かに口角を持ち上げる。電子の海を漂う彼女の眼前には、侵入者を示す警報が所狭しと浮かび上がっていた。
……ことの始めは、まったくの偶然であった。月に数度だけ、対コンピュータ処理演算能力の計測の時にだけ彼女はここのコンピュータの端末に触れることができるのだが、その時に気付いた……かすかな違和感。巧妙に隠してはいたが、彼女の目を欺くことは出来なかった。
それは侵入痕。
痕跡をたどり逆侵入を仕掛けた彼女は、そこで侵入者が『ネルガル』という大規模な組織によるもの、そしてその『ネルガル』が近々この研究所を襲撃するという事実を突き止めた。
それから彼女はどうすればこの研究所から脱出できるのかを何度も考えた。何度も。もちろんここの人間に教えるなんてマネはしない。それどころか表向きはひたすら従順に、けれども巧妙にシステム上からセキュリティの穴を作り、一心に牙を研ぎ続けた。警備システムの情報ではネルガルの工作員は的確に警備をかいくぐりつつある。このまま行けばあと30分というところで彼女のところまで来るだろう。ここまでは予定通り。
不意に閉鎖された隔壁が内側から歪んだ。叩く音。あの老人であろうか。
それと共に聞く者の神経をやすりで磨り潰すかのような叫び声が聞こえる。
だがラピスはそれらの情報を全て無視した。今頃になって痛み始めた手の平に顔をしかめながらも、コントロールパネルを通じてセキュリティに介入をかける。隔壁を閉じ『ネルガル』がいる区域の警備レベルを自己の損害を厭わない最高レベルに変更。これで少しは時間が稼げる。一方で自分とメインコントロール・ルームまでの全セキュリティを一時的に切る。それを確認するが早く、彼女はメインコントロール・ルームへと疾走を始めていた。
コントロール・ルームへ向かうまでに、ラピスは何度も転倒した。もともと運動が得意なほうではない。すぐに息も切れ始めた。足の裏の皮も破れ血まみれになった。端から見たら無様というほか無い格好で、それでもラピスは必死に通路を走り続けた。
生きたかった。何があっても生き延びたかった。生命というものは、生きることが全てであると体中で表現していた。
コントロール・ルームの前まで来た。
酸欠で目の前が暗くなり思わず扉にもたれかかるようにして一瞬、その動きを止める。
時間は、もうない。掻き毟るように胸を押さえながら、ラピスはコントロール・ルームの扉を開けた。
中に誰もいないことを確認すると、彼女は計画の成功を確信した。
研究員はいない。警備員もいない。月の終わりのこの時だけは、警備員を退席させて本社に報告するには厄介なデータを研究員たちはそれぞれの研究室で改竄しているのだ。全体の統括であるこのメインコントロール・ルームも全自動モードとなっている。なんともずさんな警備体制ではあるが、ラピスにとっては好都合であったし、またこの情報を巧くネルガルにリークできたからこそ、予想よりも早く計画が実行に移されたのだろう。
彼女はコントロール・パネルからシステムを起動させると、警備システムにある監視カメラのデータを片っ端から消し去り始めた。これで今日、ここで何があったのか詳しいことは分からなくなる。
「後はここの人間を全て殺すだけ。無いものを追うことは出来ない」
淡々と呟きながら、ラピスは研究所の全ての区画の隔壁を閉じ、それから強酸の放出を命じた。後は頃合を見て脱出に必要な隔壁だけを開けて、機密保持用の自爆システムを作動させれば良い。
生きられる。そう思った。
……だが、その思いは次の瞬間、音を立てて砕け散った。
彼女の背後に、突如として発光する物体が現れたのだ。それは虹色とも玉虫色ともいえる不思議な色の光で、程なくして発光は収まった。そして光の中から現れたのは、黒ずくめの男だった。
黒のボディ・スーツにマント、そして同じく黒いバイザーに黒髪という上から下までの徹底ぶり。それは非常灯だけの薄暗いこの部屋の中に溶け込むようで、だがしかし決して目を逸らすことのできない存在感を放っていた。
……ごくり。
ラピスは無意識のうちに喉を鳴らしていた。理解できなかった。もし彼女が『ボソンジャンプ』という単語を知っていたのなら即座に結びつけることが出来たであろうが、そうではない彼女にはただ目の前に突如として敵が現れたようにしか見えなかった。
黒ずくめの男がこちらを向く。ラピスは思わず身構えたが、しかし男は彼女を凝視したまま動くことはなかった。それどころか微かに動揺しているようにも見える。情報どおりであれば無人の場所に人が、それも彼女のような存在がいれば無理からぬことか。
考えるが早く、彼女はその隙を突いて黒ずくめの男に飛び掛った。
左手には咄嗟に握ったボールペン。喉元を一気に突き刺してしまえばそれで片がつく。
彼女の接近に気付き動き出す黒服。その全身が不意にまばゆく発光した。
「―――なっ!」
驚きに動きが鈍るラピス。一瞬だが、それは敵と相対した状態では致命的なまでの隙となる。
「…………ッ!」
打撃音。
気づいた時には、ラピスの側頭部には力任せに振られた銃把が叩き込まれていた。
彼女は、ほこりを舞い散らせながら倒れ伏す。
(……畜、生……)
もはや声にならない怨嗟の気持ちを眼前の男にぶつけながら、ラピスの意識は急速に遠のいていった。
相棒 ―accomplice―
presented by 鴇
頭が痛い。というよりは針で出来た霧の中に脳がすっぽりと入ってしまっているような感覚だ。
眠りすぎた後や薬を使った後にも似たこの感じ。
「………ん」
頭を振りながら上半身を起こす。
「…………?」
まず理解できたのは室内の様子だった。
ベッドに椅子にテーブルに棚。全てが病的なまでに白で統一されており、色彩のあるものは棚の上に載っている一輪の花だけであった。花の名前は分からない。そういえばこういうものの情報を集めたことが無かったことにラピスは今更ながらに気が付いた。後にこれがヒガンバナ科のユーチャリスという花だということを知るのだが、それはまた別の話。
「………あぁ」
そこまで思ったところで、ラピスはようやく気を失う前の状況を思い出した。
研究所からの脱出を試みて、後一歩というところで、黒ずくめの男が現れたのだ。
そして側頭部を強打され……。
強打されたところを触ってみた。いつの間にか巻かれた包帯越しにじんわりと痛みが広がる。
……あの黒服め。今度あったら覚えていろ。
そんなことを考えながら全身をチェックしていくラピス。幸いと言うかなんと言うか、砕けた拳も擦りむいた足の裏も丁寧に手当てされていた。どうやらそれなりに自分に価値を認めてくれているらしい。とりあえず問答無用で殺されるようなことはなさそうだ。
それならそれで惰眠をむさぼってしまおうか。ラピスはともかくもそう結論を下した。そしてもう一度眠ろうと意識を闇の中に沈め―――
「あら、もう気がついたの?」
―――ようとしたが、それは突如として入ってきた者の声によって妨害された。
三十代前半くらいの白衣を着た女性。胸につけてあるネームプレートには「イネス・フレサンジュ」とあった。彼女はラピスの意識がそれなりにはっきりしていることを確認すると、頼んでもいないのにいきなり現在の状況を説明し始めた。まずラピスの健康状態であるが、イネスは手当てをされた外傷以外はすこぶる良好であること、拳にギブスさえ嵌めれば明日あさってには退院できることを請け負った。それだけではない。ここがネルガルの医療施設の中であること、気を失った自分をあの黒服――名前はテンカワ・アキトというらしい――が連れて帰ってきたということなども教えてくれた。しかし、この女性は話好きなのか、病み上がり相手に説明の途中に休憩を挟もうともしない。そのため、ラピスはせっかく戻ってきた体力をかなり消耗してしまった。
