「艦長」




「アキト〜〜〜」

 ボヘヘヘヘと緩みきった笑みを浮かべながら、幸せなユメ――妄想と云フ――にどっぷりと浸かっていたユリカは自分が呼ばれたことに気づかなかった。




「艦長」


 やっぱり〜〜〜〜。新婚旅行は〜〜〜〜〜〜。




「艦長」


 新しい家は〜〜〜〜。海が見えるところで〜〜〜〜〜。




「艦長」


 そんでもって〜〜〜〜〜。




 ユリカは誰かに肩を叩かれた。

「艦長。ルリさんが呼ばれていますが?」



「え? ルリちゃん。

 ルリちゃんはユリカとアキトが引き取って――」




「は!?」



 眼を丸くするプロスに、ユリカは慌てて手を振る。

「あ、いえ。何でもありません。で、なんですか?」


「ルリさんが呼ばれていますが?」




「艦長」


「何?ルリちゃん」




「戦艦発見」

 いつもの、ぼそっとした声で告げた。




 一気にブリッジ内に緊張が走る。

「艦内アラート!!非常警戒態勢!!総員配置!!エステバリス隊迎撃準備!!」




「必要ありません」




「「「「「へっ!?」」」」」

 ルリがあっさり放った否定に、全ブリッジクルーが間抜けな声を上げた。




「画像、出します」


 ブリッジに先程とは別種の緊迫が走る。

「あれは…………」

「そ、そんな…………バカな」

「うっそぉ」

「あれって、地球で見た…………」




「メグちゃん。メインクルー及びイネスさんに連絡…………あっ。アキトには、あたしが連絡するから」



「ず、ズルイですよ!!艦長!!」


 振り返って抗議するメグミを無視し、ユリカはいそいそとコミュニケを操作した。

「ア〜〜〜キ〜〜〜〜〜ト〜〜〜〜!!」





「艦長おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 メグミはドロドロドロと怒りながら、異様な迫力でメインクルーを呼び出していく。



 呼び出しをかけたクルーが映ると、

大至急ブリッジへ。以上

 それだけ言うと、ニヤリと嗤って通信を切る。




 メグミに喚ばれた者は、全員3分以内にすっ飛んできた。フクベ提督でさえも。




 最後の一人を呼び出そうとして、メグミの手が止まる。


あぁぁあ!?副艦長のコミュニケが通信拒否ぃぃぃぃ?…………ルリちゃん」

 メグミはルリをギョロリと睨んだ。



 子供なら間違いなく泣き出す形相でもルリの無表情は変わらない。



「副艦長のコミュニケを開きなさい」


「いいんですか?」


い・い・の!!


 逆らわない方が無難と判断したのだろう。ルリの手がコンソールを滑り、コミュニケ画面を開く。

 そこには汗だくのジュンが、突然開かれたコミュニケ画面に眼を丸くしていた。



「副艦長。至急、ブリッジへ」


「な、なにか起こったのか?」




 メグミは眼を細め、口許だけニッコリと嗤う。

――――三分以内




「り、了解」

 メグミの笑ってない眼に恐怖したジュンは、慌ててシミュレーター訓練機を飛び出した。




 コミュニケ画面を閉じると、メグミはゆっくりと背後へ振り返る。

「艦長。呼び出し終わりました」


「あ、あははははは。早いね」


「ええ。何処かの誰かさんが、手伝ってくれましたから。…………クククククッ


「そ……そう」


「で、アキトさんの呼び出しは終わりましたか?」


「えっ!?ああ。今、来てもらおうと言おうとしたところで――」


 メグミは口許を歪めた。

「つまり、今までお喋りしてたんですね。連絡事項を伝えずに…………。
 通信の仕事は通信士の役目です。
二度と!!艦長はしゃしゃり出てこないでください」


なっ!!アキトに通信をしちゃダメだっていうの!!


