6.徒労
『…いったいどういうことなんですか?!』
そのときミーティング・ルームに木霊したのは、マクファーソン大使が絞りだした叫び声だった。
木連と大使との会談は混迷を極めていた。机に両の手を突き、その身体を思わず乗り出させ、大使は彼らを睨むように見つめていた。そしてその先には変わら
ず鉄のような表情を、頑迷なまでの意志を見せる一人の男。木連側の代表を務める立場である彼はしかし、その表情を動かすことなく告げてくる。
『ですから残念ながら今お話したとおりです、大使殿。我々はこの決定を覆すつもりはありません』
ゆっくりと身体を起こし、その両手を胸の前に広げながら大使は言葉を返す。
『ですが貴方がたも連合の停戦勧告はご存知でしょう? 失礼ですがそれを破るということが、木連の立場にどのような影響を与えるかということもおわかりのはずです』
『勧告はあくまで勧告だ。それにその連合が我々に領土権を認めたこともまた事実。だとすれば非は彼ら統合軍豪州方面部隊にある』
だが、彼の言葉は変わらなかった。わずかな沈黙をはさみ、小さく首を横に振りながら大使は答えた。
『今の情勢をもう一度考えてみてください、サンジョウ殿。もはやこれは紛争という規模ではありません。地球圏に存在する軍隊の15%以上がこの火星に集まりつつあるこの状況をなんと言い表すのか、お分かりでしょう…!』
わずかに顔を歪ませる彼に、大使はついに声を振り絞った。
『そう。大戦です。まさに貴方がたはその手で、先の大戦と同じことを繰り返そうとしているのですよ?!』
『―――』
そして沈黙。その僅かな沈黙。
だがその沈黙には迷いなどなく、ただ一欠けらの諦念と、変わらない意思だけがその中に横たわっていた。
大使のその訴えかけるような横顔に、木連のその高官は静かに言葉を告げてきた。
『…大使殿。我々の意思は、火星の大地を“取り戻す”というこの意思だけは決して変わることはない。私が今言えることは、それ以上でもそれ以下でもない』
『………』
その言葉にマクファーソン大使は言葉なくただ、静かに席についた。その表情に無念さを見せることさえなく、ただ強く抗議の意思だけを今は表して。
それが、つい1時間前のことだった。
「…結局、こういう結末になっちゃいましたね」
ナデシコCのブリッジ。俺のすぐ横でルリちゃんは、そんなため息交じりの言葉を吐き出した。傾きかけた太陽の下、ナデシコと木連艦隊は小さくかたまるようにして荒涼とした高原の上に佇んでいた。
貴賓室ではまだ大使と木連高官との会談が続けられていた。しかし先程の彼らの様子からすれば、それが遅からず俺達の望まない形で終わることは目に見えていた。だからそのルリちゃんの声は、クルーの気持ちをそのまま紡いでいたと言っていいのだろう。
皆、その言葉を噛み締めるように雰囲気が重くなっている。そしてスクリーンの向こう、ゆきまちづきのブリッジに立つ月臣の姿。
やがて俺たちの空気に見かねたように、月臣が言ってきた。
『…仕方のないことだ。お前たちに非はない』
その言葉に、ハーリー君が彼を見返した。諦めのにじみかけた表情のなか、それに抵抗するように彼へと問いかける。
「もう、どうにもならないんですか?」
だが月臣は、僅かにその首を横に振るだけ。
『議会はすでに決定を下した。明後日には我々は攻撃を再開することになるだろう。そうすれば最早、大使殿の出番はなくなる』
その容赦のない物言いに押し黙るハーリー君。それにかわるようにして、高杉が自嘲気味に声を上げて。
「さて、もしそうなったら“大使の護衛役”な俺たちはやることなくなっちゃいますね。…そしたら艦長、そのあとどうします?」
しかし、そこへあの男の言葉が飛び込んで。
『お前たちはこのまま、地球に帰るがいい』
「……なんだと?」
思わず漏れた呟きは、俺のものだった。その言葉に、この一瞬にブリッジの空気が揺らいだような感触を覚えた。隣に立つルリちゃんの顔色が変わるのが、はっきりとわかった。
だがかまわず俺はスクリーンの向こうのあの男へと視線を向ける。月臣は冷たい眼差しで俺たちを――いや、この俺を見てくる。
『貴様にならわかるだろう、テンカワ。これは我々の…俺にとっての戦いだ。この血塗られた両腕の代償を払うための戦いなのだ。
だからこそ…お前たちの手は借りぬ。そう。我々の手で奴らから、この大地を取り戻す』
「――――」
そしてやつの言葉に、やつの瞳に。その言葉以上に満ちていた決意に……まるで過去への悔恨と贖罪の念に包まれていたかのように見えてしまったその眼差しに、俺は思わず言葉を失いそうになって。
…一瞬心の底に、合わせ鏡を前に立ち尽くしているような惨めな幻影を垣間見る。久しく感じていなかった、忘れようとしていたのかもしれないその感情が染み出てくる思いにとらわれる。
決してこのナデシコにいる間は思い出すまいと決めていたはずのその感情。そのはずなのに、この星は、この戦場は、そしてあの黒い怒りに包まれたクーゲル
のパイロットは、俺からその決して見せてはいけない感情を引き出そうとしているようで。そして今また、月臣のそんな表情でさえも、俺の心を波打たせるよう
に語りかけてきて。
(……そんな表情はよしてくれ、月臣。お前や俺が目指そうとしたのはそんな場所じゃないはずだ)
自嘲的なその思い。俺はそれを振り払うようにして視線に力を込め、乾いた唇を動かそうとする。ある種の訴えを持つように、あの男へと、そして自分自身のその奥底へと言葉を打ち込もうとする。
だがしかし、彼の言葉に声を返したのは俺じゃなかった。
声は俺のすぐ側から彼へと届いていった。
