〜メビウスの欠片 終章〜

  赤い大地の記憶




 記憶の5 真実への扉



「久しぶりだね、アキト。そう…本当に久しぶり」
 荒れ果てた大地。抜け落ちたような空。俺達たった二人だけが立つ、何もない故郷。
 そして俺の目の前に立つ、黒一色のパイロットスーツに身を包んだ女性。
 俺が彼女の姿を目にして、思わず呼んでいたその名前。

 ――サレナ・クロサキ。

 不意にあの人の名前が、あの人の微笑が、そしてあの人の寂しそうな横顔が俺の中から沸きあがってきていた。目の前にいる、黒いクーゲルのパイロットに違いないその女の姿に、何故かあの人の姿を写し合わせていた。
 …確かに、似ていた。でも決定的に違っているはずだった。記憶にあるあの人と同じような、肩先まで伸ばしたその黒髪。どこか意志の強さを感じさせる瞳。俺よりも幾分か背の低い彼女は、なんて表現していいのかわからない不思議な眼差しで俺のことを見続けている。
「シェリエ、だな? 黒いクーゲルのパイロットの」
 確かめるように、ゆっくりとその言葉を投げかける。その問いかけに小さく笑い声を漏らす彼女。
「冷たいね、アキト。さっきは『サレナさん』って呼んでくれたのに」
 その何気ない言葉に言いようのない不快感を覚え、切り捨てるように俺は口を開く。
「くだらない悪ふざけはいい加減にしろ。お前がここで何をしたいのかは知らないが、俺には猿芝居に付き合っている暇はない。大人しくこのまま――」
 だが、言葉は続かなかった。
 俺は唖然とした表情をしていたのだろう。ただ心を抜かれたように、突然現れた彼女の『変化』に目を奪われていた。
 目の前のその事実に、驚くことしかできなかった。
「……貴様、それは」
 …彼女の顔には、淡く光る白の紋様が浮かび上がっていた。この俺にとって見慣れたものである、幾重にも走るあのナノ・マシンの淡い輝き。あの日から続いた悪夢の象徴とも言える輝き。それが彼女の表情を覆い尽くすように、はっきりと輝いていたからだ。
「…ああ、これ?」
 そしてそう言って彼女は、こめかみを軽く人差し指でつつく。
「私のここの中って、何百万っていう未知のナノ・マシンが埋め込まれているんだって。おかげで感情が高ぶったりしたときに、こうやってぼおっと光るんだ」
 その長い睫をそっと閉じて、呟くように言ってくる。
 言って、再びこの俺へと視線を向けて。
「……まるでマンガだろ?」
 そして微笑いながらそう言ってきた彼女。ぞくりとするような笑みを、この俺に見せてきた女。
 女の言ったその言葉に、あの日ルリちゃんと向かい合っていた俺自身の言葉が、そして俺自身の姿が重なる。その幻影を振り払うようにして目の前の女を強く睨みつける。
「…お前、いったい誰なんだ」
 俺は思わずそう声を上げていた。かすれる声で、彼女に――この俺と同じようなナノ・マシンを持つ目の前の女へと声を上げていた。
 そして俺の問いかけに、彼女はただ淡々とつまらなそうに口を開いて。
「…私はサレナ。サレナ・クロサキ」
 そう。確かに彼女は。彼女は不意にその口元を、おぞましいくらいに美しく歪め。
「――そして同時に、テンカワ・アキトでもある」
 吹き抜けた風がコートを強く揺らす。乱れる髪にもかまわずに、女はじっと俺のことを見続けている。
「……いや、お前の名は『シェリエ』だ。サレナ…サレナさんじゃない」
 長い沈黙の後、俺は再び女へと銃を向ける。その間ずっと、女はそのぞっとする笑みを浮かべたままだった。
 そして自身へ向けられた銃口を気にもとめぬまま、あざけるような笑みのままで言う。
「…まぁ待て、テンカワ・アキト。私のことをお前にわからせるためにはもう少し話をする必要がある。長い長い話をな」
「そんなものに付き合う義理はない」
 苦虫を噛み潰したような声で答える俺。だが女は低く嗤い、見透かしたような瞳を向けてくる。
「『私達』がお前のことを知っている理由、知りたいのだろう?」
「…………」
 その言葉に俺は押し黙り、沈黙を肯定と受け取ったのか、女はやがてゆっくりと話し始めた。
「ああ、まずは何から話そうか。そうだな……今からもう30年近く前のことだ、このユートピア・コロニーに一人の女が生まれた」
 彼女の視線が荒野の向こうへと向けられる。その丘の先、かつて広がっていたはずのなだらかな街並へと。
「女は西地区の軍人の家庭で育った。家族を省みない父と物静かな母、まぁごく一般的な家庭だったのだろうな。彼女のただひとつの秘密を除いて」
 そよぐ風に揺れる黒髪をそっと右手で押さえ、微かに顔を俯かせながら、彼女は言葉を続けてくる。
「彼女はな、幼い頃からある男の『夢』を見続けていたんだ。それは彼女に言わせれば、哀しい男の夢だった。
 その男は夢の中で、奪われた自分の全てを取り戻すため、そして奪っていった奴等に復讐するために戦い続けていた」
