機動戦艦ナデシコ <黒>
 00.「プロローグ」→失われた「火星の日常」、前編



 百年。
 言葉にすればただ二言。長命な人ならば、それをも生きる。
 短くはない。しかし、長くもない。
 そして今、戦争の悲惨さを教えられて育った世代がもっとも権力を持つ時代。
 彼らはどちらを選んだのだろう。
 復讐、それとも和解か。



 カッカッカッ……。
 コンクリートの床に硬質の靴音が響いていく。
 足音の主は、アジア系の出身者が多数を占める木連には珍しい金色の髪に褐色の肌を持っていた。見た目30に届こうかという青年で背は170と高くも低くもない。もっとも、日系が主体の木連だけに彼の名は「柳 龍馬(やなぎ りょうま)」と和風である。また、やがて優人部隊と呼ばれることになる部隊、第一強襲部隊のメンバーであった。
 しかし、彼の頭にそのことを誇らしく思う気持ちはない。あるのはただ、親友と呼べた男の死と、つい先程の上司との会話のことだけ。
「何でアイツが……木連はもう……終わりなのか? ……答えてくれ、白鳥……」
 口惜しそうに、怨嗟の声とも思える声色でそれだけを口にする。
 そんな、下手に触れれば殺されかねない龍馬に話しかける男がいた。イタズラ小僧がそのまま大きくなったような20代半ばの青年。外見は標準的な木連軍人だが、瞳が青い。
「龍馬、また少将とケンカか? 首にされたらどうするつもりだ」
 木連の兵士にしては軽いこの男、名を「草薙 悠(くさなぎ はるか)」という。女みたいな名前にコンプレックスを持っており、それをからかって後悔した男の数は医務室の帳簿を見れば一目瞭然だ。
 周囲とは違う容姿を持つ二人。何となく馬があったというか、初対面の時の大喧嘩を除けば、その日の内に病室で義兄弟の杯をかわすほどの仲の良さを誇る。似たタイプというのは極端に仲が良いか悪いかのどちらかと言うことだろう。
「草薙か……これから葬儀だ。アイツの……な」
「アイツも死んじまったか。この戦いに、まだ始まってもいない戦いに何の意味があるんだか」
「俺は、和平使節に志願した」
「!? お、おい」
「白鳥が何を望んで処置を受けたのか、今となっては、な。だからこそ、行ってみようと思っている」
「……俺達はもう30近いんだぞ!?」
「それがどうした」
「処置を受けての……30以上の人間の生存率がどれほどかは知っているハズだ!!」
「16名が処置を受けて、生き残ったのは北辰一人。俺が生き延びれば、俺は……草壁に意見できるだけの権力を手に入れられるかもしれない。あの『計画』を止められるだけの」
 血を吐くような言葉だった。


 多くの人物が職を問わずに駆けつけていた。これだけでも故人の徳を知らしめる物であろう。
 一人の少年が、黒枠の写真を手に持ち、立っていた。側にはまだ物心ついたばかりの少女が一人。
「おにーちゃん、おとーさんどうしちゃったの? ずっとねてるよ、おねぼうさんなの?」
「違うよ……もう父さんは起きれないんだ」
 言葉からすればそれは兄と妹。
 兄は九十九、妹はユキナという。
 九十九がその両手に持つのは父の遺影。
「なんでおきないの?」
「父さんは……みんなを守りたかったんだ。だから、地球に行こうとして……事故にあった。もう、起きない……はずの事故で……」
 九十九の目から涙が流れる。
「おにーちゃん? かなしいの?」
 流れ続ける兄の涙を見て、妹も泣き始た。



