〜メビウスの欠片 終章〜

  赤い大地の記憶




 記憶の4 〜何もない故郷へ〜


 1.白い月

 ネルガル重工本社、社長室。
 夜の幕に包まれ始めたその一室の中で、二人の男女が言葉を交わしていた。
 「…いやぁ、済まなかったねエリナ君。わざわざ休日のところを呼び出しちゃって」
 月を横手にグラスを掲げ、男は言う。
 その横顔にくすんだ夜の街の光を浴びながら、彼はテーブルの向かいに立つその女性に小さく楽しげな微笑みを向ける。
 「どうせ火星にいるテンカワ君のことなんでしょう? 私が断らないのを知っててこんな時間に呼び出すんだから、まったく」
 返ってきたのは少々呆れ声の、ため息交じりの返事。それでもどこか優しげな彼女の声。
 そしてそんな彼女を横目で見上げながら、その男、アカツキは少々失礼交じりな言葉を吐いていった。
 「ちょうど今夜の相手を探してたんでね。どうせ月に戻っても予定はなかったんだろう?」
 「ま、いいわよ。付き合ってあげる。……で、テンカワ君、なんて報告よこしてきたの?」
 透明なグラスの奏でる音。社長席の横にあるその黒革のソファに腰掛け、慣れた手つきで手元のグラスに氷とアルコールとを入れていくエリナ。
 以前と変わらないその隙のないスーツ姿、まるで誰かさんへのあてつけのように後ろ髪を伸ばしていた彼女は意外にもそれが気に入ったのか、今もそのスタイルを変えようとはしない。
 それでもあの頃よりも気のせいか、少しだけ穏やかになったようにも思えるその表情でいて。
 そんな彼女の姿を眺めながらグラスをあおると、アカツキはその報告書へと目を向け、そして静かに苦笑する。
 「まぁだいたい予想はしてたけど…こりゃまた前途多難だねぇ。どちらも戦闘を中止する意志はなし、か。現在ナデシコCは統合軍木連艦隊と行動中。明日午後に軍高官とマクファーソン大使との会談を予定するも、総攻撃の回避は難しい状況にあり――だってさ」
 目を通していた資料から顔を上げ、素っ気なくエリナが言葉を返す。
 「そう言うわりにはあんまり困った顔してないわね」
 その言葉に彼は書類をデスクの上へと放り投げ、大げさな仕草で肩をすくめて見せて。
 「そうかもね。彼らが連合の言うことを聞いてくれないからこそ、僕らとナデシコは晴れ舞台を得るんだし…それに今更彼らが後に引けないことくらい、わかりきってることだろう?」
 「それでテンカワ君とナデシコCにはどうさせるのかしら?」
 そしてアカツキは薄く微笑う。どこか冷たく、またどこか自嘲的に微笑う。
 「…もちろん、月臣大佐と一緒にクリムゾンを潰してもらうよ」
 「――――」
 言葉を止める彼女。そして夜を見上げながら、彼のその口から言葉が漏れていく。
 「幸いテンカワ君もやる気になってくれているみたいだからね。例の機体を使いたいって言ってきてる」
 その言葉に、彼女は耳を疑った。
 「機体って…まさか、サレナ・タイプの後継機のこと? でもまだ運用試験は完了してないじゃない。機体名称だってまだ未決定なのに」
 「実戦にはもう十分投入できるだろうって言ってきかないんだ。『アルストロメリアじゃ役不足だ』ってさ」
 続いて顔を上げてそう抗議してきたエリナだったが、彼は静かに首を振った。残り少ないグラスの中身を一気に飲み干し、どこか強い覚悟の混じったような瞳を霞んだ空へと向ける。その不透明な夜と、先の見えない空に彼は何かを思う。
 口を閉ざした彼にエリナは何か言葉を発しかけ、でもそれを思いとどまり小さく吐息を吐き出していった。何かをごまかすように、隠すようにガラスの向こうを見つめるアカツキに。ただ視線だけを静かに投げかけていった。
 「…しかしまぁ、あれだよね」
 「なに?」
 そしてふと天井を見上げながら彼は呟いてくる。その声にエリナは口元へともっていこうとしていたグラスを止め、彼に問い返した。
 「思えば大学1年のときにキミと会って以来、随分と長い付き合いだ。…なのに今までお互いなんにもなかったっていうのも、へんな話だなぁって」
 「単にそりが合わなかっただけじゃない?」
 意地悪げにそんなことを言ってくる彼女。でもふと少しだけ真顔になって、彼は窓の外へと目をやりながら呟いてくる。
 「あるいは僕らが、似たもの同士だからなのかな…」
 と、その言葉を聞いて。彼の本音にも思えたその呟きを聞いて。
 それはしばしの沈黙の後だったろう。エリナは昔の彼女なら考えられもしなかったその微笑みを彼へと向けながら…どこか優しげなその笑みを見せながら、言ってきたのだった。
 「…ふふっ。まぁ、そうかもね。あなたはあの人にふられちゃって――私もあの人にふられちゃったもの。ホント、似たもの同士なのかな」
 そんなエリナの優しい声に、アカツキは微かに胸の痛みを覚える。わずかな罪悪感と、それを打ち消そうとする心。
 …薄く輝く街明かり。その合わせ絵におぼろげに映し出された、無言のままの二人。
 そしてエリナの声はそんなアカツキの内心にどこか気づいているようでいて、でも今だけはその先に踏み込もうとはしなかった。この僅かな時間だけは、彼の求めた小さな追憶に身を任せていた。
 (…ホント彼女も可愛くなっちゃったよね。この責任はどうしてくれるんだい、テンカワ君?)
 だから心に小さくそう思い苦笑する彼。静かでいて、遠い痛みを彼に思い出させる時間。
 月は白く、グラスの向こうに輝いていた。