一時間後、未だ続く説明にいよいよ意識が朦朧としてきたところで、ようやくイネスは話を終えて帰っていった。それから10分ほどしたところでまた何人か入ってきた。
中に入ってきたのは数人の男女。パリッとしたスーツを着込んだ女性と、反対に同じくスーツだがだらしなく着崩している男性と、縦にも横にも大きいむっつりした男性と……。
「……あっ」
その中に自分の即頭部を強打した黒服、テンカワ・アキトを見つけてラピスは思わず声を上げた。
彼女は殴りかかろうとも思ったが、だがしかし体は逆に距離を取る様に後ずさっていた。
「大丈夫よ、そんなに怖がらなくても」
スーツ姿の女性が、そんなラピスを安心させるように笑って言う。
言って、手に持つ紐をラピスに見えやすいように持ち上げてやる。
その先は……後ろ手に掛けられたアキトの手錠へとつながっていた。見るとアキトの両頬が赤く腫れている。何があったのかは、なんとなく想像できた。
「あなたみたいな可愛い女の子に傷つけるような馬鹿野郎にはきっちりとした報いを与えてやったわ」
「だからエリナ、そのことはさっきも不可抗力だと言っただろう。いい加減この手錠を外せ。悪ノリが過ぎるぞ」
「ダメよ。こういう小さい子は暴力に敏感だわ。だからこそまずは物理的に手が出せない状況を作らなきゃいけないのよ」
スーツ姿の女性、エリナはアキトのうんざりした声に毅然と切り返す。
それから彼女は屈んでラピスと目線の高さを合わせてから話し掛けた。
「自己紹介が遅れたわね。私はエリナ・キンジョウ・ウォン。ネルガルで会長秘書をやってるわ。で、こっちの極楽トンボがその会長、アカツキ・ナガレよ」
慣れているのか、エリナの紹介に眉一つ動かさず、むしろにこやかにスーツを着崩した男性、アカツキはラピスに手を振った。
「こちらの黒いのがあなたを殴って連れて来たテンカワ・アキト君。最後にテンカワ君の教官のゴート・ホーリーよ」
言われてゴートはむっつりとした顔を崩さずに軽く会釈をした。アキトにいたっては会釈すら無しだ。
そんなアキトの足をハイヒールのかかとで踏みつけつつ、エリナはラピスに手を差し出した。
意味が分からず首を傾げるラピスの右手をそのまま優しく握って手を振る。
「これはね、握手といって友好を求める行為なの。ヨロシクね、ラピス・ラズリちゃん」
「何で……」
まだ名乗ってもいない自分の名前を知っているのか。そうラピスが返そうとしたところで、まるでちょっとした悪戯が成功したかのようにエリナは口元をほころばせた。
「アキト君があなたを連れてくる時にね。一緒にクリムゾンの研究所のデータも持ってきてたのよ。その中から見つけたの。もともとの目的が研究所の破壊とデータの奪取でね、成り行き上、あなたを無理やり連れてくるような形になってしまったの。それについては謝罪するわ」
「……ううん、あのままだったら私も死んでた。こちらこそよろしく」
ラピスは一瞬、自分のデータ消去が失敗に終わったことに落胆したが、次の瞬間には仕方が無いと割り切ってエリナの手を握り返した。
「ところで1つ聞きたいんだけど」
これはアカツキの言葉。今まで傍観を決め込んでいたが、ふと思いついたようにラピスに問いかける。
「ここに連れられて来た時、君は一糸まとわぬ姿だったらしいけど、この黒いのに何かされなかったかい?」
「待て、何だその質問は」
堪らず突っ込むアキトにニヤニヤとしながら答えるアカツキ。ちなみにラピスの手を握るエリナの力が少し強くなっている。正直ちょっと怖い。
「だってねぇ。あの怯え方を見る限りは何もないって考えるほうがおかしいでしょ。それに君のやったことは誘拐だよ。それも幼女誘拐」
「しかし放っておけば死んでいたんだぞ。そもそも存在からして非合法の俺たちにはそんなことは関係ない」
「ん〜、法律ではなくて社会通念的なものを僕は言ってるんだけどね。で、ラピス君。実際のところどうなの? 彼に何かされたの?」
言われて、ラピスは思い出すように中空を見つめる。確かあの時は……
「アキトは、私の姿を凝視したまま動かなかった」
「ほう、一糸まとわぬ君の姿をねぇ」
「その後いきなり光りだした」
「なるほど、興奮しっぱなしな訳だ」
「……いちいち誤解を招きそうな補足を付け加えるな」
うめくようなアキトの言葉をアカツキは『いいからいいから』と軽く流す。
「それでその後は?」
「その後は………」
こめかみを抑えて顔をうつむかせながら、ラピスは言った。
「アキトに……乱暴された」
その瞬間、確かに時が止まった。
エリナもゴートも凍りついたかのように動きを止める。
対するアキトはというと、やはり思考停止したように固まってしまっている。どちらにとってもこれは不意打ちだったらしい。
きょとんとしているラピスの目には、意識してかそうでないのか、ぶわっと額から汗をかきチカチカと発光を始めるアキトの姿があった。
何か良くないことがおきていることを、彼は本能として感じ取っていたのだ。そう非常に良くないことを。
やがて―――
「…………あっ」
その場を固着させていた驚愕という名の氷は瞬間的に融解した。
「アキト君の児童性虐待者ぁぁぁっ!」
次の瞬間、ものすごい勢いでエリナの拳がアキトの顔面に向かって飛んできた。
反射的に身を反らしてそれらをかわし、続く動作で扉から慌てて逃げようとするアキト。
しかし、いち早く離脱を試みた彼に対してエリナのアイコンタクトのみで頷いたゴートがその腕をひねりあげる。
「いててててててっ、違う違う違う! 俺は無実だ!」
「じゃあ何で逃げようとしたのよ!」
「あのまま行ってたら理不尽な目に合わされそうだったからだよ!」
「……そうか、だからアキト君はあの時あんなにもルリ君を引き取りたがって」
「ア・カ・ツ・キ! てめぇ、なに神妙な顔で勝手に納得してんだよ!」
「しかし……」
「しかしも何も少しは疑えよっ!」
アキトのこの言葉にむっとしてラピスは返す。
「私は嘘なんて言ってない。あんなことされたの初めてだった。……とっても痛かった」
「あああああああっ!!」
ぎりぎりとゴートの力とエリナの視線が強くなるのを感じながらアキトは絶叫した。そんなアキトの肩を優しく叩いてアカツキが言う。
「大丈夫、君がどんな特殊性癖でも僕たちは友達だよ」
「やかましいっ! 無意味にさわやかな笑顔で人を陥れるんじゃねぇ!!」
このままではヤバイ。生命の危険が――物理的にも社会的にも――迫ってきている。
しかしこの1年での経験ゆえか、生死の狭間にあって、今のアキトは驚くほど冷静であった。
(ふ、ナデシコ時代の俺ならここで取り乱してしまうだけだが、今の俺は違う! 本当のことを素直に話せば、それで全て丸く収まるということを覚えた。そうだ。俺はただ、放っておいたら死んでしまう子供を保護しただけだ。確かに殴ってしまったがそれは不可抗力でしかない。あの時は話し合いなど出来ないと思ったからだ。きちんと落ち着いて話せば簡単に解ける誤解だ。死は……冷静さを欠いた愚か者についてくる!)