「…そういうわけにはいきません。月臣大佐」
「ルリちゃん……」
真っ直ぐと、その強い眼差しをただ月臣へとルリちゃんは向けていた。決して臆すことなく、あの男をへと強い決意をぶつけていた。
だが、月臣はかわらずその言葉を、無情にも思える言葉を続けて。
「…ではホシノ少佐、大使とともにただここが戦場へと変わる様を見ているというのか?」
その言葉に、ルリちゃんの顔が険しくなる。そして月臣は初めて、その表情に度惑いにも似た、自嘲的に見えた笑みを浮かべて言ってくる。
「もともと誰にも、この戦いは止められはしないのだ。誰もがこの火星を欲している。私たちも、そして彼ら地球の人間もな。
…そしてできれば俺は、この戦いにお前たちナデシコを巻き込みたくはない」
そう言って、月臣はその視線を彼女から別の場所へと向けたように見えた。まるでこの船そのものへと向けているように。かつての白い船へと向けているように。
「…それはお前の過去への感傷のせいか、月臣」
「――――」
ふと漏れた俺の言葉。脳裏に一人の男の姿が、純白の制服に身を包んだかつての敵……そして友人となるはずだった男の姿が浮かぶ。
だが月臣はその問いかけには答えず、小さく寂しげな微笑を浮かべるだけだった。
7.〜シェリエ(iii)〜
…そして彼女は夢を見た。
それは遠く、冷たい、いとおしくも哀しい光景。その一つの風景の中で、『彼女』はただひとり抗い続けていた。
黒い鎧に身を包み、襲いかかるその『記憶』に心を灼かれながら、ただ一心に彼女は抗い続けていた。
…いったいいつの頃からだったろうか。彼女がその夢を見ていたのは。
そしていったい、いつの頃からだったろうか。彼女がその夢に―――『アキト』という男の夢に、そして『彼女』自身の記憶に取り込まれるようにして、自分自身を見失っていったのは。
その記憶は、その遠い光景は絶え間なく過去の先へと続いていた。
白の輝きをもつ巨大な船。氷に包まれたその極冠の空。天を覆う虹色の輝きの先へとずっと続いていく記憶。
…禍々しい赤に包まれた機動兵器、生ける彫像と化した最愛の人、紅い左眼をしたあの男。そして―――
夢はそれ以上を語っていた。
地獄の苦しみと一緒に、その『過去』を途切れることなく語っていた。
…その『記憶』は、確かな過去と未来を語っていた。
『―――イネスさん。私…全部思い出した……』
あの日、あのとき、彼女のなかの全てが塗り替えられたその瞬間。
あの白い船――“ナデシコ”の一室でイネスにそう漏らしたあの瞬間から『私』の運命は決まっていたのかもしれない。
…全てをそのとき思い出し、アキトにしがみついてただ泣きじゃくった『私』。
やがて来るだろう終わりを知りながら、それでもただ真っ直ぐに、前へと進もうとした『私』…
『――――…ね、アキト。ユリカさんのこと、ずっと傍から離れないように…アキトもユリカさんの前からいなくならないようにしてなくちゃ、だめだからね―――』
…だからそう彼に告げ、一人戦場へと出て行った。
あの男、北辰が待つたった二人の戦場へと。
そう。『私達』のこの運命を、きっと変えられることを願って。
『―――サレナさん!!』
『…アキト―――――私、行ってくるね』
―――それが『彼女』にとって、アキトとの最後の別れになることをわかっていたはずなのに。
…だから彼女はその夢の中で、必死に叫ぼうとした。
『私』自身のその運命を――過ちを止めたくて必死に叫んでいた。
でも記憶は廻り続ける。『彼女』は曇りのない瞳で、自らの終わりへと向かっていく。
それとともに、彼女の記憶は虹色に包まれていく。
そしてふと、そのひとときの夢から覚めて――――
「……またあの時の夢か」
呟き、シェリエは薄暗い部屋のなか起き上がった。
時計の薄赤い明かりに目をやれば、まだ真夜中を指している。殺風景な部屋にただ自分の影だけが浮き上がっている。
そしてまるで夢の残骸に包まれるようにして、彼女を薄い悪寒が取り巻いているのがはっきりとわかった。
だから、少しのあいただけじっとシーツにくるまれた自分の体を見下ろしていた彼女だったが…やがてするりとそこから抜け出し、乱暴にブラウスとスカートを纏って外へと出て行った。
向かった先はリロィの居室。ドアホンを乱暴に叩き、シェリエは向かいの壁に体をもたれかける。体を抱えるように両腕を組み、俯きながら彼の声を待つ。
薄暗い照明が通路を照らし、静まり返った艦内にふと小さな靴音が響いてきた。その音の方向を横目に見ると、一人のクルーがどこか驚いたように通路の端からこちらを見てきている。…たぶん『そういう』ふうにでも見えたのだろうと思い、程なく彼女は視線を足元へと戻す。
やがて足音が心なしか慌てたように遠のいていって。訪れた静けさのなか、彼女はじっと動かずにいて。
『―――どうした?』
「…私だ。入れてくれ」
しばらくしてから聞こえてきたリロィの声、それに返した返事は簡潔だった。マイクの向こうから苦笑が聞こえてくる。続いてロックの解除されたドアへと、彼女はその黒髪を苛立たしげに振り払うようにして入っていった。
「……珍しいな、この時間に起きているのは」
部屋の主は手に空き瓶を持ち、テーブルを片付けているところだった。
「そういうお前はまたガウェインと飲んでたのか」
「決戦が近いからな。色々片付けておかなければならないことがある」
ソファに深く座り込み、息苦しそうに胸元を広げ、シェリエは彼へと言葉を向ける。
「…一杯くれ。この気分をなんとかしたい」
「そうか」
そして程なく受け取ったグラスを、一気に飲み干した。
「……また、『夢』を見ていたんだな?」
