其の伍


 クリムゾン研究所、地下施設の最奥。
 主電源は断たれており、補助電源による照明は、部屋の全てを照らし出すのには光量が足りない。
 そんな薄暗がりの中仄かに浮かび上がるのは、部屋の中央に設置された水槽、その内部に満たされた溶液。溶媒中の糖を消費して、活動中のナノマシンが発光しているのだ。

 そして、ナノマシンの蛍火を身に纏い、水槽の中に眠り続けるヒトガタ。
 淡い光に照らされた肌は、まるで自ら燐光を発しているように白く、滑らかだった。微妙な曲線を描くその輪郭を彩るように、髪が、ナノマシンの起こす対流にたなびいている。人形のように整ったその面。閉じられた瞼が開いた時、その眼はどのような光を宿すのだろうかと想像させずにはおかない。

 部屋を照らし出すそれらの光は、しかし同時に影をも作り出していた。
 そしてその影にまぎれる、闇が凝ったような人の姿。編み笠を目深に被り、外套に身を包んでいる。
 その人物は正しく影であった。火星の後継者の暗部をつかさどる工作員。草壁の狂犬。男の名は北辰といった。


 つい、と、北辰は編み笠の縁を持ち上げた。
 面長で色白、狂犬と称されるには意外なほどに怜悧な顔立ち。だがその容貌は、触れるものを傷付ける刃物の鋭利さを宿している。
 不吉に染まった赤い瞳が、水槽にたゆたうヒトガタを見上げる。その双眸に浮かぶは賛嘆か、憧憬か。

 北辰の薄い唇が、くっ、と持ち上がった。狂笑。そのような表現がしっくり来る、禍々しい笑いだった。その笑みに歪んだ表情は、確かに狂犬の二つ名に相応しく、邪悪で血生臭いものだった。

 するりと、北辰は水槽に向けて歩を進める。
 体重が無いのでは、と思わせるように自然で、足音を立てない歩みだった。だが、確かに地面に足をつけて歩いている証拠に、北辰の歩いた後には足跡が残されていた。床を擦るような歩みにより、のたうつ大蛇のような跡が床に描かれてゆく。
 足跡は、大蛇を描く塗料は、赤黒かった。
 蛇の尾は、部屋の其処彼処にわだかまる影から伸びていた。赤黒い液体が、影から流れていた。
 影の中、積み上げられているのは無数の人体。いや、人体というには余りにばらばらで、人の形を成していない。無残に斬り殺され、襤褸切れのようになった白衣に包まれた、それはこの地下施設の研究員達だった。

 周囲に転がり血を流す、かつて人だったものたちを背に、北辰は水槽へと辿り着く。口元に刻まれた笑みが、深くなる。

 そして、血刀の斬撃が水槽へと送り込まれた。




 ごごん、と爆発音が腹を震わせた。
 アキトは鼓膜を痛めないよう耳を押さえていた手を離し、銃を抜いた。

 地下施設に潜入したアキトは、その最奥部に厳重にロックされた扉を発見した。彼は解除キーを持ち合わせていなかったので、プラスチック爆薬で爆破する事にしたのだ。

 四角く削られた扉の中心を蹴りこみ、部屋の中に飛び込む。

 視界に入ってきたのは、床に座り込んだ何者かに襲い掛からんとする編み笠の人影だった。その男は殺気と共にアキトに視線を投げ掛けたが、次の瞬間その眼は驚愕に見開かれた。その瞳は、血の色をしていた。

「――北辰!」

 男の正体を理解した瞬間、アキトの頭から全てが吹き飛んだ。北辰に襲い掛かられている人物が何者か、にすら意識が向かなかった。
 白熱する意識のままに、握った拳銃を撃つ、撃つ、撃つ。割れんばかりの銃声。マズルフラッシュが閃き、薄暗い部屋を眩く照らし出す。
 乱戦になることを想定していたので、今右手に握っているのはリボルバーではなくセミオートだ。だがリボルバーの倍以上の装弾数を持つそれは、あっという間に撃ち尽くされた。

「ちぃっ!」

 不意をうたれた筈の北辰は、襲い来る銃弾の雨をDFを展開して防ぎ止めた。同時に、傍にあった割れた水槽の陰に飛び込む。
 外れ、弾かれた銃弾が襲われていた人物の傍に着弾する。声を立てることも出来ず、怯え身を竦ませる人影。
 そこで初めて、アキトはその人物に目をやった。瞬間、視線が交錯する。

 金色の、瞳。

 時が、止まった。

 北辰は一瞬の硬直を見逃さなかった。水槽の陰より打たれた棒手裏剣が、アキトの頬を掠め、後方に抜けて甲高い音を立てた。
 アキトは、頬を走る痛みに我を取り戻した。一刻も早く遮蔽物に身を隠すべきだ、との判断が脳裏を走る。

 だが、身体が裏切った。気がつけば、身を竦ませている人物に向けて走っていた。

 走るアキトの後を追い、再び手裏剣が放たれる。本来ならば弾かれる筈のそれは、易々とDFを通り抜けアキトの身体に襲い掛かる。
 身に纏った防弾防刃コートがアキトの身を救った。棒手裏剣はコートに弾かれ虚しく地に落ちた。

 アキトは座り込んだ人影の下に辿り着いた。
 それは少女だった。人には有り得ない金色の瞳。衣類の類は身に纏っていない。桜色の髪が濡れて、その幼い肢体に張り付いている。彼女は明らかに遺伝子操作を受けていた。マシンチャイルド。
 少女の全身は、小刻みに震えていた。腰が立たぬのだろう、左腕をついて上半身を支えている。
 もう片方の手は、打擲から身を庇うように顔の前へと掲げられている。そしてその陰から、人形のように整った、しかし怯えきった面がアキトを窺っていた。
 何かがアキトの胸を抉り、その痛みが少女に腕を伸ばすのを躊躇わせた。

 手裏剣が飛来した。好機と見たのだろう、探るような一本ずつの投擲ではなく、数本が次々に襲ってきた。
 咄嗟にアキトは身を翻し、コートで少女と己を庇った。だが少女を庇った分動きが遅れ、一本の手裏剣が下腿に突き刺さった。

「ぐっ……」

 咄嗟に身を捻ったのが良かったのだろう。棒手裏剣の威力は僅かにそのベクトルをそらされており、傷はそう深くなかった。動ける。
 アキトは無機的に判断し、少女を荷物でも持つように腰の部分で脇に抱え、手近なクリーンベンチの陰に転がり込んだ。追撃は無かった。