 2.〜シェリエ(ii)〜

 豪州方面部隊旗艦『クレマティス』、薄暗い夜の空気に包まれた通路の片隅を一人歩く彼女。
 その扉が開いたのは、彼女――シェリエがちょうどその目の前を通り過ぎたときだった。
 「……?」
 中から出てきたのは彼女もよく知っている男、この艦の副艦長でもあるロバート・ガウェイン。彼は不機嫌絶頂な顔のまま足早に立ち去ろうとし、訝しげな表情で彼を見てくるシェリエに気づく。
 「――なんだお前か。おどかせやがって」
 「ずいぶんな言いようだな」
 扉が静かに閉まる音。中から聞こえてくる、何かを思いっきり扉に投げつけたような音。その音を耳にした彼の顔が面倒くさそうに歪む。
 …ここは確かヒギンズ少尉の居室だったはず。扉横のネームプレートをチラリと見ながら逡巡した彼女は、冷めた目つきで彼へと向き直った。
 「この大事な時に随分お楽しみみたいだな、ガウェイン」
 「るせ。どこでどの女とケンカしようが俺の勝手だ」
 「だがそのおかげでリロィにいらない負担が増える。いい加減に艦内のクルーに手を出すのをやめろ」
 続く二人の押し問答。どちらとなく歩き出しながら、シェリエは不機嫌そうに彼を睨む。
 そんな彼女を見返し彼はニヤリと笑う。
 「お? なんだお前。自分だけまだ口説かれてないもんだから拗ねてんのか」
 「バカか、貴様は」
 そのシェリエの言葉に、彼はさも楽しそうに忍び笑いを漏らした。
 「ったく、リロィもこんな可愛げないヤツのどこがいいんだかね。美人なことだけは認めるがよ」
 だが彼女はそんな言葉にも冷たい口調で答えるだけ。
 「好きでこういう顔に生まれたわけじゃない」
 思わず半眼でつっこむ彼。
 「…おめー、ホントにかわいくねぇな」
 「ふん」
 そして彼女はそっぽを向くと、立ち止まり肩をすくめてみせる彼を残して歩き出した。そんな彼女の後姿を見て、ガウェインは一瞬目を細める。
 …シェリエのその後姿。今はあの時の憎悪の面影も見せずに、ただいつものように気だるげで不機嫌そうなその表情を見せているだけの彼女。彼は彼女とそし てリロィとの間の『秘密』とやらにも前々から興味があったが、今はあれこれ詮索するような気分じゃないらしく、右手で赤い腫れ跡の残る頬をさするときびす を返そうとした。
 「…ガウェイン」
 「あ?」
 と、不意に背中越しのシェリエから声がかかる。振り向いた先には冷たい視線で彼を強く見据えてくる彼女。
 「わかっていると思うが、今が一番大事なときなんだ。まさかと思うが貴様のくだらん気まぐれのせいで、それを台無しにだけはしてくれるなよ」
 その言葉に彼は薄く微笑った。笑って、そして抑えきれない感情をこらえるように俯いた。
 「…くくっ、それこそまさかだろ。お前とリロィを除いたら、俺ほどこの時を楽しみにしていたヤツは他にいないぜ? なにせアイツのとんでもねぇ野望をこの目で見るために、俺はここまで来たんだからな」
 「…………」
 わずかな沈黙。じっと彼を見つめるシェリエ。彼女のその俯きかけた表情。
 だが彼女の瞳は不意にまた、あの時のような強い憎悪に照らされて始めているようだった。憎悪と、そして悲しみに満ちているようだった。
 「…―――」
 そのただ一つの言葉。シェリエが自分でも気づかぬうちに胸の裏側から漏れ出た言葉。
 そう。それはまるで彼女でない誰かが、遠い記憶の果てから不意に溢れてきたような…。
 …そんな彼女の様子に彼は小さく首を傾げる。ゆっくりとかぶりを振り、そして目の前の男を否定するようにシェリエは今度こそはっきりと顔を上げる。
 「…違うな。お前がリロィと一緒にいるのは、ただおまえ自身の野心を満たすためだ。だからいつかお前はあいつを裏切る。絶対にだ。
 だがこれだけを覚えておけ。もしもお前がリロィを裏切るとき、そのときには――――他の誰でもないこの私が、お前のその首をかき切ってやる」
 そしてその言葉を残し、彼女は何かを振り切るように早足で去っていった。
 残された彼はどこか呆気にとられたように、だがその顔にニヤリとした笑みを浮かべながら。
 「……ふぅん、なんだ。あいつもけっこう可愛いところあるじゃねぇか」
 歩き出す彼。ふとその口から漏れた小さな呟きが、誰に聞かれることなく空に消えていく。その一つの言葉が消えていく。
 そう。その重たい響きを含んだ、何気ない彼の呟きが。

