[多摩市 松が谷 AM0:11]
どうにかアパートまで帰ってきた俺は、ふらつく身体に鞭打ってカタナから降りた。
「おっと」
その途中、ずり落ちそうになった北斗の身体を抱きかかえる。
「……すまん」
ただ一言、それだけ言うと北斗はまた目を閉じ、息を荒くする。
俺も何も言葉を発することなく、彼女を抱いたままアパートの階段を上っていく。
思ったよりも、彼女の身体は軽かった。
「VJEDGONIA」
EPISODE06 「亡霊」
[多摩市 松が谷 AM1:27]
気がつくと、俺はベッドに頭だけを乗せた体勢で、うつ伏せになっていた。
どうにか自室に帰り着いた俺は、崩れるように倒れ込んでいた。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
帰ってきたのは、零時を回ってすぐの筈だった。ほんのうたた寝程度で目を覚ましたわけだが、身体の方はまだ眠っているらしい。
全身を包み込む倦怠感。
どうしようもなく、辛い。身体が重い。
けど、この血の匂いを直ぐにでも洗い流さないと。
どれだけ洗っても、染みついてしまって消えない気がするんだ……いまから朝まで洗い続けたとしても。
あれ? 何か忘れているような気がするんだけど……。
ううん、やっぱりまだ頭がぼうっとしているな。ひとまずシャワーでも浴びて、意識を覚醒させた方がいいかもしれない。
自由にならない身体を引きずるようにして廊下に出ると、脱衣所への扉を開ける。
そこで、ようやく気がついた。
水の流れる音がする……?
誰かが、シャワーを使ってる?
磨りガラスの向こうに、人影が見える。上から下まで肌色。まあ、シャワーを浴びるのに服を着る奴はいないだろうが。
しかし、いったい誰が……。
「あ」
思い出した。
そうだった、放っておくなんてことができる筈もなく、俺は北斗を後ろに乗せて戻ってきたんだった。
と、いうことは、いまシャワーを浴びているのは……。
脱衣所の床に視線を落とす。
そこに丸まって転がっているのは、俺がいま着ているような、漆黒のレザースーツ。
また、視線を上げる。
磨りガラスの向こうの影は、肌色一色……。
「どわぁぁぁぁぁぁっ!?」
それが意味する事実に気がつき、俺は大声を上げていた。
当然その声は中にも届いていたはずで、影が振り返ってガラス戸に手をかけたのが見えた。
「アキトか? 何が……」
「だぁぁぁぁぁっ! ストォォォォォップ!?」
ガラス戸を開けて顔を出す北斗。俺は咄嗟に両眼を手の平で覆い、もう片方の手で北斗に待ったをかける。
「おい、だからどうしたと……」
「なんでもない! なんでもないから、とりあえず中でシャワー浴びてろって!!」
もう必死だった。何というか、何を必死なのかは分からないが、とにかく必死だった。
「き、着替えなんか持ってないだろ!? 何か用意しとくから!」
叩きつけるように叫んでから、俺は慌てて脱衣所を飛び出すと、這々の体で部屋へと駆け戻った。
しばらくして。
北斗が出たあとで、俺もシャワーを浴びた。念入りに全身を洗って、血を洗い流したが……それでもまだ足りない気がする。
俺の、気のせいだとは思うけれども。
かといっていつまでもシャワーを浴び続けるわけにもいかず、観念して上がったわけだ。
バスタオルで髪の毛の水分をふき取りながら、何とはなしに俺は、ベッドに腰掛けている少女に視線を向ける。
こうしてみると、北斗は間違いなく美少女だ。分厚いコート越しでは分かるはずもなかった身体のラインも、それを示している。
そっか、俺、女の子を部屋に上げちゃってるのか……。
たとえその相手が、俺とご同類という実に希有な相手であっても。
ちなみに北斗は、俺が部屋着にしている黒のスウェットの上下を着ている。さすがにここでワイシャツだとか、ベタベタなものを用意するセンスは、俺にはない。
一方の俺は撫子学園のジャージの上下。朝になればそのまま学校に行ける服装だ。
「どうした? 俺の顔に何かついているか」
俺の視線に気付いて、北斗が気分を害したか、顔をしかめる。
「いや……なんて言うかさ、羞恥心とか、ないわけ? いきなり男の部屋でシャワー浴びてるし……まあ、血を洗い流したかったのは分かるけど」
「羞恥心、か……そんなもの、とっくに捨てたさ。性別の違いなんてものも、必要なかった。俺が育った地獄じゃぁな」
そう言った北斗の顔は、紛れもなく真紅の羅刹と呼ばれる、最強の兵士のものだった。
改めてそれを認識しながら、俺は椅子に腰掛ける。
「聞かせてくれないか? お前が何者なのか、キャマリラっていうのは何なのか。そして、どうして俺の力が必要なのか」
「……そうだな。とはいえ何から話せばいいものか……とにかく、長い話になるぞ」
長い、話か……。
それを聞いて俺は立ち上がると、キッチンに向かう。
北斗が怪訝な表情をしていたのに気付いたが、敢えて気に留めずにそのままいく。そして戻ってきたとき、俺はマグカップを両手に持っていた。
「コーヒーだ。インスタントだけどな。飲めよ」
北斗に一つを手渡し、自分の分は机の上に置く。そうしてから、部屋の隅に仕舞ってあるテーブルを引っ張り出してくる。
クッションも出してきて、その上にどっかと座りテーブルに肘をつく。
こうなりゃ、朝までとことん話を聞こうじゃないか。
まだまだ夜は長い。時間は、たっぷりある。
信じられない。
それが、正直な俺の感想だった。
北斗が話す、彼女の身の上は、まるで暗殺者ものや戦争映画のストーリーを聞いているようだった。
物心ついた頃には、もう両親はいなかったという。死んだのか、捨てられたのか、それは分からない。だが彼女と双子の妹は、幼少時代を施設で過ごしたそうだ。
しかしそれも長くは続かない。すぐに別々に引き取られた姉妹は、以来二度と会っていない。そんなことを、考える暇さえなかった。
北斗が引き取られた……いや、素材として集められた先は、キャマリラの兵士育成施設だった。
「キャマリラは、ロードヴァンパイア……ミスマル・ユリカを崇拝する、言ってみれば狂信者の集団だな。俺はその実行部隊となるべく、育成されたわけだ」
「ユリカ……それが、ロードヴァンパイアの名前か」
「ああ。夜魔の森の女王。最強最古の吸血鬼と言われている」
ユリカ……か。何故だろう、俺はその名前を、どこか懐かしい思いで聞いていた。
ヴァンパイアにしちゃぁ、ユリカっていうのは確かに珍しい名前かと思う。多分、ヨーロッパなりなんなり、そういったとこの出身(?)なんだろうし。
けど、この日本じゃありふれたとまでは言わないが、ごく普通の名前だ。もしかすると昔、同じ名前の人に何か思い出があったのかもしれない。
まぁ、思い出せないんじゃ意味がないんだけど。
「それにしても、そんなものを崇拝するなんて、な」
俺が正直な感想を洩らすと、北斗はさもくだらなさそうに鼻で笑って見せた。
「ようするにだ、死にたくないんだよ、連中は。だから不老不死である存在……吸血鬼に憧れる。何とかして、その秘密を手に入れようとする。もちろんそんなのはとんでもない異教者だ。もし知られれば、弾劾される。だから自分たちの盾となる実行部隊が必要なのさ」
北斗はそう、苦々しげに吐き捨てた。
確かに、不老不死を求める人間ってのは、いつの時代にもいるだろう。物語としても多く残っているし、実際にそれを求めたっていう、いわば奇人の類の話だって結構ある。
「イノヴェルチ……異端者って意味だが、裏の世界では、そういう人間は昔からそう呼ばれている。いまでは、全世界に秘密裏に広がるネットワーク的なものになっているがな」
そんなものが、この日常の裏側で……?
