ネルガル会長を乗せた小型艦＜エウカリス＞は、無事にアマテラスに到着した。
　表向きは、地球−火星間通商会議に出席するため。しかし、その本当の目的は別にある。
「このコロニーって、女性の人口比が８０％以上なんだって？　パラダイスだねぇ」
「そのかわり、既婚率が４０％を軽く超えてるわよ。さらには５０％が五歳以下の子供。１０％の確率にチャレンジしてみる？　いいかげん、よこしまな想像はやめなさい」
　ニヤニヤと相好を崩すアカツキを、エリナが叱りつける。
「いったい何しにここまできたと思っているのかしら。バカな真似をしたら、火星まで送り返すからね」
「きついな、エリナくんは。ボクだって目的を忘れたわけじゃないさ。でもさ、これからのことを考えると、ここで最後のハメをはずすっていうのも魅力的な考えだと思うんだよね」
「はずしたハメを、自分で戻せるならご自由にどうぞ」
「つれないなあ。それじゃあ、エリナくん、遊ぼうよ」
「冗談でしょう？　そんな自己犠牲の趣味はわたしには無いわよ。――ほら、シャンとしなさい」
　エウカリスのタラップから降り通路を少し歩くと、そこは宇宙港ロビーだった。
　集まっていた人々の喧騒が、物理的な圧力を伴って押し寄せる。カメラのフラッシュが、ふたりの視界を眩ませた。
　予想していたことだが、野次馬のほとんどが若い女性だった。火星で妊娠した女性の多くがこのコロニーに移住してくるのだから、人口比の偏りは当然のことだ。
「いやぁ、いいねぇ。感動的な光景じゃない」
　押し寄せる女性たちに向かって、アカツキはファンサービスよろしく、手を振り、握手をし、流し目を送り、投げキッスを飛ばした。そのたびに黄色い声援があちらこちらからあがる。
「ここに永住したくなってきたね」
「わたしだって、許されるなら置いて帰りたいわよ、まったくもう」
　見えないところでアカツキを思い切りつねると、エリナはさっさと一人で先に進み始めた。慌てたアカツキがその後を追う。
「ヤキモチだと期待してもいいかな」
「こんなのが火星の代表かと思うと、情けなくて涙が出そうなだけよ。お願いだから、肝心なところで失敗だけはしないでちょうだい」
「なんだかねぇ……」
　野次馬と記者連中をガードの男たちに遮らせ、ふたりは宇宙港の正面玄関から外に出た。
　そこにはパールホワイトのリムジンがすでに横付けされている。
　そのまま当然のように乗り込むと、そこにはすでに先客がいた。
「お久しぶりね。アカツキくん、エリナ」
　シートに脚を組んでもたれかかりながら、いくらか冷たい印象の笑みを浮かべている女性。
　アイだった。
「おっと、これはこれは。驚いたね」
「やだ、イネスじゃないの」
　イネスと呼ばれたアイは、意地悪く笑いを漏らす。
「ほら、突っ立ってないで乗ったらどうなの。記者連中に捕まって、痛い腹でも探られたいの？」
　ようやく自失から抜け出したふたりは、アイに向き合うシートへと座った。
「出してちょうだい」
　完全に場の主人と化したアイは、運転席と後部座席を区切る窓を二度叩いた。その命令に素早く反応して、リムジンが音も無く前方に滑り出す。
「いちおうボクの車のはずなんだけどな、これ」
　苦笑いのアカツキ。しかし、アイには逆らえないようだ。
「どうしたのよ、イネス。いま、わたしたちに直接接触するのはまずいはずよ」
「イネスと呼ぶのはやめてちょうだい。彼女は十年前に、ネルガルの手で死んだことにされているんだから。今のわたしは“アイ”よ。二度死んで、本当の名を取り戻した女。そうでしょう？」
「……そうだったわね。ごめん。でも、いったいどうしたの。なにか――」
　アイはエリナの言葉をさえぎって、一枚のディスクを手渡した。
「ルリちゃんから、アキトくんへのメッセージ」
「ルリちゃん！？　あの娘、いまどこにいるの」
「ユリカさんと一緒に、月に拘束されているらしいわ。統合軍が必死に隠匿してきたけれど、やっぱりあの娘を完全に束縛するのは不可能だったみたいね」
「そう。ユリカも無事なんだ。あの法案が可決されて以来、連絡が取れなくなっていたから……」
　エリナは複雑な表情で、それでも安堵の吐息を漏らした。
「わたしの用事はこれだけ。確かに渡したわよ」
「わかった。かならずアキトくんに届けるから安心して」
