其の六


「何で俺が奴の見舞いに行かねばならんのだ」

 厳つい顔が表示されたウィンドウに向かい、月臣は不機嫌に言い放った。だがウィンドウ内の男、ゴートは落ち着いた声音で淡々と言い返してきた。

『そう言うな。お前も弟子の状態は気になるだろう』
「弟子を取った覚えは無い。命令されたから仕方なく教えていただけだ。それも、奴にやる気が無いではどうしようもない」
『何でもいいから行って来い。これは命令だ』
「……」

 舌打ちして月臣はウィンドウを閉じた。

 あの男は顔に似ず細かい所がある。アキトと自分の折り合いが悪い事を察して、気を回したのだろう。
 面倒ではあるが、隊の長としては気配りが出来るのは悪い事ではない。思えばかつての戦友、秋山源八郎もそうだった。人を束ねる資質とは、そういうものなのかもしれない。
 つまり自分に人を束ねる才は無い、という事だ。

 ……何を今更。

 苦い自嘲が胸をよぎった。
 俯けば、纏った制服の黒がじわりと目に染みた。以前の稽古でアキトに汚されて以来、優人部隊の制服は身につけていない。汚れは落ちた。だが、アキトに言われたからというのではないが、それを纏おうとする度に、落ちたはずの血の染みが浮かんでくるような気がするのだ。
 今の自分には、喪服にも似たこのNSSの制服が相応しく思える。
 目を閉じ、今は亡き友の姿を思い浮かべた。友は白々と輝く制服に身を包み、毅然と背筋を伸ばして前を見据えていた。今の月臣には、余りに眩しい。

 一体誰が、偽りの正義に踊らされ親友を手に掛けた男について行くというのか。裏切り者には、狗の立場が相応しい。
 だがそれでも。薄汚れた身で暗がりを歩む今だからこそ。かつて友が抱いた理想に、眩く輝いていて欲しいと思う。

 月臣は祈るように胸に拳を当てた。だが彼は、もはや祈りを届けるべき何ものをも失っていた。




 月臣が病室に入った時、アキトはベッドに腰掛けて銃の分解整備をしていた。黒いシャツにスラックスというラフな服装。ベッドに置いたトレイの上に部品を並べ、シリンダーにブラシを通してカーボンを落としている。

「アンタか」

 アキトは顔を上げて月臣を見た。バイザーはしていない。その瞳は稽古で見た焦点の合わないものではなく、酷く真っ直ぐに月臣の目を射抜いてきた。

「すぐに済む。少し待ってくれ」

 黒いバイザーに隠された、どす黒い復讐の炎。稽古の間にそれを肌で感じてきた月臣は、初めて見るアキトの率直な眼差しに、用意していた刺のある台詞を投げるのを躊躇った。
 沈黙を了承と取ったのだろう、アキトは再び俯いて作業に戻った。

 油を染み込ませた布で部品を拭き清掃を終えると、銃の組み立てに入る。ばらばらになっていた部品が、瞬く間に組み上がってゆく。手先の動きは驚くほどに滑らかで、目隠しをしていても動きに遅滞は無いのではと思わせる。訓練の程が窺われた。
 確かに、復讐に賭ける彼の意思は並ではない。組み上がった銃は黒々と、彼の殺意を体現するように輝いている。

 部品のアタリを確かめているアキトに、月臣は問うた。

「もう起きて構わないのか」
「イネスさんは五月蝿いがな。別に問題は無い」
「治療は成功だった、と言う事か」
「……ああ」

 声に含まれた非難の響きを感じ取ったのだろう。アキトは銃を傍らに置き、改めて月臣に向き直った。
 何を言われるのかは承知している顔だったが、そこに後ろめたさが浮かんでいない事に月臣は苛立った。以前の能面のような無表情ではなく、内に秘めた意思が感じ取れる顔。だが彼がその表情を作れるようになるために、犠牲になった者がいる。

「お前はそれでいいのか?」
「いいのか、とは?」
「年端も行かない子供を戦場に引き摺りだして、そうまでして復讐を行なって、それで満足かと訊いているんだ!」

 先日のクリムゾン研究所襲撃の際に保護された少女は、ホシノルリと同じマシンチャイルドだった。イネス博士はアキトと少女との間にナノマシンリンクを形成し、そのオペレーティング能力を利用して、オモイカネ型コンピューターにアキトの五感をサポートさせる事を思いついたのだ。
 アキトはその案を受諾した。少女もそれを受け入れた。

 胸の悪くなるような話だと思った。
 幼い子供を実験材料にするクリムゾンは言うに及ばず、少女の弱い立場を利用して戦いに巻き込もうとするネルガルも、それを良しとするアキトも、肯定する事は出来ない。

 それでも、今の自分は狗なのだ。何も言うつもりは無かったし、だからこそアキトの顔は見たくなかった。平然と復讐の牙を研ぐ彼の顔を見れば、耐えられなくなる事は分かっていたからだ。
 女性と子供は未来への種子なのだ。慈しみ守るべきものでこそあれ、戦いに連れ出すなど考えられない。月臣に流れる木連軍人の血が、それを許さない。

「……貴様がそれを言うのか、元木連の貴様が。 火星で年端も行かぬ子供を殺したのは誰だ? 戦場にすら出られない人々を殺したのは誰だ? ……誰なんだ、言ってみろ!」

 アキトの激昂は月臣の義憤を容易く叩き潰した。

 彼は月臣の胸倉を掴み、荒々しく引き寄せた。今にも触れそうなほどに近付いた彼の面には輝紋が走り、微かな共鳴音を立てている。月臣を見据える目はかつて見た焦点の合わないそれとは違って、表情は憤激に歪んでいる。
 だがその奥に燃える炎は、確かに今まで感じてきた黒い怒りだった。

 火星の一般市民が死んだのは、地球政府が木連の存在を隠匿したからだ。此方は宣戦布告を行なった。責は、情報開示も避難措置も行なわなかった地球政府にある。
 以前は有効だったその抗弁は、アキトの怒りに対した今、何の意味もなさなかった。それを担保していた正義は、既に潰えているのだから。
 月臣はアキトに抗するだけの力を持たなかった。

「……蜥蜴め!」

 しかし、最後にアキトが吐き捨てた言葉は、月臣の心に猛然たる反発を呼び起こした。
 アキトの怒りの矛先は、月臣にはなく、理想を夢見た友にも勿論向かってはいない。彼の憎悪は、ただ草壁ら火星の後継者に向かっている。
 だが、例えそうだとしても、アキトの台詞は許容できるものではなかった。

『木星蜥蜴』

 地球人達は過去に木連人を人外に貶めてそう呼んだ。その言葉は今、貧困の只中にある木連人への侮蔑として用いられている。地球人の傲慢は、百年前と変わらず月臣の同胞達を傷付けている。
 心中に生じた激烈な怒りは、アキトには向かうものではなかった。何故なら彼は「火星人」であるからだ。彼の言葉は傲慢ゆえの侮蔑ではなく、虐げられた者の叫びだからだ。
 ただ月臣は、自分の中にこれ程の熱い感情が残されていた事に意外の念を覚えた。彼は唐突に気付いたそれに戸惑い、どう受け入れるべきか分からなかった。
 だから彼はアキトの激昂に反応できなかった。