ふとリロィがそんな彼女の様子を見て問いかけた。二人にだけ特別な意味を持つその言葉、その感情の抜けたような問いかけに、彼女は冷たく目を細めながら答えて。
「忌々しい記憶だ。この頃何度もあの瞬間を夢に見る。……あんな男のために、なんてバカバカしい」
グラスを握る手に力がこもる。あの男のことを話すときだけに見せる、彼女の果てのない哀しみと憎悪。
リロィは彼女の向かいに腰を下ろし、呟くような言葉を投げる。
「……忌々しい、か。確かにそうだな。私達を私達でなくし、ただ一つの目的のために動いていく夢」
「…でも、それもあと少しで終わりにできる」
そして彼女から零れるように漏れた言葉。
その言葉だけは憎しみも悲しみもなく、まるでからっぽの優しさに包まれてるかのようで。
ふと彼女はそのガラスのような声で、彼へと静かに問いかけて。
「なぁ、リロィ。この復讐が終わったそのときには……私はかつての私に戻れるんだろうか。私は――私はあの日の前に、かえれるんだろうか……」
でもその言葉は、彼には彼女の言葉として届かなかった。『シェリエ』の言葉としては、決して届いていなかった。
なら誰の言葉として届いていたのか。彼はシェリエに、誰の姿を見ていたのか。
それはその『記憶』に触れたものならばきっとわかるだろう、ただ一人の女性の名前…。
「…サレナ――」
「――…っ!!!」
だから、彼がその名を漏らしてしまったのは失言だった。
その瞬間、シェリエはものすごい勢いで彼の首へと右腕を伸ばした。
その白く細い指でリロィの首を鷲づかみにした。
彼女の顔は怒りと憎しみに覆われ、震えている。ソファに崩れた彼の上へと圧し掛かり、強い息とともに彼を睨みつけて。
「……―――」
そしてそんなシェリエの姿に、リロィは硬い表情を向けていた。息苦しさなど微塵も見せず、強く…ほんの僅かに、翳りを映す表情でただ彼女を見上げていた。その瞳で見返され、シェリエの視線はゆっくりと下がっていく。小刻みに震えながら、打ち震えながら頭を垂れていく。
やがて、彼女の腕から力が抜けて。震えるようにしてリロィの首から離れたその右手は力なく折れ下がって。
「……お願いだから、リロィ。お前だけは、その名を、呼ばないで――」
かわりに聞こえてきたのは、吐き出すような、慟哭。
時計の音だけが室内に響いている。彼女の震える息遣いが耳を掠める。
「…すまなかった」
そう言って、リロィは彼女の顔を自身の肩へと強引に埋めさせた。最初身をよじるようにして抵抗しかけたシェリエだったが、やがて大人しくその首筋へと額を寄せていった。
…やがて小さな嗚咽が聞こえてくる。彼女の頭をそっと抱きながら、彼女には聞こえないくらいに小さく息を吐くリロィ。
彼女は何も言わず、肩を震わせ泣き続ける――
8.月の横顔で
…そしてその頃、青い星の片隅で。夜空を望む彼らだけのラウンジで。
三日月を空に、グラスにブランデーを注ぐ二人。夜の舞台を前にして、最後の静けさの余韻に浸かっていた彼ら。
そしてどこか白々しい表情でその手を傾けた彼に、意地の悪い――しかし少しだけ不機嫌そうなその微笑を浮かべた彼女は、エリナは問いかけた。
「ねぇ、貴方何を私に隠してるの?」
彼女の目の前に座る男は、おどけたような顔をして言葉を返す。
「隠してる? 僕が君に??」
「ええ、そうよ。この前からずっと、そういう顔してたじゃない」
彼女はそう微笑みつつ言葉を続けたが、その瞳は真っ直ぐと男を、アカツキを向いていた。小さく息を吐き、彼はグラスに薄い琥珀色を満たして。
「ちょっと思い当たらないけどなぁ。…あ、そうそう。ドクターが火星行きの件を了承してくれたよ。明日にはナデシコへ向かうってさ」
「…ふぅん、研究が手を離せないとかいろいろ言ってた割にはあっさり決めたみたいね」
と、そのアカツキの言葉に彼女は不満げに声を漏らす。苦笑交じりに彼は言葉を続ける。
「まぁ、なんだかんだ言ってドクターもテンカワ君には甘いってことじゃないのかな。例の機体の最終調整も残ってるしね」
「…………」
押し黙る彼女。ほんの僅かな沈黙が彼女の周りに訪れる。
気がつくとエリナの顔から笑みは消え、問い詰めるような眼差しがアカツキを刺していた。
「…貴方今、話そらそうとしたでしょ?」
「やれやれ、困ったねぇ」
それに彼は薄い笑みとともに息をついて。
息をついて、その僅かな静寂のあとに小さく言葉を投げかけてきた。
「…エリナ君。君は『未来』ってなんだと思う?」
「未来? いきなりどうしたのよ」
彼はゆっくりとグラスを置き、その両手をひざの上で重ねてソファへと深く腰かける。その真っ直ぐな…めったに見せない表情をエリナへと向けてくる。
「そう……例えばさ。僕が仮にボソン・ジャンプをできるとして、先月やらかした書類のヘマを直したかったとする」
「…それ、なんのたとえ話?」
訝しげに首を傾げるエリナ。どこか少しだけ、彼女は不機嫌そうな表情を見せる。しかしアカツキはそれにかまわず言葉を続けた。
「で、僕は手元にCCを持って1ヶ月前に戻ろうとするのさ。戻って書類に書いた一文を修正する。そうすれば三日後にかかってくるはずの監査部からのクレームは来なくなる」
「…………」
エリナのグラスを持つ手が止まった。真っ直ぐと彼女を見つめてくるアカツキを、確かなほど不快な表情で見つめ返していた。
「でもそれをやろうとする前に、僕はふと思うんだ。『…もし僕が今からやろうとしていることが成功したとして、そのときに“今”の僕は、いったいどこからたどり着けるんだろう』ってね」
「…ただのありふれたパラドックスじゃない。無限に広がる平行世界とか、世界線の分岐とか」
