沈黙のナデシコ
〜 真 の 巻 〜
プロスペクターが医療室を退室したころ艦橋では――
「ねーねー、ルリちゃん、ルリちゃん。
今、誰が一番暇なのかな?」
プロスからの依頼を受けたユリカは、オペレーターの
ホシノ ルリに誰が暇なのかを調べさせていた。
「現在ナデシコはC級待機ですので、
次の人たちが暇といえば暇です。
オモイカネ、お願い」
そういって暇人リストをオモイカネに出させる。
ちなみにC級待機とは、原則として自分の持ち場にいることであり、
パイロットなら格納庫横のパイロット待機室または訓練室、
整備班員は格納庫、艦橋要員なら艦橋となっている。
この他の待機状態としてはA級待機は至近に戦闘が予想される場合、
B級待機は戦闘待機ではないが、警戒しつつ行動する場合に指定される。
ルリによってあげられたリストには10名ほどの名前が挙げられていた。
その大半が艦橋要員となっているのは、現在の艦橋要員の
代替要員として休憩待機になっているからであり、緊急時以外は
時間が来るまで仕事はない。
「う〜んと、誰がいいかな?」
ユリカは今にも歌いだしそうな様子で、リストを眺めやる。
「よしっ、この人にお願いしよう!!」
しばしリストを見ていたユリカだが、どうやら誰にお願いするのか決めたようだ。
おもむろにコミュニケを操作する。
そしてユリカの前に、コミュニケの通信ウィンドウが
「ピッ」という軽快な音と共に開かれた。
「なに、艦長。今忙しいんだけど!
くだらない用件だったら怒るわよ!!」
ユリカが開いたコミュニケの通信ウィンドウに現れたのは
ナデシコの風紀委員ことエリナ・キンジョウ・ウォンであった。
だが彼女はウィンドウに現れるなり、大声でユリカに怒鳴る。
「お忙しいところすみません。実はプロスさんの…」
「今はそれどころじゃないの! うちの重役連中が馬鹿やったおかげで、
こっちはてんやわんやなんだから!!」
ユリカに答えながらもコンソールを操作するエリナ。
その姿はさすが一流の会長秘書といったところか。
ただしその繊細な手元には小さいストローのついた、
栄養ドリンク(普通)が握られているが…。
「極楽トンボは当てにならないし、かといって…」
「わ、わかりました。すみませんでした」
ウィンドウの向うではエリナの愚痴が続いている。
その剣幕に押されるようにして、ユリカは慌ててコミュニケを閉じる。
ウィンドウを閉じたユリカはその大きな胸に手を当てて、
「ふぅ」と小さく息をついて呼吸を整える。
「あー、びっくりした。エリナさん修羅場だったんだ〜〜。
でも極楽トンボって誰のことなのかな?」
ユリカはエリナの残した謎の言葉に首をかしげながらも、
駄目になったエリナの代わりを探すべく、改めてリストを眺める。
「う〜〜ん、どうしようかなぁ」
その真剣なまなざしに、オモイカネのウィンドウが
赤面したように赤くなり、汗の画像を表示する。
「そうだ、この子に頼もう。この子ならコンピューターの操作も……」
ユリカは自分の考えにうんうんと頷きながら、
「この子」に連絡するためにコミュニケを操作するのだった。
そして数分後――
「こんにちわ〜。プロスさん、いますか〜?」
そういってプロスペクターの部屋にきたのは、
マキビ ハリ(通称ハーリー)であった。
「おや、ハリ君。どうしました?」
部屋の扉を明けてプロスが顔を出す。
「プロスさんが休む間の代わりをしろと艦長
――ユリカさんに言われて」
ハーリーは自分がここにきた理由をプロスペクターに伝える。
そうミスマル ユリカが選んだのは弱冠6歳の子どもだったのである。
子どもになんてことを頼むんだと思う向きもあろうが、
この選択、実はあながち間違いとも言い切れない。
ハーリーはホシノ ルリと同じく、遺伝子操作を受けている。
またネルガルの研究所において様々な英才教育も受けている。
見かけこそ小さい少年だが、ナデシコでも有数の能力を持っているのだ。
その一方で、ナデシコにおいて余人の追随を許さない量の
不幸を背負っているのだが。
「おや、そうでしたか。それはご足労をおかけしました。
まま、お茶でも出しますので、どうぞお上がりください」
ハーリーの言葉に納得したプロスは身を引き、
ハーリーを自室へと招き入れる。
プロスは本来なら二人で使用する部屋を、一人で使用している。
扱う書類がネルガルの経営中枢にかかわる書類が多いための処置であり、
またそういう理由からオモイカネといえどもプロスの部屋の中を
無断で覗くことはできない。
二人用の広い部屋の奥には独立した専用端末が設置され、
しかもその端末は衝立によって扉の位置からは見えないよう、
巧妙に隠されている。
したがってハーリーがプロスペクターの部屋に入ったとき、彼の目に映ったのは
衝立の前にあるベッドと、部屋の中央に設置されたコタツ、
そして点滴を持ったプロスといったものであった。
「いやぁ〜、面目ない。ハーリー君にはご迷惑をおかけして…」
部屋の中央にあるコタツに入り、古風な急須からお茶を注ぎながら
プロスはハーリーに謝っている。
「とんでもない。プロスさんにはいつもお世話になってますから。
あ、どうもすみません。頂きます」
プロスからお茶の注がれた湯飲みをもらいながら、
ハーリーはプロスの謝罪の言葉に、気にしないよう伝える。
「昔は1ヶ月ぐらいの無理、何てことなかったんですがねぇ。
年はとりたくないものですなぁ。
と、こんな事言われても、まだ若いハーリー君には実感が湧きませんかなぁ」
プロスペクターは明らかに年下のハーリーにも丁寧な言葉遣いをする。
これは交渉人としての彼の矜持なのか、プロスは誰に対してもこのような言葉遣いと
