4.
突然の任務と、突然のアキトさんのナデシコへの出向。ただそれだけのことだったのなら私も素直に喜ぶことが出来たのでしょう。でも、アキトさんにとって今度の任務はそう簡単なものでもないはずでした。
…アキトさんの心にとっては、決して割り切れるものではないはずでした。
「て…てててててて、テンカワさん?!」
「――ハーリー君?」
ヒラツカ・シティのドック内で顔を合わすなりすぐさま、アキトさんを見て驚きの声をあげてきたハーリー君。そんな彼を、オレンジのカラーの制服を纏った彼を見返して、アキトさんは小さく苦笑を漏らしました。
「おはよう、ハーリー君。でもそんなにびっくりしなくてもいいじゃないか」
最終作業のために騒然としているはずの格納庫やブリッジとは対照的に物静かな通路内。サブロウタさんと二人歩いてきて、私とアキトさんを目に留めたハーリー君。
そして隣に立つサブロウタさんが忍び笑いを漏らしているなか、ハーリー君は慌てたようにして言葉を付け足してきて。
「び、びっくりして当然ですよ! だって宇宙軍の制服着てますし、艦長と一緒に歩いてきたから、派遣されてきた人かなって思ったらテンカワさんだし……あ。でももしかしてお話にあったパイロットの人って――」
「ああ、そうだよ。よろしくハーリー君」
笑顔でそう告げるアキトさん。ハーリー君は少しだけきょとんとした顔をした後、
「あ、はい! こちらこそよろしくお願いします!」
慌てたようにしてがちがちの敬礼を返してきました。…どうもハーリー君、アキトさんには頭が上がらないというか、ちょっと硬くなる傾向があるみたいなんです。よく家に遊びに来てはアキトさんとも色々とお話をしたりしているんですけれど。
と、それからハーリー君は私のほうを向き直って、改めて挨拶をして来てくれて。
「艦長もおはようございます。艦長は知ってたんですか? テンカワさんが派遣されてくるって」
その彼に軽く微笑みを返して応える私。
「いいえ。私も知ったのは一昨日の夕べですよ」
あの頃よりもまた背が伸びて、もう私と同じくらいに成長して。でもまだまだ子供っぽさの抜けないハーリー君。子供っぽさが抜けないままで、どこか大人びた表情も見え隠れする彼。
そしてその隣に立つ、長かった髪をばっさりと切った――でもまだ髪は染めたままのサブロウタさんが、ハーリー君の頭に腕を乗せながら言ってきました。
「どうもお偉方はテンカワさんの名前をあまり表に出したくないみたいですね。あくまで1パイロットとして護衛についているということにしたいらしいですから」
「…確かに俺の名前は、いい意味でも悪い意味でも有名になったからな」
苦笑と一緒にそうアキトさんは言いました。どこか『仕方がないさ』といったようなその口調にハーリー君は顔を曇らせ、私は胸に小さな重みを覚えます。
でもそんな、一瞬だけ重くなったような空気を振り払うようにして、アキトさんはサブロウタさんに改めて言葉を返しました。
「まぁともかく。よろしくな高杉」
「ええ。うちのガキんちょがメーワクかけることになるかもしれませんけど、大目に見てやってくださいね」
そしてニマリと笑うサブロウタさん。ハーリー君の表情がピクリと動いて、頭に乗っていたその腕をさっと振り払いながら彼に横目を向けて。
「ふぅん、そのガキんちょって誰です? もしかして彼女の尻に敷かれているそこの誰かさんのことですか」
「ほぉ〜、お前も言うようになったね」
「ふぎゃ?!」
と、サブロウタさんの手が伸びて、びろんと横に伸びるハーリー君のほっぺ。つるつるして柔らかそうです。
「…それでサブロウタさん。準備のほうはどれくらい進んでますか?」
「格納庫のほうならもうだいたい終わってますよ。テンカワさんのアルストロメリアの搬入も済みましたし、今はもう最終チェックも完了してるんじゃないですかね。テンカワさん、見に行きます?」