 静かに、その言葉が紡がれる。どこか穏やかに思えた声。
「…そう、黒い鎧を身にまとって、あの黒い機動兵器を身にまとって」
 その言葉に、俺の心が一瞬凍る。
「男には愛する人間がいた。でもその女も奴等に奪われた。男の身体もずたずたにされた。だからこそ男は、その男の人生を狂わせた奴等――火星の後継者、クリムゾン、そして紅い眼をしたあの男…北辰に復讐をするために戦い続けていた」
「貴様――」
 そしてそう言葉を続ける女。俺は彼女を睨みつけ、その言葉を遮ろうとする。
 だが女のその表情は、凍るような微笑はそれすらもさせず、俺の心と身体をただ震えさせるように。
「…話を戻そうか。それでその女、ユートピア・コロニー生まれのその女は、彼女の見る夢を、その『記憶』を、自分の前世だと思っていた。そう思いながら人並みの人生を過ごしていって……そして2196年、あの戦争が起きた」
 やがてそのとおり、心が震えはじめるなか、風に震えるなか、女は確かに言ってくる。
「そして女はあの男に会ったのさ。記憶よりも幾分若いその男、自分の前世だと思っていたその男に。
 会って、そしてまもなく二人は地球へと跳ぶことになった。そう…文字通り、このCCの輝きに包まれて」
 そして女の身体がボソンの光に包まれた。俺が引き金を引く間もなくその姿は青い残光とともに掻き消え、
「――!?」
 一瞬の後に、背後に氷のような気配を覚え。
「…くっ!」
 振り向いた先、手を伸ばせば届きそうなその距離で彼女は立っていた。無防備な姿で、冷たく微笑いながら立っていた。
 すぐさま銃口を向けながらも、俺の心臓は得体の知れない恐怖に――いや、その突然の確かな予感からくる恐怖のために、強く揺れ動いていた。女の話は恐ろしいくらいに、そう。“あの時”の出来事に重なっていた。
 そんな俺の姿を、表情を見て、満足げに女は呟く。
「流石にもう察したようだな。…それから女はその男と共に行動することにした。自分の『夢』の秘密を、その『記憶』の秘密を知るために。そうして二人はやがて運命とでもいうものに導かれて、あの白い船に乗ることになった。
 …そうさ、二人は乗ることになったんだ。あの火星へ向かう白い船、『ナデシコ』に」
 女が静かな笑みを見せる。俺の口から呟きが漏れる。
「……黙れ」
 確かに俺は、俺とあの人はあの日、火星から地球に飛んだ。だがそれがどうした?
 わけもなくそう心に思い、女を睨みつける。しかし女は構わずに、銃を握り締める俺の右手を眺めながら言う。
「それから二人はナデシコとともに、蜥蜴戦争を戦い抜いていく。その戦いのなかで、その男の知らぬまま、女は自身の内に眠っていた『記憶』を思い出していく。
 …初めて女が『記憶』の片鱗をはっきりと見せたのは、あのカワサキ・シティの夜だったか。たぶんあの時の月へのジャンプが決定的なきっかけになったんだろう。女は今までにない速さでその『記憶』の秘密を知っていくことになった」
 そうして女は言葉を続けていく。
「でもそれと同時に、女はその男から見てもはっきりとわかるほど、変わっていったんだ。まるで『記憶』に飲み込まれるようにして、自分が希薄になっていくのを感じていたんだ」
 …なにを出鱈目を言う。そんなこと、あの人は一言も言っていなかった。だからそれはお前の作った虚言にすぎないのだろうが。
 俺は思わず強く思っていた。胸の痛みはそう訴えていた。
 でもその感情的な思いを塗りつぶすように、もうひとつの痛みが傷口を広げていく。あの人の苦しそうな、哀しそうな表情が心を塗り替えていく。
 そして不意に女は冷たい視線を向けてくる。
「女は必死で抗おうとした。自分が自分でありつづけるために。でも、それでも『記憶』は彼女をゆっくりと侵食していき、ついに彼女の全てを飲み込むまでになった。
 そしてあの月最終攻略戦のさなか、女は一人黒い機動兵器に身を包んで戦場へと向かい…」
「黙、れ――」
 続いていく言葉に、俺の震える呟きが重なった。怒りと恐怖に震える呟き。
 脳裏に思い出されるは、あの日の霞んだ光景。小さな身体で、この俺にしがみついて。そして理由を明かすことなく号泣していたあの人。そして…。
「女は二度とナデシコへは戻ってこなかった」
「黙れ!!」
 そして女は言い放った。俺は同時に、耐え切れぬ叫びとともに引き金を引いていた。
 放たれた銃弾が彼女の黒髪を掠め、それでも凍てついた瞳のままに俺を見返してくる。ゆっくりと、銃口から霞んだ硝煙が上がっていく。
 女はそして静かに、全ての感情をひとつに塗りつぶした声で言ってくる。まるで俺の心を押しつぶすように。すべてを苛む声とともに。
「そうさ。女の名前はサレナ・クロサキ。そしてその男の名は――テンカワ・アキト。お前のことだよ」