 傍らに、荷物でも投げ捨てるように少女を放り出した。耳に飛び込んできた小さな呻き声を無理矢理黙殺し、足に刺さった棒手裏剣を引き抜く。
 見ればそれはただの鉄剣ではなく、何らかの機械が組み込まれているようだった。恐らくはフィールドランサー機構。個人用DFを抜く程度ならば、このサイズにも収まるという事らしい。
 舌打ちしてそれを懐に収め、代わりに銃を手に取る。空になった弾倉を交換し、スライドを引いて初弾を薬室に送り込む。
 そして懐から、左手でもう一挺の拳銃を取り出した。右手のそれより遥かに無骨なリボルバー。大口径のマグナムだ。
 両の手に拳銃を構え、遮蔽物の向こうの気配を窺う。恐らく北辰も同じようにアキトの方を窺っている筈である。大声で叫んだ。

「ユリカは何処だ!」
「……くくくっ、くくくく、くははははっ!」

 返って来たのは押し殺した笑い声。それはすぐに堪えきれぬような哄笑に変わった。

「まさかあの状況から逃げ延びていようとは、夢にも思わなんだわ。突然に飛び込んでくるゆえ、危うく遊びもせぬままに殺してしまうところであった」
「ぬかせ」
「くくっ、火星の鼠はしぶとい。まことにしぶとい」
「せいぜい吼えておくんだな。その鼠が貴様を殺す」

 遮蔽物を挟み、姿の見えぬまま声をかわす。会話をしながらも、相手が動きを見せれば即座に対応できるよう、常に気配を探っている。

 形としては膠着状態であるが、アキトは自身の有利を確信するに足る理由があった。
 アキトがクリーンベンチの陰に飛び込んだ時。後ろを見せたあの瞬間は隙だらけで、絶好の追撃の機会だった筈だ。だが、北辰は追撃してこなかった。
 フィールドランサー機能付き手裏剣などという高コストで応用範囲の狭い武器が、そう多量に用意されている筈が無い。おそらく、既に北辰は飛び道具を失っている。
 そして、左手に握られたマグナム。この威力ならば、北辰が盾としている水槽をぶち抜く事が可能である。

 アキトはマグナムを握り締めながら、北辰に問うた。

「貴様を殺す前に訊かなければならない。ユリカは何処なんだ」
「居らぬ」
「何?」
「此処の守備隊が必死で守っておったのは、貴様の横で震えておる試験体よ。貴様が飼っていたホシノルリと同じ、禁じられし遺伝子細工だ。懐かしかろう?」
「……」

 アキトは、傍らの少女を見た。
 少女もまた、こちらを見ていた。彼女はまだ、一言も口を利いていない。ただその眼に恐怖の色を浮かべている。
 彼女にとって見れば北辰もアキトも変わらぬ脅威なのだろう。出来る限りアキトから離れようとしながら、さりとて遮蔽物の陰より出ることも適わず、ただ身を竦ませている。

 少女はホシノルリとよく似ていた。瞳が金色である、と言うだけではない。人形のような繊細な顔立ちと白い肌、華奢な体躯。今は十五歳になっているはずのホシノルリより幾分か幼いが、それだけにナデシコ時代のルリを彷彿とさせる。
 もぞり、と黒いものがアキトの内部で蠢いた。少女は余りにルリに似ていた。昔の、幸せだった時代のホシノルリと。

 ルリは宇宙軍に入ったらしい。規格外のオペレーティング能力を買われて異例の高待遇を受け、巷では「電子の妖精」などと称されているそうだ。それ以上の詳しい事は知らない。故意に耳を塞いできたからだ。

 火星の仲間たちは死んだ。ユリカは遺跡に融合され、在りし日の生気を失ったただの彫像と化した。自分は夢を奪われ、故郷を奪われ、妻を奪われた。余りに惨めな自分たち。
 それに比べて、あの家族のたった一人の生き残りは、伝え聞く彼女の姿は、なんて輝いているのだろう。何故自分たちだけが、このような目にあわなくてはならないのだろう。

 バイザーの下、束の間沸き起こったアキトの感情を見て取ったのだろうか。少女は怯えの色を濃くし、身を固くした。
 アキトはその仕草に、己を映す鏡を見た。目を逸らす。
 何であれ、既に捨ててしまったものである。今の自分とは関係ない。


「……なら、お前を殺すだけだ!」

 纏わりつく思いを振り捨てるように叫んで、アキトはクリーンベンチの陰から飛び出した。
 同時に左手の銃を照準する。左腕に圧し掛かる重みに耐え、引き金をひく。連射。北辰が潜んでいるだろう水槽に、轟音と共に次々と弾丸が叩き込まれる。金属製の水槽の基部に、黒々と穴があいてゆく。

 もともと左手の射撃は命中率が良くない上に、北辰の姿を直接は視認出来ていない。的確な攻撃は望めない。しかし遮蔽物が意味を成さない状況で、襲い掛かるマグナム弾に耐え続けるなど愚の骨頂だ。
 だから北辰は、六発目が放たれ間が空いた瞬間、即座に遮蔽物から飛び出してきた。アキトは北辰を炙り出すことに成功した。
 スピードローダーを用いて装弾。

「死ね死ね死ね死ね!」

 マグナム弾がDFに弾かれる。マズルフラッシュに北辰の狂った笑みが浮かび上がる。細かく軸をずらし着弾の威力を殺し、駆け寄ってくる。獣じみた瞬発力で、手に血刀を携えて。
 アキトは横向きに駆けて迫り来る北辰から距離を取る。駆けながら右手の銃をも構え、二挺の拳銃を水平に突き出して銃弾を浴びせ掛ける。

 銃声銃声銃声銃声。
 瀬戸際の攻防。DFが切れるのが早いか、距離が詰まるのが早いか。

 左手の銃の撃鉄が、がちんと音を立てて空撃ちした。弾切れ。
 だが、右手のセミオートにはまだ十分に残弾がある。北辰は未だ此方に届かない。
 勝てる。


 北辰の左手が閃いた。
 文字通り、閃光のような動きだった。アキトの指が引き金をひく動きよりも速く、それは飛来した。
 北辰は飛び道具を残していた。罠に嵌められた。
 投擲された手裏剣はDFを貫き、右手の銃口に突き刺さっている。恐るべき精度。このまま引き金をひけば、暴発は間違いない。