 「そういや…あいつに『サレナ』ってやつのことを聞くの、また忘れてたな。
 ま、聞いたら聞いたできっとだんまりするだけなんだろうけどよ――」









 3.黎明に

 そして夜明け前。火星を望む『ゆきまちづき一番艦』のデッキの上。まだ薄暗い空の中、彼女―――七条イツキは何をするでもなく、その薄い光を眺めていた。
 一人、輝き始めた黎明を眺めていた。

 「イツキ」
 ふと耳に届く確かな声。その声に彼女が振り向くと、そこには白の制服に身を包んだ月臣の姿。
 「…また、昔のことを思い出していたのか?」
 口の端に小さな微笑を浮かべ、そのさびしそうな表情を和らげることもなく彼女は頷く。
 「少し早く目がさめたものですから、ちょっとだけ身体を動かそうって思って」
 そうは言いつつも彼女の視線は地平線の先へと向けられる。そっとその瞳が投げかけられる。
 その先には一筋の緩やかな弧が輝いていた。今ははっきりと捕らえることのできないその虹色の粒の向こう、もう見慣れたはずの黎明が静かに横たわっていた。
 そして、彼女は小さく声を漏らす。
 「……それに、もう以前みたいにははっきりと思い出せなくなりました」
 「―――」
 その言葉に月臣は押し黙る。彼女のその響きの内に滲んでいた小さな失望感と、なによりもやるせなさを強く感じたのだろう。ただ黙って、彼女の傍へと立つ。
 普段の凛とした雰囲気とは違う、不安とかすかな怯えとに包まれたような彼女を見やる。

 …彼女には過去の記憶がほとんどなかった。
 先の大戦のさなか、遭難者として月臣の知己に匿われていた彼女。発見された当時は自身の名前すらもはっきりとは覚えていない状態だった。そして少しずつ記憶を取り戻していくにつれて、彼女はその辛い事実を突きつけられることとなった。
 それは、彼女が『地球人』であるという事実。
 彼女は…イツキは彼ら木連の人々にとっての仇敵である存在だということ―――

 「…後悔しているのか? 地球へと戻る道を選ばなかったことを」
 ふとためらいがちに、月臣の口からその言葉が漏れた。その言葉に少しだけ悲しくなりながらイツキは彼のほうを見返す。彼の視線は、ただ眼下の薄茶色い地平へと向けられている。
 彼女は小さく口元を緩めながら、そんな月臣の言い草に複雑な感情を抱きながら答える。
 「いいえ…きっとこれでよかったんだって、私はそう思っています」
 その答えに紛れもない嘘が混じっていることを実感しながら。
 だから自分に言い聞かせるように、彼だけに向き合うこともできずに言葉を続けていく。
 「…結局私が思い出せたのは、自分の名前と、私が機動兵器のパイロットだったということだけ。家族のことも、友人のことも、ほとんど何も覚えていないままでしたから」
 言葉とともに、その重ね合わせた両の手に視線を落とす。
 「それにあの戦争のあいだずっと、地球人の私のことを養父や月臣大佐はかくまってくれて。養父は私のことを家族として迎えてくれて―――」
 そして、あの日のことを彼女は思い出す。