不意にエリナが言葉を挟んでくる。その声は明らかにとげとげしく、苛立っているようで。
そんなエリナの様子に苦笑を漏らしたアカツキは、不意に窓の外へと視線を向けながら…その三日月を眺めながら言葉を続けていった。どこか躊躇うように、その続きを紡いでいった。
「まぁ、もしかしたらそうなのかもね。でもそうじゃないかもしれない。……それであるとき、ドクターに訊いてみたんだ」
そして彼の言葉に、どきりとしたように顔をはっきりと顔を上げたエリナ。それはアカツキの口調が、決して優しいものではなかったからだろう。その何気ない口調が、まるで彼女の胸を抉るように聞こえてきたからだろう。
だからアカツキはもう言葉を止めようとした。そのエリナの微かな表情を見て、もう口を噤んでしまおうとしたように見えた。
「……で、どうなったのよ」
でもエリナはそうアカツキに問いかけて。
まるでそれは自分自身に対して吐き捨てているような声で。
…だからこそ彼が冷たく残酷に彩ろうとしていたその表情を、ほんの僅かな間だけでも崩してしまったのは――きっと誰のせいでもない。そう彼は心の中で一人ごち、やがてぎこちなく微笑うようにして言う。
「…ああ、そしたらドクターはさ、笑いながら言ってたよ。『アカツキ君。世界はたぶん、もっと単純にできてるんじゃない?』ってね」
「―――……」
そして今度こそ、エリナは完全に言葉を閉ざした。アカツキと同じように窓の外を眺め、その顔に隠しきれない悲しさを映していた。
…その沈黙が彼には思っていた以上に痛く感じられたのだろう。アカツキはふと、窓に映る自分の顔へと目を移す。そしてその表情が、エリナと同じように曇っていたことに…確かな悲しみを見せていたことに気づく。
だからそんな感傷を見せようとしている自分をかき消すようにして、言葉を吐き出していく。
「――だからかな。最近さ、たまにどうしても考えちゃんだよね。もし今のテンカワ君が過去に戻ることを望んだとしたら、その願いはどんな結果を見せてくれるんだろうって」
…そして夜が明ける。長い夜が明ける。
火星の夜、地球の夜。彼らの思いを見届けたまま、過去への記憶を紐解きながら、やがて運命の日はやってくる―――
9. 出発
その朝は早かった。
火星海上を航行するクレマティスの一室、近くから聞こえる物音で目を覚ましたシェリエは、すでにいつもの仕官服に身を包んだリロィを目にした。意識のはっきりしない、まどろみに包まれた頭を重く上げながら、いつになく気持ちが落ち着いているのを感じていた。
「…こんな朝、ずっと忘れていたな」
「シェリエ? すまない、起こしてしまったか」
夢うつつ半分にそう呟いた彼女に、リロィは振り向きながらそう言ってくる。
「おはようリロィ」
そんな彼に、シェリエは小さく微笑みを見せながら言う。滅多に見たことのない、下手をすると初めてかもしれないそんな表情にひたと動きを止めるリロィ。
「…ああ、おはよう」
しかし言葉を返した彼はすぐにデスクへと向かっていた。きっとほんの僅かの間とはいえ、シェリエが感傷的になっていても不思議ではなかったから。
なぜなら今日は、彼らにとって特別な日なのだから。
「…今日はきっといい日だな。久しぶりに夢を見なかった」
「そうか」
「ああ。これで晴れやかな気分で、アイツに絶望を見せてやれる」
そしてまどろみの表情のままで彼女は言う。表情だけは穏やかに、その瞳も、口調もひたすらに安らかに。ただ言葉だけが、これから起こるだろうことを予感させるように。
彼はそんなシェリエの言葉に何も返さずにいたが、シェリエはまだまどろみのなかを行き来しているようだった。ただ無言で、穏やかな表情で彼のことを眺めていた。
(…まるで嵐の前の静けさだな)
引き出しの奥に仕舞っていたそのケースから数個のCCを取り出しながら、そんなことを思うリロィ。しばしそのまま物思いにふけっていたが、やがて決意の表情とともに顔を上げる。物静かな、穏やかなはずの。それでいて確かに張り詰めていた時間。
と、その二人のなかに。突然大きな足音を立てながら一人の男が部屋に入ってきて。
「おいリロィ、もう起きてるか? 今日のスケジュールのことなんだけどよ――」
そしてベッドの上でぼぉっとしていたシェリエと、男…ガウェインの目が合った。
「――って、お? シェリエ??」
「…?!!」
途端、ものすごい勢いで彼女が跳ね起きる。続いて今の自分の格好に気づき、さらにものすごい勢いでシーツを手繰り寄せる。
「な、なんでいきなりお前が入ってくるんだ?!」
そう叫んだ彼女の声は聞いたころがないくらいに慌てていた。それを目の当たりにして、途端に彼の口元にニヤリと笑みが浮かんだ。まさに彼らしくタチの悪い種類の笑みが。
「なんでって、そりゃ副艦長なら艦長の居室へはフリーパスだろ? それよりお前こそなんでここにいるのか聞きてぇよなぁ」
「…う」
何故かうろたえるシェリエ。滅多に見ない光景に彼の笑みが深くなる。
「ホント、なんでだろーな。この前あれだけ俺に言っといて、自分はしっかりお楽しみっつーのは――」
しかしニヤつく笑みを浮かべながらのガウェインの言葉は最後まで続かない。
シェリエが手元の枕やら時計やらを、それこそいっぺんに投げつけてきたから。
「って、うおっ?!!」
慌てて破壊的な威力のそれをかわす。しかしその先にたたみかけるように飛んできたのは一面の真っ白なシーツ。さすがによけるまもなく頭からそれを被るガウェイン。
「…部屋で着替えてくる!!」
そしてそう怒鳴り声を残して、シェリエは着かけの崩れた服装のまま部屋の外へと駆けていった。
「「…………」」