「通信をした結果が今です。艦長は艦長の仕事『だけ』してればいいんです!!


ユリカは艦長さんなんだぞ!!エライんだから!!


通信関連では通信士のほうが偉いんです!!その『役得』を侵そうなどとは、言語道断です!!


 メグミの迫力に全員が一歩下がる。



そんなことないもん!!ねぇ!!アキト!!…………って、あれっ!?」

 ユリカの横に開いているコミュニケ画面には、誰も映っていない。


 ブリッジの扉が開いて、アキトとイネスが入ってきた。

「アキト!!」



「艦長が伝えるより、アキトさんの方が早く来ちゃいましたね。艦長って『無能』なんですね





 メグミとユリカの間で、視線がバチッと爆ぜた。





っ!!ユリカ!!無能じゃないもん!!

 頬を膨らませて憤るユリカに、


 メグミは右目を細め、片頬を引き吊るように口唇の左端を歪める。


「この状況でも、無能じゃないと言い張りますか?」





 再び、兇気渦巻く空間に閃光を伴った殺気が爆ぜ散った。






 訓練室から飛んできたジュンが息を荒げながら、不用意に間に入る。

「まあまあ、二人とも。今はそんな時じゃ――」




 それを合図に、ユリカとメグミの怒雷の爆華が炸裂した!!



「カァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」


「フゥーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」






「ギャアアアアアアアアアアアアァァァァァァ!!」


 二人のハウリングを起こすほどの超高音波と、殺禍渦巻く凶眼からの怪光線を、まともに喰らったジュンの悲痛な悲鳴がブリッジに響いた。















 コンソールに頬杖をついたミナトがのんびりと感想を述べる。

「メグちゃんと艦長もぉ、余裕よねぇ」



「バカばっか」

 ルリがその場にもっとも適した発言をした。












 ちなみに………………二人の間で生焼けているジュンを助け出そうとする命知らずは誰もいなかった。







*





 突然、背後から響いた大きな音に驚いて、『サトウ・ミカコ』は振り向いた。



 カウンターにいた少年が、スツールから立ち上がっていた。


 仮面のような堅い無表情の中で、眼だけが凄みを帯びた鋭光を宿している。


 少年は肩で大きく息を吸い、そして、吐いた。


 避難民を見ているようで、その眼には誰も映っていない。


 一瞬、ミカコの方に視線を走らせてから、刹那、振り返ってカウンターから離れた。


 僅かに俯き、ゆっくりと食堂を横切っていく。


 無言で、少年は食堂を出て行った。




 食堂に居る避難民たちは互いに視線を合わせ――――

 静かに眼を伏せた。







*







 ジュンがミディアムからウェルダンになりかけた頃、


「はいはい。お二人ともそのくらいにしといてくださいな。今は、それよりも重要なことがありますので」

 ようやく、プロスがその場を治めにかかる。



「…………あっ、はい」

「…………そうですね」




「識別信号、返ってきました。護衛艦クロッカスと一致します」

 何事もなかったかのようにルリが淡々と報告した。



「うむ。では、あれは紛れもなく――」

 船籍データを見ていたフクベ提督に、ユリカが顔を上げる。

「でも、おかしいです。チューリップに吸い込まれたのは地球じゃないですか。その、護衛艦クロッカスがなぜ火星に?」


 イネスが口許に手を当てて推論を述べる。

「チューリップが母船であると仮定した場合、その中に入るのは大きさを見積もっても戦艦二、三隻が限度。火星全域に落ちたチューリップが5千だとしても、多くて戦艦は1万五千。それでは計算が合わない。どう見積もっても火星全域にある木星戦艦は5万を超える。つまり、あれは母船ではないと考えられる。
 しかし、チューリップから敵兵器が出てくるわ。