 アキトが銃口に刺さった手裏剣に目をやった隙に、北辰は眼前に迫っていた。驚愕する暇も無かった。振り下ろされる斬撃。

「かはあっ!」

 北辰が、気合とも笑いともつかぬ呼気を漏らした。本能に刻まれた反射行動で、アキトは左手で己を庇った。
 可聴域ぎりぎりの高音が響き渡り、火花が飛び散って二人の顔を照らした。

「……ほう」

 北辰が驚いたような声を上げた。アキトはナノマシンの輝紋を浮かび上がらせながら、北辰を睨み据えた。

 アキトは北辰の斬撃を、左手の拳銃で受け止めていた。
 信じ難い事に、マグナムの銃身は真っ二つに割られ、刀身はシリンダーの半ばにまで食い込んでいる。
 斬鉄。
 もし銃を横にして受け止めていたら、刀は容易く銃を両断し、アキトの頭を断ち割っていただろう。だが咄嗟にかざした銃は、剣筋に対して縦に正対していた。だから辛うじて受け止める事ができた。
 そして、シリンダーに挟まれた刃はその動きを封じられている。アキトが銃を握っている限り、北辰は二撃目を送り込む事が出来ない。
 細い銃身で閃光の一撃を受け止めた事。刀の動きを封じた事。それは二重の偶然、いや、奇跡だった。


 力比べの形になった。
 北辰が両手で刀を握って押し込んでくる。血に濡れた刃が、眼前へと迫る。
 アキトは相手の膂力に戦慄した。まるで大人と子供だった。手首と握りの強さが、常識の範疇を超えている。斬鉄を可能とする北辰の剣には、速度だけではなく力も備わっている。
 目を見開いて舌なめずりしながら、興奮しきった声音で北辰が言う。

「くくく、堪らぬ芳香だ。噎せ返る硝煙と血の匂いだ。こうでなくては、こうでなくてはな」

 アキトには、硝煙の匂いも血の匂いも分からない。
 銃口に刺さった手裏剣のためにもはや無用となったオートマチックを、床に落とす。
 そして、空いた右手を左手に添えようとして、止めた。例え両手で耐えたとて、力比べで北辰に勝てる気はしない。

 ちらりと、月臣との稽古が頭を掠めた。死人が喋っているのかと思うような平坦な声音で解説しながら、淡々と人を地面に叩きつけてくれた。

 意外にあっさりと身体は動いた。切り込みに耐えていた左手の力を抜き、左足を引いて刃筋から身体をどける。一瞬前まで押し込んでいた勢いのまま、刀が前へと泳ぐ。刃を噛み込んだ拳銃を流すようにして刀の勢いを後押しし、別のベクトルを加えてやる。
 結果、北辰が僅かにバランスを崩した。

 アキトはその隙を逃さない。瞬間に右手を背後に回し、ベルトからナイフを引き抜いた。刃を上にして収められていたナイフを抜き打ちで、下から振り上げるような軌道で北辰の喉元へと送り込む。

 だが、刃は目標に届かなかった。
 北辰は、左手を刀の柄から離し、ナイフを振り上げようとする手首を掴んだのだ。
 大きい手だと思った。アキトの手首を包んでなお、指が余っていた。
 そして、手首が凄まじい握力で締め上げられた。アキトは逃れようとしたが、ぴくりとも動かなかった。体の芯にずしりと来るような、絞り上げられるような強い握りだった。
 アキトとて、ひ弱なわけではない。NSSに救出されてから、死に物狂いで体を鍛えてきた。ナデシコ時代と比べても、遥かに筋力が上がっている筈だ。
 だが、そんな変化など問題にもならないような肉体性能の差が、二人の間にあった。
 抗えない。
 先刻までは吹き上がるようだった殺意が、その勢いを減じるのを感じた。今まで北辰に見せ付けられた絶技の数々、それよりも何よりも、直接に感じる膂力の差がアキトを怯ませた。

 アキトは北辰を見上げた。ぎらぎらと赤い、左右で大きさの違う瞳が、アキトを見据えていた。

「今の動き、柔だな? 月臣あたりから学んだのであろう」

 北辰は問うた。アキトは答えなかった。ナノマシンの輝きが弱まっている。北辰は嗤い、構わずに続けた。

「だが、付け焼刃の柔が我に通ずると考えるは、あまりに浅墓」

 ぎりり、とアキトは歯を食いしばった。顔の輝紋が強く輝いた。
 まだだ。まだ終わりじゃない。
 ぴくりとも動かない右腕。だがナイフの刃は、北辰の胴へと向いている。アキトは右手の親指で、ナイフの柄のスイッチを押した。
 ナイフには、強力なスプリング機構が仕込まれていた。開放されたスプリングは爆発的な力を発揮し、柄から刃を射出した。

 至近距離から射出された刃を、北辰はあっさりとやりすごした。半身になり、アキトの右側に身体をかわしたのだ。外れた刃は奥の壁にあたって、虚しい金属音を立てた。
 北辰はアキトの手首を捻った。激痛。アキトは握っていたナイフの柄を取り落とした。
 捩じ上げられた右腕は、掌・肘裏を上に向ける形で伸ばされている。肘の関節が極まり、棒のように一直線になった腕で肩を押し上げられて、アキトは爪先立ちに近い形で仰け反った。

「皆伝を得、修羅に身を沈め、人血にて磨き上げし我が柔。月臣の如き目録止まりの若造の及ぶ所ではないぞ?」

 ふ、と北辰が身を沈めた。押し上げられていた右腕を引かれ、アキトは前につんのめる。
 瞬間、衝撃がアキトの腹に爆裂した。

「……っ!」

 声をあげる事もできない。腹部に圧倒的な力積を叩き込まれたアキトは、まるでゴム毬のように吹き飛ばされた。地面と水平に数メートル近くも宙を舞い、壁際に積み上げられた山をクッションにしてその中に突っ込む。トラックに跳ねられたとしてもこうはならないだろう。
 装備重量も含めれば八十キロに達するアキトの体。それを軽々とこれ程の勢いでもって跳ね飛ばす打撃。人のよく為し得る所ではない。
 アキトはのたうち、胃液を吐き散らした。吐瀉物には、どす黒い血が混じっている。内臓が傷付いたのかもしれない。
 腹部のプロテクターには、北辰の掌の痕がくっきりと刻まれていた。プロテクターが無ければ間違いなく命は無かった。
 アキトは痙攣する横隔膜をなだめながら、立ち上がれずに這いつくばっていた。




