〜メビウスの欠片 終章〜

  赤い大地の記憶




 記憶の2 「黒いステルンクーゲル」


 6.お茶の時間と秋の空

 連合宇宙軍本部ビル、総司令室。
 まだその暖かさに溢れた陽光が差し込んでいる一室で、4人の軍人が暢気な雰囲気のなか椀を傾けていた。
 「……そろそろナデシコも火星へとついた頃でしょうなぁ」
 まずそう漏らしたのはムネタケ・ヨシサダ参謀長。すでに白一色に染まりつつある髪を持ちながらもまだまだ体力の衰えを感じさせない、宇宙軍の古参である。
 「そうですね。無事に任務をこなせればいいんですけれど、豪州方面部隊がどう出てくるか…」
 その参謀長の向かいに座り、そんな心配事を口にしたのはアオイ・ジュン中佐。4人の中では一番年若い中性的な容貌を持つ男性で、その将来を期待されている身だ。
 と、彼の隣に座るどっしりした体格の中年の男…日本男児という言葉が一番似合うといっていいだろうその男が、軽い笑みを浮かべながら言ってくる。
 「しかし、まさか宇宙軍がこのような大任を任されるとは思いもしませんでしたからな。確かに統合軍の足並みが総崩れな状況とはいえ我等もまだまだ力を削がれている身の上。仮にも失敗すればあとはもうありますまいて」
 「何後ろ向きなことを言ってるんですか、秋山中将。今回の任務だってナデシコCの実績と能力があればこそ任命されたわけですし、ホシノ君なら大丈夫ですよ」
 それに横目で反論するアオイ中佐。そう言われたその男――秋山源八郎中将は椀をことりとテーブルに置き、アオイ中佐を見返した。
 「もちろんわかってるよアオイ君。ただ私は少々懸念を述べたまでのことだ。
 よく言うだろう?――『真に優れた武将とは常に最悪の事態を想定して動くべきである』とな」
 「はぁ……木連の格言はよくわかりませんけれど、まぁ」
 そして語尾を濁す彼。
 生来のものかそれとも生まれ育った環境が原因か、アオイ中佐は少し心配性というか苦労性の気があるのだが、対照的に木連出身の知将であり猛将でもある秋山中将は物事に対してどんと構えようとする気質が強い。そのためか彼の口からは不安材料や最悪の想定がためらわず吐き出されたりする。
 だからその度にアオイ中佐の敏感でいていい加減に頑強にもなってきた胃腸と神経はちくちくと刺激されたりもするのだが、それはともかく。
 「――秋山君」
 「はっ」
 突如4人目の人物から、威厳と力強さに満ち溢れた声が放たれた。
 その人物…4人の中で一番大柄でもあり、丁寧に手入れされた立派なカイゼル髭を生やした白髪混じりの男性。連合宇宙軍の総司令であるミスマル・コウイチロウ大将の口からさらに言葉が漏れる。
 「…ナデシコならば、問題はないよ。彼らの能力は宇宙軍の中でも、いや統合軍を範疇に入れたとしても群を抜いているからね。
 『部下を信頼することこそが武将の務め』という格言もある。ならば我々はその力を信頼しようじゃないか」
 「…ええ。そうですね」
 その力に満ちた言葉を聞いて秋山中将の口からは微笑が漏れた。続いてボソリと、言葉を付け足す総司令。
 「――それにあの船には、アキト君も乗せて…いや、乗っているしな。ルリ君もきっと心強いだろう。うむ」
 「……はぁ、そうですね」
 その呟きを聞いたアオイ中佐の口からは、苦笑ともため息ともつかない言葉が漏れた。向かいのムネタケ参謀長は『いつものこと』と椀をあおる。