 血の海。
 そこにいるのはもう人とは呼べない姿の……見知った男。四肢は砕け、もはや原形を留めず、白い物が皮膚を、筋肉を、血管を突き破っていた。
『う……うわ……』
『ま、まさか……白鳥中佐!?』
 跳躍門通過のための生体処置。その経過を見て、安全を確認してからの実験だったはずだった。次期木連軍を背負って立つと呼ばれた男、白鳥中佐の……しかし、結果は見間違えようがない、「死」だ。
 その姿を見たとき、龍馬の理性は消えた。視界の片隅に映った白衣の人間を、その手で一瞬にして掴み上げる。
『……何でだ……何でだ山崎! お前が処置したんじゃなかったのか!!』
『僕に言っても困るよ。いつも通りにしたんだから。単なる事故だって』
『……草壁の手先が……』
『よせ龍馬! 滅多なことを言うんじゃない!!』
『止めるな悠! コイツは今の内に……』
 ガスッ!! ……ドウッ。
 悠の拳は龍馬の顔を的確に捉え、撃ち抜かれた。龍馬はその手を山崎の襟から離し、床に倒れ込む。
『冷静になれ! まだ息がある、衛生兵を呼んだ! 俺達がやることはある!!』
『な……に?』
 あり得ない、その筈だった。しかし彼はまだ生きているという。
 龍馬達が駆け寄ったその時だった。彼は数言、誰にも聞こえない声で呟くと息を引き取った。その場にいた者の中に、唇の動きが読める男が居たのは……幸いか。
 途切れ途切れの彼の言葉……それはこのような物だった。
『帰るんだ、九十九と、ユキナの待つ、我が家へ』
 それを聞いたとき、その友人は、自らの運命を自らの意志で決めた。

 耐えられない、そう思い、龍馬は逃げた。この……場所から。
「白鳥さん、あなたの後はこの俺が引き継ぎます。……あの子達を守って下さい」
 そう呟くことしか出来ずに。
 彼らは踵を返し、その場から、やりきれない気持ちを押し隠して去っていった。



 この当時の木連では「来るべき地球との和平に向けて」と言う名目で、跳躍門(チューリップ)を人体が安全にくぐるための研究が盛んだった。移住するためにも、観光で訪れるためにも、地球−木星間の距離をほぼ零にする、跳躍技術の開発は急務だった。
 実際に門をくぐるための「適性因子」と呼べる物は既に発見されており、如何にしてそれを人体に組み込むかが問題だった。
 発生段階にある受精卵を用いての実験ならば、まず上手く行く。しかし、ある程度の年齢に達した者の場合、遺伝子改変に伴う肉体の変化に耐えきれずに死ぬ者も。
 この件に関して責任者である山崎博士は「ま、そのうち上手く行くと思うよ。何しろ僕は天才だからね」と、研究の手を休めることなく語ったという。
 また、山崎博士のラボに、軍刑務所から死刑にされたはずの人間が多量に運び込まれたという情報があるものの、彼らの存在を確認できたものは一人もいない。ただ、研究が好調に進んでいることだけは分かっていた。
「楽しいよ?研究ってさ」
 そう語る博士からは、子供の持つ、痛みを知らないが故の残虐性。それと似たものが滲み出ていた。



 ドォン!!
『納得できません!!』
 怒りも顕わに報告書の入ったファイルを上司……草壁少将の机に叩きつける。その怒りに耐えきれず、ファイルは砕け、書類は散乱してしまう。
『これはもはや決定事項だ。覆すことは出来ん』
『人としての信義にもとります!まして、この計画は……!!』
『我らの祖先の悲願。それを果たすためだ。君にも分かっているだろう?……柳中佐』
 草壁との殴りかかるかのような激しい会話。
 実際に殴らなかったのは、壁際に控えた暗部の男、北辰の姿があったからだ。負傷したのか、昨日まで無かった包帯で己の顔を……目を……覆っている。しかし、もし龍馬と北辰が戦えば、どちらかが死ぬ。それが分かっているからこそ、草壁の横暴を阻止するためにも、無理矢理自分の心を抑えたのだ。
『腐りきった地球に我らの邪魔をすることは出来ん』
 その時の草壁少将の顔を自分は生涯忘れられない、そう彼は思った。自信と実績に裏打ちされた、余りに透明、余りに真っ直ぐすぎる「狂気」。歪みの一つも持たずにいる人間などありはしないのに。
『そのために、白鳥は死んだのですよ!まだ幼い子供が二人もいるのに!!』
『御国のために死す。それが木連男児の本懐ではないのかね』
 龍馬の脳裏によぎるのは、あの日、自分の胸を叩き、泣き叫んだ白鳥の息子、九十九のことだった。その手に妹を抱きかかえ、必死に押しとどめた想いを自分に吐き出す九十九の姿が。
 草壁にしても、かつての祖先の苦しみを強く受け継ぐだけに、地球=悪という図式と、閉鎖された空間に生きる、市民の苦しみを見ているのだ。
 互いに正義。求めるものは安定と、豊かさ。たった一つの事故が全てを奪う宇宙空間から、安定した大地での暮らしを。
 しかし、その選んだ過程が余りにもかけ離れていた。
『……閣下、私は……第一期地球−木星間和平使節に志願します。許可を』
『良かろう。山崎博士には連絡を入れておく』

