はじまった後


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五日後
「いらっしゃい! 外寒かったでしょう」
「いやあ、春になったってのにまだ寒い。ん〜。女将さん、今日はカレイの塩焼き定食で」
「はい。夏井くん、カレイ定食一人前ですー」
「へい」
 
 食器の鳴る音と微かな話し声が響く店内。温かい明かりに包まれ、燻されたような柱が古めかしさを演出している。客の間を着物に割烹着を着た女将さんが元気に動き回っている。その娘も同じ様な格好をして手伝っていてこちらも頑張ってはいるが、どこかさめているようだ。
 夏井総一郎こと天川アキトは、魚料理が売りの居酒屋でバイトをしていた。
 ここはターゲットの家がすぐそばにあり、ほとんど毎日のように通っている店だ。魚が好きなのかどうかは判然としないが、その行動パターンから、マークするための重要なポイントに指定されている。この店を舞台にして何らかの接触が行われている可能性は捨てられない。
 食事中というのは知らず知らずの内に気配に敏感になるもので、大して広くない店内での監視は危険だ。
 そこでアキトにバイトとして入ってもらった訳だが、拒否権がない身であるにもかかわらずアキトは拒絶した。
 アキトは昔コックだったのは確かだが、酷な役回りだった。自身の先天的にもつ特殊能力を狙われて拉致され、その先での強制的な実験で味覚を失い、コックの夢を奪われた人間に受け容れられる話ではない。
 アキトはチベット産のコーヒー豆という切り札を持ち出したが、リツは笑顔で却下した。これも罪を贖うため、そう思えば確かに罰だった。
 
「総一郎」
 と、低い声で板長が言うとアキトは「今上がりました」と言い「遅いぞ」と返される。
 女将さんは、店の真ん中にあるU字型のカウンターに囲まれた板場でのやり取りに目を細め、娘が稀に見る表情で二人を見詰めているのに気付くと、向こうもこちらの目に気付きそそくさと奥へ下がってしまった。
 日本は魚文化、といわれほどに魚の調理が発達した国だ。どう捌くかによって味が変わると言われている世界だから、腕のいい包丁人は尊敬の対象となる。
 奥の深い世界であり、アキト程度の腕で板長に敵う訳もないが、板場が寂しい中に入ってきた筋が良さそうな総一郎のことを考えて、板長は包丁を持たせた。
 味覚に障害があることを知っての上で。
 
 アキトはカレイに包丁を入れる。
 実に不思議な気分だった。いや、不思議な気分になってきたのだ。
 入って2日目までは、それこそ包丁を持つことが嫌で仕方なかったのだが、板長が毎日指導してくれるために徐々に熱中し始め、まだ料理を作ることに抵抗はあるものの、もう少し、もう少しと言った具合に、技を学びたいと思うようになっていた。
 しかし、
(何が適材適所だよ、夏野さん)
 失った五感の多くはナノマシン治療と補助で回復しつつあったが、どうしても味覚は戻らなかった。戻ったとしても、また包丁を握ることはないだろうと思われた。
 せっかく目をかけてもらっても、すぐに消えなければならない。厚い人情も、罪悪感も感じなければならない。
眉を寄せていると、「総一郎」と鋭く光る瞳で睨まれた。
 総一郎は首根っこを掴まれた様に萎縮した。手が止まっていたらしい。すぐに捌き終わっていたまな板の上のカレイに串を通し始めると、入り口が開く軽快な音がした。
「いらっしゃいませー。あら、矢矧さん」
 アキトの気が引き締まる。それはターゲットの名前だった。
 矢矧は席につくと今日のおすすめを聞いたが、注文したのは日替わりの刺身盛りで、どうやら赤貝に惹かれたらしかった。
 板長は注文を受けるとアキトを呼び寄せ、後ろに立たせてから捌きだす。技を見せてやろうと言う深い愛情だが、アキトは罪悪感を感じながらも意識はターゲットに向けて集中していた。
 
 30分もするとターゲットの食事は終わった。今日も別段、変わった素振りはなかった。
 矢矧が席を立つと女将さんが近寄り何やら話していたが、アキトは盗聴器が音を拾っているだろうからと既に構っていなかった。
 どう考えてもこの店が黒だとは思えないし、矢矧が誰かと接触している風もない。
(さっさと帰れ、間抜け)
 知らず知らず女将さんと話している矢矧というスパイに抗議していた。いや、流石に客であるから今のは不味いか、などと考えていると、女将さんが手招きしている。
 どうやら自分を呼んでいるようだ。
 返事をし、手を拭いてからカウンターを出て、緩み始めていた気を集中させ、自然を装いつつ入り口近く出立ち話している二人のもとへ行く。
「紹介してなかったわねぇ。この方は矢矧さんて言ってね、うちのお得意様なの。よくいらっしゃってるから分かるわよね」
 アキトがお辞儀すると、こちらを面白そうに見詰めていた矢矧も頭を下げた。
「初めまして、夏井さん。矢矧アイコと言います。よく、っていうかほとんど毎日来てるから、よろしくね。で、急な話なんだけど、明日お休みなんでしょ? だったら私とデートできないかな?」
 