「誰も、気づかないのか?」
「気づくはずがないさ。その一端を知ったところで、普通の人間は受け入れられない。ま、当然だがな」
北斗の言葉に、俺は黙り込んでしまった。
事実、俺自身、一度は全てを夢や幻として片づけようとしただけに。
「それに、巧妙に歴史の裏に隠れているからな。表の歴史にも出てくるのは、それこそ魔女狩りぐらいまで遡らなけりゃならん」
魔女狩りだなんて、当然のことながら教科書の中でしか聞いたことがない。そんな、昔から……。
「最近は特に深く潜ってる。ナチスと組んでヘマ打ってからは、慎重すぎるほど慎重になっているからな」
ナチス……。ヒトラーがオカルトにはまっていて、不老不死を求めていたっていうのは、それなりに有名な話だ。
そそのかしたのか、ヒトラーから近づいたのか……それはともかく、そうやって、歴史の裏側に潜んでいたってわけか。
「もちろん、それはいまも変わらない……一昨日の倉庫だが、そこの警備員が持っていた社員証が、これだ」
北斗がレザースーツから一枚のラミネートカードを取り出し、俺に放って寄越す。それは裏にクリップと安全ピンがついていて、胸で留められるようになっているやつだった。
表に記載されている企業の名は……クリムゾン・セキュリティ・サービス。
「クリムゾン?」
「ああ。ちなみにあの倉庫の所有者も、クリムゾングループの子会社の一つだ」
クリムゾン。経済ニュースなんてものとは縁遠い俺にも、その名には聞き覚えがある。世界的な大企業グループで、その進出分野は実に多岐に渡る。
そういえば、最近遺伝子工学や医療、製薬分野で躍進がめざましいんだったか?
「ほう、縁遠いと言う割には、よく知っているじゃないか」
「親父の仕事と、無関係ってわけじゃないんでね。気になって憶えちまうんだよ、目に付くと」
俺の両親は、いわゆる研究者ってやつだ。特に親父は遺伝子工学の分野では世界的な権威らしい。俺にしてみれば単なる道楽者の一言で終わるんだが……。
ともかく、そんなわけで日頃からそういった分野のニュースには、それなりに耳聡くなっているわけだ。それが日常生活に役立っているかどうかは、また別だけども。
「知っているなら話は早い。クリムゾンが医療分野で躍進を遂げたその理由……それは、これ以上ない実験台を手に入れたからだ」
「これ以上ない、実験台?」
「ああ。それは神秘的とさえ言える生命力に満ちた、研究対象としてもまさに最高の素材だ」
ちょっとまて……それって、要するに……。
「そう。ロードヴァンパイア、ミスマル・ユリカだ」
表情から、俺が何を考えているか読みとったのだろう。俺が言葉にするよりも早く、北斗が言う。
「これから先、クリムゾンは医療分野だけじゃなく、別の分野でも躍進するだろうな。表だって公表はしないだろうが」
「表だって公表できない分野ってことか? それはいったい……」
「兵器分野だよ。何時の時代も、人間が人間である限り需要は無くならない。企業としちゃ、理想的な商品だろうな」
それはつまり……吸血鬼を、商品に?
そうか……その試作品が、あのキメラヴァンプってわけか。
顔に出ていたのだろう、北斗は無言で肯いて、俺の予想が正しいことを示している。
あんなものを作り出して、そして兵器として売りさばくだって?
そんな、そんなことのために……あの子は……死んだのか?
俺はいつしか、硬く拳を握りしめていた。すっかり痺れてしまって、力を抜いた後もしばらく指が固まってしまった程に。
「キャマリラは、ミスマル・ユリカを奪還するために、武装集団を組織した。だが、その先兵を務めた部隊は、簡単に壊滅したよ」
「……キメラヴァンプ、だな?」
「ああ。あの生命力、回復力、そして桁外れの肉体。ただの人間が、まともに相手できる存在じゃない」
それは、そうだろう。あの力はまさに一騎当千だ。心臓を貫かれない限り、いつかは再生する。そして死なない限り、獲物を狩り続ける……。
「そんな化け物に対抗するために、俺が造られたのさ」
造られた?