「そうだな。お願いするよ」
「艦長は?」
「まだ時間がありますし、一緒に行ってもいいですか?」
「もちろんですよ」
「ひゃ、ひゃふほうははん! ひふまへひっはっへふんへふふぁ!!」
「はいはい、そう拗ねないでも連れてってやるって」
「ははふひはいひ〜〜!!」
そして一路、格納庫へと向かう私達。その道すがら、アキトさんはサブロウタさんと軽く談笑しながら歩いていきました。やはりその宇宙軍の白い制服のことが話題に上がりながら、二人で『似合ってますよ』とか『浮いてないか?』とか言いあっていたのですけれど…
でも私は、その間ハーリー君ととりとめもない話を続けながらも。片隅ではずっとアキトさんの様子が気にかかっていて。
ここに来るまでの車の中では、黙り込んで外の景色を見ている時間のほうがずっと多かったアキトさん。今はいつものように振る舞っていますけれど、でもやはり今回の任務には思うことがあるはずなんです。
だから私は気がつけば、アキトさんの様子を注意深く見ていました。その表情。グラスの向こうにあるその瞳の感情。なんでもないはずの仕草。その全部が気にかかってしまっていました。
(…ユリカさんがいないのだから、私がアキトさんの小さな支えになってあげないと)
そんなことを私は思っていたのかもしれません。私がアキトさんのために何かをしてあげられたことなんて、数えるほどしかありませんでしたから、余計にそう思ってしまったのかもしれません。
「…艦長、どうかしたんですか?」
と、そんな物思いの中に飛び込んでくるハーリー君の声。すぐ横を向いてみれば、どこか心配そうに私の顔を覗き込んでくるハーリー君の顔。優しげな彼の瞳。
「いえ、これからの予定を思い返していただけですよ」
その向こうから覗いていたアキトさんの顔が気になって、それでも笑顔になりながら…私はそう答えていました。
「……ピンク、ですね」
「…ピンク、だね」
私とアキトさんの口から漏れた、そんな呟き。格納庫の天井に消えていったその小さな呟き。
もう作業は一段落したのでしょう、喧騒も落ち着いた様子の格納庫には3機のアルストロメリアが鎮座していました。そのうちの1機はサブロウタさんの機体であるマリンブルーのアルストロメリア。もう1機は赤いカラーリングの機体。
…そして最後の1機、アキトさんの機体であるはずのそのアルストロメリアのカラーリングというのが――
「――はぁ…直前で塗装を変えんなよ。アカツキのやつ、嫌がらせのつもりか? それとももしかしてイネスか?」
顔を僅かにしかめて、アキトさんはそんな言葉を漏らします。その機体の色はかつてアキトさんが乗っていたエステバリスと同じく、紫がかった独特のピンクをしています。ここ1年ほど実機での任務はなかったため、訓練用のグレーの機体にしか乗っていないというアキトさんにとっては不意打ちの色だったみたいです。
「いいじゃないですか、ピンクって結構映えますよ?」
そして小さく笑いながら無責任にそんなことを言うサブロウタさん。その彼にアキトさんはため息を返しました。
「他人事だと思ってるだろ? アレ、戦場ではかなり目立つし的になるんだよ。……しかし今からでも塗り直せないかな」
「え〜? 塗り直すんですか?」
するとさらにハーリー君までそんな声を上げて。
「でもテンカワさん、塗り直すんならカラーリングはどうするんです? 一応部隊の形式として使える色ならひととおり用意してあると思いますけれど」
「そうだな。できれば何か、馴染みの色がいいとは思うんだが……」
それからそう言ってアキトさんは考え込んでしまって。