 腰を落とし両の手を眼前にかざして残心をとっていた北辰は、しなやかにその両手を下ろした。足下に落ちた刀を拾い上げ、刺さっていた拳銃を抜き、アキトを見やる。

「木連式柔は歪曲場技術に対応して編まれた。ならば、それを用いた打撃があっても不思議ではなかろう? 生身で喰らった歪曲場攻撃の味はどうだ? 月臣はこんな芸当を見せてくれたか?」

 語りかけながら、するするとアキトに歩み寄る。足音を立てず、滑るように。
 アキトは北辰を睨みながら、しかし立ち上がれなかった。北辰が眼前に到達したが、アキトは這いつくばったままだった。
 北辰は片足を上げ、それをゆっくりとアキトの頭に降ろした。ぐちゃり、と湿った音がして、頭を踏み躙られる。
 顔面を地面に押し付けられ、そこで漸くアキトは床に粘性の液体がぶちまけられている事に気付いた。赤黒い。
 頭上より北辰の声が投げ掛けられる。

「理想無き復讐人、貴様が到達できるのは所詮この程度よ。ネルガルの如き奸賊に組する月臣も同じこと。我ら火星の後継者が理想の、糧となって果てろ」

 それは、許せない言葉だった。
 アキトは、頭を踏み付ける北辰の足首を両手で掴んだ。それは余りに重く、びくともしなかった。
 アキトは無様に尻を突き上げる形で膝立ちになった。足首を無理矢理押しやって、強引に頭を引き抜いた。床と靴底に擦れた耳が、僅かに痛んだ。顔の感覚が正常ならば、痛みは僅かどころではなかったろう。
 アキトは立ち上がった。足下が覚束ない。疲労に四肢が重く呼吸は荒いが、腹部の痛みのため深く息を吸えない。コートの裾からぽたぽたと液体が滴っている。
 北辰はその様を黙って眺めている。

 全ての武装は使い果たしていた。どう足掻いても勝てない。
 アキトは唯一残された思いに縋るようにして、北辰に向けて言い募った。顔にナノマシンは輝いていなかった。

「皆、死んだんだ。貴様らに殺されたんだ。何が『火星の後継者』だ! 貴様らが名乗っていい名前じゃないんだ! 貴様らを皆殺しになければ、俺は、俺は……!」

 北辰は舌打ちして、汚いものを見るような眼をした。

「惰弱」

 無造作に振られた拳が、アキトの頬をしたたかに打った。アキトは為す術も無く後ろに倒れた。

 どさり、と何か柔らかいものがクッションになった。そう、先刻北辰に飛ばされた時も、それが衝突の威力を和らげてくれたのだ。
 アキトは背後に手をやった。ぬるりとした感触があった。見れば、赤黒い何かが手に粘りついている。床にぶちまけられていた液体だ。
 目前の北辰にも関わらず、アキトは反射的に背後を振り返った。

 転がっているのは、赤赤赤赤、黒く染まる赤。床に突き立つ足。奇妙に捻くれた腕。虚ろに濁った目で此方を見つめる生首。狂ったオブジェ。

「機密保持だ」

 北辰が言った。アキトは振り返った。
 薄暗い部屋、ぼんやりと輪郭があたりに染みるような中を、編み笠の影が近付いてくる。
 影は圧し掛かるように巨大で、何をしても通じない。辺りには死体の山。

「うああああっ!」

 アキトは恐怖の叫びを上げた。




「お客様、」

 話し掛けた添乗員は、台詞を言い終わらぬうちに頭部をぱっくりと割られた。椰子の実のような割れ目からぼたぼたと血と脳漿が混じった液体を滴らせ、糸が切れたように崩れ落ちた。
 シャトルを一瞬の沈黙が包み、そして恐慌が巻き起こった。
 悲鳴をあげ、逃げ惑う乗客達。彼らを追い、屠殺してゆく編み笠の男達。席を立とうとして転んだ上品な老婆が斬られた。腰を抜かし、へたり込んでいた実業家風の男が斬られた。浅ましくお互いを盾にしていたカップルが斬られた。妻と幼い子供を両腕に抱き締め庇っていた中年男性が、家族と共に斬られた。
 ユリカは声を上げなかった。怒りに満ちた目で編み笠の男達を睨み据え、アキトの手をぎゅっと握っていた。アキトはそんなユリカを背後に庇い、乗客たちが斬られる様を呆然と見ていた。がたがたと足の震えが止まらなかった。
 殺された人々から流れる血を目で追った。血が床を伝い、震える足の傍に辿り着いた。
 顔を上げると、編み笠達の首領らしき男が目の前にいた。義眼なのだろうか、左右の大きさが違う赤い瞳。面長でのっぺりと色が白く、暗闇に生息する爬虫類のような、生理的嫌悪を呼び起こす顔だった。

「あ……」
「ミスマルユリカとテンカワアキトだな。新たなる秩序の、礎となってもらう」
「あああっ!」

 叫んで、ユリカの手を離して殴りかかった。足下が定まらずに放ったパンチは完全な手打ちで、しかも力みすぎてのろく、無様な物だった。
 拳は男の掌に阻まれた。そのまま、拳を握られる。指が手の甲に食い込んで激痛が走り、アキトはその痛みに思わず膝を折った。
 首領らしき男はにたりと口元を吊り上げ、赤い舌で嫌らしくその薄い唇を舐めた。男の言葉の意味はアキトには分からなかったが、その笑みで、アキトは男がどのような人物かを知った。

「ひっ……」

 口から漏れたのは、恐怖の叫びだった。怯えた眼で男を見上げた。ユリカの前だった。だが、それを意識する余裕は無かった。何か暖かいものが、股間を濡らした。

「た、助け……」

 衝撃が首筋から頭にかけて走った。ユリカの悲鳴を聞いたような気がして、それから気が遠くなった。




「ああああっ!」
「五月蝿い」

 絶叫するアキトの顔を、北辰が蹴り飛ばした。
 アキトは横向きに倒れ込んだ。頭の半分を斬り飛ばされ、舌をだらんと垂らした生首が眼前に転がっていた。その白濁した目が、じっと此方を見つめている。ゆるゆると諦めが染み込んできた。
 自分はもうコックにはなれない。パイロットとしてのプライドも打ち砕かれた。ユリカの王子様である資格も無い。復讐すらも果たせない。
 勝てない、勝てない、勝てない。

「……折れたか。負け犬が」

 興醒めしたような北辰の声。
 否定出来なかった。今の自分は確かに負け犬だ、アキトはそう思った。屈辱すら覚えなかった。
 出来るのは、ただ逃げる事だけだった。蹲ったまま北辰に見えぬように、胸元からCCを取り出した。