その言葉が意味することに、俺は気づいた。
それはつまり、何者かが人為的に、北斗をいまの状態……ヴェドゴニアにしたということだ。
「ある日、俺が所属していた小隊は、目的地も知らされずに輸送車に乗せられた。そんなことはしょっちゅうだったからな、特に気にも留めなかった。だが、その日は違った」
北斗たちを乗せた輸送車は、何処ともしれぬ夜の森の中で停車した。そして与えられた任務は、この森に紛れ込んだ、一人のターゲットを狩り出すこと。
彼らは、やけに簡単な任務だと腑に落ちなかった。だが、兵士が命令に疑問を挟む余地はない。ただそれに忠実に従うだけだ。
それが、彼らを襲った悲劇の幕開けだった。
確かに、ターゲットは一人だった。
黒いコートに身を包み、フードを目深に被ったその影は、追いつめていた筈の部隊を逆に虐殺していった。
人間には見通すことのできないくらい森の中を、そいつは苦もなく飛び回る。そしてその姿を捕らえたと思ったときには、もう首筋に咬みつかれた後だ。
そう……ターゲットとは、吸血鬼だったのだ。
いかに訓練されていようと、所詮彼らは人間のための部隊だった。吸血鬼を相手に、しかもこのような場所ではあまりにも無力。
全滅するまでは、時間の問題だった。
「どうも、咬みつかれたとは言っても、吸われた量は誰もが中途半端だったようだ。だが……仮にも助かったのは俺だけだった。他の連中は皆、戦鬼化した後に身体が保たなかったり、発狂したよ」
……そうやって聞くと、俺ってまだ生きているだけでも運がいい方なのかもしれない。
もちろん、幸運だなんてとても思えやしないが、それでもまだ望みは残っている。
ロードヴァンパイアが滅べば、俺は、人間に戻ることができるのだから。
「待てよ? 北斗、お前を咬んだ吸血鬼って、誰か分からないのか?」
「ああ。イノヴェルチの子飼いの奴らしいと聞いてはいるが、どうだか。北辰……キャマリラの長の、ロードヴァンパイアに仕える男は、命令に従うならその吸血鬼を捜し出すのもやぶさかではないだの言っていたが、信じられたもんじゃない」
「北辰……?」
初めて聞く名前だ。もっとも、ほとんどの場合がそうなるんだけれども。
「ああ。キャマリラを統べる、自身も吸血鬼だ」
「なんだって!?」
思わず俺は大声を上げて立ち上がっていた。
キャマリラの頂点に立っているのが……吸血鬼だと?
「じゃあお前たちは、吸血鬼に従っているっていうのか?」
そのときの俺の顔は、鬼気迫るものだったに違いない。だが北斗は涼しい顔で受け流し、気にも留めていないようだった。
「俺だって好きこのんで従っているわけじゃない。だが、中には自らの意志で、キャマリラに加わった輩もいるだろうな」
握りしめた拳が、震えているのが分かる。
心のどこかで、予期はしていた。してはいたが、実際に言葉にされてみると、やはり違う。
「俺は、北辰の奴を信用しているわけじゃない。だが、俺の血を吸った吸血鬼を見つけだすには、奴の……キャマリラの情報網が必要だ」
それで、北斗は従っているわけか。
ある意味、ラピスたちに協力している俺と、同じだ。
彼女も、人間に戻るために、戦っているのか……。
「だが俺はさっきも言ったように、北辰を信用しているわけじゃない。いや、奴は俺を利用するだけ利用して、後は処分する腹だろうさ」
「それが判ってて、連中に従い続けるのか?」
「まさか。奴を潰して、情報だけを手に入れる。ついでにキャマリラそのものも潰せれば、俺の気も晴れる」
ニヤリ、と口元を歪めて、北斗は楽しげにそう宣う。
「連中のやることが許せない、とかじゃないんだな」
「……そりゃ、そうだろう。それを言うには、俺の手は汚れすぎている」
俺たちの間に、それきり沈黙が降りた。もっとも、気にしているのはもっぱら俺の方で、北斗は別段変わった様子もなく、コーヒーを口に運んでいる。
事実、北斗はあまり雄弁と言う柄ではないようで、沈黙が苦にはならないらしい。だから必然的に、この沈黙を破るのは俺の方になるわけなんだけど……。
果たして何と言ったものか。
「……その、ごめん」
「何を謝る? 俺はただ、事実を述べただけだ。お前が気に病むことじゃない」
「いや、そうなのかも、しれないけどさ。やっぱり、ごめん」
「……変わった奴だな、お前は」
呆れたように小さく笑って、北斗は空になったマグカップをテーブルに置く。
その横顔に既視感を憶えて、俺はその場に固まってしまった。
(やっぱり……似てる)
枝織ちゃんと、北斗。
あまりにも、似ている。
「なあ、お前、俺の学校に……いや、いい。思い違いだな、きっと」
外見は確かによく似ているけど、性格があまりにも違いすぎる。
それに、漂わせている雰囲気も。
……一瞬、枝織ちゃんから感じた、あの冷たい空気を、俺は努めて忘れることにした。
「なんだ? 言いかけて止めるとは」
「いや、本当にいいんだ」
そう言いながら両手を前に出して、怪訝な顔を向ける北斗の追求をかわしていた俺だったが、いまになってようやく、彼女がその首から掛けていた金色の懐中時計に気がついた。
「その時計は? まさかキャマリラの支給品なんてわけ、ないだろうし」
「ああ、これか? なんでも、施設に入る前から持っていたらしい。形見か何なのかは知らないが……妹も、同じものを持っていたそうだ」
左手でひとしきり時計を玩んだあと、その蓋を指で開ける。
と、オルゴール仕掛けになっていたらしく、澄んだ音色を奏で始めた。
「Jesus Is Calling?」
そのメロディーに、俺は聞き覚えがあった。確か賛美歌の一つだったはずだ。
「曲名までは知らん。妹のも同じ仕掛けになっていて、裏蓋にも同じ絵が彫られていたという話だが」
見ると、確かに裏蓋に羽を広げた天使が彫られている。
決して巧い絵というわけではないが、見ていてどこかほっとする、そんな姿だった。
「正直、妹に会えるとは思ってない。だが、どうにも捨てられなくてな」
そんな自分をあざ笑うように、北斗は冷笑を浮かべていた。
「で、だ。キャマリラに立ち向かうには、幾ら何でも俺一人じゃ無理だ。そこで、お前たちの力を借りたい」
「お前……たちって?」
「もちろん、お前とあのハンターたちだ。イノヴェルチに真正面から喧嘩を仕掛ける程だ、当てにさせてもらいたいんだがな」
さて、どう答えたものか。
俺個人はともかく、ラピスやナオがいまの話を聞いて、どう反応するか。
いま戦ってる連中、イノヴェルチだったか? それだけでも大変なのに、この上キャマリラまで相手にするなんて、正直馬鹿げているだろう。
「今ここで答えをくれ、とは言わんさ。だが、返答は早くしてもらいたい。お互い、時間がないからな」
そうだ。
俺だって、一刻も早くロードヴァンパイアを滅ぼさなければ、吸血鬼になっちまうんだ。寄り道している暇は、ない。
「アキト? 起きてるのか?」
ん?