ハーリー君が問題のピンクの機体を手すりから半身を乗り出しながら眺めるなか、階下の作業場から掛け声や金属音が漏れてきます。誰かの小さな声と、足音とが聞こえてきます。いっぽうでデッキに手をかけながらそのピンクの機体を見やるアキトさん。
そのアキトさんの横顔を見ていて、不意に得体の知れない不安に襲われた気がした私。
…そして。
私の口からはただ一言、思いもかけない言葉が漏れていって。
「……黒は、駄目ですよ」
「ルリちゃん――?」
…僅かにしか見えなかった驚きの表情のあと、アキトさんは私のほうを向いてきました。言葉を漏らしてしまってから、私は自分の発言のどうしようもない迂闊さに気がついていました。
今のアキトさんにはきっと相応しくない、そしてアキトさんもきっと選ぶことはないだろうと思っているその色。私にとってはどうしても好きになれない色。でももしかしたらアキトさんの口からは…と、どうして一瞬だけでも、そんなことを思ってしまったのでしょうか。
サブロウタさんが気まずげな顔を見せてきました。ハーリー君はじっと私を見てきました。
そしてアキトさんが、私にすまなさそうな笑顔を見せてきて――。
少しだけ哀しそうな、でも、だからこそどこまでも優しげな微笑を見せてきて…。
「…そうだね。やっぱりあの色でもいいかな?」
「……はい。そうですよ」
そして私が小さく心でしか懺悔をできなかったのも、ほんの一瞬。その優しい言葉に続くようにして、もう一つ。とても元気のよいあの人の声が飛び込んできました。
「よう、アキトにルリ! 元気にしてたか?」
「…リョーコちゃん」
その声の持ち主はリョーコさんでした。パイロットの身分を示す赤と黒の制服に身を包んだ、以前より少しだけ髪を伸ばしている彼女。あの赤いアルストロメリアはリョーコさんの機体というわけのようです。
「お久しぶりです、リョーコさん」
「おお、久しぶり。特にアキトとはちゃんと会うのは正月以来かな、とにかくこっちもゴタゴタしてて地球に寄る暇なんてなかったからよ」
そして私とアキトさんの顔を交互に見返しながらそんなことを言って、リョーコさんは笑みを漏らします。その彼女に問いかけを返すアキトさん。
「でも、どうしてここに? まだアマテラスにいるんじゃなかったっけ?」
と、リョーコさんは肩をすくめながら天井の方を見上げました。
「…ああ、あっちは今ゴタゴタの真っ最中でな。アズマ准将が例の豪州方面部隊に同調して火星に飛んじまったもんだから、コロニー内は上へ下への大騒ぎだよ」
「アズマ准将って…あの威勢のいいおじさんですか?」
何か嫌なことを思い出したように、そんな呟きを漏らすハーリー君。いえ、私もあの人のことはよく覚えていますけれど。
「ん? そうだよマキビ。おっさんの突っ走りのせいでアマテラスも連合派とクリムゾン派、それに木連派の3つに綺麗に割れちまってな。今は仕事だ訓練だなんて言ってられねぇんだ。
…で、そこにちょうど連合のほうから俺に護衛パイロットの話が転がり込んできてよ。聞けばナデシコCに乗ることになるっていうし、そのままあそこで腐ってるのはたまんねぇからなぁ。すぐにOKしてこっちに飛んで来たのさ」
「はぁ…リョーコさんも大変なんですね」
「なぁに、たいしたことはねぇって」
そして私とリョーコさんはそんなことを言いあって。それからサブロウタさんが彼女に声をかけます。
「で、リョーコ。作業は全部終わったのか?」
「ああ、終わったよ。でもアキトの機体の調整に少し手間取ってたみたいだから…一応顔出しておいた方がいいんじゃないか? まだ時間あるだろ?」
…あとは特に驚くようなこともなく、アキトさんはリョーコさんと一緒に機体のチェックに向かい、私達は準備のためにミーティング・ルームへと足を向けていきます。
それから1時間ほどして、ナデシコCの一室で。この艦に乗り込む主要クルーが初めて一堂に会することになりました。
5.
