其の四


 ひたすらに清潔で真っ白な部屋だった。少し鼻を刺激する、しかし甘い匂いが漂っている。窓は無かった。閉じ込められていた。


「ああ、家族はみんな火星で死んだよ。僕だけが地球にいて助かった」

 あばたの目立つ顔を少し歪めて、タダシは言った。
 彼は自分に自信が無いためか、何時も周囲を窺うような目をしている。だから仲間内でも決して好かれている人間ではなかった。しかし少なくとも傲慢ではなかったので、アキトは彼が嫌いではなかった。
 タダシはアキトに微笑みかけた。気弱げな、見ようによっては媚びるようにも思える笑顔だった。

「火星出身者なんて周りにいなかったからね。こうして故郷の話が出来るのは嬉しいよ」

 しかしその声音には痛みを分け合おうとする優しさがあったし、現状を呪うのみではない強さがあった。だから、彼の言葉はアキトの胸に染みた。



「何で此処には化粧品が置いてないんだろう。すっぴんだと私、見られたもんじゃないのに」

 髪の毛の先を指で玩びながら、ライザがぼやいた。
 確かにその肌は荒れており、目の下の隈も目立つ。金髪に染めた髪の毛は痛んでおり、根元では地毛の赤毛が随分と伸びている。過去の生活習慣がありありと表れた姿である。
 しかし、元々の顔立ちはそう悪くも無く、ぷっくりとした唇は口紅を塗らずとも色っぽい。自嘲するほどに不細工だとは思えなかった。
 
「本当にこのままでも美人? なら、私と付き合ってくれる?」

 アキトは慌てた。ユリカはやきもちを焼いて見せた。ライザはそんな二人を見て笑った。慌てはしたものの、落ち込む気持ちを元気付けてくれる効果はあった。



「私が火星の生き残りを殺したんだよ? みんなは知らないけど。……凄く辛い」

 ユリカが弱音を吐いた。この場にはアキト以外に誰も居ない。だから、気が緩んだのだろう。何時も笑顔の彼女は、アキトにだけは弱みを見せることを自分に許している。
 喜ばしい事のはずだが、今のアキトにはそれが逆に辛い。自分が彼女を支えるに足る人間だと言う矜持を持つことが出来ない。
 無力感と劣等感に苛まれながら、アキトはユリカを抱き締めた。他に出来る事は無かった。普段のエネルギッシュな印象に似合わぬ、華奢な肩だった。

「俺がついてるからさ」

 口から零れ落ちた台詞は本心だったが、形になってみると酷く白々しく、安っぽいものに感じられた。アキトはそれを埋め合わせるように強くユリカを抱いた。頬をくすぐる黒髪は、以前より少し艶を失ったようだった。彼の胸に顔を埋め、ユリカは呟いた。

「うん、アキトは私の事が好き。だからアキトが傍に居てくれたら、私は頑張れるよ」

 アキトは答えようとしたが、言葉が見つからなかった。泣きたいような衝動が込み上げてきたが、せめてそれ位は耐えるべきだと思った。



 「お客様、」

 話し掛けた添乗員は、台詞を言い終わらぬうちに頭部をぱっくりと割られた。椰子の実のような割れ目からぼたぼたと血と脳漿が混じった液体を滴らせ、糸が切れたように崩れ落ちた。
 シャトルを一瞬の沈黙が包み、そして恐慌が巻き起こった。
 悲鳴をあげ、逃げ惑う乗客達。彼らを追い、屠殺してゆく編み笠の男達。席を立とうとして転んだ上品な老婆が斬られた。腰を抜かし、へたり込んでいた実業家風の男が斬られた。浅ましくお互いを盾にしていたカップルが斬られた。妻と幼い子供を両腕に抱き締め庇っていた中年男性が、家族と共に斬られた。辺りは血の海になった。


 斬られた人々が、血を流していた。止め処なく流れ出す血液はどんどんと水位を上げ、アキトを飲み込んでゆく。全てが赤く染まる。
 積み上げられた死体の山が、もぞりと動いた。斬り捨てられたはずの人々が蘇る。死人に相応しい緩慢な動きで、アキトに這い寄る。