この声は……リョーコちゃん?
いまの時刻は……。
[多摩市 松が谷 AM8:00]
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
久しぶりに、夜に、ゆっくりと眠った気がする。
さて、鞄は用意していたっけ……。
リョーコちゃんが扉をノックする音を聞きながら、俺は鞄を探して部屋を見回して……固まった。
「ほ、北斗!?」
そうだった。
俺と同じように、ベッドに頭だけを乗せた格好で、北斗が眠りこけている。
歴戦の傭兵にしては余りにも無防備な姿だったが、それだけ昨夜のダメージが大きかったという事だろう。
それに、俺や彼女にとっては、この時間はすでに起きているのも辛い時間だ。
「アキト〜、入るからなー」
や、やばい!
このままじゃリョーコちゃんが部屋に踏み込んでくるのは時間の問題だ。それを防ぐには、彼女が部屋に入ってくる前に、俺の方から出ていくしかない。
部屋の隅に置いてある鞄をひっ掴んで、部屋から出ようとした俺の目の前で、ドアを開けてリョーコちゃんが入ってきた。
「あ……」
「なんだ、起きてたんじゃないか。感心感心」
ど、どうする?
どうやって北斗のことを誤魔化そうか……。
「おーい、アキト、どうかしたか?」
そら、疑いに満ちた目で俺のことを見ているに違い……ない?
「ほら、起きてるんだったら、さっさと学校に行くぞ」
「そ、それだけ?」
「他に何かあったか?」
おかしい、どうも要領を得ない。
リョーコちゃんの性格を考えれば、俺の部屋に知らない女の子(少なくとも、見た目は美少女だ)がいるのを見れば、こんな風に大人しくしているはずがない。
にもかかわらず、現にリョーコちゃんは平然としている。できる限り平静を装って、振り返る。
(いない?)
俺の部屋のどこにも、北斗の姿はない。変わった様子があるとすれば、開け放たれた窓と、風に揺れるカーテンだけ。
(開いた、窓?)
その意味するところを悟ると、俺はリョーコちゃんを部屋から出すことに苦心することにした。
「す、すぐに俺もいくからさ、先に出ててよ」
「ん? どうかしたのか」
「まだ準備してなくってさ。すぐにいくから!」
「お、おい?」
有無を言わさず、背中を押して玄関までリョーコちゃんを連れていく。そのまま彼女がスニーカーを履いたのを確認すると、俺は部屋に戻って扉を閉めた。
「彼女か?」
「違うって! それより、気づいてたのか?」
ベッドに腰掛けていたのは、もちろん北斗だ。
こっちが呆れるぐらい、堂々としている。
「そうじゃなきゃ、今まで生き残ってこれなかったんでな。まあ、正直に言うと、ギリギリだったのは確かだが」
立ち上がろうとした北斗だが、その拍子に額を押さえてよろめく。
「お、おい、大丈夫か?」
「ああ……。さすがに、昨夜のダメージは大きかったからな。まだ本調子じゃないようだ」
「そうか……」
返事を返しながら、俺は考えていた。
こんな状態の北斗を、残していってもいいものだろうか。俺がいたところで何ができるわけでもないが、かといって放っておけるものでもない。
「気にするな。しばらく休んでいればじきに治る。それまで、ベッドさえ貸して貰えれば十分だ」
「けど……」
「おーい、アキト! 早くしろよな!」
「そら、彼女がお呼びだぞ」
「だから彼女じゃないって……判った、とりあえず俺のPHSの番号を教えておくよ。何かあったら、ここに」
メモにPHSの番号を書いて、北斗に手渡す。北斗はそれを手に取ると、手の中に仕舞った。
「それじゃ、俺はとりあえず学校に行く……とりあえず、ここにいろよ」
「ああ……気をつけろ。イノヴェルチが待ちかまえているかもわからんのだからな」
……そうだ。
努めて考えないようにしていたけれど、忘れるわけにはいかない。
俺がヴェドゴニアだということは、もうイノヴェルチにばれてるんだ。
覚悟は、決めておかなきゃならない。
「判ってる。向こうも、学校に直接乗り込んでくるなんて無茶はしないと、信じたいけどな」
あくまでも、信じたい、だ。
現に一度、キメラヴァンプがやってきているんだ。何をしてくるか判らない。
「いい加減、待たせるのも限界だろう。早く行って来い」
「ああ……」
気が、重い。
何事もなければいいんだが……。
演壇の上の自分に集中する視線に、ヤマサキは生唾を呑み込んだ。
自分でもらしくないとは思っているが、これは久方ぶりに訪れた、自分の晴れ舞台だ。相手は、各国より寄り集まった、文字通りイノヴェルチのトップメンバー。自身その幹部と言ってもいい地位にいるとはいえ、やはり心躍るものがある。
弁舌も快調だ。だが程々にしておかなければ……そろそろ相手が苛立ってきたのは、彼にも雰囲気で伝わってきている。
「さて、では本題に入りましょう。吸血鬼の生態については、依然、科学的な解明は遠いものと言わざるを得ません。それでも、遅々たる歩みではありますが、断片的な研究は着実に進んでいます」
そう、今日この日、ここにイノヴェルチ幹部が集められたのも、その成果を発表するためである。
「吸血鬼の体機能は、おしなべて驚嘆するものばかりです。ですがその中でも特筆すべきは、免疫機能の特異性でありましょう。ご存じの通り吸血鬼は、他の生物の体液を補充しつつ循環器系を維持しています。ですが、彼らの免疫機能は何ら拒絶反応を起こしません」
驚くべきことに、彼らは血液型の別を問わないのだ。それどころか血球の数差や形状の違いさえも……いや、酸素さえ運搬できるのであれば、血球でなくとも体液として活用してしまう。
つまり、吸血鬼は血液型の差違に関わらず輸血を受けることが可能というわけだ。
「生化学的な仕組みは未だ解明できていませんが、これを支えているのが、彼らの体細胞が備え持つ特殊な酵素の働きです。これを我々は、彼らの名前から取って『V酵素』と呼んでいます」