 月臣の反応の無さに幾分か冷静さを取り戻したのか、アキトは彼を突き放した。しかし顔の輝紋はきらきらと発光を続けている。

「どれほど小さいものであれ、抗う牙を持つのならばそれを振るうべきだ。俺は、戦う意思を摘み取るつもりはない」

 吐き出した言葉には煮え滾る熱さが込められていた。その熱は月臣の肌をじりじりと焦がすようだった。
 彼は圧倒されながらも、しかし流されはしなかった。
 信じていた正義が潰えたとしても、木連人としての月臣に流れる倫理は、子供を戦いに巻き込む事を良しとしない。己の中にある思いに戸惑いながらも、彼はアキトの言を容れはしなかった。

 沈黙が降りた。

 ややあって、アキトは熱気を逃がすように大きく息を吐いた。ナノマシンの光がゆっくりと沈静化する。

「いや、今更あんたに言っても仕方のない事だ。それよりも、頼みたい事がある」
「……何だ、言ってみろ」

 アキトは頭を下げた。

「俺に、柔を教えて欲しい。命令に従うためではなく、本気でだ」

「時間が無い、以前にお前はそう言ったな。それは正しい。付け焼刃に柔を学んだ所で北辰に及ばん。いや、例え時間があったところで」
「……頼む」

 アキトは床に膝立ちになり、そして両の手をつき、深々と頭を垂れた。

「よせ」

 意表を突かれた月臣は、制止の声から動揺の色を消す事が出来なかった。アキトは月臣の声に従わず、土下座を続けた。
 アキトの姿は、普段冷笑的な態度を取っているだけに尚更惨めでみっともなかった。そして、例えどれほど嫌っていたとしても、このような形で相手を貶めて喜ぶ趣味は月臣には無い。

「よせと言っている」

 アキトは頭を上げない。先刻気炎を吐いたばかりの相手である月臣に、このような無様を晒すのは、彼にとってこの上ない屈辱である筈だ。
 月臣は、彼を見誤っていた事を認めざるを得なかった。決して好ましいやり方ではないが、泥にまみれる覚悟をアキトは示している。肉体の苦痛も精神の屈辱も厭わない、その言葉に嘘は無かった。
 そして、こうして頼み事をするのならば最初から媚びていれば良いものを、先刻の衝突でアキトは堂々と己の信ずる事を主張した。その愚直な正直さは、木連軍人であった月臣には良く馴染むものだった。
 だから彼は、少し譲歩する気になった。

「分かったから頭を上げろ」
「柔を教えてくれるのか」
「いや。だがお前の覚悟は分かった。……そうだな、身体が癒えたら鍛錬場に来い。そこでもし俺から一本取れたら、お前に柔を教えてやっても良い」

 と言っても、実際の所は断る口実を作っただけの事である。
 既に自身の柔は潰えている。そう考える彼には、「あの」狂犬北辰に勝てる自信が無かった。その自分に教えられたアキトが勝てるとは、尚更に思えなかった。
 散々に叩きのめし、俄仕込みではどうにもならない事を理解すれば、アキトも自分の望みが馬鹿げている事に気がつくだろう。
 そしてそうすれば、散々に打ちのめされながら尚も現実を認めようとしないアキトも、己の無力を理解する事だろう。
 そう考えたのだ。

 アキトはゆっくりと立ち上がった。月臣を見据えるその目には、敵意ではなく固い決意が浮かんでいた。その決意に答える気は月臣には無い。
 彼の内心を知ってか知らずか、アキトは彼を見ながらはっきりと口にした。

「なら、一週間後」
「……そんなに早くて構わんのか」

 アキトは無言で頷いた。
 ならば、此方から言うべき事は無い。
 月臣はそれ以上何も言わず、踵を返して部屋を出た。



 部屋を出たところで、誰かが月臣にぶつかった。
 かつては柔の使い手としてならした月臣だ。以前ならば、決してうっかりと誰かに接触するような事は無かった。
 気が抜けている。
 このような所からも己の衰えを自覚させられ、自嘲しながら月臣は謝罪した。

「すまん」

 言って、謝った相手がそこに居ないことに気が付いた。
 いや、違う。視界の下方に、何か桜色のものが揺れている。
 見れば、それは少女だった。クリムゾンの地下施設より、アキトと共に救出した少女。名は、何と言ったか。

 少女は月臣に答える事無く、黙って彼を見上げている。恐らく、アキトの部屋に向かう途中だったのだろう。
 その顔におよそ表情と言うものは浮かばない。光を浴びた事の無いような白い肌は余りにきめ細かく、陶器のように体温を感じさせない。自然には有り得ない金の瞳はまるで埋め込まれたもののようである。初めて見た時彼女は一糸纏わぬ姿だったが、誰が選んだものか今はフリルのついたワンピースに身を包んでいる。
 その顔立ち、その無表情と隠しドックに似合わぬ可愛らしい衣装とが相俟って、彼女はまるきり人形じみていた。

 このような脆弱な女子が、戦火に身を投じるだと?
 月臣は内心で吐き捨てた。
 戦う牙を持つのならば、とアキトは言った。だが目の前に佇む少女はその言葉から連想される荒々しさとは対極の位置にあるように見える。

 不可能だ、と彼は断じた。
 無論、能力的には何の問題も無いだろう。ホシノルリ、あの「電子の妖精(或いは魔女)」はジリ貧の宇宙軍にあって今でこそマスコットガールのように扱われている。しかしその能力の程は、かつてナデシコの働きを目の当たりにし、ネルガルの事情に通じるに至った月臣にとって、これ以上なく明白である。同種の遺伝子改造を受けたこの少女も、恐らくはホシノルリに匹敵するだけの「性能」を秘めている筈だ。

 だが、それは問題ではない。彼女の能力は断じて「牙」ではない。
 月臣は戦場を知っていた。戦力の多くを無人兵器に頼っていた木連軍にあってだけではない。クーデターで同朋の血を流し、ネルガルに使われ、社会の陰に潜む泥沼の中で人を殺した。
 だからこそ、この人形の少女がその凄惨に馴染むとは思えなかった。与えられた性能ゆえに利用される彼女に、月臣は哀れみを覚えた。

「不注意だった。ところで、君はあの男と……」
「ラピス」
「……?」
「ラピス・ラズリ。私の名前」

 少女は無感情に告げた。これなら合成音声の方がまだしも感情豊かであろうと思われた。
 その声音、その雰囲気と、はっきりとした自己主張との落差に月臣は戸惑った。

「ああ、すまん。その、ラピス。君は本当にあの男に協力する気でいるのか? その意味が分かっているのか?」
「分かってる。私はアキトの目、アキトの耳、アキトの手、アキトの」
「馬鹿な!」