 そう考えると、あれは一種のワームホールもしくはゲートだと推測される。

 それならば、地球で吸い込まれた戦艦が火星にあってもおかしくはないわ」




「つまり、木星蜥蜴は火星から送り込まれていると?」

 ゴートの考察に全員、黙り込んだ。


 そこに、ミナトが疑問を挟む。

「そうとも限らないんじゃなぁい。ほらぁ、もう一隻呑みこまれたぁ…………ん〜〜。なぁんだっけ?」


「パンジー」


「そうそぅ。その姿が無いじゃない。出口が色々じゃぁ使えないよぉ」



「「「「おお〜〜〜〜っ!!」」」」

 ミナトの鋭い見解に、皆は驚嘆の声を発した。




「ヒナギクを降下させます」

 ユリカの命令に、プロスが眼鏡を押し上げ、キラリと反射させた。

「その必要はないでしょう。我々には目的があります」

「しかし、生存者がいる可能性があります。ね、アキト」


「なぜ、俺に訊く?」


「え?だって、ジュン君はこうだし」


 ブスブスと煙を上げて床に倒れているジュンに、皆の視線が転じ――――何事も無かったように戻る。

「お前もよくよく不幸だな」
「な…………慣れてるから」

バカヤロウ!!生存者が生きてる可能性があれば、危険を突っ切る。それが漢ってもんだろうが!!

「おっ、まだ生きてるか?」
「し……死んでたまるか……僕は」

 拳を固めて力説する山田に、プロスが計算高い怜悧な視線を向けた。

「……僕は」

「突っ切れれば良いのですが、残念ながら突っ切る途中で玉砕しそうですな」

幸せになるんだ!!
「無理だな」
「無理だね〜〜」
「身の程を……知りなさい」
「諦めろ」

んなことやってみなきゃ――

「ううぅぅぅぅ」

「わかります。なにせ、フィールドは半減。グラビティブラストは撃てず。
 捜索をしている間に狙われたら、一巻の終わりです」

 冷静な声音と、明確な理論に山田が怯む。

「で、でもよ」


「そうでなくとも、このナデシコには避難民の方たちを乗せています。彼らを無事、地球に返すこともナデシコの重要な役目です」



「ネルガルの方針には従おう」


「提督…………わかりました。それでは――」




 シュン!!


 圧搾空気が抜ける音とともに、ブリッジの扉が開き、一人の少年が入ってきた。




 ゴートが眉を顰める。

「ここは部外者立ち入り禁止だ。出てゆけ」

「ちょっとぉ、ミスター。そんな言い方ないじゃないぃ」

「今は作戦会議中だ」


 少年を見、イネスが表情を消し、アキトが顔を顰めた。


「ねぇ。僕、どうしたのぉ?迷子」

 少年はミナトを無視し、真っ直ぐにフクベ提督の前に立った。

「あんたが……フクベ・ジンだな」


 フクベ提督は少年を見据え、

「そうぢゃ」

 短く答える。



おまえが……おまえが…………おまえがっ!!



 瞬間、少年はフクベの腹に頭突きをし、倒れたところに、肩を膝で抑えて馬乗りになった。



「おまえが!! 父さんを!! 母さんを!! おまえがっ!!」


 倒れたフクベは静かな眼で自分の上に乗っている少年を見ている。

 その眼に少年が激昂した。


 ゴートが出ようとするのをアキトは手で押し止める。



 ガシッ!!

 少年がフクベの頬を殴りつけた。



「おまえがっ!!」


 フクベの胸倉を掴み、もう一発殴ろうと、振り上げた手をアキトに止められる。


邪魔するな!!


 振り解こうとするが、アキトの手はびくともしない。

「そこまでだ」


邪魔するな!!


「君が、本当に殴るべき相手は提督じゃないだろう」


五月蝿い!!お前に何がわかるんだよ!!


 少年の腕を掴む手が、わずかに強くなった。

「そうだな…………俺が言えた口では無いな」


じゃあ、黙ってろよ!!