「……待てい!」

 割れ鐘のような怒声が響き渡った。
 見抜かれた! アキトは身を固くした。
 だが、北辰はもはやアキトを見てはいなかった。





 北辰は地面に落ちていた腕を素早く拾い上げ、くの字に曲がったそれをブーメランのようにして投擲した。
 投げられた先には、覚束ぬ足取りで出口へと向かっていた裸の少女がいた。
 悪趣味なブーメランは、狙い違わず目標の背中に直撃した。

「あっ」

 弱々しい叫びを上げて、少女は床に倒れ込んだ。
 華奢な少女にとって、腕を投げつけられた衝撃は棍棒で殴られたにも等しいものだったろう。小さく咳き込み、咄嗟には起き上がれぬようだった。
 それでも少女は立ち上がろうと、床に手をついて上体を起こした。
 北辰はそれを見過ごさない。例の滑るような足取りで少女に歩み寄り、彼女の必死さを嘲笑うように、その長く伸ばされた桜色の髪を掴んだ。
 その細い首に、暴力に耐える力は無い。髪を引かれ、少女は仰け反って白い喉を露わにする。

「くく、我より逃げられると思うたか、遺伝子細工よ」
「……」

 北辰は少女の顎を掴み、強引に自らの方を向かせた。恐怖に見開かれ涙に潤んだ金の瞳で、少女は殺戮者を見上げる。

「この肌の白さ、碌に日の光を浴びた事もないのであろう?」

 嬲るように、北辰の指が少女の肌を撫でる。それを嫌い少女は指を払いのけようとしたが、その手はあえなく掴まれ、動きを封じられた。

「細い手首だ。脆い骨格だ。それにその髪、その瞳。何たる不自然、何たる脆弱」

 北辰は邪悪に口角を吊り上げた。

「……だが、美しい」

 薄い唇が僅かに開き、その隙間から赤い舌が覗く。唾液に濡れ光る舌を少女の頬に伸ばし、舐め上げる。
 白い肌に唾液の跡が描かれる。少女の顔が、嫌悪に歪む。





 アキトは蹲ったまま、その様を見ていた。北辰は今、アキトに興味を無くしている。
 絶好の機会だった。この隙にCCを発動してジャンプするべきだった。どのみち、今はこれ以上北辰と戦う術は無いのだから。負け犬に為す術など無いのだから。

 だがやはり、アキトの身体は走り出していた。この部屋に飛び込んだときと同じように。
 今のアキトに北辰に立ち向かう事など考えられなかったし、だから走り寄ることに泣きたい位の恐怖を覚えながら、それでもアキトは、腹部に走る激痛を堪えて叫んだ。

「北辰んん!」

 アキトは拳を振り上げ、殴りかかった。戦闘訓練で教え込まれたものとは全く違う、大振りのみっともないパンチだった。
 編み笠の暗殺者は、振り返りすらしなかった。僅かに頭を振って拳をかわし、その手首を掴んだ。同時に腰を沈め、それを駆け寄るアキトの腰に当てた。

 くるり、とアキトは一回転し、床に叩き付けられた。辛うじて受身は取れたが、仰向けになったアキトの胸に踵が打ち込まれた。DFの打撃によって痛んだプロテクターは、満足に衝撃を殺してくれない。

「が、はっ」

 北辰は悶えるアキトを冷然と見下ろし、吐き捨てた。

「負け犬ならば負け犬らしく、尻尾を巻いて逃げ帰れば良いものを。折れた者が我の邪魔をするな」

 貴様には殺す価値も無い、北辰はそう言っていた。アキトはそれに抗う言葉をもたなかった。だから、北辰の声音に込められた微かな期待の色に気が付かなかった。

 アキトは息を吸い込もうとして、顔を顰めた。二度の打撃を受け、肋骨の数本は確実にへし折れている。呼吸するたびに痛みが走る。脂汗が浮き出る。
 のろのろと芋虫のように、身体を仰向けからうつ伏せに転がした。激痛が走った。目を瞑り、痛みをやり過ごす。

 喘ぐようにして、顔を上げた。視界に、桜色の髪の少女が入ってきた。
 少女は竦んでいた。血塗れになって這いつくばる黒衣の男と、黙然と見下ろしてくる編み笠の暗殺者を交互に窺いながら。閉じられた世界に住んでいた彼女にとって、二人の闖入者は等しく暴力で脅威なのだろう。
 アキトは少女に向けて這いずった。少女は後退りする様子を見せたが、それだけだった。立ち上がり駆けるだけの力がもはや無いようだった。
 北辰から彼女を庇わなくてはならない。どさり、と圧し掛かるようにして、アキトは少女に覆い被さった。少女の全身が硬直するのが分かった。

「ぐ……」

 押しのけようとした少女の手が折れた肋骨を押し込み、アキトは苦痛の呻きを漏らした。ぱたり、と汗が床に滴る。呻き声に怯んだのか、彼女はすぐに手を引いた。かたかたと、全身が小刻みに震えている。人形のような外見からは意外なほどに高い体温が感じられた。

 アキトを止める事も無くじっと観察していた北辰は、やがて口を開いた。

「逃げぬのか? ならば貴様を殺し、実験体を回収するとしよう」

 言って、ゆっくりと一歩踏み出した。

 北辰の言う通りだった。敵に背を向けて蹲り少女を庇っていたところで、結果は何も変わらない。何も出来ない。追い立てられて、逃げる事しか出来ない。
 それを実感した瞬間、諦めの中に誤魔化してきた惨めさが、一挙にアキトに襲い掛かってきた。その質量は余りにも膨大で、半端な意地や復讐心を襤褸切れのように押し流した。

 どうして俺はこんな風に蹲ってなきゃならないんだ? ぼろぼろに打ち負かされて、みっともなく這いつくばって。どうして俺はこんなにもちっぽけで、弱っちいんだ?
 余りに惨めじゃないか。余りに理不尽じゃないか。

 べちゃり、と血の染みた足音が一歩近付く。

 それに反応して、少女は一層固く身を縮こまらせた。アキトは膨れ上がる屈辱に、身を震わせた。彼の震えを感じ取ったのだろう、腕の中の少女が身動ぎした。そして縋るように、アキトのコートをぎゅっと掴んだ。
 哀れな少女。自分と、同じ。
 圧倒的な圧力で満ちる惨めさはアキトの身の内にのみ止まらず、腕の中の少女にも及んだ。慟哭が溢れる。