 月臣は激しい嫌悪を覚え、彼女の言葉を遮った。

 この少女、ラピスはアキトに依存している。己の存在意義を、アキトに託している。無理もない事なのかもしれない。生まれてこのかた、研究員(あのヤマザキの如き!)に玩弄されるだけの人生だったのだ。そんな環境から救い出してくれたアキトに、刷り込みにも似た反応を示すのは不思議ではない。
 だが、それと彼女を戦わせる事とは、全く別の問題だ。刷り込みにより好意を抱かれているアキトだからこそ、不幸な生い立ちを背負った少女の一人立ちを助けてやるべきではないのか。
 だと言うのに、彼女の無垢につけこみ、利用する。テロの片棒を担がせる。どのような詭弁を弄したところで、許される所業ではない。

「それは間違いだ。あんな男に義理立てをする必要はない。奴は己のエゴを満たすために君を利用しているだけだ」

 硝子玉のようだったラピスの目に、僅かに感情の色が表れたようだった。

「アキトを侮辱しないで」

 敵意。
 不思議な事ではない。虐待を受けている子供とて、親を庇うのだ。刷り込みの対象であるアキトを貶されて彼女が怒るのは、自然な流れだといえる。
 しかし、次にラピスの口をついて出た言葉は、月臣の予想の外にあった。

「利用しているのは、私も同じ」
「……何だって?」
「アキトは私の拳、私の爪、私の牙、私の刃。アキトは私を使い、私はアキトを使う。あいつらを倒して初めて、私はヒトになれると思うから」

 やはり棒読みのような調子で語られた台詞。しかしそれは、奪われた者の軋るような慟哭だった。
 人形などとはとんでもない。彼女は無表情の仮面の下に、炎の如き熱い怒りを秘めている。自分は、勝手に己の価値観を投影して同情の優越に浸っていただけだった。

 決して、好ましい事ではない。どれほど理由が切実であれ、彼女の決意は多くの人間を――無関係な人々をも含めて――殺める決意に違いないからだ。ここに一人のテロリストが生まれ、悲劇を撒き散らそうとしている。

 ただ、アキトとラピス、二人の間に何らかの交感があった事だけは了解できた。そしてそこに他者の言葉が入る余地が無い事も。
 納得など出来ようはずもない。正しい事であるはずが無い。だが月臣は、自分の論理が部外者の論理に過ぎないと感じてしまった。

「どいて」

 だから彼は、浴びせられた硬質な声に押されるようにして、ラピスに道を譲ってしまった。
 彼女は彼に一瞥もくれず、だまってアキトの部屋へと歩み去った。彼はその背にかける言葉を持たず、ただ見送った。
 あの時以来続いている無力感が強まったようだった。





 一週間後。
 月臣とアキトは、鍛錬場にて向かいあっていた。
 アキトは例によって、防弾防刃コートと視覚補正バイザーの黒づくめ。月臣は以前とは違い、優人部隊の制服ではなくNSSの黒服に身を包んでいる。
 牢獄の如き殺風景な板間は、肌に突き刺さるような緊張感に満ちていた。

「あんたから一本取れたら、約束通り柔を教えてくれるんだな」
「嘘は言わん。だが、お前には百年かかっても無理だろうな」

 月臣は、鼻を鳴らして嘲るように言った。長髪で細面、見ようによっては優男風とも言える彼だけに、そのような仕草をするとどうにも小面憎い。

「木連では、一日を百年と数えるのか?」

 アキトの声が低くなった。挑発に引っ掛かったようだった。
 怒りは冷静さを失わせ、攻撃を単純にする。月臣の台詞はそうした兵法にのっとったものだったが、無意識下での苛立ちの表れでもあった。ラピスとのやり取りで覚えた無力感が、後を引いているのだ。その鬱屈が、アキトを攻撃する方向に圧力を加えている。

「さあな。どちらにしろ、その頃お前は墓の下だ」
「……やってみろ!」

 アキトは叫んだ。それが開始の合図だった。



 アキトが近付いてくる。重力に逆らわず落下するように腰を落とし、その勢いでもって歩を進める。月臣が仕込んだ柔の歩法だ。
 滑らかな重心の移動、そのしなやかさはまるで猫科の獣のようで、月臣は軽く目を見張った。

 以前のアキトは動作の継ぎ目継ぎ目がぎこちなく、身体を動かす事が得意でないように思われた。しかし今の彼には、体の操縦に優れた者独特の躍動感がある。
 変化の原因は、おそらくラピスによる感覚の補助。彼の体内に飽和したナノマシンは、脳神経だけでなく、運動の統御と共調をも僅かながら障害していたのだろう。

 こいつが自分の申し出を受けたのはその差を計算していたかららしい、と月臣は考えた。

「だが、無駄だ」

 言って、間合いを詰めてくるアキトに応ずるように、一歩踏み込む。足幅を大きく開き、沈み込むように。
 それだけで、アキトの動きには乱れが生じた。

 一対一の攻防に於いて何よりもまず求められるのは、間合いの奪い方である。己が攻めやすく敵が守り辛い位置に身体を置く、それで勝敗の半ばが決するといっても過言ではない。だからこそ虚実を用い隙を窺うのが常道となる。

 恐らくアキトもぎりぎりの距離で隙を窺うつもりだったのだろうが、月臣から見ればそれは稚拙に過ぎた。

「くっ!」

 不用意とも思えるほどあっさりと近付いてきた月臣の動きは、アキトにとって完全に予想外だったのだろう。突き放そうとして、左の掌を下方から振り上げる気配を見せる。
 虚を突かれた挙句の苦し紛れの反撃などは、全く恐るるに足りない。月臣は余裕を持ってアキトの左肩を打ち、攻撃を止めた。

 と、視界の左端、下側方より襲い来る何かがあった。
 脚。アキトは肩を打たれながらも、近距離からの回し蹴りを繰り出してきたのだ。
 恐らく最初から狙っていたのだろう、死角からの奇襲。硬い長靴でもっての蹴りは、当たれば人を打ち倒すだけの威力を秘めている。


 アキトが必中の確信をもって放っただろうその蹴りを、月臣は危なげなく受け止めていた。
 僅かに内側に動いて打撃点をずらし、曲げた肘で側頭部を覆っている。腕にどしりとした手応えが伝わるが、その姿勢は小揺るぎもしない。

 木連式柔には高い蹴りが存在しない。さればこそ意表を突くには有効である、とアキトは判断したのたろう。だがそれは所詮浅知恵に過ぎない。
 蹴り足を高く上げぬのは、相手が一人とは限らぬ乱戦にあって己の姿勢を保つためである。とは言え無手の攻防に於いて腕の三倍の力を持つ脚は有効な攻撃手段であり、それを使用する敵の存在も、無論木連式柔は考慮している。
 その技を用いぬからといって、対抗する術が編まれていないとは限らないのだ。

 アキトの蹴りに熟練があれば、或いは月臣を脅かしていたかもしれない。だがアキトの蹴りは、小器用にそれらしく見せてはいるものの、実態は靴の重さ硬さに頼っただけの「蹴れている」とはとても言い難い代物である。
 現に蹴りを放ったアキトは今、無様に体勢を崩しているではないか?