あとに残されたのは、シーツのなかに埋もれながら唖然とした顔を浮かべるガウェイン。見ればリロィも驚いた顔をしている。不思議で微妙な静けさに包まれた二人。
「……おいリロィ、なんだあれ? もしかして本気で恥ずかしがってたのか??」
「らしいな。正直私も驚いた」
「は、なんつーか、ありえねえ」
そしてそう言いながら頭に被ったシーツを放り投げた彼に、リロィは居住まいを正しながら問いかけて。
「で、スケジュールの件と言ったな。何のようだ?」
「ん? ああ、邪魔したのは悪かったからそんな不機嫌そうな声出すなよ。それでお前ら二人だが、これから一日艦から離れて行動だろ?」
「ああ。留守は頼むぞ」
彼の背中を軽く叩きながら言うリロィ。それに彼は大仰に両手を広げながら問いただし、
「いや、そうじゃなくてよ。本気でその間は連絡なしか?」
「不測の事態がこちらに発生したらすぐに連絡を取る。CCも多めに持っていくのだ、心配することはない」
しかしリロィは硬い表情で、どこかしら険しい表情でそう答えるだけだった。そしてドアへと向かっていった。諦めるように嘆息を漏らし、ガウェインは降参だとでも言うように肩をすくめて。
「ま、いいけどよ。結局どこへ行くってんだ、その大事な用ってのは」
と、そのガウェインの問いかけに、彼は一瞬足を止めた。そして背を向けたまま、呟くように答えた。
「――故郷だ」
「故郷?」
不思議そうに訊ね返すガウェイン。やはりリロィは背を向けたまま、その言葉を言い残し部屋を後にしていく。
「…ああ。なにもない私たちの生まれ故郷さ」
言った彼の口元は、冷たい笑みに覆われていた。
10.
…あれから一日が経ちました。
事実上の決裂に終わった木連軍との会談のあと、一旦木連艦隊と別れることになった私達。そんななかでナデシコCではちょっとした騒動が起こっていました。
ことの発端は、マクファーソン大使が続いて統合軍豪州方面部隊との会談の実現を求めたのに対し、アキトさんが強く反対したこと。その突然のアキトさんの発言にお二人は激しい言い争いを繰り広げることになったんです。
「――何故、何故彼らとの会談を止めるのです、テンカワ殿!」
「我々は貴方の安全を最優先に行動する義務がある。そして彼らは艦隊まで持ち出して、貴方を強制的に連行しようとしたのですよ? なのに最小限の護衛だけで彼らのもとへ赴くことなど、できるわけがありません」
「あのときに一方的に彼らを追い払ったのはあなた方でしょう?! そうでなく対話の場を設けていれば、彼らとの関係がこうも難しくはならなかった!」
ブリッジの中央、ふたりの声が重なるようにそこから聞こえてきていました。
苛立ちを抑えたように静かな声音で言うアキトさんに対し、マクファーソン大使はそれを抑えきれずに、強い口調でアキトさんへと問い詰めて。
流石に木連との会議が決裂に終わったことを引き摺っているのでしょうか、平静な表情を装うことさえ難しそうに、アキトさんへと苛立ちをぶつけているようにも見えて。
「それは結果論からの仮定に過ぎません。それに、前線に出ていた私の立場から意見を言わせていただけば、彼らと交渉の余地はありませんでした」
そんな大使に、切り捨てるように言ったアキトさん。その言葉を浴びせられた大使は、今度は私へと言葉を向けてきました。
「ではホシノ艦長、貴方のご意見はどうなのですか?!」
その言葉に皆の視線が集中し、私がふと向けた視線の先…アキトさんは表情の見えない黒のグラス越しに、静かに首を振っているように見えて。
その姿に、その静かな表情に…私は不意に胸を突き刺されたような痛みを覚えて。
「…申し訳ありませんが大使、私も現況での統合軍とのコンタクトは難しいと言わざるを得ません。もっと時間が必要なんです」
そして私はそう答えていました。でも本当はそれは、もう決まっていた答えなのに、まるでそれすらもアキトさんの言葉を上塗りするだけのもののように。
だからでしょうか、大使は悲しそうに首を横に振って言いました。
「…どうして、どうして貴方がた軍部の人間、武器を持つ人間はそうまでに頑ななんですか。我々の目的はあくまで平和的解決なはずです。今の状況のままでいいはずなどない」
でもアキトさんの言葉はあくまで冷たく、冷静で。
「とにかく、マクファーソン大使。戦況を判断した上で私から言える意見は唯ひとつ、貴方を今彼らのもとへとお連れすることはできないということです」
そして、そのときでした。
一瞬悔しそうに歯噛みした大使が、搾り出すようにその言葉を言ったのは。
「…所詮は貴方もネルガルの人間ということですか。そうまでして彼らとの間に戦争を起こしたいと」
「――――」
その言葉に反応したのは、私とハーリー君、そしてサブロウタさん。
私が思わず身を乗り出そうとしたのを止めるように、ハーリー君が席から立ち上がり、サブロウタさんが静かに言って。
「マクファーソン大使、今の発言は取り消してください」
そのときブリッジの空気がとてつもなく重くなったように感じました。私達と大使の間、それを無言で見ているアキトさん。三つの空間に現れた厚い沈黙。
突然私たちを締め付けるように現れた、重い息苦しさ。
「……失礼、言葉が過ぎたようです」
でも僅かな沈黙の後、微かに俯き、大使はそう私達を見回しながら非礼を詫びてくれて。そしてその顔を右手で覆うように抑え、声にならないため息を長く長く吐き出していって。
思い時間。押しつぶすようなため息。
そんな大使にそれまでただ黙って、大使のその言葉を受け止めていたアキトさんがそっと声をかけて。
「今は少しお休みになってください、大使」