 肩口から袈裟懸けに切り裂かれ、左腕をぶらぶらと揺らしたタダシが、恨めしげに言う。

「ナデシコが、無理に和平なんて進めたから。禍根さえ断っていれば、僕はこんな目に合わなくて済んだのに。火星の恨みを晴らせたのに」

 こめかみから切り込まれ、頭部の上半分をだらりと垂らしたアユミが、憎々しげに糾弾する。

「火星の生き残りには、私の家族が居たかもしれないのに。あんた達が、私の家族を殺したんだ!」
 アキトは罪悪感よりも何よりも圧倒的な恐怖に支配されて、後退りした。だが死人達は虚ろに手を伸ばしながら、着実にアキトに迫ってくる。

 どん、と背中に何かが当たる感触がした。振り向くと、それはユリカだった。彼女は何も言わなかった。ただ、アキトの手をぎゅっと握り締めた。
 そして、アキトの手を離し、向かってくる死人の群れへと一人歩き始めた。

 アキトはユリカを追おうとした。しかし根が生えたように足は動かなかった。無理に動かそうとすると、震え始めた。がくがくと、震えは止まらなかった。
 ユリカの向かう先に居るのは、編み笠の男だった。死者達を飲み込み、編み笠の男は圧し掛かるように巨大だった。アキトは叫び、ユリカを制止しようとした。だが彼女の足は止まらない。編み笠の男が嘲笑を浮かべた。
 アキトは絶叫して、編み笠の男に向けて銃を乱射した。ぱんぱんという射撃音。銃は男に全く痛痒を与えず、逆に男は大きくなった。アキトはだだだん、と三点バーストで小銃を撃った。男はますます大きくなるばかりだった。拳銃と小銃を乱射する。ぱんぱん、だだだん。男は視界を埋め尽くすほどになり、もはや影しか見えない。ぱんぱん、だだだん、だだだん、どかん。




 目が覚めた。
 アキトは身を起こし、そして視界を覆っていた影がずり落ちるのを感じた。見れば、それは戦闘用の防刃防弾コートだった。真っ黒のそれがバイザーの上に被さって、影のように見えていたのだ。ぼんやりとそれを眺める。
 ぱんぱん、だだだん。遠くから微かに銃声が響いて来た。
 朦朧としていた意識が、緊張で一気に明度を取り戻す。壁際に飛び退いてコートを盾にするように構える。何時でも動けるよう、しかし目立たぬよう膝立ちになり、周囲の様子を把握する。
 人の気配は無かった。部屋に明りは点いておらず、暗視機能を持つバイザーが無ければ殆ど何も見えなかったろう。
 部屋の中央には棚のついた大きな机があった。棚にはあちこちにメモ用紙らしきものが貼り付けられ、大小様々なビンやらビーカーやらピペットやらが収められていた。
 実験室のようだった。

 つまり、アキトは咄嗟のボソンジャンプに成功したのだ。
 安堵の息を吐く。際どいタイミングだった。
 此処はクリムゾンの研究所の一室だろう。月臣らが戦闘中に送ってきたデータ。それは研究所の見取り図だった。それを元に、アキトはこの部屋に跳んだのだ。
 ユリカを取り戻す、その執念が、月に退く事を潔しとしなかった。守備兵達はNSSを防ぐため出払っているだろう事を見越しての行動でもある。

 偶然だが、結果としてアキトの行動は、『強襲からの、伏兵による陽動。その間に突入ポイントを変えての潜入』という形になっていた。

 しかし緊急、瞬時のイメージングでの負担は大きかった。そのために意識を失ってしまったらしい。もし研究員がこの部屋に居たら、と思うと背筋が寒くなる。

 アキトは手元の時計を確認した。失神していたのはごく短時間らしい。北辰らに敗れてから、幾らも経っていない。
 聞こえてくる銃声から判断するに、NSSは、幾らかのデータは奪ったものの未だ研究所の占拠に成功していないようだった。

 好都合である。
 アキトは辺りを見回し、転がっていた銃やナイフといった武装類を拾い上げた。
 パイロットスーツの上からDF発生装置の組み込まれたプロテクターを身につける。胸元と腰にホルスターを装着し、銃を収める。腰の後ろにナイフの鞘を取り付ける。最後に、先刻まで被っていた防弾防刃コートに袖を通した。全ての武装を身につけると、ずしりとした重みが全身に掛かった。
 武装を持ち出せたのは上出来だった。お陰でイメージングに更に負担が掛かってしまったとしてもだ。これが無ければ、研究所に潜入した所で碌な働きも出来なかったろう。
 武装を確認し、アキトは外への扉に向かった。
 せっかく敵の懐に飛び込むことが出来たのだ。NSSが守備兵を引き付けている間に、ユリカを取り戻さなくてはならなかった