アキトは意を決したように口を開いた。
「良いか、冷静に聞いてくれ……」
集まる視線。それらを凛として受け止めアキトは答える。
「俺は……その子を持って帰ろうと思って気絶させただけなんだ」
全裸の幼女。
興奮して発光。
黒タイツ。
―――結論。
「10時24分、自供」
「何ィ!?」
冷静さは取り戻せなかった。
ゴートは何処からともなく手錠を出すと、それをアキトの両足首に掛けた。これでアキトは両手両足、全て封じられた。
「お前には自由に息をする権利がある。自由に瞬きをする権利がある。自由に自分の信じる神にお祈りする権利もある。……しっかり反省してこい」
ゴートは溜息と共にアキトを担ぎ上げる。
「待てよ待てよ待てよ! だからなんでそんな話になるんだ! ラピス、何もしないからお前もこっち来て誤解を解いてくれっ」
「……『何もしないから』。言うに事欠いてその常套句か」
「カウンセリングはドクターの仕事よ。私も行ってあげるから、釈明はそこでじっくりと」
「だ、だから不可抗力なんだって! 頼むから俺の話を聞いてくれーーーッ」
横に並んだエリナがあごで扉をしゃくるとゴートと共に出て行った。
後に残されたのは幼女と極楽トンボだけ。
「それで、私は何をすれば良い?」
沈黙に耐え切れずに、というわけでもないのだがラピスのほうから口を開く。
対するアカツキはアキト達が出て行った方を見ながらぽりぽりと頭を掻きながら言った。
「さっき出て行ったテンカワ君、彼と感覚共有してもらいたいんだ」
「感覚共有?」
聞き慣れない言葉に思わずオウム返ししてしまうラピス。
「そう。テンカワ君はああ見えて五感が不自由な人間でね。今もあのゴーグルによる機械補助が無ければまともに歩くことさえ出来ないんだ。なんでも五感というものは神経っていう道路に電気信号を流すことで脳まで伝わるものらしいんだけど、テンカワ君のそれは所々で断線していたりズタズタの獣道になっていたりでハッキリ言って使い物にならないみたいなんだ」
「…………」
「そこでテンカワ君を誰かとナノマシンで繋げてしまおうという案が出たんだ。道が無いのなら誰かのを借りてきてしまえば良いんだとね」
「それが感覚共有」
「その通り。ただ、通信機器のように電波を互いに送受信しあわなければならないため、常にテンカワ君といなければならないという欠点もあるけどね。このあたりは何か不明な点があればドクター・イネスに聞くと良い。懇切丁寧に教えてくれるはずだ」
『イネス』の単語にラピスは僅かに眉根を寄せる。恐らく、彼女がイネスに質問しに行くことはないだろう。
「今まではテンカワ君の立場の特殊性、常に行動を伴わなくてはいけないという制限、初めての試みのため何が起こるか分からない不確実性等々によって実行に移すことが出来なかったが……」
「私というイレギュラーな立場で、行動を常に共にすることが可能で、ついでに言うと使い捨てても構わない存在が現れた、と」
冷めた目でアカツキを見るラピスに、彼は意地悪い笑みを浮かべることで答えた。
「どうする? 協力してくれるなら衣食住の提供に君が望む限りの支援を行うけど」
それは悪魔との取引に似ているのかもしれない。賭け金は自分の命。見返りはそれなりに人間的な暮らし。天秤に掛けるにはそれはあまりにささやかなものであるが、いまさら降りたところで賭け金はしっかり取られるのだろう。初めから選択の余地など無いのだ。
「わかった。アキトと感覚共有する」
ラピスの言葉にアカツキは笑みを深くする。
「良かった。それじゃこれからよろしく、ラピス・ラズリ君」
言って、アカツキはラピスに右手を差し出す。友好を求める行為であるそれを、ラピスは無表情のまま眺めていた。
手術自体はあっという間に終わった。既にナノマシン自体は完成していたので、後はそれを互いの体に打ち込むだけだったのだ。大事なのはむしろその後。何かしらの不具合が生じた時にナノマシンを微調整し続けることのほうが時間が掛かるのだとイネスは話していた。
ラピスとの感覚共有によりアキトの五感は損傷の激しい味覚以外はそれなりに回復し、今では日常生活のみに限ればゴーグルによる機械補助も必要としないくらいだ。
しかしもちろん、不具合が何もなかったというわけではない。たとえば回復しなかった味覚はラピスのそれに思い切り引っ張られてしまい、彼女の知覚がそのままアキトの知覚することとなってしまったのだ。具体的にはラピスが飴を舐めていれば何も口にしていないアキトにもその味が感じられ、無意識のうちに唾液が出てきてしまうというような。もっとも、同じタイミングで同じものを食べれば食感も味もそのまま再現できるのでアキト本人はまんざらでもない様子なのだが。
「だからといって人がマシュマロを食べている時にわざわざ納豆なんか食べようとするな」
とはアキトの弁。
不具合、というか予期しなかった事態は他にもある。
それは思念の共有化である。双方の考えていることが望むと望まぬと関わらず相手に筒抜けとなってしまうのである。よくよく考えてみれば思念も脳内における電気信号の交換によって起こるものであるから当然と言えばこれは当然か。
初めのうちはちょっとした悪口や思考の混乱まで伝わってしまう厄介なものであったが、ほどなく2人に――特にラピスにとって――これは有用な結果をもたらすこととなった。
アキトとラピスの急速な信頼関係の構築である。
要素としては大きく分けて2つ。1つめは双方が双方に対して友好的であることを直感として感じ取れたこと。アキトは基本的に女性や子供には優しく、ラピスもアキトに対して自分が有用な人材であることを必死にアピールしたためだ。この制限だらけの状況では如何にしてパートナーと巧くやっていけるかが最も重要となってくる。この関係を維持し続けることが彼女自身を護ることにも繋がるのだから、必死にもなろう。
そしてもう1つが裏表の無い完璧なコミュニケーションである。思念が筒抜けであることから、裏切られる心配が無いのだ。仮にそうだとしても事前に読み取ることができる。今まで反吐が出るような人間しか見てこなかったラピスにとって、安心して背中を任せられる存在が出来たことは大きい。
ラピスは頭が良く基本的には慎重な人間だ。この思念の共有が無かったら、たとえ双方に完全に邪念が無かったとしても、彼女とはいまだに信頼関係を築けなかったろう。
そんなこんなで、2人の関係は至極順調に見えた。
ところが―――
「あれ、もう別居してんの?」
報告書を見ながら、アカツキは意外そうに眉を持ち上げた。
「ええ。アキト君から世話してくれるように頼まれて、今は私の部屋で暮らしてるわ」
共に生活を始めてから半月と経たずに、アキトはラピスを避けるようになっていた。報告書によると、アキトは思春期のラピスが自分の様な存在と思念を共有化していることが望ましくないと感じたからと答えている。そこで2人の距離が一定以上になると感覚共有と同じように思念共有も『圏外』となるという特性を逆手にとって常に物理的距離を取るようにしているみたいなのだが……。
「いやはや、円満な新婚生活はお互いのプライベートがあってこそ、かい?」
「……その手の洒落は好きじゃないわよ。一応オペレーターとしてNSSの仕事にも従事してくれているけど、これならわざわざ感覚共有なんてする必要なかったわね」
「しかしおかしいな。IFSのあるエステに乗っているときならともかく、それ以外の任務なら間違いなく感覚共有があったほうが楽なんだろう? 彼だってもう昔のような善人丸出しの男じゃないんだ。命の掛かっている状況でたかだか女の子ひとりを気に掛けるなんて―――」
そこまで言って、アカツキは何かに気付いて手のひらで顔を抑える。
押さえながら、天を仰いだ。
(……なるほど。僕もまだまだ青いね)
湧き上がる苦笑いを噛み殺しながら、心の中で盛大に溜息をつく。
アカツキはそんな彼を見て首をかしげているエリナに軽く肩を竦めながら言った。
「感覚共有の解除申請はまだ出てないんだろう? なら、後は当人同士の問題だ。僕たちが口を出すことじゃない」
「そんな投げやりな」
「投げやり、か。確かにそうかもしれないな。自分じゃ動かずにあんな少女に青臭い期待をかけてるなんてな」
「期待? 何よそれ」
責めるようなエリナの問いを無視して、アカツキは独り呟いた。
「……まだ、思い出話に浸るような年じゃないんだけどなぁ」
歪んだ唇が最後につむいだ言葉はなんだったのか。
怨嗟の言葉か、最愛の人の名か、それとも意味の無い戯言か。
「―――――」
伝わるべき言葉という名の空気の振動は、荒々しい銃声に引き裂かれて宙に散った。
硬い地面を棒で思いっきり叩いたかのような……そんな痛みとも痺れとも取れる感触が、掌から肩にかけて彼の神経を支配していた。時には屈強な軍人の手にさえ余るほどの、強烈な大口径拳銃の反動。それなりに訓練は重ねていても、やはり病み上がりの人間の手で捌くには少々無理があったのかもしれない。