「ええ、そうですね…。少し、動揺してしまっているようです。それでは、失礼させていただきます」
最後に力なくそういって、大使はゆっくりとこの場を後にしました。その様子をじっと見ていたアキトさんも、やがて無言でブリッジのドアへと向けて歩き出しました。
「テンカワさん、どちらへ?」
「本社と連絡を取ってくる」
問いかけるサブロウタさんに、ただそうとだけ言い残して行ってしまいました。
「……なんだか雲行きが怪しくなってきましたね、艦長」
そしてアキトさんもマクファーソン大使もいなくなったブリッジのなか、そうため息混じりに言ってきたのはサブロウタさん。ブリッジに残る他の面々、ハーリー君にリャンさん、ユミさんもそれぞれに困った表情や沈痛な表情を見せていて。
「テンカワさんもテンカワさんですよ。一人であんな汚れ役引き受けなくてもいいってのに」
続けてそんなことをサブロウタさんは言います。ハーリー君も同じように難しそうな顔をして、落ち着かない様子でコンソールを指で叩いています。
でも私は、私はついさっき見たアキトさんの表情を思い出しながら、その不安をずしりと感じながら言っていました。
「…本当にそうでしょうか?」
「え?」
問いかけを返すサブロウタさんに、私は自分の中の不安をぶつけるように言っていました。
「確かに司令部からは、今の時点で豪州方面部隊と会談を行うべきではないと指示が出ています。でもアキトさん…それとは別のところで、統合軍と和平交渉を行うことを拒否しているように思えるんです」
「「…――」」
そして無言になったサブロウタさん。言葉を失ったブリッジ。私の呟きに声を詰まらせるようにして、彼は、皆はその顔に気まずげな表情を浮かべていて。
…でもそれは当然の結果。皆がきっと同じことを感じていたことは私にもわかっていました。わかっていて、それでもそれをぶつけることしかできませんでした。
なぜ私がそうしてしまったのか? その答えさえ、私にははっきりとわかっていました。
『―――君の知っているテンカワ・アキトは、死んだ』
それは今も私の心に、強く焼き付いているあの人の姿。
そしていまになってもきっと、私が認めることのできなかった…できないでいるアキトさんの姿。
でもそんなアキトさんは、今はもうどこにもいないはずなのに。ユリカさんともう一度一緒になれて、私達ともう一度家族になることができたアキトさんには……絶対にあってはならない姿のはずなのに、
なのに私を言いようのない不安が襲う。もうほとんど恐怖に近いその気持ち。この星へと来ることが決まってから、そしてあのクーゲルのパイロットと出会ってから、私はアキトさんの様子が『おかしい』と思い始めている。
アキトさんがふと見せるその表情、その言葉の切れ端。それらが私の心を揺さぶって、あの日の切り裂かれるような気持ちを思い出させようとする――。
…ふと私の身体を寒気が襲う感覚がしました。錯覚に違いないそれは私の心から湧き出てきた感覚のようでした。私は自分の心の内を知らぬ間に覗き込んでいて、そして不意にはっきりと……そのわかっていたはずの気持ちに気づかされたみたいでした。
だから無言のブリッジに、私の音にならない独白が消えていって。
(ええ、そうですね…。私はまだ、アキトさんのあんな表情を見ることに耐えられない。私はまだきっと、アキトさんのことを『家族』として以上に想っているから―――)
それはきっと、諦めにも似た、自嘲めいた感情だったのだと思います。今私はその感情をもてあましながら、こうしてここにいるのだろうと、そうはっきりと思い知らされたみたいです。
表面ではもう、気持ちの切り替えはできているつもりで――でも心の奥底では、まだ昔の思いを捨てきれない自分がいることも確かで。
だから私は、私はいったいどうすれば――――
でもそのとき、私のその拭いきれない不安と、湧き上がってくるやるせなさをとどめるように言ってくれた言葉がありました。
私の心をここへと返してくれる言葉がありました。
「…艦長。きっと考えすぎですよ」
「ハーリー君」
そう優しく私に言ってくれたのは、ハーリー君でした。ハーリー君は精一杯の笑顔で、私にそう思わせる笑顔でそう言ってくれて。
「この前アキトさん、僕に火星の夕日のことを話してくれたんです。本当に懐かしそうに話してくれました。そのときはアキトさん、なんだか落ち込んでたみたいで、ちょっと怒ってるみたいで…。
でもやっぱりアキトさんはいつもみたいに優しい表情をしてましたから。いつもの表情で微笑いかけてくれましたから。だからどんなに怒ってても、きっとアキトさんは争いになることなんて望んでませんよ。…きっと僕ら以上に、この紛争が解決することを望んでるはずですから」
それはまるでそれは私を必死になって、懸命になって支えてくれている小さなぬくもりのようでいて。
「……ええ。きっと、そうですよね」
そうしてほんの少しだけれど、私に安堵感を与えてくれたハーリー君。自然に浮かんできた小さな笑みに、彼は嬉しそうなほっとしたような表情を見せて。
ほんの僅かでも、穏やかな空気に包まれたブリッジ。ふと目に入る、サブロウタさんの小さな、嬉しそうな笑み。
「いやぁ、ハーリーももうお子様じゃないんだな。ぎゃーぎゃーわめいてた頃が懐かしいよ」
「僕だっていつまでも子供じゃないですよ」
返すハーリー君の少しムキになったような笑みが、少しだけ私には眩しくて…。
と、そんなとき突然スクリーンに現れたラピスの姿。薄桃色の花びらを散らしたような髪、落ち着いた雰囲気ながらも可愛らしい白のスーツに身を包んだ彼女の姿。
『――あ、いたいた。ルリ、今ちょっといい?』