 …ナデシコCに派遣する護衛パイロットを選定する際、ミスマル司令が裏で彼の娘婿であるテンカワ・アキトを選出するべく極秘裏に奔走していたことは4人には周知の事実である。そしてその仕事を一番こなしたのがアオイ中佐だったりするために、彼のため息にはいろいろな感情が――ただし諦めの意味が強いそれがこもっていたりする。
 それというのもおそらくの原因は、3年前のクーデター騒ぎに端を発した、ミルマル家内の一連の身内騒動。ミスマル総司令の一人娘であるテンカワ・ユリカとその夫であるテンカワ・アキトが生存していたという事実。
 死んだと彼が思い込んでいた二人が実は生きていたその事実は、彼をさらなる親馬鹿へと発展させたらしいとアオイ中佐は踏んでいた。そしてその対象は実の娘のユリカだけでなく、婿のアキト、二人の養子であるホシノ・ルリにまで及んでいるわけである。
 さらにここ最近では、初孫であるテンカワ・サクラの写真を手に頬を緩ませている微笑ましい光景が度々司令室で目撃されているのだが、それはまた別の話だ。

 …そして気がつけばまた、総司令の頬は緩んでいた。
 アオイ中佐はそのことに気がつき、きっとまた孫のことを思い出しているんだろうと思う。そう思って、少しだけ感慨深げに窓の外を眺める。
 (そうだよね…。おじさんももう、『おじいちゃん』になったんだ――)
 かつて彼が思いを寄せていた女性の父親であるミスマル総司令。その女性、ミスマル・ユリカは彼女の思い人と結ばれ、彼の思いが届くことはなかったわけだが…今となってはようやく、彼にとって懐かしく思い出せる日々となりつつある。やっと彼も、素直に彼女の幸せを喜べるようになったのだろう。
 そんなことをふと思い、アオイ中佐は彼と親しい…自称“ジュン君の恋人”でもある一人の女性のことを考える。以前あった“司令室直結電話事件”のために本部ビル内にその風評が余すところなく広がっている、ちょっと我侭で元気いっぱいの彼女のことを。
 「…おや? どうかしたのか、アオイ君」
 と、どうやら彼も表情が綻んでいたらしい。秋山中将にそう声をかけられてしまった。
 「いえ、なんでもないですよ」
 だから照れ隠しのようにそう答えて、彼は秋の空と、遠い宇宙をそっと眺めた。






 7.

 あれから2日ほどの時間がたって。
 特に問題が発生することもなくナデシコCの出航準備は整い、連合の大使さんをお迎えした船は盛大な出航式典やなにやらを無事に済ませてヒラツカ・ドッグを後にして。
 大使さん一行にとっては初めてのボソン・ジャンプ航海ということもあって、過度にその心配をされていたようですが、艦を案内したサブロウタさんの話によるとかなり神経質になってらしたそうなのですが。
 それでも今更通常航海で行くわけにはいきませんし、大使さんも神様に祈りながら覚悟を決めたご様子で、問答無用のジャンプ決行とあいなりまして。
 そして…ナデシコCは任務の地――青と赤に彩られたその星、火星へと到着することにました。