 龍馬の出ていった直後、草壁の私室。
「北辰。お前は」
「この外道の身とて、奴を仕留めるは至難の業」
「そうか……」
 ふむ……と考えるような素振りを見せたあと、もう一人の顔を見る。
「山崎、お前は」
「最近、献体が少なくて困ってるんですよ。活きのいいのが一体あれば嬉しいんですけどね」
「柳中佐の年齢を考えれば、処置中の事故もあり得る。……十分『気をつけて』おけ」
「分かりました」
 草壁の持つ最強最悪の存在、北辰と山崎。
 木連の抱いてきた100年に渡る負の念が作り出した暗殺者。
 犠牲者を出すことを念頭に「仕方ない」と、罪悪感を持つことのない科学者、山崎。
 彼らの求めるものは絶対のモノ。
 そのためには「いかなる犠牲もいとわず」、「悪は全て根絶やしにしなければならない」と考えている。苦しみの歴史の生みだした闇と言えよう。
 木連を思うがこそ、草壁は思う。惜しい、と。
 龍馬は現存する唯一の木連最古式の継承者。失われた業を持つ、おそらく北辰をも上回る使い手。
「ところで北辰さん、北斗君の処置、本当にやっちゃっていいのかい?」
「構わぬ。あの幼さで我を上回る力を持つとは言え、狂犬に用はない」
「うむ、我々に必要なのは優れた能力を持ち、それ以上に私に忠誠を誓う者。制御できぬ力など不要」
 彼らの目指すのは、あくまで木連にとってではあるが「真の平和」、一族の主への「忠誠」、己の探求心を満たす「提供者」。歪んだ歯車はその歪み故にかえって強く繋がり、回り始める。やがて、その歪みに耐えられなくなり軸が折れるまで。




 和平会談。
 離ればなれとなった兄弟達の邂逅。
 恨み辛みを過去のモノとして忘れ、新たな道を模索しようと言う。
 しかし。
 それは地球ではなく、火星で行われた。
 ここに、二つの企業の手が入ったことを知る者は居ない。


「地球政府としての決定を告げる」
 尊大な態度の男達が次々と口を開く。
「木星自治政府の地球への復帰は認めよう」
「以降は木星圏は地球政府の管轄下とさせて貰う」
「また武装解除を勧告する」
 それは一方的な通告。
 ここに来て和平使節としてきた彼らの顔に理解の色が浮かぶ。「やはり地球は悪なのだ」と。
「馬鹿な!! それではまるで植民地ではないか!」
「そうだ! 地球はまたも我々を弾圧する気なのか!?」
「おかしいと思ったのだ! 何故地球側がこの事を隠し、火星で会談を持ったのかを考えるべきだった!!」
 口々に叫ぶ龍馬達。
 しかし、彼らの意志が交わることはなかった。
 よくよく考えれば分かる。地球から「月」の単位で時間のかかる火星に、いくら微妙な問題とは言え、それほど大きな責任を持つ上層部の人間が来るはずはない。つまり、ここにいるのはあくまで使いっ走りでしかないのだ。
 いずれにせよ、この場での可能性が潰えたのは事実だった。
 やがて「時間切れ」とばかりに地球側の要人が一人、また一人と去っていき、会談は完全な失敗に終わった。



 隠蔽。
 そう、常に歴史は書き換えられる。勝者にとって都合の良い方向へと。
 和平会談とは木星にとって、停滞した空気を吐き出し、新たな道へ進むための。だが、地球にとっては「敗残の徒が降伏してきた」と捉えられた。全くの無でしかないはずの木星圏で100年もの間、人類を生存可能とする超常の遺跡を土産としての。
 この場は汚い政治家の手によって書き換えられようとしていた。
 いや利潤を追い求める商社によってか。
 この会談は、地球側に報道されることは一切無かった。