 銃を片手に下げ、周囲を警戒しながら廊下を進む。監視カメラに映ることは気にしていない。現状で所内のカメラを監視している兵が居るとは考えにくいからだ。それよりも、引き揚げ作業中の研究員に鉢合わせる事の方が怖かった。
 廊下に人の気配は無かった。この辺りの引き揚げはもう済んでいるようだ。白い蛍光灯に照らされた廊下で耳に入るのは、衣擦れの音と空調の振動。そして、その遠さゆえに緊迫感を欠く銃声である。
 ふと、この研究所には誰一人いないのではないか、と言う気分に襲われる。奇妙に現実感が無い。
 現実感を失わせているのは、この無機質な蛍光灯の光かもしれない。そうアキトは感じた。彼が囚われていた施設も、空調の響きをBGMに、いつも白い蛍光灯に照らされていたからだ。
 ここではナノマシンを研究しているから、もし今嗅覚が正常なら、ナノマシン溶媒の甘い刺激臭が漂っているに違いなかった。



 拉致されたアキトとユリカが放り込まれたのは、寮のような施設だった。壁も部屋も真っ白で無闇と清潔だったから、病棟のような、と言った方が近いかもしれない。A級ジャンパーは全てその施設に軟禁されるらしかった。
 ジャンパー達への扱いは、決して乱暴なものではなかった。少なくとも、直接的な拷問・虐待の類は無かった。
 ベッドとシャワー以外に何も無いとはいえ一応個室は与えられたし、無味乾燥ながらもきっちりと食事も出た。病棟内なら散策する事も許可されていた。
 だが、それだけだった。
 施設には個室以外の設備は無く、窓すら無かった。出口から姿を見せるのは、サイボーグを思わせる完全武装の兵士。一切の口を利くことなく、食事・洗濯物の運搬といった仕事をこなすのみ。
 つまり、飼育されている、と言うのが最も的確な表現だった。

 直接的な暴力が無くとも、飼育されていると言う認識は酷く精神を磨耗させる。窓も娯楽も無い施設の閉塞感が、それに拍車を掛けた。
 栄養を満たすためだけの味気ない食事。ただただ白っぽく無機的な施設。自然、人を求めた。

 A級ジャンパーは火星の、しかもある時期に産まれた人間に限定される。だから、拉致された人々は皆、アキトとほぼ同年代になる。開拓が進み、落ち着き始めた火星での記憶を共有している。だから、現在の境遇を同じくしていると言う以上の連帯感があった。

 タダシは二十三歳の大学院生だった。彼は火星から地球の大学に留学していており、それで命永らえたと言う。家族を失ってから、戦災保証とアルバイトでどうにか学費を工面していたらしい。
 ライザは二十五歳だった。開戦時に偶々地球へ旅行にやってきて、そのまま故郷を失った、と言っていた。地球に身寄りは無く、苦労したらしい。はっきりと言いはしなかったが、どうやら水商売、それも性的なものの経験があるようだった。
 皆、多かれ少なかれ苦労していた。

 仲間達で、火星に暮らしていた頃の思い出を語り合った。
 赤茶けた大地。不味い飯。IFS模様を手の甲に浮かべた労働者。入植期の苦労話を繰り返す爺さん。コロニー傍に設けられていた緑地。通り雨の後、空に掛かる見事な虹。
 口にのぼる火星の思い出は全て、幸せに満ちて輝かしいものだった。


 無論武装グループは、思い出話をさせるために火星出身者達を拉致したのではなかった。
 軟禁されてから暫くして、施設から何名かが連れ去られた。彼らが帰らぬうちに、また何名かが連行された。一定の期間を置いて、着実に仲間達が引き抜かれていった。帰ってきた者は居なかった。
 櫛の歯が欠け落ちるように、一人一人と人数が減ってゆく。それは堪らない恐怖だった。

 火星出身者達がそれでもどうにか生きる気力を保っていられたのは、ユリカに負う部分が大きかったろう。
 艦長の経験ゆえかそれとも天性か、彼女には自然に人を引っ張ってゆくリーダーシップがあった。皆を勇気付ける、能天気なほどの明るさがあった。決して諦めることなく、救出の手を信じ、また自力での脱出の機会を待った。結局そんな機会が訪れる事はなかったが、重要なのは希望を持つ事だった。
 ユリカは皆の支えだった。