 どうして、この子がこんなに怯えていなきゃならないんだ? 北辰と同じ恐怖の対象であった筈の自分にすら縋ってしまう位に。蹲るしか能の無い自分にすら頼ってしまう位に。
 余りに惨めじゃないか。余りに理不尽じゃないか。

 べちゃり。また一歩、近付いてくる。

 少女の手が、アキトのコートでは無く腕を握った。両の手で手首を握り、胸に抱え込むように縋りつく。
 救いたい、強く思った。心から願った。
 自分は駄目かもしれない。でもせめて、この腕の中で震えるか弱い存在にだけは、助かって欲しい。理不尽の暴虐に、呑まれないで欲しい。こんな薄暗い部屋ではなく、光の下で笑って欲しい。そう祈った。

 頬に触れる、桜色の髪。それは余りに柔らかで、今のアキトにはその感触を知る事が出来ない。
 見れば、少女もまた此方を見上げていた。怯えに潤んだ目にひたむきな色を浮かべて、アキトを見ていた。何を思うのかは分からない。ただ、その瞳の強さがアキトを貫いた。


 金色の、瞳。




「私にも何か、お手伝いさせて下さい」

 そう言ってルリはアキトを見上げた。普段は冷めている彼女の一途な視線に、アキトは少したじろいで咳払いをした。ルリもそんなアキトの仕草で、妙に必死になっている自分に気付いたのだろう。取り繕うように冷静な表情に戻る。

「い、いや、ルリちゃんがそんな事気にする必要は無いんだよ」
「アキトさんは仕込みのために早起きして、夜遅くまで屋台をやって、その上私達の食事まで作ってます。これは明らかにオーバーワークです。扶養者であるアキトさんに倒れられては私としても不都合ですし」
「好きでやってる事だからさ、心配しなくても大丈夫。その気持ちだけで十分だよ」
「……」

 そう言うとルリは黙ってしまった。無表情ではあるが、そこはかとなく落ち込んだ気配が漂ってくる。アキトは自分が何か悪い事をしたような気になって、次の言葉に悩んだ。何となく気まずい空気が流れる。

「でも、そうだよね。やっぱり奥さんとしては旦那様の食事くらいは作ってあげるべきだと思うの。何時までもアキトに頼ってばかりじゃ駄目だよね」

 気まずい空気を、底抜けに能天気な声が吹き飛ばした。ユリカである。彼女はいかにもいい案を思いついたという風に、ぱちんと両手を打ち合わせた。

「だから、これからご飯の支度は私が」
「「それは止めろ」て下さい」

 二人が即座に突っ込む。ユリカはいかにも不満そうに唇を尖らせたが、すぐに機嫌を直して言った。

「じゃあ、やっぱり屋台の手伝いを頑張るしかないね」
「今のままで十分だよ」
「看板娘の私は、やっぱり戦力としては外せないよね。看板娘。いい響きだよねー。お客さんも一杯来てくれて、冷やかされたりして。お嬢ちゃん可愛いね、旦那さんが羨ましいよ、仲が良いね、ラブラブだね、だってアキトは私の王子様だから」
「聞けよ人の話を」
「あと屋台に足りないものって言ったら、そう、チャルメラ! ルリちゃんにはチャルメラを吹いて貰いましょう!」
「ルリちゃんにそんな事させられないよ。夜も遅いしさ」

「やらせて下さい!」

 突然張り上げられた大声に、二人ともきょとんとしてルリを見る。二人の視線を浴びせられ、ルリは僅かに顔を赤らめた。しかし口調だけは冷静に考えを述べる。

「失礼ながらアキトさんの収入は決して多いものではないです。そんな苦しい家計の中、私だけがのうのうと働きもせず暮らしている訳にはいきません。そもそも私はユリカさんになし崩しにくっついてきたようなものですから、尚更負担は掛けられません」

 収入が少ない、家計が苦しい、のくだりでぐさりと胸に突き刺さるものを感じたアキトだが、続く言葉は聞き逃せなかった。

「……ルリちゃん」
「何ですか」
「あのさ、そんなのホントに気にする事ないんだよ。そりゃ、俺は確かに甲斐性は無いかもしれないけどさ。屋台だって、ナデシコの奴ら以外にも常連さんも出来始めたし。親父とお袋が死んでから俺ってずっと一人だったし、確かにこんな狭い部屋でユリカにもルリちゃんにも苦労掛けると思うけどさ。……あーゴメン、俺、頭悪くて上手く言えないんだけど」
「つまり、ルリちゃんは家族だって事だよね!」

 喋っているうちに自分でも何がなにやら分からなくなったアキトの後を、ユリカが継ぐ。太陽のように朗らかに笑って言う。

「そして苦労は家族で分かち合うものです。だからルリちゃんはチャルメラ係! 決定!」
「いや、だから……」

 アキトはユリカに反駁しようとして、止めた。ルリの顔が微かに綻んでいたからだ。それは日の光を浴びた蕾の綻びのようにおずおずとした、しかし確かな喜びの発露だった。

「……ま、いっか」

 頭を掻いてひとりごちる。
 そのまま、ごろりと横になる。狭苦しい四畳半であるから、三人も入っていれば相当に狭苦しい。うち一人が横になれば余分のスペースなど殆ど無い。碌に家具が無いので助かっているようなものだ。
 窓から西日が差し込んでいる。宙を舞う埃が、日の光を浴びてきらきらと輝く。

「アキト?」

 ふ、と光が遮られる。逆光のせいでアキトは一瞬その影が何か認識し損ねた。さわり、と落ちかかる髪の毛が頬を撫でる。
 見れば、ユリカの顔が驚くほど近くにあった。きょとんとした表情で此方を見つめてくる。昔から変わらない、能天気な顔。他人を振り回してばかりで、何も考えていないようで、そのくせ何時だって道を誤らない。

「全く、お前にゃ敵わないな」
「え?」
「何でもない」
「ふぇ、ふぇ?」

 アキトはユリカの頬を摘んで左右に引っ張った。口の端を引き伸ばされて、間の抜けた表情で奇妙な声を上げるユリカ。

「ぷっ、はははは」
「ぷふぇ、アキト、酷いよー」

 思わず吹き出したアキトに、開放されたユリカが抗議する。アキトは起き上がってルリを見た。少し前なら「馬鹿ばっか」と冷めた視線を向けてきていただろう彼女は、今は戸惑ったような顔でこちらを見ていた。
 アキトは彼女に向き直り、言った。