 「ここが火星ですか…。いやぁ、この目で見るとやはり違いますな」
 ナデシコCのブリッジ最上段。アキトさんの隣でスクリーンに映るその大地を眺めてそう言ってきたのが、私達が護衛することになるモーリス・マクファーソン大使。アキトさんと同じくらいに背の高い、黒髪を綺麗に後に流した面長で細身の中年の方です。
 マクファーソンさんは艦が出航してからジャンプを行うまではずっと貴賓室に秘書の方と篭っていられたのですが、ジャンプが終わって安心したのでしょう。すぐにブリッジへと顔を出してそのままずっとここにいらっしゃいます。
 そしてそのマクファーソンさんのお話し相手になっているのが誰かと言いますと、手の空いているアキトさんというわけでして。
 「…大使は地球から出られるのは初めてなんですか?」
 「いえ、月近辺までなら何度か足を運んだことがありますよ。ですがその先はないですね。それに国際会議は地球で開かれるのが定例ですから、仕事で宇宙へとでることは滅多にないんですよ」
 「そうなんですか」
 キャプテン・シートに座る私の右後ろから、お二人のそんな声が聞こえてきます。
 アキトさんもマクファーソンさんも和やかな雰囲気で会話されていますけれど…マクファーソンさんは少し気分が昂ぶっているみたいですね。
 「しかし、あのボソン・ジャンプというのは本当にびっくりしましたよ」
 と、不意に少し高くなった声でそんなことを言ってくる彼。
 「事前に何度も説明を聞かせてもらっていたのですが、やはりどうしても不安が拭えませんでしてね。部屋のソファに座って秘書のアシル君と一緒に今か今かとその瞬間を待っていたのですが、その時間のなんと長かったことか。
 そして突然の事でした。私の意識が、フッ…と遠くなっていきましてね。気がついたら私は横に倒れていて、SPに声をかけられていましたよ」
 続いて興奮冷めやらないといった様子で言ってきた彼に、アキトさんが小さく笑みを漏らして。
 「ジャンプを初体験された方の8割はその瞬間に気を失うんですよ。私にも経験がありますからお気持ちはよくわかります」
 「ああ、やはりそうなのですか。いや、成る程」
 そして一人納得いったようにそうおっしゃるマクファーソンさん。もうジャンプ前とは違って完全に安心しきっているようです。
 …高出力のディストーション・フィールドに守られていないと通常の人間は死亡してしまうって言う事実は確か説明してなかったと思うんですけれど、それを知ったらどんなお顔をなされるんでしょうね?
 「――艦長、前方2キロ先に木連軍有人艦“ゆきまちづき”を確認しました」
 と、ハーリー君からその報告が入ってきました。
 望遠レンズで映しだされたその紫色の独特の外観。その艦隊はゆっくりとこちらへと向かってきているのがわかります。
 「ユキさん、通信を繋いでください」
 「はいはぁい」
 それから私の命令に気軽な声で応える通信士のユキさん。肩先まで伸びたくらいの、シャギーのかかったブラウンの髪にいつも気だるげな表情。なのに性格はサブロウタさんと余裕で渡り合えるほど賑やかな人で。…たまに思うんですけれど、この人のノリはヒカルさんに近いものがあるのかもしれません。
 「…艦長、一旦停止しますか?」
 「いいえ。このまま微速前進でお願いします」
 「了解しました」
 一方でそう生真面目な口調で言ってきたのが補助操舵士のリャンさん。その言葉遣いと同様に身なりもきっちりとしていて、昔の黒髪短髪の頃のサブロウタさんを寡黙にしたような人ですね。こう言ってはなんですけれど…多分、ナデシコCで一番軍人らしい人です。
 「…さぁて、いよいよお仕事も本場っすねぇ」
 さらに私の横では、マクファーソンさんがいらっしゃるのも気にせずにそんなくだけた言葉遣いをするサブロウタさん。
 そしてスクリーンに大きくウィンドウが開いて。その向こうには長く真っ直ぐな黒髪と厳しい眼差しを持つ男性、月臣元一朗大佐が立っていました。
 『――ようこそ、火星へ。まずは通信にて失礼いたします。
 木連軍優人部隊大佐・月臣元一朗以下“ゆきまちづき”1番艦乗員125名、及び2番艦・3番艦・4番艦乗員、総勢472名、ナデシコCの到着をお待ちしていました』
 まずはそう口を開いて、敬礼とともに私とマクファーソン大使のほうへと目をやってくる月臣大佐。
 「本艦艦長のホシノ・ルリです。盛大なお出迎えに深く感謝いたします」
 私のその返礼に続いて、すっと一歩前に出た大使は真摯な眼差しで月臣大佐を見上げ、そして先程までとは少し変わられたその硬い言葉で仰られました。
 「はじめまして月臣大佐。新地球連合より当紛争の調停のため派遣されることになりました、モーリス・マクファーソンです。…まずは貴方がたの真摯な姿勢をお見せしていただき、私も胸に安堵の気持ちを抱くことが出来ました。
 私としましても連合の下に集う全ての国家のため、そして木連の名誉のために最善を尽くす所存でありますので、どうかこれからよろしくお願いします――」