 少年はフクベを睨みつける。


「今、君は提督を殴って気分が晴れたか?」

 生きるのに疲れたような低い声音に少年は思わず顔を上げた。



「人を殴って気が晴れたか?」



 アキトから眼を逸らす少年。

「は…………はれたさ…………」

「嘘だな」


「嘘じゃない。この人殺しをぶん殴って…………殴って…………なぐって…………



 語尾が細くなる少年に、アキトが静かに問う。

「君が、本当に殴りたいのは…………フクベ提督ではないだろう?」


「…………」



「君が、眼を向けるべきものは…………フクベ提督ではないだろう?」




「…………」





「わかっているんだろう?
 本当に取り戻したいものは…………殴っても帰ってこない」






「…………チクショウ。チクショウ。チクショウ。チクショウ。チクショウ!!チッキショォォォォォォ!!


 少年は声の限り、火星の空へ咆哮した。











 少年を立たせたアキトが、フクベ提督を一瞥する。

「大丈夫か?」

「うむ」



「プロス。彼を避難民のところへ」

 アキトの頼みに、プロスが頷いた。

「お任せを。それにしても、よく収められましたなぁ」



「彼には…………俺のように……なって欲しくないからな」



「テンカワさんのように?」



 アキトは薄い自嘲()みを浮かべ、少年を見下ろす。



 アキトの闇暗の瞳を覗き見た少年は、ビクリと身体を震わせた。




 小動物のように脅える少年の様子に、ふっと眼を和らげるアキト。


「俺のようには…………なるなよ」




 返事すら出来ず、少年は声無く震えていた。








「ユリカ」


「な、なに?アキト」

「彼を罰しないでやってくれ。フクベ提督の作戦で彼の故郷が、両親が消し飛んだのは事実だからな。頼む」


や〜〜〜〜〜ん!!アキトに頼まれちゃった!!
 うん。君は無罪釈放!!でも、これからこんなことしちゃダメだぞ〜〜〜!!
 お姉さんとの約束だよっ!!



 少年の前に人差し指を立てて言い含めるユリカに、少年は床に向かって吐き捨てる。

「バッカじゃねぇの」
「バカばっか」

 少年と少女の声が重なった。



 顔を上げた少年は少女に眼を奪われた。


 そこにはTVの中でしか見られないような美少女が立っていた。



 いや、TVの中のアイドルたちよりも数倍、神秘的な雰囲気を身に纏っている。


 絹のような白銀の髪に、細い銀柳眉。『妖精』と言う単語がぴたりと合う秀麗な美貌。

 そして、何よりも神秘さを増しているのは金の瞳。


 ただ、笑顔がとても似合うだろうに、その顔は仮面のような無表情で固まっていた。


 その無表情と華奢な身体が、今にも朽ち果てそうな儚げな感じを与えている。



「あらぁ〜〜〜〜〜!!ルリルリに気があるのかなぁ〜〜〜〜??」

「な、何を!!お……ぼ、僕は――」

 ミナトのからかいに、少年は真っ赤になった。


 無感情に少年を見ていたルリの眼が突然、見開かれたと思うと、クルリと少年に背を向ける。


「あらぁ〜〜。ルリルリ。どうしたの――」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、ルリの顔を覗き込んだミナトの声が途中で途切れた。