　いきなりエリナの表情が変わった。
「ところでアイ、わかってるわよね――大途絶……今日よ」
　アイは何も答えずに、窓の外を流れていく景色に視線を移した。
　外には、はしゃいで転げるように遊んでいる子供たちと、それをやさしく見守る母親の光景に溢れている。どこに視線を移そうと、アマテラスのどこに移動しようとも、必ずといっていいほど、その平和で微笑ましい光景が広がっているのだ。
「この光景、あなたたちはどう思うかしら？」
　エリナとアカツキがそれに釣られて窓の外に視線を移す。アカツキはいくらか芝居じみた口調で答えた。
「美しい光景だと思うよ。平和と愛に満ち溢れているよねぇ」
「でもその一方で、とても歪んでもいるわね」
　エリナの言葉に、アイがうなずく。
「そう、歪んでいるのよ。この光景には、父親の姿がない。とても不自然で悲しい光景だわ。だからわたしの考えはいまでも変わらない。間違いは正されなければならない」
「そうね。カナタも巻き込むことになるけど……覚悟が決まっているのなら、何も言うことは無さそうね」
「覚悟？」
　アイが自嘲めいた笑いを漏らした。
「そんなものあるわけないじゃない。あの娘――カナタを育ててきた五年間は、とても楽しかった。このままずっとあの娘と暮らしていけるなら、なにもかも投げ出して、逃げだしてしまおうかとも思ったわよ。でも、それは許されないでしょう？　わたしは……カナタの本当の母親じゃないんだから」
「イネス……」
　アイは、窓の外の光景を彫像のように見つめていた。子供の手を引く母親が、日の光の下でゆっくりと、満足しきったように歩いていく。
　アイは、やがて息を吐き出した。
「……わるかったわね。いまさら言っても仕方のないことだったわ。それで？　アキトくんはどうしたの。一緒にはこなかったようだけど」
　喋りづらそうにしているエリナに代わり、アカツキが口を開いた。
「テンカワくんなら、ラピスくんと一緒に後から来る予定だよ。例のものと一緒に」
「例のものって……もしかして完成したの？」
「当然、当然。天才理論物理学者イネス・フレサンジュの基本設計と、ネルガルが誇る最高の技術陣が集結したんだ。この世に作れないものなんてありはしないさ」
「それは……驚いたわね。出力は理論通りに出たの？　セカンドフェーズのイグニションラインは、どうやってクリアしたのよ」
　興奮して身を乗り出すアイ。アカツキは困ったように笑って答えた。
「それがねぇ……セカンドフェーズの起動に成功したのは、一度っきりだったりするんだよね。あははは」
　アイはドサリと腰を落とした。
「そんなことだろうと思った。でも、その口ぶりじゃ、出力のほうは……」
「出たよ。理論値通り、第一相転移炉の二十三倍強。あまりの負荷に試作炉の出力弁が焼けきれて、それっきりだけどね。すごいものさ、イネス・フレサンジュ――あなたが理論設計した、第二相転移炉は」
「そう。動いたのね。だったら……少しは勝利の目が見えてくるわ」
「そうさ。おかげで、ボクも今日は思い切り暴れられるわけだよ。楽しみだねぇ」
　不敵でありながら軽薄な笑いを発するアカツキ。
「まあ、それも会長がミスをしなければの話ですけれどね」
　エリナが揶揄するように言った。
「いいかげん、ボクのことも信頼して欲しいな。大丈夫。原稿はプロに任せて、ボクはそれを完璧に暗記してきたんだから」
「本当にそんなことしたの？　情けないわね、歴史の幕を自分の言葉で開いてやろうとは思わないの。ああもう、これだから……」
「冗談だよ。それぐらいの気概はボクにだってある。一世一代の花道だからね、華麗に魅せてみせるさ」
「なにか違うでしょう、それ。魅せてどうするのよ――」
　そうするうちに、リムジンが減速を始めた。地球−火星通商会議の会場に到着したのだ。
「アイ。せっかくだから、あなたも一緒に出席してちょうだい。歴史の変革点に立ち会う権利があなたにはあるでしょうから」
「そう……ね。せっかく、ここまできたのだから、つきあわせてもらおうかな」
　アカツキはふたりをエスコートするように手を差し出した。
「それじゃあ、行くとしようか。ボクたちの戦争を始めに――――」
　
　
「お久しぶりですわ、アカツキ・ナガレ様。いいえ、ネルガル会長とお呼びしたほうがよろしいかしら」