「ラピス? 突然どうしたんですか。通信の連絡は受けてませんけど」
いきなりの彼女の訪問に驚きながら、私が声をかえし、
『アキトとアカツキが連絡とってたから、ちょっと裏で回線使わせてもらおうと思って』
そしてそう言って彼女が小さく肩をすくめて見せる傍ら、突然ハーリー君が大声で叫んできます。
「あー?! ていうかラピスってばこんなところに“穴”開けて! 人の艦を勝手にハッキングするなよ!」
『うるさなぁハリ、これくらい別にいいじゃない。それよりルリ。頼まれてたクーゲルのパイロットの情報、取ってきたんだけど…』
でもハーリー君の非難にそっぽを向いた彼女は私のほうを向いてきて、そしてそう言いかけてじっと私を見てきました。
『ルリ、そっちでなにかあった?』
「……どういうことですか、ラピス」
小さく眉根を寄せながら言う彼女。その言葉を不意に投げかけてくる彼女。
『アキトがすごく不機嫌そうだった。表情には出していないけど』
彼女が何気なく言った言葉の、言葉以上に重たい意味。
「…そうですか」
それにそう言葉を返し私は口を噤み、ただ黙って、あのときアキトさんが立っていた場所へと視線を移して。ふと視界の隅に、ハーリー君の表情が写って。
そして私のその沈黙を、ラピスはやはりじっと見つめてきました。私の不安を射抜くように。でもやがて諦めたように、その表情を僅かに動かしました。
『時間がないから始めるよ。ハーリー、秘匿通信に切り替えて』
「あ、うん」
すぐに二人の間でデータのやり取りが始まります。それはほんのわずかの時間。スクリーンの向こうで瞼を閉じていたラピスが、その完了を告げるように黄金色の瞳をゆっくりと開けて。そして澄まし顔で言ってくるラピス。
『…はい、これで全部だから。お代は約束どおりD&Gのバッグね。アカツキとかにバレないよう調べるの大変だったんだから』
「はいはい。わかってますよ」
なかばため息をつきながら言った私に小さく笑みを返すと、今度はそのエモノをがちりと変えて。
『もちろん、ハーリーからもだよね』
「あー…やっぱそうなるの」
ハーリー君の返答には冷や汗が滲み出てました。そんなハーリー君にタチの悪い笑みを見せながら、さも当然といった顔をするラピス。私は二度目のため息。
「いいんですよハーリー君。私が2倍出しときますから」
「え? でも艦長…」
「ラピスもそれでいいでしょう?」
『え、うん。まぁいいけど』
「でも艦長……あ、じゃあ僕がその分艦長にプレゼントします!」
『…やっぱりハーリーに出させようかな。なんか腹立つ』
そして私の、三度目のため息。
……つくづく、疑問です。なんでこんなふうに育ってしまったんでしょうか。もしかするともしかしなくてもエリナさんのせいですか?
でもそうは思いつつ、私にとってそんなラピスの姿が小さな安心を与えてくれるものであったことも確かだったみたいです。私は呆れながらも気持ちが少しだけ楽になっているのを感じていました。
初めて会ったときはただじっと黙って私を見つめていただけの、言葉らしい言葉もほとんどしゃべらずに、ずっとアキトさんの傍を離れようとしなかった彼女のかつての姿。でも今はそんな面影をきれいに振り払うようして、こうして私達と向かい合っているラピス。
それはラピスが以前のラピスから変わっていけたということ。
だからきっとアキトさんも、そして私もと―――そう、ほんのちょっとでも思わせてくれたみたいで。
「ぷっ……くくく」
「なに必死に笑いこらえてるんです、高杉大尉」
いっぽうブリッジの片隅では、失礼にも肩を震わせて笑いをこらえているサブロウタさんと、そんな彼に呆れた視線を送っているリャンさんがいて。
「いや、そういえば二人に教えてなかったいいネタがあったな〜と思い出して」
「え、なになに? そういうのはすぐに教えてよ」
「…ソウマ少尉、高杉大尉の戯言に付き合ってるヒマがあったらちゃんと仕事してください」
「いいじゃないリャン君ってば、ホント真面目なんだから―――で、サブ、いったいなんなのよ?」
そして非当事者としての薄情さを存分に見せるまわりの大人たちを尻目に、スクリーンではラピスとハーリー君のどうしようもない問答が繰り広げられていて。
そんな光景を見ながら、私は一人微かに希望のようなものを願っていました。身勝手な希望を願っていました。
できることならこの先、アキトさんには前線へと出ずに済んでほしい。どんな形でもいいからこの紛争が終結して、また普段の優しいアキトさんに戻って欲しい…と。
でも、そんなときでした。
ブリッジに鳴り響く小さな警告音。瞬時にして走る緊張感。小さく綻び始めるその儚い願い。
それに乗じてラピスとの通信を強引に切りつつ、ハーリー君はオペレーションを迅速に行い、
「…艦長、ちょっと」
そして、真剣な口調で声をかけてきて。
「なんですかハーリー君」
「レーダーの射程範囲ぎりぎりに、未確認の機動兵器が単独航行しています」
「…すぐに最大望遠で捉えてください」
「はい」
程なく映し出された地平線の境界。そしてその上、高速で拡大されていくその映像の先に映る、黒一色に染まるステルンクーゲル。
ありありとした禍々しさに包まれたその機体。
「――――…!!」
急速に強く冷たく締め付けられていく、私の胸の内にある感情…。
「あー…なんつーか非常にタイミングの悪いところで現れてくれましたね」
「艦内警報、出します?」
サブロウタさんの台詞に重なるように、ヘッドセットのマイクを口元に寄せながらユミさんが訊いてきました。私はそれにうなずきかけ、でももう一度スクリーンを見直しました。
「…いえ、少し待ってください。ハーリー君、敵機の進路は」