 『――――七条イツキ、って…あの、十真さん……?』
 『いいんですよ、イツキ君。貴方が記憶を取り戻すまでのことだとしても、やはり今のままでは色々と不便なこともありますし。
 それに私達夫婦には子供がいませんから…それがせめてもの恩返しと、思っていただければ―――』


 …あの時はあまりに突然のことで、イツキはただ放心したようにか細い返事をすることしかできなかった。
 でもそんな彼女に養父は優しく微笑んでくれて。そして他の誰でもない月臣も、小さな意地から仏頂面を保とうとしながら結局それができず、まるで照れ隠しのようにそっぽを向いていて。
 だから彼女はその横顔を胸に、やるせなく微笑んで…。
 「だからあの日にきっと、私は今の道を選んだんだと思います。今、私がここにいられるのも…養父や元一朗さんがいてくれたからなんです」
 なのにだんだんと、彼女の声が呟くようになっていく。その告白と裏腹に、ほんの僅かだけ。どうしてだろうか?
 彼女のその横顔には、確かにその悲しさが滲み出ていて。
 「………」
 そして月臣はその表情に気づいてしまった。いいや、気づかないほうがどうかしていたのかもしれない。そして彼女は小さなためらいを振り払うように、その言葉を口にする。
 「――でも…なんででしょう?」
 その消え入るような呟きを口にする。
 彼女は耐え切れなくなったように、ほんの僅かな間だけ、その瞳を閉ざす。
 「…昨日、本当に久しぶりに昔のことを思い出したような気がします。あの太陽を見ながら、夕日が落ちていくのを眺めながら。
 そうしたら私……どうしてか、辛くなって。今、どんな決意でこの場所にいればいいのかが、わからなくなりそうで―――」
 「…イツキ」
 そして彼は、声をかけた。
 決してその彼女の弱々しさに耐えられなくなったからではなく、きっとそうではない別の気持ちで。今度こそ真っ直ぐと、彼女のほうを向きながら。
 「前にも言っただろう? たとえお前が地球の生まれだったとしても、今のお前は紛れもなく誇りある木連の民の一人だ。誰もお前を否定したりなどしないし…この俺がそんなことなどさせはしない」

 …イツキは静かに、もう一度朝焼けへと目を向けた。
 地の果てから遠く、その天にかかる虹の輪へ伸びていく光へと目を向けながら、彼女自身の中でその感情が抑えきれなくなるのを感じていた。
 そして。

 「…元一朗さん」
 そっと呟く彼女。ただ、目の前のイツキに視線を向ける月臣。

 「ちょっとだけ、弱音を見せてもいいですか?」
 「…ああ」


 その一つの影の先、朝日はゆっくりと昇り始めていって。














 4.