 …その瞬間、世界が押し潰された。その歪んだ視界の中で、俺は音を失い立ち尽くしていた。
 出鱈目だと叫びたかった。そんなものは根も葉もない嘘なのだと。でも俺にはそれができなかった。何故かそうすることができなかった。
 そうだ。あの日、あの時。あの小さな言葉を残してサレナさんは一人月臣を追っていった。
 そして二度と帰ってはこなかったんだ。目の前の女が言ったとおりに。
 あの人はあの日を最後に、俺達の前から姿を消したんだ――

「……もう一度、訊く。お前は、何者だ」
 なぜ、なぜこの女はあの人のことを知っている? 何故こうも見てきたように、あの人自身になったように俺に語りかけてくる?
 そのどうしようもない混乱と、胸を押し潰す正体の見えない罪悪感。ついにはっきりと見えてきた、俺を苛む罪悪の形。俺は心を飲み込んでいく感情に圧倒されながら、やっとの思いでその言葉を口にする。
 …ああ。そんな言葉、決して口にしなければよかったのに。それはもうわかっていたはずなのに。
 でも俺は言ってしまった。真っ黒な記憶の扉を自ら押し開けていた。そして女は静かに答えて。
 今までにないその沈黙、その断絶された沈黙の果てに、
「私はサレナ・クロサキじゃない。テンカワ・アキトでもない」
 そう、女は。
「私は――私はシェリエ。そして…二人目の『サレナ』であり、三人目の『アキト』」
 女は…シェリエは確かに、そう答えたんだ。



