黒百合姫
プロローグ/DEATH
虹色の光芒と共に、黒衣の男が地に降り立つ。
そこは男の故郷があった場所。
今はかつての面影も無く、見る影も無い廃墟であったが、それでもそこが彼の故郷である事に変わりは無い。
眼前のその光景こそが、今の自分には相応しい。
ユートピアコロニー跡を見下ろす丘の上で、男―――テンカワ・アキトは自嘲気味に笑った。
ユリカを助け出し、火星の後継者への復讐は終わった。
俺の手は血塗れだ。もう二度と会うつもりも無いし、その時間も俺には残されてはいない。
ルリには信頼できる新しい仲間が出来た。自分などいなくても大丈夫だろう。
ラピスとのリンクは切断し、エリナに後の事を任せた。
ずっと復讐に付き合わせてしまった。償う事などできないが、これからは普通の人生を歩んでくれる事を望む。
もう、思い残す事は無い。
大地に横たわり、空を見上げる。
最期に見上げた空がバイザー越しでもぼんやりとしか見えないのが、少し、残念だった。
初めに背中の土の感触が感じられなくなり、次いで風に混じる緑のにおいが無くなった。
聴覚はリンクを切った時に失っていたし、味覚はそれ以前に死んでいた。
だんだん視界が暗くなってきたが、目を閉じたのか、視覚を失ったのか、もはや俺には区別が付かなかった。
何も感じられないこの世界。ただ意識だけが在り続けた。
これでは区別がつけられない。
―――テンカワ・アキトが死んだのか、それとも世界が死んだのか。
ただ闇だけが無限の腕でもって其処を支配していた。
彼には肉体は無く―――仮に在ったとしても、既にそれを感じ取る事はできないが―――出来る事は考える事だけだった。
そして彼は考え続けた。
これまでの人生
両親の死
夢
ナデシコ
出会った人々
手に入れた家族
希望から絶望へ
北辰
悪夢
狂気
ラピス
ルリ
ユリカ
人生を全て振り返り終え、考える事が無くなると、目を逸らしていた闇が気になり始める。
そして、一度意識してしまえば、もう目を離すことは出来ない。
闇、闇、闇、黒、闇、死、闇、闇、ヤみ、クロ、黒、闇、闇、死、闇、闇、黒、闇、闇、闇、闇、黒、闇、闇、闇、闇、黒、闇、闇、死、闇、ヤミ、闇、闇、闇、闇、黒、闇、闇、やミ、闇、闇、死、闇、闇、闇、くろ、闇、闇、闇、黒、闇、闇、クろ、闇、黒、闇、ヤミ、闇、闇、闇、闇、黒、闇、闇、クロ、闇、闇、闇、死、闇、闇、黒、黒、闇、黒、やみ、闇、闇、死、闇、闇、シ、闇、闇、死、ヤミ、黒、闇、クロ、ヤミ、闇、死、シ、やみヤミ黒やみ闇闇シ闇やみやみヤミ黒闇死ヤミ黒やみ闇やみや闇みやみクロやみ闇しやみ死くろヤみくロシやみしやみヤミ死クロやみ黒シし死闇クロ闇黒シ闇やみ闇死ヤミヤミ闇死ヤミ黒やみ闇闇シ闇やみやみヤミ黒闇死ヤミ黒やみ闇やみや闇みやみクロやみ闇しやみ死くろヤみくロシやみシやみヤミ死クロやみ黒シし死闇クロ闇黒シ闇やみ闇死ヤミヤミ闇死
絶望的なスピードで、情け容赦なく意識を侵食されていく。
一片の躊躇もなく、無慈悲に、冷酷に、残酷に。
実際はそんな感情すらも無く、ただ命を刈り取るだけの死神の大鎌。
そして何よりも恐ろしいのが、この闇に安らぎを感じ始めている自分
何も考えられなくなった時、自分は死ぬ。
そう直感した
圧倒的な『死』を前にして、自分を偽る事など出来はしない。
後悔は無いと思っていた。
思い残す事は無い筈だった。
―――そう、思い込もうとしていた。
「俺にはまだやりたい事が残っているんだ!」
残った未練。
そしてそれを遥かに凌駕する、本能の叫び。
「死にたくない!俺はまだ死にたくない!!
生きていたい!!みっともなくても、無様でも良い!!
生きたい!!
俺は生きたい!!!」
その生命の叫びもやがて闇の中に消えていった・・・・・・
深く昏い死の闇に飲まれた『彼』の意識にあり得る筈のない覚醒が訪れる。
ゆっくりと目を開き、自分が液体で満たされた大きな筒状のポットに入れられている事に気付いた。
そしてバイザー無しで、健常だった頃と同じくらい目が見えた事に驚いた。
蘇った視覚に喜びながら、周囲の状況を観察する。
そこは研究所のようだった。なぜ『彼』にそれが解ったかといえば、それに酷似した物をかつて嫌というほど目にしてきたのだ。
あまりにも似過ぎていたから、昔に戻ったようだと『彼』は思った。
そう、まるで―――『彼』にとってのこの世の煉獄、火星の後継者の実験ラボへと。
これまでの事は、全て自分の願望が見せた『幻想』だったのかと―――
「くっ、はは、アハハハハハハハハ」
特殊培養液の中にいる為か、その哄笑はやけに甲高く耳に響いた。
「いいさ。何度でも繰り返してやるぞ、火星の後継者ども!