 それから月臣大佐の率いる木連艦隊と合流した私達。
 マクファーソン大使が小型艇でゆめみづき1番艦へと赴いたなか、私達はといえばナデシコCのブリッジに就いて周囲の厳重な警戒にあたっていました。
 『――こちらナデシコC、スバル機。艦隊後方は依然異常なし』
 『――こちら“ゆきまちづき”2番艦。艦隊右舷、左舷ともに依然異常なし』
 『――こちら同じく4番艦。艦隊前方、依然以上ありません』
 月臣大佐の乗る1番艦とその後方につけるナデシコCを中心として、その回りを囲むようにして配置された各艦、そして警戒にあたっている機動兵器から定期的に報告が入ってきます。ナデシコCは後方の警戒、アルストロメリアで出撃しているリョーコさんからの報告です。
 そしてその一方で、これからゆめみづき1番艦より情勢の最新情報を受け取ることになっていました。
 「しかし、月臣大佐と顔をあわせるのも久々だったなぁ」
 と、クルーの皆さんが緊張の面持ちでシートについているその最中、不意にサブロウタさんが感慨深げにそんなことを言ってきて。
 「そうだな……」
 それに応えたのは、やはりアキトさん。今ブリッジにいるクルーの中では一番顔をあわすことが多かった人。何年かの間を同じネルガルSSの同僚として過ごした人…。
 そしてハーリー君が、実際に月臣大佐と会ったことは多分ないはずの彼がぽつりと漏らして。
 「…でも、考えてみればあの人も大変な人生を歩いてますよね。だって元はエリートの将校だったんでしょう? なのにクーデターの後に姿を消して、次に出てきたときがかつての宿敵ともいえるネルガルの密偵ですよ。
 それでもう一度行方をくらましたと思ったら、今度はクリムゾン相手に戦ってて――」
 「――ハーリー君」
 「はい?」
 気がつけば私のすぐ横に来ていたアキトさん。そのアキトさんの、なんて言ったらいいのかわからない優しい声にハーリー君は言葉を止めました。私が横を向いてみれば、アキトさんは小さく微笑を浮かべていて。その黒いグラスの向こうで、その目を悲しそうに細めていました。
 「…あいつもさ、あの時に決意をしたんだよ。自分の先に広がっているものに、立ち向かっていくっていうことをさ」
 その言葉に無言になってしまうハーリー君。
 「そう…っすね」
 シートに寄りかかりながら小さくそう言ってくるサブロウタさん。
 そして私は、アキトさんの握られた手に思わず右の手を伸ばしかけて――それをすんでの思いで引き止めて。
 …と、そんなシリアス一辺倒な雰囲気の中に、ユミさんの声が飛び込んできました。
 「あー…と、艦長〜? 1番艦から通信届いてますよ。今ばっちり話題に上がってる月臣大佐本人からですけれど」
 「――あ、はいユミさん。至急スクリーンに繋いでください」
 「はぁい、了解です」
 そのどこか間延びしたユミさんの声。重い雰囲気にただ水をさしただけなのか、それともそれ自体がわざとなのか。慌てて私は居住まいを正し、スクリーンに向き直ります。
 そして目の前に飛び込んでくるのは、厳しい眼差しを見せながらも、どこか感傷的な瞳をたたえた月臣大佐の姿。
 『…久しぶりだな、高杉。それに――』
 「……ああ、本当に久しぶりだな。月臣」
 そしてアキトさんとの間に交わされた、その短い会話。
 気がつけば、月臣大佐の口元にはどこか寂しい微笑が浮かんでいました。