「…何が、言いたい」
 潰れるような声。微かに震えていた俺の右腕。再び風が強くなり始めた。空は重たく俺に圧し掛かっていた。
 それでもなお彼女は侮蔑するような目で、全てを哀れむような瞳で俺を見つめてくる。見つめて、そして残酷な言葉を告げてくる。
「今の話を聞いて、もうわかってるんだろう? サレナは生まれたときからお前の記憶を持ち、それを夢に見続けていた。それと同じさ。
 …私も生まれたときからずっと、サレナの記憶を、そしてお前の記憶を持ち――それをずっと夢に見続けてきた。呪いのようなその記憶に、心を焼かれ続けてきたんだよ」
 不意に彼女の表情が、憎悪に歪む。煌く白いナノ・マシンの光に、俺をさいなむその光に包まれながら。
「そうだ。この頭の中でずっと、お前の絶望の嘆きが響いているんだ。そして無数の光景を私に見せてくれるのさ。お前の体験したあの生き地獄、そしてそのなかで叫び続けるお前自身を。…それがどれほどの苦痛であるか、お前にわかるか?」
 届いてくるのはその責めるような問いかけの言葉。まるで力抜けたように、絶望したようにその身をゆらりと動かし、
「…私はな、全てをお前に奪われたんだよ」
 そしてその切々とした、震えるような声。
「遠い思い出も、大切な人の記憶もなにもかも全て…あの日私の中でお前の『記憶』が産声を上げたその瞬間に、私はそれを奪われた。お前の『記憶』がそれら全てを食い尽くしたんだ!」
 切り裂くような彼女の声。その絶叫が俺を貫いていく。その苦しみが風を伝って、声を伝って、俺のなかへと届いていく。
 静かに、彼女の頬を一滴の涙が流れていく。
「…そしてその瞬間に、私は何者でもなくなった。ただお前の記憶を、お前に引き摺られたサレナの記憶をもち、お前たちの願いを叶えるためだけに生かされた人形になった――」
 吹きすさぶ風が、心の穴を通り抜けていった。訪れた沈黙、それは俺にさらなる苦しみをもたらしていった。
 その僅かなあいだ、全ての表情を失っていた彼女に、恐ろしいほどの憎悪が宿っているのを感じる。それは苦しみを増すためだけに与えられた時間。遠い遠い時間。
「…どうして私が、そしてサレナがその『記憶』に焼かれることになったか、教えてやろうか?」
 そして不意に。シェリエは静かに、冷たく言ってきた。あざけるような笑みを浮かべて言ってきた。
「きっかけはお前の絶望にまみれた願いさ。そのどうしようもない運命、お前に課せられた残酷な運命を変えてくれという願い。お前がここより遠くない未来に願ったその願い。そしてそれは叶えられた」
 早まっていく鼓動。止まらない震え。その言葉に込められていた、決して触れてはいけない死の言霊。それが不可避の力となって襲い掛かってくる。
「叶えられた結果、どうなったと思う? …お前はお前の持っていた全ての記憶と経験を、はるか過去に遡って生まれたばかりのサレナ・クロサキへと送り届けたんだ。同じ火星に生まれた、貴様と何の関係もなかったあの女にだ!」
 続いたのは、身を切るようなその声。その声に打ちのめされたように、感覚が麻痺していく。終わりのない渦の只中に放り込まれたように。
 そしてその感覚のなかで、女の声だけが響いていた。シェリエの言葉が重い楔のように打ち響いていた。
「そしてサレナがその運命を変えられなかったとき、あの女が北辰に敗れたとき、『記憶』は再び過去へと遡っていった。…彼女から解き放たれた記憶は次に、私のなかに降りてきた!」
「…え―――?」

 …そして、俺の手から黒い塊が零れ落ちた。
 鈍い音を立てて荒野へと落ちていった。
「貴様、今、なんて―――」
 その言葉の意味を理解できず、引き攣るような声で。
 俺を見返してきたシェリエの眼差しは、どこまでも黒く凍えていて…。