V・プロジェクトチームは、吸血鬼からこのV酵素を人工的に抽出し、人体に植え付ける研究に成功していた。その意味するところは、これまで不可能と思われていた免疫機能の操作が、自在に行えるようになったということである。
これが今日の医療現場へもたらした結果は、計り知れない。もちろんイノヴェルチの隠れ蓑たるクリムゾンにもたらした巨額の財も。
しかしV酵素の真に驚くべき点は、まったく異質な細胞同士を結合させ機能させる可能性にある。
ヤマサキが機材を操作すると、背後のスクリーンに一点の絵画が表示される。そこに描かれているのは、獅子と山羊と竜の頭を持ち、蛇の尾と蝙蝠の翼を生やした幻獣……キメラだ。
V酵素は、この幻獣を造り出すことを可能としたのだ。
次々に映し出されるスナップショット。そこには培養槽の中で、鳥人、獣人、半魚人……まさに神話の怪物たちが、眠りについていた。
そう。新たなる異形の生命……キメラヴァンプ。
「唯一の副作用は……V酵素を受け入れた時点で、被験体が吸血鬼の特質をすべて継承してしまう点ですが……それを忌むべきことと見なすかどうか、同士の皆さんには、問うまでもない質問でしょうがね」
ヤマサキの、彼にしては控えめな冗談に、場内から抑えた笑いが湧く。
「むしろキメラヴァンプを生体兵器という観点から見た場合、吸血鬼の代謝能力、圧倒的な生命力は大きなアドバンテージとして評価できます」
落とされていた照明が点けられ、モニターが片づけられる。その間、居並ぶ観衆たちはヤマサキの発表した研究成果に、賛辞を込めた拍手を送っていた。
「ではこれから、皆さんにV酵素抽出の行程を、直にご覧に入れます。それでは、研究室の方へ……」
ラボに隣接された部屋に、一同は通される。そして彼らは、窓の向こうに機械の枷に捕らわれた白磁の美貌の姿をその目にして、息を呑んだ。
夜間の森の女王、ミスマル・ユリカ。話には聞いていても、実際に目にするのは、誰もが始めてのことだったからだ。
「彼女の手によって生み出された新たなる吸血鬼……そう、我々は吸血鬼の養殖に成功したのです。そして養殖した吸血鬼から取り出したV酵素は、純度の点では彼女、ロードヴァンパイアのものには劣りますが、それでも十分に満足できるものであります」
「危険では、ないのか?」
軍人だろうか、がっしりとした体格の大男が、緊張した面もちでヤマサキに問う。
そうだろう、イノヴェルチの一員であれば、ヴァンパイアの驚異は知りすぎるほどに知っている。
「彼女はここ100年ばかりの期間、心神喪失状態にあります。その長すぎる寿命のために、吸血鬼がしばしば陥る状態です」
「ふむ……」
それで大男は、一応納得したようだった。
一同の見守る中を、担架を乗せたカートが滑り出てくる。その上には、一人の少年が手枷足枷で縛り付けられている。
ユリカを縛り付けている枷が、ハム音とともに覚醒し、彼女の頭をすっぽりとヘルメットのようなものが覆う。
その音に、少年がうめき声を上げて意識を取り戻す。ぼんやりとした様子で周囲を見回し、そして自分の置かれた異常な状況を認識したようだ。
戒めで自由を奪われた自分と、その前で機械に縛り付けられた少女の姿。理解を超えた異様な光景は、少年を恐怖の虜にするに十分だった。
「だが、あの状態でどうやって血を吸わせるのだ?」
「吸血衝動は、本能的な欲求と直結しています。まあ彼らにしてみれば大事な食事なわけですから、食欲に促されるのは当然ですな」
そう、ここでヤマサキの出番となる。
彼が専門としていたのは、心理的な操作による、兵士の育成。以前彼は、最強の名を欲しいままにした暗殺者を幾人も生み出している。その中には、攻撃本能を肥大化させることによって作り出した者もいた。
その応用により、彼は特殊な波長の音波によって食欲を刺激する装置を完成させていた。これまでそのような方法では、常人は精神・肉体ともに耐えきれず、廃人となっている。だが、使う対象はロードヴァンパイア、遠慮する必要もない。
ユリカにはめられたヘルメットが、低く唸りをあげる。ヤマサキの指示でその出力が上げられていく……それに伴って、ユリカの美しい眉が潜められ、皺が寄る。
それでも装置の出力は上がり続ける。苦痛のためか、小さく開かれたユリカの唇から覗く白い歯が、ギラリと光った。
犬歯が、ずるりと伸びていく。呼吸が荒いものになり、それに従ってその口が大きく開かれる。
縛り付けられた少年が、己を待ち受ける運命を悟ったのだろう、枷から逃れようと必死にもがく。だがもちろん鋼鉄製の枷がそんなことで外れることはない。
機械が動作し、ユリカの身体をゆっくりと前に傾け始める。そのまま位置を修正し、その顔が少年の首筋の真上にきたところで、ユリカはその鼻をひくつかせた。
獲物の、臭いを嗅ぎ取ってからは、早かった。
ずぶりという音ともに、白磁の牙が潜り込んでいく。
少年は悲鳴すら上げられず、身体を痙攣させる。その動きさえ制限されて、彼に残された自由は何一つとして存在しない。
ユリカの身体が、少年から離される。その犬歯と少年の首筋の間に、すうっと紅い糸が引かれる。
粘り気を持ったその橋が途切れるのと時を同じくして、少年の身体が動かなくなる。すでにその肌は土気色に変わっており、事切れているのは誰の目にも明らかだった。
少年を乗せた担架が、部屋の隅に設置された大きな水槽の、いやそれはもはやプールと呼んでもいいだろう、その隣まで移動する。
そして変化が始まった。
土気色だった少年の肌が、変わる。青白いが、血が通い始めたのだ。
見開かれた血が血走っている。全身の筋肉が膨張し、内に秘められた力を示している。
吸血鬼としての、覚醒。
飢えに苛まれてか、大きく開いた口にはすでに鋭くとがった犬歯が伸びている。