「当艦と並行に進んでいますね。偵察でしょうか? 今のところこちらへ向かってくるようには思えませんが…」
「テンカワさんが帰ってくる前に消えてくれると嬉しいなー、俺は」
サブロウタさんの軽口めいた、でもまったく冗談めいた雰囲気の感じられない言葉が聞こえてきます。そっとマイクを押し上げるユミさん。ハーリー君が私のほうを見上げてきます。
ひとときの沈黙のなか、スクリーンの黒いクーゲルは静かに地平を、その不吉な装甲を輝かせながら進んでいきます。
「…ええ。ブリッジのみ警戒態勢を維持。このまま敵機の様子を――」
そして、そのとき。それはもしかしたら最悪のタイミングだったのかもしれません。
静かにブリッジのドアが開き、ゆっくりと姿を見せたアキトさん。今だけはこの場にいて欲しくなかったのに、なのに来てしまったあの人。
アキトさんはスクリーンに映るいくつものウィンドウに気づき、そして…。
「ルリちゃ――艦長、何があった」
そう途中で言い直して、アキトさんは私に尋ねてきました。その声音だけは、悲しいくらいにいつもと変わらぬアキトさんの声でした。
「例のステルンクーゲルです。どうやら艦隊から離れて単機行動しているようですが」
「今のスピードを保持すると、おそらくあと2分でレーダーの範囲から抜けます。どうします艦長?」
ため息を押し殺した私の返事。私の返事に続く、ハーリー君の報告。
私はその問いかけに躊躇い、脳裏にあのときの光景が掠め…渇いた口をやがてゆっくりと開き。
「アキトさんとリョーコさんは、出撃態勢のままカタパルトで待機、サブロウタさんは――」
「艦長」
でも、私のその躊躇った末の判断に、アキトさんは無情に言葉を挟んで。
まるで運命の階段を一歩、昇りゆくように。
「…いや、俺一人で行ってこよう」
そしてアキトさんはそう静かに言って。
11.地球にて
『――では、次のニュースです。昨日の午後4時より火星で行われておりました統合軍木連艦隊と連合使節との会談ですが…』
その昼下がり、テレビのニュースはほんの半日前に終わったばかりのその会談の内容を伝えていた。
そろそろ熱気よりも秋風の涼しさが際立ってきた縁側に、まるで忘れられたかのようにぶら下がったままの風鈴の音が消えていく。その家の主はそんな光景を気にした風もなく、手にした煎餅を小さくかじる。
静かにそよぐ風のなか、いつもはその傍らでひっきりなしに口を開いているだろう少女も今はいなく、だから彼女は――ハルカ・ミナトは、その優しい表情のままでぽつりと。
ぽつりと、その言葉を胸の中で想っていた。
(…白鳥さん、やっぱりどこかから見てるんですか?)
ちりんと、その風の音が鳴る。
その音に初めて気がついたように、彼女は縁側の外を見上げる。
そしてその風は、空をそっと撫でていくその風は遠いどこかへと消えていって――
12.記憶の扉 〜イネス〜
…風の中、遠い空から落ちてくるその感触のなか、彼女は一人その草原に佇んでいた。
頬を強く掠めていくその冷たさと、瞳の先に映るにじんだ景色。まるで何かを待っているように、そのブロンドの髪を揺らしたままじっと動かずにいた。
どれくらいのあいだ、そうして立ち尽くしていたのか。
どれだけのあいだ、そうして沈黙をとおしてきたのか。
「…そろそろ、行かなくちゃね」
やがて彼女はそう小さく呟き、涙を跡に歩き始めた。
13.何もない、故郷で
…そして俺はこの場所に立っていた。そびえ立つ朽ちたチューリップの麓、荒廃しきったかつての故郷に一人立っていた。
まるで幽鬼のように進んでいった黒のクーゲルがたどり着いた先、そこは廃墟となって久しいユートピア・コロニーの跡地。その巨大なクレーターのどこかに姿を消した亡霊を追うようにして、気がつけば一人この場所に佇んでいる自分がいる。
「…あれからずっと、このままか」
ふと漏れてしまった言葉。わかりきっていたはずなのに、ありきたりな感慨が胸を掠めてしまったのかもしれない。
そんなことを思っていたそのときだった。
「……誰だ?!」
微かな物音に、振り返り銃口を向ける。逆光の陰に浮かぶ、ひとつのシルエットを捕らえる。
そしてその視界の先に、ありえなかった幻影を見る――
「…久しぶりだね、アキト」
「え―――?」
そこに現れた人影。その黒のパイロットスーツに包まれた女の姿。一瞬それを、俺自身が見せた幻だと…決してありえない光景なんだと、ただひとつ俺の心が叫ぼうとしていた。
でもそれは違っていた。その『彼女』の姿に、霞みかけていた記憶がはっきりと甦ってきた。
あまりものショックに、かざした手を力なく垂れ下げ、
掠れた俺の声が、荒れた大地に消えていく。
力なく、記憶の底の痛みが甦えっていく。
…そしてそれは、あの日に失った人の姿。もうずっと遠くへと消えてしまっていたはずの人の姿。
「……サレナ、さん?」
そう。そこに『彼女』が立っていた。
(記憶の5へ)
代理人の感想
ううっ、この長編を最初から読み返すのはきつかった(爆)。
さすがにほぼ一年ぶりともなると話を殆ど忘れてましたからねぇ(苦笑)。
読んでて面白かったが故に時間を忘れた挙句に更新が遅れたのはここだけの秘密。
さて、なにやらループしているらしき過去(ないしは未来)と現在。
終章は「現在」における最終決戦前夜、サレナの夢、な感じだと思ってましたが、
読み進んでいくとどっちがメインか分からなくなってきました(苦笑)。
「記憶」というにはちょっと現実感がありすぎるせいかもしれませんけど・・・
構成的にもどう落すか大変楽しみにしてます。
とりあえず、クライマックスに向けて最早語ることなし!ってとこですね。