「……サレナは、死んだよ。あの日あのときに北辰と戦って」
「…!!」

 そしてその残酷な言葉が、今度こそ深く。
 深く俺の心を砕いたんだ。



 長い長い沈黙。風に揺れる彼女の髪。なにもかもが凍りついていた。
 やがてシェリエは淡々と語りはじめる。怒りと憎悪とをゆっくりと浮かべながら。
「そうさ。あの女はお前の未来に訪れる絶望を知っていた。だからそれを防ごうとして月臣を利用し、一人北辰と戦う道を選んだんだ」
 その言葉は何よりも冷たかった。いや、俺の全ての感覚が今度こそ麻痺していた。
 だからなにもかもが冷たく感じられていた。
「だがあの女は北辰に負け、そして死んだ。だからあの女の願いは、お前の呪うような願いはかなえれなかった。そして『記憶』はもう一度過去へと、私へと遡り――お前には、サレナ・タイプの設計図が残された。あのブラックサレナの原型がな」
 視界が黒く染まりゆく錯覚。そのなかでシェリエの声だけが不気味に俺の中へと響いていく。
「ブラック・サレナ…あれが、サレナさんの――」
 ポツリと呟いた俺の声に、侮蔑の笑みと、深い憎悪とともに。彼女は俺の心を抉っていき、
「そうさ。アレはな、サレナ・クロサキの黒い願いの象徴だったんだよ。そして同時に儚い願いも込められていたんだ…!
 なのにお前は何も知らずに、あのブラックサレナを使っていた! 貴様のためのその意味も知らずにだ!」
 その声にあの人の哀しみを乗せて。途切れることのない哀しみを乗せて。
「『黒い、サレナ』……まったくもって言葉通りじゃないか、笑わせてくれる! そしてその名前どおりに、その願いを踏みにじって! お前はあの北辰とかいう男のためにサレナを利用したんだ!!」
 そしてシェリエは再び絶叫した。その言葉は一つ残らず俺の心の奥底へと刺しこまれていった。まるで脳裏に鮮血を散らすように。
 …それはまさに黒い世界。どす黒い血に染まったその奥底の記憶。まるでそれらを再び呼び覚ますように。心の全てが裏返るように。
 心の片隅にしまっていた、あの人の記憶を引き裂くように――

「――お前のせいでサレナは死んだ! 貴様が願った愚かな願いを叶えようとして、自分が自分自身でなくなることに耐えながら、そしてお前の呪いに食い尽くされるようにして死んでいった!!」
 そう。それはただ、残酷に。ただ、ひたすらに。
 あの人の悲しそうな微笑が心に浮かぶたびに、俺の心が苛まれていく。
 シェリエの怒りと悲しみに満ち溢れた声が、俺をその奥底へと導いていく。
「そしてお前のせいで、お前のせいで私は全てを奪われた! 私を私に留めてくれるその全てを!! 記憶を、思い出を全てお前の呪いに食い尽くされて――いつしか私の中からは、お前とサレナの『記憶』以外の全てが消え失せてしまったんだ!!」
 そうしてシェリエの慟哭が、あの人の悲しみが、この荒れ果てた大地に響き渡っていく。
 声を涸らし、シェリエは崩れ落ちるようにしてその哀しみを吐き出していく。
「わかるか、テンカワ・アキト!! お前のこの『記憶』は――呪いはサレナへと、私へと受け継がれていった! そして私が死ぬそのときには、また新たな犠牲者を求めて過去へと遡るんだ! この無限に続く呪縛こそが、お前が犯した最大の罪なんだ!!」

 それらの全てが、俺の心を、俺の全てを抉り取っていく…。


「そうだ!! 全部…全部お前のせいだ、テンカワ・アキト!! お前のせいで、私は……『私達』は――――…!」



 そして俺は立ち尽くしていた。
 荒れ果てた大地の上、何もない故郷の上で。ただ一人どうしようもなく立ち尽くしていた。
 目の前には泣き叫ぶ『シェリエ』の姿。
 彼女に重なるようにして俺の目に写る、あの人の姿…。