 8.〜シェリエ〜

 …一方その頃。
 アキトたちナデシコCのクルーがいる地点から、いくばくか離れた平原。その涸れた大地を薙ぐように進む、数隻の戦艦のその切っ先。
 統合軍豪州方面一派、火星制圧部隊の誇る唯一無二の旗艦『クレマティス』――その鮮やかなスカイブルーの双胴艦のブリッジで、一人の士官が退屈そうにスクリーンを眺めていた。
 「…ふん。赤い星、因縁の星、か」
 シートに深く瀬を預け、頬杖をつきながらそんな一言を漏らした男。鷹のように鋭い目つきをし、血に飢えた肉食獣のような雰囲気を持つ彼。その彼はどこか不機嫌そうに額にしわを寄せながら、ブリッジの片隅へとちらりと目をやる。しかしそこにはいつものように彼女の姿はなく。あの狂った瞳をした女の姿はなく。
 だからその男――クレマティスの副艦長でもあるロバート・ガウェインという男は、さも退屈そうに、しかし口元には楽しそうな笑みを浮かべながら肩をすくめて見せた。
 「少佐、どうかなさったのですか?」
 と、それを目にした通信士の女性が声をかけてくる。
 ブロンドの髪をショートにした、少し冷たい雰囲気のその女性。ガウェインはその彼女に苦笑とともに声を返す。
 「作戦時間まであと1時間。なのにウチの切り込み隊長殿はたいそうご機嫌斜めらしいな」
 「…シェリエ中尉ですか」
 「ああ。あんのツンとしたへそ曲がりだよ」
 その名前を耳にして、女性の顔つきが少し固くなったことにガウェインは気がついていた。『ああ、またなのね』とでもいいたげなその表情。…きっと彼女の予想通り、今頃あの可愛げのない女は、貴重な士官用の一室をさも見事なパラダイスに変えてくれているのだろう――そう彼は思う。
 「ったく、リロィ…艦長もあんな女どこで拾ってきたんだかね」
 「ちょっと、少佐」
 続く女性の咎めるような言葉には軽く手を振って答え、ふと――――足元のずっと下のほうから、何かを叩きつけるような音が聞こえてきた気がした。
 彼はその短めの黒髪を後ろに撫で付けながら、女性に問う。
 「なぁ、今の音聞こえたか?」
 女性は少し首をかしげ、それからこともなげに言ってくる。
 「…少佐の気のせいでしょう? いくらなんでもブリッジまで彼女の立てる音が聞こえてくるわけありませんよ」
 「いんや、俺は聞いたね。ありゃあシェリエが寝室のドアを蹴破った音だ」
 「ご冗談を」
 と、少々しつこく感じたのか、彼女はガウェインの方を振り返り彼を見上げながら言ってくる。
 「お? 心外だな」
 そんな彼女の瞳を、肩をすくめながらも不意に静かな眼差しで射抜く彼。
 「俺はお前さんに冗談なんて言わんよ。口から出るのは全部本心さ」
 …一瞬の、その息の詰まるような間のあとに、疲れたようにため息をつく女性。しかし心なしか動揺しているようにも見えて。何かを思い出したようにくっくっと楽しそうに口元を緩めるガウェイン。
 「でしたら少佐、今すぐまじめに艦長の代理を遂行していただけますか?」
 「ああ。りょーかい…っと」
 そのガウェインの返事とともに、今度こそ微かな振動音。それを聞いた女性が、ブリッジの他のクルーたちが顔を見合わせる。
 ガウェインは、鼻歌でも歌うような調子で声を紡いだ。
 「……ふぅん。ありゃあ格納庫からか? 今日は嬢さん、破格の機嫌の悪さだな」
 「って、少佐。そんなのんきな事を言ってる場合では」
 そしてさすがに心配になったのだろう。先ほどの通信士の女性がそうガウェインに進言してくる。
 しかし、それをさも楽しそうな笑みで退ける彼。
 「気にすんな、やらしとけって。ありゃああいつなりの戦場に出るための儀式なんだからよ」
 「…艦長も少佐も、中尉に対して甘すぎます」
 そしてそう不機嫌な色の混じった声で言った女性は、何かを言いたげな視線を最後に自分の仕事へと戻っていく。
 静けさの戻ったブリッジ。彼とシェリエという水と油がなければ、たいてい静かな空気に包まれるこの場所。
 それが少しだけガウェインには退屈だったが、今日だけは珍しく。彼は艦長が不在となっているそのキャプテンシートに目をやりながら……あの女、『シェリエ』のことを考え始めていた。