だが、それを待っていたかのように担架の枷が外され、同時に逆さまになって少年をプールへと突き落とす。
飛沫を上げてその中へと沈む少年。直ぐに這い上がろうとして、出来なかった。肉体が崩れ去っていくのだ。
湛えられていたのは、高濃度の硫酸。いかに吸血鬼といえど、そのような中に叩き落とされては、再生する暇もない。
「この後硫酸ごと回収し、V酵素を抽出いたします。以上のように、吸血鬼の養殖からV酵素の抽出まで、すべてがオートメーション化されているわけです」
気色悪いほどににこやかな笑みを張り付けて、ヤマサキは参列者への言葉をそう締めくくった。見渡せば、浮かべている表情はどれも満足げな、薄ら笑い。
それを見てヤマサキも、自身の笑みをいっそう深めていく。
まさに神をも恐れぬ、悪魔の宴である。
ヤマサキが説明を行っているちょうど向かいの部屋で、ジュンはガラスの向こうに捕らわれているユリカの姿を見つめていた。
意識もないだろうに、ただ本能のままに血を貪る。
それはまさに、獣だ。敬愛するユリカのそのような姿を、拳を握りしめて瞳に焼き付ける。それこそが力及ばず、彼女をこのような場所に置くに任せている自身への、罰とでもいうように。
「今日も、ここにいたのね」
「……ドクターか」
振り返らずに、言葉だけを返す。イネスもそれには何も言うことはなく、ただ黙ってジュンの隣に並ぶ。
「ごめんなさいね、私にもっと力があれば……」
ユリカの姿を正視できずに、イネスは視線を逸らして俯いてしまう。
「いや、ドクターのおかげで、ここまでで済んでいるんだ……礼を言うよ」
「そう言ってもらえれば、気が楽になるけれど……それも、今日までね」
「……ヤマサキが仕掛けてきたのか?」
案じるようなジュンの声に、イネスはここにいない誰かを挑発するように、右手でその美しい金髪を掻き上げると、自嘲気味に薄く笑った。
「仕掛けてきた、なんてものじゃないわね。早速私を出向と言って研究所に押し込めるつもりのようだわ……それだけで済めばいいけれど。ちなみに今夜、移動するんだそうよ」
にっこりと、妖艶とも言える笑みを浮かべつつ、イネスは言葉を続ける。
「あと出向の名目は、そこで研究員を指導するってことになってるけれど。行く先は規模もそれほどではない、なのに警備の規模は一線級。おまけに移送にも護衛としてVウォーリアさえつけるだなんて、これで気づかない方が馬鹿ね」
その言葉の意味を理解し、ジュンは緊張に身を固くした。
確かにイネスはイノヴェルチにとってVIP級の人材だ。だが、Vウォーリアを護衛に割くほどのものかというと、そこまでではないと言わざるを得ない。
Vウォーリアはイノヴェルチにとって虎の子とも言える切り札だ。本来ならば余程の事でない限り、差し向けることなどできない。
ならばなぜ、Vウォーリアを護衛に付けるのか。
それは、問わずとも判るというものだ。
つまり外に対してではなく、内に対して向けられたものと言うわけだ。
「……俺も、付き合おうか?」
「そう言ってくれるのは有り難いけれど、それじゃあなたの立場が危うくなるのではなくて?」
「しかし……」
「こうなるのは、この組織(イノヴェルチ)に加わった時にもう覚悟していたことよ。むしろ、ここまで生き長らえられただけでも、感謝すべきね」
そう言うイネスの表情には、感傷も何も感じ取ることは出来なかった。ただ自分の置かれている現状を冷静に認識している、ある意味では科学者の鏡とも言える、毅然とした態度が感じ取れるだけだ。
何も言えず立ちつくすジュンに向かって、イネスは柔らかな笑みを浮かべてみせる。それは、ジュンがイノヴェルチの一員となってから初めて目にした、彼女の微笑みだった。
「そうそう、無事向こうに着いたら、すぐに引っ越しの挨拶じゃないけど、何か送るわね。そうねえ、お返しには蜜柑でも送ってもらえないかしら? 特に静岡の青島蜜柑が好物なのよ。多分向こうに行けば自由に外出できることもないでしょうし」
「ドクター?」
「それじゃ、お願いね」
イネスの言葉の意味が分からず、面食らっているジュンを後目に、彼女は白衣を翻して部屋を後にする。
残されたジュンは、己の無力さを改めて噛み締めずにはいられなかった。
もっと力があれば。
そうすれば、こんな馬鹿げた喜劇を閉幕させることが出来るのに。
[日野市 撫子学園 AM10:30]
自分の机の天板に肘を突き、俺は荒くなる呼吸を必死に整えていた。
授業の内容なんて、入ってくるはずもない。それよりもこの体調の悪さを、周囲に気取られないようにするので精一杯だ。
だが、本当に周囲に気取られていないのだろうか。
今朝登校してくるときも、リョーコちゃんの視線が痛かった。あれは確実に何かに感づいている。もちろん吸血鬼だの殺し合いだのと、そんなことは夢にも思わないだろうが。
それでも何か、俺が厄介なことに巻き込まれているのだとは、感じ取っているのだろう。
それを切り出すべきかそっとしておくべきか悩んでいる。あの揺れる瞳は、そう物語っていた。
そして……。
「アー君、大丈夫?」
この枝織ちゃんの存在だ。
どういうわけか彼女はやたらと勘が鋭いらしく、必死に隠していたつもりの俺の体調に一目で気がついた。
それからずっと今まで、事あるごとに俺に声をかけてくるんだけれど……正直言って、逆に辛い。いっそ眠ってしまった方が楽なんだが、こうも話しかけられるとなかなかそういうわけにもいかない。
かといって本気で心配してくれているのに、邪険に扱うというわけにもいかなくて、こうして気怠さや頭痛と戦っているというわけだ。
いっそ、保健室で横になった方がいいのかもしれない。
このまま針の筵のような視線に耐えかねるより、よほどましというものだ。
けれど、本当に大丈夫なのだろうか?