 何より、アキトは木連式柔を学ぼうとしてこの勝負を挑んだ。だと言うのに邪道の技を用いる、その浅墓な性根が月臣には笑止極まりないと感じられる。

「賢しいぞ!」

 月臣は一喝した。
 アキトの左手を掴み、己の頭部を守っていた肘を顎へと叩き込む。
 顎へ打撃に左手を引き落とす力が加わり、アキトは地面に叩き付けられた。

「ぐぅっ……」

 アキトは呻き声を上げながらも後転して受身を取り、月臣から離れた。

 追い打ちの好機であったが、月臣はそれをせずに見送った。何故なら、ここでアキトに止めを刺した所で彼が諦めるとは思えなかったからだ。彼が起き上がる度に打ちのめし、徹底的に痛めつけ、己の無力を思い知らせてやる必要がある。

 追撃を警戒し顔を逸らさずアキトはゆっくりと立ち上がる。その表情はバイザーに隠れて窺えない。しかし恐らくは、此方を火の出るような眼差しで睨みつけている事だろう。
 月臣は自然体に立ちながらそんなアキトを眺めていた。


「……そうか、そうだったな」

 月臣に聞かせる風でもなく、アキトは一人納得するように呟いた。そして腰を落とし、左手を前に突き出し構える。
 月臣はそれに意外の念を覚えた。今までのアキトであれば、あしらわれた屈辱に猛然と襲い掛かってきたはずだ。

「どうした? そんな事であの狂犬からお姫様を救い出せるとでも?」

 再び仕掛けた挑発。アキトはぴくりと動く気配を見せたが、それだけだった。噴き出しかけた怒気を散じて、かつて教えた基本の構えで立っている。

 ――臆したか?

 月臣はそう考え、アキトを試みる事にした。
 視線に力を込める。心持ち膝を撓め身体を前傾させ、ぴくりと肩の筋肉を収縮させる。威嚇である。

 怯えと警戒は似て非なるものだ。恐怖に呑まれた者はその僅かな動作にも過敏に、大袈裟に反応する。相手の姿が大きく見え、圧迫感を覚える。
 本能に刻まれた反応だ。ただし戦う者のそれではなく、喰われる者の。
 人間同士の、いや動物同士の肉体的闘争にあって優位を定めるのは、技術よりも腕力よりもまず胆力である。

 果たして、アキトは戦う者であった。
 月臣が見せた戦気に鋭敏に反応しながらも、身を庇うような真似はしなかった。逆に、応ずるように拳に力を込めるのが感じられた。

 ぎり、と月臣は奥歯を噛み締めた。
 アキトの反応は、彼の心に何がしかの感情を呼び起こした。それは怒りに似ていた。嫉妬かも知れなかったし、或いは賛嘆かも知れなかった。
 何であれ、それはアキトに対する苛立ちを加速させた。取り澄ましたバイザーを叩き割って、中身を床にぶちまけてやりたい。
 月臣は珍しく、自分からアキトへと飛び込んだ。


 衝動のままに間合いを詰めた月臣であったが、ぎりぎりの距離に至って彼は踏み止まった。今まで苦も無くあしらえていたアキトであったのに、どうにも踏み込み辛い。突き出された左手が煩かった。
 しかし、月臣の躊躇は一瞬であった。未熟な敵手を崩す方法など、幾らでもある。
 突っ込むと見せかけ、僅かに動きを緩める。迎え撃とうと息を詰めたアキトが、息を吐く。
 それが隙だった。アキトが次の吸気を開始する瞬間、それに滑り込むように攻撃に移った。

 アキトが再び息を吸い込むまでには半秒もかからなかったが、それはぎりぎりの近距離にあって巨大な遅れであった。
 アキトは前方の左手でもって月臣を突きやらんとしたが、それは容易くいなされた。突きを逸らした月臣の手は粘るように絡みつき、アキトの小手を握った。

 今までなら、そのまま手も無く投げられていただろう。しかしアキトは、崩されながらも残る右手で月臣の襟をがっしりと掴んでいた。

 ぴくり、と月臣の頬が痙攣した。
 襟を掴むアキトの力は執念じみて強く、それがまた月臣の奥に秘められた何かを刺激した。

 アキトの襟を掴む手を握り、小手を取った手と交差させて関節を極める。月臣が身体を捌くと、アキトは半回転して仰向けに投げ落とされた。

 アキトの両手を握った月臣は、更に関節を極めていこうとしたが、すぐにそれを止めて身を引いた。
 先程まで月臣の頭があった空間を、黒い長靴が薙いでゆく。床に叩き付けられたアキトは、その反動を利用して蹴りを放っていたのだ。
 両腕を開放されたアキトは、蹴りの勢いを利用して後転するように立ち上がった。油断なく構える月臣から、跳び退るように距離を取る。
 その動きに遅滞はなかったが、少しばかり精彩を欠いていた。蹴りを放つため十分な受身が取れなかったらしい。

 それでもアキトの闘志は揺るがないようだった。
 見せ付けられた力の差など意に介さぬかのように、しっかりと月臣を見据えている。その背筋は真っ直ぐに伸びて、凛呼と毅然と立っている。

「貴様……」

 その立ち姿を見て、今更ながらに月臣は呻いた。
 目の前に立っているのは今までのアキトではない。それは明らかだった。

 木連式柔はべた足の技である。移動に跳躍を用いず、両足ともが地面から離れる事は無い。体軸を保ち重心を安定させなければ、技が成り立たないのだ。

 以前のアキトは腰高で体軸の揺らぐ事が多かった。しかし今の彼は基本に忠実に腰が据わっている。北辰と戦いで死線を潜り、何か掴むものがあったのかもしれない。その進歩の速さは、彼の才を窺わせる。

 だが経験でも才能でもない成長の所以が、月臣には見えた。アキトの腰が定まっているのは、彼の心胆が定まっているからなのだ。
 壁を一つ乗り越えた、そのような印象があった。

 月臣は先刻までの苛立ちが形を変ずるのを感じた。不愉快なのは変わりない。しかし呼び起こされるものが、無力感ではなく血の滾りになっている。

 ちろり、と唇を舐める。

「まだ分からんのか? 多少腕を上げようとも同じ事。お前は俺には勝てん」
「出来るか出来ないかじゃない。やるかやらないかだ」
「相変わらず、口だけは達者だな」

 空虚な言葉の応酬。舌を動かしてはいるものの、お互い内容に意識は無い。ただ、これから起こる拳のやり取りにのみ集中している。
 そして二人は気合の声を上げ、交錯した。


 月臣の突きを、アキトが左手で捌く。捌いたその手で水月を打とうとする。
 月臣はそれを腰を切ってかわし、アキトの顎を突き上げんとする。アキトはそれを残った右腕で防ぐ。
 防御に用いられた右腕を掴み、大きく踏み込む。手前に引くように後ろから腰を打ち、右腕はそのまま押し込む。
 アキトはまたしても床に叩きつけられる。
 変わらぬ結果。