 そしておそらく、監禁している者達もそれを見透かしていたのだろう。
 実験体たちが悲観し生きる気力を失うのは、彼らにとっても好ましい事ではなかったはずだ。
 だから次々と仲間が減ってゆく中、ユリカは最後まで残された。そして、彼女の支えであったアキトもまた、残された。

 アキトとユリカが残酷な、感情を交えない無機的なものだからこそ何よりも凄惨な実験、その対象となったのは、大半の仲間が死んで、解剖された後だった。
 結局、生き残ったのはアキトとユリカの二人だけだった。彼女の状態を、生き残ったと表して良いものならば。



「全く、ウチのドクターは人使いが荒いんだよなあ」

 唐突に人の呟き声が耳に飛び込んできて、アキトは白昼夢から覚醒した。全身の毛穴が閉じ、筋肉が緊張し、鼓動が早くなる。

「忘れ物をしたのは自分なんだから、自分で取りに戻ればいいじゃないか。テロリストが襲ってきてるってのに、ぞっとしないよ」

 声は廊下の先の曲がり角から聞こえて来る。足音からして、近付いてくるのは一人だけ。アキトは曲がり角の陰、声の来る方角からは死角になる位置に身を隠した。

「はあ、とっとと戻って……ぐっ」

 研究員の独り言は呻き声で中断した。蛇のように素早くしなやかに、黒い腕が彼の喉に巻きついてきたからだ。
 あげようとした悲鳴は締め上げる蛇によって、形を為さずにせき止められた。同時に脳に向かう血流もせき止められ、そして彼は意識を失った。



 アキトは締め落とした研究員を手近な部屋に引き摺り込んだ。素早く扉をロックする。
 コートの中からテープを取り出し、ぐにゃぐにゃと重い研究員を転がしながら、その手足を手早くぐるぐる巻きにした。最後に口の周りにもテープを巻きつける。

 一連の作業を終わらせ、漸く一息ついてアキトは研究員の様子を観察した。
 研究員というと不健康そうなイメージがあるが、この男はそうでもなかった。短く刈り込んだ髪に、日に焼けた浅黒い肌。がっしりした身体つきは、何かスポーツでもやっているのではないかと思わせる。白衣の下はTシャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好で、ここがくだけた雰囲気の研究所である事を窺わせた。アキトが捕らえられていた施設の科学者は、見分けがつかないほどにきっちりとした服装をしていたものだったが。
 男はまだ若く、先刻の独り言からも分かる通り責任のある立場に居るわけではなさそうで、さして重要な情報は得られそうにない。

 それらの事を見て取り、アキトは研究員の鼻面をブーツで蹴り飛ばした。

「ぐぶっ、がはぅ、はっ」

 呻き声を上げて、男は意識を取り戻した。痛みに仰け反ろうとしたのか顔を押さえようとしたのかは分からないが、とにかく動こうとする。しかし身体を縛るテープに阻まれ、無様にもがく。垂れた鼻血が滑稽だった。

「くくっ」

 アキトは無表情の嘲笑を喉の奥で漏らし、懐に手を入れた。左脇に吊ったホルスターから、黒々と輝くリボルバーを引き抜く。そして未だに状況がつかめずもがいている研究員の眉間に、その重厚な金属塊をごつりと突きつけた。

「おはよう。いい朝だな」

 掠れた声で、囁き掛ける。抑揚のない、とても非人間的な声だった。
 研究員は額に触れる固い感触に戸惑ったように動きを止めた。金属の冷たさが染みるにつれ、朦朧としていた瞳が徐々に焦点を合わせ始める。
 目の前にわだかまる黒い影、それはバイザーで顔を隠し、コートに身を包んだ男だった。冷気が脳にまで染み渡り、突きつけられているものが何かを理解して、彼の眼に恐怖の色が浮かんだ。
 アキトはサディスティックな衝動が込み上げるのを感じた。

「むぐぐっ……」
「何を言っているのか分からないな。まるで豚だ。人間なら人間の言葉を喋れ」
「むぐ、むぐっ」
「オーケイ、お前を人間に戻してやってもいい。だが人間ってのは理性的に訊かれた事に答えるもんだ。うるさい鳴き声をあげる豚には、鉛弾のお仕置きが待っている。理解したか?」
「……」