 その日の午後、ナデシコCの食堂の片隅で。私とハーリー君は二人、遅い昼食をとっていました。
 朝早くから司令部への報告書の作成にマクファーソン大使とのミーティング、それに木連艦隊の方々との情報交換、会談の準備に駆け回っていた私達は、よう やくとれた休憩に一息つきながらコーヒーカップを傾けて。向かいの席に座るハーリー君もはにかむような笑顔と一緒に小さく息を吐き出します。
 「は〜〜、やっと一息つけますね。10時間ぶりの食事ですよ」
 「ええ、もうお腹空っぽです。でもハーリー君が頑張ってくれたおかげで思っていたより早く終わりましたね」
 カップに口を寄せながら言う私に照れ笑いを浮かべるハーリー君。そんな仕草も昔とは違っていて、彼も男らしくなっていくんだなぁと、私は当たり前のはずの不思議な実感を覚えながら微笑んで。
 「会談が始まるまで少し時間がありますし、せっかくだから少しのんびりしていきましょうか」
 「あ、いいですね。こっちきてからずっと、僕も艦長も駆け回りっぱなしだったし。たまにはサブロウタさんみたいにこっそり息抜きしとかないと」
 そんな言葉に小さく笑い声を漏らす私。テーブルの上には私の頼んだラーメン定食とハーリー君のCランチ。サブロウタさんが見たらきっとまた『色気がな いっすよ艦長』とか言ってくるんでしょうけど、でもそれはそれです。それに私だって最近は、栄養とか美容とかにも少しは気を使うようになったんですから。
 と、そんなことを考えていると。ハーリー君は白身魚のフライを箸で裂きながら、私のほうへと上目遣いで視線を向けてきました。
 「…そういえば艦長、頼まれてた調査のことなんですけれど」
 「どのくらいわかりました?」
 小皿のサラダを手に取りながら訪ねる私に、彼は躊躇するように言葉を続けてきます。
 「アーデル大佐とクリムゾンについてはだいたいわかってきました。でも…例のパイロット、軍のデータベースに全然情報がないんですよ」
 「全然…ですか?」
 そして軽く身を乗り出してくるハーリー君。
 「はい、もう全然。僕、登録情報見てびっくりしちゃいました。出身地とか軍に入るまでの経歴がなかったのはともかく、本名も顔写真も書いてないんです よ。記録されてるのはクレマティスに配属されてからの戦歴と『シェリエ』っていうファーストネームだけで、それ以外のことは本当に何も。…こんなのってあ りえます?」
 「…………」
 私は箸を止め、ラーメンの入ったお椀を見つめながらしばし考えて。
 「…普通、過去の経歴を隠そうとする場合は虚偽情報を載せておきますよね」
 「え? あ、はい。そうですね」
 「でもこのパイロットの情報はそれすらもされていなかった」
 「はい…」
 二人少しのあいだ口を閉ざして。
 「やっぱりアカツキさんとか、ネルガルの情報にあたったほうがもっと何かわかるかなぁ…」
 ふと小さくため息をつきながら、そんなことをハーリー君が言ってきました。その言葉に私は視線を上げて、壁際のメニューを見上げる彼の言葉に声を返します。
 「あの人はそう簡単に口を開いてくれないです。ナデシコでは一番打算的に腹黒でしたし」
 と、眉根を寄せる彼。
 「うーん…アキトさんにならたぶん話すんだろうけど、アキトさんが僕らにもそれを全部教えてくれるかはまた微妙な気もするし…あとはラピスにこっそり調べてもらうとか」
 「…あの子は見返りが高いですよ? でもそれしかなさそうですね」
 そして苦笑がこぼれるのを自覚しながら、私は左手で首筋にかかる髪を拭いました。
 ハーリー君はそんな私の仕草を見てどこか気恥ずかしそうな不思議な笑みを見せると、私をそっと元気づけてくれる明るい声で言ってきてくれました。
 「きっと大丈夫ですって! それよりほら艦長、早くラーメン食べないと伸びちゃいますよ!!」
 だから私もつられるように、くすりと小さく微笑んで…。

 「ん〜、お前もまだまだだなハーリー。せっかく二人きりでメシ食ってんだから、もうちょっとこう、押しにいかないと」
 「はい?」
 「…うわっ?!」
 と、突然ハーリー君の背後から生えてきたサブロウタさんの首。
 「なにやってるんですかサブロウタさん?」
 「あ、こりゃ失礼」
 そうは言いつつもサブロウタさんは何食わぬ顔でハーリー君の隣に腰掛けて。そんな彼を睨むハーリー君を気にも留めずに、私に話しかけてきます。
 「で、艦長。ハーリーとの話の続きなんですけど」
 「…はぁ」
 「ていうかサブロウタさん。いきなり横から入ってきて何事もなかったように話進めないでください」
 ちょっとだけ呆ける私と、そう不機嫌な声で言うハーリー君。するとサブロウタさんは首をくいっと傾げると、
 「じゃあ質問をかえましょか。いったいお二人ってどこまでいってるんです?」
 「「――――」」
 …口に運んでいたラーメンを硬直させたまま、思わず瞬きを繰り返す私。
 にこりと微笑ったままのサブロウタさん。
 で。その微妙な間を破ったのはやはりというかなんというか、ハーリー君のいつもの大声でした。
 「な、なななななな、いきなり何言ってるんですかサブロウタさん?!!」
 「いやさぁ、テンカワさんから『最近よく二人だけで遊びにいってる』なんて聞いたもんだから、こりゃついにハーリーにも春が来たんだなぁと興味津々なのよ、俺は。で、正直つまりはどうなんだよ?」
 「ど、どどどど、どぉって…」
 そして詰め寄るサブロウタさんに、動揺しまくりのハーリー君。ていうかハーリー君、そこまで慌てたらかえってサブロウタさんを刺激するじゃないですか。
 「…まーったく、サブ、お前もほどほどにしとけよ」
 「あ、リョーコさん」
 と、続いてそんな声を上げながらリョーコさんが私の隣に腰を下ろしてきました。…というかリョーコさんも近くでサブロウタさんみたいにして、聞き耳でも立てていたみたいです。
 そんなリョーコさんはふと私のほうに顔を向けると、なんでもないような顔をして言ってきて。
 「でよ、ホントのところどうなんだ?」
 「――…」
 …いえ、もう何も言うことはないですけど。
 私は小さなため息一つ。できればしばらく、特にサブロウタさんにだけは伏せておきたいと思っていたんですが…。