 技術には、一つ壁を乗り越えたとしてもその先がある。大小無数の壁を乗り越えて人は上達してゆくのだ。幼少より鍛錬を重ね柔を修めた月臣と俄仕込みのアキトとでは、多少の成長など問題にならないだけの実力の開きがある。

 だが、それは既に互いが承知している事だ。もはやこの勝負の決着は其処には無い。

 アキトが立ち上がる。
 月臣が打ち倒す。
 幾度となく繰り返される攻防。投げ、打ち、極める。
 何度倒されてもアキトは挫けない。
 月臣は倒れたアキトに止めを刺さず、起き上がるのを待ち続ける。
 それは生来の人の良さの表れか、それとも別の何かをアキトに感じているのか。

 何十度目かに打ち倒されたアキトが、よろよろと立ち上がる。
 その動きには、当初のしなやかさの欠片も無かった。口角は青黒く腫れ上がり、そこから血が滲んでいる。コートの中の身体も打身だらけだろう。肋の幾本かも折れているはずだ。
 だと言うのに、バイザーに覆われたその顔だけは、変わらず真っ直ぐに月臣に向けられている。

 こういう馬鹿がいるのだ。がむしゃらに挑み、何度打ち倒されても立ち上がり、諦めるという事を知らない。一体この男を突き動かすのは何なのか。この一途を何と呼べば良いのか。

 アキトが立ち上がるのを待って、月臣は声をかけた。

「何故だ?」
「……?」
「何故お前は、そうまでして柔を身につけようとする?」

 それは、こんな勝負を始めるよりも前にしておくべき質問だったかもしれない。だが月臣はアキトの心情などに興味は無かったし、元よりアキトの依頼に応える気など無かったのだ。
 ただ今は、目の前に立つぼろぼろの黒づくめについてもう少し知りたい気分になっている。

 投げ掛けられた問いに、アキトは何を今更、と言った調子で答えた。

「ユリカを取り戻すためだ」
「それは理由にならん。彼女を火星の後継者から取り戻すのは、ネルガルの目的でもある。NSSが存在しているのだから、個人の戦闘能力の大小などさして意味のあるものではない。お前の有用性は、A級ジャンパーであるという事に尽きる」
「分かってるさ、そんな事は」
「自分達に不幸をもたらした能力には頼りたくないか」
「別にそういうわけじゃない。目的のためには自分の能力を最大限に生かすつもりだ。それに、ジャンプ能力も含めてナデシコでの、そしてユリカとの日々があったわけだしな。……ただ俺は、北辰を倒さなくちゃならない」
「復讐、か」
「そうだ。でも、それだけじゃない」

 そこまで言ってアキトは、ふ、と表情を緩めた。
 その口元に刷かれた笑みは、切れた唇のため僅かに歪んではいたものの、決して復讐者の狂笑ではなかった。苦笑というのに近かったが自嘲は含まれておらず、それだけに頼りなげで、纏った装束の禍々しさにそぐわず爽やかであった。
 月臣は目の醒めるような思いでそれを見た。

「俺は、コックになりたかった」

 月臣はそれを知っていた。それだけではなく、彼がその夢を微塵に砕かれた事も知っていた。

「ナデシコに乗って、パイロットをやらされた。コックと兼業の二足の草鞋で、今思えばどうしようもないド素人だった」

 アキトは罅割れたバイザーを外した。その下から現れた瞳には、過去を慈しむ者に特有の酷く優しげな色が浮かんでいた。

「それでも何とかやり抜けた。きっと、ナデシコだったからだろうな。師匠にも仲間に恵まれて、お陰で生き残れたんだ。ユリカやルリちゃんとも出会えた」
「……」
「もう、俺はコックとしては駄目になった。でもナデシコで貰ったものは、完全に死に絶えたわけじゃない。勿論ユリカは取り戻す。でもそれだけじゃ駄目なんだ。俺が、この手でやらなくちゃならない事があるんだ」

 別人のようだった。いや、これが本来のアキトの姿なのだろう。ゴートやアカツキを初めとする旧ナデシコの連中が彼に肩入れし続ける理由が、漸く理解できたように思う。

「北辰を倒して初めて俺は甦る。だから……」

 アキトの瞳から柔らかさが消え、強靭な何かに取って代わった。先程まで緩められていた口元は、固い決意に引き結ばれている。

「だから俺は、この勝負に勝つ。勝って、北辰を倒す力を身につける」

 その姿を見て、月臣は気付かざるを得なかった。

 一体この男を突き動かすのは何なのか。この一途を何と呼べば良いのか。
 その答えを、自分はとうに知っている。そう、良く知っている。ただ、思い出す事を避けていただけだ。
 熱血。
 黒く禍々しい戦装束を通してすら、眼前の男の内に流れる熱い血を感じずにはいられない。

 これ以上アキトを痛めつける必要は無い。もう彼の師となる事を了承しても良いではないか。そんな考えがふと頭をよぎる。
 だが月臣は何も言わず、黙って腕を上げ、構えた。

 アキトの熱い血は、確かに価値あるものである。しかし、それで全てが解決するわけではない。
 自分と共に理想を信じて革命に参加した将校達。彼らの熱血は報われず、木星人への差別は根強く、貧困は人々を苛む。誰よりも熱血を体現していた親友は、自分の手によって命を絶たれた。
 覆しようの無い現実があるのだ。
 自分の柔は北辰のそれには及ばない。ならばどうして弟子となるアキトが北辰に勝てる道理があろう。
 思いだけでは何一つ叶わない。それを彼に教えてやる必要がある。もはや嬲る必要も無い。手加減も要らない。一撃で決める。



 アキトが踏み込んでくる。
 上体は安定しており、無駄な力みも無い。柔を学んでまだ数ヶ月とは思えない程の見事さだ。彼の成長に、素直に賛嘆を覚える。

 脛を目掛けて蹴りを放つ。力を込める必要は無い。軽くでいい。
 がつりと衝撃が走り、アキトの体勢が僅かに崩れる。意識が下に向く。
 蹴り足を下ろせば、それはそのまま踏み込みとなる。
 床を踏みしめ、全身の筋肉を連動させて力を膝、腰、肩へと伝えゆく。同時にDFを起動、収斂させていく。
 意識を散らされ、アキトの防御は緩んでいる。構えた腕の隙間を抜けて、掌が胸へと打ち込まれる。

 木連式柔の絶招が一。生身での歪曲場攻撃。

 肉を打つ音とはとても思えない、爆発音にも似た衝撃が鍛錬場に響いた。
 アキトのコートが枯葉のように千切れ飛ぶ。中に着込んだプロテクターが砕け、破片が飛び散る。
 重く押し込むように突き出した掌に、肉を打つ重い手応えが伝わる。
 そして、