 数日の時が流れ、場所はユートピアコロニー宙港に移る。
 火星自治政府に交渉してあるとは言え、チューリップを地表に下ろすことは出来なかった。彼らは火星の宙港から連絡船を使い、宇宙に浮いているチューリップへと向かおうとしていた。
「やりきれんな……」
「柳中佐、確かに今回は失敗でした。しかし次回の交渉こそ和平を……!」
「佐久間……お前、どうしてそう……嬉しそうなんだ?」
「え? いやだな……気にしないで下さいよ。だってここ、火星なんですよ? 私は訓練以外でコロニーを出たことさえなくて……嬉しいんですよね、地面に立っているのが」
 そう龍馬を激励する部下は妙に機嫌がいい。彼のバッグには「幻の」木連に存在しないアニメのソフトが大量に入っていることを龍馬は知らず、純粋に自分を元気づけようとしている、そう感じていた。
「草壁少将だって鬼じゃありません。失敗は次の機会にこそはらすべき事です」
 上司の顔が晴れない事からか、段々と元気づける声が怪しくなっていく。
「けどな……」
 龍馬は、悟っていた。僅かに優れない、自分の体調のこと。山崎の細工が、芽吹いてきたことを。
 そう、死期の到来は遠くないことを悟っていた。
 ドオオオオォォォォォォォォォォォンンンン!!!!!
 宙港が、揺れた。
 耳が、鼓膜が音であることを拒絶するかのような大音響。
 世界が壊れる錯覚さえ起こさせる地響き。
 そして顔を打つ熱風。
「爆発物……テロか! お前は救護に当たれ! 私はテロリストの制圧に当たる!!」
「中佐、危険です!」
 タッ……ダダッ!!
 既に走り出していた龍馬はただ手を上げるとこう叫ぶ。
「危険だからと、見捨てられるか!!」



 彼のこの選択は、ある命を救うことになる。
 苦痛の中、生を求め、戦い、生き残ろうという強い意志と。



 数日前のユートピアコロニー、居住区にあるごく普通の一軒家。
 そこに住むごく普通の家族、その団らんの風景……
 少年はその黒い瞳を目一杯に開き、それに……父の持ってきた蒼く綺麗な石に……見惚れていた。
 今は名も知らない、やがて知ることになるその石の名と意味を……CCを見つめる少年の名は「テンカワ アキト」と言った。
「父さん、これどうしたの!?」
「いやな、研究室の実験材料なんだが……『綺麗だなー』と思って持って来ちゃったよ」
 目を輝かしながら言う父に、アキトは苦笑いをする。アキトはこの茶目っ気たっぷりの父が大好きだった。しかし「そう言って」持ってきた物が家の地下室にどれほどあるのか。
「笑うなって。どうせ私以外には扱えないモノ……なら父さんが持っていて、何の問題もないだろう?」
 そう言って、ネルガルが解析不能として放棄したオーパーツの幾つかがこの家の地下に眠っている。その中には明らかに危険と素人目にも判断できるような物まで。
「ふふ……あなたったら、またプロスペクターさんが泣きますわよ。部下の管理責任は上司の私に……とか言って」
「イネス君あたりは笑って済ませるだろうがな」
「???」
 知らない人間の名前にハテナマークを顔に張り付かせながら、この家族の暖かいひとときがずっとつづく事を祈りながら……。
「そう言えば父さん、ユリカ引っ越すんだって」
「ミスマルさんが? 急だな……その割にはアキト、なんか嬉しそうだが……」
「……長かった……」
 一瞬夫妻は耳を疑った。アキトのその声色に。
「カグヤちゃんが引っ越して……今度はユリカが……やっと、やっと自由になれる……」
 滂沱の涙。
「池に突き落とされ、木から落とされ、蜂に追いかけられ、毎日の如く遊びに……言葉通り暗くなるまで付き合わされて……長かった……」
 その余りに実感のこもった告白に、「自分達の息子はこんなんだっけ?」と思う両親だった。
「ま……まあこれやるからさ、気をしっかり持てよ」
 そう言いつつ、細い鎖と蒼い石をアキトに渡す。
 この時のこれが……CCで作ったペンダントが……最後のプレゼントになるとは誰も思わなかった。