 ……彼女は、『シェリエ』とだけ呼ばれていた。
 生まれも、本名も、家族のことも一切語ろうとしない彼女は、ある日突然ガウェインたちクルーの前に現れた。
 連れてきたのは彼らの上官であり、この艦の艦長であり、そしてガウェインにとっての『同志』でもあるリロィ。その彼が、どこからともなく連れてきたのだった。
 ラテン系と東洋の血が混ざったような顔つき。黒く真っ直ぐな、肩下まですらりと伸びだ髪の毛。170を越す身長の、均整の取れた身体。そして冷たくも美しさを放つ両の瞳。…背筋が凍るようなその視線。
 彼が、飲み込まれそうになったその視線。
 …そんな彼女は、どことも知れないような端部の部隊から引き抜かれてきたらしかった。しかしその実力は、凄まじいなどというものを超えていた。初めての模擬戦。僅か1分17秒で、彼はシェリエの操るクーゲルに敗北したのだ。
 『――ちょっと待てリロィ! なんなんだこの女?!』
 唖然とした表情から立ち直り、シミュレータの横で感心したような笑みを漏らしていたあの男に喰いついた彼。そんな彼にシェリエは蔑んだような笑みで、余裕に満ち溢れた言葉をプレゼントしてくれた。
 「お前もそれなりに強くはあるかもしれない。でも…『私達』にはまず勝てないね」
 その日以来、彼とシェリエの間柄は決定的なものになった。

 しかし、彼女の言葉通りにシェリエの操縦技術は異常なほどだった。そして、それに輪をかけて――彼女自身さえも何かがおかしかった。
 『私には…私の記憶がないんだよ』
 前に一度だけ、彼女がそう言ったのをガウェインは覚えている。
 それはいつのことだったか、確か…あれは彼らの部隊が火星に派遣されることが決まった時―――彼と、シェリエと、そしてリロィと、3人で小さな祝宴を開いたときだったろう。
 その時のシェリエの哀しそうな顔。彼女が初めて見たその表情と、そしてリロィの押し黙った雰囲気を感じ、彼は二人の間に『何か』があることに気がつかされた。
 艦のクルーたちが噂していた色恋沙汰などではなく、もっと別の何かがあることを。
 そして彼らがこの星に来たとき、それが少しずつ見えてきた。
 …そう、ガウェインは見てしまっていた。この艦が火星に到着したその時、あのシェリエが人知れず涙をこらえていたことを。

 『――そういえばシェリエ。お前、火星出身なんだって?』
 『…だったら、どうした?!』
 リロィからちらりと聞いたその話をしたとき、突然にシェリエの身体から湧き出された憎悪の熱さを。
 そして…いつか彼女の口から漏れた、深い深い復讐の誓いを。


 『…ナデ―――シコ』


 その、黒一色となってしまった嘆きの声を。




 …いくばくかの時間が過ぎ、スクリーンには新しい景色が見えてきた。
 ゆっくりと身体を起こし、ガウェインは手元に表示された時刻を確認する。
 「…そろそろ、リロィも戻ってくるな」
 低く呟き、その表情から軽薄な笑みを消し去っていく彼。
 そして一声、先ほどまでの彼とはまったく違うその言葉を紡ぎ出す。
 「ヒギンズ少尉。『ブルーメリア』もスタンバイさせるよう、格納庫に指示を出せ」
 「ちょ、少佐?」
 彼女にすれば思ってもいなかったその命令。あの通信士の女性は思わず背後を振り返り、そして続く言葉を見失った。
 「艦長の了承はもう得てある。それに何より、シェリエだけに今回の任務を任せておくと…どうなったものかまったくわからんからな」
 彼はそう言って、唇の端のみを危険にゆがめた。その瞳は冷徹なままに。不意にブリッジのドアが開き、その声が聞こえてくる。
 「――そうか。行ってくれる気になったか、ガウェイン」
 「ああ。アイツが何もかもぶち壊しにしないよう、お守をしてやればいいんだろう?」
 入ってきたのは、ガウェインと同じ統合軍の士官服に身を包んだブロンドの髪の男。このクレマティスの艦長であり、この火星に駐留している豪州方面部隊の実質的リーダー。
 その彼、リロィ・ヴァン・アーデルはゆっくりとキャプテンシートに向かい、事も無げにその言葉を吐き出していった。
 「さて。…ついにこの日が来たのだな」
 ガウェインはその言葉に笑みを返し、高揚していく気分を悟りながら席を後にした。





 9.貴方はいつかに会ったひと?