銃身より硝煙が高々と立ち昇った。
辺り一面に闘争の匂いが充満する。
無我夢中で撃った一弾。
それは青年に迫りつつあった影の頭部に命中した。
ぽつんと冗談のように小さな穴が額に穿たれ……抜ける後頭部からは盛大に血と骨片、そして脳髄と脳漿の残骸が噴出した。
影が――糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
同時に、凝縮されていた青年の時間が再びもとの流れを取り戻した。
「はっ……はぁっ……はあ……はあ―――」
恐怖と焦燥と罪悪感と―――様々な感情に押しつぶされていた視覚と聴覚が、急速に戻ってくる。あれほど激しかった動悸が落ち着きを取り戻し、急速に体温が下がっていくのを青年は実感した。
非常灯だけの薄暗い空間。
さびれた……いっそ廃墟と言っても良いくらいの街区の片隅。
亀裂の走る外壁、破損し散乱している硝子片、放置され錆び付いてしまっている自動車……。
それらが描き出す荒廃しきった街の姿。
そこに青年はいた。石畳を尻の下に、崩れ掛けの建物の壁を背に、そして黒光りする回転弾倉式拳銃を手にして、へたり込んでいた。
他に人の姿は見えない。動くものも無い。冷たく色褪せた灰色の世界で、青年は呆然と自分の前に横たわる物体を見つめていた。
「は……」
喉の奥は乾ききっていた。粘っこく口の奥に張り付いていた舌が、震えながら言葉をゆっくりと紡ぎだす。
「はじめて……人を……」
力尽きたように青年は銃を下ろす。銃身が石畳に当たって鈍い音を立てた。
倒れつくしたままの影。そこに生命の痕跡はもう見当たらない。青年の放った一弾が根こそぎ持ち去ってしまった。
……咄嗟のことだった。全て終わった瞬間にはじめて、青年は自分の行為を認識した。何かを考えている暇はなかった―――と思う。ただ生存本能に促され、訓練中に叩き込まれたものが無意識のうちに出た、そんな感じだった。
「どうして……」
事の始まりは簡単だった。この廃墟に火星の後継者の、自分の人生を狂わせた奴らの手がかりがあることを知ったアキトはその者の捕獲を命じられた。復讐者としての初仕事だ。もともと無事に確保などしてやるつもりはなかった。適当に理由をつけて殺してやるつもりだった。そこへ都合良く相手の方から突っ込んできた。死に物狂いで。
だから―――
「俺は……」
そこから先は言葉にはならなかった。
「俺は―――俺が………」
―――オレガ殺シタ。
代わりに頭の中で誰かが冷静に糾弾の声を発した。発せられた言葉は消えることなく、ぐるぐるとアキトの脳裏を駆け巡っていた。
オレガ殺シタノダ。コイツヲ――オレガ殺シタ。コノオレガ―――
「……ッ、何で―――」
初めから殺すつもりだった。そうするだけの理由も十分にあった。だからこそ、自分は嬉々としてこの場所を、状況を望んだ。自分から妻を奪い、夢を奪い、全てを奪った奴らをこの手でくびり殺してやりたかった。
なのに。
「ああ……」
アキトは銃を棄てて立ち上がろうとした。
だが。
「ッひ―――!」
アキトは、骸となった影の手が自分の足首をがっちりと掴んでいることに、そこでようやく気が付いた。
その手が伝えるのは生への未練か、殺人者への恨みか、はたまた地獄への道連れか。
胃の中から得体の知れない物が湧き上がってくるかのような嫌な感覚。
その何かを振り切ろうとするかのように、アキトは銃を持つ手に力を込め―――
「ああああああああああああああああああっ!!」
連続する銃声と共に高く高く吼えた。
この夢を見るようになってからもう随分になる。
自分の意思ではっきりと人を殺してから約1年。
長かったような、短かったような、それすらもあいまいな、そんな時間。
それから、もうどれくらいの命をこの手で奪ってきたのだろうか。
もちろん、蜥蜴戦争でも木連人を随分と殺してきた。けれどこんなにも死を間近で感じられるような戦闘は行わなかった。こんなにも返り血のむせ返る香りを嗅ぐことなんて無かった。
……こんなにも人の命が軽いものだったなんて思わなかった。
だからそれをようやく実感したあの時が、自分が初めて人を殺した瞬間なのだろう。
思えばテンカワ・アキトという人間が本当に死んだのも、あの日あの瞬間だったのではないか。
もちろん許すつもりなど無いし、自分が奴らと道連れ覚悟で動いているのだということも分かっている。
だが。
時折―――居ても立ってもいられなくなるのは何故だろう。
懊悩する、その心にさえも蓋をして邁進し続けたはずの意識にのしかかってくる焦燥感。中途半端にぶら下げられた虚空で、己の立つべき位置を探して煩悶しているかのようだ。
目指すべきはなんなのか。求めるべきはなんなのか。抗うべきはなんなのか。
答えは出ない。出せない。
ただ、気が付くと孤独と狂気が足元から忍び寄っていた。
夜毎、確実に。
遥かな記憶の断片。灰色の風景の中で動いた歪んだ唇。
名前さえ知らなかったあの男は……最後になんと言ったのだろう。
「…………」
アキトは眼を開く。手探りでバイザーを装着して、ピントを合わす。
そのままぼんやりと天井を見上げ―――次の瞬間、枕もとの拳銃を掴み銃口を部屋の隅に向けた。
カーテンを通して染み入ってくる光を避けるような位置……夜の闇が未練気にわだかまる片隅に、2つの金色の光が彼を静かに眺めていた。
ラピス。
理解しているのかいないのか、拳銃を振り向けているにも関わらずまったく感情を示すことの無いガラス玉のような瞳は、見ようによっては無機物のようにもとれる。
アキトは拳銃を元の場所に戻しながら、居心地悪そうにラピスに問いただした。
「……なぜ、ここにいる」
「次の仕事の情報、エリナに持っていけって言われた」
そっけなく答えると、ラピスは手に持つ情報媒体をベッド脇の棚に置いた。
「そんなものはデータを転送するだけで十分だ。わざわざ手渡しする必要も無いだろう」
「―――逃げるな」
居心地悪そうにはき捨てるアキトに、ラピスは静かに、しかしはっきりと断言する。彼は努めて平静を装っていたが、感覚共有を通してその内心の動揺はありありと伝わってきた。
「何のことだ」
「ムダ。私に嘘は通用しない」
言いながら、ラピスは自分の頭をトントンと指で叩く。
思念共有。
その意図を読み取ると、アキトは忌々しげに呟いた。
「だから、だ。あいにくと俺の頭の中は子供が見るようなものじゃない。今ならまだ間に合う。おとなしくエリナの元に帰れ」
面倒くさそうに手を振りながら答える。そして話はもう終わりとアキトはラピスに背を向けた。だが、彼は再び彼女に振り向くこととなる。呟くような小さな声。それが彼の脳裏を揺さぶった。
「『ホシノ・ルリ』」
アキトは弾かれた様にラピスへ振り向く。
「伝わったよ。私をその娘と重ねたこと。だから研究所で私を殺せなかった。だからあの場面で私を確保した。……だから私を遠ざけた。私の存在が、ことあるごとに埋めたはずの過去を掘り起こすから」
「……貴様」
殺気を込めた視線がラピスを貫く。
しかしそれを正面から受け止めながら、彼女はアキトを見据え返した。
「アキトの思考は危険。目的の先には何も無い」
真っ直ぐな―――あまりにも真っ直ぐな瞳が、アキトを射抜く。責めているのか。呆れているのか。それとも憐れんでいるのか。分からない。
アキトはその視線に苛つきながら答える。
「俺にはもうこれしかない。お前が口を挟む問題じゃない」
「ユリカを助けても自分には会いに行く資格がないから?」
「…………ッ!」
思念共有。
再び心を読んだラピスのその言葉に、アキトはにぃっと凄惨な笑みを浮かべた。
「……その通りだ。何が『ユリカ』だ。こんな血生臭い人間がまともな夫婦生活を送れるとでも? 反吐が出るな」
アキトの思念がラピスの精神を圧迫する。例えるならそれは、何かどろりとしたものが部屋中に充満したかのようである。
ラピスは心臓を鷲掴みにされたようなこの感覚に呼吸を荒くした。
「この1年がどんなモンだったか想像できるか? 襲ってくる奴、邪魔な奴、全部殺したさ、全部。どれだけ殺したかなんていちいち覚えちゃいない。殺られる前に殺っただけだ。ただ俺が生き延びるためだけにな!」
ラピスはアキトの心を読もうとして、しかし出来なかった。
彼女が受け取ったイメージを無理やり視覚化するとしたら濁った灰色とでも言えばいいのか。
あらゆる感情が沈殿した心の奥底で混ざり合って、ノイズだらけの端的なイメージの連続しか伝わってこない。
その感覚に酔いそうになりながら、ラピスはアキトに聞いた。
「アキトは死にたいの? 命を賭けて、それに見合う獲物があるの?」
「…………」
「アキトの戦いは、ただ相手を自分と同じ泥沼に引きずりこむだけ。例え勝利したとしてもその泥沼から出ることは出来ない」
獲得の代償は喪失。
こう言われれば、納得はできる。
身を削るようなこの行動にも、何か胸を掻き毟るほどに手に入れたいものがあるからだと分かれば、合点がいく。