「さて、皆さん。ここで一度情勢が現状に至ったまでのおさらいをしたいと思います」
始まりは、私のそんな一言。
薄暗いミーティング・ルームの席に腰を下ろしたクルーの皆さんを見渡しつつ、私は中央前方に浮かぶスクリーンに目をやりました。
…主な出席者は副艦長でもあるサブロウタさん、オペレータのハーリー君。それに実質上はネルガルからのオブザーバーであるアキトさんと、統合軍からの護衛パイロットであるリョーコさん。あとは顔なじみであるナデシコCクルーのブリッジ要員の皆さんです。
まず始めにアキトさんとリョーコさんの簡単な紹介があったあと、皆さんがスクリーンを見つめるなかでそのミーティングが始まって。
「――すでに皆さんもご存知のとおり、クリムゾン・グループと木連草壁派との間の繋がりは先の大戦から存在していました。彼らは互いに技術供与を行い、また地球圏から木星圏に渡るまでの広範囲の覇権と経済を握るべく機会を伺っていたことは記憶に新しい限りです」
ゆっくりと、次々に表示されていくチューリップや旧式の虫型兵器。それに続いてステルンクーゲルや積尸気といった、今なお現行の機体の資料が映し出されていきます。
「彼らが蜂起を行ったのは、2201年の7月に起きた“火星の後継者の乱”のことでした。ですがこの反乱は、連合に対するクーデターは事前に情報を入手していたネルガル重工の尽力、及び本艦の迅速な作戦行動により短期間で彼らの敗北に終わることになります」
続いて映しだされたのは、国連本部ビルを占拠しようと侵攻していた積尸気部隊、白いアルストロメリアによって鎮圧されたそのグレーの機体の映像。そして火星極冠にて捕縛された草壁春樹中将の映像でした。
…一瞬私はアキトさんのほうへとそっと目をやります。見た限りでは変わりなくスクリーンを見つめているだけのアキトさん。
僅かに目を瞑り、そしてまた私はスクリーンへと目を向けなおしました。
「……その後シャロン・ウィードリン、南雲義政らを中心に、彼らの残存勢力やクリムゾン・グループ内の強硬派などが数度小規模、中規模程度の反乱を起こしてはいますが…それらのいずれも程なく鎮圧されることになり、結果木連内に残っていた草壁派は完全に消滅。クリムゾン・グループもその力を削がれることになっていきました」
と、不意に椅子の軋む音が聞こえてきます。同時にリョーコさんの小さな叱責の声とサブロウタさんの呟くような声も。
それには構わずに、私は先を進めることにして。
「そして旧草壁派の一掃された新しい木連はクリムゾン・グループとの癒着関係を清算し、彼らとの取引は以前の半分以下のもの、正規のもののみとなります。そのため軍事産業を事業の基幹とするクリムゾン・グループにとって、古代火星人文明の技術を比較的安価にもたらしてくれていた木連との繋がりが実質上断たれたその状況が、いかに危惧するべきものであるか、同時に彼らの木連に対する印象が悪化していったその経緯は理解していただけると思います」
「…つまり艦長、彼らにしてみれば新技術の開発、発見が非常に困難になったというわけなんですね?」
ここで整備部主任のタニマチさんの声が聞こえてきました。私はゆっくりと肯いて、話を続けます。
「ええ、それはクリムゾンにとって重要な問題だったのでしょう。そしてさらに追い討ちをかけるようにして、2203年の11月、連合議会にある議案が提出されました。
議題は『火星の復興政策と木連国民の居住環境について』、提出国は木連及び地球圏コロニー連盟、それに彼らの同盟国による連名でした。…その内容は、皆さんも概要をご存知の事と思います。
『重なる大戦と紛争によって荒廃した火星の復興を促進するため、また現在も尚劣悪な居住環境にその身を置かれざるを得ない木連の国民を救済するためにも、我々は木連国民の火星移住と、極冠地方などの特定地域を除く一定領域内の木連領土化を提案する――』」
そして私は小さく息を吐き出しました。
サブロウタさんの掠れるような声が聞こえてきました。
「…ま、木連の人間にとっちゃ、一つの悲願でもあったわけだな」
その左隣、リョーコさんを挟んだ向こう側に座っていたアキトさんは僅かに俯いて、リョーコさんはテーブルの下に隠れているその右手が僅かに揺れて。
やがて静まり返ったミーティング・ルーム内に、私の声が再び響きます。
「議案はおよそ半年の時間をかけて審議され、2204年6月4日、最終的に可決されることになりました。ですがこの時、クリムゾン・グループの息のかかった国…彼らにその経済を大きく依存している一部の国々は議会をボイコットし…そして当のクリムゾン・グループの上層部はこの時、どうやらその指針を決定していたようです。