「じゃ、これから宜しくね、ルリひゃ、ふへ?」
「アキトなんてこうしてやるー」

 背後から腕を回したユリカが、アキトの頬を引っ張っていた。決まらない事甚だしい。
 ルリは全く冷静に指摘した。

「アキトさん、その顔間抜けです」
「ぷは、離せって、ユリカ。ほら、ルリちゃんに呆れられたじゃないか」
「先にやったのはアキトでしょ」
「……でも、嬉しいです。此方こそ宜しくお願いします」

 ルリは笑って言った。先刻のような微かな物ではなく、はっきりとした笑みだった。そしてそれはとても魅力的だった。

「……うん」
「良かったね、ルリちゃん!」

 我知らず、笑みが零れてくる。ユリカもにこにこと笑っている。
 西日の差し込む、狭苦しい四畳半である。しかし、三人とも笑っている。笑っている。






「くっく、は、げほっ、は、ははは」

 アキトは笑った。笑うと折れた肋骨に振動が伝わって、とても痛かった。咳き込んだ時に口腔内に満ちた液体は、おそらく血だろう。
 桜色の髪の少女が、アキトの腕を抱えて見上げてきている。金の瞳には恐怖と不安と戸惑いがある。アキトは、少女の頭をそっと撫でた。

 ああ、自分は一体どうして忘れようとしたのだろう。何を捨て去るつもりだったのだろう。耳を塞ぎ目を閉じて、何から逃げていたのだろう。


 『あの忘れえぬ日々。そのために今、生きている』


 立ち上がる。
 がくがくと膝が笑っている。俯いて、くつくつと笑いながら、胸と腹に走る痛みを堪えて、少女を背に北辰に向かう。
 北辰が立ち止まり、問い掛ける。

「何を笑う? 狂うたか、テンカワアキト」
「狂ってるのは貴様だろう、変態ロリコン蜥蜴野郎」

 口内に溜まった血を吐き捨てて、アキトは言った。俯いていた顔を昂然と上げて、目の前に立つ暗殺者を真っ直ぐに見据えた。

 失われてはいないのだ。あの西日の差し込む部屋で笑っていたあの子は、今も生きているのだ。光の下で輝き続けているのだ。
 ならそれで、それだけでこの世界には価値がある。ぼろぼろに打ち負かされて、みっともなく這いつくばって、それでもまた、立ち上がることが出来る。

「お姫様に手を出すのは早い。俺はまだ立っている」

 彼の心の高揚に呼応して、ナノマシンが輝く。輝紋が、顔だけではなく全身にまで及ぶ。甲高い共鳴音が響く。

 向けるべき武器も無く、ただ両手を上げて構える。半身になり腰を落とし、軽く開いた右手は顎の下へ、左手は相手と結ぶように前へ。月臣に習った柔の構え。
 北辰は沈黙し、刀を納めた。そして突然、破裂したように笑い出した。

「ふ、ふ、ふはははははは! 合格、合格だテンカワアキト! それを待っていた、恐怖に折れるともまた立ち塞がる、その眼差しを待っていた!」

 大きく口を開き哄笑しながら、しかし赤い目は見開いてアキトを見据えたまま言う。

「そそられていた、貴様があの黒い機体で現われた時から。そして貴様は、我の期待に応えた。これ以上ない素材だ」
「ホモの気まであるのか? 悪いが願い下げだ」
「だがまだだ。まだ足りぬ。貴様が後生大事に抱えるその弱々しさを、打ち砕かなくてはならぬ。憎悪の炎に芯まで焼き尽くされた時、貴様は我に到るだろう」
「俺は、お前のようにはならないよ」
「まずは貴様の背中の妖精だ。守ろうとした者を奪われ汚され、貴様の怒りは燃え盛る。妻を救えなかった絶望に、貴様の憎悪は燃え滾る。……楽しみだ」

 アキトの言葉を無視して、北辰は語る。
 語り終えた時、雰囲気が変わった。
 見開いていた眼を細め、顎を引いている。両の手は自然体に降ろされ、無手のままではあるが、僅かに腰が落ちている。
 鯉口を切られた刀のような、装填された銃のような。

「では、行くぞ」

 哄笑の名残を口元に刷きながら、北辰は無造作に間合いを詰めた。
 アキトは反応できなかった。怪我と疲労で集中が保てないという事もあった。だが何よりも、北辰の間の盗み方が絶妙だった。
 突き出された左手の内側、アキトの懐に身を滑り込ませる。アキトは咄嗟に、残った右手で迎撃しようとする。突きを入れるには距離が近すぎる。肘。
 瞬間、掌で顎をかち上げられた。がちん、と歯がぶつかる音がして、耳の後ろに抜ける重みを感じた。
 転落感。
 そして、重力。一瞬意識が跳んだようだった。耐えられたのは、筋肉が締まり首が固定されていたからだ。筋肉が締まっていたのは、強い決意があったからだ。
 アキトは砕けかけた膝を無理やり立て直し、目前の北辰に掴みかかった。北辰はかわさなかった。掴みかかるというよりは、寄りかかったような形になった。

「良く耐えた」
「やられる訳には、行かないんだよ」
「だが、今の貴様は此処までだ」

 寄りかかるアキトの腹を、衝撃が突き抜けた。密着状態からの打撃。
 北辰のDF装置も、もうバッテリー切れなのだろう。先刻のようなDFを用いた攻撃ではなかった。だがそれは人一人を悶絶させるのに十分な威力を持っていたし、既に肋骨を折られていたアキトにとっては尚更だった。

「かっ、」

 息が止まる。口から血が滴る。床に落ちた血に、きらきらとナノマシンが輝く。
 アキトは激痛に身体を折る。ずるり、と北辰を掴んでいた手が滑り落ちる。

 激震。

 凄まじい振動が部屋を襲った。轟音と共に天井が崩壊し、鉄骨やコンクリート、建材の破片が降り注いだ。
 落下する破片が、部屋の実験機材を破壊してゆく。クリーンベンチのガラスが割れ、フラスコもビーカーも微塵に砕ける。辺りに転がっていた研究員の死体が潰れ、埋まってゆく。
 息も出来ないほどに砂煙が舞い、視界が塞がれる。

 狭隘な視界の中、周囲を圧し堂々と立つ影がある。
 純白の巨人。地下での営みの全てを卵の殻でも割るように崩壊させ、巨人は轟然と辺りを睥睨する。人の及ばぬ力でもって、威風堂々と君臨する。
 白く塗られた人型兵器。エステバリスspl。大戦中、常に一線級の機体として活躍し、無数の戦訓を下に洗練されたその機影は、磨きぬかれた兵器としての気品と力に満ちている。