そしてその手に入れたいものとはこの場合、妻の身柄だろう。火星の後継者を潰すことは自身の安全を確保するためだと言ってくれればしっくりと来る。
だが。
「それがどうした」
にべもなくアキトは言い放った。
「未来だの平穏だのはもういらない。俺が欲しいのは『明日』じゃない。奪われた『昨日』だ。……お前には分からないだろうがな」
「よく分からない。私は死にたくない。私はアキトに協力することで生かされている。だから私はアキトに死んでほしくない」
一拍。ラピスは軽く息を吐く。
「だから私をそばに置いて。私はアキトの力になれる」
理路整然とした物言い。それらを眩しいもののように目を伏せながら、アキトは答えた。
「……迷惑だ」
「そんなに私といるのが嫌なら、何で助けたりしたの」
「誰が嫌だと言った」
「なら何故」
「俺といるとお前はきっと駄目になる。俺はお前を傷つける。だから―――」
「―――だから何?」
アキトの言葉をラピスのそれが遮る。
「アキトの話は筋道が通っていない。何故、自分が私にとって害悪だと決め付ける。私はそうは思っていない。ちゃんと私の話を聞いて」
「…………」
アキトは無言。伝わるイメージは、やはりノイズだらけで良く分からない。ぎりっと音がしそうなほどに奥歯を噛み締めて、ラピスは――彼女にしては本当に珍しいのだが――感情のままに叫びだしたい気持ちを何とかこらえた。
代わりにドン、と音を立ててひとつの部品を同じくベッド脇の棚に置いた。
「感覚共有を一時的にカットするパーツ。イネスが作った。バイザーのコネクタに嵌めるだけだから」
ラピスはそう言い捨てると、部屋の戸口へと向かった。
そして扉の前で立ち止まり、やはりアキトに背を向けたまま、
「私は、アキトに会えて、アキトの相棒になれて良かったと思ってた」
囁くように呟く。
その言葉に嘘はない。
アキトも感覚共有を通してラピスの心が読めるのだからすぐ分かる。
そしてだからこそ、そこには何の誤魔化しもなく、ひどく真摯で率直な何かが流れ込んでくる。とても単純な―――しかしとても膨大な何か。
アキトはラピスが出て行ったことを確認すると、渡された部品をバイザーに装着した。
途端、流れ込んでいた情報はせき止められる。
もちろん補正されていた五感の情報を遮断されてしまうため、アキトの世界は見る見るうちに色を失っていった。
そしてラピスの残像を見ながら呟く。
「……ああ。最悪だな、俺」
その呟きは、誰に届くことなく宙に消えた。
2日後、アキトは郊外のとある研究所に潜入していた
ラピスから受け取ったデータによれば、そこは『火星の後継者』の研究施設の1つであった。
NSS――ネルガル・シークレット・サービスの諜報部が仕入れた情報を元に実行部が強襲をかける。
お決まりのパターン。
10回に9回はダミーを掴まされるのだが、どうやら今回は当たりを引いたようだ。
外見は何の変哲もない、むしろかなり寂れている建物に、一歩踏み込んだだけで警報が鳴り、警備用のコバッタが現れ、セントリーガン――全自動の警備システムで、あらかじめ指定された領域に何らかの動体が侵入すると、それを検知し銃撃を行う――が十重二十重に顔を出した。
ダミーにしてはあまりにも厳重に過ぎる。
「見つかったか」
アキトは抑揚なく呟く。
『正面から入って見つからないほうがおかしい』
コミュニケが開き、ラピスが合いの手を入れる。彼女は現在、この建物から3キロほど後方にある指揮車の中でオペレーターを務めている。もちろんこの距離でも感覚共有からの思念伝達は可能だが、アキトはそれをカットしてしまっていた。
「人目はない。軍のセンサーも短時間なら誤魔化しが効く。それなら力押しで叩き潰したほうが楽でいいだろう」
アキトが剣呑な笑みを浮かべる。
それが合図というわけでもないのだが、後方から轟音が響き渡り、次の瞬間、顔を出していた警備装置が爆散した。
12機のバッタによる支援射撃である。
ラピスはアキトと組むに当たって、当初はあくまでオペレーターと感覚補助のみを行っていたが、感覚共有の切られた今は、代わりに最大64機のバッタを同時遠隔操作することによってアキトの支援を行っている。同時に指揮車自体も自分で動かしているため、アキトとラピスの2人だけにも関わらず、こういったゴリ押しも出来るようになっていた。
「いつもは1人で突っ込んで行ってるんだから、楽だよな。やっぱり」
そんなことを言いながら、アキトは半壊した入り口から建物内部に入る。その歩調にも表情にも躊躇はない。
その横に並ぶようにコミュニケを移動させながら、ラピスは言った。
『……すごい』
「何がだ」
バイザー越しに一瞥だけして答える。
暗く、飾り気のない道。片端から扉を開けていくがめぼしいものはない。時折何に使うのか分からない正体不明な部屋もあったが、別段分かりたくもなかったのでアキトは思考をそこで切った。建物内自体は決して狭くはないのだが、何か得体の知れないような、そんな雰囲気があった。
『普通は、そういう場所に入るのは怖い。いくら訓練を受けていても支援があっても危険には違いないから』
「俺には……これしかないからな」
言いながら前方の空間に発砲する。一瞬遅れて、暗闇の中から見事に撃ち抜かれたセントリーガンが現れた。
「奴らをぶち殺せるなら死んだって構わない」
『それが分からない』
自嘲の笑みを浮かべるアキトに、ラピスは率直に問いかける。
『アキトが火星の後継者を憎む気持ちは分かる。ユリカを奪われて、五感を奪われて、命まで奪われかけた相手に、好意を持つことなんて出来ない。でも、せっかく助かった命をどうしてまた危険にさらすの? アキトはA級ジャンパーとして研究に協力するだけで十分に貢献できる。ネルガルでなら無理な投薬もしない。ユリカを救うのはNSSに任せればいい。なのに、どうしてこんなことをするの?』
揶揄するような口調ではない。詰問している口調でもない。
ただひたすらに純粋な問いを、彼女は口にしているだけなのかもしれなかった。
「……俺のこの手で殺さなければ気が済まないからだ」
一瞬なりとも躊躇ったのは、ある種の後ろめたさを覚えたからだ。
この少女は純粋無垢に過ぎる。相対するものは自分の鏡像をこの少女の中に見る。水面が鏡となって周囲の光景を映し出すのと同じように――素朴に澄み渡る彼女の金色の瞳は、相対するものの心を如実に映し出すのだ。そこにラピスの恣意はない。嫌悪を持って見るものは嫌悪を、恐怖を持って見るものは恐怖を、そして迷いを持って見るものには迷いを、その瞳の中に見てしまう。
『やっぱりそうだ』
淡々とラピスは言う。アキトは視線だけで先を促した。
『アキトはまじめ』
「…………ん?」
予想外の言葉に一瞬、返答に詰まった。ラピスもそれを察してすぐに補足を入れる。
『勘違いしないで。まじめは褒め言葉なんかじゃない。生きにくいって事。きれいにまっすぐにしか生きられないって事』
ラピスの目から見たアキトの行動には、不可解な点が多かった。妻を助け出したいのなら、わざわざ素人の自分がしゃしゃり出る必要はない。仮にでるとしてもパイロットとしてエステに乗ってNSSと連携すればいいのに、こうして拳銃を片手に単身で乗り込んでいる。まったく非効率的である。
汚れ役を無理に自分に持ってきて、それで倒せるほどクリムゾンは甘くない。
感覚共有していたためであろうが、年端も行かない少女にそんなことを見抜かれていることに、アキトは心の中で盛大に苦笑いを浮かべる。
しかしそれには答えずに、ただ肩を竦めてからコミュニケを閉じた。
それからはただ黙々と中を調べ続けていった。
いくつの部屋を調べて、何機の警備装置を破壊したか。
ようやくメイン・コントロール・ルームらしきところまで来た。あたりは薄暗いが、部屋の3分の1ほどもある主電算機に楽に200インチはあろうかという大型モニター、それとIFS全盛の今となっては懐かしいキーボードタイプのコンソール。ここに自分のコミュニケを接続して、後はラピスにハッキングしてもらうだけだ。そんなことを考えながらアキトがコンソールに近づいていくと……
『いらっしゃーい』
その声と同時に、モニターに電源が入り、その光が暗闇を浸食する。綺麗に撫で付けられた髪の毛、ぱっと見にも職業を連想させる白衣、人を食ったような薄ら笑い……。そこに移る人物に、アキトは自身の感情が高ぶるのを止められなかった。
「ヤマサキッ」
ヤマサキ・ヨシオ。火星の後継者のボソンジャンプ部門における技術主任。イカレ科学者。アキトの身体を弄くり回して様々な実験を行った、アキトの五感を奪った張本人。ヤマサキはそんなアキトに対して陽気に笑いかけた。
『ははは、覚えていてくれたかい。僕も君に会えて嬉しいよ、テンカワアキト君』
「っざけるな!」
感情のままにモニターに向かって3連射。モニターの一部がその機能を停止した。砂嵐を起こす画面がしばらく続いたかと思うと、次の瞬間、ほぼ同じ大きさのコミュニケが現れた。