 そう、その姿が、その幻想が。泣き叫びながら…ただひたすらに――――












 14.呪縛

 どれだけの時間が経っただろう…永遠に思える拷問の末、冷たくシェリエは言ってきた。
 いつしか力なく両の膝をついていた俺を見下ろすように、頭のてっぺんから彼女の声が届いていた。
「…できれば今、この場でお前を殺してやりたいよ。だがまだそれには早い」
 忌々しげに呟くその声。遠く響いてくる荒涼とした風の音。その声にぴくりと、俺の右腕が、その指がかすかに動く。掠れた声が漏れていく。
「…俺の記憶が、過去のサレナさんへ跳ばされたと言ったな」
 ぽつりと、その言葉が漏れた。
 震える身体を無理やりに押さえ込み、ゆっくりと顔を持ち上げていく。視界に写るのはその顔を憎憎しげに歪めたシェリエの姿。それを気が狂いそうになる思いで睨み返す。
「なぜ、何故それができると言い切れる…」
「…この期に及んで、まだ醜いことを」
 彼女の吐き捨てるような言葉。
「お前の言うことなど信じられるものか。俺はそんな技術も力も知らない。もし俺にそんな力があるというなら、お前の言うことが真実というならそれを証明して見せろ…!」
 それに涸れきった喉で、俺は搾り出すように叫んだ。無様な姿のまま立ち上がり、彼女の憎悪に溢れる表情を見ていた。
 やがてその口元をゆっくりとゆがめるシェリエ。今度こそ俺のひび割れた心を粉々に打ち砕こうと、その紅く染まった唇から言葉を発しようとして――