その後彼らの行動は迅速に行われました。可決案に対する“重大な懸念”の表明、火星の復興状況の調査という名目の豪州方面部隊の火星派遣。それは即座に不当占拠へと発展し…木連やそれに同調する諸国による再三の抗議の末に同年8月3日、新地球連合はやむを得ず木連の武力による『領土奪還』を一旦は認めました。
ですがその結果連合の予測とは裏腹に紛争は拡大し、木連軍一派と豪州方面部隊だけでなく、地球―木星圏内にある様々な国やコロニーからの戦力投入を招きかねない事態にまで悪化してしまったわけです。
そのため先日連合は両軍の衝突に対し改めて介入する事を決定し、本艦ナデシコCには派遣される調停大使の護衛を命じた――それが現在までの大まかな経緯です」
…そうして言葉を終え、私はクルーの皆さんの顔を静かに見回しました。
誰もが揃って緊張したその表情を向けてきていました。ハーリー君も口をきつく結んで、私のほうを見てきています。補助操舵士のリャンさんはいつものように生真面目な顔で、通信士のユミさん――日頃はサブロウタさんの毒気に侵された感のある彼女も、今は硬い表情で前を見つめています。
そして、アキトさん。
アキトさんはただ、黙って前を見つめているだけでした。その黒いグラスの向こう側は、薄暗いここからは全く見えませんでした。私はぎゅっと、右腕を小さく握って。
「……では高杉大尉。続いて任務の説明をお願いします」
「――えー。以上艦長より説明があったとおりの経緯の中で、本艦は新地球連合の派遣する調停大使の護衛にあたるわけですが。その任務において重要となる両軍の動向と現在の戦闘地域について、これより説明を行いたいと思います」
続いて私に代わり前へと出てきたサブロウタさん。スクリーンには火星全域の地図が表示されて。
「…まず本艦が最初に接触することになる木連軍の本隊ですが、現在はルナ高原の東南部、クリュセの海の沿岸地域にあたるこの位置に駐留していますね」
北半球のほとんどが青い海で覆われ、逆に南半球はほぼ全てが陸地となっている火星の地図。そのちょうど中央付近に見えるクリュセの海と、その海の西南方向に見えるルナ高原を指し示しながらサブロウタさんが言ってきました。それにアキトさんが苦い言葉を挟みます。
「ルナ高原東南部…。あそこは居住区内でも特に土地が痩せているのにか」
「ええ、遺跡やコロニーも数箇所の例外を除いてこの地域にはほとんど見られません。それでも豪州方面部隊に占拠されていなかった唯一の拠点ですから」
それからサブロウタさんはカーソルを左へと動かしていって。
「ここを基点として木連軍は西方面と南方面へと足を伸ばそうとしているわけですが…一方統合軍の豪州方面部隊を中心とする勢力はルナ高原中央部及びオリンポス山麓近辺、それに火星極冠の3地点に主力部隊を配置し、現在のところ木連軍の攻勢を完全にしのいでいますね。
――なお情報として補足しておきますと、このルナ高原の中央部からタルシス丘陵帯、それにオリンポス山麓にかけては先の戦争以前の中心地の一つでもあり、遺跡も極冠地方に続いて多く見られる地域というわけです」
「…なぁ、木連軍と豪州方面部隊の戦力差はどのくらいなんだ?」
と、リョーコさんがそう声を上げます。サブロウタさんはそれを受けて新しい資料を表示して。それは両軍の構成部隊を比較したものでした。
「木連軍の構成は主に統合軍の第1艦隊に所属している部隊。もっとも全部隊を向かわせるわけにはいきませんから参戦しているのはおよそ3割といったところでしょうか。それに同盟国からの援軍が全体の1割。いっぽう豪州方面部隊はその本隊の大半に加え、こちらは各方面からの合流部隊も全体の4割を超えてますね。
…ていうか、ここで両軍を比べてみると、数の上での戦力差はほぼないに等しいです。いや、豪州方面軍のほうが少ないかも」
そして首を捻りながらそんなことを言ってくるサブロウタさん。リョーコさんがその物言いに眉をひそめて。
「おいサブロウタ、本気で言ってんのか? 連中は木連軍に対してずっと優勢なんだろ?」
「でも、事実そうなんだよリョーコ。まぁ木連軍がここまでてこずってるのは、連中に先手を打たれてこの地方のチューリップをことごとく潰されたせいもあるんだけどな」
「成る程…」
少し不愉快そうなリョーコさんの声、サブロウタさんのため息混じりの返事。そしてアキトさんの低い声。