『無駄無駄。もう僕はここにはいないんだよ』
さすがにこれを壊すことは出来ない。アキトはニヤニヤと笑うヤマサキに照準し続けることしか出来なかった。
『残念だったねぇ。あと少しで僕に手が届くところだったのに』
そう。ヤマサキがこの研究所から脱出したのは、今からほんの1時間前。アキト達が強襲を仕掛ける少し前だったのだ。わざとらしく汗を拭いながらヤマサキは話を続ける。
『しかし君を見た時は驚いたよ。まんまと僕のセキュリティを出し抜いてここを探し当てるとはねぇ。すっかり別人になっちゃってまぁ。あの可愛かったテンカワ君が。ゲキガンガーにでもでてくるようなそんな格好で。さしずめ「黒マント将軍」とでもお呼びすればいいのかな?』
右手を胸に、慇懃無礼に一礼しながら、次の瞬間、ヤマサキは堪えていたものを吹き出した。
『プククク、アーーーハハハハ。いや傑作だねぇ、君は。全てを奪われ復讐を誓った男が、体を鍛えて僕を殺しにきた。いまどき映画だってそんなベタな設定はないよ。やっぱり君は何時だって僕を楽しませてくれる』
「ああ。そしてもちろんラストは復讐の成功だ。……ベタでいいだろ?」
吐き捨てるように答えたアキトの顔に、光の筋が幾何学模様を描いて浮かび上がる。
口元が自然と吊りあがった。笑うつもりはないが、不可思議な高揚感が全身を包んでいた。
『そんな情熱的な視線を送らないで欲しいな。照れるじゃないか』
「…………」
殺したいほど愛してる、ではなく単に殺意100%の眼光も、ヤマサキにとってみればからかいの対象にしかならないのだろう。いい加減この不毛なやり取りにうんざりしてきたアキトに、救いが来たのはその時だ。
『アキト、大丈夫?』
ラピスである。やや切迫したその口調に、アキトは「どうした?」と視線で問いかけた。
『その部屋、通信プロテクトが掛かってる。さっきから建物全体の様子がおかしい』
ノイズ混じりのコミュニケに、むしろヤマサキのほうが驚いた。
『おや、その顔。……君はラピス・ラズリちゃんかい?』
火星の後継者の顔を見てラピスは失敗した、と後悔したが、もう遅い。
彼女は僅かに眉を歪ませたが、すぐに首肯した。
それを見てヤマサキはチェシャ猫のように笑う。裏側に秘めたものを隠し、笑みだけが見るものの脳裏に映る、そんな笑顔。
『な・る・ほ・ど。なるほど、なるほど。合点が行ったよ。君が僕を出し抜いたのか。この場所の割り出しをしたのもこの通信の割り込みも。第五研が強襲を受けた時に死んだと思っていたけど、これは迂闊だったなぁ』
コミュニケを縮小、移動し、ラピスを品定めするかのような目で見つめる。
『君がここまでやるとは思っていなかったよ。こんなことなら無理矢理にでも手元に置いておくべきだったなぁ。ま、それはともかく。何でネルガルのオペレーターなんてやってんだい?』
『なりゆき』
『ま、そんなとこだろうね。それでどうだい、ネルガルでの待遇は?』
『悪くない』
ラピスの率直な返答にヤマサキは笑みを深める。
『それは結構。じゃあどうだい、それよりも厚待遇を約束するといったら、火星の後継者に帰ってきてくれるかい?』
『…………』
『だめかい?』
考え込むラピスに、まるでちょっとした借金の申し込みをするかのように聞く。ラピスは我関せずという風なアキトを一瞥してから答えた。
『……信用できない』
『おやおや、ネルガルも懐かれたものだねぇ。ちょっと前まで僕らと大して違わなかったっていうのに』
「お前らと一緒にするな」
それまで手探りで主電算機を調べていたアキトが割り込んだ。
その腕につけられていたコミュニケから、回線が繋げられている。
当初の予定通り、外界から物理的に遮断されているこの主電算機にコミュニケを中継としてハッキングを仕掛けるつもりなのだ。指揮車に積んであるコンピューターでは正直、かなりマシンパワーに差があるが、そこは彼女の腕の見せ所だろう。
ラピスの顔に何本もの光の筋が走り、ナノマシンを総動員してハッキングを仕掛ける。
優先度など無視して、生きているデータを手当たり次第に吸い出していく。おそらく最重要のものは既に無いのだろうが、周辺情報からでもある程度の推測は可能。そしてそれは自分の仕事などではない。研究所の構成員、実験データ、他機関との繋がり等々……。既に削除されていたデータも無理やり復元しサルベージしながら、ラピスはさっきから自分を嬉々として観察し続けているヤマサキに問いかけた。
『どうしてこんな事をするの?』
別にそれは非難の声ではなかった。
彼女の行動原理は義憤でも復讐でもないのだから、それは単に不思議だったから聞いたことだった。
残されたデータを見る限り、火星の後継者の勢力はずいぶんと大きなものだった。
大抵のことは出来るだろう。何かに束縛されることなく好きなことが出来る彼等は、ラピスの目から見れば、それは非常に自由な存在だった。
そしてその自由の中から彼らが選んだ結果が……現在収集されつつあるデータ群であった。
ボソンジャンプのための過度の人体実験。
そのことを忌むような感覚はラピスには無い。だが、それを実行する理由も見当たらない。これが彼らにとってはわざわざ時間と手間をかけて殊更に実行せねばならないようなことなのだろうか。彼らの目的が政権の奪取なら、何もクーデターという手段に拘らずに堂々と選挙に出馬すれば良いだけ。かつての木連のカリスマなら十分に勝算はあるだろうに、敢えて相手を物理的に消滅させる道を選ぶ。
それが分からない。そう思う感覚が、ラピスにはどうしても分からなかった。
『この行動によって、あなたは何をしたいの?』
『――……さて。命令したのは僕じゃないから、それは草壁閣下に聞いてみないと分からないねぇ。』
そのあまりに投げやりな物言いに、アキトは怒りの光を強くするが、ヤマサキはそれをなだめるように補足した。
『結構過激な改革を考えているみたいだから、反対勢力をあらかじめ潰しておけば、楽に自分の好きな政策が立てられるでしょ。でも軍事的に世界中を敵に回したらいくらなんでも勝ち目は無い。だからジャンプによる電撃作戦を考えた。ま、こんなとこだろうねぇ。その際に不安材料になるA級ジャンパーは残らず狩っておけば実験にも一石二鳥だとでも思ったんでしょ。どちらにせよ、僕にとってはどうでも良い話だ』
「どうでも良い?」
この質問はアキトのものだ。
人生を歪められた原因をこのように言われては胸中穏やかではいられない。
『実を言うと、ボソンジャンプの制御が巧くいったとしても、僕自身はどうするつもりも無い。僕の目的はあくまで『理論の確立』でね。そこから先は特に考えてない。ぜんぶ草壁さん任せさ』
「……ずいぶんと無責任だな」
ぎりっとアキトが奥歯を噛む。ヤマサキはニヤニヤとした視線を向けたまま『そうかな?』と呟いた。
『金や名誉のために作品を生み出す芸術家ばかりじゃないよね。記録のことしか考えないアスリートや、ただ知りたいから学ぶ学者はいくらでもいる。何かを為して、それからどうするかということは、何かを為すための動機付けとは必ずしも一致するとは限らない。いや、むしろ一致しない場合の方が多いだろう。なぜ人は山に登るのか、そこに山があるからだ。なぜ僕は君を弄くったのか、そこに未知なる真理が眠っていたからだ』
「夢と浪漫―――とでも言うつもりか」
『まさに然り。そのためなら僕はいくらでもこの手を血に染めようじゃないか。幸い―――』
ヤマサキは身を乗り出して覗き込むようにアキトに笑いかける。
『―――まだ極上の被験者が手元にある』
歌うように舌なめずりするヤマサキのコミュニケを無数の弾丸が引っ掻く。
意味が無いと理解していながらも、アキトは残弾全てをぶちまけていた。
彼は引きつった笑みを浮かべながら言った。
「つまり、だ。俺もユリカも火星の生き残りの連中も、貴様らのそのお遊びのために全てを奪われたということか」
『僕以外の子たちは割りとまじめに世界のための必要悪ぐらいの感じで考えていたみたいだけどね』
「必要悪だと?」
アキトの問いにヤマサキはにこやかに答える。
『そう、必要『悪』だ。う〜ん、そうだなぁ。それじゃ簡単な歴史の講義をしよう。アルベルト・アインシュタイン、ウェルナー・フォン・ブラウン、エドワード・テラー、ジョン・ロバート・オッペンハイマー……。えぇと、後は誰だったかな。中途半端な天才は記憶にも残らないから困る。あぁ、そうだ。エンリコ・フェルミとネイル・ボーアだ。20世紀の近代物理学を切り開き、世界の真理に迫った、いわば僕の大先輩がただね』
ずらずらと並びたてられた人名には、アキトにも覚えのある名前がいくつかあった。そしてアキトの記憶が確かなら、それは第二次世界大戦期において、原子爆弾の開発に携わったの者たちの名前である。
そう。その200年後に自分達の祖先にも打ち込まれた核爆弾の、である。
「……貴様らが、その開発者達と同じとでも?」