悪夢の中にさえ現れられないくらい
完膚なきまでに殺し尽くしてやる!!」
そして『彼』は再び眠りについた。
敵を殺戮する、その為の力を取り戻す為に。
『彼』の瞳が再び開かれるのは、それから数時間後の事だった。
その覚醒はあらゆる者にとってイレギュラーであったが。
四方を海に囲まれた絶海の孤島。
そこには上空からも見えないように偽装された建造物が存在した。
ネルガルの秘密研究所の一つだ。
通常の研究所ならば、物資の輸送に便利な都市近くに建造されるのが普通だが、
そこで行われている研究内容が、輸送の利便性よりも機密保持を優先させた。
人目を忍ぶように存在するその研究所では、人の悪徳の極みとでも言うべき狂気の実験が日夜行われていた。
「サンプルNo12Cは今日で破棄だったよな」
モニターで情報を確認しながら白衣の男が言った。
「ん?ああ、No12か。昨日の実験で自我が崩壊しちまった奴だったか?」
「理由なんてどうだっていいんだよ。破棄って決まったんだろ?
なら、少しくらい『楽しんで』もいいだろ?」
良識のある人物が見たなら眉を顰めるような嫌らしい笑みを浮かべて同僚に話し掛ける。
「貴重な実験体にそういう事は禁止だろ?」
「破棄する奴ならいいじゃねえか。硬い事言うなって」
「まあ、そうだな。どっちにしろ、もう壊れちまってるし」
そして獣欲に支配された男達が、『獲物』の入ったポットを見上げる。
ポット内部は液体で満たされており、その中に一人の少女が入れられていた。
男の一人がポットを操作して液体を排出とすると同時に、もう一人が少女を閉じ込めていたポットを開ける。
乱暴に床に放り投げられて、紫がかった長い銀髪が床に広がるが、持ち主は呻き声一つもらさない。
しかし、
「おい、こいつ今動かなかったか?」
「気のせいだろ?意識なんて残ってない筈だろ?」
研究員の一人が少女の微かな動きを捉えたが、もう一人は笑って否定した。
そのまま少女の裸身へ覆い被さっていく。
すると、それまで硬く閉ざされていた少女の瞼がゆっくりと開き、金色の瞳が姿を見せる。
蘇った意識が白衣を纏った研究員の姿を捉えた瞬間、少女の意識にかつての悪夢が蘇る。
狂う事すら許されず、何度も何度も繰り返される悪魔の実験
―――コイツラヲ、コロシツクセ――――
考えるよりも早く、その衝動が身体を動かしていた。
絶叫とともに、のしかかって来ていた男の首に貫手を放つ。
狙い過たず一撃で気道を破壊すると、新しく出来た口からヒューヒューと空気を漏らす男を押し退ける。
間髪入れずに呆然としているもう一人の男に跳びかかり、背後を取ると同時に首の骨を折る。
ゴキッ。鈍い音と同時に男の体から力が抜ける。
数瞬前まで人間だったモノから手を離すと、少女はコンピュータ端末へと走り、ハッキング。
数秒で所内の全てを掌握する。
己の下僕となったメインシステムへの命令はただ一言。
見敵必殺
そしてシステムは忠実にそれに答える。
胸に正規のIDを付けているにもかかわらず、所員に襲い掛かる対侵入者用のセキュリティシステム。
突如現れたガトリングガンから吐き出される弾雨に、廊下を歩いていた者は逃げ惑う。
鋼鉄の狩人達は、そんな者達を容赦なく狙い打ちにしていく。
鉛の雨の過ぎ去った後には、蜂の巣になって横たわる、もはや肉塊としか呼べない物体。
逃げ惑う者達の行く手を阻む隔壁。それに閉じ込められた者へは致死性の有毒ガスが襲う。
隔壁を、自身の喉を掻き毟り、苦しみ悶えながらのたうち回る様はまるで出来の悪いあやつり人形のよう。
少女の居る部屋を除く全室の空調システムが全力で稼動し、室内の空気を排出していく。
異常に気付いて室内に閉じこもっていた者達の末路は、窒息死だった。
急激に低くなった気圧に涙を流しながら震える科学者達の姿に、昏い悦びが胸に湧き上がる
警備システムを操作し、一箇所に集まった館外の警備員へは、高圧電流をプレゼントした。
電流に踊り狂う男達の狂乱と死の舞踏会は彼らの体力と共に終わりを告げた。
阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられている所内の様子を、モニター越しに眺めながら、少女は口の端をクッと吊り上げる
数分後、この部屋以外から人間がいなくなったことをコンピュータ―が告げ、死の宴は終わりを告げた。
ようやく冷静さを取り戻した少女は、寒気に身を震わせる。
「―――さむっ。・・・・・・ここは?もう寒さなんて感じる筈ないのに・・・」
両手で自身を抱きしめながら、寒さを感じた自分の身体を見下ろす。
そこに在ったのは、第二次性徴が始まったばかりの、一糸纏わぬ少女の肉体。
「・・・な、なんだこれは!!」
慌てて端末を操作し、監視カメラを使ってこの部屋の映像を映し出す。
数秒後にモニターに映ったのは、紫銀の髪と、金色の瞳を持つ少女の姿だった。