 一瞬の自失。それが勝負を分けた。
 北辰は、現われた機動兵器に気をとられた。当然である。アキトは北辰を相手にするにはまだ未熟すぎたし、しかも殆ど半死人だった。だが新たに登場したエステは明確な脅威なのだ。
 大してアキトには余裕が無かった。怪我と痛みで、目の前の相手以外に意識を向ける事が出来なかった。

 アキトは北辰が意識を外した瞬間に、懐に手を入れた。
 武装は残されていた。北辰が打ち放った、フィールドランサー手裏剣。それを固く握り締め、残された全力を込めて北辰の眼窩に突き立てた。

「がああああっ!」

 北辰が叫び、腕を振った。アキトは頬をしたたかに殴られて吹き飛ばされた。だが、握り締めた手裏剣は離さない。手裏剣とともに、北辰の眼球が引き抜かれた。

 眼窩を押さえながら、北辰が残された眼でアキトを睨む。押さえた手の下から、ぼたぼたと血が滴っている。怒りと屈辱に見開かれた赤い眼は、ぎらぎらと狂的な光を浮かべている。
 牙を剥くように、口が開かれる。


『テンカワ! ……狂犬、貴様もか!』

 エステの外部スピーカーから、怒声が響いた。月臣の声である。
 巨人が動く。人間など原形も止めず潰せるだけの質量をもった拳が、北辰に打ち込まれる。轟音と共に床が陥没する。北辰は素早く飛び退いて回避する。衝撃で、倒れていたアキトが転がる。

『ちっ……。時間が無い、乗れ、テンカワ』

 転がったアキトに向けて、エステの手が伸ばされた。
 アキトは首を横に振って、部屋の一点を指し示した。伸ばされた指の先には、落下する破片から頭を庇い、蹲っている少女の姿があった。

「彼女が先だ」
『あれは……、分かった』

 月臣が事情を察したのかどうかは分からないが、とにかくアキトの言を容れられ、エステの腕は少女に伸ばされた。少女は逃げる様子も無く、素直に巨人の手の中に納まった。
 アキトもよろよろと立ち上がり、巨人の掌へと向かう。その間にもエステの頭部センサーは、油断無く北辰へと向けられている。

 去り行くアキトの背に向けて、北辰の声が投げ掛けられた。先程の狂的な怒りの名残はないが、やはり歪んだ喜悦に満ちた声音だった。

「くははっ、まあ良い。その妖精はひとまず貴様に預けておこう。クリムゾンの狐どもの玩具にされるのも癪な事ではあるしな。我の義眼は、その駄賃だ」
「こんな汚い目の玉など、必要無い」

 アキトは答え、握った手裏剣から義眼を引き抜いて地面に落とし、踏み潰した。そのまま、どさりとエステの掌、少女の隣に腰を下ろす。

「貴様のロリコン仕様じゃ細すぎた。次は、どでかいのをぶち込んでやる」

 座ったまま、手裏剣を北辰に投擲した。狙いは正確だったが、鋭利な先端部分は目標に向かわず、ただ棒切れを投げつけたような形になった。
 顔面に向かって飛んで来たそれを北辰は受け止めて、にやり、と邪悪に口の端を吊り上げた。
 再び激震が走り、新たな機動兵器が現れた。腕が長く足の無い、猿に似た機体。六連は、北辰の背後に降り立った。
 北辰はアキトの方を向いたまま後ろ向きに跳んで、六連の掌にひらりと着地した。

「間も無く此処は爆破される。次が、楽しみだ」

 その台詞を最後に、北辰と六連はボソンの光に包まれ、消えた。




『俺達もぐずぐずしては居られん。テンカワ、月に跳べ』

 月臣が言う。

「ああ。それにしても、いいタイミングだった。どうして狂いも無くこの部屋に来れたんだ?」
『……? コミュニケで、座標と一緒に救援要請を出してきたのは貴様だろう』

 怪訝な声で、月臣が答えた。
 アキトには、救援要請を出した記憶など無い。しばし頭を悩ませ、そして弾かれたように隣に座る少女を見た。
 少女は、その金色の瞳でまっすぐにアキトを見ていた。ひたむきな、強い視線。そう、彼女はアキトを見ていた。『両の手でアキトの手首を握り』、胸に抱え込むようにして。
 アキトは自分の手首のコミュニケを見た。それからまた少女に視線を戻し、最後に天を仰いで、どさりと仰向けに倒れ込んだ。

 完敗だ。

『テンカワ、早く跳べ』
「ああ、分かった」

 答えて、アキトはイメージングを開始した。込み上げてくる笑いを堪えるのが大変だった。


・其の伍に関して
 長くなってしまいました。すみません。
 今回で一番時間を食ったのは屋台時代の回想シーンです。長すぎて緊張感を削ぐかとも思いましたが、掛け合いやユリカへの言及を入れたかったので、今の形になりました。しかしやはり贅肉を削り短く止めるべきだったかもしれません。どちらが良かったでしょうか。
 アクションシーンですが、エンターテイメントにけそけそとした屁理屈など不要なのではないかと考え、いっそ荒唐無稽にしてみました。肉弾戦は機動兵器戦に比べ視覚的な派手さに欠けるので、色々と馬鹿ガジェットを放り込むことで派手さを出そうとしてみたのです。
 しかし今一つ盛り上がりに欠けるように感じます。でも何がいけないのかどうも良く分からないので、宜しければアドバイスを賜りたいと思います。

・其の六に関して
 次は月臣が柔に対する信仰を取り戻す話です。
 本来アキトと月臣の二人が主人公だった筈なのですが、アキトパートが長くなったせいでバランスが悪くなった気がします。
 何とかフォローしたいと思います。


代理人の感想

楽しませていただきました・・・・って、え?

アキトと月臣のダブル主人公だったんですか?

うーむ、月臣の描写はあくまでもアキトのための伏線だと思ってました(苦笑)。

 

それはさておき、アクションシーンいいですね。

確かに荒唐無稽っぽくはありますが、作品世界から浮いていない限り(=納得力がある限り)

荒唐無稽はむしろ奨励すべきだと思います。だって無いと詰まりませんもの(笑)。

 

後、フラッシュバックのくだりですが、無くても確かにいいんでしょうけど

今回はあった方がどちらかと言えばいいかな、と思いました。

回想の前で流れがいったん小休止してるので、シーンを挟んでもそれほど違和感は無かったと思います。


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