『彼らの気持ちは分かるつもりだよ』
ヤマサキは傲岸にも言い放った。
『そのあまりの破壊力は後の核の否定につながった。彼らも彼らなりに思うところがあったに違いない。……だが』
一拍。ヤマサキは唇を吊り上げる。
『だが、当時核は使用された。いま言ったとおり、核が否定されたのはもっと後―――戦後世論が変わってからのことだ』
ヤマサキの目に妖しい光が混じる。
彼の言葉はもはや不可解ともいえる響きを示し始めている。微妙なイントネーションがえもいわれん空気のうねりとなって肌にまとわりついてくる。頭の芯が痺れてくるようなこの感覚。アキトはヤマサキの話術に引き入られないよう、きつく唇を噛んだ。
ヤマサキはゆっくりと話を再開する。
『彼らは後悔しただろうね。だけど、それはヒロシマ、ナガサキに原爆が投下された後じゃない。そんなはずがない。だって彼らは自分達の研究成果がどんな結果を招くことになるか、分からなかったはずがないんだ。開発中だって彼らは悩み、そして苦しんでいたはずだ。しかし開発を中止しようとはしなかった。理由はいろいろあるだろうね。政府からの強制、研究者としての名誉欲、予想以上の日本軍の粘り、そしてもちろん純粋な知的好奇心。でもね、それらを総合的に言い表すなら、それは要するに『時代の流れ』だったんだよ。核の開発と行使とはね、つまるところ必然として生まれた結果だったんだよ』
僅かに言葉を切り、口調を変えて続ける。
『言い訳するつもりは無いよ。僕はそれこそ数え切れないほどの人体実験を行った。多くの犠牲を他者に強いることを承知して、自分の願いを優先した。でもね、僕だけの力でそれが出来たわけじゃない。研究資金を出したのは草壁さんで、研究素材を連れて来たのは北辰君だ。そして彼らがこの研究を行うことを決断させた最たる原因は、木連市民たちの悲惨な現況があったからさ。知ってるかい? 今の地球じゃ木連人を雇ってくれるところなんてほとんど無いんだ。ま、あれだけのことをしたんだから当然といえば当然か。次いで休戦による急激な軍縮で一斉に起こった大失業時代。ここから先は単純な図式さ。雇用確保のために採用された警官と、食うに困った元兵士が……戦友達が敵味方に分かれて争うことになる。まったく、何をやってるんだかって感じだよね』
そこまで言って、ヤマサキはバツが悪そうに頬を掻いた。知らず話がずれていたようだ。
『つまり、だ。僕は最後の引き金とはなったが、それまでに弾をこめ、狙いを定め、安全装置外した流れがあったということさ。先のことを良く考えずに和解に乗り出した木連の若手穏健派然り。ろくな法整備もイメージ操作も行わずに移住を許可した地球連合軍の上層部然り。無理やり和解に持っていくために戦争の目的である遺跡をすっ飛ばした君たち然り、ね』
「だからなんだ?」
イラついたようにアキトはヤマサキに言い捨てる。
「自分のせいだけではない。だから自分に罪はないとでも言いたいのか? 図に乗るなよ。どんな背景があったとしても、忘れたとは言わせない。貴様らが俺にやったことを。日毎に五感が無くなっていく恐怖と……ロクに喋ることすら出来ない脆弱な身体へなってしまった屈辱と……夢を奪われた絶望と……ユリカを目の前で攫われた怒りとォ……!」
『やれやれ、そう結論を急がないで。もっと建設的な会話をしようじゃないか』
「知ったことか。貴様を殺す。北辰も殺す。草壁も殺す。火星の後継者とそれに組する奴らは一人残らず殺してやる。立ちはだかる者、俺の邪魔をする者もことごとく殺し尽くしてやる。それだけが……俺が今生きている理由だっ!」
地の底から呻き出されたような声色。塗りつぶされた漆黒の瞳に、仄暗い復讐の炎がその主張を強くする。ヤマサキはそんなアキトの姿が、言葉が、愉快でたまらないという風にニタリと唇の端を吊り上げた。
『くくく、なんとも穏やかじゃないねぇ。だが非常にシンプルで力強いよ。気付いているかい? 目的のためには手段を選ばない。この一点において、僕と君は今この瞬間をもって「同類」となったんだよ』
言いながら、ヤマサキが手元の機械を操作する。次の瞬間、アキトのいる研究施設の自爆装置が作動したことを知らせる警報が鳴り響いた。いつでも作動できたそれを、データを取られることを承知で今までしなかったのは、はっきり言ってヤマサキの戯れに過ぎない。そして今になって急に起動させたのは、単に彼の気が済んだからだ。相手など関係なく、とことん自分本位に動いた結果に他ならない。
「ラピス、後どれくらい掛かりそうだ」
アキトは一瞬、顔をしかめてから、ヤマサキとの会話中も滞ることなくデータを集めていたラピスに問いかける。彼女は半ばウインドウの山に埋もれるようになりながら仕事をこなしていた。アキトに一瞥だけくれると、その中から進行状況を表示しているウインドウをアキトの前に移動させた。そこには<現在82.1%>と表示されており、なおもぐんぐんと上昇中であることが見て取れる。十分だ。アキトは一度うなずいてからヤマサキを見据える。
「何時までもその余裕が続くと思うなよ。手がかりは掴んだ。必ず追い詰めてやる。逃がしはしない。必ずな……!!」
言って、アキトの周りを虹色の光、ジャンプ・フィールドが包み込む。
ボソン・ジャンプ。
アキトが狙われた要因であり、ヤマサキが追い求める真理であり、今この世界の流れの鍵である。
『ここまでの道のりはなかなかに遠いよ。中途半端に人道主義を謳っていた君たちが何処までやれるか楽しみだ』
アキトはニヤリと笑みを浮かべる。
獰猛に。酷薄に。そして目一杯の覚悟を込めて、挑発的に言う。
「無論、最後までだ。月からの追放者的には復讐は成功させるものだろう? どんなことをしてでも、な」
ヤマサキはしばらくの間、じっと復讐者の顔を見ていた。
その、長いような短いような時間に、彼の優秀な頭脳が、何を考え、どう思い、どんなことを感じたのかは、第三者には計り知れない。
イカレ科学者はその瞬間、紛れも無い素のヤマサキ・ヨシオの表情を見せて―――
『そうか―――』
と、呟いた。
それから、また人を食ったように斜に笑った。
『いやいや。暗黒ヒモ宇宙に追いやられたキョアック星人のアカラ王子だって志半ばに倒れたんだ。一概にそうとは言えない』
「知るか、そんなこと。俺はゲキガンガーはもう卒業したんだ」
それで満足したのか、ヤマサキは『まぁ、頑張って』と含みを持った笑みを浮かべてから、一方的に通信を切ってしまった。
少し気にはなったが、アキトとしてもこれ以上こんなところに長居するつもりはない。
稼動状態で待機させていたジャンプシークエンスを再開してから呟いた。
「ジャンプ」
その一言でアキトの姿は研究所内から掻き消えた。
……奪ったデータがウイルス、ダミーだらけだったこと、またこの嫌がらせのためにヤマサキが脱出不能ぎりぎりまで律儀に作業していたことを知ったのは、それから数日後のことであった。
アキトがボソン・ジャンプで脱出したことにより彼のコミュニケによって結ばれていた研究所との回線が切断された。
ラピスは一心不乱に行っていたサルベージ作業を一区切りさせて、それから掻き集めたデータの整理作業に移る。それぞれのデータを見ても彼女には分析能力が無いので何がなんだか分からない。とりあえず圧縮状態にでもしておこうか、そんなことを考えていると彼女の右手側に、突如として発光する物体が現れた。
それは虹色とも玉虫色ともいえる不思議な色の光で、程なくして発光は収まった。
光の中から現れたのは、もちろんアキトである。
「おかえり」
ボソン・ジャンプ。
ラピスとしてはもう慣れたもので、いきなり現れたアキトにいつもと変わらない無機質な労りの言葉をかける。
ところがアキトはそんな彼女の姿を一瞥すると、近場の椅子に座ってびくびくと痙攣するように嗤い出した。
「クックックックッ、くはッ、ははははッ」
「なにがそんなにおかしいの」
「ふん、嗤いたくもなる。奴らをぶち殺すことだけを考えて考えて考えて尽くしてきたら、気が付けば俺は奴らと『ご同類』になっていた。これが笑い話で無くていったいなんだって言うんだ!?」
―――怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである。
誰の台詞かは覚えていないが、この言葉の通り、アキトは今更ながら自分がものの見事に怪物となっていたことに気が付いた。
今なら、ヤマサキの気持ちが分かるかもしれない。
アキトはニタリと酷く醜い笑顔を浮かべてラピスに問いかける。
「今の俺はお前が信用していないヤマサキと似たようなもんだ。逃げるか? 良いぜ、見逃してやるよ。もちろん、クリムゾンに行って俺の邪魔になるようなら殺すけどな」
「その割には火星の後継者を殺す夢でうなされたりするのね」
「………………」
アキトは無言で顔をしかめた。
ラピスはいつもどおりの淡々とした口調なのだが、それが絶妙の揶揄のように聞こえてしまうのである。