態度をとっている。一歩間違うと、慇懃無礼な態度になりかねないが、
その直前で立ち止まっているのがプロスのプロスたる所以なのかもしれない。
「はぁ……」
愚痴をこぼされた格好のハーリーは曖昧に頷きながら
湯飲みを持ち上げ、渡されたお茶をすする。
「で、私が休暇を取っている間なんですが……」
ひとしきり世間話を行った後、おもむろにプロスは本題に入る。
「今度の補給は1週間後です。
それまでは現在ある量でやりくりしていかなくてはなりません。
ですが現在の物資量で現状の流通量を保つと、
あと5日ほどで物資は枯渇してしまいそうなんですよ」
「そこで物資の完全な欠乏を招かないように、
常よりも少な目の流通にする必要があるのですが……。
そうですね、余裕を見て8割、この程度の流通量になりますかね」
プロスは現在の物資の量、通常時の物資流通の状態、
予測される物資使用量といった表をハーリーに提示しながら手際よく話を続ける。
「それでですね、ハーリー君にはカットする2割をどの物資にし、
どこの流通経路を減らすのかの管理をお願いしたいのです。
今日の分はすでにもう終わっていますので、
今日の状況を確認して頂いて、明日以降の分の
計画立案をお願いします」
プロスペクターは最後に今日の予定表を
表示しながら、次のように締めくくった。
「今日の状況については後で人をやってハーリー君にお伝えしますので、
とりあえず今から過去のデータに目を通して頂く、ということで」
「わかりました」
そういって引き受けたハーリーの声は明るかった。
が、幾ばくかの時間が過ぎた後、彼には「引き受けるんじゃなかった」という
後悔の念に縛られるようになるのだが、神ならぬハーリーには
その気配を感じることも、回避することもできなかった。
日付は変わって翌日――
張り切ってプロスペクターの代わりを始めたハーリーの午前中は順調だった。
オモイカネの協力と、プロスペクターが蓄えていたノウハウが在ったとはいえ、
6歳の子どもが一つの艦の中の流通を管理できたのである。
賞賛に値するだろう。
あるいは「好意に値する」ものだったのかもしれない。
「これでルリさんも僕のことを…」
この順調さによってハーリーがこのように考え始めたとしても
仕方がないことだったかも知れない。
だが順調さがハーリーの心に慢心を生み出したのも避け得ない事実であり、
その結果、桃色の髪の少女に「○の槍」で刺されるような事態を招いたとしても、
彼以外の誰をも責めようがない。
順調さが慢心を生み、その結果彼が破滅するまで、半日を待たなかった。
そしてその契機は昼食時に生じたのである。
「ハーリー君、頑張ってるんだってね」
「ありがとうございます。
でもそんなに大げさな仕事でもないんですよ。
ほとんどプロスさんの指示どおりやってるだけですから……」
「でもすごいよ。よし、今日はサービスだ。
とっておきのメニューを作ってあげよう!」
昼食を取りにきたハーリーをそういって迎えたのは、
食堂勤務者の中でただ一人の男性であった。
これはプロスが倒れた理由が自分にもあることを感じ取ったこの男性が、
いわば身代わりとして働いているハーリーにエールを送ろうとしたものであった。
だが彼が良かれと思ってやったことが、結果的にハーリーの運命を決めたのである。
せめてナデシコ食堂という公衆の場で誉めなければ……
あるいはハーリーの運命も、またナデシコの運命もまた違ったものに
なったのかも知れなかったが、すべては既にこの瞬間に決まっていたのである。
「ハーリーの癖に生意気」
口にこそ出さなかったが、男性が少年を誉めたときに、
そのように思った少女がいた。
金色の瞳と桃色の髪をもった、可愛らしいという表現がぴったりな少女である。
しかしその愛らしい表情が、美味しそうに男性が調理した
「スペシャルメニュー」を食べている少年を見て
――「ニヤリ」
と変化したことに気づく者は、食堂にはいなかった。
そして午後――。
昼食を終え、「さぁ、頑張るぞ」と意気込んだハーリーのもとに、ある人物が訪れた。
「ハーリーさん、午前中の流通速報です」
そういってハーリーが作業している部屋を訪れたのは、
ナデシコでは珍しい、褐色の肌を持った女性であった。
彼女の名はラスティア ノースホワイト。
ナデシコに在る理容室の理容師にて、プロスペクターの元で主計員として働く女性である。
20代半ばの、どちらかといえば美人と評される女性であるが、
勤務先が理容室であることもあって、あまり艦内には知られていない。
また、ナデシコの女性クルーの中では珍しく、
テンカワ アキトに落とされていない女性として、
理容室を利用する一部女性クルーの(テンカワアキト獲得のための)
よき相談相手になっている。
「現在のところ、流通量は平時の7割ほどを維持しています。
各部署において物資の欠乏は見受けられません。
このままの状態で推移できれば問題ないと思われます」
「わかりました。ありがとうございます」
やや堅苦しい口調でハーリーに告げるラスティアであったが、
これは彼女の癖なので仕方がない。
口頭で一通りの説明を済ますと、彼女は颯爽とした足取りで
本来の職場である、理容室へと戻っていった。
「ふう、とりあえず一段落かな」
ラスティアの報告を受けて、自分の午前中の作業結果に満足したハーリーであった。
――コンコン。
ハーリーが安堵の息をついたその時、
不意に部屋の扉がノックされた。
「はーい!!」
ハーリーの返事とともに、扉が軽い空気音を立てて横にスライドする。
「よぉ、ハーリー(怒)」
「あっ、ウリバタケさん!