 
 
 ジーパンに茶色のジャケットを羽織ったアキトが、遊園地のメリーゴーラウンドから閑散とした模造の石畳を隔てた所にあるベンチでクレープを食べている。隣には、普段の白衣から黒のコート着替えたアイコが座っていた。
 二人は何やら楽しそうに話していて、誰が見ても微笑ましいカップルの光景だろう。
「いや、天川もやるねぇ。まさかスパイとデートだもんな。こいつはひょっとするぞ、夏」
「いいえ、きっと何か裏があるに決まってます」
「だから、何かあるんだよ」
 リツの先輩であるもうすぐ定年の調査官、高木は目の前で嬉しそうにベーコンサンドを食べている。
 本当なら現場に出てくる人ではない。だが、今回のスパイの件でリツをコンビを組む事になり、遊園地の大体半分を見下ろせるハウスの二階のテーブルについて、ガラス越しにコンビは監視を続けていた
 二人共相手に顔を知られているから変装をしてあって、まるっきり別人に成りすましているというよりはあたりに溶け込むような格好だ。
 リツはジーンズにウインドブレーカーにキャップを被っている。
 高木は往年の技か、説明するまでもなく行楽に来たご年配そのものだ。
 ペアの設定は、祖父とその付き添いの孫だが、彼に言わせればリツの変装は「無理あるな」という事らしい。どういった意味での感想かは知らない。おそらく馴染んでいないということだろうが、それなりに若者らしい選択だったはずだ。べつに10代の女の子を想定したわけではないけれども、そう考えると、高木の声は文字となって脳に巣食ってしまった。
 そして思考に巣食うもう一つのこと。それは目の前で展開されている。
 口をつけてももらえないコーヒーのそのソーサーの脇では、リツの指が一定の間隔を置いてテーブルを叩いている。一つ叩いて、忘れるかいなかの瞬間また響く。
 券が余ってるから、という理由で誘われたそうだが、それを信じる者などいないだろう。総一郎が監視役であることに気付かれているならば、何時危険に晒されるかわからないのだ。彼の安全を守るのも自分の役目である。
「何を話してる?」
 リツは興味深々といったふうに聞いてきた高木に、アキトのポケットに入った盗聴器と繋がっている無線のイヤフォンを耳から外して手渡す。本当ならば二人共しているべきなのだが、補聴器に見られると言って高木は嵌めいていない。人の変装をうるさく言う割りに、とリツは溜め息を吐いた。
 イヤフォンのスピーカー部に一つ息を吹きかけてから左の耳に差し入れた。
「……なんだ、まだ魚の話しか。色気がねーなあ、何やってやがんだ」
 一人文句を上げる先輩にリツは視線を向けたが、気にも留めない。相手にしてみればひよっこ同然の後輩など相手にならないのだろう。
「しかしあいつも好きだな、年上か。履歴書じゃあ29歳だから天川の4つ上か。俺ぐらいになると全年齢皆中だが、まあアイツくらいんときゃ誰でもそうかもなあ」
 面白いらしく、うんうん、と頷きながら話す。アキトは別に好きで接触しているわけではなく仕事だから仕方なく協力しているのだ、という考えが走り去るのを感じて、リツは難しい顔になった。
「しけた面してると気付かれんだろ、夏」
 ほれ、と笑顔で言われて、誘い出されるようにぎこちなく笑顔を作る。
 それと同時にイヤフォンを外すと、高木は立ち上がって黒の鹿討帽を被った。
「移動するぞ。やっこさんら水族館に行くってよ。さて、尾行、尾行と」
 その嬉々とした背中を見送るわけにも行かず、リツはカップを触ることなく腰を上げた。
 
 
 カップルは遊園地内にある「アクア・キャラバン」なる水族館の淡水魚スペースを抜けて、回遊魚が泳ぐ大水槽が続くフロアを歩いていた。
「夏井くん、何で料理人になったの?」
 そうアイコが問い掛けてきた時、アキトは青い光に染められたアクリル大水槽の中に一個だけ浮かんでいるカツオノエボシを眺めていた。
 振り返ってみても薄暗い館内と水槽から漏れる光のせいなのか、彼女の表情がよく見えない。
「……さあ。戦争の時はパイロットだった。で、除隊してから何となく興味があってコックを目指しただけで、何で料理人なんかになろうとしたかなんて覚えてないよ」
 青い水槽に視線を戻す。
 なんとなく、IFS用のナノマシンの宿主である事を示す、右手の甲にあるタトゥーを痒いた。
「ほんと、なんでかな」
「やっぱりパイロットなんだ。私もそのIFSを見てもしかしてって思ってたんだけど、なんかギャップがあって信じられなかったんだよね。戦争か……。もうすごい遠く感じる。私、何にも関わってないからだね」
 微笑みながら話すアイコの背後を、銀色の鱗を輝かせた魚の群れが過ぎ去っていく。
「その方がいいんだよ。それで、何でそんなことを?」
「さあ、なんでかな」
「警官になったのはどうして?」
「警察官の実感ないからなあ。大学のとき研究職がやりたくて、道が用意されてて、私にもその気があった。そんなところよ。似たもの同士ってことかな……。あ、ウォーターロードだって。行ってみよう」
 アイコは先に立って歩き出した。
 アキトはもう一度カツオノエボシを見てから、後を追った。空に浮かぶ飛行機雲のようなそれが、軽く羽ばたくようなそぶりを見た気がした。
 