「――何?」

 月臣は目を見張った。

 アキトは倒れていなかった。
 身を捻り、打撃点を正中線から外して、僅かに衝撃を逃がしている。
 とは言え、掌打は彼の左胸に入り、プロテクターを砕いてその下の肋骨をへし折っている。肺の空気は叩き出されたろうし、心臓にも衝撃は及んだろう。到底立っていられるような状態ではない。

 月臣は一瞬硬直した。
 必倒の確信をもって放った打撃に耐えられた、それもある。だがそれよりも、甦った記憶が彼の動きを妨げたのだ。

 ――覚えている。これと同じ状況を、俺は経験している。

 そして、それは致命的な隙だった。


 熱い、焼け付くような塊が月臣の頬に生じた。
 世界の全てが遠く、暗くなり、頬の熱だけが鮮明のまま。
 意識が消える。






「嘘だ嘘だ嘘だ! 俺は、俺はこんな邪悪な業にこの身を捧げてきたわけではない!」

 月臣は開いていた本を書見台から畳に叩き付けた。それでも噴き上げる激情は収まるところを知らず、身を震わせ荒い息を吐く。


 今朝、月臣は師より木連式の目録を授けられた。
 月臣ほどの若さで目録に達したものはごく僅か。此処数年では、道場で半ば伝説となっている、そして今では闇に身を沈めたと噂される『狂犬』北辰のみ。
 己の才は大いに自負する所であったが、やはり認められたと言う喜びは大きかった。

 それだけではない。本来皆伝に達さねば触れる事も許されない秘伝書の閲覧をも、師は特別に許可してくれたのである。
 師は厳しく引き結ばれた口元を緩める事無く、重々しく言ったものである。

『貴様にはこれより、木連式の裏の技をも伝える事になる。だがその前に、この秘伝書に目を通してもらう』
『勿体無いお言葉です。ですが先生、未だ皆伝に至らぬ私に、それに触れる事は許されていないはず』
『構わん。私は、同じ過ちを繰り返したくは無いのだ』

 その後を続ける事無く、師は口を噤んだ。
 疑問を口にはしたものの、内心では身悶えするほどに読む事を望んでいた月臣である。師の掛けてくれた期待と温情に感激しつつ、深々と頭を垂れて書を受け取った。

 膝行して下がり、部屋を辞そうとする月臣に、師は声を掛けた。

『忘れるな。木連式は暗殺術に非ず』

 その声音は、暗く深い苦悩に満ちていた。
 武術を学ぶ者の心構えを伝える師の言葉に、月臣は深く頷いた。確かに木連式は人殺しの業である。使う者の心に正義が無ければ、それはただの暗殺術にも成り果てるのだ。
 師の教えを心に刻んで、彼は部屋を後にした。


 自室に戻り、月臣は書を手に取った。
 先人達から伝えられた尊い教えである。それなりの心構えでもって接するのが礼儀と言える。逸る心を押さえて息を整え、心を澄まし、書見台の前に正座する。ゆっくりと書を開き、目を通す。
 其処には、木連式武術の歴史が刻まれていた。

 そして月臣は、信じたものが砕け散る音を聞いた。


 木連式柔の開祖は、種々の古武術を修めた一人の軍人であったとされる。火星を追われ木星を目指す、限りの無い逆境。その中で彼は、憎むべき地球人達を打ち倒す力を、逆境に挫けぬ心を育むために、皆に己の修めた武を伝えたのだと言う。

 真実の彼は、諜報部に属する人間であった。火星を追われた人々と図らずもその身を共にする事になった彼は、当時の指導者に仕える事になる。
 政敵の暗殺、不満分子の抹殺。口減らし。
 碌な武装も存在していない状況下に於いて、彼の修めた武術はこの上ない暴力だった。そしてその暴力は彼の部下へ、また子孫へと引き継がれた。

 謹厳な武道としての仮面は、血に飢えた醜悪な狂気を糊塗するものに過ぎなかった。
 連綿と続く、流血で彩られた歴史。それは未だ終わりを告げていない。
 何よりも月臣を打ちのめしたのは、最も新しい記録だった。敬愛していた師もまた、蔑むべき暗殺の業に手を染めていた。


 月臣は激情のままに部屋の柱を殴りつけた。みしり、と部屋が軋む。鍛えられた拳は望むだけの痛みを伝えてはくれない。それがもどかしく、何度も何度も拳を打ち込む。

 やがて腫れ上がった拳を抱えて、月臣は座り込んだ。何もかもが、どうでもいいように思えた。



 翌日。

「入るぞ!」

 怒鳴り声と共に、どかどかと大きな足音が近付いてくる。
 すぱん、と勢い良く障子が開かれ、薄暗かった部屋が一気に明るくなる。

 月臣は目を細めて、乱入してきた人物を見上げた。

「貴様、昨日はどうして来なかった? 道場の皆が貴様の目録認可を祝おうと待っていたんだぞ」

 少々暑苦しいくらいに力の篭った声。
 やってきたのは、士官学校の同期であり、木連式柔の同門でもある白鳥九十九だった。

「これからはお前が道場を引っ張っていく立場になるというのに、それでは皆に示しがつかんだろう」
「……下らん」
「何だと?」
「何が木連式だ。何が正義だ。そんな戯言など、もうどうでもいい」

 月臣は俯いたまま、投げ遣りに言い捨てた。
 余りにも意外な友の言葉に、白鳥は思わず絶句する。

「穏やかじゃないな」

 そう言って白鳥の後ろから姿を見せたのは、同じく同期で同門の秋山源八郎である。がっしりとした体躯に似合わず穏やかな性格の彼であるが、今はその四角い顔に厳しい表情が浮かんでいる。

「何があったのかは訊かん。先生も捨て置けと仰っていたし、俺の預かり知らぬ事情があるのだろう。……だがお前は、俺達で語り合った理想まで愚弄するつもりなのか?」

 その言葉に、月臣は思わず顔を上げた。
 そんなつもりはなかった。いや、そこまで思い至らなかったと言う方が正しい。

 建国当初は人的資源の欠乏に泣いた木連であるが、百年が経ち人口は随分と増加した。しかしそれは同時に、木連の抱える破滅の種子でもあった。
 つまり、絶対的に資源が足りないのだ。遺跡プラントの生産能力も無限ではない。現在こそ国民生活を維持出来ているものの、遠からずシステムが破綻するのは目に見えている。
 解決策は一つ。先祖を追いやった地球人を打倒し、資源を手にする必要がある。少しでも目の開いているのならば、誰にでも理解できる事実だ。

 だから月臣は士官学校に入った。地球を取り戻し木連を救う手助けをしたかった。
 そして、そんな彼と同じ理想を抱いていたのが白鳥と秋山である。莫逆の友と言って良い。木連の歴史に絶望したとは言え、彼らを貶める事などできよう筈も無かった。