 ……月臣と最後に顔をあわせたのは、ちょうど2年前だったと思う。
 ただ、その頃のアイツのことはそれほど覚えてはいない。覚えているのは、アイツがネルガルから遂に去るらしいという噂があったことと――もう一つ。その噂のとおりにアイツがネルガルからいなくなる前夜、月支部の道場で完膚なきまでに叩きのめされたことだけだ。

 『…テンカワ・アキト。貴様がそうして腐っていきたいというのなら俺は止めはしない。そのまま其処で、腐っていけ』
 薄暗い道場。冷たく湿った木張りの床の上。そこであの時、地に倒れ伏した俺に対し、月臣はそう冷たく言い捨てた。
 『き――サマに言えたことか…』
 その時の胃液に汚れた口から漏れた、無様な俺の言葉に。アイツはただ静かに答えたのだった。
 『悪いがテンカワ、俺はもう自らの道を――償いの道を進む決意ができた。だから…貴様に付き合ってやれるのはここまでだよ』
 …そして今。あの男は純白の制服に身を包み、かつてのその場所に雄雄しく立っていた。


 『2年…か。お互いに長い2年だったようだな、テンカワ』
 僅かに頬を緩め、スクリーンの向こうから言ってくる月臣。この黒いグラス越しに見える、アイツの凛々しい――そしてどこか自嘲的な微笑。
 「ああ…。お互いにな」
 俺のその言葉と同時に、月臣は俺の隣に立つルリちゃんのほうへと目をやる。静かに会釈を返すルリちゃん。月臣はその会釈に、微かに眼差しだけを動かし再び俺を見る。
 …お互い、言いたいことは山ほどあった。それを間違っても口にはできなくても。2年前には自分で分かっていながら血溜まりの底にいることしかできなかったもの同士、あの時最後まで反りは合わなかったとはいえ…やはりあいつにも同じような感情があるのだと、強く思わされる。あいつもそれをわかっているかのように、小さく笑って言ってくる。
 『もどかしいものだ。今度貴様に会ったら必ず言ってやろうと思っていたこと…それが今になって、どうしても出てこないとは』
 「それはこっちのセリフさ、月臣」
 同じようにして苦笑を返す俺。ルリちゃんは少しだけ困ったようにして俺へと顔を向けて。
 と、不意に月臣の横から訝しげなその声が聞こえてきた。
 『…月臣大佐、宇宙軍の方に知り合いがおられたのですか?』
 「――君は?」
 俺の口から、問いかけの声が漏れる。月臣のすぐ隣に立つ、その長い黒髪の女性。月臣と対を成すような黒の制服、その後ろ髪を紫色の髪留めで留めた、どこか不思議な情緒のあるその姿。…多分、初めて見る顔のはず。
 そして月臣がその女性に言葉をかけて。
 『そういえば紹介がまだだったな。…イツキ』
 わずかにその場で頷き、一歩前に出ると凛とした敬礼とともにその女性は挨拶をしてくる。
 『――はじめましてナデシコの皆さん。私は木連軍優人部隊第2分隊所属、“ゆきまちづき”1番艦副艦長の“七条イツキ”と申します』
 …ふと、何かが心の隅に引っかかった気がした。遠い何か、ぼんやりとしていて、それでもはっきりと覚えているはずの何かが。
 『イツキ。彼らは俺が地球にいた頃に縁があってな。まぁ…つもり積もる話もあるのだが、それはまた後にしよう』
 しかしそう彼女に言葉をかける月臣。俺のその引っかかりをかき消すようにして、ルリちゃんが半歩前へと出る。
 「…ええ、そうですね月臣大佐。まずは今必要な話からはじめることにしましょう」
 続くルリちゃんのその言葉に月臣は頷きを返し、七条さんの口から最新の情勢報告が伝えられることとなって。