 テンカワ家から数メートルを挟んで隣の家、ミスマル家の敷地がある。
 父一人、娘一人のこの家は、いま戦争状態にあった。
「いいかい? ユリカ」
「よくない」
 父のご機嫌を取ろうとするかのような声に、娘の不機嫌な声が答える。
「お父様のばか! バカ! 馬鹿!!!」
 娘の、ユリカの機嫌を取ろうと、ドアを開けた父、コウイチロウの顔に雨霰と娘の手からぬいぐるみが飛んでいく。
「は、話を聞きなさい、……ユリカ!」
 しかし手は止まらない。
 ぽむっ。ぽむっ。
「アキトと離れたくないもん!! 離れたくない! 離れたくないもん!!!」
 元がぬいぐるみだけに大して痛くはない。しかしいつ目覚ましや、花瓶に代わるともしれない。コウイチロウは焦っていた。
「馬鹿!お父様なんて嫌い!!」
 たっ・・ごんっ!!
 手当たり次第に投げつけたぬいぐるみを目くらましに、注意が逸れた瞬間ユリカはコウイチロウのボディに全体重を乗せた見事なドロップキックを決める。
 子供とは言え、全体重の乗ったその威力は凄まじく、反対側の壁にまで飛んでいく。
 このような時にもだましを使うなど、流石に軍の名門、ミスマル家の血と言えよう。
「おう……ぐ……」
「お父様の馬鹿ぁっ!!」
 説得は難しいようだ。
 これから数日間、彼ら親子が火星を離れるその日まで、毎日ボロボロになったコウイチロウの姿が見られるようになる。



 炎に染まったユートピアコロニー宙港で、アキトは見た。
 血に染まり、死した父を、母を、物言わぬ骸となった自らの両親を。そして、それを囲み、死体を見る……いや、検分する二人の男。
 そして悟る。
 この男達がこの惨事を引き起こしたことを。
「ウ・・ウワアアアアアアアアア!!!!」
 言葉などではない、ただ純粋な怒りの籠もった声。全てを込めた叫びを、アキトは撒き散らしつつ、男達へと殴りかかった。

 爆心地。
 テロリストが仕掛けた爆薬による物なら、此処に何かあるはずだ、と龍馬は向かった。
 そして、出会う。
 全ての事象の中心に立つことになる、その存在と。

 ガシッ!
 男の一人が、銃弾を受け倒れ伏したアキトの……まだ幼い少年の体を蹴り付ける。
 ゴツッ!
「まさかターゲットの息子が来るとはな」
「殺すか?」
「やめておけ。……これ以上の殺生に意味はない」
「俺達の顔を見たってのにか?」
 命に何ら敬意を払っていない。アマチュアの殺し屋。命の意味を、重さを知らず、ただ僅かな金銭と一時の快楽で領域を侵す者達。
 その内の一人はアキトの胸を掴み上げ、こう囁く。
「面白いことを教えてやるよ、冥土のみやげって奴だ」
「オイ」
「イイじゃねえか。いっぺん言ってみたかっんだよ」
「お前の両親を殺せって言ったのはネルガルさ。お膳立てしたのは連合だけどよ」
 何か、決して戻らない何かが、アキトの中で、壊れた。
「いい顔で死んでくれ」
 そして、恐怖をなすりつけようとするかのように銃身でアキトの額をゴリゴリとやる。
「……じゃあな」
 そして、銃声が鳴り響き、一瞬遅れてあたりに絶叫と床を濡らす水音が響き渡った。



「はい、これで大丈夫ですよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
 治療を終えた子供に手を振りながら、次ぎにならんでいた少女に消毒スプレーを吹きかけ、ガーゼと包帯を手際よく巻いていく。
 医務室から借りてきた救急キット、それを使い手際よく手当をする佐久間、軍人だけあって、そのための訓練は積んでいる。そして彼が「もう疲れた……」と思い始めた頃、ようやく遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「……あ、救急隊が来たのかな? やっと楽になれる」
 疲れた手をプラプラとさせていたとき、彼は気づいた。
 ザッ!
 即座に飛び退き、それに相対する。
 それは、小柄な男だった。しかし、それ以外に特徴が見えない……いや、消しているのだ。故意に、その特徴を。
「……何者だ?」
「これは失礼……私はこういう者です」
 特徴どころか、こうして正面を向いても気配さえ感じさせない、体温もあるのか疑わしい男はごく普通に名刺を差し出す。
「……クリムゾン?」
「はい。私はロバート様の使い、名も無き、クリムゾンの影を束ねる者で御座います」
 やりすぎな……大仰で慇懃無礼な仕草でその男は一礼してみせる。
「地球政府にさえ影を落とす我が主に……会ってみませんかな?」
 その男の目はまさに影だった。