教室でこうしている限り、イノヴェルチも仕掛けてこないと信じたい。
だが、一度人気のないところで一人になればどうだろう。
もしかすると、そのときを虎視眈々と狙っているかもしれないんだ。
そう思うと、この平和なはずの学校が、まるで絵空事のように思えてくる。
俺は朝からそんな自答を、何度となく繰り返していた。
「先生、テンカワ君が体調が優れないようなので、保健室に連れていきたいのですが」
と、枝織ちゃんが手を上げて立ち上がる。当然教室中の注目を集めるが、気にした様子はない。続けて視線が向けられる俺の方が面食らってしまっている。
「テンカワ、大丈夫なのか?」
「は、はあ……」
声をかけてきた教諭に、生返事を返す。それをどう受け取ったのかは分からないが、顎に手を当ててしばらく考えてから、
「それじゃあ、影護だったな。頼まれてもらえるか」
「はい」
当の本人である俺の意向をよそに、話が決まっていく。
結局、枝織ちゃんは有無を言わせずに俺を教室から連れ出していく。俺は何とか誤魔化そうとしたけれど、立ち上がった拍子にふらついていては、説得力に甚だ欠ける。
そのまま俺は、保健室へと直行することになった。
[多摩市 松が谷 AM11:15]
「いるんだろ?」
主のいなくなったベッドの上で休んでいた北斗は、先ほどからずっと感じていた気配の主に向かって声をかける。
しばらく沈黙が続いたが、ややあって、ドアを開けて黒いコートの巨躯が姿を見せた。
「よお、ワンマン・アーミー。調子はどうだ」
「その名で呼ぶなと言っただろう? それに、今さら調子を聞かれてもな」
口元をニヤリと上げるそのサングラスの男、ナオに視線を飛ばしつつ、北斗は布団の下で貫手を形作っていた。
アキトにはその力を借りたいと言った。それは紛れもない本心だ。
だが、果たして向こうにそのつもりがあるかどうか。ここで襲いかかってきたとしても、何の不思議もない。
この時間帯では、少々分が悪い。それでも黙ってやられるつもりはなかった。
「まあ、ちょっと待て。とりあえず、やり合うつもりはないよ」
その北斗の空気を感じ取ってか、ナオは不必要なまでににこやかな調子でそう宣言する。そのまま椅子を引っぱり出してきて、両手を空にしたままで腰掛ける。
「……用件は?」
ひとまず戦う意志がないことを見て取って、北斗も警戒を緩める。それでもとっさに動けるよう、最低限の緊張は保っているが。
「そいつはこっちの台詞だ。アキトの正体を知って、それでいて何か仕掛けてくるわけでもない。それどころかアキトを助けさえしている」
何がおもしろいのか、にやにやと笑みを浮かべながらナオは言葉を続ける。
「まあここまでは、キャマリラとしてもメリットはあるだろう。アキトの力を手に入れて、ロードヴァンパイア救出の手駒にするっていうな。だが、キャマリラ自体が動いている気配は全くない」
ナオの言葉を、北斗は黙って聞いていた。この男が何を考えているのか、それを見定めないことには、行動の指針が立たないからだ。
協力を仰ぐべきか、それともここで禍根の種を絶つか。
決断は、慎重にすべきだ。
「何が、目的だ?」
二つの視線が、正面からぶつかる。どちらも、引く気配はなかった。
保健室にやってきたとき、あいにく保険教諭は席を外していた。
まったく、これでいざというとき大丈夫なのだろうか?
そんなことを考えながら、俺は無骨なパイプベッドに腰をかける。
「誰もいないねえ。それじゃ、誰か来るまで枝織も一緒にいるよ」
「え?」
大人しく横になろうとした俺だったけれど、その言葉に固まってしまう。枝織ちゃんはそんな俺には構わず、いそいそと椅子を引っぱり出してくる。
「いや、俺はしばらく横になってるからさ、枝織ちゃんはもう教室に戻っていいよ」
「だってアー君のこと先生に頼まれてるし。誰もいないんじゃ、不安だよぅ」
「でもさ、やっぱり戻らないとまずいよ」
「アー君は、枝織が側にいちゃ嫌?」
胸元で手を組んで、下から見上げるようにして俺に視線を向けてくる。
なおかつその瞳にはうるうると涙が溜められていて……こ、こんな高等技術をマスターしているとは――影護枝織、侮れん!
……なんか、疲れた。何を力説してるんだか。
急に力が抜けてきて、押し問答する気なんて失せてしまった。
「それじゃ、しばらく横になってるからさ。先生がきたら説明しておいてよ」
「うん。おやすみ〜」
手を小さく振りながらにこやかに笑う枝織ちゃんに俺は苦笑を漏らしつつ、ベッドに横になる。
やはり、肉体的に限界が近かったんだろう。横になった途端、強烈な眠気が襲ってきた。
その眠気に逆らうことなく、俺の意識は急速に薄れていった。
気がつけば、俺はいつもの森の中にいた。
鬱蒼と生い茂る木々、包み込む霧。
そしてその中に立つ、彼女。
絶世の美貌に憂いを湛え、彼女は俺を見つめていた。
ロードヴァンパイア、ミスマル・ユリカ。夜魔の森の女王と呼ばれた、不死の存在が、俺の目の前にいる。
「……ミスマル、ユリカ?」
彼女の名を口にする。
そして彼女は、ゆっくりと肯いた。自分が、俺が思っている通りの存在であることを認めたのだ。
だが、何故だろう。
そんなすべてを超越した存在であるにも関わらず、目の前の彼女はどこか怯えているようにも見える。
何に怯えているのか。それは分からない。
だがまるで幼子のような、そんな印象を俺は目の前の少女に抱いていた。
「アルガ……」
ユリカの唇が微かに動き、その名を紡ぎ出す。
以前にも彼女は、俺のことをそう呼んだ。だが、その名前が意味するのは、いったい何なんだ?