 「…付き合ってますよ。本当に、つい最近からですけど」
 「――――」
 そして私の、そんな何気ないはずのひとこと。でも今度はサブロウタさんが瞬きを繰り返す番だったみたいでした。
 「…って、お? ハーリー??」
 そう言ってすぐ横のハーリー君に向き直る彼。そしてハーリー君の照れたような困ったような笑みを見て、なんともいえないニヤリとした顔を見せてきます。
 「おぉ、そうかそうか! なんだよ、てっきりお前のことだからあと5年は小学生ごっこ続けた挙句にあっさりフラれると思ってのにな!」
 「…てか、『応援する』とか言っときながら僕のことそんなふうに見てたんですか」
 思わず半眼になってつっこむハーリー君の肩を、やけに楽しそうにバンバンと叩いて。
 「まぁそういうなよ。しかしこりゃあブリッジの2人にも早速知らせてやらんとな」
 「…サブロウタさん、話続けてもいいですか?」
 そして予想通りというかなんと言うか、話の風向きが非常によくない方向に向かい始めたのを感じた私はなんとか平静を保ちつつそう言葉を挟みました。
 とりあえず、今はそのことは後なんです。決して私がなんだか気恥ずかしいからだとか、年下趣味っていわれそうだからとかそういうことではなく。
 …ええ、とにかく。
 「あ。こりゃすいません」
 そして改めてハーリー君へ向き直る私。まだ少し照れ笑いの残っている彼を見つめながら問いかけます。
 「ええと、それでどこまで聞きましたっけ」
 「あ、はい。黒いステルンクーゲルのパイロットの話ですけど」
 「…あの女性については、とりあえず後回しにしましょう。私からもラピスにあたってみますから。
 それで、クレマティスの艦長のほうはどうなんですか?」
 と、私のその問いかけに、ハーリー君は。
 「ええと、アーデル大佐ですね。それでそのリロィ・ヴァン・アーデルについてですが…統合軍豪州方面一派を動かし今回の紛争を指揮している張本人で、前にサブロウタさんが言ったとおり彼個人もクリムゾン・グループに深い繋がりを持っているようです。」
 そう言って軽くサブロウタさんへと視線を向けて、サブロウタさんが顎で指しながらハーリー君を促して。
 そして。
 「記録上の出身地はオーストラリア。ただどうも第一次火星会戦以前の経歴がはっきりしなくて…彼が2196年に連合空軍の士官学校へ編入された以前は、どうも火星のユートピア・コロニーにいたことがあるらしいんですが―――」
 「…え?」
 そしてその“不意打ち”の言葉に、思わず一瞬その場から立ち上がりそうになった私。それまでの心の中が嘘のように、まるで強く握り締められたように。
 そんな私の様子に、訝しげに目を向けてくるハーリー君。
 彼の向けてくる、真っ直ぐな瞳。
 「艦長? どうしたんですか?」
 でも私の脳裏には、ただその単語がはっきりと刻まれていました。そして私が一度だけ、あの船から目にしたあの光景が思い出されていました。
 そして私は不意に感じた言いようのない嫌な予感に、かすれる言葉を呟いていました。