 研究員の眼に、理性と敵意の色が浮かんだ。彼はアキトを睨みつけた。だがその眼から未だ恐怖は拭い去られていない。彼はアキトの問いにゆっくりと頷いて、テープを取れと促すように顎を上げた。
 アキトは、研究員が命乞いをするように媚びてこない事に不愉快を覚えた。睨みつけてくる眼がとても気に食わない。
 アキトは銃口を額から離し、鼻血の垂れている鼻先を抉りこむように押し付けた。研究員の恐怖の色合いが濃くなった。
 アキトは満足し、口元のテープを乱暴に剥がした。

「……痛い」

 俯き、口の周りを赤く張らして研究員は呟いた。アキトはそんな彼の様子に頓着せず、髪の毛を掴んで強引に自分の方に振り向かせ、言った。

「質問は一つだ。ユリカは、遺跡は何処だ?」

 だが、研究員は質問の意味が分からないようだった。所詮は下っ端である。クリムゾンの裏の顔とは無関係なのだろう。元より大して期待していた訳でもないが、失望は拭えなかった。
 アキトは舌打ちして、鼻血を垂らした間抜け面を一発小突いてやった。研究員は呻き声を上げて倒れた。四肢をテープで巻かれたその姿は芋虫のようだった。

「質問を変えよう。この研究所には、一部の人間しか入れないブロックがあるはずだ。心当たりは?」

 男の表情が強張った。何かを知っているのは確実だった。だが男はすぐに俯き、質問に答えようとしなかった。
 アキトは彼を蹴り転がして自分の方を向かせた。彼は相変わらず鼻血を垂らした間抜け面だった。しかしその眼差しには敵意と、そして矜持があった。

「知らないな」

 研究員の眼差しはアキトを苛立たせた。再び銃口で鼻先を押し上げる。上を向いて鼻腔を露わにする。豚のような顔になった。

「知らないのならこいつの引き金を引くだけだ、豚野郎」

 一瞬研究員の顔に恐怖の色が閃いたが、それはまたしても敵意と矜持に抑え込まれた。アキトの苛立ちは益々大きくなった。銃把を強く握る。
 ややあって、研究員は口を開いた。

「……分かった、分かったよ。教える」

 その表情には、怯えではなく理性の色があった。

「この研究所には地下施設があるんだ。妙に警備が厳重で、俺みたいな下っ端は入れて貰えないどころか近寄らせても貰えない。アンタが探してるものも、そこにあるんだろうさ」
「……入口は?」
「表の廊下を真っ直ぐ言った突き当たりが、地下に降りるエレベーターらしいよ。俺は乗った事は無いが、時々所長が利用してる」

 アキトは機動兵器戦の最中に送られてきた、研究所の見取り図を思い出した。研究所の構造と証言とを照らし合わせる。どうやら研究員の言った事は事実らしかった。
 アキトは研究員を見た。脅されて情報を漏らしたにも関わらず、その面に怯えの色は無く、敵意と矜持は失われていなかった。
 つまり彼は恐怖に駆られたわけではなく、冷静に打算的に、自分の命と情報の価値とを天秤に掛けた、と言うことだ。
 アキトは彼の、その毅然とした表情が堪らなく憎くなった。

「情報をありがとう。しかし、口の軽い豚にはお仕置きが必要だな」

 言って、銃口で更に鼻先を押し込む。
 しかし、研究員は屈服しなかった。バイザー越しにアキトを強く睨む。彼は鼻先を押されて仰け反る形になっており、アキトを睨む目はまるで見下しているかのように見えた。
 許せなかった。

「何なんだよ、お前は!」

 クリムゾンの人間が、このような態度を取って良い訳が無い。アキトは銃の引き金を引く代わりに、固めた拳を研究員の顔面に叩きつけた。呻き声をあげ、彼はのたうった。しかし、アキトを見下ろす眼差しは変わらなかった。

「この、野郎!」

 アキトの脳裏を、絶叫を繰り返すアキトを、無感情な眼で見下ろしていた科学者達の顔が走り抜けた。タダシの、ライザの、死んでいった仲間達の顔が走り抜けた。彫像と化したユリカの姿が走り抜けた。
 この研究員が、自分たちの受けた実験と無関係な事は分かっている。こいつは何も知らない。だがそれでも許せない。
 アキトは再び研究員に拳を叩き込んだ。それでも、その眼から意思の光は失われない。

「がああああっ!」

 抗えない暴力を目の前にして、この研究員が矜持を失わずに居る事が耐えられなかった。
 皆、屈辱を舐めたのだ。尊厳を破壊されたのだ。恐怖に打ち震えたのだ。だと言うのに、こいつがこんな眼をして居る事を、どうして許せるというのだ?