「ユリカ……」
呼びかけて、手を伸ばす。不意に、少女の顔に笑みが浮かんだような気がした。
「どうして君は、俺のことをそう呼ぶんだ? アルガっていうのは、何なんだ?」
だが、その笑みもすぐに翳ってしまう。俺の言葉が、彼女の求めていたものではないからだ。
しかし俺は他にかける言葉を持たない。問いかけるしかない。それでなくとも、彼女には聞きたいことが山ほどあるのだから。
けれど、目の前の少女の悲しげな顔を見ていると、自分がとてつもない大悪人のように思えてきてしまう。
「教えてくれ。君は、俺に何を求めてるんだ? 俺は、どうすればいい?」
必死だった。
もちろん、人間に戻りたいからということもある。
だがそれ以上に、この少女の憂いを取り去りたいと、真剣に思っていた。
「…………」
無言のまま、ただ手を差し出してくる。
一瞬の躊躇いの後、俺はその手の平に自分の手を重ねた。そうするべきだと、思ったから。
「!?」
次の瞬間、俺の中に次々と強烈なイメージが叩きつけられる。
国が興り、戦いが繰り広げられ、そして国が滅ぶ。
一つや二つじゃない、数え切れないほどの衰亡が、俺の頭の中で繰り広げられる。
これは……これが全部、彼女の、記憶?
「う……あ……」
それは正直に言って、俺の手に余った。これだけのものを、全て彼女はその目で見てきたというのか。それはすなわち、彼女が二千年の時を生きた存在であることを、証明することになる。
「はあ……はあ……はあ……」
映像が途切れてもなお、俺の息は荒いままだった。
本当に彼女は、この全てを見つめ続けてきたというのか。
この、気が遠くなるような年月を、たった一人で……。
人間に受け止めきれるような記憶じゃない。それはあまりにも膨大で、衝撃的だった。
視線を上げた拍子に、彼女のそれとぶつかる。だが俺にはもう、畏怖の念のために彼女をまともに見ることが出来ない。
「……」
震える俺を、ユリカは黙然と見下ろしている。だが、その眼差しはどこか寂しげで頼りない。
それは、どこか奇妙だった。
神か、悪魔か……ともかく、彼女が俺とかけ離れた存在であるのならば、何故ああも哀切な、縋るような目で俺を見るというんだ?
俺がいま対峙しているのは人間とは違う、いや、間違いなく人間以上の何者かの筈だ。それなのに、その彼女はまるで叱られた子供のように、弱々しく不安げで、今にも泣き出してしまいそうな気がする。
けれど、君は、俺に、何を求める?
それがまるで判らない。
恐る恐る、手を伸ばしてくる。まるでその手が触れた途端、俺が霞となって消えてしまうとでもいうように。
その手が俺の胸板に触れ、その手応えを確かめると、今度は全身を預けてきた。
「……!?」
正直言って、恐ろしかった。相手は怪物なんだ、そう思うのが当然だろう。
けれど俺は逃げるどころか、こみ上げてくる不安さえ、奥底に封じ込める。
この女性(ひと)は……どういう訳かは知らないが……俺よりもずっと不安げで、何かに怯えているように思えたから。
胸板に伝わってくる、柔らかな感触。温もりは少し冷たいような気はしたけれど、それでも俺と、そう変わらないような気がした。
そっと、その細い肩を抱きしめる。途端、彼女の背中に、びくっと漣のような震えが走り……
そして彼女は、声を殺して泣き始めた。
「アルガ……」
涙に濡れた、震える声で、また聞き覚えのない名を呟く。
「アルガ……待っていた……ずっと……」
けれど俺には、それに返すべき言葉がない。
アルガって……俺のことか?
もしそうなら、いいのに。この女性を安心させてやれるのに。
俺はいつしか、そんなことを思うようになっていた。
目を覚ましたとき、保健室にいたのは俺一人だった。
枕元に置いておいた腕時計を見ると、12:10を示している。多分枝織ちゃんは昼御飯を食べにいったんだろう。
少しは眠れたおかげだろうか、多少は身体の調子も良くなったようだ。これなら少々無理すれば午後の授業には出られそうだ。
「でも……さっきの夢……」
夢の中の、彼女のことを思い出す。
あの、今にも崩れ去りそうに儚い、あの表情。
あれはどこからどう見ても、弱々しい女の子のものだった。とても今まで聞かされてきたような化け物とは結びつかない。
そうしてその感触を思い出しながら、手を握ったり開いたりしていると……
「夢見の方は、どうだったの?」
「うわっ!? ら、ラピスか……」
まったく、驚かせないでくれ。心臓に悪い。
「ごめんなさい。でも、全然気づいてくれそうになかったから」
「そうかよ……で、わざわざどうしたんだ?」
俺がそう言うと、ラピスは呆れたとでも言うように肩をすくめてみせる。
「あなたの護衛にきてるのよ。今の自分の立場、判らない訳じゃないでしょう?」
そうだった。
俺はイノヴェルチにマークされているはずの身なんだ。いまこの瞬間に、あの化け物たちがこの部屋の中に躍り込んできたって、おかしくないんだ。
その可能性を思い出して、今さらながら震えがくる。
「どうやら向こうも、あまり無茶はする気がないみたい。と言うより、そもそも周辺に張り込んでる気配がないの。でもまあ、明日、明後日ぐらいまでは大人しくしておいた方がいいかもしれないね」
「いいのか?」
「時間がないのは承知してるけど……下手すると、向こうから仕掛けられて、ロードヴァンパイアを探すどころじゃなくなるかもしれない。ひとまず向こうの警戒が緩むまで、アキトはじっとしているべきなのよ」
ラピスにそう言われても、俺の不安は消え去ることはなかった。
たった一日の遅れでも、今の俺には致命的になりかねない。だというのに、ここで間を空けてもいいものなんだろうか?
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