 「――ユートピア・コロニー……アキトさんとユリカさんの、生まれ故郷に…?」









 …そしてその頃。
 火星上にいるナデシコCとは別の場所、オリンポス山の麓では。




 5.紅い兄妹

 「――しかしまぁ、あまり穏やかではありませんでしたな」
 クレマティスの艦長室。執務席に座りながら右手のレポートを眺めるリロィと傍らに立つガウェインに向けて、その男は穏やかながらも棘のある言葉を投げかけていた。
 …年は30に近いだろうか。やや痩身な身体を黒のスーツで包み、この年にして既に銀色に染まったその髪を無造作に後ろに流しているその男。その細い目には冷徹さとも不快感とも違う、ある種の狂喜が混じった感情が灯っているように見える。
 そしてその男は先ほどから淡々と、目の前のリロィに語り続けているらしかった。
 「確かにしがない蜥蜴連中とあのナデシコがいた手前、リロィ殿もその演説に多少の色をつけたかったというのはわかりますがね。ですが…アレは少々行き過ぎでしたよ」
 「…何が言いてぇんだ、グリモーさんよ?」
 その眉を歪ませ、明らかに不快そうに声を上げるガウェイン。その彼をリロィの視線が一瞬捉え、彼は小さく舌打ちを響かせる。
 するとグリモーと呼ばれたその男は、亀裂のような薄い微笑をさらに深くさせていって。
 「我が主は残念ながら、その寛大さにも限度があるということですよ。言い換えれば貴方たち豪州方面部隊をこの火星へと派遣させたその目的を、履き違えてもらっては困るということですな。
 豪州方面部隊はあくまでもクリムゾンのために動いていることを、二度と忘れぬようにしていただきましょうか」
 「…………」
 「ガウェイン」
 無言でガウェインが一歩前に出ようとした。しかしそれを片手を挙げて制するリロィ。
 「――わかった。以後気をつけよう」
 そしてリロィのその返事を聞き、男はうやうやしく慇懃に頭を下げてその笑みを表情から消し去る。胸元から手の平サイズのメディアを取り出す。
 「では、本題といいますか…こちらがお嬢様より大切にお預かりしてきました伝言です」
 それを無造作に、強くリロィへと向かってグリモーは投げた。その瞬間にまたガウェインの表情が微かに動いたが、リロィは彼の顔面めがけて投げつけられたそれを左手で掴みとると、机の上に置かれた小型のプレイヤーへとセットする。
 3人がそろって、部屋の右側に設置されたそのスクリーンへと顔を向ける。その中で一人グリモーだけは、畏まったようにその頭を垂れる。彼が、常にその主人に対してそうしているように。
 そして程なく、スクリーンには一人の年若い女性の姿が現れた。

 『……お久しぶりです、リロィ兄さん。しばらくお会いできていませんけれど、元気でいらっしゃいますか?』
 肩にかかるくらいに伸ばしたブロンドの髪。どこか気まぐれな仔猫を思わせるような、少しだけ悪戯気で丸っこいその表情。
 はにかむように微笑みながらそう言ってきたスクリーンの向こうの女性、その名をアクアと言った。ただし、正しき名はアクアリーネ=シンクレア・“クリム ゾン”――――地球圏有数の企業であるクリムゾングループの次期後継者候補であり、またリロィと母を同じくする…父親こそ違えど、彼にとっての実の妹でも ある。
 そしてそんな彼女はスクリーンの向こうで、どこか控えめな、かしこまったような表情をしながらリロィへと話しかけていた。その一方通行な彼女の言葉を優 しくも硬い表情で受け止めていくリロィと、彼と男との様子を冷たい瞳で注視し続けるガウェイン。そしてその男、グリモーは一人頭を垂れたまま、その表情を 彼らに見せようとはしない。
 『――やっぱり、こんな画面越しではちょっと寂しいですね…』
 そしてふと、スクリーンの向こうの彼女がそんな言葉を漏らす。
 俯きかけた顔を上げて、そして精一杯にも見える微笑を向けてくる。
 『本当は私もそっちに行って、兄さんの手伝いをしたかったんですけど…いいえ、もう最後になるかもしれないからこそ、今度こそはついていこうとしたんですけど、お父様にばっちり拘束されちゃいました』
 彼女の瞳に、強い色が灯る。
 『…でも心配しないでください。兄さんに頼まれていたものは、私からのプレゼントはもうすぐ兄さんにお届けできそうです。
 それにもう一つ、あの日にお預かりしていた大切な品も――――』
 その言葉に男が、グリモーがゆっくりと顔を上げた。傍らに置かれていた小さなケースを持ち上げ、それをうやうやしくリロィへと掲げる。静かに受け取る彼。スクリーンではアクアがまるでその瞬間を待つように、ただ言葉をつぐんでいる。
 そして、留め金の外れる音。ゆっくりと開かれていくケース。その中に入っていたのは…紅いベルベットに抱かれた黄金色の小さな金属片。
 「……3年ぶりになるのか。これに触れるのは」
 言葉とともにリロィの指がその表面をなぞった。一瞬そのプレートに、そしてリロィの指先に虹色の光が迸った。その様子に満足そうな笑みを見せ、彼はケースをゆっくりと閉じる。
 「ありがとうアクア。確かにこの品、受け取った」
 そして少しだけ寂しげに、画面の向こうで彼女は微笑う。
 『――では兄さん、兄さんのご武運をお祈りします。そして近いうちに、今度は直接お会いできることを願ってますわ』
 ゆっくりと画面が暗くなっていく。この小さな一室に霧散したその面影を確かめるように、わずかのあいだ瞳を閉じるリロィ。
 しかしそれも、ほんのわずかの時のこと。
 「…ではリロィ殿。本日はこれにて」
 「ああ。ご苦労だった」
 感情のない声でそう告げる彼に、リロィは抑揚のこもらぬ返事を返した。彼の視線はそのケースのみに注がれていた。
 そんな彼の仕草をどこか不快そうな目つきで見やったグリモーは、一礼して胸元から一欠けらの青い石を取り出した。そのCCと呼ばれる輝きを握り締め、彼 はその目を冷たく細めた。まるでリロィの心のうちを覗き込もうとするように、狂気じみたその視線を投げかけたままに光に包まれ始めた。そして不意に、言葉 が漏れる。
 「…そうそう、お嬢様がリロィ殿に送るプレゼント――例の紅い機動兵器のことですがね。『アネモネ』という名前をお嬢様はつけられました」
 「―――」
 ふとその視線だけをリロィへと向け、そう言ってくる彼。しかしリロィはただ押し黙る。彼が言わんとしていることを悟っているように。
 だから彼にはそれすらも不満だったのだろう。口の端を低くゆがめると、あてつけのようにも聞こえるその言葉をそっと呟いていく。
 「花言葉は“真実”、“君を愛す”、“見放される”――――さて、アクアお嬢様はいったいどんな気持ちで、この花を貴方に贈ろうとしているのでしょうな…」
 そして彼はその言葉を最後に、淡い虹色の光に…ボソンの輝きに包まれこの艦長室から姿を消していった。