「高杉大尉。両軍の構成について詳細を」
「わかりましたテンカワさん」
さらに説明は続きます。
「…木連軍の主力は有人艦“ゆきまちづき”。それにディストーション・フィールド発生装置を搭載した改良型の積尸気(ししき)部隊による構成ですね。
現在、前線の指揮をとっているのは月臣元一朗大佐。2198年の熱血クーデター以来行方をくらませていましたが、2201年に公の場に姿を見せた後、1年の期間を経て軍へと復帰しました。
また、月臣大佐の指揮する“ゆきまちづき1番艦”は他の艦と比べ兵装も強化されていまして…先月に公式発表されたばかりの新型機動兵器、“黎明(れいめい)”と、こちらは未発表なのですがもう1機の新型機動兵器も艦載しているようです」
ここで一度、息を継ぐサブロウタさん。彼はスクリーンに表示されたその“黎明”に関する情報――『詳細は公表されず』という一文へと目をやっていました。
そしてその彼にアキトさんが、不意に冷たく重くなった声を放って。
「……大尉。クリムゾンのほうは」
その不意打ちの声に、私は背筋を凍りついた手で撫でられたような感覚を覚えました。
思わずアキトさんのほうへと目をやって、でもアキトさんはサブロウタさんのほうだけを見ていました。
「…では、続けますね」
一瞬だけ間を置いてから、サブロウタさんは言葉を続けました。
「豪州方面部隊のほうは確定情報が少ないので、憶測の混じったものになりますが……こちらの構成は主にリアトリス級戦艦“ライラック”とステルンクーゲル部隊によって構成されていますね。
この機動力に優れたクーゲル部隊というのが曲者で、積尸気が敵艦を短距離ボソン・ジャンプ射程範囲に捉えるまで接近させるのを完全に防いでいるようです。真面目な話、木連軍が苦戦しているのもそのためと言えるでしょう。そしてこの豪州方面軍を指揮している人物ですが――」
それから突如薄暗い部屋の中に浮き出ていった、その聞きなれない名前。私も先日初めて耳にした名前。
「…こいつが、大将?」
それからリョーコさんのその呟きに乗るようにして、皆さんの視線はスクリーンに映しだされた統合軍の資料へと移っていました。
…そこに写っていたのはブロンドに輝く髪をうしろに流した端正な顔つきの…そして何よりもその青い瞳から鋭い眼差しを見せてきている、一人の若い将校の姿。どこか冷たさを感じさせる一人の男性の姿。
「…若いですね」
ハーリー君がそんな感想をふと漏らしました。ここにいる誰にしても、そのことは意外だったのでしょう。皆さん一様に同じような軽い驚きの表情を見せてきています。確かに見た感じからすると、アキトさんやユリカさんと同じくらいの年代なのかもしれません。
「ええ、リロィ・ヴァン・アーデル。オーストラリア出身、階級は統合軍大佐。現在の豪州方面部隊内においては総指揮官であるリカルド・クレメンス中将の片腕でもあり、また彼個人もクリムゾン・グループと深い繋がりを持っているようです。ま、そういった彼の背景が今回の紛争で彼がクリムゾンから指揮を任された理由なんでしょう」
それからスクリーンには新しい映像が投影されます。それはスカイブルーの胴体を持つ双胴型の戦艦、そして隊列を組んで侵攻するステルンクーゲルの姿でした。
それを見て不意にアキトさんが、小さく息を漏らしたのが聞こえてきました。
「何よりもこの、彼の率いる旗艦“クレマティス”と精鋭のクーゲル部隊。この二つが木連軍にとって大きな脅威になっていまして…彼とこの艦の動向には我々も細心の注意を払う必要があると思われるんですが…」
そして、声を落とすサブロウタさん。切り替わる映像。
……その表情を、グラスの向こうの表情をはっきりと歪めるアキトさん。
「その中でも特筆すべきなのが、このクーゲル部隊のリーダー機であり、試験運用型の改良版クーゲル。――通称、“黒いステルンクーゲル”です」
「…黒い、クーゲル?」
そのハーリー君の声が聞こえてくる間も、私の瞳はアキトさんに釘付けになっていました。アキトさんの冷たい表情に釘付けになっていました。
「ええ。これです」
続いてサブロウタさんの低く抑えたその声が、私の耳へと届いて。
リョーコさんの、ハーリー君の、声にならない呻き声が届いてきて。
そしてその私達の視線の先、スクリーンには。
…まるで不吉な予感を思わせるような、そして――まるであのアキトさんの機体を思わせるような。
禍々しく黒一色に染められたそのステルンクーゲルの映像が、火星の大地に映し出されていました。
(記憶の2へ)
代理人の感想はAct.2の最後で。