 殴った。繰り返し殴った。手袋越しに拳に伝わる手応えは、腕を通り肩を抜けて脳に辿り着き、意識を白熱させた。猛烈な怒りに視界が白んだ。


 殺された人々から流れる血を目で追った。血が床を伝い、震える足の傍に辿り着いた。
 顔を上げると、編み笠達の首領らしき男が目の前にいた。義眼なのだろうか、左右の大きさが違う赤い瞳。面長でのっぺりと色が白く、暗闇に生息する爬虫類のような、生理的嫌悪を呼び起こす顔だった。

 フラッシュバック。

「あああっ!」


 我に返ると、拳がずきずきと痛んだ。手袋は血にまみれていた。その先に、もはや原型が判別できない程に歪み、変形した研究員の顔があった。

「……う」

 弱々しい呻き声をあげる。辛うじて息はあるようだった。無残に腫れ上がった瞼。その陰から僅かに覗く眼には、アキトの望んだ怯えがあった。
 アキトは研究員から拳をひいた。

「ひっ……」

 そんなアキトの挙動一つにも、研究員は怯えて身を竦ませた。さっきまで見せていた矜持は欠片も無かった。
 だが、そんな彼の様子を見ても、期待していたサディスティックな愉悦は得られなかった。
 代わりに湧き上がってきたのは、猛烈な罪悪感だった。自分が酷く汚い、虫けらに思えた。手当を施してやりたい、そんな衝動に駆られ、すぐにその衝動の馬鹿馬鹿しさに思い至る。

「目的の場所は判明したんだ。こんな所でのんびりしている暇は無い」

 口に出した後で、その言い訳がましさに気がついた。
 アキトは立ち上がった。変形した研究員の顔を見下ろしながら、一歩、二歩、後退りする。そして、逃げるように小走りに扉に取り付き、鍵を開けて部屋を飛び出した。
 部屋には、顔の変形した研究員の呻き声だけが残された。


・御礼

 脇役に多少なりとも感情移入してもらおうと、管理人様の「時の流れに」のキャラクター名を拝借いたしました。
 失礼をお詫びいたしますと共に、心より御礼申し上げます。

・其の参について

 ストライカーが接近戦を行なったのは、空中での130mmカノン砲の命中精度が低すぎたからです。
 また、描写はありませんが、ストライカーの最高速度は六連と同程度かむしろ低いくらいだという設定になっております。あくまでその装甲にしては速いなあ、くらいで。旋回性能や加速力に関しては月とスッポンな感じです。
 まあ、重力波推進とか使ってるのに反動くらいどうにかならんのか、とか、無理のある設定のような気もしますが、そんな事より重要な問題は、設定が自然に頭に入るような描写がなされていない事だと思います。
 精進します。

・其の四について

 間が空きました。申し訳ありません。
 今回は、アキトが「飢え」と「信仰」を手に入れる話にする予定でした。
 しかし尺を伸ばし、「飢え」の描写に一話を割く事にしました。
 二次創作として劇場版を見た人の想像に丸投げしよう、と思っていたのですが、それだとやはり感情的説得力に欠くと思えたからです。
 今回の話を分割した結果、全六話予定になりました。
 構成力の無さに恥じ入るばかりです。

・其の伍について

 上記の通り、アキトの「飢え」と「信仰」についての話、そしてそれらが木連式柔と繋がる話です。
 今回はアクションシーンが無くしみったれた感じですが、次回は肉弾戦が中心になる予定です。
 頑張って盛り上げたいと思います。


代理人の感想

・・・・・あ、なるほど。

ちょっと勘違いしてたみたいですね、失礼しました。

構成に関しては・・・・そんな感じでいいんじゃないでしょうか?

たとえプロでも一から十まで完璧に最初のプロットどおりに話を進められる程の、

高度な構成力をお持ちの人はそうそういませんから。

(無論、できればそれが理想ですけどね)


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