 ルリは苦痛を耐えるように下唇を噛み締めている。


 唇から一筋、血が流れた。



「ル、ルリル――」



「何でも…………ありません」

 囁くような声でそれだけ言うと、唇を拭い、一瞬でいつもの無表情に戻り、コンソールに向かった。






「おや〜〜〜〜〜。これはルリルリにも春かな〜〜〜?」

 ヒカルが茶化し、メグミがなにやら、うんうんと頷く。

「ルリちゃんも、やっぱり女の子なんですねぇ〜〜」


 ニコニコ――ニマニマと笑っているクルーの中でミナトだけが心配げな視線を当てていた。



「そんなことより、あれ、どうすんだよ」

 山田はクロッカスを親指で肩越しに指し示す。


「あっ、そういえば…………えっと、どうするんでしたっけ?」


「研究所優先」

 フクベ提督の一言に、ユリカはポンと手を打った。

「そうそう。クロッカスの探査はおいといて、火星極冠研究所に行くんでしたよね。
 では、ミナトさん。進路、ネルガル研究所。発進!!」


「はぁ〜〜〜〜い」




*





「おい、アキト!!」


 リョーコは、食堂に戻ろうとするアキトを廊下で呼び止めた。

 足を止め、振り返るアキト。


「アキト。どういうこったよ?」

「?」

 訝しげに眉を顰めるアキトに、リョーコの顔が険悪な表情に染まる。


「さっき、ブリッジで言ってたろ。『俺のようになるな』って。ありゃ、いったいどういう意味だよ?」


 アキトは眼だけを逸らした。

「知らない方がいい」


ッ!!そんなにオレは信用ねぇのかよ!!

 突然、激昂したリョーコに、アキトは眼を瞬いた。

「…………リョーコちゃん?」


ああ。そうさ!!おめぇもルリも全てを隠し偽りやがる。オレたちを……ナデシコを信用してやがらねぇ!!オレたちはそんなに頼りねぇのかよ!!
 オレたちじゃ…………力に……なれねぇのかよ」



「ナデシコの力は知ってる」


クッ!!じゃねぇ!!武装のことじゃなくてだな!!



「人の……『力』…………それは、俺が一番よく知ってる」



 アキトの優しげな黒瞳にリョーコは言葉を失う。


「だからこそ、俺はこの『ナデシコ』を護りたい」



 アキトの誓いにリョーコは緑髪をぐしゃぐしゃと掻いた。

「それだよ」


「え?」


それがナデシコを信頼してねぇってことだ!!

 オレたちはなぁ。おんぶに抱っこ、アキトに背負われてるわけじゃねぇんだ!!お前の背中ぐらいオレたちだって守ることができんだよ!!
 アキトがいなくたって、ナデシコの運航は出来る。別にお前がいなくても良いって意味じゃねぇぞ。

 ああ、なんてのかな。アキトが頼っても、ナデシコはそう簡単にぶっ倒れねぇってことだ!!



 豆鉄砲を喰らった鳩のようなきょとんとしたアキトの表情に、リョーコは赤面する。

「な…………なんだよ?」



「…………そんなこと……考えたこともなかったな」



「ッ!!!……じゃあ、覚えとけ!!」

 そう言い捨て振り返ったリョーコは肩を怒らせて、ずんずんと歩いていった。






 その物陰では――――

「う〜〜〜ん。ここも春だね〜〜〜」

「どちらかと言えば…………夏…………暑苦しい」

「言いてぇことは全部、リョーコちゃんに言われちまったな。アキトもバカじゃねぇ。いずれ判るだろ」

「そう?…………ワタシは……バカだとおもうけど…………」

「一生、気づかなかったりして〜〜〜」

「ありえるから、怖ぇな」





*




「ここまでで……いい」


 少年は、食堂の狂騒が微かに聞こえてくる廊下でそう言った。


 引率してきたプロスは足を止める。

「大丈夫ですか?」


「…………うん」

 少年は頷くと一人、重い足取りで食堂へ歩いていった。



 食堂は、少年が出て行った時と変わらない暑苦しい熱気が渦巻いていた。

 食堂と廊下を繋ぐ大扉は緊急災害時以外、いつも開きっぱなしになっている。


 少年は廊下につっ立ったまま、食堂への一歩が踏み出せなかった。


 フクベをぶん殴ったのは悪いとは思っていない。

 思っていないが…………彼らと会わせる顔が見つからない。

 ブリッジの一件は、すでに食堂まで広まっているだろう。

 どうやってブリッジの話が伝わるかわからないが、すでに噂としてナデシコ全域に広がっているのは間違いない、と少年は思っていた。


 だから、その一歩が動かない。


 何もなかったかのような顔をして、入っていく?