 龍馬が見たのは、炎の赤。血の赤。折り重なるようにして倒れる男女。周囲を囲む四人……いや三人の男達。そして、その男達の一人を、男の首筋を食いちぎった、漆黒の瞳を持つ少年だった。男の一人に捕まれた格好で、胸元が千切れたようなシャツを着、そして、その、血に染まった顔を。
 まさに獣。
 ベッ!
 獣は、いかにも不味そうに、獲物の首の肉を吐き出し、再び傷口をえぐる。
 怒りでも憎しみでもなく、ただ純粋に敵だから倒す。黒い瞳はそう物語っていた。全身に銃による傷を負いながらも、目の前にいる敵を滅ぼすためだけに生きる、人外の何か。
 鳥肌が立つ。
 血が冷たくなる。まるで逆流しているかのようだ。
「IFS! コイツ、ガキのくせに自分の体改造してやがる!」
 男は銃を向け、撃ち放とうと−−そこで、獣が微かに動いた。たった数メートル。その距離を銃は掠めることなく、遙か向こうへと過ぎ去っていった。皮膚を掠めることも、銃弾の持つ速さが作る真空の鎌よりも、髪一筋の傷を付けることもなく。
 その時、龍馬は、自然に、無意識に銃を抜き、少年にあわせた狙いを変え、気取られた男の頭に狙いを付けた。
 スリーバースト。三つの銃弾が撃ち出される。
 ダン!ダン!ダン!
 狙いあやまたず、それは男の頭部に命中。頭蓋を砕き、脳を破壊し、形容しがたい音と物を撒き散らしながら床に倒れる。自らの死を自覚することもなく、唐突に、終わりを迎えた。
「…………」
 龍馬はつい死体を見てしまうが、一瞬の後、少年へと目を向ける。
「これをやったのは……お前か!?」
 最早、龍馬の目に映るのは獣ではない。
 何かを、決定的に失ってしまった。そんな目をしたまるで捨てられた子犬のような目をした、ただの子供だった。
 心の中の闇。その領域に踏み込み、それでも戻ってきた少年。
 興味をそそられた。
 また、自覚した自分の死期。
 育ててみたい、とも思わせられた。
 不幸だが、既に両親はない。
 その目が何かを思いだし、たった一言、問う。
「……来る……か?」

 この時の呼びかけに、アキトはこう答える。「力をくれるなら」と。

「……ああ。お前に力をくれてやる。生き延びるなり、敵を討つなり好きにしろ」
 子供はその男を睨め上げる。その目には、この不条理な出来事への怒りがありありと見て取れた。
「俺の名は龍馬……柳、龍馬だ」
 名乗る男は名前の印象とは違い、金の髪と褐色の肌を持っていた。
「お前の名前は?」
「アキト。……テンカワ……アキト」



 空港の事故。
 それは火星の解放を謳ったテロリズムの標的だったと報道された。大量の人事異動……宇宙へと上がろうとする軍人のシャトルを狙ったものの、時限装置に狂いが生じたのが原因だと。
「何で、こんな……嘘を……」
 TVを食い入るようにアキトは見ていた。全身を覆う包帯。神経の傷の経過を知るため、麻酔の類は一切使われていない。その握り込まれた拳からは鮮血が滴り落ちていた。
 あの時、空港で見た物、聞いたこと。それがアキトの脳裏をかき乱していく。
 そしてアキトを空港の中から連れだした、救った男はそのアキトの怒りに震えるその姿をある思いと共に見つめていた。
 不条理をはっきりそう感じ、自らの意志で反抗の意志を示す者。それが今、この世界には必要だと。
 この時の二人の出会い。
 それが、人類の行く末を決める戦いの、第一幕。
 そして始まる。いつか訪れる”始まりの日”の為の日々が。
 流れ始める。余りにも、多くの物を洗い流してしまうほど多量の時が。



 後編へ続く。