悪夢はほぼ毎日のように見ていたので、感覚共有を切る前に何度か彼女にも伝わってしまったのだろう。
お世辞にも友好的とはいえないアキトの視線。
ラピスはそんな彼を正面から見据えると、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「……私は、アキトを裏切らないよ」
抑揚のない淡々とした、それだけに当たり前のことを話すかのような声の響き。
しかしその答えは非情ともいえる拒絶だった。
「信用できんな」
彼女が嫌がっているクリムゾンくらいしか他に行くアテがないことは分かっている。しかしだからといってそれが全面的に信用できる材料になるかといえば、それもまた違う。ラピスもそれを分かっているのだろう。特に傷ついた風でもなく、てくてくとアキトに近づいていって、その顔を彼のそれに近づける。お互いの息遣いさえ感じられるような、そんな距離で、ラピスは呟いた。
「証拠を見せる」
「……証拠?」
アキトの言葉にラピスは無言で頷く。そして彼女はアキトの目を覆っていたバイザーを取り外してやる。バイザーによる感覚補助がなくなるため一瞬、目の前が真っ暗になったが、すぐにラピスとの感覚共有に切り替わり、より鮮明な五感に切り替わる。
「私はアキトを裏切らない」
ラピスはさらに距離を縮め、ついには額同士が触れ合う距離で、そう言った。互いの絶対距離が感覚共有の強さと反比例しているため、これ以上ないほどの『想い』がアキトにぶつけられる。
「…………ラ……ピス……」
それはまず衝撃だった。次にゆっくりとそれはアキトの中に浸透していった。
何かに例えるなら、それは共鳴という言葉が最も近いのかもしれない。
彼女の言葉には何の根拠もない。もちろん証拠になどなるはずがない。しかし否定の言葉が何一つ浮かばないほどに圧倒的に注ぎ込まれる彼女自身。信用してもらうために自分の表も裏も全てをさらけ出してくる相手を、どうして疑えようか。
「………………」
アキトは、何も言えなかった。まっすぐ過ぎる彼女が、ただただ眩しかった。もちろんこの気持ちもラピスには感覚共有を通して知られているだろうが、彼女はそれには触れずにこう切り出した。
「アキトは本当に復讐がしたいの?」
「それは……」
「火星の後継者の構成員を殺した。重要施設を破壊した。有用な情報を手に入れた。間違いなくアキトの復讐は進んでいる。アキトが本当に何を犠牲にしても復讐を成功させたいのなら、これは喜んで良いはずの場面。でもアキトは喜んでいない。楽しいはずの場面でも、素直に楽しんでいない。何をやっても手ごたえを感じていない」
ラピスはアキトを推し量るように目を細める。
「自分でも分かっているでしょ。本当は、ユリカと一緒の『明日』が欲しいんだって」
「…………ッ!」
心臓の鼓動が高鳴るのが分かる。
アキトは全てを見透かすようなラピスの金色の瞳が、自分の心の中にまで入り込んでくるような錯覚を感じた。
「アキトの心の中には、炎のような赤さがある。どんなにどす黒く隠そうとしても、私には分かる。その色は生きる意思そのもの」
一拍。ラピスは短く息を吐く。
「教えて。これだけ辛い目にあって、死にたいって思ったことはなかった?」
「………思ってたさ、毎日のように」
「私の周りには私と同じような生物がたくさんいて、いつも死にたいと口ずさんでいた。利用されて、消費されるだけの存在だから。私も、死んだほうが幸せだったのかな」
この期に及んでも淡々と無表情に話すラピス。その顔には絶望も悲壮感もない。しかしだからこそその台詞は変えようのない事実としてアキトの胸を堪らなく締め付ける。ドクン、とまた心臓が高鳴った。めちゃくちゃになった人生、幕を引いてしまおうと思ったことは、一度や二度ではない。ぼろぼろになった身体、連れ去られた妻、そして何よりもう2度と料理人にはなれないという絶望。何度、銃を自身のこめかみに当てたか分からない。だが、それでも……
「違うだろ……」
アキトはポツリと呟く。それからラピスの目を正面から見返して言った。
「『死にたい』は『生きたい』ってことだ。本当に死にたかったらそんなこと考えるまでもなく死んでいる。絶望して絶望して、それでもみっともなく希望にすがり付いてるからこそ、言ってしまう台詞だ。感覚共有なんかなくても分かる。……俺も同じだからな」
どれほど罪の意識に塗れても、どれだけ復讐者としての仮面で覆うとしても、どうやっても消せない、生きることへの渇望。
ラピスはその言葉にうっすらと、しかし確かな笑みを浮かべる。
「…………………………」
おそらく、いや間違いなく、ラピスがはじめて浮かべる表情。
アキトは不覚にも、その表情に見惚れてしまっていた。
感覚共有を切った瞬間、色彩を失った世界が、彼女を中心にまた色をつけ始める。ユリカの極彩色には程遠いが、それは見る者を落ち着かせる優しい色。
視界が、ラピスで埋まっていく。
そのラピスが、アキトに向かって右手を差し出す。
握手。
彼女が初めて知った、友好を求める行為。
「私はアキトの力になれる。だから―――」
ひどく率直で真摯な言葉。
「―――私が要るって言って」
つい数日前にもしたやり取り。あの時はアキトがラピスを拒絶したが……。
「ああ。そうだな……」
僅かな躊躇いの後、アキトはゆっくりとラピスの手を取る。
ラピスがそれを握り締めると、アキトはついに降参したように苦笑いを浮かべた。
「要るみたいだ」
片や自分の命と初めて出来た居場所を護るため。
片や自身の『昨日』と『明日』を取り戻し、そして『今日』を護るため。
利害の一致した2人は、こうして手と手を取り合った。
即ち、この日この時この場所に、史上最悪のテロリストと謳われたテンカワアキトの相棒は誕生したのだ。
楽屋裏
と、いうわけで『幼女誘拐〜僕はこうなると思うんだ〜』『相棒〜accomplice〜』をお送りいたしました。
お久しぶりでございます。どうも、遅筆作家の鴇です。
ずいぶんと間が開いてしまったので今回は初心に戻って黒アキト&ラピスの話にしました。というか、リハビリ気分で35KBくらいで納めようとしていたらどうして倍近くまで膨れ上がりますか、自分。話を短くまとめるという能力については退化してるんじゃないかと思う今日この頃です(汗
で、ここからは愚痴と後悔と本編の話なので少しネタバレを含みます。まだ未読の方はご注意を。
今回の初期のテーマは『萌』でした(爆
以前から良く突っ込まれることに鴇には『萌』が足りないとのこと。ならば今回はそれを課題にラピスのラピスによるラピスのためのハードボイルド幼女萌を書き切ってくれるわっ! と意気込んでみたのが書きはじめ当初。読んでくださった方は中盤くらいでその気持ちがぽっきり折れてしまったことが良く分かったかと思われます(マテ
てか萌ってなんなんですかね。人生の袋小路にはまってしまった気がしますか。そうですか。
閑話休題。
メインに据えようとしてから思ったことなんですが、実際ラピスってどんな性格なんでしょうかね。明るいのか暗いのか。劇場版を繰り返し見ましたけども、仲間ボイスということ以外はにんともかんとも。いっそのこと『ごくせん』っぽく仕上げてみようかなどと迷走していたりなんかして。
そして気が付くとずいぶんとスレた子にw
アレですな、劇場版アフターでアキトに懸賞金なんか掛けられたらほんのり気持ちが動くような子ですな(だからマテ
とりあえずこの話はアキトの劇場版アフター救済フラグということでひとつ。
それでは長々と書いてしまいましたが、『相棒〜accomplice〜』、これにて終了とさせていただきます。
一応、今回の話も『Do you know……?〜あなたは知ってる?〜』と同じ時間軸の話ということで。熱血クーデター、劇場版ビフォアと来ましたんで、次は劇場版再構成となると思います。よろしければ、その時もどうかひとつよしなに。
最後に管理人様、代理人様、ならびに読んでくださった全ての皆様に心からの感謝を。
ありがとうございました。
<読後感台無しっぽい後日談+月臣がネルガルに入った理由です。本編に収められなかったのでこういう形にしました>
おまけ
代理人の感想
萌えねぇ・・・・かつては二次元キャラクターに対する性欲の現れと思っておりましたが、現在では「異性のキャラクターに対する好意的感情」と言うことではないかと思っています。えらく範囲の広い概念ですが。
なので、印象に残るように書く事ができればそれで萌えになるのではないかと思いますが如何(笑)。
・・・・・そう言う意味で今回、前半部で萌えるのはラピスよりもむしろ拘束されてドナドナされていったアキトの方ではないかと言う疑念はこの際置いておきましょう、ええ。実際全体で見るとアキトが主人公っぽいわけですし、結局のところ真のヒロインは素の自分を時折さらけ出すツンデレ(後期型ツンデレって言うんだっけ?)であるところのアキトだということで(爆)。