「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 学校帰り、少女は霊魂(エクトプラズム)が抜け出るような溜息を吐いた。

 顔色を見ると5分の1ぐらいは抜け出ているかもしれない。


 普段、通っている通学路が、色褪せて見えた。

「あうぅぅぅ〜〜。太陽偏光鏡も地平の彼方に沈んでいくよ〜〜」



 実際に夕方なので正常である。


 もっとも、地球の夕方のように空が赤く染まることはなく、そもそも天井も青くない。



 う〜〜〜〜。今日の理科の筆記試験(テスト)。アマルテアとか、衛星メティスとかが出ると思ったのに。

 まさか、大赤斑のことが出るなんてな〜〜〜。

 思いっきり、山が外れたよ〜〜。


 少女にいつもの元気さは欠片もなく「とぼとぼ」と擬音を呟きながら歩いていた。



 お兄ちゃんに怒られるかなあ〜〜。



 少女の兄は、そんなことで怒ったことは一度もない。

 それでも、両親の代わりをしてくれている兄の顔が、ちらつくのは仕方なかった。



「はあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 ミユキたちは、ばっちり予想、当たったって言ってたし…………。

 やっぱり、お兄ちゃんの言う通り、全部を勉強していけばよかったかなあ〜〜。



「このまま、帰るのもやだなあ〜〜。お兄ちゃんに試験(テスト)の出来を聞かれるだろうし」

 重い溜息を吐く少女の頬を涼風が撫でてゆく。


 少女は、その風に惹かれるように、風の流れてくる方向に足を向けた。


 コロニーは気化熱や太陽偏光鏡の熱で段々と温度が上昇してくる。

 地球や火星ならば、熱い空気は上空にいき、宇宙に発散してしまうが、厚さ数メートルの透過高分子材で天井が覆われているこのコロニーでは熱の逃げ場が少なく、際限なく温度が上昇してしまうのである。


 それを防ぐのが、プラントから発掘された温度調整機だった。

 この装置は、温度を調節するだけでなく、周りの空気から熱量を奪い、その熱で、二酸化炭素を酸素に還元する機能も備えており、これとは別にある大気調節装置の補助装置的な役割も負っていた。



 このコロニーにも、数箇所に温度調節機が点在している。

 誰がそうと決めたわけではないが、そこは全て公園になっていた。

 今、少女がいる場所も、林の中の公園だった。


 その調節機から涼しい風が流れゆく。



 少女は大きく深呼吸した。

 木の葉のさざめきが耳に心地よい。


「少し散歩して覚悟を決め……じゃなかった。気分転換でもしようかな」




 この寄り道が、日常を大きく変える事になろうとは、少女は想像すらしていなかった。




 木々の匂いと草の匂い、湿りを帯びた土の匂いが少女の鼻をくすぐる。


 少女は、この匂いが好きだった。

 それは捨てた――祖先たちの本意でなかったにしろ――地球を思い出させるからかもしれない。

 休日ともなれば、憩いを求める人が訪れるこの公園も、平日の今の時間帯は誰もいなかった。

 木々の間を心地よい涼風が吹き抜ける。



 少女はテストのことを一瞬、忘れた。



 もう少し、正確に言うと、

「試験のことは忘れる。試験のことは忘れる。試験のことは忘れる。試験のことは忘れる。試験のことは忘れる。試験のことは忘れる…………」

 ブツブツと呟きながら、自己暗示をかけていた。



 そして――――、




「ダメ!! 忘れられないよ〜〜〜!!」


 失敗していた。






 一人、頭を抱え、苦悩し身悶える少女の視界の端に、黒い塊が映る。



 ゴキブリ!?


 だが、それはゴキブリにしては大きすぎた。


 1メートル70センチもある黒の物体を見て、『ゴキブリ』と思う少女もかなりの大物である。


 恐る恐る、近寄ってみた少女は、ほっと息をついた。

 なんだ…………人間か…………って、人が倒れてるんだから、ほっとしてる場合じゃないって!!


 一人ボケツッコミをした少女は、倒れている『ゴキブリ』のような黒い人を仔細に観察した。



 身格好からすると、男性のようである。

 髪は、標準の木連人と同じ黒髪だ。

 ここまでは普通だが――


 殺し屋のような黒い手袋を嵌めて、足首までを覆い隠す悪の怪人のような漆黒の外套(マント)を羽織っている。

 三流悪役のような闇黒の遮光眼鏡(バイザー)をかけているため、素顔は見えない。



 結論。やっぱり、『ゴキブリ』に似てる。



 倒れている『ゴキブリ男』の前で、少女は腕組みをした。

「ん〜〜〜〜〜。えっと、こういう場合は…………う〜〜。
 お兄ちゃんには『困ってる人がいたら助けなさい』って言われてるし…………行き倒れも…………困ってる人だよね? …………たぶん」


 ぐっと拳を握り締めた少女は、天空の木星に向かって高々と宣言をする。



「しょうがない!! ここは『木連婦女子身心協力隊』準構成員・番号(ナンバー)021として、助けてあげます!!」


















 机に頬杖をついた男は、気障な仕草で、長髪をさらりと靡かせた。

「今日も綺麗だね。エリナ君」


 何を当たり前のことを、と言った顔で秘書は、会長の戯れ言を無視する。

「ナデシコが、消息を絶ちました。多大なる被害を受けて」


「ふ〜〜ん、やっぱりね。じゃあ、プランBに移行か。しかたないね」

「ワタシもナデシコに参ります」



「連合軍総司令につないで――」

 耳元の長髪を後ろに流し、

「そう、仲良くしたいってさ」

 キラリと白い歯を光らせて、笑う会長。


「了解しました」

 秘書は、何ら感銘を受けず事務的な口調で返答した。




「ところで、エリナ君」


「はい?」

「この前、領収書を廻しておいたんだけど…………あれは、まだかい?」


 にっこりと微笑むネルガル会長秘書『エリナ・キンジョウ・ウォン』


「小型チュウリップを研究している傘下のアトモ社の研究室に『段差』がありまして…………」


「は?」


「そこでつまずいて、『偶然』、持っていた『書類』をチュウリップの中に『落として』しまったんです」


「………………」


「困ったことに、その中には『スナックの領収書を会社経費で落とす』ための書類も含まれておりまして」



「………………………」



「会社の『接待費』で落としたければ、チュウリップの中から取ってきていただかないと――」



「…………………………………」



「あ、そうそう。
 そういえば、チュウリップの中に降りてくれる『志願者』がいなくて困っていたんです」




「……………………………………………………」





 エリナは、ネズミを前にした猫のような笑みを浮かべる。

「ねぇ♪ アカツキ会長♪♪」





「…………………………いや、すまない。
 ボクの勘違いだったみたいだよ」

 露骨に眼を逸らし、冷汗をダラダラと垂らしながら、アカツキは引き吊った笑みを浮かべた。


「……………………チッ

 小さく舌打ちするエリナ。




「では、失礼します」


 一礼したエリナが退室した。





「まったく…………敵わないね。
 有能すぎるってのも考えものだな」

 閉まった扉を見、ぼやきながらも、アカツキの口許には面白がるような笑みが浮かぶ。



 コンコン。


 扉がノックされた。



 それが、歴史を変えるノックだとは、アカツキはまだ知らなかった。








機動戦艦ナデシコ
    フェアリーダンス

第一章『ジェノサイド・フェアリー』

第75話『『空白』の八ヶ月………あっちもこっちも、大変よね。ゴクロウサマ』









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