　会議が始まるまでの時間を過ごすため、三人は立食パーティに参加していた。
　会場には地球と火星を代表する政治界の重鎮や、軍の高官が笑いさざめきながら交友を深めている。
　アカツキもまたネルガルの代表として、外交専用の作り笑いを顔に貼り付かせながら、神経をすり減らすひと時を過ごしていた。
　見知らぬ女性に背後から声をかけられたのは、そんな疲労感に耐え切れなくなろうとしていた時だった。
　振り返ったアカツキの顔がだらしなく緩む。それは思わず息を呑むほどの美人だった。
　軽くウェーブをいれた蒼みがかった銀髪を細い腰に絡ませ、場違いではあるが、これ以上ないほど優雅にシルバーメタルのカクテルドレスを着こなしている。首筋から伸びる細い線が消えていく胸元に、アカツキの視線は吸い込まれていた。
「これはこれは、美しいマドモワゼル」
「なに言ってんのよ、あいつは」
　ため息混じりにその姿を眺めながら、エリナはテーブルから軽食のサンドイッチをつまんで口に放り込んだ。
「これほどの美しいお方を憶えていないはずもないのですが……うぅむ、どうやら忙しさに紛れて、人生の大事なものを失ってしまったようです。失礼、もう一度お名前を尋ねる無礼をお許しいただけるでしょうか」
　あんた誰さ？　という意味の言葉を、派手なポーズと共に繰り出すアカツキに、くだんの女性は見事に訓練された微笑で応じた。
「憶えていていただけなかったのですね。わたくし悲しい……」
　しなを作りながら、アカツキの高級なスーツのネクタイに指を絡ませる。そのままくいっと引っ張り、身を屈めたアカツキの耳元に赤い唇をよせた。
「――アクアですわ」
　一瞬、アカツキの動きが止まった。間の抜けた顔で、女性の顔をまじまじと見つめる。
「……失礼、もう一度――」
「アクア・クリムゾン、ですわ」
　アカツキの表情が音を立てて凍りついた。
「ア、アク――！」
　叫びそうになったのを、発作的な咳でごまかす。
「――いや、これは失礼。たしか、いつぞやのテニシアン島以来、ですか」
「あら、うれしい。憶えていていただけたのですね」
　はしゃぐように両手を打ち合わせたアクアを見ながら、アカツキは冷や汗を流していた。
　憶えていないはずがない、彼女の自殺願望に巻き込まれて、ナデシコのクルーが何人か殺されかけたのだから。
　純真ゆえの狂気を抱えていた少女は、いまアカツキの目の前で、駆け引きを心得た氷の微笑を浮かべていた。
「わたくし、アカツキ様のファンですのよ。ネルガルを地球から撤退させ、火星で再建させたその手腕、感服いたします。それにこうしてお近くで拝見すると、とても整ったお顔立ちをしていらっしゃる。ますます好きになってしまいそうです」
「そ、それは光栄……」
　一歩引こうとするアカツキを引き寄せると、アクアは耳元で囁いた。
「これからも度々お会いすることになると思いますの。どうぞよろしく」
　震えがくるような色香を後ろ髪に滲ませ、アクアは立ち去っていった。
「ちょっと、聞こえたわよ。アクア・クリムゾンですって？　なんだってあの娘がこんなところにいるのよ」
　サンドイッチを皿ごと手にしたエリナが、いつのまにかアカツキの背後に立っていた。聞こえたというよりは、興味深々に聞き耳を立てていたのだった。
「知るもんか。クリムゾングループから追放されたと聞いていたのにさ。――ボクも、それ欲しいな。ひとつでいい」
　エリナの手から、直接サンドイッチにかぶりつく。
「準備ＯＫよ。全部のタイミング合わせが終わったわ」
　どこに行っていたのか、姿の見えなかったアイがひょっこりと現れた。渋い顔をしているアカツキから、アクアがいたことを聞かされると、小さくうなずく。
「情報が遅いわよ、あなたたち。彼女、クリムゾン・グループの火星方面外交代表なのよ。ああいった毒も使い様だと判断されたんでしょうね」
　クリムゾンは、地球を代表する巨大複合企業の名だった。ネルガルが地球から火星に居を移して以来、地球のクリムゾンと火星のネルガルとして、完全な敵対関係に陥っている。
　アカツキにとっては、まさに宿敵だった。
「毒どころか、劇薬じゃないか。火星を本気で滅ぼすつもりか、やつら」
「さあね。よほど舐められているんでしょう。こちらの準備も整ったし、そろそろ会場入りよ。逆に一泡吹かせてやりましょう」