 
 おかしい、リツは急に途絶えたイヤフォンを軽く叩く。しかし雑音がするばかりだ。
「高木さん、音声が途切れました」
 小声で問い掛けても返事がないので、耳から意識を放して辺りを見回してみると、高木は巨大水槽前で一人佇んでいた。小声の問い掛けは独り言にしか過ぎなかったようだ。
 スニーカーを鳴らして近づく。
「高木さ――」
 小声を荒げて注意しようとすると、目の前を盛大に気泡を上げた黒い影が横切った。
「なッ……!」
「夏、見てみろマグロだぜ。幾らすんのかねえ」
 体をこわばらせたリツなど眼中にないらしく、目の前に広がっている水中世界に魅入っていた。
「なんか梅干が食いてぇなあ」
「ボケるにはまだ早いでしょう。音声が途切れてるんですよ……!」
 目を見開いて、ほう、と声を上げると、上着のポケットから手の平ほどの液晶を取り出す。それは総一郎についている発信機から位置情報が送られ、表示されるものだったが。
「駄目だな。ブリップがねえ。どこいんのか分かんねぇや」
 
 
 アキトは深い水底にいた。
 水底と言っても水中にいるわけではなく、水槽の底を走る一本のアクリルでできたトンネルを歩いている。トンネルの床にはスポットライトがぽつんぽつんとあって、光の届かない深海の世界を演出していた。一体どれほどの厚さのアクリルなのかは知らないが、トンネルの内側の曲面を針でつつけば風船のように弾けるのではないかと思われるほど圧迫されている気がした。
 金槌頭の鮫がゆっくりと尾ひれを動かして頭の上を通り過ぎて行き、二人の行く先の闇へ消えると、今度は黒い珊瑚のようなものがトンネルの屋根に置かれてあって、近づくとそれは休憩中の海亀であった。彼は二人が近づくのを見ると妙に年老いたような瞳を動かしてこちらを見下ろし、それから億劫そうに水中を泳いでいった。
「私、復讐がしたいんですよ」
 唐突に響いた声に振り返ると、アイコはその総一郎の瞳に皮肉そうに笑いかけていた。
「最初は連合に、今は仲間に。愛って酷いですよね。人に何でもさせる。信じていた仲間さえも裏切らせる。不思議だわ……。近づくための愛が本気になってるなんて、失うまで気付かなかった。そう思わない? ねえ、テンカワ君」
 表面は変わりなく抑えていたが、脳は激しく揺れて足元を揺らそうとした。
 夏井でも、総一郎でもなく、テンカワと呼んだ。やはり相手は自分が誰であるか知っていたのだ。
 5歩ほどの距離を取って向かい合う二人の脇を、背びれの大きな魚がゆっくりとアキトの方へ向かって泳ぐ。滑らかな流線型をした鮫は、これまた大きな尾びれを柔らかくしなる猫の尻尾のように動かし、床から立ち昇るスポットライトに綾なされた巨体を移動させながら、それが生物のものかと疑われるほどまっさらな目を携えて泳いだ。水鏡の狩人はアキトを通り過ぎると、素早く尾を動かして闇の中へ消えていった。
 一瞬の後、合わせていた瞳を外して俯き加減の頭を上げたアキトの口元は、自分でも気付かない内に緩んでいた。
「通信の途切れるこの場所で、話があるんだろ」
 彼女は嬉しそうに笑った。
「はい。演技もここでお終い。結構楽しかったんですけどね、やっぱりタイプじゃないなぁ。どっちもつまんないっていうか、まあ総一郎くんよりはアキトくんがいいかもしれないけど。やっぱり私は年上が好きみたいで」
 ごめんね、と呟いた声が聞こえた。
「そのアキトに何の用だ?」
「発信機も盗聴器も外してそこの扉から出ましょう。今度はアキトくんとデート」
 彼女は背中を向けて歩きながら、悪戯っぽくそう話す。
「いやだって、俺がもし言ったら」
「後悔するだけですね。あー、でもやっぱり断った方が正解かも」
 背中を向けていた彼女が踵で回って振り向くのに合わせて、アキトは珊瑚の欠片のような機器を上着から外して踏み潰していた。
 彼女は意表を突かれたようで目を丸くしている。
「……来てくれるんですか?」
「行っちゃいけないのか?」
「そんなことありません、ぜんぜん都合いい! うおー、困ったな、こんな簡単に行くなんて。よし、私のアパートへ行きましょう。大丈夫、あなたの遺伝子が欲しいとか、そんなのは求めない。頼まれてください」
「ああ」
 これがただ事じゃないのは承知の上だ。もう目覚めないようなことになるかもしれないが、それでもアキトは「デート」に付き合う気になっていた。ふと、彼女の本当の名前を聞いてみたくなった。
 訊ねると、彼女は可笑しそうに笑って歩き出した。