「――それが遺跡の力だからだ」

 でもそのときだった。別の場所から聞こえてきた、聞き覚えのある男の声。
 その突然の闖入者に俺の意識が向けられていく。視界の右隅、崩れかけた灰色のブロックの側。いつの間にか立っていたその男の姿。
「貴様は――」
 僅かに波打つブロンドの髪、真っ直ぐでいて、俺だけに冷酷な視線を向けてくるその青い瞳。統合軍の仕官服に身を包んだあの男。
 この俺に、あの時……あの機動兵器の名を、あの人の名を告げようとした男。
「リロィ、遅いぞ」
「すまない、シェリエ。だが向こうはかたづいた」
 俺の声に重なるように彼女の言葉が聞こえてくる。そして男は…リロィはそう静かに言い放ち、ゆっくりと彼女のもとへと歩を進めていく。その唇を僅かに歪めながら。
「…じゃあ、『起動』は成功したんだな? リロィ」
「ああ、じきにこの星は我々の手に落ちる」
「貴様――」
 そして男の小さな呟き。俺の唸るような低い声。やがて奴はシェリエの側に立ち、侮蔑の笑みを浮かべてくる。
「気分はどうだ、テンカワ・アキト。もうシェリエから聞いたのだろう? お前とサレナの関係、そして彼女がナデシコに乗ったその理由を」
「…ああ、おかげで最悪だ。それより俺の質問に答えろ。…遺跡の力が記憶を跳ばす、だと? お前は、お前らは何を知っている、お前らの本当の目的はなんなんだ?!」
 歯軋りの音。震える喉。ゆっくりと、怒りが湧いてきているのを感じる。絶望と後悔の只中に叩き落された怒り、この罪悪感をもたらした奴らへの怒り。
 そしてそれを見通したかのように薄く笑みを浮かべるリロィ。
「お前の疑問は確かにもっともだが…答えは簡単だ。それはお前のまだ知らない、この火星に眠る古代の技術。
 お前も覚えているだろう? 全てのボソン・ジャンプを司る黄金色の箱。火星人の残した遥かな遺産。そう、あの遺跡に眠るコア・システムのことを」
「……!!」
 途端、脳裏にかつての光景が思い出された。
 かつて火星極冠で見た金色の立方体。あの日アマテラスで目の当たりにした、黄金のヴェールに包まれたユリカの姿……。
 そうだ。俺の人生を翻弄し続けた、あの悪夢の技術の結晶――!
「あれが、あの遺跡が俺を…俺の記憶をサレナさんへと跳ばしたというのか?!」
 右手をなぎ払うように振りかざし、気がつけば俺は叫んでいた。怒りに震えるその指先、全てに篭ったやり場のないこの感情を。
「そうだ」
 そして奴は怜悧な声でさらに告げてくる。
「だが勘違いするなよテンカワ・アキト。あれはただの機械だ。遺跡のコア・システムは単にナノ・マシンからの信号を受け取り“対象物”を跳ばしているだけにすぎん。それ自体は一切の意思など持ち合わせていないのだよ」
 その残酷な言葉を。それは低く呟くように、ただ真実だけを述べるように。
「だからこの結果をもたらしたのは、他の誰でもない――テンカワ・アキト、おまえ自身だ」
「……!!」
 …それは静かな言葉だった。静かでいて、絶対的な言葉。
 その言葉を告げ、二人は哀れむような目を俺へ向けてくる。無様な俺の姿を蔑むように、それでもなお彼女の憎悪は尽きることなく。彼の瞳は冷たい色のままに。
「…どうだテンカワ・アキト。お前の真実をようやく受け止められたか?」
 そしてリロィは言った。一欠けらの笑みさえ浮かべずに。
 それは嘲りでなく、怒りでもなく、彼が俺へと向けてきたただ一つの哀れみ。それは俺の感情をついに激情へと、溢れ出る怒りへと導いていく。
「――だれが、認めるか」
 …頬を伝う感覚。涙ではなかった。この忌まわしいナノ・マシンがまた強く蠢きだした証拠。その表情を覆う白い光が、全身を襲う憤怒の震えが罪悪感を覆い尽くし、そして俺の叫びが天へと届く。
「お前らの言うことなど、俺は認めるものか…絶対に、そんな偽りなど信じるものか!!」
「…貴様ぁっ!!」
 シェリエが吼えたのは同時だった。その黒髪を振り乱し、ホルスターから抜き放った銃を向けてくるのを捉える。瞬間、低くしゃがみ転がっていた俺の銃を掠め取る。
 回転する視界とともに耳元を炸裂音が掠め、土煙のなか横っ飛びに身体を移動させ、起き上がりざまに奴へと銃口を向ける。
 だがシェリエの銃口は俺を向いていなかった。その黒い銃身を握っていたリロィの手。微かな硝煙を上げるその切っ先。そしてシェリエは俺ではなくリロィを、その憎悪に満ちた瞳で睨んでいた。
「離せリロィ!! やはりここで殺してやる!」
 そうなじるシェリエ。だがリロィは視線を俺のほうだけに向け言ってくる。
「だめだシェリエ。まだだ」
 その確固とした言葉。そして続いた、彼の強い言葉。
「…まだ遺跡は起動したばかりだ。『門』はまだ開いていない」