 僅かな沈黙が訪れる艦長室。彼の残した虹色の欠片が完全に消えたことを確認し、ガウェインは静かな声で…ポツリとその冷たい言葉を放つ。
 「……あいつ、そろそろ邪魔じゃねぇか?」
 視線を彼へと動かすリロィ。数瞬の間考え込むようなそぶりを見せて。
 「今はまだ必要だ。奴の役目が私の監視だとしても、私がここからそう簡単には動けない以上アクアとの間の橋渡し役としてな。それにこうして役に立ってくれてもいる」
 そう言ってリロィは先程彼から受け取ったその小さなケースをもう一度開く。その黄金色の輝きを眩しそうに眺めながら、顎に手をあて問いかけてくるガウェイン。
 「それが例のメッセージプレートか。世間では4年前に行方不明になったってことになってる」
 「ああ。その実あの男が極冠遺跡の共同実験場から盗み出したものだ。今日の今日まで妹の手元に保管されていた、私達にとっての重要な鍵さ」
 「こんなちっぽけな金属片がねぇ」
 そんな彼の苦笑じみた声に軽く肩をすくめ、リロィは丁寧な仕草で箱を閉じ、それを横手の金庫へと放り込んだ。その一つ一つの手順を確かめるように2重の 鍵をかけていくリロィを横目で見やっていたガウェインは、ふと部屋の中央へと胡乱気に目をやり、不機嫌さと呆れの混じったような声をあげてきた。
 「しかしまぁ…あのクレイジーな監視者の言うこととかぶるけどよ、やけにリップサービスしたよな。あれは」
 「嘘などついていなかったさ。まったくの本心でもなかったがね」
 「だったら同じことだろ」
 小さく苦笑を漏らし、ガウェインの顔を見やる彼。揺らぎのない瞳でその一言を放つ。
 「言葉は人を導く力となる。それはお前もわかっているだろう?」
 「くくっ。やっぱりお前、怖いねぇ。シェリエが聞いたらなんて言うか」
 そんな彼の愉快そうな声に、リロィは一瞬だけ困ったような不快なような表情を見せる。だがそれも本当にほんのわずかな間のこと。
 「…まぁどちらにしろ、私の目的はずっと変わらん。以前お前に語ったとおりさ」
 そして二人はどちらからとなくその笑みを見せた。二人、その形の違う笑みを見せた。
 ガウェインが見せたその笑みは、その待ちきれない未来への期待を滲ませたもの。そしてリロィの見せた微笑は、その澄み切った空を仰ぐような微笑は…。
 「――いつか必ず、この星の全てをその手に……か」
 ふと、いつかの会話を思い起こすように、薄い笑みを漏らしたまま呟くガウェイン。宙に吸い込まれていくその言葉。彼はゆっくりとまぶたを閉じていく。
 「ああ。そしてその願いは、もうすぐそこまで来ているのだからな」
 そして彼は、リロィはただその呟きに対して感慨深げに…どこか哀しげな響きとともに声を紡いだのだった。




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