……どうしたんです?」
扉の前にいたのはナデシコ整備班班長、ウリバタケ セイヤであった。
ハーリーとは某組織において「同志」であり、ナデシコにいるある人物に対して
日々策謀を企てる、「戦友」であった。
その「同志」であり「戦友」に対してハーリーが
「どうしたんです?」と尋ねたのは、ウリバタケが浮かべている表情に在った。
確かに普段のウリバタケの表情は、決して温和とはいえない。
だが今ウリバタケが浮かべている表情ほどいかめしいものでもなかった。
ウリバタケの今の表情を表現するのに古典的な表現を使用するなら、
まさに「青筋をたてた」状態であった。
「ちょっと聞きたいんだがよ、今艦内の物流はおまえが管理しているんだよな?」
口調こそ丁寧だが、その丁寧さが逆に彼の激情を表しているようだ。
「ええ、そうですけど…」
ハーリーはウリバタケの様子に脅えながらも、はっきりと答える。
「じゃぁ、格納庫周辺のあらゆる自販機が使用不可に
なっているのは、おまえの差し金か?」
「ええっ!? そんなバカな!」
ウリバタケの言葉に、驚くハーリー。
「午前中はどこも物資の欠乏はなかったってさっき…」
「そんなことはどうでもいい。
重要なのは、いま自販機が使用できないということだ。
おまえに心当たりがないならそれでいいが、すぐに使えるようにしろ。
わかったな!?」
激怒状態のウリバタケはハーリーにみなまで言わせず、
一方的に用件を伝えて部屋を出て行く。
激怒状態のウリバタケはあのテンカワ アキトをもひるませるのだ。
ハーリーごときがあがらえるはずもない。
「オモイカネ、現在の艦内流通状況を」
ウリバタケの剣幕に真っ青になったハーリーは
慌ててオモイカネに指示を出す。
『現在の艦内の流通状況:一部を除いて問題なし』
『格納庫付近において、自販機売り切れ』
『1時間あたりの消費量:直近1時間の300%』
「なんでこんなことに……?」
オモイカネの報告を見たハーリーに、驚く以外の選択は無かった。
ハーリーが驚いていた頃の艦内某所―
『ラピス、ほんとにいいの?』
「問題ないよ。順風満帆なハーリーなんて
ハーリーじゃないよ」
『でも…』
「いいからいいから。アキトに誉められるなんて
ハーリーには100年早いよ!!」
『……(汗)』
という会話が在ったようである。
「疲れたよ〜」
結局のところ、ハーリーが何とか事態を収拾し、予定していた作業を
終わらせられたのは子どもが起きているにはつらい時刻である
22:00を少しまわった時刻だった。
「ハーリー、お疲れ」
「やぁ、……どうしたの」
臨時の作業場から、自室へと向かうハーリーに、声をかける者があった。
桃色の髪を持った少女である。
彼女も起きているにはつらい時間のはずだが、その表情に眠気はない。
「明日もやるの?」
「?」
ハーリーは疲れと眠気から、一瞬彼女が何を聞いてきたのか判別できなかった。
だがそんなハーリーに、彼女は苛立ちながら言葉を続けた。
「流通管理の仕事、明日もやるのかと聞いているの!!」
「当然だよ。僕がプロスさんに頼まれたんだから」
「私にやらせない?」
「だめだよ。僕の仕事だから。じゃ、僕眠いからこれで……」
ハーリーは睡魔のために、半ば無意識のうちに彼女の申し出を断ったのだが、
この行動が最終的に彼の運命を決定することになった。
「そう、残念」
彼女のその言葉がその日、ハーリーが意識を保っていた間に
聞くことのできた、最後の言葉であった。