 …さて、その七条さんの報告は正直芳しいものではなかった。彼女の口から語られたのは、1週間程前に連合より戦闘停止勧告が出たものの、各地方で両軍の衝突が発生し実情としては以前となんら変わりがないこと。統合軍からの豪州方面部隊への参加は、非公式なものも含めて未だ僅かずつながらも続いていること。
 そしてナデシコCが火星へと発つその直前。奴らは火星宙域の重要拠点として、第2衛星『ディモス』の制圧に成功したこと――
 『…つまり、ありていに言ってしまいますと、私達は常にあのクレマティスに先を越されているんです』
 そしてそう七条さんの口から漏れた悔しげな声が、木連軍の不利な情勢を如実に表していたと言っていいだろう。俺がなんとなしに彼女のその姿を眺めるなか、皆一様に押し黙る。
 「…彼らが、豪州方面軍が停戦に合意する可能性は高いと思いますか?」
 その僅かに訪れた沈黙の中、ルリちゃんは月臣にそう尋ねた。しかし月臣から戻ってきたのは苦い返事のみ。彼は躊躇うように視線を横にやる。
 『それは…現時点での停戦合意は、正直なところ我々にとって難しい。本来移民するはずだった土地は軒並みやつらに占拠されているような情勢だ。仮に現時点で合意に達したとしたら、彼らがその地から撤退することはないだろう。それでは意味がない』
 ゆっくりと首を横に振り、月臣はそう答えた。俺は静かに彼へと問いかける。
 「つまり月臣、この戦いを続ける理由があるのはむしろ木連軍の側だと?」
 七条さんが、しかし険しい表情をして言葉をはさんでくる。
 『…いいえ、テンカワさん。それは彼らも同じことと思います。…彼らの目的は、この火星から私たち木連軍を完全に撤退させることですから。だから彼らが停戦に合意することは、決してないでしょう』
 その重い言葉。どこまでも明確でいて俺たちの任務から断絶されたその言葉に異を発したのは、意外にもハーリー君。
 「…あのう、すみません七条さん。どうして…どうして、彼らの目的がそうだとはっきり言えるんですか?」
 『――それは…』


 ……そして突然、両艦のブリッジに警報が鳴り響く。

 『何事だ?!』
 『月臣艦長、三番艦のレーダが所属不明艦隊を補足しました!! 現在距離およそ10000、おそらく豪州方面軍です!』
 『なに!!』








 10.〜幕開け〜

 …その薄暗いコクピットの中、私は――――『シェリエ』という記号で飾られた女は、低く笑い声をもらしていた。
 全てを押し殺すようにして、ひたすらに肩を震わせていた。
 「くっ、くくく……」
 あたりに消えていく声。その言葉にならない声。
 きっと私は笑いながら、同時に泣いてもいたのだろう。その終わりのない感慨と憎悪に浸りながら、落ちる涙を拭うこともせずにシートの上で空を見上げる。
 見上げて、そして肺の内へと空っぽの空気を詰めていく。

 ――――永かった。そう、永かった。

 私の心から漏れ出た声。
 私の中へと溢れ出た光景。
 そう。あの日以来、決して一度も忘れることのなかった記憶。忘れることのできなかった光景。
 呪い尽くしても、絶望にまみれても、どうあがいてもこの身体に刻まれ続けていたその過去と未来。
 私が私でなくなり、その夢と記憶の中で彷徨い続けた十数年の果てで。その果てで今、私は確かにこの場所にいる。そう、間違いなく。
 ……そうだ。あの男の墓場となるべきこの星に。




 ゆっくりと、口をつむぐ。黒のヘルメットを静かに戴く。発進信号が青く灯る。
 操縦桿を…強く握り締めるこの感触。
 ブリッジの彼は、ただ私を遠く見送ってきた。私は彼へと薄い笑みを返した。
 そして私は、私の中にいる“もう一人”へと…悲しい瞳をしたあの女へと静かに語りかけた。

 「……喜べ、“サレナ”。もうすぐだ。もうすぐアキトに――本物のアキトに逢える」




 (
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