「……遺跡?『門』? お前はいったい何を言っている? いったいなにをしようとしている…?」
 その言葉に荒野は静けさを取り戻す。ただ黙って俺とリロィとを睨み続けるシェリエ。俺の問いかけが空へ消えていって。
 そして巻き起こる砂埃。空へと消えていく小さな欠片。やがてこの沈黙を打ち破るように、リロィの口元がそっと開く。
「…私の、私達の目的は二つ。ひとつは前にも言ったように、この星を我々のものとすること。そしてもうひとつは――テンカワ・アキト。お前の作り出したこの呪い、無限の呪縛を止めることだ」
「……まだ、言うか」
 ゆっくりと身を起こし、俺がはき捨てた言葉。
 それを哀れむように見下ろし、奴は言う。ただひとつのその『真実』を。
「そしてもうひとつ教えておこう。私もな、サレナやシェリエと同じように、お前の『記憶』を持っているのだよ」
「―――な…?」
 一瞬、俺はその言葉の意味を理解できなかった。向けられてくる二つの視線にさらされるままになっていた。彼はその人差し指でこめかみを軽くつついて見せる。
「ただ、私の中に宿された『記憶』は星の数だけ存在する。サレナ、シェリエ、そしてその後に続く幾多もの火星の民――無数に受け継がれたそれら全てがまるで宇宙に浮かぶ星のように点在している。それが私の『記憶』だ」
 そして言葉を続けるリロィ。
 ゆっくりと空を仰ぎ、呟くように。
「そして無限に続くこの『記憶』の連鎖のなかで、誰かがこの意思のことをこう呼んだ。
“メビウスの呪縛”――お前から始まったこの終わりない願い。過去から未来、そしてまた過去へと繰り返す、果てのない記憶の輪のことをな」
 呟くようにその言葉を紡ぎ、そして。
「…全てはこの星から始まった。お前がその引き金を引き、サレナが、シェリエが…数え切れない人間が受け継ぎ、『記憶』に呑まれていき、私に至った。だから私がここで終わらせる」
 そして彼が見せてきたその冷酷な眼差し。
「そしてお前の人生も、この星で終わらせてやる」
 たった一つの言葉。
 …その言葉、その男の冷たさのなかには一体どんな感情が渦巻いていたというのだろう。俺は何を言うこともできず、何かをすることさえできずに彼の言葉に呑まれるままにいて。
 何故ならそれは憎しみだけを見せていた瞳ではなかったから。それは死に逝く者への手向けのように、俺を冷たくそっと包み込むものだったから。
 だからかもしれない。俺はわかってしまったのかもしれない。彼があの人の名を呼ぶときのその悲しみの声、『サレナ』と呼ぶときだけに俺へと向けられるその感情を。
 それが一体なんなのかは俺にはわからない。だが、わからなくても…わからないからこそ、それは俺の心を揺さぶりつづけていたのだから。
「…あとはイネス・フレサンジュに聞くがいい。彼女はサレナのただ一人の理解者であり、私達以外でただひとりこの呪縛を知っている存在だ」
「なんだと?」
 そして彼は呟いた。呟き返した俺の言葉には、もう力はなかった。疲弊しきった心はもう、抗う力など残っていなかった。
 俺はもう悲しむことしか、嘆くことしか許されない――まるでそう語っているような奴の瞳。それを証明するように、奴は皮肉げな笑みを浮かべ。
「彼女の口から聞けば、お前も信じるしかなくなる」
 そしてリロィは俺に背を向け、その右手に何かを握り締め、小さくかざす。シェリエも無言でその背中を見せ、ただ横顔だけをこちらへと向けてくる。
 やがて漏れ出てくる青白い光。二人を包み込んでいくその輝き。その輝きに包まれながら、背中越しに言った最後の言葉が俺へと届く。
「…次こそ、戦場で会おう」
「ま、待て…!!」
 そして二人の姿は光のなかへと掻き消えていった。
 かざした俺の右手が、その手に握られた銃身が空しくこの場所に残り、そのなかで俺は空っぽの問いかけだけを抱えていた。
 なにをするでもなく、誰かを待つでもなく。決して帰ってはこないその答えを待ちわびるように立ち尽くしていた俺の遥か上を、やがて轟音が過ぎ去っていく。見上げた先に消えていった黒いクーゲルと、その機体に乗っているだろうあの二人の姿。
 抱えていたはずの罪悪感、そして理不尽な怒りも、今だけはどこにも感じることができずに。ただその黒色が地平へと消えていくのを眺めているだけだった俺の姿。
 そして俺の呟きが故郷へと吸い込まれていった。ただ空っぽの言葉となって、空へと消えていった。
「……どういうことだ、全てを知っていただと? どうしてずっと黙っていたんだイネス。どうして俺に教えてくれなかった―――」

 空はすでに、落ち始めていた。


 (
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