 そんな月臣を見て、秋山は表情を緩めた。骨太な顔に浮かべられるのは、頼りがいのある男臭い笑みだった。

「どうやら、大丈夫のようだな」

 秋山の言葉に、しかし月臣は再び俯いた。
 友を裏切るつもりは無い。しかし知ってしまった事実の重さは、これまでのように無邪気に理想を信じる事を困難にしていた。

「ええい、何をウジウジと! 貴様それでも木連男児か! 来い、その根性を叩き直してやる!」

 煮えきらぬ月臣の様子に焦れたのだろう、白鳥を彼の襟首を掴み、強引に部屋から連れ出した。


 無理矢理連れて来られたのは、木連式の道場だった。
 汗を吸い込み磨き込まれて黒光りする床、罅の入った漆喰の壁、その上に掛けられた木刀。床の間には「激我」の字が記された掛け軸が飾られている。

 慣れ親しんだ道場の空気。木連式の武が偽りのものと知った今でさえ、自然と身が引き締まるのを感じる。
 刷り込まれたその感覚から逃れるように、不機嫌を装って月臣は言った。

「何のつもりだ」
「知れた事。貴様の不抜けた根性に、俺の拳で活を入れてやる」
「大きな口を叩くものだな。木連式に関して言えば、俺に一日の長があるのはお前も承知しているだろうに」
「俺が後塵を拝していたのは熱血に燃えていた月臣だ。木連式を『下らん』などと抜かす腑抜けなど相手にならん。片腕だけでも十分なくらいだ」
「……抜かしたな」

 格闘技を学ぶ者の業と言うべきであろう。木連式に失望した筈の月臣だったが、白鳥の挑発にむらむらと対抗心が湧いてくる。

「その言葉、後悔するぞ」
「出来るものならさせてみろ」

 白鳥もその彫りの深い顔に好戦的な笑みを浮かべ、一触即発の雰囲気である。
 秋山はそんな二人に、仕様が無いなといった風に笑いながら言った。

「いいだろう。この勝負、俺が見届けよう」

 二人は頷き、そしてそれぞれ道場の中央に移動し、構えた。
 秋山がゆっくりと片手を上げる。そして、その手を切り下ろすように振り下ろした。

「はじめぃ!」



 秋山の声と共に、月臣は歩を進めた。
 白鳥は、そんな月臣を嘲笑うかのようにだらりと左手を垂らし、右拳を腰溜めに構えている。

 ――誘いか?

 月臣はそう考え、敢えて白鳥の間合いに踏み込んだ。しかし白鳥は動く気配を見せない。数度のフェイントの後、探るような突きをがら空きの顔面に放つ。
 白鳥はその突きを、殆ど動く事無くあっさりと喰らった。
 唇が切れて、口角より僅かに血が流れる。

「馬鹿にしているのか?」
「ふん、言っただろう。今のお前の拳など、防御する必要も無い」
「ちっ、牽制に耐えたくらいで調子に乗るな!」

 月臣は激昂した。今度は機を窺うのもそこそこに接近し、連撃を叩き込む。
 前蹴りで突っ掛けて上段突き、鉤突きを肝臓に打ち込んで身体を回し、同じ手で肘を顎へ。
 更に続けて腕を掴み肘で顎を押し込んで投げようとするが、白鳥の大振りの右がやって来る。
 それをかわして月臣は飛び退き、距離を取った。
 再びの睨み合い。

「いい加減意地を張るのは止めろ。片手だけで俺に勝てる筈がないだろう」

 苛立たしく月臣は言った。
 今の連撃は、冗談の様に綺麗に決まった。常の白鳥相手ならば有り得ない事だ。しかし白鳥は宣言通り左手を使う事はなく、それどころか碌に攻撃をかわそうともしなかった。
 彼の唇は更に大きく切れ、鼻は歪んで血が滴り、それなりに男前だった顔が台無しになっている。

「秋山、俺の勝ちだ。止めてくれ」

 月臣は立会人の秋山に向けて苦い声で言った。だが秋山は面白そうな笑みを浮かべて取り合わない。

「お前の勝ち? 俺にはそうは思えんが」
「何を馬鹿な。これ以上は危険だ」

「月臣、お前は負ける!」

 二人の会話を断ち切るようにして、白鳥が怒鳴る。月臣は弾かれたように其方を向いた。彼の声には溢れんばかりの生気が込められており、確かにそう簡単に倒れるようには思えない。

「何故なら――」

 白鳥は手鼻をかんで鼻孔の血を飛ばし、ごきりと自分の手で鼻軟骨の位置を直した。そして息を吸い込み、大喝した。

「お前の拳には魂が無い!」
「な、何だと!」
「忘れたのなら思い出させてやる! 真の木連魂を! 我らで結んだ激我印を!」
「――!」

 白鳥の喝は圧倒的な勢いを持って月臣の胸を貫いた。
 吐いた気炎の勢いのまま、先刻までの不動より一転して、猛然と白鳥が突進する。自失していた月臣は反応が遅れるが、それでも向かいくる相手を迎撃せんとする。

 刹那の交差。
 時が遅滞する。
 握り締められた右の拳が、ゆっくりと水月へと吸い込まれてゆく。

 拳は、月臣のそれであった。

「あ……」

 漏れたのは気合ではなく躊躇いの声。しかし放たれた拳は帰る事なく無情にも突き進む。
 服に触れ、皮膚を肌を押し、その下の引き締まった筋肉を過ぎて、衝撃は内臓へと浸透、
 違和感。

 手応えが軽すぎる。衝撃の一部が虚空へと逃げてゆく。
 見れば、正対していた筈の白鳥はその身体を半身に捻っている。引き絞るように後ろに振りかぶられた右拳。

 そして、燃え上がるような熱さが月臣の頬で爆発した。





 ずしり、と重力が戻った。ぐらりと傾いた身体を、たたらを踏んで支える。意識を飛ばしたのはほんの一瞬だった。
 朦朧とした頭は状況を認識しないが、練り上げられた反射は瞬時に前方の敵の存在を思い出し、自動的に次の攻撃に備える。
 しかし、予想した攻撃はやって来なかった。認識が追いつき、見ればそこに白鳥はおらず、ただ虚空があるばかりだった。

 視線を下方に落とす。
 其処には黒い塊がわだかまっていた。いや塊ではなく、うつ伏せに蹲った人間。アキトだ。

 此処に至ってようやく、月臣は戦っていた相手が白鳥ではなくアキトだった事を思い出した。殴られて意識が飛んでいる間に過去の夢を見ていたらしい、と彼は納得した。
 勿論、理路整然とした形で蘇った記憶ではない。しかし、ほんの一瞬の事とは言え弾けたイメージは膨大だった。

 再び過去に引き戻されようとする精神を振り払い、倒れたアキトへと歩み寄る。仰向けにして呼吸と心拍を確かめ、安堵の息を吐く。
 打撃によって呼吸と心拍が一瞬停止したにも関わらず全力の打撃を放ったため、脳への血流が低下して落ちてしまっただけらしい。後遺症が残るような事はなさそうだった。
 火星の後継者の実験を耐え抜いただけのことはある。この男の身体は案外と頑丈に出来ているらしい。