 無理だ。できない。

 少年は感情を覆い隠すような技術を身に付けていなかった。全てが顔に出てしまう。



 でも……いつまでもこうして、ここにつっ立っているわけにはいかない。




 意を決して足を踏み出そうとした少年の前に、突然、人影が現れた。



 少年は顔を上げる。



 目の前に大男が立っていた。避難生活の中でサブリーダーを務めた男である。


 男は無言で少年に手を伸ばした。



 殴られる……そう思った少年は、身を固くした。










 男の大きな掌が少年の頭の上に置かれ、ぐしゃぐしゃと茶色の髪を掻き回す。







 怒るような……泣くような……笑うような……誉めるような……混迷に唇を歪ませた男の顔が、唖然とする少年を見下ろしていた。







「お……おれ――」

 喋りかけた少年を制するように、男が言う。

「飯でも食ってこい。腹減ると、ろくなこと考えないからな」


「え…………でも……」

 口の中で、もごもごと小さく呟いた少年は、男の言葉に頷いた。


 もう一度、少年の髪を掻き回した男は、少年の背をカウンターの方に向けて押す。




 少年は夢に浮かされたような足取りでカウンターに向かった。

 食堂は相変わらず騒がしかった。だが、少年は奇妙な静けさを感じた。

 各所で大声が響いている。


 しかし、これ以上ない静寂を感じる。そう『(なぎ)』のような静謐を。



 食堂を出る前にアニメで馬鹿騒ぎをする彼らに感じていた嫌悪感が、なぜか消えていた。







 スツールに座った少年にホウメイは笑いかけた。

「何にするかい?」


 少年が戸惑ったように壁のメニューに眼を走らせ、

「チキンライス」

 囁くような声で注文した。


「あいよ」


 コンロに向かったホウメイから眼を離し、共に生活してきた避難民たちを眺める。

 皆、少年が食堂に戻ってきたことを知っているのに、誰も少年に注目しない。

 でも、無視されているわけではない。

 それは――――。



「はい。おまち」


 少年の前にチキンライスが置かれた。



 微笑みを浮かべているホウメイを見上げてから、

「いただきます」

 チキンライスを一口含んだ。



 少年はポツリと呟く。

「…………おいしい」




 その一言にホウメイは破顔した。


「そうかい。料理人にとっちゃ、その言葉は最高の賛辞さ」




「ほんとに…………うまい」

 少年はチキンライスを口に運んでいく。





 ホウメイは少年の背後で無闇に盛り上がっている火星避難民たちを眺めた。


「彼らは、ああやって、見かけだけ騒いで、塞ぎ込みそうになる心に活を入れているのさ」



 ホウメイは誰ともなしに話し始める。


「そして、心に空いた穴を忘れるように…………いや、忘れられないね。自分の中の、心の引き出しにそっと仕舞うために、今、必死に心の整理をつけている真っ最中なんだよ」





 少年は俯いたまま、黙々とチキンライスを食べている。





「坊やのように、直接行動するには、彼らは坊やより、ほんのちょっぴり大人だった。

 理性とか……常識とか……大人としての自覚が足かせになったのさ」





 少年は俯いたまま、手を止めていた。





 ホウメイは少年を温かい眼差しで見包んだ。





「だけど、彼らの気持ちは…………坊や。あんたと、何ら変わらないさ」





 少年の肩が小刻みに震えている。





「あんたは…………独りじゃない」






 チキンライスの上にポツリポツリと涙が落ちた。

 少年は声を押し殺して泣いていた。









「みんな…………あんたの『仲間』だよ」






 少年は眼を拭うが、溢れ出てくる涙は一向に止まらなかった。















 少年はチキンライスを口に含んだ。

「このチキンライス…………本当に美味(おいし)い」














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