「とんでもない意地っ張りだな」

 月臣は呆れたように独語した。

 油断のせいではあるのだが、実際危ない所だった。『もう少しアキトのプロテクター厚かったなら』『もう少しアキトが上手く衝撃を逃がしていたなら』、続く打撃には間違いなく耐えられなかっただろう。
 ずきずきと、頬が熱く疼いている。
 同じ熱さを、自分は過去に経験した。


 あの時、白鳥に殴り倒されて自分は意識を失った。秋山に活を入れられて目覚めた自分は、殴られた痛みに自嘲しながら言ったものだった。

『白鳥、貴様の言う通り俺は腑抜けだった。完敗だ』

 そんな自分に対し、白鳥は腫れた顔を撫でながら、屈託無く笑って言ったのだ。

『いてて。いや、お前の拳は効いたぞ。少なくとも、腑抜けの打てる拳じゃないさ。……だから、本当は正義を求める心を忘れてなんかなかったんだろう? なら木連式は、お前の正義を貫くために必要な物じゃないのか?』

 柔らかく語られたその言葉は、それまでに怒鳴られたどの言葉よりも胸に染みた。
 確かに白鳥は木連式の暗黒を知らなかった。だがそれは問題ではない。
 例え同朋の血を吸ってきた暗殺術であろうとも、正義を求める心があれば悪を打倒する牙となる。そう信じることができたのは、彼のお陰なのだから。


 月臣は疼く頬を撫で、アキトを見下ろした。気を失い虚脱した顔は、意外なほどに幼く見えた。或いはその幼さ故に、あれ程に一途になれるのかも知れない。妻を取り戻す事にも、復讐にも。
 だが例えそうだとしても、彼が月臣の見失っていたものを鮮やかに示してみせた事は確かだった。復讐の闇に囚われながらも、心に抱いた光を語って見せた彼が。
 月臣は噛み締めるように、師の言葉を思い出した。

『木連式は暗殺術に非ず』

 それを聞いていたにも関わらず、木連式を外道の業と断じていた己を月臣は恥じた。今こそ、贈られた言葉の意味が理解できる。そう、親友の白鳥をその手にかけた今だからこそ、痛いほどに理解できる。

 何故、木連式は軍隊格闘術でも暗殺術でもなく、武術としての形式を保っているのか。何故先人達は、暗殺術として編まれ駆使されてきた柔に武を求めたのか。
 それは祈りだからだ。薄汚い所業に手を染める己を憎みながらも、正しい道を歩きたいと、大事な人達に幸せをもたらしたいと、そう切に願っている。
 同胞の血を流し憎悪と怨嗟に染まって尚、いやだからこそ、求める正義と理想は鮮烈に輝いている。

「そうだ、俺は……」

 月臣は呟き、拳を握り締めた。

 木連式の本義は、正義と理想を求める心にある。何故自分は、北辰の如き卑しき狂犬に及ばぬなどと考えたのか。

 潰えたと思っていた己の柔が、以前よりも強靭になって蘇るのを感じた。冷え切った身体に、心臓が熱い血を送り出し始めたようだった。
 静かな昂揚が、彼の胸を満たしていた。



 月臣は折れた肋に注意しながら、アキトに活を入れた。
 アキトは暫く朦朧とした様子だったが、意識が明瞭となるや否や跳ね起きようとした。そして激痛に呻く。月臣はその隙に軽く腕を極め、アキトを取り押さえて言った。

「落ち着け。下手に動くと傷が悪化する」

 取り押さえられて尚もがいていたアキトだったが、月臣の言葉を聞いて抵抗を止めた。張っていた筋肉が弛緩し、表情が虚脱する。

「……ああ、そうか。俺は負けたのか」

 呆けたようにアキトは呟いた。
 そして、虚ろだったその顔に、ゆっくりと屈辱と怒りが沁み出してきた。

「離してくれ」

 凍えた低い声に従い、月臣は押さえていた腕を離した。アキトは上体を起こし、ややあってがつん、と拳を床に叩き付けた。

「……糞っ!」

 オモイカネ級コンピュータとラピスによって、彼は痛覚を取り戻している。拳を叩きつける度に激痛が全身に走っている筈だ。
 しかし彼はその行為を止めない。全身に輝紋を浮かび上がらせて、己を痛めつけるように繰り返す。

「糞っ糞っ糞っ糞っ畜生ぉっ!」

 搾り出すように悪罵を吐く。その顔は、己の無力さに対する憎悪に歪んでいる。その瞳は、己を容れぬ世界への呪詛に翳っている。

 そんなアキトに向けて月臣は問うた。

「それで、終わりなのか」

 アキトは弾かれたように振り向いた。

「それでお前は諦めるのか」
「諦めるものか!」

 間髪を入れずにアキトは答えた。

「俺は絶対に認めない。何度だって挑んでやる!」

 ナノマシンを凶暴に明滅させながら、火の出るような眼差しでアキトは睨んでくる。その双眸は狂気じみて酷く陰惨な物だったが、同時に己の信じる光を語った真摯さをも併せ持っていた。
 血に飢え復讐に狂うアキト、優しい目で過去を語るアキト、どちらが本物と言うのでもない。それらは同じ一つ人格の側面に過ぎない。

 こいつは強くなる。月臣はそう考えた。飢えと信仰。強さを手に入れるのに必要な資格を、この男は満たしている。
 だが、と月臣は続けて思う。それは本当に正しい事なのか。
 これからも復讐の炎は彼を焼き続けるだろう。人を殺し恨みを背負い、北辰を追い求めて彼もまた憎悪と狂気を身に纏う事だろう。
 そうなって欲しくない。彼の内に秘められた心の輝きは、失われるべきではない。

 アキトが道を誤らぬよう、引き止める何かが必要だと思った。柔がそれになればいいと思った。白鳥の拳の熱さが、自分を蘇らせてくれたように。
 だから月臣はアキトに言った。

「いいだろう、俺が柔の真髄を叩き込んでやる。邪に落ちた北辰如き、我が柔の敵ではない!」


 余りにも間が空きましたが、「柔」其の六、投稿させて頂きます。

・ラピスについて
 劇場版を見た場合、「人形」というのが彼女に対する素直な印象だとは思いますが、テーマとの関連と個人的嗜好により、それを改変させて頂きました。
 公式設定ではどうか分かりませんが、劇場版のみを見る限りは内面に言及した描写がなかったので、このような解釈も二次創作的にはありかと思った次第です。

・アクションシーンについて
 其の参、其の伍ではギミックを盛り込む事によりアクションを面白くみせようとしましたが、今回はストーリーの都合上それが不可能でした。
 無味乾燥に動作を並べ立てる形にならぬよう、ちょっとした解説を挟む事、心理描写を絡める事を試みました。
 上手くいっているかどうか、忌憚の無い御意見をお願い致します。


管理人の感想

蚕棚さんからの投稿です。

う〜ん、月臣の背景が上手く書かれていますね。

アキトとの絡みもいいです。

・・・せっかく自己主張をしたので、もう少しラピスの出番が欲しいかなぁ


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